名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 翌朝の京は、灰と湯気の間にあった。焼け跡から立つ湿った匂いが、炊き出しの米と混ざって、低い路地を白くする。人の声は、まだ名前を探していない声だった。母は子の名を呼ぶが、返るのは空気の揺れだけだ。商家は屋号を口にするが、看板は炭の柱になっている。名を失った町は、手触りだけで歩く。手触りの道を作るのが、影の仕事だと静は言った。

 会津からの通達は、表向きには爽やかだった。
 新選組の功は「池田屋に続き、禁門の戦においても顕著なり」とあり、近藤の名は太く、土方の名は細く、総司の名は明るく紙の中央に残る。羽織の青は誇らしい。だが、その紙束を抱えて街角に立つ浪人上がりの書役の目は、薄く濁っていた。名は太くなるほど、裏で薄い紙を何枚も必要とする。その薄い紙の端には、数字と米と人の行き先が細い字で続く。そこには“等外”と書かれた欄があった。名の下、さらに下。あって、ないような場所に。
 土方はその欄を指で押して、静と蓮に言った。
「ここの“空白”を広げろ。名を取らずに数を置く。燃え跡の端に、白い倉を作る。紙は持たせるな。人に持たせろ」
「白い倉?」蓮が眉をあげる。
「目に見えない倉だ。――鈴、井戸、粉、香、梯子、手拭、団子、子どもの石。そういうもので“ある”を積む。名を積むと、その倉は潰れる」
 静は頷いた。
「承知しました。矢野さん、歩きます」
「歩くのは得意だ。……足音を消すのは、まだ下手だけどな」
「矢野さんの足音は、合図になります。消さないでください」
「お前、本当に悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

     ◇

 まず向かったのは、壊れかけの寺である。昨夜、材木の親父と“丸”の話をした本堂だ。板の裏に墨で○を付けるというやり方は、意外なほど人の手に馴染んだ。僧は丸を押すたびに木魚を打ち、子は自分の棒先に小さな丸を書いて誇らしげに掲げる。
 僧が静に囁く。
「名を刻まぬ丸は、いったい誰のためのものです?」
「“いま”のためです」
「いま?」
「はい。いま、生きているしるしです。あしたも丸を押せるかどうかは、あしたの人が決めます」
「名は要らぬと」
「後で、名が欲しくなったら、名のほうから来ます」
 僧は目を細め、丸を押しながら笑った。「難儀な理屈ですな」
「夜には、よく効く理屈です」

 寺を出て、井戸端に寄る。綱の軋みが音で挨拶をする。静は綱を撫で、結び目を半寸だけ変えた。井戸の台の角度を直し、子の足が叩く石の位置を一つずらす。足の音が良くなる。音が良くなると、人の列が真っ直ぐになる。真っ直ぐな列は火の餌になりにくい。
「静。……音で人を並べるのか」
「はい。音は紙にならないので」
「紙にならないから、壊れにくい」
「はい。矢野さんの足音も、紙になりません」
「褒めてるのか?」
「はい。精一杯」
「もっと上手く褒めろ」
「すみません」

 粉屋は湿りを増やしていた。樽口の紙を開くと、ふわりとした重みが鼻に入る。粉にわずかな水を吸わせておくと、燃え移りにくい。粉は火の天敵にも、火の味方にもなる。扱いを決めるのは“手”だ。
「旦那。湿りはもう少し、頼む」蓮が言うと、粉屋は木べらを止めて笑った。
「湿った粉は重てぇ。運ぶのに骨が折れる。……でも、夜に燃えないほうがいいな」
 静は小さく頭を下げた。
「返らない借りは、丸で返します」
「丸?」
「板の裏に、墨で」
「なにが返ってきたのかわからん借りだな」
「わからないのが、夜には効きます」

 香具屋の皿はさらに低くなった。棚板の下に仄かな香が落ちるくらい、ほんの少しの低さ。香の高さは人の声の高さに影響する、と静は平然と言った。
「高い香は高い声、低い香は低い声。低い声は群れない」
「お前、何者だ」蓮が笑い、肩をすくめる。
「矢野さんの“横”です」
「便利な言葉だな、“横”って」
「はい。何にでも馴染みます」

 辻占の婆は、今日も欠けた「与」を裏返して客の掌に置いた。
「返らん借りは増えると軽うなるんや」
「軽い借りは持ち運べます」と静が応じる。「持ち運べる借りは、夜の道具になります」
「ほな、今日の道具は?」
「鈴を二つと、濡れ縄の結びを七つ」
「ようけ要るんやなぁ」
「夜は、面倒ですから」
 婆はしわの間に笑いを増やして、丸の印を静の手の甲に押した。「あんた、ほんまに幽霊やないの?」
「幽霊は、子どもがとるものです」
 婆は、なるほどと頷いた。

     ◇

 昼下がり、屯所で小さな揉め事が起こった。
 功の書付に自分の名が見当たらなかった若い隊士が、短い怒りを刃の形に変えかけたのだ。
「俺が斬った分、俺の名が太らんのはおかしい!」
 土方は座敷の端から、それを横目で止めた。止め方に刃は要らない。目だけで足音が止まる。
「太くしたいなら、表へ行け。お前は裏を歩いた。裏を歩いた名は、太ると紙が破れる」
「納得できません!」
「納得は狙うものじゃない。結果だ」
 若い隊士の肩の角度が、わずかに上がった。角度が上がると、言葉が立つ。――その瞬間、静がすっと座敷の縁に出て、団子の串を一本差し出した。
「甘いものは、怒りに効きます」
 場が緩み、笑いがひとつ落ちた。落ちた笑いを拾い上げる手で、土方は紙束を一枚渡した。
「裏の名寄せだ。――お前の斬らなかった分を、ここに書け」
「斬らなかった分、ですか」
「そうだ。それは誰にも奪われない。斬った分は、たいてい奪い合いになる」
 若い隊士はしばらく黙っていたが、やがて筆を取った。紙は薄い。けれど、その薄さは夜に馴染む。

 そのやりとりを、蓮は複雑な心持ちで見ていた。
「静。……俺がもし、“表”に行きたいって言ったらどうする」
「止めません」
「止めない?」
「はい。矢野さんの足は、矢野さんのものです」
「けど、お前は俺を“横”に置いてくれた」
「置いただけです。縛ってはいません」
「……ありがとう、って言っていいのか」
「はい。もしくは、“悪い人”でも」
「悪い人」
「ありがとうございます」
 静は、嬉しいのかどうかもわからない調子で言って、鈴の紐を結び直した。

     ◇

 午後の終わり頃、瓦版屋が駆け込んできた。
「外法の字を、また誰かが石に塗りやがった!」
 蛤御門の脇の石碑に、夜のうちに「白影外法」の四字が汚く重ね書きされていた。子が拾う石で擦った跡も残っている。大人の怒りは太く、子の正義は短い。太い怒りは目立ち、短い正義は痕を残せない。
 静と蓮は井戸の水を二桶抱え、寺から古布を借りて石碑へ向かった。
 布で黒を溶かし、灰に変え、灰を滲ませ、字を崩す。崩すたびに、周りで人が集まり、囁きが募る。「やっぱり白影は外法やった」「いや、子らが助けたゆうてた」――紙にならない会話のほうが、長く残る。
 蓮は布を絞りながら、石の前に立つ男に目を止めた。痩せた輪郭、袖に油の匂い。火付の束ねだった男だ。
「来たのか」
「来た」男は短く返す。「綱を持つのは、まだ慣れない」
「慣れなくていい」蓮は言い、静は頷いた。
「慣れないほうが、手が残ります」
 男は石碑の前で立ち尽くし、やがて頭を下げた。
「俺の名は、いらん」
「はい。要りません」静が答える。「あなたが綱を持つ夜だけ、丸を押してください」
 男は初めて笑った。笑うと、鬼火のような光が目の奥に灯る。「鬼でも、丸を押せるか」
「押せます。丸は、誰のものでも、誰のものでもないです」

 石がきれいになると、静は指に墨をつけて小さな○をひとつ書き、布でそっと拭った。丸の輪郭は消え、残り香だけが石に沁みる。
「なぁ静。……いまの丸、意味あるのか?」蓮が訊く。
「はい。ここに“いま”があった、という印です」
「見えない印だ」
「見えない印しか、残らない夜もあります」
「お前、本当に悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

     ◇

 夕暮れ、壬生の道場で稽古が始まった。
 竹刀の音は乾いて三度。呼吸は長く、足幅は半寸短く、間は半寸詰める。静は蓮の“前の手前”をさらに長く取らせた。
「矢野さん。――“前の手前”は長いほうが、名の戻り火を避けられます」
「戻り火、戻り火って……世界の足を引っ張ってばかりだ」
「はい。矢野さんのためだけに、です」
「その言い回し、最近ほんと腹立つ」
「ありがとうございます」
 竹の先が少し下がる。下がった分だけ、夜は壊れない。
 稽古の最中、総司が縁側に出た。薄い笑い、短い咳。
「静、蓮。――君たちの“横”と“前の手前”、今夜も貸してくれ」
「はい」静が答え、蓮は竹を納める。
「今夜?」
「藩邸からの行き帰りに、名を刻みたい者がうろついている。“新選組の名を汚す外法を討つ”だそうだ」
「つまり、俺たちを狙う?」
「正確には、“白影”をね。顔のないものは、人の怒りを呼ぶ」
「顔のある囮は?」
「昼間の笑いで飽きられた。夜の怒りは別腹さ」
 総司はそう言って、白い袖を揺らした。光の人は、影の始まり方をよく知っている。

     ◇

 夜。蛤御門から離れた細い路地に、刃の匂いが漂った。
 火の翌日の夜は、表向き静かだが、怒りは遅れてやって来る。噂の角に勢いを得て、顔のない敵を斬りに行く――そんな“名を刻む”真似が、町を逆になでる。
 四人。帯刀。羽織は脱ぎ、顔は布で隠す。遠目から見れば賊。近づいても、やっぱり賊。
 静は灯を半寸下げ、鈴を一度鳴らした。
「矢野さん。――“遅く”します」
「任せろ」
 四人のうち、先頭が踏み込む。踏み込みは正直で速い。速い踏み込みは、音が大きい。大きな音は、合図に負ける。
 蓮は“前の手前”に音を置いた。鯉口の乾いた鳴り。先頭の目が音へ向く。
 静は横へ滑り、喉の前の空気に視線を置き、刃ではなく柄頭で手首の骨に軽く触れる。骨が覚える。刃が一瞬、遅れる。
 遅れのうちに、蓮は柄で喉を軽く打ち、足の流れを止めた。倒れず、止まる。止まることに、人は慣れていない。
 二人目が怒りで踏み出す。怒りの足は重い。重い足は、梯子の二段目でよく躓く。
 梯子は、昼間に材木の親父がたわみを調整しておいてくれた。二段目の“ふにゃり”で足が半寸遅れる。遅れに合わせて静が袖の裾で刃の面を撫で、角度だけ奪う。
 三人目は短筒。短筒は、壁のほうへ向けるのが礼儀だ。蓮は肘の内側で口の角度を奪い、火薬の匂いを土へ落とした。
 四人目は、踏み出さなかった。踏み出す前に、鈴の音が二度目に来たからだ。
「通したかったら、桶を持て」蓮は言い、静は続けた。「綱は井戸にあります」
 四人目は布を外し、若い顔を見せた。怒りより、迷いが多い。
「“白影”は外法だ」
「外法は甘い」と静。「角が立つほど、甘い」
「甘い?」
 静は懐から団子を一本出し、若い者の手に押し付けた。
「怒りは、字で太る前に、糖で弱くなります」
 若い者は短く笑い、団子を齧った。
「……俺は、何をしてるんだ」
「丸を、押しに行ってください」
「丸?」
「寺で、棒の先に。――“いま”です」
 四人目はしばらく立ち尽くし、やがて短筒を腰に戻して去った。残った三人は、遅さを持て余して散った。
 名を刻むための刃が、遅さでほどける。遅さは、影の味方だ。

「静」
「はい、矢野さん」
「俺、今夜は一太刀も斬ってない」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。……でも、悪くない気分だ」
「はい。今夜の“斬らなかった分”は、数に入ります」
「数?」
「丸の数です」
 静の声は薄く、涼しい。夏の夜にだけ現れる、短い風のようだ。

     ◇

 翌朝、寺の本堂で、棒先の丸が増えていた。子どもの棒、大人の棒、団子屋の串、材木小屋の短い端木。丸の大小は様々だが、同じ“今”の輪郭を持っている。
 僧が丸の数を木魚で数え、脇にいる寺男が細い線で“丸数帳”に記す。名はない。今日の丸、昨日の丸、一昨日の丸――並べると、町の呼吸のように見える。
 そこへ、会津の書役が現れた。
「その“丸数帳”、役所に差し出せないか」
 僧が困った顔で静を見る。
「丸は、名ではありません」静が答える。
「名ではなくても数だ。数は紙が喜ぶ」
「紙が喜ぶと、丸は名になります」
「……理屈を言う。役目を果たせ」
 書役の目に、薄い苛立ちと疲れが滲んだ。紙の人間は、紙で世界を揃えたい。丸は揃わない。
 蓮が一歩出た。
「その帳面、紙に渡したら、石に書きたくなるだろ」
「石に?」
「石は固い。固いところに丸を書けば、それは字になる。字になった丸は、名を呼ぶ。名を呼べば、誰かが奪う」
 書役は口を結び、やがて肩を落とした。
「……わかった。寺で持て」
「ありがとうございます」
 静が頭を下げ、僧が胸を撫で下ろす。
 書役は踵を返しながら、振り返りざまに一言だけ置いた。
「書け。――“斬らなかった分”を」
 蓮は頷いた。
「書くよ。俺の字は、足音があるらしい」
「あります」静が言った。「矢野さんの“前の手前”の音です」

     ◇

 昼下がり、総司が蓮と静を呼んだ。
 庭の砂は白く、足跡は短い。総司は竹を指で弾き、軽く振って笑った。
「君たちの紙を見た。――子どもが読める言葉で、裏の手を残す紙」
「ありがとうございます」静が言い、蓮は照れ隠しに鼻を鳴らした。
「ただ、ひとつだけ足りない」
「何がだ?」
「“矢野”がない」
「名を消す話してるのに、俺の名を出すのか」
「出し方の話だよ。字の端に、小さく“矢”の影だけ置け」
「矢の影?」
「君の足音は、矢みたいにまっすぐで、最後に半寸だけ遅れる」
「詩人ぶるな」
「ええと……君は、君のままで、いてくれ」
 総司は咳をひとつ置いて、笑った。
 光の人は、影に言葉を置くのが上手い。置かれた言葉は、夜でよく響く。

 その足で、蓮は紙の端に小さく“矢”の形を描いた。名前ではない。方向の印だ。
 静はそれを覗き込み、「矢野さんのためだけに、です」と当然のように言った。
「俺のためだけに、って言うけどさ。……お前自身のためは、どこにある?」
「あります」
「どこ」
「“横”です」
「便利だな。“横”」
「はい。何にでも馴染みます」
「お前、その言い回し好きだな」
「矢野さんが、好きなので」
 蓮は言葉に詰まった。静は目を伏せ、少しだけ白い袖を握る。砕けた敬語は、時々、鋭い。

     ◇

 夕刻、壊れた長屋の棟上げが行われた。
 大工たちが柱を立て、梁を運び、誰かが鈴を鳴らし、誰かが団子を配る。子が棒の先で丸を押し、女が水を撒き、男が笑い、老人がうなずく。
 棟札には名が並ぶ。施主の名、棟梁の名、寄進の名。端に白い余白が残され、静がそこに指で○を小さく乗せた。
「丸は、見えないとなお良いです」
「見えないと、誰にも奪われないから?」蓮が訊く。
「はい。あるのに、ないから」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
 笑いの尾が梁を渡り、空に薄く散った。
 その空の下、会津の使番が走ってきた。顔が硬い。
「長州の残党が、市中に潜んでいるという密告あり。会津邸へ向かう道で不穏な影」
 名の戻り火だ。
 土方が短く命を割り振り、表は隊で固め、裏は二人に預けた。
「灯を下げろ。鈴を鳴らすな。――“無音”で行け」
「承知」静は頷き、蓮は手のひらの汗を拭った。
「無音は、苦手だぞ」
「矢野さんの足音は、無音の合図になります」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

     ◇

 夜の根がのびた。
 会津邸へ通じる裏筋に、青い暗さが溜まる。短筒の金属が息をひそめ、刃の先が空気の温度を変える。
 二人は風下から入った。
 静は白を鼠に沈め、蓮は“前の手前”で歩幅を半寸短く、呼吸を半拍遅らせる。
 曲がり角の手前で、短い布の擦れる音。二人、三人。
 静は指を一本、そっと立てた。音を置く合図ではない。音を消す合図。
 蓮は鯉口に指をかけ、しかし鳴らさない。
 足の流れがこちらへ向かう。正面から来ない。斜めから舐めるように来る。
 噂の足だ。顔のない敵は斜めから来る。
 静はわざと灯にひととき身を入れ、袖の白をほんの刹那、見せた。噂の目が食いつく。
 その瞬間、蓮が“前の手前”に石を置いた。井戸の足と同じ石。
 カン、と良い音。
 刃の先が半寸遅れ、短筒の口が半寸だけ下がる。
 遅れの間に、静は喉の前の空気を押さえ、蓮は柄で肘の内側を打ち、足の流れを切った。
 倒さない。
 立たせたまま、抜く。
 抜いたものは、怒りだった。
「白影、外法――」布の下から絞り出す声。
「外法は甘い」静は淡々と返す。「角が立つほど甘いです」
 もう一本の団子を、蓮は布の隙間に押し込んだ。
「食え」
 怒りは糖で脆くなる。噛む音が、小さく夜を崩す。
 崩れたところへ、静がひとことだけ落とした。
「寺で、丸を押してください」
 敵は敵ではなくなり、噂は夜の端へ引いていく。
 無音の任務は、無傷で終わった。
 土方へ報せると、短い返事が返ってきた。
「誉は紙に渡した。裏は白に残せ」
 静は頷き、蓮は肩を回した。肩の骨に、軽い釘が一本、まだ残っている。それは視線だ。静の視線と、自分自身の視線。二本の釘は、重なって一本になる。

     ◇

 夜が深まるほど、町は静謐を覚えた。焼け跡の黒は、白の中にうっすらと沈み、井戸の水は冷たさを取り戻し、香の低さは声の高さを落とし、団子の湯気は薄く甘い。
 蓮は川べりに腰を下ろし、日記を開く。
 筆は軽い。けれど、今はその軽さが手に馴染む。
 書く内容は、名ではない。
 やり方と、音と、半寸の角度。

――灯を半寸下げると、人が群れない。
――鈴を三度鳴らすと、列が二筋に割れる。
――粉は湿りで燃えない。
――香は低さで声を低くする。
――梯子の二段目は、たわみが良い。
――団子は外法を弱める。
――丸は今を数える。
――“矢”は方向で、名ではない。
――白は夜の色。
――白に置いたものは、翌朝も残る。
――斬らなかった分は、数になる。
――数は、嘘をつかない。

「静」
「はい、矢野さん」
「俺は、名を消すために生きてるのか、名を刻むもののために場所を空けてるだけなのか、わからなくなる時がある」
「はい。わからないままで、お願いします」
「丸投げだな」
「わからないものは、体に残ります。体に残ったものが、矢野さんの歩幅を半寸、変えます」
「半寸ばっかり」
「半寸は、夜を壊しません」
「……お前、ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 静は研ぎ石を手に、刃の背を一度水にくぐらせた。刃先は乾いたまま、光を吸い、吐く。
「静。――お前の“ため”は、どこにある?」
 静は少し考えて、白い袖の裾を握った。
「“沖田”のためです」
「総司の?」
「はい。光の背に、釘を打つためです」
「視線の釘」
「はい。矢野さんの視線も、一本いただいています」
 蓮は笑い、川面に石を投げる。輪が三つ、四つ、ひろがって消える。
「じゃあ、俺も総司の背に釘を打つ」
「ありがとうございます。――釘が多いほど、光は長く立ちます」
「光は長く立つけど、影は光より長生きしない、って総司が言ってた」
「はい」
「それでも?」
「はい」
 静の返事は短く、揺れなかった。短い返事は、長く残る。

     ◇

 夜明け前。
 町の端で、白い倉の最初の“形”ができた。
 倉と言っても、建物ではない。綱の結び目、鈴の縁、梯子のたわみ、香の低さ、粉の湿り、団子の湯気、子の石、板の裏の丸――それらが地図のように繋がり、人が無意識に使い、手触りとして残る。
 名はどこにもない。
 だが、ある。
 “夜に壊れないもの”として、確かにある。

 会津の書役が、遠くからそれを見ていた。
 表の紙に背を向け、裏の地図を一度だけ、目に入れる。
 彼の手は、しばらく空のままだった。紙を持たない手は、軽い。
「名は……」と、彼は誰にともなく言った。「名は、表のためにあり、余白は、夜のためにある」
 誰も答えない。答えないことが、時に正しい。
 書役は踵を返し、薄い紙束を胸に抱いて去った。紙は紙として要る。白い倉は白い倉としてある。どちらも、町の骨だ。

 静と蓮は、最後の鈴をひとつ鳴らした。
 鈴は三度、ではない。一度だけ。
 終わりの合図ではない。
 “いま”の合図だ。
「行くぞ、静」
「はい、矢野さん」
「今朝は?」
「北です。“白い影は北に立つ”――眠らせた噂を、また寝かせます」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
 二人は並んで歩き出した。灯の低いほうへ、骨の音が小さく鳴る道へ。
 白い袖は鼠に沈み、鼠の影は白に広がる。
 京の石は、二人の半寸の重みを今日も確かに受け止めた。
 紙は棚で眠り、石は風で眠り、白は夜で目を開ける。
 名を刻む者も、名を消す者も、その三つの眠りを見守っている。
 名は太り、丸は増え、鈴は鳴り、綱は軋み、梯子はたわみ、粉は湿り、香は低く、団子は甘く、子の石は良い音を出す。
 その全部が、京の骨であり、二人の歩幅を半寸ずつ支えている。
 禁門の後の京に残った正しさは、きっとそれだけだ。
 それだけで、十分だ――と、蓮ははじめて、素直に思えた。

 川辺を離れるとき、背に寺の鐘が遅れて鳴った。
 遅れは合図だ。
 次の夜のための、正しい遅れ。
 その遅れに歩幅を合わせ、二人はまた“白い倉”へ向かう。
 名を刻む者の列が昼に太るあいだ、名を消す者は夜に余白を広げる。
 やがて、余白の白は紙にはみ出し、紙の黒は白の中で輪郭を得る。
 それを人は、秩序と呼ぶ。
 秩序の骨には、きっと二人分の釘が打たれている。
 一本は光のために。
 一本は互いのために。
 その釘が抜けない限り、夜は壊れない。

 そして――朝日の端で、静がふいに立ち止まった。
「矢野さん」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「なんだ急に」
「今日、僕は――“名を消す者”でいられました」
「俺も、“名を刻まない者”でいられた」
「はい。……矢野さんのためだけに、です」
「それ、最後に言うな。照れる」
「すみません」
 二人は笑い、半寸、歩幅を広げた。
 広げたぶん、昼が来る。
 昼の端には、もう次の夜が薄く重なっている。
 その夜に、また丸を置こう。
 名を増やさず、数を減らさず、音をひとつ足して。
 それが、二人の仕事であり、生き方であり、物語の続きだった。