清河八郎が刺客に倒れたという報せは、江戸の空気を一夜にして変えた。旗が消えると、人はそれぞれの欲の形で散り、声だけが残る。浪士組の列は前へも後ろへも同じ足どりで揺れ、誰もが自分の影を踏んで歩いた。名簿の墨はまだ生乾きで、矢野蓮はその黒の冷たさを、舌の裏に乗せた鉄の味のように感じていた。名はここにある。だが、名の置き場はどこにあるのか。
近藤勇と土方歳三は、迷わなかった。江戸へ戻れという清河の糸は断ち切られ、二人は京に残る道を選んだ。会津藩の庇護を受け、治安を担う――表向きはそう言い切り、裏では尊攘派の芽を摘む剣となる。言葉の代わりに背中で人を動かす者のいるところに、列は自然に重心を寄せていった。蓮は迷いを持たなかった。名が欲しくて刀を取ったのではない。刀の届く範囲に、居場所を得たかっただけだ。
京に入るまでの道は長く、見慣れない方角から風が吹いた。川が変われば石の形も変わる。蓮は足の裏の皮が少しずつ薄くなるのを確かめながら、黙って歩いた。列のすぐ外円を、沖田静が歩いていた。背は低くはない。蓮よりわずかに高く、少年のように骨ばった体が、無駄のない振り幅で進む。眠たげに見える眼差しの奥には、水面の下で張り詰める筋の硬さがあった。
「矢野さん」
背へ軽い音のように届く呼びかけに、蓮は半歩だけ振り返る。
「何だ、静」
「風が変わります。左へ二筋、細い路地を取ったほうがよろしい」
「どうしてわかる」
「匂いが違います。藁と味噌の混じった匂いが消え、燻った油の匂いが強くなりました。町の背中がこちらを向いていない」
言われるままに列の外れを読み直すと、確かに、家々の戸の影が不自然に浅い。人の不安は、まず影の形に出る。静はそういうものをよく見ていた。
壬生村の八木家が屯所に定まったのは、それから間もなくのことだ。表は武家屋敷の体裁を持ち、裏は農家の癖を残す。畳は日に焼け、壁に走るひびの間から冷たい空気が這い込む。井戸の水はよく澄んでいるが、汲み上げる桶の底に鉄の匂いが残った。藁布団は硬く、背骨に芯の所在を教えた。
翌日、入隊試験と称する立会が行われた。庭には砂が浮き、踏むと乾いた音が上がる。志願者が順に木刀を握り、試衛館の者と打ち合う。土方は黙って見ているだけで、目が罰を言い渡した。近藤は笑い、肩を叩き、声をかける。温い言葉の下に、ぶれない芯を通した人の笑みだった。沖田総司は木刀を肩へ担ぎ、子どもに話しかけるような口調で相手を遊ばせる。だが一度も、間合いを持ち崩さない。笑っているのは口だけで、全身はいつでも斬れる位置にいた。
静は人垣の外円に溶け、一本の木の影のように立っていた。蓮が視線を投げると、彼は小さく頷く。眠たげな眼にかすかな熱。そこには、誰か一人だけに向ける灯がある。
「矢野さん、そろそろ」
「わかってる」
蓮は木刀を握り、中央に出た。回し稽古。相手は近藤、土方、沖田総司。三方向の圧力がいっせいに立ち上がる。最初の一撃は土方。踏み込みの重さが骨に響く。蓮は受けた。次の瞬間、横から近藤の木刀が入る。温声の裏に潜む厚み。そこをしのいだ時には、総司が背に回り、刃の影で呼吸を奪いにくる。
蓮は一度、空気ごと斬った。力に任せて道を開く。砂が弾け、音が乾く。その一撃で、場の流れは止まった。土方が手を上げる。
「そこまで」
蓮は息を吐き、木刀を収める。土方の眼は鋭く、だが嘲りはない。
「腕は立つ。けどよ……殺す間合いが、まだ体にない」
蓮は唇を嚙んだ。指先に残る木のささくれが、妙に鮮やかだった。
井戸端で冷水を浴びる。桶の縁に残る欠けに爪がひっかかる。背に気配が落ちる。静だ。
「矢野さん、勝つのと、生き延びるのと、どちらが得意ですか」
「勝つために、生き延びる。違うのか」
「生き延びるために、勝たないことがございます」
「勝たない?」
「影は、そういう場所へ出ます。生き延びた数だけ、次の手が増えます」
静の声は低く穏やかで、井戸の水より冷たくなかった。蓮は桶の水を頭から被り、鼻から出る冷気で余分な考えを押し流した。
巡察が始まると、町の匂いが体の中へ入ってきた。四条の灯は赤く、三条の灯は黄に近い。祇園の笑いは長く、壬生の笑いは短い。昼の京は声で満ち、夜の京は視線で満ちる。表の道は明るいが、それが安全を意味することはない。暗い路地が危険とも限らない。灯の色と、人の影の縁の粗さ。それらの重なりで町の呼吸がわかる。
「矢野さん、歩幅を半丁分、狭めませんか」
「なんでだ」
「大股で歩くと肩が揺れて、柄が目立ちます。目立たないための動きは、斬るときの動きにも効きます」
「言い訳のような理屈だな」
「理屈は、斬らないときの武器でして」
尊攘派が御用達にしている茶屋をのぞくと、女将の笑みの奥に短刀の影があった。二階の欄干には見張りの影。新参の壬生浪士組に向けられる視線は冷たい。京の町は、名前ではなく足音を覚える。足音の調子が、信用になる。
屯所へ戻ると、土方が少数を呼んだ。机に紙も筆も出ない。声だけが役目を渡す。
「表の役は、近藤さんと俺が持つ。だがな、裏の役は紙に残らねえ。密偵、監視、工作、封鎖――そういう手だ。静、お前が棟梁だ」
「承知しました」
「それから、矢野」
「はい」
「口は堅いか」
「多分」
「多分は要らねえ。堅くしろ」
静が横で微笑んだ。
「矢野さん、よろしくお願いいたします」
「勝手に決めんなよ、静」
「願いでして」
夜、蔵の屋根に上がる。月は薄く、瓦は冷たい。下で交わされる声は、蔵の板の隙間を伝わって耳へ落ちる。
「合言葉は――」
「火は夜四つ――」
「鐘が三つ――」
断片の連なりが地図になる。静は瓦の上でほとんど影になり、蓮のすぐ先で動く。
「虎は正面で吠えますが、蛇は音を立てません。わたしたちは、蛇の真似を」
「俺は苦手だ。真っ直ぐ行くしかできない」
「なら、わたしの背を見てください。矢野さんは、真っ直ぐでいてください」
その夜は、何もしなかった。何もしないことが、初めての仕事だった。翌朝、火付けの合図になるはずの鐘の綱が切れていた。誰が切ったのか、と問う声だけが町に残り、誰にも答えは出なかった。
壬生浪士組はやがて会津藩の預かりとなる話が整い、名前に重さが増した。だが壬生の若者の目は、いっそう険しくなった。屯所の回りでは、日々小さな衝突が起きた。肩がぶつかれば口が荒れ、口が荒れれば手が出る。手が出れば刀が鳴る。
ある夕暮れ、畦道で若者らと隊士が揉み合い、長屋ひとつが揺れる騒ぎになった。蓮は刃に手をかけたが、静が肩に指を置いた。
「矢野さん、斬らなくても止められます」
「どうやって」
「目を逸らさないことです。いちども」
静が一歩出て、若者の先頭の男を見つめる。視線の刃を、鞘から抜かずに見せる。言葉が消え、靴音が引く。血は流れなかった。蓮は、小さく息を吐いた。
「……お前、やっぱり蛇だな」
「蛇は嫌われますが、冬を越すのが得意でして」
夜、壬生寺の鐘が遠くで鳴る。眠れず縁側に出ると、静が先に座っていた。白布の裾が月に淡く光る。
「静、起きてたのか」
「矢野さんこそ。眠れませんか」
「胸がざわざわしてな」
「わたしもです」
二人はしばらく、何も言わなかった。風の形が目に見えるような夜だった。やがて静が立ち上がり、背へ回る。
「矢野さん、背を預けるとは、こういうことです」
骨ばった重みが、そっと蓮の背に置かれる。体温が布を通って広がる。
「……重いぞ」
「少しの重みが、支えになります。勝つよりも」
「勝つ方が、わかりやすい」
「生き延びた数が、多い方が強いです」
その温かさは、剣の稽古では得られない種類のものだった。寄る辺とは、刀の届く範囲の内側だけにあるのではない。背で、呼吸で、言葉にならない場所にも、確かにある。
以来、蓮の間合いは変わった。斬るための間と、止めるための間。その境目が、胴の内側に一本通った。巡察で通りの角を曲がるたびに、蓮は静の背がそこにあるかのように意識し、足を運んだ。見えない相手へ、見えないまま働きかける。名に残らない仕事が、体に溜まっていく。
壬生狼――町の陰で誰かがそう呼んだ。狼の眼は夜に強く、群れで獲物を追う。だが狼の群れの中にも、それぞれの眼がある。蓮は自分の眼が、狼のそれとまったく同じではないのを知った。獲物を倒す前に、獲物の逃げ道を一つ、必ず残した。残すために、先に塞いだ。塞いだ後で、一つだけ開けた。静から学んだ手順だった。
ある雨の夜、尊攘派の小さな寄り合いの場へ向かう途中、静が突然、蓮の袖を引いた。
「矢野さん、ここは行きません」
「情報は確かなんだろ」
「確かです。ですが罠です」
「どうしてわかる」
「匂いが早すぎます。誰かがわたしたちに嗅がせたい匂いです」
「……回り道か」
「はい。回り道を長く歩くほど、真っ直ぐに近づけます」
別の筋から回ると、確かに、寄り合いの蔵の向かいに伏兵がいた。雨の膜が薄く切れて、刀の背がかすかに光る。静は音もなく退き、蓮の袖をもう一度引いて、闇へ溶けた。何も起きなかった。起きなかったことが、もっとも大きな働きになった夜だった。
翌朝、土方は帳場の前に短く立ち、言った。
「昨夜、よくやった」
それだけだった。名も場も詳しく語られず、紙にも残らない。だが、そういう言葉の短さが、かえって蓮の背へ重く残った。
日々の稽古は続く。静は「止める稽古」に加えて、「抜かない稽古」を教えた。刀を抜く前に、心を抜く。鯉口を切る前に、人の目を切る。切った目で、相手の呼吸を半拍だけ遅らせる。その半拍が、斬らずに済ませる余地を作る。蓮は最初、それを半信半疑で受けたが、ある夜の路地で、それが命を救った。
酔った浪人が刀を抜いた。道幅は狭い。蓮は抜かなかった。抜かずに、一歩踏み入れ、浪人の腕より先に浪人の視線の中へ入った。視線が泳ぐ。腕が止まる。止まった腕に、柄だけを軽く当てる。落ちる刀。音は小さい。血は流れない。静が背で小さく息を吐くのがわかった。
「矢野さん、それです」
「今のが、抜かないで勝つってやつか」
「はい。勝たなくても、生き延びる、でもあります」
壬生寺の鐘が新しい季節の音を帯びたころ、壬生浪士組が会津藩預かりとなる旨が正式に伝えられた。名に重さが加わるということは、背負うものが増えるということだ。土方は規律をさらに厳しくし、近藤は人心に橋をかけることを怠らなかった。静は橋の下で、川の流れを読み続けた。大きい石に水が当たって渦を巻く場所、小さな枝が集まって堰き止めを作る場所。人の心も、水と似ている。
同じ頃、町の一角で妙な噂が立った。白布の剣士が夜な夜な屋根を渡り、何も盗まず、何も斬らず、何も言わずに消える。浪人たちはその影に刀を振るが、空しか切れない。女はその影を祟りだと囁き、子は目を丸くして天井を見上げる。蓮はその噂を耳にして、静の横顔を見た。
「お前のせいだろ」
「矢野さん、影のせいにはならないでください」
「影のせいにしてるのは、お前だろ」
「頼んでもいないのに、よく働くので」
ある朝、八木邸の裏手で、静が蓮に短い目配せをした。
「今日の午後、壬生の若者たちと、また一つ火が起きます」
「何でわかる」
「朝の井戸端で、女性たちの言葉が短かった。短く、固く、四角い言葉です。角のある言葉は、昼に尖ります」
「角が立つ、ってやつか」
「はい。角は削るより、押して丸めます」
午後、予告は当たった。畦道で肩がぶつかり、舌打ちが飛び、刃の柄に手がかかった。土方の采配は迅速で、陳謝と示威が寸分違わず配られた。近藤は笑って頭を下げ、笑って声をかけ、笑って人心を繋いだ。静は端で流れを読み、蓮は静の影のさらに影で、何も起きないように立った。何も起きないように立つために、何度も刃を抜く寸前で止めた。止める腕が疲れた。斬るよりも、止める方が疲れる。夜になってから、静が言った。
「矢野さん、止めるのは、斬るより骨が要ります」
「よくわかった」
「骨の疲れは、よく眠ると治ります」
「お前は眠い顔してるけど、寝てないだろ」
「眠たさは、矢野さんの隣でしかよく出ません」
その夜、縁側でまた二人は並んだ。犬が遠くで吠え、風が戸を軽く叩いた。静が背にもたれ、蓮が受けた。重さは変わらず、温度だけがすこし高くなった。背の骨と骨が、薄く触れる。
「静」
「はい」
「お前の背は、冷たいと思ってた」
「よく言われます」
「違った」
「ありがとうございます」
季節がひとつ変わるたびに、蓮の中で「名」という言葉の輪郭が薄れた。壬生狼と呼ばれても、名の持つ重さは、背の重さには敵わない。名は紙に残る。紙は、誰かの手でいくらにも読み替えられる。背は、読み替えようがない。背の重さを受けたかどうかは、自分の骨だけが知っている。
ある晩、四条の外れで火の手が上がりかけた。尊攘派の若者が酒に勢いを得て、店の裏手に油を撒いたのだ。静は走り、蓮が続いた。火打石の音が一つ鳴ったとき、蓮は若者の手首を掴んだ。油の匂いが鼻に刺さる。斬れない。斬れば火は別のところで上がる。静が手桶を掴み、火打石の手に水を叩きつけた。石は泥に落ち、火は上がらなかった。若者は逃げた。追わなかった。追えば、次はもっと遠くで火が上がる。追わないことが、追うことより難しい夜だった。
戻る道すがら、静がぽつりと言う。
「矢野さん、勝つことは、誰にでもわかりやすいです」
「ああ」
「わかりやすいことは、誰かに横取りされやすいです」
「……名のことか」
「はい。わたしたちは、わかりにくい方をやります」
「やるしかない、だろ」
「やりたい、のです」
その言い切りに、蓮は何も足さなかった。言葉を足すより、歩幅を合わせた。八木邸の格子の影が夜風で揺れた。
やがて、池田屋という屋号が町の陰でささやかれ始めた。名はまだ遠い。だが、遠い名ほど、影が濃い。蓮は木刀を握り、朝の稽古で「止め」を繰り返した。静は半歩離れ、見ている。止める稽古は、斬る稽古より孤独だ。斬れば音がする。止めると、音がしない。音のないところで、背の重さだけが支えになる。
その朝、稽古のあとで静が言った。
「矢野さん」
「ん」
「背を預けるのは、二人だけにしましょう」
「もう決めてるのか」
「はい。光の側に立つ方が一人。もう一人は――矢野さんで」
「……勝手に言うなよ」
「願いでして」
蓮は笑った。笑いながら、胸の底で何かが固まるのを感じた。固まるものは、名ではない。骨だ。骨の形が、同じ方向を向いた。
壬生寺の梵鐘が昼の光の底で鈍く揺れ、京の町はそれを知らぬ顔で受け流した。紙の上の動きはまだ緩やかだ。だが、紙に書かれないところで、何百もの足音が地図を作っている。蓮はその地図の上を、音を立てぬように歩いた。静の背が、いつでも少し前にある。背を預けられる距離。剣の届く範囲。生き延びるために勝たないこと。勝つために斬らないこと。
夜の縁側で、ふたたび背と背が重なる。
「静」
「はい」
「俺は、名は要らない」
「知っています」
「じゃあ、お前は」
「わたしも、要りません」
「それで、いいのか」
「はい。矢野さんが覚えてくだされば」
風が戸口をまた叩いた。何度でも、同じ力加減で。遠くのどこかで、まだ見ぬ屋号が、静かにうねりはじめていた。二人はそれをまだ知らない。知らないからこそ、今は、背を預ける。名の代わりに。
翌朝、土方がいつもより短く言った。
「今日も、何も起こすな」
蓮は頷き、静は微笑んだ。何も起きない一日を作るために、何かをいくつも起こす。紙には残らない働きが、町の底で静かに重なっていく。壬生浪士組の名は厳しく、壬生狼という蔑称は遠くへ走る。だが名の軽重がどうであれ、背の重さは変わらない。
流山から京へ――名簿の墨が乾く前に、蓮は自分の居場所を見つけつつあった。刀の届く範囲。背を預けられる距離。そこだけが確かだ。明日の地図は紙の上で書き換わるだろう。だが、今日の背の温度は、誰にも書き換えられない。
夜の終わりに、静がふと、蓮の名を呼んだ。
「矢野さん」
「なんだ」
「わたしは、蛇の真似を続けます」
「うん」
「蛇の進む先は、いつも、矢野さんの足の音が知っています」
「……変なこと言うな」
「願いでして」
蓮は笑って、黙った。笑いは短く、黙りは長かった。黙りの長さだけ、二人は明日に近づいた。紙に書かれない明日へ。名に残らない明日へ。背を預ける明日へ。
近藤勇と土方歳三は、迷わなかった。江戸へ戻れという清河の糸は断ち切られ、二人は京に残る道を選んだ。会津藩の庇護を受け、治安を担う――表向きはそう言い切り、裏では尊攘派の芽を摘む剣となる。言葉の代わりに背中で人を動かす者のいるところに、列は自然に重心を寄せていった。蓮は迷いを持たなかった。名が欲しくて刀を取ったのではない。刀の届く範囲に、居場所を得たかっただけだ。
京に入るまでの道は長く、見慣れない方角から風が吹いた。川が変われば石の形も変わる。蓮は足の裏の皮が少しずつ薄くなるのを確かめながら、黙って歩いた。列のすぐ外円を、沖田静が歩いていた。背は低くはない。蓮よりわずかに高く、少年のように骨ばった体が、無駄のない振り幅で進む。眠たげに見える眼差しの奥には、水面の下で張り詰める筋の硬さがあった。
「矢野さん」
背へ軽い音のように届く呼びかけに、蓮は半歩だけ振り返る。
「何だ、静」
「風が変わります。左へ二筋、細い路地を取ったほうがよろしい」
「どうしてわかる」
「匂いが違います。藁と味噌の混じった匂いが消え、燻った油の匂いが強くなりました。町の背中がこちらを向いていない」
言われるままに列の外れを読み直すと、確かに、家々の戸の影が不自然に浅い。人の不安は、まず影の形に出る。静はそういうものをよく見ていた。
壬生村の八木家が屯所に定まったのは、それから間もなくのことだ。表は武家屋敷の体裁を持ち、裏は農家の癖を残す。畳は日に焼け、壁に走るひびの間から冷たい空気が這い込む。井戸の水はよく澄んでいるが、汲み上げる桶の底に鉄の匂いが残った。藁布団は硬く、背骨に芯の所在を教えた。
翌日、入隊試験と称する立会が行われた。庭には砂が浮き、踏むと乾いた音が上がる。志願者が順に木刀を握り、試衛館の者と打ち合う。土方は黙って見ているだけで、目が罰を言い渡した。近藤は笑い、肩を叩き、声をかける。温い言葉の下に、ぶれない芯を通した人の笑みだった。沖田総司は木刀を肩へ担ぎ、子どもに話しかけるような口調で相手を遊ばせる。だが一度も、間合いを持ち崩さない。笑っているのは口だけで、全身はいつでも斬れる位置にいた。
静は人垣の外円に溶け、一本の木の影のように立っていた。蓮が視線を投げると、彼は小さく頷く。眠たげな眼にかすかな熱。そこには、誰か一人だけに向ける灯がある。
「矢野さん、そろそろ」
「わかってる」
蓮は木刀を握り、中央に出た。回し稽古。相手は近藤、土方、沖田総司。三方向の圧力がいっせいに立ち上がる。最初の一撃は土方。踏み込みの重さが骨に響く。蓮は受けた。次の瞬間、横から近藤の木刀が入る。温声の裏に潜む厚み。そこをしのいだ時には、総司が背に回り、刃の影で呼吸を奪いにくる。
蓮は一度、空気ごと斬った。力に任せて道を開く。砂が弾け、音が乾く。その一撃で、場の流れは止まった。土方が手を上げる。
「そこまで」
蓮は息を吐き、木刀を収める。土方の眼は鋭く、だが嘲りはない。
「腕は立つ。けどよ……殺す間合いが、まだ体にない」
蓮は唇を嚙んだ。指先に残る木のささくれが、妙に鮮やかだった。
井戸端で冷水を浴びる。桶の縁に残る欠けに爪がひっかかる。背に気配が落ちる。静だ。
「矢野さん、勝つのと、生き延びるのと、どちらが得意ですか」
「勝つために、生き延びる。違うのか」
「生き延びるために、勝たないことがございます」
「勝たない?」
「影は、そういう場所へ出ます。生き延びた数だけ、次の手が増えます」
静の声は低く穏やかで、井戸の水より冷たくなかった。蓮は桶の水を頭から被り、鼻から出る冷気で余分な考えを押し流した。
巡察が始まると、町の匂いが体の中へ入ってきた。四条の灯は赤く、三条の灯は黄に近い。祇園の笑いは長く、壬生の笑いは短い。昼の京は声で満ち、夜の京は視線で満ちる。表の道は明るいが、それが安全を意味することはない。暗い路地が危険とも限らない。灯の色と、人の影の縁の粗さ。それらの重なりで町の呼吸がわかる。
「矢野さん、歩幅を半丁分、狭めませんか」
「なんでだ」
「大股で歩くと肩が揺れて、柄が目立ちます。目立たないための動きは、斬るときの動きにも効きます」
「言い訳のような理屈だな」
「理屈は、斬らないときの武器でして」
尊攘派が御用達にしている茶屋をのぞくと、女将の笑みの奥に短刀の影があった。二階の欄干には見張りの影。新参の壬生浪士組に向けられる視線は冷たい。京の町は、名前ではなく足音を覚える。足音の調子が、信用になる。
屯所へ戻ると、土方が少数を呼んだ。机に紙も筆も出ない。声だけが役目を渡す。
「表の役は、近藤さんと俺が持つ。だがな、裏の役は紙に残らねえ。密偵、監視、工作、封鎖――そういう手だ。静、お前が棟梁だ」
「承知しました」
「それから、矢野」
「はい」
「口は堅いか」
「多分」
「多分は要らねえ。堅くしろ」
静が横で微笑んだ。
「矢野さん、よろしくお願いいたします」
「勝手に決めんなよ、静」
「願いでして」
夜、蔵の屋根に上がる。月は薄く、瓦は冷たい。下で交わされる声は、蔵の板の隙間を伝わって耳へ落ちる。
「合言葉は――」
「火は夜四つ――」
「鐘が三つ――」
断片の連なりが地図になる。静は瓦の上でほとんど影になり、蓮のすぐ先で動く。
「虎は正面で吠えますが、蛇は音を立てません。わたしたちは、蛇の真似を」
「俺は苦手だ。真っ直ぐ行くしかできない」
「なら、わたしの背を見てください。矢野さんは、真っ直ぐでいてください」
その夜は、何もしなかった。何もしないことが、初めての仕事だった。翌朝、火付けの合図になるはずの鐘の綱が切れていた。誰が切ったのか、と問う声だけが町に残り、誰にも答えは出なかった。
壬生浪士組はやがて会津藩の預かりとなる話が整い、名前に重さが増した。だが壬生の若者の目は、いっそう険しくなった。屯所の回りでは、日々小さな衝突が起きた。肩がぶつかれば口が荒れ、口が荒れれば手が出る。手が出れば刀が鳴る。
ある夕暮れ、畦道で若者らと隊士が揉み合い、長屋ひとつが揺れる騒ぎになった。蓮は刃に手をかけたが、静が肩に指を置いた。
「矢野さん、斬らなくても止められます」
「どうやって」
「目を逸らさないことです。いちども」
静が一歩出て、若者の先頭の男を見つめる。視線の刃を、鞘から抜かずに見せる。言葉が消え、靴音が引く。血は流れなかった。蓮は、小さく息を吐いた。
「……お前、やっぱり蛇だな」
「蛇は嫌われますが、冬を越すのが得意でして」
夜、壬生寺の鐘が遠くで鳴る。眠れず縁側に出ると、静が先に座っていた。白布の裾が月に淡く光る。
「静、起きてたのか」
「矢野さんこそ。眠れませんか」
「胸がざわざわしてな」
「わたしもです」
二人はしばらく、何も言わなかった。風の形が目に見えるような夜だった。やがて静が立ち上がり、背へ回る。
「矢野さん、背を預けるとは、こういうことです」
骨ばった重みが、そっと蓮の背に置かれる。体温が布を通って広がる。
「……重いぞ」
「少しの重みが、支えになります。勝つよりも」
「勝つ方が、わかりやすい」
「生き延びた数が、多い方が強いです」
その温かさは、剣の稽古では得られない種類のものだった。寄る辺とは、刀の届く範囲の内側だけにあるのではない。背で、呼吸で、言葉にならない場所にも、確かにある。
以来、蓮の間合いは変わった。斬るための間と、止めるための間。その境目が、胴の内側に一本通った。巡察で通りの角を曲がるたびに、蓮は静の背がそこにあるかのように意識し、足を運んだ。見えない相手へ、見えないまま働きかける。名に残らない仕事が、体に溜まっていく。
壬生狼――町の陰で誰かがそう呼んだ。狼の眼は夜に強く、群れで獲物を追う。だが狼の群れの中にも、それぞれの眼がある。蓮は自分の眼が、狼のそれとまったく同じではないのを知った。獲物を倒す前に、獲物の逃げ道を一つ、必ず残した。残すために、先に塞いだ。塞いだ後で、一つだけ開けた。静から学んだ手順だった。
ある雨の夜、尊攘派の小さな寄り合いの場へ向かう途中、静が突然、蓮の袖を引いた。
「矢野さん、ここは行きません」
「情報は確かなんだろ」
「確かです。ですが罠です」
「どうしてわかる」
「匂いが早すぎます。誰かがわたしたちに嗅がせたい匂いです」
「……回り道か」
「はい。回り道を長く歩くほど、真っ直ぐに近づけます」
別の筋から回ると、確かに、寄り合いの蔵の向かいに伏兵がいた。雨の膜が薄く切れて、刀の背がかすかに光る。静は音もなく退き、蓮の袖をもう一度引いて、闇へ溶けた。何も起きなかった。起きなかったことが、もっとも大きな働きになった夜だった。
翌朝、土方は帳場の前に短く立ち、言った。
「昨夜、よくやった」
それだけだった。名も場も詳しく語られず、紙にも残らない。だが、そういう言葉の短さが、かえって蓮の背へ重く残った。
日々の稽古は続く。静は「止める稽古」に加えて、「抜かない稽古」を教えた。刀を抜く前に、心を抜く。鯉口を切る前に、人の目を切る。切った目で、相手の呼吸を半拍だけ遅らせる。その半拍が、斬らずに済ませる余地を作る。蓮は最初、それを半信半疑で受けたが、ある夜の路地で、それが命を救った。
酔った浪人が刀を抜いた。道幅は狭い。蓮は抜かなかった。抜かずに、一歩踏み入れ、浪人の腕より先に浪人の視線の中へ入った。視線が泳ぐ。腕が止まる。止まった腕に、柄だけを軽く当てる。落ちる刀。音は小さい。血は流れない。静が背で小さく息を吐くのがわかった。
「矢野さん、それです」
「今のが、抜かないで勝つってやつか」
「はい。勝たなくても、生き延びる、でもあります」
壬生寺の鐘が新しい季節の音を帯びたころ、壬生浪士組が会津藩預かりとなる旨が正式に伝えられた。名に重さが加わるということは、背負うものが増えるということだ。土方は規律をさらに厳しくし、近藤は人心に橋をかけることを怠らなかった。静は橋の下で、川の流れを読み続けた。大きい石に水が当たって渦を巻く場所、小さな枝が集まって堰き止めを作る場所。人の心も、水と似ている。
同じ頃、町の一角で妙な噂が立った。白布の剣士が夜な夜な屋根を渡り、何も盗まず、何も斬らず、何も言わずに消える。浪人たちはその影に刀を振るが、空しか切れない。女はその影を祟りだと囁き、子は目を丸くして天井を見上げる。蓮はその噂を耳にして、静の横顔を見た。
「お前のせいだろ」
「矢野さん、影のせいにはならないでください」
「影のせいにしてるのは、お前だろ」
「頼んでもいないのに、よく働くので」
ある朝、八木邸の裏手で、静が蓮に短い目配せをした。
「今日の午後、壬生の若者たちと、また一つ火が起きます」
「何でわかる」
「朝の井戸端で、女性たちの言葉が短かった。短く、固く、四角い言葉です。角のある言葉は、昼に尖ります」
「角が立つ、ってやつか」
「はい。角は削るより、押して丸めます」
午後、予告は当たった。畦道で肩がぶつかり、舌打ちが飛び、刃の柄に手がかかった。土方の采配は迅速で、陳謝と示威が寸分違わず配られた。近藤は笑って頭を下げ、笑って声をかけ、笑って人心を繋いだ。静は端で流れを読み、蓮は静の影のさらに影で、何も起きないように立った。何も起きないように立つために、何度も刃を抜く寸前で止めた。止める腕が疲れた。斬るよりも、止める方が疲れる。夜になってから、静が言った。
「矢野さん、止めるのは、斬るより骨が要ります」
「よくわかった」
「骨の疲れは、よく眠ると治ります」
「お前は眠い顔してるけど、寝てないだろ」
「眠たさは、矢野さんの隣でしかよく出ません」
その夜、縁側でまた二人は並んだ。犬が遠くで吠え、風が戸を軽く叩いた。静が背にもたれ、蓮が受けた。重さは変わらず、温度だけがすこし高くなった。背の骨と骨が、薄く触れる。
「静」
「はい」
「お前の背は、冷たいと思ってた」
「よく言われます」
「違った」
「ありがとうございます」
季節がひとつ変わるたびに、蓮の中で「名」という言葉の輪郭が薄れた。壬生狼と呼ばれても、名の持つ重さは、背の重さには敵わない。名は紙に残る。紙は、誰かの手でいくらにも読み替えられる。背は、読み替えようがない。背の重さを受けたかどうかは、自分の骨だけが知っている。
ある晩、四条の外れで火の手が上がりかけた。尊攘派の若者が酒に勢いを得て、店の裏手に油を撒いたのだ。静は走り、蓮が続いた。火打石の音が一つ鳴ったとき、蓮は若者の手首を掴んだ。油の匂いが鼻に刺さる。斬れない。斬れば火は別のところで上がる。静が手桶を掴み、火打石の手に水を叩きつけた。石は泥に落ち、火は上がらなかった。若者は逃げた。追わなかった。追えば、次はもっと遠くで火が上がる。追わないことが、追うことより難しい夜だった。
戻る道すがら、静がぽつりと言う。
「矢野さん、勝つことは、誰にでもわかりやすいです」
「ああ」
「わかりやすいことは、誰かに横取りされやすいです」
「……名のことか」
「はい。わたしたちは、わかりにくい方をやります」
「やるしかない、だろ」
「やりたい、のです」
その言い切りに、蓮は何も足さなかった。言葉を足すより、歩幅を合わせた。八木邸の格子の影が夜風で揺れた。
やがて、池田屋という屋号が町の陰でささやかれ始めた。名はまだ遠い。だが、遠い名ほど、影が濃い。蓮は木刀を握り、朝の稽古で「止め」を繰り返した。静は半歩離れ、見ている。止める稽古は、斬る稽古より孤独だ。斬れば音がする。止めると、音がしない。音のないところで、背の重さだけが支えになる。
その朝、稽古のあとで静が言った。
「矢野さん」
「ん」
「背を預けるのは、二人だけにしましょう」
「もう決めてるのか」
「はい。光の側に立つ方が一人。もう一人は――矢野さんで」
「……勝手に言うなよ」
「願いでして」
蓮は笑った。笑いながら、胸の底で何かが固まるのを感じた。固まるものは、名ではない。骨だ。骨の形が、同じ方向を向いた。
壬生寺の梵鐘が昼の光の底で鈍く揺れ、京の町はそれを知らぬ顔で受け流した。紙の上の動きはまだ緩やかだ。だが、紙に書かれないところで、何百もの足音が地図を作っている。蓮はその地図の上を、音を立てぬように歩いた。静の背が、いつでも少し前にある。背を預けられる距離。剣の届く範囲。生き延びるために勝たないこと。勝つために斬らないこと。
夜の縁側で、ふたたび背と背が重なる。
「静」
「はい」
「俺は、名は要らない」
「知っています」
「じゃあ、お前は」
「わたしも、要りません」
「それで、いいのか」
「はい。矢野さんが覚えてくだされば」
風が戸口をまた叩いた。何度でも、同じ力加減で。遠くのどこかで、まだ見ぬ屋号が、静かにうねりはじめていた。二人はそれをまだ知らない。知らないからこそ、今は、背を預ける。名の代わりに。
翌朝、土方がいつもより短く言った。
「今日も、何も起こすな」
蓮は頷き、静は微笑んだ。何も起きない一日を作るために、何かをいくつも起こす。紙には残らない働きが、町の底で静かに重なっていく。壬生浪士組の名は厳しく、壬生狼という蔑称は遠くへ走る。だが名の軽重がどうであれ、背の重さは変わらない。
流山から京へ――名簿の墨が乾く前に、蓮は自分の居場所を見つけつつあった。刀の届く範囲。背を預けられる距離。そこだけが確かだ。明日の地図は紙の上で書き換わるだろう。だが、今日の背の温度は、誰にも書き換えられない。
夜の終わりに、静がふと、蓮の名を呼んだ。
「矢野さん」
「なんだ」
「わたしは、蛇の真似を続けます」
「うん」
「蛇の進む先は、いつも、矢野さんの足の音が知っています」
「……変なこと言うな」
「願いでして」
蓮は笑って、黙った。笑いは短く、黙りは長かった。黙りの長さだけ、二人は明日に近づいた。紙に書かれない明日へ。名に残らない明日へ。背を預ける明日へ。



