夜が明けきらない灰色の空に、煙の名残が薄く縞を描いていた。市の端から端まで、洗いたての布みたいに張られたその縞は、風に撫でられるたび、ほつれて、ほどけて、また結び直される。結び直しているのは人の手だ。火の翌朝にだけ現れる、目に見えない大勢の手。
御所の周りは、土の匂いが帰りつつあった。黒焦げの梁を背に、薩摩の兵が砲を掃除し、会津の列は静かに整列し直す。新選組はその端に白い息を落としたまま、命令を待つふりをして、実際は次の手を考えている。紙は後から追いつく。今、必要なのは紙の外側だ。
土方が短く告げた。
「表は一段落だ。裏は続く。――静、蓮。火の筋の“先”を潰せ」
「“先”?」蓮は問い返す。
「今夜、明日、明後日。火は一度燃えた町に、もう一度寄ってくる。寄ってくる道があるはずだ」
静が頷いた。
「承知しました。――灯、噂、鈴、全部、もう一度、低くします」
「やれ。借りは俺の名で払う」
土方の目は、紙より薄く鋭かった。
「近藤さんは表で笑ってる。総司は前にいる。俺は数字を受け持つ。お前らは、余白を保て」
余白。
静の仕事の名前は、たぶんそれだ。表の墨が太るほど、白い部分が必要になる。白を汚さず残すのは、名のない手の役目だ。
まずは辻占。札の裏には相変わらず欠けた「与」。婆は何も訊かず、ただ目で「よく生きてる」と言った。静も何も言わず、目で「返らない借りを、また借りる」と返した。
香具屋は皿をさらに半寸低くしてくれた。粉屋は樽口をゆるめ、湿り気を増してくれた。材木小屋の親父は、焦げた柱の束を、あえて路地の真ん中に寝かせておいた。逃げる足が急いている夜ほど、木はよく役に立つ。
茶屋の娘は湯気を低く盛った。噂の種は、湯気の高さで芽吹く。高い湯は声を高く、低い湯は声を低くする。声が低ければ、群れない。
「静。――あの火付の束ね、戻ってくるか?」
「はい。二度目を欲しがる目でした」
「二度目を欲しがる奴は、死ぬ」
「死なせないやり方も、あります」
「やるのか」
「やりません。今は、火です」
静の言い切りは、いつも短い。短い言葉は、長く残る。
昼を待たず、町の奥から「昨日の残り火」が顔を出した。焦げ跡の残る小路の奥、濡れ縄が乾く前に火打石が小さく星を散らす。星の音を先に聞いたのは蓮だった。
“前の手前”で、蓮はわざと鯉口を鳴らした。昨日に比べて一拍、長く。
音で振り向いた影が、反射の角度で刃を振るう。
蓮は肩をずらし、肘の内側でその角度を奪い、壁に刃の背を当てさせた。刃は背を嫌う。嫌う間に、静が足を絡めず、帯も切らず、ただ喉の前の空気に視線を置いた。
視線は刃と同じ。温度がある。温度が喉に触れると、声は出ない。
「火を消す気なら、桶を持て」蓮が低く言った。
「死にたいなら、火を持て」静が淡く継いだ。
影は動かず、やがて火打石を落とした。落ちる音は軽い。軽い音は、良い。
午後、会津からの使番が屯所へ走り込み、禁裏の戦況を短い句で伝えた。
――長州退く。
――蛤御門は持った。
――外で追撃、内は火消。
近藤は頷き、土方は数字を受け取り、総司は笑って咳を二つ。
静は命じられる前に、桶を持った。蓮は柄を背に差したまま、鈴の紐を肩にかける。
「鈴は三回。――火の筋、二筋目で止める」
「了解」
鈴を鳴らすと、裏通りの上から下まで、音の波が走る。昨日は一度だった。今日は三度。波を増やすと、動くものが増える。
動くものが増えると、炎は二度、躓く。二度躓けば、足が遅くなる。
日暮れ前、痩せた束ねが戻ってきた。昨日と同じ袖、同じ靴、同じ呼吸。違うのは目だ。焦りが混じっている。焦りは、匂いを変える。
「白い影。……今度は、噂じゃ済まさねぇ」
「噂は盾です。刃は、最後に」
静はまっすぐ立ち、帯を一度、指で撫でた。
「場所を変えましょう」
束ねは笑い、頷き、三歩下がって路地裏へ吸い込まれた。
「静、罠か」
「はい。――お互いに」
「上等」
蓮は呼吸を長くした。狭い路地、濡れ縄、二段目の梯子、材木の束。昨日、彼らが“置いて”おいたものが、そこかしこで光も音もしない準備を完了している。
束ねの足が、二段目に触れた瞬間、音のない“たわみ”が重さをずらした。刃の先が半寸、遅れる。
静は遅れの隙に入らない。入らず、距離だけを持った。距離が刃になる。
束ねはそれでも刃を繰り出す。低く、まっすぐ、速い。
静は半寸、横に滑り、柄頭で束ねの手首の骨の上を軽く叩いた。叩いて、すぐ離れる。
骨は、覚える。
二度目の刃は、やや高い。
静はやや深く沈み、袖で刃の面を撫で、角度だけ奪った。
束ねの目に、怒りのかわりに迷いが生まれる。
迷いは火に似ている。燃えるまで時間がかかる。
その時間で、蓮が“前の手前”に音を置いた。鯉口の乾いた鳴り。
束ねの足が半寸、止まる。
静は踏み込まない。踏み込んで斬れば、物語はそこで終わる。終わりは、人を納得させるが、夜を壊す。
静は耳の下の風を、指でそっと押さえた。
束ねの膝が折れる。
折れても、静は斬らない。
縛らない。
名を問わない。
「井戸の綱を持ってください」
「……は?」
「火を消す綱です」
束ねは唇を噛み、膝で地面を押し、やがて立ち上がった。
綱を持った手は、しばらく震えていた。
戦は、炎だけではない。火の翌日、町に来るのは、役人だ。書付を持ち、焼け跡に線を引き、誰がどこで何をなくしたか、紙に変える。紙に変わらないものは、余白に積もる。
蓮は焼け跡の端で、瓦版屋の痩せた背中を見た。版木を担ぎ、汗を拭き、どこか居心地が悪そうにしている。
「兄さん、昨日の“白い影”、書くのか」
「書きてぇがな。名がねぇ。名がねぇと、話は売れねぇ」
「名がねぇから、町が持つんだ」
「難儀なこと言うなぁ」
「難儀して、夜は持つ」
瓦版屋は笑い、肩をすくめた。
「ほな、“白い影は北に立つ”だけ、字にしとくわ」
「それでいい」
噂は、角を残すと長持ちする。角を落とすと甘くなり、すぐ飽きられる。
夕方、屯所に戻ると、近藤が縁で町人の礼を受けていた。子どもを抱き上げ、女房に頭を下げ、男たちと手を握る。
土方は遠くからその様子を見て、ひとつ頷く。
「名は表で太らせればいい」
そして静と蓮へ、薄い紙束を差し出した。
「裏の借り。香具屋、粉屋、辻占、材木小屋、茶屋の娘。――それから、井戸の綱を持った“あの”男に、名のない礼」
蓮は紙束を受け取り、思わず笑った。
「静。……お前、ほんとに悪い人だな」
「矢野さんのためだけに、です」
返らない借りは、また増えた。増えるたび、指は冷える。冷えた指で刃を握ると、遅い。遅い刃は、夜を壊さない。
夜。
静が珍しく米を炊いた。炊き加減は柔らかく、湯気は低い。低い湯気は、声を低くする。
蓮は茶碗を持ったまま、黙っていた。
「矢野さん。――食べてください」
「わかってる」
「今日は、斬らない“腹の持たせ方”です」
「刀の話ならわかるが、米でそれ言うな」
「はい。音を書いているだけです」
笑いがひとつ、湯気に落ちた。落ちた笑いは、柔らかく消えた。
食事のあと、静は帯を解いて、袖の内側の傷を見せた。昨日より鮮やかな赤だが、やはり広がりは遅い。
「医者へ行くぞ」
「行きません」
「行け」
「行きません。――行くと、名がつきます」
「名がついたっていいだろ」
「今は、だめです」
静はそう言って、帯を締め直した。
「背中を預けるのは、光にだけでいい」
「わかってる。……けど、お前の背中は誰に預ける」
「矢野さんの視線に」
「視線は釘か」
「はい。影の釘です」
「もういい。飽きた」
「承知しています」
飽きた喩えほど、身体に残る。
その夜更け、静はひとりで外へ出た。
蓮は気づいていた。気づいていたが、追いはしなかった。
追わず、目だけで背中を見送る。視線は、刃と同じ。温度がある。温度は背中に入ると、刃を少し遅らせる。遅れは、合図だ。
静が向かったのは、昨日、井戸の綱を握った“あの男”のいる裏長屋だった。
男は灯のない部屋で座っていた。膝には煤、指には縄の跡。目は、まだ火を見ている。
「来たか、幽霊」
「幽霊は、子どもがとるものです」
「ほぉ。なら、俺は何を取った」
「綱を」
「綱で、人は救えたのか」
静は答えなかった。黙る。沈黙は、男の呼吸を自分の耳へ運ぶ。呼吸が揃うまで待つ。
「……火をもう一度、付けるか」
男の問いは、刃の形をしていた。
「あなたが付けるなら、僕が鈴を鳴らします」
「鈴?」
「はい。――そして、桶を渡します」
男は笑った。笑いながら、少し泣いた。
「俺が生きてるのは、幽霊のおかげか」
「子どもの音です」
「音?」
「井戸の足を、石で叩く音」
男は顔を伏せ、長く息を吐いた。
「名は、いらねぇな」
「はい。要りません」
静は懐から小さな包みを出し、畳に置いた。米と、薄い金と、欠けた「与」の小さな紙。
「借りは、この紙に置いていきます」
「返せるのか」
「返せません。だから、持っていてください」
「妙な理屈だ」
「悪い理屈が、夜には効きます」
静は頭を下げ、部屋を出た。出がけに、男が言った。
「お前の名を、教えろ」
「要りません。――白で」
白は夜の色だ。夜の色は、朝になれば消える。消えるものだけが、長持ちする。
翌朝。
会津からの書で「禁門の変」の字が正式に紙を埋めた。功に名前が並び、数が並び、場所が並ぶ。
近藤、土方、会津、薩摩、禁裏、蛤御門。
紙は太い。太い紙は棚に入れられ、重さで棚を軋ませる。
静と蓮の名はない。
ないことは、余白だ。
余白は、夜の資本だ。
土方がその紙を畳み、短く言う。
「誉は紙に渡した。――裏は白に残せ」
「承知」
静は頭を下げ、蓮は肩を回した。肩の骨には、静の指で打たれた軽い釘がまだ残っている。
「静。……俺、少しはわかったかもしれない」
「何を、です」
「斬らないで止めるってこと」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。お前のせいで、俺の剣は遅くなった」
「遅い剣は、夜を壊しません」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
二人のやりとりは、いつものように短く柔らかく終わった。
午後、総司が庭に出て、竹を持った。
夏の光の下で、白い袖が少しだけ透ける。笑いは春、咳は秋。
「静。――君の“横”、京じゅうに効いたね」
「ありがとうございます」
「矢野。――君の“前の手前”は、すっかり体の癖だ」
「直さない。役に立つなら」
「役に立つよ。光の前には、静かな手前がいる」
総司は竹を構え、空を斬った。空は斬れない。斬れないところを斬る癖が、彼にはある。
静は半寸、前へ。半寸、下がる。
蓮は“前の手前”に立つ。
竹の音が、骨に入る。骨に入った音は、夜の歩幅を変える。
夕方、壊れた町角に、小さな露店が戻った。焼け跡の隣で、団子が甘い匂いを立てる。人は甘いものに集まる。甘さは、夜のことを短く忘れさせる。
蓮は団子を二本買い、一本を静に押しつけた。
「食え」
「ありがとうございます」
「“斬らない腹の持たせ方”だ」
「はい。――矢野さんの理屈は、悪くて美味しいです」
「褒めるな」
団子は柔らかく、串は硬い。硬いものが、形を持たせる。
町はそうして少しずつ、形を取り戻す。
夜。
また鈴をひとつ、鳴らす。
今度は、合図ではない。合図の名残だ。残り香みたいに町の裏表に広がり、火が来ない夜の形を人に思い出させる。
静は灯を半寸、下げた。
蓮は歩幅を半寸、短くした。
半寸の差で、火は遠のく。
半寸の差で、人は生きる。
半寸の差で、名は残り、名は消える。
その差を、毎夜、置く。
禁門の変は、紙に名を得て終わった。
だが終わったことになっているのは、名のほうだけだ。
白い余白には、まだ火の匂いが薄く残っている。
井戸の足に子が石を当て、良い音が出る。
良い音は、紙にならない。
紙にならないものだけが、町の骨を太らせる。
蓮は日記を開き、短く書いた。
――白は夜の色。
――白に置いたものは、翌朝も残る。
――名が太るほど、余白を広げろ。
筆跡は以前より揺れない。揺れない字は、よく沁みる。
「行くぞ、静」
「はい、矢野さん」
「今夜は、どっちだ」
「北です。“白い影は北に立つ”――噂に、乗らせます」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
二人は並んで歩いた。灯の低い方へ、骨の音が小さく鳴る道へ。
白い袖は鼠に沈み、鼠の影は白に広がる。
京の石は、今日も二人の半寸の重みを覚えた。
名は背に付かない。
だが足跡は、確かに残る。
その足跡が、次の夜の合図になる――そんなふうに、禁門の炎の「後」は、しずかに始まっていた。
御所の周りは、土の匂いが帰りつつあった。黒焦げの梁を背に、薩摩の兵が砲を掃除し、会津の列は静かに整列し直す。新選組はその端に白い息を落としたまま、命令を待つふりをして、実際は次の手を考えている。紙は後から追いつく。今、必要なのは紙の外側だ。
土方が短く告げた。
「表は一段落だ。裏は続く。――静、蓮。火の筋の“先”を潰せ」
「“先”?」蓮は問い返す。
「今夜、明日、明後日。火は一度燃えた町に、もう一度寄ってくる。寄ってくる道があるはずだ」
静が頷いた。
「承知しました。――灯、噂、鈴、全部、もう一度、低くします」
「やれ。借りは俺の名で払う」
土方の目は、紙より薄く鋭かった。
「近藤さんは表で笑ってる。総司は前にいる。俺は数字を受け持つ。お前らは、余白を保て」
余白。
静の仕事の名前は、たぶんそれだ。表の墨が太るほど、白い部分が必要になる。白を汚さず残すのは、名のない手の役目だ。
まずは辻占。札の裏には相変わらず欠けた「与」。婆は何も訊かず、ただ目で「よく生きてる」と言った。静も何も言わず、目で「返らない借りを、また借りる」と返した。
香具屋は皿をさらに半寸低くしてくれた。粉屋は樽口をゆるめ、湿り気を増してくれた。材木小屋の親父は、焦げた柱の束を、あえて路地の真ん中に寝かせておいた。逃げる足が急いている夜ほど、木はよく役に立つ。
茶屋の娘は湯気を低く盛った。噂の種は、湯気の高さで芽吹く。高い湯は声を高く、低い湯は声を低くする。声が低ければ、群れない。
「静。――あの火付の束ね、戻ってくるか?」
「はい。二度目を欲しがる目でした」
「二度目を欲しがる奴は、死ぬ」
「死なせないやり方も、あります」
「やるのか」
「やりません。今は、火です」
静の言い切りは、いつも短い。短い言葉は、長く残る。
昼を待たず、町の奥から「昨日の残り火」が顔を出した。焦げ跡の残る小路の奥、濡れ縄が乾く前に火打石が小さく星を散らす。星の音を先に聞いたのは蓮だった。
“前の手前”で、蓮はわざと鯉口を鳴らした。昨日に比べて一拍、長く。
音で振り向いた影が、反射の角度で刃を振るう。
蓮は肩をずらし、肘の内側でその角度を奪い、壁に刃の背を当てさせた。刃は背を嫌う。嫌う間に、静が足を絡めず、帯も切らず、ただ喉の前の空気に視線を置いた。
視線は刃と同じ。温度がある。温度が喉に触れると、声は出ない。
「火を消す気なら、桶を持て」蓮が低く言った。
「死にたいなら、火を持て」静が淡く継いだ。
影は動かず、やがて火打石を落とした。落ちる音は軽い。軽い音は、良い。
午後、会津からの使番が屯所へ走り込み、禁裏の戦況を短い句で伝えた。
――長州退く。
――蛤御門は持った。
――外で追撃、内は火消。
近藤は頷き、土方は数字を受け取り、総司は笑って咳を二つ。
静は命じられる前に、桶を持った。蓮は柄を背に差したまま、鈴の紐を肩にかける。
「鈴は三回。――火の筋、二筋目で止める」
「了解」
鈴を鳴らすと、裏通りの上から下まで、音の波が走る。昨日は一度だった。今日は三度。波を増やすと、動くものが増える。
動くものが増えると、炎は二度、躓く。二度躓けば、足が遅くなる。
日暮れ前、痩せた束ねが戻ってきた。昨日と同じ袖、同じ靴、同じ呼吸。違うのは目だ。焦りが混じっている。焦りは、匂いを変える。
「白い影。……今度は、噂じゃ済まさねぇ」
「噂は盾です。刃は、最後に」
静はまっすぐ立ち、帯を一度、指で撫でた。
「場所を変えましょう」
束ねは笑い、頷き、三歩下がって路地裏へ吸い込まれた。
「静、罠か」
「はい。――お互いに」
「上等」
蓮は呼吸を長くした。狭い路地、濡れ縄、二段目の梯子、材木の束。昨日、彼らが“置いて”おいたものが、そこかしこで光も音もしない準備を完了している。
束ねの足が、二段目に触れた瞬間、音のない“たわみ”が重さをずらした。刃の先が半寸、遅れる。
静は遅れの隙に入らない。入らず、距離だけを持った。距離が刃になる。
束ねはそれでも刃を繰り出す。低く、まっすぐ、速い。
静は半寸、横に滑り、柄頭で束ねの手首の骨の上を軽く叩いた。叩いて、すぐ離れる。
骨は、覚える。
二度目の刃は、やや高い。
静はやや深く沈み、袖で刃の面を撫で、角度だけ奪った。
束ねの目に、怒りのかわりに迷いが生まれる。
迷いは火に似ている。燃えるまで時間がかかる。
その時間で、蓮が“前の手前”に音を置いた。鯉口の乾いた鳴り。
束ねの足が半寸、止まる。
静は踏み込まない。踏み込んで斬れば、物語はそこで終わる。終わりは、人を納得させるが、夜を壊す。
静は耳の下の風を、指でそっと押さえた。
束ねの膝が折れる。
折れても、静は斬らない。
縛らない。
名を問わない。
「井戸の綱を持ってください」
「……は?」
「火を消す綱です」
束ねは唇を噛み、膝で地面を押し、やがて立ち上がった。
綱を持った手は、しばらく震えていた。
戦は、炎だけではない。火の翌日、町に来るのは、役人だ。書付を持ち、焼け跡に線を引き、誰がどこで何をなくしたか、紙に変える。紙に変わらないものは、余白に積もる。
蓮は焼け跡の端で、瓦版屋の痩せた背中を見た。版木を担ぎ、汗を拭き、どこか居心地が悪そうにしている。
「兄さん、昨日の“白い影”、書くのか」
「書きてぇがな。名がねぇ。名がねぇと、話は売れねぇ」
「名がねぇから、町が持つんだ」
「難儀なこと言うなぁ」
「難儀して、夜は持つ」
瓦版屋は笑い、肩をすくめた。
「ほな、“白い影は北に立つ”だけ、字にしとくわ」
「それでいい」
噂は、角を残すと長持ちする。角を落とすと甘くなり、すぐ飽きられる。
夕方、屯所に戻ると、近藤が縁で町人の礼を受けていた。子どもを抱き上げ、女房に頭を下げ、男たちと手を握る。
土方は遠くからその様子を見て、ひとつ頷く。
「名は表で太らせればいい」
そして静と蓮へ、薄い紙束を差し出した。
「裏の借り。香具屋、粉屋、辻占、材木小屋、茶屋の娘。――それから、井戸の綱を持った“あの”男に、名のない礼」
蓮は紙束を受け取り、思わず笑った。
「静。……お前、ほんとに悪い人だな」
「矢野さんのためだけに、です」
返らない借りは、また増えた。増えるたび、指は冷える。冷えた指で刃を握ると、遅い。遅い刃は、夜を壊さない。
夜。
静が珍しく米を炊いた。炊き加減は柔らかく、湯気は低い。低い湯気は、声を低くする。
蓮は茶碗を持ったまま、黙っていた。
「矢野さん。――食べてください」
「わかってる」
「今日は、斬らない“腹の持たせ方”です」
「刀の話ならわかるが、米でそれ言うな」
「はい。音を書いているだけです」
笑いがひとつ、湯気に落ちた。落ちた笑いは、柔らかく消えた。
食事のあと、静は帯を解いて、袖の内側の傷を見せた。昨日より鮮やかな赤だが、やはり広がりは遅い。
「医者へ行くぞ」
「行きません」
「行け」
「行きません。――行くと、名がつきます」
「名がついたっていいだろ」
「今は、だめです」
静はそう言って、帯を締め直した。
「背中を預けるのは、光にだけでいい」
「わかってる。……けど、お前の背中は誰に預ける」
「矢野さんの視線に」
「視線は釘か」
「はい。影の釘です」
「もういい。飽きた」
「承知しています」
飽きた喩えほど、身体に残る。
その夜更け、静はひとりで外へ出た。
蓮は気づいていた。気づいていたが、追いはしなかった。
追わず、目だけで背中を見送る。視線は、刃と同じ。温度がある。温度は背中に入ると、刃を少し遅らせる。遅れは、合図だ。
静が向かったのは、昨日、井戸の綱を握った“あの男”のいる裏長屋だった。
男は灯のない部屋で座っていた。膝には煤、指には縄の跡。目は、まだ火を見ている。
「来たか、幽霊」
「幽霊は、子どもがとるものです」
「ほぉ。なら、俺は何を取った」
「綱を」
「綱で、人は救えたのか」
静は答えなかった。黙る。沈黙は、男の呼吸を自分の耳へ運ぶ。呼吸が揃うまで待つ。
「……火をもう一度、付けるか」
男の問いは、刃の形をしていた。
「あなたが付けるなら、僕が鈴を鳴らします」
「鈴?」
「はい。――そして、桶を渡します」
男は笑った。笑いながら、少し泣いた。
「俺が生きてるのは、幽霊のおかげか」
「子どもの音です」
「音?」
「井戸の足を、石で叩く音」
男は顔を伏せ、長く息を吐いた。
「名は、いらねぇな」
「はい。要りません」
静は懐から小さな包みを出し、畳に置いた。米と、薄い金と、欠けた「与」の小さな紙。
「借りは、この紙に置いていきます」
「返せるのか」
「返せません。だから、持っていてください」
「妙な理屈だ」
「悪い理屈が、夜には効きます」
静は頭を下げ、部屋を出た。出がけに、男が言った。
「お前の名を、教えろ」
「要りません。――白で」
白は夜の色だ。夜の色は、朝になれば消える。消えるものだけが、長持ちする。
翌朝。
会津からの書で「禁門の変」の字が正式に紙を埋めた。功に名前が並び、数が並び、場所が並ぶ。
近藤、土方、会津、薩摩、禁裏、蛤御門。
紙は太い。太い紙は棚に入れられ、重さで棚を軋ませる。
静と蓮の名はない。
ないことは、余白だ。
余白は、夜の資本だ。
土方がその紙を畳み、短く言う。
「誉は紙に渡した。――裏は白に残せ」
「承知」
静は頭を下げ、蓮は肩を回した。肩の骨には、静の指で打たれた軽い釘がまだ残っている。
「静。……俺、少しはわかったかもしれない」
「何を、です」
「斬らないで止めるってこと」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。お前のせいで、俺の剣は遅くなった」
「遅い剣は、夜を壊しません」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
二人のやりとりは、いつものように短く柔らかく終わった。
午後、総司が庭に出て、竹を持った。
夏の光の下で、白い袖が少しだけ透ける。笑いは春、咳は秋。
「静。――君の“横”、京じゅうに効いたね」
「ありがとうございます」
「矢野。――君の“前の手前”は、すっかり体の癖だ」
「直さない。役に立つなら」
「役に立つよ。光の前には、静かな手前がいる」
総司は竹を構え、空を斬った。空は斬れない。斬れないところを斬る癖が、彼にはある。
静は半寸、前へ。半寸、下がる。
蓮は“前の手前”に立つ。
竹の音が、骨に入る。骨に入った音は、夜の歩幅を変える。
夕方、壊れた町角に、小さな露店が戻った。焼け跡の隣で、団子が甘い匂いを立てる。人は甘いものに集まる。甘さは、夜のことを短く忘れさせる。
蓮は団子を二本買い、一本を静に押しつけた。
「食え」
「ありがとうございます」
「“斬らない腹の持たせ方”だ」
「はい。――矢野さんの理屈は、悪くて美味しいです」
「褒めるな」
団子は柔らかく、串は硬い。硬いものが、形を持たせる。
町はそうして少しずつ、形を取り戻す。
夜。
また鈴をひとつ、鳴らす。
今度は、合図ではない。合図の名残だ。残り香みたいに町の裏表に広がり、火が来ない夜の形を人に思い出させる。
静は灯を半寸、下げた。
蓮は歩幅を半寸、短くした。
半寸の差で、火は遠のく。
半寸の差で、人は生きる。
半寸の差で、名は残り、名は消える。
その差を、毎夜、置く。
禁門の変は、紙に名を得て終わった。
だが終わったことになっているのは、名のほうだけだ。
白い余白には、まだ火の匂いが薄く残っている。
井戸の足に子が石を当て、良い音が出る。
良い音は、紙にならない。
紙にならないものだけが、町の骨を太らせる。
蓮は日記を開き、短く書いた。
――白は夜の色。
――白に置いたものは、翌朝も残る。
――名が太るほど、余白を広げろ。
筆跡は以前より揺れない。揺れない字は、よく沁みる。
「行くぞ、静」
「はい、矢野さん」
「今夜は、どっちだ」
「北です。“白い影は北に立つ”――噂に、乗らせます」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
二人は並んで歩いた。灯の低い方へ、骨の音が小さく鳴る道へ。
白い袖は鼠に沈み、鼠の影は白に広がる。
京の石は、今日も二人の半寸の重みを覚えた。
名は背に付かない。
だが足跡は、確かに残る。
その足跡が、次の夜の合図になる――そんなふうに、禁門の炎の「後」は、しずかに始まっていた。



