名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 禁門の変は、紙の上では一日で終わった。
 けれど、燃え跡の匂いは日付を跨ぐ。赤黒い梁は日陰でまだ温かく、人の声はどこか乾いている。勝利の声も、嘆きの声も、煤を吸うと同じ高さになるのだと、京は初めて知ったのだろう。

 瓦版は早い。
 「長州敗走」「蛤御門を死守」「薩会協力の大功」「壬生狼、再び京を救う」。
 太い見出しは小豆色のインクで踊り、店先にぶら下がる。言葉は太るほど安心を売る。買われた安心は、夕方にはすり切れる。人が眠るのは、安心がすり切れたあとの疲れだ。

 表の紙の端で、名前は整列する。
 近藤勇。土方歳三。西郷吉之助。松平容保――。
 名は太く、書は新しい。
 だが、焼け跡の奥で、低い鈴の名はどこにも載らない。灯の高さを半寸、噂の角を半寸、刃の出足を半寸……そんな“半寸”で支えられた夜は、余白に積もっていく。余白は、誰も数えない。

 矢野蓮は、余白の端で膝を伸ばしていた。
 川べりの石に背を預け、干からびた魚のように息を吐く。鼻の奥はまだ焦げている。
 視界の端に、助け出した女と子が見えた。女はぎこちない礼の角度で頭を下げ、子は井戸の足を石で叩く。カン、と良い音。良い音は紙にならない。紙にならないものだけが長持ちする、と静が言ったのを思い出して、蓮は舌打ちを一度、軽くした。

「俺たちは……何のために戦ったんだ」
 水へ向けた問いは、自分の胸に戻る。
 隣で白い袖――いや、煤で鼠に沈んだ袖が小さく動いた。
「名を残すためじゃありません、矢野さん」
「お前は、すぐそれだな。名は光のもんで、俺らは影? 影に意味はあるのかよ」
「はい。影は、名を動かします。縛られているのは、いつだって光の側です」
「縛られずに済むって、そんなに偉いか?」
「偉くないです。――でも、使いやすいです」
「言い方よ」
「矢野さんのためだけに、ですよ」

 軽口の形で、刃の理屈を差し出す癖。怒りは湯気のように一度高く上がり、すぐ低く立ち直る。蓮は腕を組み、空をにらむ。空にはまだ夜の端が引っかかっている。
 名を刻む人間は、たぶんその端を“朝”にする技を持っている。名を消す側は、夜の端を夜のまま保つ。どちらが正しいという話ではない。どちらが長く続くかというだけだ。その見立てが、胸の中で石みたいに転がる。

     ◇

 禁裏の北で、「戦勝のご挨拶」が始まった。
 表の事は早い。勝ったほうが集まり、負けたほうは遠くで煙になる。近藤は綺麗に拭った羽織で立ち、土方は少し遠くから全体の距離を測る。総司は笑う。咳は短く、笑いは薄い。
 会津の役宅の前で、松平容保の近習が礼を述べ、薩摩の使番が言葉を交わす。瓦版屋が更に太い筆で紙を擦り、町人がそれを覗き込む。
 その輪の、外。
 静と蓮は、数歩だけ離れて立っていた。
 土方が目だけで呼ぶ。
「表は俺が受け取る。裏は白に残せ」
「承知」
 静の返事は短い。短いものだけが、忙しい場で意味を持つ。

 裏は、すぐ動く。
 香具屋、粉屋、辻占、材木小屋、茶屋の娘。返らない借りは薄い金と手拭と、いくつかの“名のない口約束”で積まれる。
 香具屋の皿は更に低く、粉屋の樽口は湿りを増し、梯子の二段目のたわみは別の角へ移された。辻占の札の裏には、欠けた「与」。
 静は頭を下げる。
 蓮は、数を覚える。
 覚えながら、喉の奥で何かが引っかかるのを認める。功の紙に並ぶ名の外で、自分の歩幅が半寸ずつ短くなる。短い歩幅は夜を壊さない。壊さない代わりに、どこにも刻まれない。

 その夜、壬生の屯所で小さな宴が開かれた。
 勝った夜の酒は軽い。軽い酒は長持ちしない。
 近藤の盃はまっすぐ、土方の盃は薄い。総司の盃には笑いが浮かぶが、底で小さく咳が沈む。
「池田屋に続く大功――だそうだ」
 近藤が照れ臭そうに笑う。
「太い字で刷ってもらえ。紙は棚で重みになる」土方は言う。「お前の“名”は表で太らせろ。裏は、俺たちで持つ」
 総司が蓮と静を見る。
「君たちの“横”は、今日もよく効いた」
「ありがとうございます」静が頭を下げる。
 蓮は盃を傾け、喉の奥の石を酒で洗う。
「なぁ近藤さん、功の書付ってのは、どのくらい正確なんだ」
「正確にする努力はするさ」
「“努力”か」
 土方が横目で笑った。
「紙は表情を持たねぇ。だから、読む側の顔で意味が変わる」
「顔で変わるなら、最初の顔を決める奴が一番強いな」
「だから俺がいる」
 土方は盃を置き、半紙を一枚、蓮の前へ滑らせた。そこには細い字で、人名と地名と“裏の仕様書”が並ぶ。
「名を並べるとき、空白は計算しておく。お前と静の“無名”は、計算済みだ」
「そっちは、太い字にする気はさらさら無いってことか」
「無い。お前らの名が太くなったら、俺の紙が破れる」
 理はある。腹は立つ。
 蓮は盃を空け、半紙を折って懐に入れた。折り跡が指先に残る。残るものは、名ではない。

     ◇

 翌朝、噂がひとつ、妙な形で膨らんだ。
 「白い影は北に立つ」。子どもの日記みたいな三行が瓦版の端に刷られたせいで、紙の顔を得たのだ。顔を得た噂は、だいたい悪く育つ。
 「白い影の正体は会津の忍び」「薩摩の密偵」「京に棲む幽霊」「新選組の外法」。
 外法――この二字は、人を楽しませ、人を殺す。
 蓮は眉間を押さえた。
「静、俺らの仕事、噂の角が立ちすぎてんだろ」
「はい。角度は落としておきます」
「どうやって?」
「顔を、つけます」
「は?」
「“白い影”に、顔をあげます。偽物で、かすれた顔です」
「それは……つまり、囮の誕生?」
「はい。噂は顔を得ると、弱くなります」
「お前、ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 囮の顔は、裏木戸の奈落の舞台で整った。
 茶屋の娘が咳払い、辻占の婆が笑い、材木小屋の親父が首をかしげる。
 白い木綿を軽く染め、鈍い鼠にして袖を長めに垂らす。背に短い刀、大げさな白粉。
 顔が濃いほど、噂は薄まる。
 夜の路地で、囮は二度ほど鈴を鳴らし、半端な剣の音を出して見せた。瓦版屋は喜ぶ。
 翌日の端物には、「白影退散」の四字が踊り、読者は満足し、疑いは笑い話へ退く。
 笑い話に退いた噂は、牙を失う。
 牙のある噂は、いずれ表の首に届く。首に届けば、裏の“余白”は紙の都合で黒く塗りつぶされる。
 静は、紙で消されるのを一番嫌う。自分の刃で消す者だからだ。

 だが、噂には噂の“先”がある。
 囮の顔を作ったその夜、別の噂が小さく生まれた。
 「功の書付、金で売買」。
 火の翌日、誉れの席に名前を割り込ませるため、金と口利きが見えない場所で動いている――そんな耳打ちだ。
 蓮は半笑いで静を見る。
「ほら、名は人を縛る。縛るから、売れる」
「はい。名に、値段がつきます」
「俺は買わないぞ」
「買わせません」
 静は淡く言って、夜の地図を頭に広げた。
 噂の根は意外と浅い。浅い根の先で、紙と金を橋にして人の名を移動させているのは、商家の番頭と、町年寄の甥と、旅籠の帳付けだった。

 それからの二夜は、剣より筆の音が多かった。
 帳尻を半寸ずらし、裏書きを一字消し、書付の順序をすり替え、瓦版屋の版木を“ちょっと”欠かせる。欠けた字は、太い見出しから滑り落ちる。
 最後の“押し”は、噂の顔を別の顔に移すこと。
 囮の白影に、わざと下手な押形の印まで持たせて、町年寄の甥の懐へ潜らせる。甥は拾い、面白がって、見せびらかす。見せびらかすと、顔は安くなる。
 安くなった顔は、いつか忘れられる。

「静」
「はい」
「俺ら、本当に剣客か?」
「はい。今夜は、筆のほうが斬れますけど」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

     ◇

 功の書付は、予定どおり表に出た。
 名前が並び、順序が決まり、薄い金がまわり、笑いが出た。
 近藤の名は太く、土方の名は端で薄く鋭く、総司の名は白い歯のように明るい。
 薩摩と会津の名は肩を並べる。
 新選組の羽織は青に戻り、町の子は“狼”の真似をして走り回る。
 狼の真似は簡単だ。名前を呼べばいい。
 影の真似は難しい。足音を消し、灯を下げ、鈴を鳴らす場所を覚え、噂を曲げ、紙を欠かせ、名を移し、最後に自分の爪痕を拭う。
 蓮は、そこで初めて、拭い残しをひとつ見つけた。

 拭い残しは、石碑だった。
 蛤御門の脇に、新しい小さな碑が立つことになったのだという。戦勝の証。捧げられた者の“名”。
 石に刻む名は、紙より強い。紙は棚で眠るが、石は風で眠る。眠っている間に、誰かが触る。触らせるために刻む。
 蓮は袖をつかまれたような気になった。
「静。……石には、噂は効かねぇよな」
「はい。石は、堅いです」
「俺は、少し……いや、かなり、腹が黒い」
「残してください」
「残す?」
「はい。忘れない場所に置くと、刃は遅れます」
「遅れ、遅れってさ」
「遅れのぶんだけ、人が生きます」
 飽きたやり取り。それでも身体に入る。

 石の前に人が集まり、名が読み上げられた。
 蓮は、人垣の後ろで立ち、“刻まれないもの”を数えた。
 井戸の綱の軋み。
 鈴の波。
 団子の湯気の低さ。
 梯子の二段目のたわみ。
 香の皿の陰。
 粉屋の湿り。
 辻占の欠けた「与」。
 材木小屋の親父の手拭。
 囮の白影の笑い。
 そして、白い袖の鼠。
 これ全部、石の字には入らない。入らないけれど、同じくらい堅い。
 蓮は、石を睨む代わりに、懐の半紙を取り出した。土方から渡された“裏の仕様書”。そこに、自分で小さく書き足す。
――名を刻む者は、紙と石に呼吸を渡す。
――名を消す者は、夜と余白に呼吸を置く。
――どちらも、呼吸だ。

 石に刻まれた名は、人を従える。
 余白に置かれた名は、人を動かす。
 違いは、たぶん、速度だ。石は遅く、余白は速い。けれど、静はいつも言う。
「遅れが、合図になります」
 蓮は鼻を鳴らし、半紙を二つ折りにして懐へ戻した。折り目が、確かな痛みを残す。痛みは、忘れない場所だ。

     ◇

 夜、川辺。
 水は冷たく、空気はまだ焦げている。
 静は石に腰を下ろし、刃を研いでいた。研ぎ石の面が薄く鳴る。刃の背を一度、水にくぐらせる。刃は濡らさない。
「静。……なぁ」
「はい」
「名を刻む奴と、名を消す奴。どっちが、生き残ると思う?」
 静は研ぎを止めず、淡く応える。
「“生き残る”は、いくつも意味があります。紙の上、石の上、夜の上、誰かの背の上」
「じゃあ、お前はどこに残る」
「矢野さんの視線に」
「それ、反則」
「すみません。――でも、本当です」
 蓮は俯き、笑って、石をひとつ拾った。川へ投げる。輪が三つ、四つと広がり、すぐ消える。
「俺は、川に残したい」
「いい場所です。流れて、沈んで、音になって、誰も数えません」
「だから、お前は悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 名を刻む者、名を消す者。
 石碑の夜には、両方の影が揺れる。
 太い字に頭を下げる背中と、灯を低くする指先。
 どちらも、京の骨を支えている。
 蓮は眼を閉じた。まぶたの裏の赤は薄く、白が増えている。白は夜の色だ。白い余白に、今夜も半寸の記憶を置く。
 そして、開いた眼で静の横顔を見た。
「明日は?」
「北です。“白い影は北に立つ”――眠らせた噂を、起こさないように」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
 蓮は立ち、柄を握った。
 夜の骨に、二人分の半寸の音が、正しく刻まれていく。