名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 夜が明けきらぬうちに、京は灰の匂いで喉をざらつかせた。
「どんどん焼け」――人は朝になってから名前をつける。名をつけると、少し安心する。名のない恐怖は、身体を勝手に走らせるからだ。
 だが火は名を持たない。風と同じだ。風が変われば、火の噛みつく向きも変わる。禁裏の方角から新しい風が吹いた。昨日より乾いている。

 静は“噂”を一度だけ確かめに出た。
 辻占の婆は札を裏返し、欠けた「与」を見せる。返らない借りは増えて、軽くなる。軽くなった借りは、持ち運べる。持ち運んで、別の夜へ回せる。
 香具屋の皿は低く、粉屋の樽の口は半寸、緩い。梯子の二段目のたわみは昨日のまま。
「矢野さん。――北へ立ちます」
「本当にやるのか」
「はい。“白い影、北に立つ”」
「敵も聞いてるぞ」
「だから、効きます」
 悪い理屈は、朝にも効いた。

 御所西。
 長州の小隊が、北の筋を嫌がって南へ回ろうとする。嫌がるのは噂のせいだ。噂は、角が立つほど効く。昨日、蓮が茶屋の湯気の向こうで、子供らにわざと流した「白い影は北に立つ」。あれが、今、足を半寸ずらしている。
 足をずらした先に、静と蓮が“前の手前”で立つ。
 蓮は肩を落とし、呼吸を長くした。長い呼吸は刃を遅らせる。遅れた刃は、夜を壊さない。
「通らない」
 蓮の低い声だけで、二人が止まった。止まった二人の間を、静の白が鼠に沈んで抜けた。帯を切らず、足を絡めず、ただ“喉の前の空気”を押さえる。声が出ない。声が出ないから、群れない。群れないから、火が育たない。

 そこで、昨日見た痩せた男――火付の束ねが現れた。
 目は深く、笑わない。油の匂いを袖に従え、細い刃を逆手に持つ。
「白い影。噂で済ませる気はない」
 静は首をわずかに傾けた。
「噂は盾です。――矢野さん。少し下がってください」
「下がらねぇ」
「では、“横”を広く」
「お前こそ、油まみれの魚に気をつけろ」
「はい。骨がありますから」
 やりとりは短く、乾いている。乾いた会話は、刃を濡らさない。

 痩せた男は、足を見せた。
 踵から着く。急がない。呼吸が長い。
 静も、踵から着く。同じ歩幅、同じ長さ。
 対の歩幅は、周りの音を消す。音が消えると、刃の長さが見える。
 最初の刃は、まっすぐに来た。
 静は、まっすぐを嫌う。半寸、横へ。
 横の半寸で、刃は空を切り、男の手首の角度が一つ、宙に取り残された。取り残された角度へ、白い袖が触れる。
 血は出ない。出ないぶん、怖い。
 男は、笑った。笑いの形だけで、目は笑わない。
 二の刃は、低い。
 静は、低いのを好む。
 膝が落ち、土が少し跳ね、跳ねた土を踏んで身を起こす、その間に、帯が二分、緩む。緩んだ帯は、刃より重い。重さは、意志を遅らせる。
 遅れた意志に、蓮が“前の手前”で音を置いた。乾いた鯉口の鳴り。
 痩せた男の目が、一瞬だけ音へ向く。
 音へ向いた目に、静の白が鼠のまま入る。
 刃が触れたのは、喉ではなく、耳の下の風。風を切られると、人は立ったまま止まる。
 止まったうちに、静は一歩、男の“背のほうの前”へ回った。
 回って、何もせず、ただ距離を持った。
 距離が刃になる。
 男は、刃を落とした。
「噂で殺すのか」
「噂で、止めるだけです」
 静の声は低く、風に消える。
 男は肩を震わせ、笑おうとして笑えず、背を向けた。
 背を向ける者を、静は斬らない。
 蓮は、追わない。
 追わない二人の脇を、火消の列が桶を抱えて走る。
 人の列が太る。太った列は、火を折る。

 正午すぎ、禁裏の扉の名が紙に大きく載る前に、戦の潮が変わった。
 薩摩の砲の音が低く長く続き、会津の列が前へ出、長州の陣が外へ退いた。
 門に付いた名――蛤御門、堺町、下立売――それぞれが一度、音になって空へ消えた。名が消えると、町が見える。
 見えた町は、黒く、赤く、白かった。
 黒は煙、赤は火、白は灰。
 灰は、夜の色だ。
 白い灰は、すぐ風に舞う。舞って、川へ落ちる。川に落ちた白は、静かに沈む。沈んだものだけが、長く残る。

 夕刻、静は一度だけ倒れた。
 倒れたというより、膝が半寸、折れた。
 蓮は即座に支える。
「どこだ、掠りじゃねぇな」
「はい。少し深いです」
 袖を捲る。白の内側で、赤が細く長い。長いのに、広がりは遅い。遅らせているのだ。布で押さえ、帯で締め、肩で止める。止めるやり方を、静は知っている。
「――謝るぞ、静」
「何を、です」
「俺が“前の手前”でお前の穴を埋める」
「ありがとうございます。……でも、矢野さんの穴は、僕が埋めます」
「二人で穴掘ってどうする」
「落ちないように、です」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
 会話の端で、寺の鐘がまた遅れた。遅れは合図だ。
 夜の合図。
 灯を下げ、噂を曲げ、刃を遅らせる時間の始まり。

 夜。
 蓮は“斬らない戦”を続けた。
 火打石を持つ手の前で空気を撫で、短筒の口を壁に向け、怒鳴り声の根を視線で押さえ、逃げ惑う足の流れを半寸だけ変える。
 静は“斬るかわりに置く”を続けた。
 濡れ縄の角度、梯子のたわみ、香の皿の高さ、井戸の綱の結び目。
 夜は、道具でできている。道具を少しだけ悪くしておけば、火は勝手に自分で転ぶ。
 転んだ火の隙間から、人が生きる。

 やがて禁門の炎は、紙に名前を得る前に、風でかすれ始めた。
 長州の列は外へ出、城の北から南へ、“負け”というより“終い”の足音を残す。
 終いの足音は、短い。
 短い音だけが、身体に残る。

 明け方近く、川辺にまた座る。
 水の匂いが戻ってくる。火の匂いは、底に沈む。
 蓮は刃の背だけを濡らした。刃は濡らさない。
「静」
「はい」
「なぁ。俺、斬ったよ。斬ったけど……斬らないで止めた数のほうが、多い」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。……それでいいのか」
「はい。斬らない夜は、町が太ります」
「町が太る、ね」
「太った町は、刃を折りません」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
 蓮は笑い、川面の白い灰を指で掬った。指の腹に冷たさが残る。
 冷たさは、忘れない場所だ。
 忘れない場所に涼しさを置けば、次の夜、刃は遅れる。遅れた刃は、人を生かす。

 そのとき、背後で小さな足音。
 昨日、火の中で見た子どもだ。母の袖を握り、黒い煤で頬を汚し、目だけが澄んでいる。
「おじちゃん、幽霊、みた」
「幽霊は、子どもがとるもんだ」
「ほんま?」
「ほんま」
 子は笑い、井戸の足を石で叩いた。良い音がした。
 良い音は、紙にならない。紙にならないものだけが、長持ちする。

 禁門の変――。
 紙の上に大きく載る名の影で、いくつもの小さな“置いたもの”が生きた。
 灯を半寸、下げる。
 噂を半寸、曲げる。
 刃を半寸、遅らせる。
 鈴を一度、鳴らす。
 井戸の綱を固く、ゆるく。
 人の流れを二筋に分ける。
 そして、背中に一本、軽い釘を打つ。

「静」
「はい」
「お前は名が要らないのか」
「はい。要りません。矢野さんが覚えていてくだされば」
「覚えるよ。忘れない」
「ありがとうございます。――視線は、影の釘です」
「また釘かよ」
「矢野さんのためだけに、です」
 蓮は鼻を鳴らし、のぼる朝日の色を一度だけ見た。赤いのに、冷たかった。
 赤の下で、京は息をし始める。魚の匂い、米の湯気、濡れた木。
 新選組は紙に名を得る。
 近藤、土方、会津、薩摩。
 紙の外で、静と蓮は“置く”を続ける。

 昼、会津からの書が届き、土方は短く言った。
「誉は紙に渡した。裏は、白に残せ」
「承知」
 静は頭を下げ、薄い金子と古びた手拭を受け取る。
 香具屋、粉屋、辻占、茶屋の娘――返らない借りを、またひとつずつ。
 返らない借りは、白い余白に積もる。
 余白は、夜の資本だ。

 総司が笑い、咳がひとつ。
「静。君の白は、今夜も鼠だ」
「はい。灯の外では」
「灯の内では、紙だ」
「紙は、いつか破れます」
「破れたら、また貼ろう」
 春みたいな冗談が、夏の熱の上で薄く揺れた。
 静は笑わない。笑わないことで、余白が保たれる。
 蓮は笑う。笑うことで、骨が柔らかくなる。柔らかい骨は、折れない。

 夜、稽古場。
 竹の音が乾いて三度。
 静は半寸、間を詰め、半寸、下がった。
「矢野さん。――今夜からしばらく、“前の手前”を長く」
「また長くすんのか」
「はい。火はまだ“息を吸って”います」
「吸って吐く、その吐きでまた噛みつく、か」
「はい。吐く前に、遅くします」
「世界の足を引っ張る役だな」
「はい。矢野さんのためだけに、です」
 竹の先が低く構えを変え、息が一拍、遅れた。
 遅れの分だけ、夜は壊れない。

 禁門の炎は、名になって紙に残る。
 だが紙は、棚で眠る。
 眠っている間にも、灯は下がり、噂は曲がり、刃は遅れ、鈴は鳴り、井戸は満ち、梯子はたわみ、濡れ縄はほどけやすくほどけにくい角度を保つ。
 書かれないほうの歴史は、白い余白に積もる。
 白は、夜の色だ。
 白い余白の上を、二人の足が半寸ずつ、今日も進む。
 足音は良い。紙にならない、正しい重みがある。

「行くか、静」
「はい、矢野さん」
「今夜は」
「北です。“白い影は北に立つ”――噂に、乗らせます」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
 二人は灯の低い方へ消えた。
 消えるときだけ、白い袖が鼠になって、ほんの少し、揺れた。
 京の石は、その揺れの重みを、今日も確かに受け止めている。