名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 戦の終わった京は、まだ煙の匂いをほんのわずかに身にまとっていた。夕餉の湯気といっしょにそれは路地を渡り、夜になると鴨川の水面にうっすらと降りて、波紋の縁を煤で縁取った。
 川の石に腰をかけると、背に通る冷えは思ったより柔らかい。石は昼の残り火をわずかに抱いている。闇は深いが、灯は低い。灯が低い町は、息が長い。

 矢野蓮は黙って靴の汚れを指でこそいだ。指の腹に黒が少しつく。黒は消えない。消えないが、薄くはできる。彼は指先を川でゆすぎ、手のひらを見てから、ふいに笑った。笑いには音がなかった。音のない笑いは、夜に馴染む。

「……俺は、名を残したいと思ってた。生きた証を、どこかに刻みたいってな。けど、たぶん叶わない。叶えたら、何かが壊れる」

 隣で白い袖が、鼠色に沈んだ。沖田静は、水の流れを見たまま、声を置いた。

「名は残らなくても、矢野さんは、ここにおられました。俺が覚えています。……十分です」

「一人に覚えられるのが、十分か?」

「はい。戦は、たくさんが覚えるものですけど、夜は、ひとりで十分です」

 言葉は不器用だったが、鴨川の水の重さに似た手触りで、蓮の胸の奥へ沈んでいく。沈むものは、消えない。水の底で形を崩さず、ただ少し丸くなる。

 ふたりの背を、梅雨明け後の風が通り抜ける。川の音は遠く、鈴の音は近い。鈴は鳴っていないのに、耳が鈴の場所を探す。探すものがある夜は、長い。

「静。……背中を預けられる相手って、何人いる?」

「世界で二人だけです」

「二人?」

「ひとりは、俺が“光”だと認めた人。もうひとりは――矢野さんです」

 蓮は返事をしなかった。返事をすれば、どこかの骨が鳴る気がした。骨の音は、夜に長く残る。代わりに、川面へ小石を投げた。輪が三つ、四つ、広がって、すぐ消える。消えるものほど、長く残る。

     ◇

 夜の鴨川は、遠くから見ると一本の黒い帯だが、近くで見ると、音の層が幾重にも重なっている。水が石を撫でる音、橋の板が沈む音、遠い太鼓の腹に当たった風の音、炊き出しの桶が地面に置かれる音。
 そのどれにも、名はない。名前のない音だけが、町の骨を支える――静はそう言う。

 上流のほうで、子どもの泣き声がした。泣き声は高く、すぐ群れる。蓮は立ち上がり、石を二つまたいだ。
 橋の袂で、男の影がひとつ、足に包帯を巻いた子を抱えて立ちすくんでいる。子は声を出しているのに、涙が出ていない。泣き方を忘れた子どもの顔だった。

「どうした」

 男はびくりと肩を震わせ、帽子の庇を直した。顔色は土色、指は煤。火付けに使う縄の匂いが薄く残っている。

「橋の下で足をくじいた。家が焼けて……行く場所がねえ」

 蓮は膝をつき、子の足をそっと持ち上げた。包帯の裏に、濡れた土と灰が混ざっている。
 静がいつの間にか背に立ち、目だけで合図した。井戸は西、綱は少し緩い、灯は低い。言葉の代わりに置かれる記号は、体の中ですぐ意味になる。

「静。――炊き出しのところで団子もらってこい。甘いのは泣き声を細くする」

「承知しました」

 静は走らない。走らないかわりに、遅れない。歩幅が半寸短く、角を曲がるたび、袖が鼠に沈む。
 蓮は子の足に巻いた布を解き、井戸で濡らした手拭で泥を拭った。男は目を逸らしたまま、ぼそりと呟く。

「俺は……俺は、橋に火をつけろって命を受けた。だが、足の悪い婆さんが渡っていた。火をつけようとして、手が止まった。止まってる間に、他の連中が火を放って、風が変わって……」

 男の声は途切れ、肩が小刻みに震えた。震えは寒さではない。戻り火の影が、胸を削っている。

「それでも、足が止まったんだな」

 蓮は静かな声で言う。叱らない。許しもしない。音の高さを合わせる。
 静が団子を持って戻り、子の手に一本、男の手に一本、押し付けた。押し付けるというほどの強さではなく、離れない程度の重さで。

「甘いものは、怒りも悔いも、どちらにも効きます」

 男は歯を立て、半分ほど齧ってから顔を覆った。
 静は子の前にしゃがみ、棒の先に墨で小さな丸を書いた。

「ここに“いま”を置いてください」

 子はうなずき、震える指で丸の縁をなぞった。その丸は、鴨川の水面で一度だけ光った。灯りは低いが、丸の白は強い。

「寺へ行け。棒先に丸を増やしてこい。名はいらん」

 蓮がそう言うと、男は泣き声の形だけで「ありがとう」と返した。
 静がうなずき、細い声で付け加える。

「橋は、火では落ちません。――人で落ちます。人が渡るときは、橋は立ちます」

 男は丸を見た。見て、頷き、子を抱いて闇へ沈んでいった。沈んで消えて、それでも残る。残り方を知っている背中の色だった。

     ◇

 川風に、紙の匂いが混ざった。瓦版だ。
 「壬生狼、禁門を救う」「会津忠勤」「薩摩の砲声」「白き影、北に立つ」――見出しは太い。太い字は人を安心させるが、太い字ほど嘘を宿しやすい。嘘は軽く、角が丸い。
 蓮は噛んだ口の端を舐め、紙を折りたたんで懐に入れた。紙はいつでも、骨の内側で湿る。

「静。……土方さんの言う“規律の倍”って、結局、俺たちの夜の仕事が倍ってことだよな」

「はい。穴が増えます。埋めるほうが早いです」

「埋める材料は?」

「鈴、濡れ縄、梯子のたわみ、香の低さ、粉の湿り、団子、井戸の綱、棒の丸。……矢野さんの足音」

「最後のは材料じゃない」

「合図です」

 静が白い袖を直した。煤の黒が指に移る。黒は消えないが、形を変えられる。

 川下から、細い笛の音が一つ来た。合図だ。町渡しの舟からの、夜だけの知らせ。静が顔を上げ、蓮と目を合わせた。

「行きます」

「どこだ」

「三条の下。――灯を半寸下げます」

 ふたりは石を離れ、川沿いの小道を滑るように進んだ。音を立てない。音の代わりに、匂いと風圧が目になる。角を曲がるたび、夜の骨が少し鳴る。

     ◇

 三条小橋の下は、いつも水の音が高い。板のきしみが重なり、足音は一度で二度聞こえる。橋の裏に、数人の影が寄り合い、油の匂いが濃くなっていた。
 油の匂いは、火の匂いの前触れだ。前触れは甘い。

 影のひとりが、橋桁の隙間に包を押し込もうとしている。火薬だ。別の影は布を巻いた棒を持ち、油を塗る手つきがぎこちない。ぎこちなさは救いだ。ぎこちない敵は、遅い。

 静が指を一本、立てた。遅く――の合図。
 蓮は鯉口に指をかけ、しかし鳴らさない。鞘がわずかに唇を開く。呼吸が半拍、遅れる。
 影の背後で、小石が“カン”と鳴った。井戸の足と同じ音色。蓮が投げた。音は合図よりも低く、人の注意の半分を奪う。

「誰だ!」

 油の匂いが濃くなった瞬間、静が袖の裾で棒の先を撫でた。火の口が外を向く。火は怒りと同じで、向きを選べば弱い。
 蓮は踏み込みの“前の手前”で柄を打ち、手首の骨に軽く触れる。骨が覚える。刃は出遅れる。
 倒さない。止める。止めたところへ、鈴が一度。静の指先が鳴らす。

「やめだ。――今、火はつかない」

 影のひとりが叫び、もう一人が走り出した。走り出す足は軽いが、梯子の二段目で躓く。昼のうちに材木小屋の親父がたわみを仕込んでおいた梯子だ。
 蓮が肩を掴んで地へ押さえ、静が耳元で淡々と言う。

「火は、町に戻ります。今は、丸を押すほうが、早いです」

「丸?」

「寺へ。棒の先に“いま”を」

 影の顔に迷いが走り、やがて力が抜けた。力が抜けると、人は軽くなる。軽くなると、夜に馴染む。
 残った二つの影は、油の匂いに酔った目で周囲を探った。事件にしたい者たちだ。事件は、紙を太らせる。
 静は灯を半寸下げ、団子を二本、手に乗せた。

「甘いものは、事件を遅らせます」

 蓮が抑え笑いをした。笑いは短く、骨に残らない。

     ◇

 橋の下から出ると、風が少し冷たかった。川の上には、薄い霧が掛かり、上流の灯がゆらりと揺れた。揺れは悪くない。揺れのある灯は、町に呼吸を返す。
 静が袖を絞り、指の水気を払った。

「矢野さん。――背中を、ひとつ、預けます」

「預かる。……ずっと見てる」

「ありがとうございます」

 ふたりは橋の欄干に肘を置き、流れを見た。川面に、丸いものがひとつ浮かんでいた。団子の串だ。串の先に墨の小さな○がある。誰かが押して、流したのだろう。
 静が指でその○を空でなぞった。

「丸は“いま”です。――名は“あと”です。名は遅らせたほうが、強いです」

「お前は、名をいつまで遅らせる気だ」

「終いまで」

「終い、ね」

 蓮は川へ小石を落とした。輪はやはり三つ、四つ。消えた輪の縁に、見えない釘が一本打たれる。視線だ。
 蓮の視線と、静の視線。二本の釘は重なって一本になる。一本になった釘は、光の背に打たれる。

     ◇

 夜が高くなると、寺の鐘が遅れて鳴る。遅れは合図だ。
 鐘の音に合わせて、静は言葉を落とした。

「矢野さん。――俺の“ため”は、沖田です」

「総司の?」

「はい。光が長く立つように、背に釘を打ちます。矢野さんの視線も、一本、預かっています」

「足りなきゃ、いくらでも打つ。背中なんて、穴だらけでいい」

「穴だらけは、風が通ります。――長く立ちます」

 蓮は笑い、しかし笑いは短かった。総司の笑いも、最近は短い。咳のほうが長くなった。
 土方の冷徹は、きっとこの遅さを見越している。見越したうえで、白い倉を広げよと命じる。白い倉は見えない。見えないものほど、壊れにくい。

 川の向こう岸で、太鼓が一つ、腹の底で鳴った。
 太鼓は祭のためではなく、巡察のためだ。巡察は祭に似ている。流れと列があり、合図と笑いがある。ただ、笑いのあとに紙が来る点だけが違う。紙は良い。紙があると、土方は冷たくいられる。冷たさは夜に効く。

     ◇

 ふいに、足元の石がずれた。誰かが転び、短い悲鳴が川面で跳ねた。
 見ると、若い隊士が一人、橋の影で足を押さえている。顔は青いが、目は赤い。名を太くしたい目だ。
 蓮が歩み寄る。若者は立ち上がろうとして、うまくいかず、悔しさと痛みで顔を歪めた。

「足を捻ったか」

「はい……俺は、俺は、池田屋で斬れなかった。禁門でも名が出なかった。だから今夜こそは、橋の下の賊を……!」

「橋の下には、賊はいない。――もう遅い。遅れたのは良い遅れだ」

 若者は唇を噛んだ。噛み方が子どもだ。
 静が団子を一本、そっと差し出した。

「甘いものは、悔しさに効きます」

「……俺は、子ども扱いか」

「今夜だけ、子どもでいてください。――明日の分、斬らなかった分を、紙に書いてください」

 若者は団子を受け取り、しばらく見つめ、そして小さく頭を下げた。
 蓮が肩を貸し、橋の上まで歩かせる。歩幅は半寸、狭い。狭い歩幅は、夜を壊さない。

 若者の背が闇へ溶けると、静は小声で言った。

「矢野さん。――ああいう時、歳さんは、冷たさで押さえます」

「俺たちは?」

「甘さで遅らせます」

「悪い人」

「矢野さんのためだけに、です」

     ◇

 風が河原の草を撫で、草の先に小さな露を置いていく。露は光らない。光らないが、確かだ。
 川の音に耳を澄ますと、そこに薄い文字が浮かぶ気がした。
――灯を半寸下げる。
――鈴は一度。
――粉は湿り。
――香は低く。
――梯子はたわみ。
――団子は甘い。
――井戸は綱で鳴る。
――丸は今を数える。
――“矢”は方向、名ではない。
 誰が書いたわけでもない、夜の仕様書。土方が紙で書く前に、町が自分の骨へ書き込んだもの。

「静。……俺はさ、もしどこかで終いが来た時、それでも名を残したいって思うかもしれない。人間って、弱いから」

「はい。弱いから、長く立ちます」

「逆だろ」

「矢野さんは、弱さを半寸、遅らせられます。――それだけで、十分です」

「お前、ほんとズルい言い方する」

「矢野さんのためだけに、です」

 静は刃を抜かないまま、鞘の口を指で拭った。鞘は呼吸をする。呼吸をする鞘は、抜き際を忘れない。
 蓮は空を見上げた。星は少なく、雲は薄い。薄い雲は、町の吐息に似ている。吐息は白い倉の天井で、朝までゆっくり回る。

     ◇

 夜がさらに降りた時、川向こうから、ふたたび笛の合図が来た。今度は短く、二度。
 静が眉をわずかに寄せる。
「“外法”の字です」

「また石か」

「はい。蛤御門の脇。――遅らせます」

「行こう」

 ふたりは鴨川を離れ、街のほうへ足を向けた。道すがら、茶屋の娘が桶を抱えて走っていく。短い足は速い。速い足は、鈴に追いつく。
 蛤御門の脇の石碑に着くと、やはり、黒い太字の「白影外法」が夜露に光っていた。幼い怒り。紙の裏で太らされた噂の、はみ出し。

 静は井戸の水を二桶。蓮は布を二枚。
 黒を灰に変え、灰を水に溶かし、字の角を崩す。崩すたび、周りの人の囁きが少し柔らかくなる。

「静。――今日は、丸を書くか」

「はい。“いま”を」

 静は指で小さな○を書き、そっと布で拭った。丸は消え、残り香だけが石に沁みる。
 石の前に、あの橋の男が立っていた。子は眠り、肩で息をしている。男は静かに頭を下げ、布の下から、棒の先の丸を見せた。

「押してきた」

「よくできました」

 静の声は本当に嬉しそうだった。嬉しさは短い。それでいい。短い嬉しさは、夜に残らない。

     ◇

 戻り道。
 川へ出ると、風が少し変わっていた。上流の山から夜の冷えが降りてきて、鴨川は太くなった。太い川は、音が低い。低い音は、骨に良く効く。

「静。……背を預ける二人って話、さっき言ったよな」

「はい」

「光のほうは沖田総司で、もう一人は俺。――それ、本気か」

「はい。本気です」

「ならさ。俺のほうも言っておく。預けられるのは、今のところ、一人だけだ」

「はい」

「お前だ」

 静は何も言わなかった。言葉はなく、白い袖の鼠が一度だけ揺れた。揺れのあと、鈴が鳴った気がした。鳴っていないのに、鳴った気がする鈴が、一番長く残る。
 蓮は石に腰をおろし、肩で息をした。息は白くはないが、重さがあった。

「名を残さないことに、やっと慣れてきた。……慣れるのは嫌だけど、慣れないままよりは、少しだけマシだ」

「ありがとうございます」

「礼を言うな。そういうのは、紙に書け」

「紙は棚で眠ります」

「夜は白い倉で眠る、か」

「はい。白い倉は、朝まで開いています」

 静が刃の背を水にくぐらせる。刃先は乾いたまま、光を一度だけ飲み、吐き戻す。
 蓮は川へ小石を投げた。輪は三つ、四つ、五つ。増える。増えたぶん、忘れない。

     ◇

 夜はまだ長い。
 橋の上では、遅れて帰る人が足で小さな音を刻み、路地の奥では、香の皿が低く息を吐き、井戸の綱は誰かの手で結び目を半寸だけ変えられ、粉屋は樽口の湿りを確かめ、団子屋は串の長さを二種、揃え、材木小屋の親父は梯子の二段目のたわみを掌で撫で、寺では棒の先の丸が今日の分だけ増えた。
 名はどこにもない。
 しかし、ある。
 名を持たないものだけが支える骨が、確かにここにある。

「行こうか、静」

「はい、矢野さん」

「今夜の次は?」

「北です。“白い影は北に立つ”――眠っている噂を、もう一度寝かせます」

「手間のかかる子守歌だな」

「はい。ややこしいほど、表には出ません」

 ふたりは立ち上がり、歩幅を半寸だけ広げた。広げたぶんだけ、夜は短くなる。短くなる夜は、次の夜のための余白を増やす。
 鴨川の水は低い声で流れ、鈴は鳴らずに残り、丸は見えずに残り、灯は低く、香は低く、粉は湿り、団子は甘く、綱は軋み、梯子はたわみ、紙は棚で眠り、白い倉は朝まで目を開けている。
 名を残さぬ者として、しかし決して消えぬ絆でむすばれた二人の影は、川べりの石に一度だけ足跡を置き、すぐにそれを水に消した。
 消したあとに残るもの――それが、今夜の全てだった。
 そして、それで十分だった。