名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 七月十九日、朝の風は紙の匂いがした。
 御所へ向けて積み上がった命令書、達し、布告――乾く間もなく人の背に貼りつき、京の空を薄く曇らせる。空が曇ると、音がよく通る。蛤御門の方角から、まだ昼なのに夜のはじめのような低い鳴りが続いた。銃、砲、怒鳴り、号令。町の骨が震えると、軒先の風鈴が黙る。黙った隙間に、刃の匂いが乗った。

 新選組は会津の列の端で、青い羽織を鼠色に汚していた。
 近藤は前を向き、土方は横を見て、山南は紙の端に目を落とす。総司は白い歯を見せて笑い、笑いの端で咳をひとつ。
 静は総司の背の斜め後ろ、灯の外側に立っている。白い袖は、炎を飲んで鼠の色に沈む。矢野蓮は静の“横”。肩で息をする癖をわざと殺し、歩幅を半寸、短くしていた。

「静、総司さんは前へ出るのか」
「はい。光ですから」
「お前は?」
「影ですから」
「――悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 御所の西、堺町御門。
 長州の陣は膨らんだ腹のように前へ出、薩摩の砲が歯を食いしばり、会津の銃列が息を揃える。門をめぐる地面はもう柔らかく、血と火薬と泥が靴の底を重くした。
 長州の旗の影から、尊攘の浪士らが路地へ散る。火の舌を細く長く延ばす役だ。火は大通りではなく、小さな台所から始まる。静と蓮の夜は、そこに組まれている。

 最初の影を、蓮は“前の手前”で止めた。柄で喉の前の空気を撫でる。声は出ず、足は止まる。止まった足に、静の刃が触れた。触れただけなのに、男は折れて沈んだ。
 それからが速い。裏筋から三、四、五。油紙の匂いを嗅ぎ分け、火打石の音を耳で拾い、角材の陰で一度だけ鈴を鳴らす。火消が気づく。気づいた先に桶がある。桶は表の手。表の手が水を運ぶ間、裏の手は火の根を潰す。

「ここは通さない!」
 蓮は叫び、正面から突っ込んだ。炎の縁で影が揺れる。一人の刃を弾き、二人目の腹に肩を入れ、三人目の刃が落ちる瞬間――白い袖がかすかに光り、喉の前の空気が切れた。
「迷うな」
 背に、静の声。

 迷いは火に似ている。小さいうちは温かいが、油を得ると町を食う。蓮は迷いを袖で拭った。拭って、足を進めた。
 屋根が鳴き、瓦が砕け、昼のはずの空が煙で夜になった。蛤御門の砲声が、門という名を一度忘れさせるほど太い。御所の塀を越えようとした影が、火と鉛で落ちる。落ちる音が、土に沁みる。

 蓮の目に、焼け出された母と子が映った。
 子は泣かない。泣けないほど熱い。
 蓮は一瞬、刀を納めかけた。
 白い袖が、袖を掴む。
「まだです。火の元を潰さなければ、意味がない」
「人が焼けるんだぞ!」
「任務を果たさなければ、もっと多く、です」
 静の声は氷の厚さで、触れた指が痛む。だが割れない。割れない氷は、渡れる。渡った先で、静は子を受け取り、母に渡し、別の筋へ押しやった。
 剣は抜いたまま。抜いた手で、背中を押す。背中を押すのも、戦。

 長州の口のうち、火付けを束ねる男がいた。痩せて目が深く、袖に油の跡を隠しもしない。二度、三度、静の白を目の端でとらえ、笑いも怒りもせず舌を鳴らした。
「白い影……北に立つってやつか」
 噂は敵にも届いている。届いた噂は、角度を持って返ってくる。
「静、あいつ、知ってる顔か?」
「はい。池田屋の“こぼれ”です」
「仕上げるのか」
「今は、火です」
 追わない。追わないまま、灯の高さを半寸下げ続ける。香の皿、濡れ縄の結び目、梯子の二段目のたわみ――京の“道具”は、火にも噂にも効く。

 午後、風が合図を変えた。
 御所の内側から吹く風が、蛤御門の炎を舐め、堺町御門の煙を押し返す。薩摩の砲声がひときわ低く、長くなる。
 総司が笑い、咳をひとつ。
「静。君の横、今日もよく効く」
「ありがとうございます」
「矢野。君の“前の手前”は、もう癖だな」
「癖で町が助かるなら、直さない」
「いい返事」
 笑いは短く、風で千切れ、黒い紙片といっしょに流れた。

 日暮れ。
 京は「焼けながら動く」技を覚えた。燃える筋の外側で商いが再開し、桶が列になり、鈴が合図になる。鈴の音は、砲の下でも届く。
 静は井戸の綱を引き、蓮は桶を渡し、渡した手で柄を握り直す。柄の角が汗で丸くなる。丸くなった角は、今夜の角度を教える。角度さえあれば、斬らずに止められる。

 堺町の細い路地で、蓮は火打石を持つ若い浪士とぶつかった。若い目はまっすぐで、怒りより哀れが濃い。
「通せ」
「通らない」
「池田屋の仇だ」
「町の仇だ」
 言葉はどちらも薄い。薄い言葉のほうが、斬らなくて済む。蓮は柄で喉の前の空気を押さえ、短筒の口を壁に向け、肘の角度を少しだけ奪って地面へ落とした。落ちる音が柔らかい。材木の陰に火が吸われる。

 暗くなってから、静の袖に赤がぽつりと落ちた。
 蓮は思わず袖を掴んだ。
「どこだ」
「掠りです。矢野さん」
「見せろ」
「よく、ないです」
「いいから」
 静は袖を少し引いた。白い皮膚に浅い線。赤は細く、広がりは遅い。遅い血は、今夜の仕事の味だ。
「悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
 静は言い、鈴を一度、鳴らした。
 合図は裏へ届く。
 裏の人が桶を運び、表の人が砲を押し、夜の人が灯を下げる。
 京は、壊れない速度を、少しずつ思い出していた。

 夜の底、川辺。
 燃える屋根の赤が水に千切れ、三つ四つの輪になって流れる。冷たい。冷たいのに、焼けた匂いが鼻に残る。
 蓮は腰を下ろし、手の震えを膝で抑えた。背中が汗で冷える。
 静が隣に立ち、空を見た。
「今日のことも紙になります。――でも、僕らの名は、書かれません」
「それでも……俺たちはここにいた」
「はい。矢野さんが覚えてくだされば、十分です」
「お前、ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
 寺の鐘が、遅れて鳴った。遅れのぶんだけ、音の尾が長い。
 長い尾が、町の骨へ戻っていく。
 今夜の終わりは、ただの“遅れ”。それでいい。遅れは、次の手の合図になる。

 そして、鐘の残滓の中で、静は短く言った。
「明朝、北へ。――“白い影、北に立つ”を、今度は本当にやります」
「噂に乗るのか」
「噂に乗せます」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
 二人は立ち上がり、灯の低い方へと歩き出した。歩幅は半寸、短い。短いぶん、夜は壊れない。

 禁門の炎は、まだ終わらない。
 燃える名と、燃えない余白が、同じ空に揺れている。