七月十九日の昼は、空に夜の骨が浮かんでいた。
蛤御門のほうから砲声が低く太く続き、銃声の細い針がそのあいだを縫う。御所の塀を打つ鉛は土を跳ね、跳ねた土が人の頬に乾いた冷たさを残した。京は紙になり、火は筆になり、誰かの手が乱暴に書いている――そんな日だった。
だが、人の記憶に刻まれるのは、字ではなく色だ。
最初の炎が屋根の裏で舌を出すと、噛んだのは町だった。長州の衆が劣勢と見るや、町家の鴨居に火を入り、裏木戸に油が撒かれ、逃げ惑う声が“通り”を一気に狭くする。三条の屋根、堺町の梁、下立売の角――火は場所の名を覚えず、ただ燃えるものを選ぶ。瓦が落ちる音が、太鼓のように通りに響いた。
矢野蓮は、熱の中にいた。
火の粉が髪に降り、呼吸は短く、目の端の赤がじわりと広がる。目の前で家が傾ぎ、柱に挟まれた女が声にならない声を出した。蓮は飛び込み、肩と腰で柱を押し、女の袖を引いた。木が軋み、熱が皮膚に噛みつく。体が火に近づくほど、音が遠くなる。
女が抜ける手応えと同じ瞬間、背後で別の家がぐずりと沈んだ。老人の白い髷が一度、炎に浮かび、そのまま飲み込まれた。
蓮は一歩、火へ出ようとした。
背から、白い袖の感触が袖をつかむ。
「戻ってください、矢野さん!」
静の声はいつもの淡い平板。だのに、刺さる。
振り返った蓮の視界に、火の陰から飛び出した影が迫った。刃が揺れる。蓮は女を背中で庇い、水平に打ち払う。火の粉が刃の線に沿って散り、相手の肩口が崩れた。静はその隙に女と子を裏筋へ導く。迷いがない。怒りも嘆きもない。
「人を救うのも、刃を振るうのも同じです。残るのは“影”だけです」
「……お前、ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
影は、足の裏で町を支える。
火の筋には必ず“源”がある。火打石の音、油の匂い、短筒の口の高さ。静はそれらの“前の手前”を狙って歩き、蓮はその半身に並ぶ。
裏木戸の角で、火打ちを構える若い者を見つけた。蓮は柄で喉の前の空気を押さえ、刃を壁に向けさせる。声が出なくなると、群れは育たない。静はその手から火打石だけを抜き取り、油紙を土に押し付けた。泥が油を食う。
「次」
静の声は短い。短い声は、熱に溶けずに残る。
午後、堺町の細い路地で、蓮は“あの”痩せた束ねに出会った。油の匂いを袖に従えた、火の束ね。池田屋の夜をこぼれ落ちた者。昨日、噂を見透かす目をしていた男だ。
「白い影――北に立つ、ってのはお前の遊びか」
火の前に立つ白は、鼠色に沈んで見えた。
「噂は盾です」静は首を少し傾ける。「刃は最後に」
「最後まで、行けると思うなよ」
束ねは低く踏み込み、逆手の刃で膝を狙う。
静は半寸、横に。砂を一息だけ上げ、刃の角度を耳で読む。
蓮は“前の手前”で鯉口を鳴らし、音をひとつ置いた。束ねの目が音へ触れる。触れた目に、静の白が鼠のまま滑る。耳の下の風を切られた男は、立ったまま一呼吸、止まった。
静は斬らない。斬らないまま帯の端を軽く叩く。男の膝が、ほんの半寸、折れる。
「通りたければ、桶を持ってください」
「……なに?」
「綱は井戸にあります」
束ねの目が怒りでなく、妙な明るさで揺れた。何かが揺れた目は、火を忘れる。
しかし、炎は待ってくれない。
三条の角で屋根が崩れ、川には梁が流れ出す。流木が橋脚に引っかかり、火の子が川面を走る。蓮は水に足を入れ、浮かぶ板を押し戻した。冷たい。冷たいのに、鼻の奥は焦げの匂いでいっぱいだ。
押し戻した板の向こうで、子が泣かないでこちらを見ていた。泣けないほど熱いと、子は黙る。
「静。……俺、どうすりゃいい」
「遅らせます。――火を、噂を、刃を」
「世界の足を引っ張る役かよ」
「はい。矢野さんのためだけに、です」
暮れには、京の空は赤の裏側の色になっていた。
川面で、蓮は膝をついた。手の震えは止まらない。掴んだ袖の布が、汗で重い。静は隣に立ち、空を見ている。
「今日のことも紙になります。――でも、僕らの名は書かれません」
「それでも……俺たちは、いた」
「はい。矢野さんが、覚えてくだされば」
寺の鐘が遅れて鳴った。遅れは合図だ。灯を下げる時間の合図。
静は短く言った。
「今夜、北へ。――“白い影は北に立つ”を、本当にやります」
「噂に乗るのか」
「噂に乗せます」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
その夜さらに火は広がった。堺町、三条、下立売――地名が熱で歪んで耳に入る。長州の本隊が戻る、という囁きが裏筋を走った。逃げる浪士を捕えて短刀を喉に押し当てると、男は歯を見せて吐く。
「明朝には戻る。お前らの青は、黒になる」
静は一閃で声を奪った。喉の前の空気が切れ、言葉が立ち上がらない。
「命まで奪わなくても――」蓮の声は掠れた。
「声が漏れれば、また火が広がります」
理はある。だが蓮の胸に残ったのは、赤ではなく黒かった。救っているのか、消しているのか。問いは熱を孕んだまま、答えのない場所で燃え続けた。
町は、焼けながら眠る。燃える筋の外側に、浅い眠りが点々とあり、眠りの骨に鐘の音が細く通る。
静は灯を半寸、下げに回った。香の皿、濡れ縄、梯子の二段目。小さな“たわみ”と“低さ”が、炎に遅れを置く。
蓮は“前の手前”で立ち、通りの流れを二筋に分ける。人の流れは火の餌だ。餌を小分けにすれば、炎は腹を壊す。
白い袖は鼠に沈み、鼠の影は白に広がる。京は、半寸ずつ、生き延びる形を覚えはじめていた。
そのとき、遠くの空気が変わった。
蛤御門の音がひとつ深く、長く、黒い。薩摩の砲列が息を同じにし、会津の列が前へ出る。禁裏の扉は、名を音に変えて夜へ放った。
長州は外に退く。
退いた足は、町の奥で、最後の火を狙う。
静が言った。
「“先”を切ります。――矢野さん、鈴を」
蓮は三度、鳴らした。鈴の波が裏筋を往復し、桶が走り、井戸の綱が軋み、子の足が井戸の台を叩く。良い音だ。紙にならない音だけが、夜の骨を太らせる。
火の束ね――あの痩せた男が、もう一度、目の前にあらわれた。
目は深く、焦りの明るさが消えている。代わりに、空白のような静けさが乗っていた。
「白い影。……今日で終いにしてやる」
静は帯を撫でた。
「終いは、あなたの噂です」
男は笑い、刃を低く構える。
その時、子の石が井戸の足を叩いた。
カン、と良い音がした。
男の目が一瞬だけ揺れた。
静は入らない。入らず、距離を置いた。距離が刃になる。
蓮が音を置く。
静が風を押さえる。
男の膝が、半寸、折れる。
折れた男の手に、静は何も乗せなかった。ただ、視線を置いた。
「綱を、持ちますか」
男は唇を噛み、刃を地に置いた。
それが救いかどうかは、誰にもわからない。わからないままのことだけが、長く残る。
夜の底、川の縁で、蓮は刃の“背”を濡らした。刃は濡らさない。忘れない場所にだけ、水をやる。
「静。……俺は、斬ってるのか、止めてるのか」
「はい。どちらでも、ありません」
「もう、その“どちらでもない”は聞き飽きた」
「“遅くした”んです」
「遅くして、何が残る」
「呼吸が、ひとつ」
寺の鐘が、また遅れて鳴いた。遅れは合図だ。次の手の合図。
京の空にはまだ赤があり、赤の下では、白が増えていた。白は夜の色。白い余白は、火が届かない場所。
静はその余白に、今夜も半寸の記憶を置いた。
――禁門の炎は、まだ消えない。
だが町は、燃えながら動くことを覚え、動きながら眠る術を覚え、眠りながら鐘の遅れを合図にした。
名は紙に太く残り、影は白に薄く積もる。そのどちらも、京の骨を支えていた。
そして夜明け前、土方の声が短く落ちる。
「表は引く。裏は残れ。――焼け落ちる京の“先”を、もうひとつ切れ」
「承知」
静が頷き、蓮が柄を握り直す。
朝の風は灰の匂いを薄く運び、川の水は冷たく、子の石は良い音を出した。
良い音は、紙にならない。紙にならないものだけが、次の夜を持ち上げる。
蓮は静の背に視線を置き、世界の足を半寸、引っ張る覚悟を新しくした。
「行くぞ、静」
「はい、矢野さん」
「今日は、どっちだ」
「北です。“白い影は北に立つ”――噂に、乗らせます」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
二人は灯の低い方へ消えた。白い袖は鼠に沈み、鼠の影は白に滲んだ。京の石は、その半寸の重みを、今日も確かに覚えた。
蛤御門のほうから砲声が低く太く続き、銃声の細い針がそのあいだを縫う。御所の塀を打つ鉛は土を跳ね、跳ねた土が人の頬に乾いた冷たさを残した。京は紙になり、火は筆になり、誰かの手が乱暴に書いている――そんな日だった。
だが、人の記憶に刻まれるのは、字ではなく色だ。
最初の炎が屋根の裏で舌を出すと、噛んだのは町だった。長州の衆が劣勢と見るや、町家の鴨居に火を入り、裏木戸に油が撒かれ、逃げ惑う声が“通り”を一気に狭くする。三条の屋根、堺町の梁、下立売の角――火は場所の名を覚えず、ただ燃えるものを選ぶ。瓦が落ちる音が、太鼓のように通りに響いた。
矢野蓮は、熱の中にいた。
火の粉が髪に降り、呼吸は短く、目の端の赤がじわりと広がる。目の前で家が傾ぎ、柱に挟まれた女が声にならない声を出した。蓮は飛び込み、肩と腰で柱を押し、女の袖を引いた。木が軋み、熱が皮膚に噛みつく。体が火に近づくほど、音が遠くなる。
女が抜ける手応えと同じ瞬間、背後で別の家がぐずりと沈んだ。老人の白い髷が一度、炎に浮かび、そのまま飲み込まれた。
蓮は一歩、火へ出ようとした。
背から、白い袖の感触が袖をつかむ。
「戻ってください、矢野さん!」
静の声はいつもの淡い平板。だのに、刺さる。
振り返った蓮の視界に、火の陰から飛び出した影が迫った。刃が揺れる。蓮は女を背中で庇い、水平に打ち払う。火の粉が刃の線に沿って散り、相手の肩口が崩れた。静はその隙に女と子を裏筋へ導く。迷いがない。怒りも嘆きもない。
「人を救うのも、刃を振るうのも同じです。残るのは“影”だけです」
「……お前、ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
影は、足の裏で町を支える。
火の筋には必ず“源”がある。火打石の音、油の匂い、短筒の口の高さ。静はそれらの“前の手前”を狙って歩き、蓮はその半身に並ぶ。
裏木戸の角で、火打ちを構える若い者を見つけた。蓮は柄で喉の前の空気を押さえ、刃を壁に向けさせる。声が出なくなると、群れは育たない。静はその手から火打石だけを抜き取り、油紙を土に押し付けた。泥が油を食う。
「次」
静の声は短い。短い声は、熱に溶けずに残る。
午後、堺町の細い路地で、蓮は“あの”痩せた束ねに出会った。油の匂いを袖に従えた、火の束ね。池田屋の夜をこぼれ落ちた者。昨日、噂を見透かす目をしていた男だ。
「白い影――北に立つ、ってのはお前の遊びか」
火の前に立つ白は、鼠色に沈んで見えた。
「噂は盾です」静は首を少し傾ける。「刃は最後に」
「最後まで、行けると思うなよ」
束ねは低く踏み込み、逆手の刃で膝を狙う。
静は半寸、横に。砂を一息だけ上げ、刃の角度を耳で読む。
蓮は“前の手前”で鯉口を鳴らし、音をひとつ置いた。束ねの目が音へ触れる。触れた目に、静の白が鼠のまま滑る。耳の下の風を切られた男は、立ったまま一呼吸、止まった。
静は斬らない。斬らないまま帯の端を軽く叩く。男の膝が、ほんの半寸、折れる。
「通りたければ、桶を持ってください」
「……なに?」
「綱は井戸にあります」
束ねの目が怒りでなく、妙な明るさで揺れた。何かが揺れた目は、火を忘れる。
しかし、炎は待ってくれない。
三条の角で屋根が崩れ、川には梁が流れ出す。流木が橋脚に引っかかり、火の子が川面を走る。蓮は水に足を入れ、浮かぶ板を押し戻した。冷たい。冷たいのに、鼻の奥は焦げの匂いでいっぱいだ。
押し戻した板の向こうで、子が泣かないでこちらを見ていた。泣けないほど熱いと、子は黙る。
「静。……俺、どうすりゃいい」
「遅らせます。――火を、噂を、刃を」
「世界の足を引っ張る役かよ」
「はい。矢野さんのためだけに、です」
暮れには、京の空は赤の裏側の色になっていた。
川面で、蓮は膝をついた。手の震えは止まらない。掴んだ袖の布が、汗で重い。静は隣に立ち、空を見ている。
「今日のことも紙になります。――でも、僕らの名は書かれません」
「それでも……俺たちは、いた」
「はい。矢野さんが、覚えてくだされば」
寺の鐘が遅れて鳴った。遅れは合図だ。灯を下げる時間の合図。
静は短く言った。
「今夜、北へ。――“白い影は北に立つ”を、本当にやります」
「噂に乗るのか」
「噂に乗せます」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
その夜さらに火は広がった。堺町、三条、下立売――地名が熱で歪んで耳に入る。長州の本隊が戻る、という囁きが裏筋を走った。逃げる浪士を捕えて短刀を喉に押し当てると、男は歯を見せて吐く。
「明朝には戻る。お前らの青は、黒になる」
静は一閃で声を奪った。喉の前の空気が切れ、言葉が立ち上がらない。
「命まで奪わなくても――」蓮の声は掠れた。
「声が漏れれば、また火が広がります」
理はある。だが蓮の胸に残ったのは、赤ではなく黒かった。救っているのか、消しているのか。問いは熱を孕んだまま、答えのない場所で燃え続けた。
町は、焼けながら眠る。燃える筋の外側に、浅い眠りが点々とあり、眠りの骨に鐘の音が細く通る。
静は灯を半寸、下げに回った。香の皿、濡れ縄、梯子の二段目。小さな“たわみ”と“低さ”が、炎に遅れを置く。
蓮は“前の手前”で立ち、通りの流れを二筋に分ける。人の流れは火の餌だ。餌を小分けにすれば、炎は腹を壊す。
白い袖は鼠に沈み、鼠の影は白に広がる。京は、半寸ずつ、生き延びる形を覚えはじめていた。
そのとき、遠くの空気が変わった。
蛤御門の音がひとつ深く、長く、黒い。薩摩の砲列が息を同じにし、会津の列が前へ出る。禁裏の扉は、名を音に変えて夜へ放った。
長州は外に退く。
退いた足は、町の奥で、最後の火を狙う。
静が言った。
「“先”を切ります。――矢野さん、鈴を」
蓮は三度、鳴らした。鈴の波が裏筋を往復し、桶が走り、井戸の綱が軋み、子の足が井戸の台を叩く。良い音だ。紙にならない音だけが、夜の骨を太らせる。
火の束ね――あの痩せた男が、もう一度、目の前にあらわれた。
目は深く、焦りの明るさが消えている。代わりに、空白のような静けさが乗っていた。
「白い影。……今日で終いにしてやる」
静は帯を撫でた。
「終いは、あなたの噂です」
男は笑い、刃を低く構える。
その時、子の石が井戸の足を叩いた。
カン、と良い音がした。
男の目が一瞬だけ揺れた。
静は入らない。入らず、距離を置いた。距離が刃になる。
蓮が音を置く。
静が風を押さえる。
男の膝が、半寸、折れる。
折れた男の手に、静は何も乗せなかった。ただ、視線を置いた。
「綱を、持ちますか」
男は唇を噛み、刃を地に置いた。
それが救いかどうかは、誰にもわからない。わからないままのことだけが、長く残る。
夜の底、川の縁で、蓮は刃の“背”を濡らした。刃は濡らさない。忘れない場所にだけ、水をやる。
「静。……俺は、斬ってるのか、止めてるのか」
「はい。どちらでも、ありません」
「もう、その“どちらでもない”は聞き飽きた」
「“遅くした”んです」
「遅くして、何が残る」
「呼吸が、ひとつ」
寺の鐘が、また遅れて鳴いた。遅れは合図だ。次の手の合図。
京の空にはまだ赤があり、赤の下では、白が増えていた。白は夜の色。白い余白は、火が届かない場所。
静はその余白に、今夜も半寸の記憶を置いた。
――禁門の炎は、まだ消えない。
だが町は、燃えながら動くことを覚え、動きながら眠る術を覚え、眠りながら鐘の遅れを合図にした。
名は紙に太く残り、影は白に薄く積もる。そのどちらも、京の骨を支えていた。
そして夜明け前、土方の声が短く落ちる。
「表は引く。裏は残れ。――焼け落ちる京の“先”を、もうひとつ切れ」
「承知」
静が頷き、蓮が柄を握り直す。
朝の風は灰の匂いを薄く運び、川の水は冷たく、子の石は良い音を出した。
良い音は、紙にならない。紙にならないものだけが、次の夜を持ち上げる。
蓮は静の背に視線を置き、世界の足を半寸、引っ張る覚悟を新しくした。
「行くぞ、静」
「はい、矢野さん」
「今日は、どっちだ」
「北です。“白い影は北に立つ”――噂に、乗らせます」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
二人は灯の低い方へ消えた。白い袖は鼠に沈み、鼠の影は白に滲んだ。京の石は、その半寸の重みを、今日も確かに覚えた。



