名を刻む手は、道具を選ばない。
彫り鑿、筆、版木、金槌――それらは表の道具だ。
名を消す手も、道具を選ばない。
濡れ縄、鈴、梯子のたわみ、灯の高さ、子どもの石――どれも、裏の道具だ。
京は、その両方でできている。禁門の翌々日、蓮はその事実にようやく言葉を与えられる気がした。
朝、会津からの役が屯所に現れた。
戦後処理の段取り、見回りの分担、焼失戸数の再調整。紙の上の仕事が、骨にひたひたと沁みてくる。
土方は短く頷き、静と蓮へ薄い紙束を渡す。
「“裏の名寄せ”だ。助け出した者、火を止めた筋、井戸の綱を握った手――すべて、名を取らずに記せ」
「名を取らずに、記す?」蓮が首を傾げる。
「そうだ。名が載ると、紙は別の棚にしまわれる。載らなければ、ここに残る」
「ここ、って?」
土方は胸を軽く叩いた。
「紙を持つ場所だ。――戦は終いに見えて、まだ続いてる。名の“戻り火”を断て」
名の戻り火――誉れの反動、復讐の口実、外法の糊付け。
紙に名が太るほど、影に黒が濃くなる。濃くなった黒を、白のうちへほどいて戻す。それが今夜の仕事だ。
まずは、囮の後始末。
「白影退散」の顔は十分に笑われ、飽きられ、紙の端からこぼれた。こぼれた顔は、闇に落とさず、笑い話の棚へ。茶屋の娘が湯気で包み、辻占の婆が札の裏に貼る。顔の再利用だ。
次に、功の売買の筋。
番頭は叱られ、甥は指を噛み、旅籠は帳面を失くす。失くした帳面は、粉屋の湿りでじわりと滲み、字が誰のものでもなくなる。
最後に、「外法」の二字の角。
外法は甘く、角が立つ。角を折るには、同じくらい甘いものが要る。
団子だ。
焼け跡の端で、子に団子を配り、鈴を鳴らして列を作る。列は秩序だ。秩序のある場所に、外法は根づかない。
笑いながら人は言う。「白い影より、白い団子」。
それでいい。噂は糖に弱い。
昼、総司が庭で竹を振り、咳をひとつ。
「静。君に頼みがある」
「はい」
「町の“書かれないほう”の記録、少し紙に残しておきたい。壬生の子らが読める言葉で」
「承知しました」
「矢野。君も書け。君の字は、足音がある」
「字に足音?」
「ある。――短くて、骨に入る」
褒められたのか、からかわれたのか、わからない。わからないままの褒め言葉だけが、長く残る。
午後、蓮は紙を前に座った。
筆は軽い。剣の重さの後では、軽すぎる。
でも、軽いからこそ入る場所がある。
蓮は書いた。
――香具屋の皿を低くした夜。
――粉屋の樽口を湿らせた昼。
――梯子の二段目がたわんだ角。
――辻占の欠けた「与」を裏返した指。
――材木小屋の親父の手拭の重さ。
――井戸の綱の軋み。
――鈴の三度の波。
――団子の湯気の低さ。
――囮の白影の笑い。
――そして、白い袖の鼠。
名は書かなかった。書いたのは、やり方と音だ。子が読むなら、そのほうが早い。
紙は薄く、文字は短く、余白は広い。
広い余白は、夜とよく馴染む。
夕刻、町のはずれにある焼けた寺の本堂で、小さな集まりがあった。
石碑に刻まれた名を読み上げるのとは別に、名のない者たちの“数”を確かめ合う会。
僧の木魚は静かで、線香の煙は細く、泣き声は出ない。泣けば火が戻る気がするのだろう。
そこで、材木小屋の親父が言った。
「名が残らん者の名を、板に刻んだらあかんのか」
寺男が困った顔で笑った。
「板は燃えます」
「燃えたら終いか」
「燃えたら、灰になります」
「灰は、白い」
親父は首をかしげ、何かを飲み込む。
静が、板を手に取った。
「刻まない方法があります」
板の裏に、墨で“○”をつけただけの印。
「これをたくさん、残します。丸が一つ、命が一つ。名前は入れません。――灰になっても、丸は“数”で残ります」
僧は目を細め、頷いた。
親父は笑った。
「難儀やな」
「はい。夜には、よく効きます」
夜。
川辺で、静が刃を拭っていると、薄い足音が近づいた。
助け出した、あの女と子だ。
女は深く頭を下げ、子は短い棒きれを握っている。棒きれの先には、丸がひとつ。
「これ、持っててください」女が言った。
「丸は、うちの子の“いま”です」
静は受け取らず、手を合わせた。
「ここに、置いていきます。――白に」
川の白い流れは、丸を音に変え、音を輪に変え、輪を消す。
消えるまでの短い間だけ、確かだ。
「静」
「はい、矢野さん」
「お前、どこでそんな“白の使い方”覚えた」
「覚えたというより、置いてきたのを、拾い直しています」
「いつ置いた」
「物心つく前、かもしれません」
「冗談めかすな」
「はい。――でも、本当です」
静は目を伏せ、少し笑ったような、笑わないような形を作る。
笑うと輪郭が崩れる。だから、影は笑わない。
蓮は、わかったふりをやめた。わからないものは、わからないまま、体に残す。残ったものが、歩幅を半寸だけ変える。
その頃、表では、もうひとつの“名刻み”が進んでいた。
会津の役宅で、功に応じた昇給と配置換えの話。
山南の筆致は端正で、近藤の言葉はまっすぐ、土方の目は数字に厳しい。
薄い紙の端に、蓮と静の名はない。
代わりに、小さな印がある。
“白”。
土方が後で、ぽん、と蓮の背を叩いた。
「文句がある顔だな」
「顔でわかります?」
「顔でわかる。紙は表情を持たねぇが、人間は持つ。お前は、持ちすぎる」
「直る気がしませんよ」
「直すな」土方は短く笑う。「直したら、お前の“前の手前”が死ぬ」
「……褒められてるんですか、それ?」
「知らん」
褒め言葉は不親切なほうが、長持ちする。
翌日、石碑の脇に小さな木札が増えた。
丸がいくつも、いくつも。
名はない。
数だけが立っている。
数は、嘘をつかない。
蓮は木札の前で立ち、指で丸の輪郭をなぞる。
輪郭の感触は、刃の背に似ている。刃の背は、斬らないためにある。
「静。……俺、ここに自分の丸を書きたい」
「どうぞ」
「でも、書かない」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「すみません。――でも、本当です」
夜、稽古場。
竹の音が三つ、乾いて鳴る。
静は半寸、間を詰め、半寸、下がる。
蓮は“前の手前”を長く取る。
「矢野さん。――しばらく、“前の手前”は長いままで」
「まだ長くすんのか」
「はい。名の“戻り火”は、息が長いです」
「世界の足を引っ張る役、飽きないな」
「矢野さんのためだけに、です」
竹の先が低く、夜の骨に、また半寸の音が刻まれた。
◇
名を刻む者、名を消す者――両者は、思いがけないところで交わる。
焼け跡に新しく建つ長屋の棟上げの日、表の名が揃い、裏の手が集まり、人の手が梁を持ち上げる。
棟札に名前が連なる。大工、施主、寄進の名。
そこに、ひとつ、白い余白が残っていた。
大工が首をひねり、筆を止める。
「ここ、空けとけって言われてる」
「誰の名だ?」
「名は、ない」
静が一度だけ、その余白に筆を置いた。
墨は乗らない。
代わりに、指の腹で“○”をひとつ。
蓮は笑った。
「丸は、音になる」
「はい。――鈴の音です」
鈴が鳴る。
人が笑う。
笑いの骨は、夜を支える。
その晩、総司が川辺に降りてきた。
咳は少し長く、笑いはいつもどおり短い。
「静。――君は名を消す、と言うけれど」
「はい」
「消すものは、元に“名”がある。……君は、もともと名を持っていたのかな」
静は答えない。
川の音が代わりにしゃべる。
答えないことが、時に正しい。
総司は頷き、蓮を見た。
「君も……名に縛られるな」
「縛られたこと、ないさ」
「嘘をつけ」
蓮は笑い、石を投げる。輪が三つ、四つ。
「じゃあ、縛り方を覚える」
「ほどき方も、ね」
総司は咳をひとつ置き、帰っていった。
背の線は、光だ。
光の線には、影の釘が一本打たれている。視線だ。
静は、視線を背に受け、少し肩を落とした。
落とすのは、疲れではなく、形だ。形を半寸だけ崩すと、夜は壊れない。
最後の“戻り火”は、不意に来た。
蛤御門の脇の石碑に、誰かが夜中に墨で汚い字を書いた。
「白影、外法」。
太い、幼い、怒りの字。
見つけたのは子どもだった。
「おにいちゃん、ひどい」
蓮は歯を食いしばった。
「静。……これは、消すのか、残すのか」
「消します」
「すぐ?」
「はい。遅らせると、紙に乗ります」
井戸の水をバケツに汲み、布を濡らし、墨をこすり、字を崩し、黒を灰にする。
子が石で井戸の足を叩いた。
カン、と良い音。
良い音が、怒りをほどく。
消したあと、静は石碑の前にひとつ、丸を書いた。指で。
「“いま”の丸です」
蓮は頷いた。
「いま、か」
「はい。名より、強い時があります」
名は未来へ伸びる。丸は、現在に立つ。
現在が強い夜は、火が遠い。
◇
最後の夜、蓮は日記を閉じた。
ページの余白は広い。
広い余白は、夜の色。
そこに、短く置いた言葉が骨へ沁みる。
――名を刻む者は、表へ道を作る。
――名を消す者は、裏へ道を戻す。
――道は、町を太らせる。
――太った町は、刃を折らない。
――折れない刃は、遅い。
書き終えて、蓮は立ち上がる。
「行くぞ、静」
「はい、矢野さん」
「今夜は?」
「北です。“眠る影”を起こさないように」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
二人は並んで歩いた。灯の低いほうへ、骨の音が小さく鳴る道へ。
白い袖は鼠に沈み、鼠の影は白に広がる。
京の石は、二人の半寸の重みを今日も正しく受け止める。
紙は紙で、石は石で、夜は夜で。
名は太り、丸は残り、鈴は鳴り、綱はきしみ、団子は甘く、欠けた「与」は裏返っている。
そのすべてが、京の骨だ。
名を刻む者も、名を消す者も、その骨を支えている――それが、禁門の後に二人が手の中に残した、たったひとつの“正しさ”だった。
彫り鑿、筆、版木、金槌――それらは表の道具だ。
名を消す手も、道具を選ばない。
濡れ縄、鈴、梯子のたわみ、灯の高さ、子どもの石――どれも、裏の道具だ。
京は、その両方でできている。禁門の翌々日、蓮はその事実にようやく言葉を与えられる気がした。
朝、会津からの役が屯所に現れた。
戦後処理の段取り、見回りの分担、焼失戸数の再調整。紙の上の仕事が、骨にひたひたと沁みてくる。
土方は短く頷き、静と蓮へ薄い紙束を渡す。
「“裏の名寄せ”だ。助け出した者、火を止めた筋、井戸の綱を握った手――すべて、名を取らずに記せ」
「名を取らずに、記す?」蓮が首を傾げる。
「そうだ。名が載ると、紙は別の棚にしまわれる。載らなければ、ここに残る」
「ここ、って?」
土方は胸を軽く叩いた。
「紙を持つ場所だ。――戦は終いに見えて、まだ続いてる。名の“戻り火”を断て」
名の戻り火――誉れの反動、復讐の口実、外法の糊付け。
紙に名が太るほど、影に黒が濃くなる。濃くなった黒を、白のうちへほどいて戻す。それが今夜の仕事だ。
まずは、囮の後始末。
「白影退散」の顔は十分に笑われ、飽きられ、紙の端からこぼれた。こぼれた顔は、闇に落とさず、笑い話の棚へ。茶屋の娘が湯気で包み、辻占の婆が札の裏に貼る。顔の再利用だ。
次に、功の売買の筋。
番頭は叱られ、甥は指を噛み、旅籠は帳面を失くす。失くした帳面は、粉屋の湿りでじわりと滲み、字が誰のものでもなくなる。
最後に、「外法」の二字の角。
外法は甘く、角が立つ。角を折るには、同じくらい甘いものが要る。
団子だ。
焼け跡の端で、子に団子を配り、鈴を鳴らして列を作る。列は秩序だ。秩序のある場所に、外法は根づかない。
笑いながら人は言う。「白い影より、白い団子」。
それでいい。噂は糖に弱い。
昼、総司が庭で竹を振り、咳をひとつ。
「静。君に頼みがある」
「はい」
「町の“書かれないほう”の記録、少し紙に残しておきたい。壬生の子らが読める言葉で」
「承知しました」
「矢野。君も書け。君の字は、足音がある」
「字に足音?」
「ある。――短くて、骨に入る」
褒められたのか、からかわれたのか、わからない。わからないままの褒め言葉だけが、長く残る。
午後、蓮は紙を前に座った。
筆は軽い。剣の重さの後では、軽すぎる。
でも、軽いからこそ入る場所がある。
蓮は書いた。
――香具屋の皿を低くした夜。
――粉屋の樽口を湿らせた昼。
――梯子の二段目がたわんだ角。
――辻占の欠けた「与」を裏返した指。
――材木小屋の親父の手拭の重さ。
――井戸の綱の軋み。
――鈴の三度の波。
――団子の湯気の低さ。
――囮の白影の笑い。
――そして、白い袖の鼠。
名は書かなかった。書いたのは、やり方と音だ。子が読むなら、そのほうが早い。
紙は薄く、文字は短く、余白は広い。
広い余白は、夜とよく馴染む。
夕刻、町のはずれにある焼けた寺の本堂で、小さな集まりがあった。
石碑に刻まれた名を読み上げるのとは別に、名のない者たちの“数”を確かめ合う会。
僧の木魚は静かで、線香の煙は細く、泣き声は出ない。泣けば火が戻る気がするのだろう。
そこで、材木小屋の親父が言った。
「名が残らん者の名を、板に刻んだらあかんのか」
寺男が困った顔で笑った。
「板は燃えます」
「燃えたら終いか」
「燃えたら、灰になります」
「灰は、白い」
親父は首をかしげ、何かを飲み込む。
静が、板を手に取った。
「刻まない方法があります」
板の裏に、墨で“○”をつけただけの印。
「これをたくさん、残します。丸が一つ、命が一つ。名前は入れません。――灰になっても、丸は“数”で残ります」
僧は目を細め、頷いた。
親父は笑った。
「難儀やな」
「はい。夜には、よく効きます」
夜。
川辺で、静が刃を拭っていると、薄い足音が近づいた。
助け出した、あの女と子だ。
女は深く頭を下げ、子は短い棒きれを握っている。棒きれの先には、丸がひとつ。
「これ、持っててください」女が言った。
「丸は、うちの子の“いま”です」
静は受け取らず、手を合わせた。
「ここに、置いていきます。――白に」
川の白い流れは、丸を音に変え、音を輪に変え、輪を消す。
消えるまでの短い間だけ、確かだ。
「静」
「はい、矢野さん」
「お前、どこでそんな“白の使い方”覚えた」
「覚えたというより、置いてきたのを、拾い直しています」
「いつ置いた」
「物心つく前、かもしれません」
「冗談めかすな」
「はい。――でも、本当です」
静は目を伏せ、少し笑ったような、笑わないような形を作る。
笑うと輪郭が崩れる。だから、影は笑わない。
蓮は、わかったふりをやめた。わからないものは、わからないまま、体に残す。残ったものが、歩幅を半寸だけ変える。
その頃、表では、もうひとつの“名刻み”が進んでいた。
会津の役宅で、功に応じた昇給と配置換えの話。
山南の筆致は端正で、近藤の言葉はまっすぐ、土方の目は数字に厳しい。
薄い紙の端に、蓮と静の名はない。
代わりに、小さな印がある。
“白”。
土方が後で、ぽん、と蓮の背を叩いた。
「文句がある顔だな」
「顔でわかります?」
「顔でわかる。紙は表情を持たねぇが、人間は持つ。お前は、持ちすぎる」
「直る気がしませんよ」
「直すな」土方は短く笑う。「直したら、お前の“前の手前”が死ぬ」
「……褒められてるんですか、それ?」
「知らん」
褒め言葉は不親切なほうが、長持ちする。
翌日、石碑の脇に小さな木札が増えた。
丸がいくつも、いくつも。
名はない。
数だけが立っている。
数は、嘘をつかない。
蓮は木札の前で立ち、指で丸の輪郭をなぞる。
輪郭の感触は、刃の背に似ている。刃の背は、斬らないためにある。
「静。……俺、ここに自分の丸を書きたい」
「どうぞ」
「でも、書かない」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「すみません。――でも、本当です」
夜、稽古場。
竹の音が三つ、乾いて鳴る。
静は半寸、間を詰め、半寸、下がる。
蓮は“前の手前”を長く取る。
「矢野さん。――しばらく、“前の手前”は長いままで」
「まだ長くすんのか」
「はい。名の“戻り火”は、息が長いです」
「世界の足を引っ張る役、飽きないな」
「矢野さんのためだけに、です」
竹の先が低く、夜の骨に、また半寸の音が刻まれた。
◇
名を刻む者、名を消す者――両者は、思いがけないところで交わる。
焼け跡に新しく建つ長屋の棟上げの日、表の名が揃い、裏の手が集まり、人の手が梁を持ち上げる。
棟札に名前が連なる。大工、施主、寄進の名。
そこに、ひとつ、白い余白が残っていた。
大工が首をひねり、筆を止める。
「ここ、空けとけって言われてる」
「誰の名だ?」
「名は、ない」
静が一度だけ、その余白に筆を置いた。
墨は乗らない。
代わりに、指の腹で“○”をひとつ。
蓮は笑った。
「丸は、音になる」
「はい。――鈴の音です」
鈴が鳴る。
人が笑う。
笑いの骨は、夜を支える。
その晩、総司が川辺に降りてきた。
咳は少し長く、笑いはいつもどおり短い。
「静。――君は名を消す、と言うけれど」
「はい」
「消すものは、元に“名”がある。……君は、もともと名を持っていたのかな」
静は答えない。
川の音が代わりにしゃべる。
答えないことが、時に正しい。
総司は頷き、蓮を見た。
「君も……名に縛られるな」
「縛られたこと、ないさ」
「嘘をつけ」
蓮は笑い、石を投げる。輪が三つ、四つ。
「じゃあ、縛り方を覚える」
「ほどき方も、ね」
総司は咳をひとつ置き、帰っていった。
背の線は、光だ。
光の線には、影の釘が一本打たれている。視線だ。
静は、視線を背に受け、少し肩を落とした。
落とすのは、疲れではなく、形だ。形を半寸だけ崩すと、夜は壊れない。
最後の“戻り火”は、不意に来た。
蛤御門の脇の石碑に、誰かが夜中に墨で汚い字を書いた。
「白影、外法」。
太い、幼い、怒りの字。
見つけたのは子どもだった。
「おにいちゃん、ひどい」
蓮は歯を食いしばった。
「静。……これは、消すのか、残すのか」
「消します」
「すぐ?」
「はい。遅らせると、紙に乗ります」
井戸の水をバケツに汲み、布を濡らし、墨をこすり、字を崩し、黒を灰にする。
子が石で井戸の足を叩いた。
カン、と良い音。
良い音が、怒りをほどく。
消したあと、静は石碑の前にひとつ、丸を書いた。指で。
「“いま”の丸です」
蓮は頷いた。
「いま、か」
「はい。名より、強い時があります」
名は未来へ伸びる。丸は、現在に立つ。
現在が強い夜は、火が遠い。
◇
最後の夜、蓮は日記を閉じた。
ページの余白は広い。
広い余白は、夜の色。
そこに、短く置いた言葉が骨へ沁みる。
――名を刻む者は、表へ道を作る。
――名を消す者は、裏へ道を戻す。
――道は、町を太らせる。
――太った町は、刃を折らない。
――折れない刃は、遅い。
書き終えて、蓮は立ち上がる。
「行くぞ、静」
「はい、矢野さん」
「今夜は?」
「北です。“眠る影”を起こさないように」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
二人は並んで歩いた。灯の低いほうへ、骨の音が小さく鳴る道へ。
白い袖は鼠に沈み、鼠の影は白に広がる。
京の石は、二人の半寸の重みを今日も正しく受け止める。
紙は紙で、石は石で、夜は夜で。
名は太り、丸は残り、鈴は鳴り、綱はきしみ、団子は甘く、欠けた「与」は裏返っている。
そのすべてが、京の骨だ。
名を刻む者も、名を消す者も、その骨を支えている――それが、禁門の後に二人が手の中に残した、たったひとつの“正しさ”だった。



