名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 朝が来ても、京の空には夜の端が引っかかっていた。
 禁門の変――紙の上ではもうそう名づけられ、数字とともに整列し始めていたが、路地の匂いはまだ名前を持たない。焼け焦げ、濡れ縄、煤、湯気。名がつく前の世界には、手が要る。名のない手が、余白を支える。

 土方は端的だった。
「表の戦は終息へ向かう。だが“焼け落ちる京”は今日が本番だ。裏は火の“先”と“戻り”を断て」
 “戻り”。火は一度燃えた筋をもう一度舐める。噛み癖のある獣のように、同じ角を狙う。
 静は地図の代わりに、昨夜の足の裏の記憶を辿った。香具屋、粉屋、辻占、材木。どの“道具”がどれだけ働いたか、どこに“疲れ”が出たか。
「矢野さん。――灯をさらに半寸、下げます。噂は、“白い影は北に立つ”から“北に立ったまま、動かない”へ」
「動かない、ね」
「はい。“ない”ほど、動きます」
「相変わらず悪い理屈だ」
「夜にはよく効きます」

 午前、三条の焼け跡で、瓦版屋が版木を洗っていた。墨と煤は兄弟だ。兄弟を洗うと、紙が薄くなる。薄い紙は、余白を増やす。
「兄さん、“白い影”続きは?」
「字は太くならん。――せやけど、子どもはよう覚えてる」
「なら、子どもの字で書け」
「商売にならへん」
「町は、なる」
 瓦版屋は笑い、肩を竦めて、子の短い“えにっき”を一枚、紙の端に刷った。『しろいかげ きたにいる すずがなる』。
 その三行が、噂の角を柔らかく残した。

 堺町の細い筋で、静は“戻り火”の足を待った。
 火付けの束ね――痩せた男は、井戸の綱を一度握った手で今日も現れた。袖の油の匂いは薄く、目の焦りは消え、代わりに何か、置き場所を探すような空白がある。
「幽霊」
「幽霊は、子どもがとるものです」
「なら俺は、綱を。また、持てるか」
「はい。あなたの手には、跡が残っています」
 男は手の平を見た。縄の跡は消えかけ、消えきれず、皮膚の中で白い筋になっている。
「火を付けたら、俺は楽だ」
「はい。――でも、誰も、楽にはなりません」
 静は一歩、近づかない。距離を刃にする。刃になった距離は、人の決心を半寸、遅らせる。
 男はうなずき、背を向け、井戸のほうへ歩き出した。
 蓮は息を吐いた。
「静。……救ったのか、ただ“遅らせただけ”なのか」
「はい。どちらでも、ありません」
「またそれか」
「今日、綱を持つ。それで十分です。明日は、明日の遅れを置きます」
「世界の足を引っ張る役、だな」
「矢野さんのためだけに、です」

 昼前、会津からの使者が新しい指示を持ってきた。禁裏の外は追撃、内は鎮火。新選組は内へ振り分けられ、青い羽織は水で鼠色に濡れた。
 総司は咳をひとつ、笑いをひとつ。
「静。君の“横”は今日も効く。――矢野、君の“前の手前”は、火の前でも効く」
「効くなら、直さない」
「直さないで、長生きしろ」
 笑いは短い。短いものだけが、戦のあとに残る。

 午後、材木小屋の親父が背を丸めてやってきた。
「わしの木、ええ仕事しよる」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。……あんたら、“名”は残らんのか」
「はい。要りません」
「寂しかろ」
「矢野さんが、覚えてくだされば」
 親父は目を丸くし、やがて笑った。
「難儀やのう」
「はい。夜には、よく効きます」
 親父は手拭を差し出した。煤を吸って重い手拭だ。返らない借りが、また一つ、白に積もる。

 夕刻、雨が一しずく落ちた。
 黒い煙がわずかに薄まり、焦げの匂いが土に沈む。雨は少ないのに、町の息は深くなる。
 その隙に、戻り火が一つ、牙を剥いた。
 辻の角で火花。
 静はそこで初めて“斬った”。
 刃は低く、短く、速かった。
 喉ではない。声の前の空気。
 倒れた影の手から火打石が滑り、泥に埋もれる。
 蓮は刃を下ろし、静の袖を掴んだ。
「静。……お前も、揺れるのか」
「はい。――半寸だけ」
「半寸?」
「揺れないと、折れます」
 静は袖の内側を見せた。薄い赤が一本、細く続く。広がりは遅い。
「医者」
「行きません」
「行け」
「名がつきます」
「名がついてもいい」
「今は、だめです」
 静は帯を締めなおし、灯を一つ、低くした。

 夜の入口、町人が集まって小さな露店が並んだ。焼け跡のとなりで、団子が柔らかい匂いを出す。甘さは夜を一時、忘れさせる。
 蓮は団子を二本買い、一本を静に押し付けた。
「食べな」
「ありがとうございます」
「“斬らない腹の持たせ方”だ」
「はい。矢野さんの理屈は、悪くて、美味しいです」
「褒めるな」
 団子の串は硬く、餅は柔らかい。硬いものが形を持たせ、柔らかいものが人を集める。
 集まった人の足は、火の餌になる。だから、鈴を一度、鳴らした。群れに“合図”を与えれば、流れは細分される。

 その夜、静はひとりで裏長屋に寄った。
 昨日、井戸の綱を握った痩せた束ね――男は暗い部屋で座っていた。
「また来たのか、幽霊」
「幽霊は、子どもがとるものです」
「俺は何を取る」
「綱を」
「綱で、俺は償えるか」
「償いは、紙になります。――綱は、余白に残ります」
 男は黙り、やがて笑った。
「紙は燃える」
「余白は、燃えにくいです」
「理屈ばかりだな」
「夜には、よく効きます」
 静は小さな包みを置いた。米と薄い金と、欠けた「与」。
「借りは、ここに置いていきます」
「返せるのか」
「返せません。だから、持っていてください」
 去ろうとすると、男が言った。
「名を教えろ」
「要りません。――白で」
 白は夜の色。夜の色は、朝になると消える。消えるものだけが、長持ちする。

 明け方の川辺で、蓮は日記を開いた。
――白は夜の色。
――白に置いたものは、翌朝も残る。
――名が太るほど、余白を広げろ。
 筆は、前より揺れない。揺れない字は、骨に入る。骨に入った字は、歩幅を変える。

 禁門の変は、紙に落ち着いた。
 「三万戸焼亡」。
 紙は太い。太い紙は棚を軋ませ、名を並べ、功と敗を並べる。
 静と蓮の名は、どこにもない。
 ないことは、余白だ。
 余白は、夜の資本だ。
 土方は紙を畳み、短く言った。
「誉は紙に渡した。裏は白に残せ」
「承知」
 静が頭を下げ、蓮は肩を回す。肩の骨には、静の指で打たれた軽い釘がまだ残る。
「静。……俺、まだ腹の中が黒い」
「はい。黒は、残しておいてください」
「残す?」
「忘れない場所に置くと、刃は遅れます」
「遅れ、遅れって」
「遅れのぶんだけ、人が生きます」
 蓮は鼻を鳴らした。
「お前、ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 総司が咳をひとつ、笑いをひとつ。
「静。君の白は、今夜も鼠だ」
「はい。灯の外では」
「灯の内では、紙だ」
「紙は、いつか破れます」
「破れたら、また貼ろう」
 春の冗談が夏の熱の上で薄く揺れ、風で千切れて水面に落ちた。輪が広がる。すぐ消える。
 静は笑わない。笑わないことで、余白が保たれる。
 蓮は笑う。笑うことで、骨が柔らかくなる。柔らかい骨は、折れない。

 町は、焼けながら形を取り戻す。
 井戸の足を子が石で叩く。良い音がする。
 良い音は、紙にならない。
 紙にならないものだけが、長く残る。
 香具屋の皿は低く、粉屋の樽口はゆるく、梯子の二段目はまだ“たわみ”を抱いている。
 それらの“置きもの”が、次の夜の遅れを保証する。

 夕暮れ、静は言った。
「矢野さん。――“白い影は北に立つ”を、今夜は“北に立ったまま眠る”にします」
「眠るのか」
「はい。眠る噂は、足を引っ張ります」
「世界の足を引っ張る役、やっぱりお前だな」
「矢野さんのためだけに、です」
 二人は歩き出した。灯の低い方へ、骨の音が小さく鳴る道へ。
 白い袖は鼠に沈み、鼠の影は白に広がる。
 京の石は、二人の半寸の重みを、今日も確かに受け止めていた。

 ――焼け落ちる京は、名を失い、余白を得た。
 名を失った場所には、人の手が入る。
 鈴が鳴り、桶が走り、綱が軋み、団子の湯気が低く立ち、瓦版の端に子の字が刷られる。
 そのすべてが、紙の外に積もっていく。
 紙の外側で夜が持ち上がり、持ち上がった夜の上を、二人が半寸ずつ歩く。
 足音は良い。
 紙にならない、正しい重みがある。

「行くか、静」
「はい、矢野さん」
「今夜は」
「北です。“眠る影”を、起こさないように」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
 二人は、灯の低い方へ消えた。
 消えるときだけ、白い袖が鼠になって、ほんの少し揺れた。
 その揺れを、京の石は覚えている。明日も、明後日も――名が変わっても、炎の色が変わっても。