名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 六月の熱は、紙のように京の空に貼りついていた。
 池田屋の血が乾くより早く、噂は湿り気を帯びて膨らむ。壬生狼が三十を斬った、白い影が火を食った、会津の山風が京の熱を払った――饅頭みたいに甘く丸い言葉を、人はよく噛む。だが舌の奥では別の味が滲む。「長州が来る」。その四字は菓子ではない。蒸し桶の底から上がる熱気のように、家の梁と梁のあいだに溜まり、誰かの背をじっと汗ばませた。

 七月――。
 御所の周りは、火薬の粉の匂いで背を反らしていた。堺町御門、蛤御門、下立売。地図の中でしか見たことのない扉の名が、いきなり町人の口に載る。薩摩の足音は重く、会津の声は低く、新選組は朝から声を出さずに走る。
 町の店は軒先の札を裏返し、茶屋の娘は湯気の高さを半寸低くした。誰かが指で額の汗を拭って「池田屋の仇」と言った、その言い方の軽さを、京中の空気が嫌った。

 屯所に戻ると、紙が増えていた。
 会津からの達し――「長州討つべし」。
 近藤は表に座し、背筋をまっすぐ立てて言った。
「承知した。我らが京を守る」
 言い切りは太かった。太い言葉は、骨に入る。
 土方は横で紙の列を指で撫で、短く続ける。
「正面は俺と近藤さんで押える。――静、蓮。お前たちは“裏”だ。火の元と密偵、内通の糸。切れるものは全部切れ」
「全部って、どのくらいですか」
 蓮の口が勝手に出た。
「全部だ」
 短い返事は、刃の形をしていた。
 静は「承知しました」とだけ言い、白い袖をわずかに整えた。整える動作が、すでに罠の寸法を測っている。

 京は、準備された炎の匂いを覚えるようになっていた。
 夕立の前の土、笹の葉の裏の水。似ているが違う。今の匂いは人が作る匂いだ。火打石の粉、油、濡れ藁、襦袢の奥の緊張。
 蓮は鴨川の風に鼻を出し、息を変えた。
「静。……本当に来る」
「はい、矢野さん。来ます」
「人数が多すぎる。剣じゃ足りない」
「剣は数えません。――灯を数えます」
「またそれかよ」
「はい。悪い理屈が、夜にはよく効きます」
 静は、鴨川沿いの路地図を頭の中で広げ、灯の高さを半寸ずつ下げていった。香具屋の皿、粉屋の樽、辻占の札。火は高い灯を好む。噂は角のある言葉を好む。今夜は、どちらも“愛想なし”にする。

 七月十八日の朝、鐘はまだ鳴らない。
 だが鳥が黙った。鳥が黙ると、銃の音がよく通る。
 最初の破裂は、堺町御門の方角からやってきた。空気が、とがった指で背を突く。次の瞬間には、別の方角で剣の打ち合う金属音が広がる。
 京が、音で四つに割れた。

 静と蓮は、その音のあいだを選んで歩く。
 鴨川の浅瀬は、日照りでひび割れ、露わになった石が白い骨みたいに並ぶ。骨の向こう、細い裏路地に、三人の影が縮まっていた。
 火打石、油紙、短筒。
「矢野さん。――“前の手前”を長く」
「短くじゃないのか」
「今夜は、言葉が先に走ってます。呼吸だけ、遅らせましょう」
 蓮は肩を落とし、膝をわずかに抜く。歩幅を半寸短くするだけで、視界の音が広がる。
 曲がり角の手前で、彼はわざと鯉口を鳴らした。乾いた小さな音。
 影の一人が反射で振り返る。反射は、同じ角度で戻ってくる。
 蓮は柄で男の手首の内側を撫で、肘の角度を一瞬だけ奪った。奪われた角度は、刃の前の言葉を忘れさせる。
 静は背中へふっと回り込み、もう一人の喉の前の空気を刃で撫でた。声を生む前の声の場所だ。そこを押さえられると、人は叫ばない。
 三人目は油紙を握りしめたまま固まり、紙の音だけが小さく鳴った。
「火の元は、ここまでです」
 静が囁いた。
「別の路地は?」
「灯が、高いままです」
「急げ」

 急いだ先で、遅かった。
 屋根の木鼻から火が舌を出し、あっという間に瓦の裏を走る。乾いた梁が鳴った。火は、鳴く。
 蓮は胸の奥で何かが切れる音を聞いた。
「静、俺――」
 駆け出す足を、白い袖が掴む。
「まだです。火の元を潰さなければ、意味がない」
「人が焼け死ぬんだぞ!」
「任務を果たさなければ、もっと多く死にます」
 語尾が少しだけ低い。冷たいのではない。冷やしているのだ。
 蓮は歯を食いしばり、走る方向を変えた。
 火の付いた家は、もう“結果”だ。結果には剣が効かない。効くのは、水と、道と、鈴。
 彼らが向かったのは、町内の火消の鳶口置き場――の近くに仕掛けておいた「鈴」だった。
 静は数日前、子供の手を借りて、小さな鐘を井戸の近くに結わえていた。火事場の合図を、裏筋へも伝えるためだ。
 静が紐を引く。
 甲高い音が、裏の裏まで通る。
 火消が振り向く。
 振り向いた先に、桶を渡す手がある。
 渡す手は、表ではない。だが表は、その手が渡す水で持つ。
 斬らずに届かせた一杯の水が、火の舌の先を一回だけ萎ませた。

 が、萎みは一瞬だ。
 御所のほうから風が変わり、炎は別の屋根へ飛び移る。
 「どんどん焼け」。
 あとで町がそう呼ぶ火の筋が、京の紙の上に太い赤を引いた。
 静は風上と風下を目で測り、蓮の肩に指を置いた。
「矢野さん。――“釘”を、もう一本」
「どこに打つ」
「あなたの膝に」
「は?」
「膝を落として、通りを塞いでください。人の流れを、半寸、変えます」
「俺は火消しじゃねぇ」
「今夜は、誰もが火消しです」
 蓮は黙って膝を落とした。落とすと、逃げ惑う人々の流れが分岐する。分岐した先に、静がいる。静は子を抱いた女を受け取り、別の筋へ送る。老人の荷を肩にかけ、足の遅い者から順に角を曲がらせる。
 剣を抜く手と同じ手で、荷を持ち、肩を支え、背中を押す。
 火は仕事を選ばない。人が選ぶ。

 その合間にも、火付の影は生まれる。
 路地の奥で、別の火打石が小さな星をこぼした。
 蓮は膝を上げ、剣を抜くより早く、石の破片を蹴った。破片は火打石に当たり、火花が逆方向へ散る。
 静がその隙に滑り込む。
 刃は使わない。帯を一本だけ切り、足を一本だけ絡める。倒れた男の手から火が落ち、湿った土に吸われる。
 吸われた火の匂いは、土で終わる。
 もうひとつの路地で、短筒が一度吠えた。
 吠えの高さで距離がわかる。蓮は曲がり角の“前の手前”で止まり、壁に背をつけた。
 壁の内側で、静の白が一瞬だけ鼠色に溶ける。
「矢野さん。――今は、斬ってもいいです」
 許しは短かった。
 短さは、刃の長さだ。
 蓮は角から半身で出て、銃の口に肩を与え、刃で僅かに押し開く。押し開くだけで、弾は空を噛む。
 次の呼吸で柄を喉に当て、声の根を黙らせた。
 倒れる音は柔らかく、材木の影に吸い込まれる。
 静は、倒れた男の目を一瞬だけ見た。
 目は生き物だ。紙の上に、目はない。
 つづけざまに、別の角から火が立つ。
 火は、音を呼ぶ。音は、人を呼ぶ。人の流れは、火を太らせる。
 静はそこで、噂を使った。
 「白い影は北に立つ」
 昼に流しておいた言葉が、夜になって効き目を出す。北の筋に“影”がいると信じた者は、南へ寄ってくる。寄ってきた流れを、蓮が“前の手前”で柔らかく散らす。
 噂で曲がった足に、剣はいらない。

 御所の方角、蛤御門の音が太くなった。
 銃と砲が、扉の名前を鳴らす。
 薩摩の物見が走り、会津の隊列が揺れ、新選組の羽織が塵で鼠色になる。
 近藤は御所近くで踏ん張っている。
 土方は数字を心の中で並べ、薄く目を細める。
 総司は笑って、咳を一つ。
 笑いは薄く、咳は短い。
 短いものだけが、夜を繋ぐ。

 正午過ぎ、空の色は火で薄茶に染まった。
 燃える屋根の上を風が走り、黒い紙片が舞う。紙片は瓦版の切れ端で、「新選組」の太い字がほんの一筆だけ、空中でくるりと裏返る。
 蓮はそれを目で追い、すぐ捨てた。
 紙は紙だ。今は火の子だ。

 鴨川沿いで、静が蓮の袖を引いた。
「矢野さん。――足を、半寸、短く」
「もう短い」
「もっとです。今、火が息を吸ってます」
 火は吸う。吸ったあとの吐きで、町を噛む。
 その“吸う”の瞬間に、人の流れを細くし、火の道をずらす。
 静は香具屋の裏手に回り、火口を一つ潰した。
 潰し方は粗くない。皿をただ裏返し、蓋を一つだけずらす。
 ずらしの半寸で、火の根は道を失う。
 「遅くしろ」。
 静の仕事は、世界にそう言い聞かせることだ。
 遅くなった分だけ、生き残る呼吸が増える。

 夕刻、風が変わった。
 御所の方向から、薩摩の旗がちらと見え、砲声が一つ、低く長い。
 禁裏の扉は噛みしめられ、長州の勢いは外へ向かい始める。
 京の中心で勝負が転がると、周りの火は、ふいにバランスを失う。
 静はその隙を嗅ぎ分け、蓮と目を合わせた。
「ここで、“遅れ”を置きます」
「置くだけでいいのか」
「はい。置けば、火は勝手に自分の足で転びます」
 裏筋の梯子の二段目に、彼らは昼から“たわみ”を残しておいた。
 逃げる足は、焦って重みを前に置く。
 そこへ、たわみ。
 膝が抜け、肩が落ちる。
 落ちた肩に、刃はいらない。
 静は帯を切り、蓮は柄で喉の前の空気を押さえる。
 声は出ず、火は遠い。
 遠い火は、やがて別の名に奪われる。
 名が変われば、紙が太る。
 紙が太るぶん、噂は痩せる。
 痩せた噂は、また拵えが利く。

 その夜、最初の激しさが過ぎ、京は「焼けながら眠る」という珍しい技を見せた。
 燃える筋の外側で、子が眠り、女が水を汲み、男が桶を渡す。
 眠りの芯に、音が一本通っている。寺の鐘が、遅れて鳴った。
 遅れは合図だ。
 次の手を、半寸遅くする合図。

 蓮は桶の縁で息を継ぎ、静の横顔を見た。
 白い頬は火の赤をほとんど拾わない。拾わないぶん、長く残る。
「静。……俺たち、剣を抜くために来たのにな」
「はい。――でも、今夜は、剣より水と、道と、鈴でした」
「剣の立つ幕はねぇのか」
「幕は、裏から支えないと倒れます」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
 蓮は笑って、目を閉じた。笑いは短く、眠りは浅い。浅い眠りだけが、夜に効く。

     ◇

 翌日――。
 禁裏の周りは、土の匂いが戻りつつあった。
 薩摩、会津が押し返し、長州は外へ出る。
 町の中では、焼け残った筋で人の缶詰が開くように、言葉が飛び出した。
 「長州が負けた」「白い影が火を食った」「壬生狼が門を守った」。
 噂は勝手に太り、紙は勝手に準備される。
 表の紙に、裏の名はない。
 ないままでいい、と静は言う。
 だが蓮の胸の奥には、また石が入った。
 石の角は、池田屋よりも丸い。丸いぶん、転がって足の置き方を教える。
「静。……俺は、助けられたのか、見捨てたのか、どっちだ」
「はい。どちらでも、ありません」
「どっちでもないって、なんだよ」
「“遅くした”んです」
「遅くして、何が残る」
「呼吸が、ひとつ」
 静は短く答え、井戸の縁に腰を下ろした。
 蓮も隣に座る。
 井戸の水は、昨日の火を下に沈めている。
 沈んだ火は、上から見てもわからない。
 わからないことは、長持ちする。

 会津の役宅で、土方は紙を受け取った。
 「禁門、長州の敗走」
 太い字が紙の上に並び、数字が意気地を持つ。
 土方は目を細めてそれを畳み、静に薄い紙束を渡した。
「裏の清算だ。香具屋、粉屋、辻占。あと、茶屋の娘」
「承知しました」
 返らない借りは、また増える。
 増えるたびに、静の指は冷える。
 冷えた指で刃を握ると、遅い。
 遅い刃は、夜を壊さない。
 蓮はそれを知っている。知りながら、時々、忘れたふりをする。忘れたふりをすると、静が肩に指を置く。
 指は軽い。だが残る。

 町の端で、総司が咳を二つ。
 笑いをひとつ。
「静。君の白は、今夜も鼠だ」
「はい。灯の外では」
「灯の内では、紙だ」
「紙は、いつか破れます」
「破れたら、また貼ろう」
 蓮は二人のやりとりを聞きながら、空の色を見た。薄茶の煙は薄れ、青が戻る。
 青は昼の色だ。
 青が戻ると、夜の事情は隠れる。
 隠れた事情だけが、長持ちする。

 夜、蓮は稽古場で竹を握った。
 静は半寸、間を詰め、半寸、下がる。
「矢野さん。――今夜からしばらく、“前の手前”を長く」
「まだ長くすんのかよ」
「はい。火は、まだ“息を吸って”います」
「もう飽きたんだけど」
「僕もです」
「は?」
「でも、遅くするのが、今夜の剣です」
 蓮は肩を落とし、竹の先を低く構えた。
 竹の音は乾いて、短い。短い音だけが、骨に入る。
 骨に入った音は、翌朝の歩幅を変える。
 歩幅が変われば、火は遠い。

     ◇

 七月の京は、焼け跡の匂いで目を覚ます。
 魚の声、米の湯気、濡れた木。
 「どんどん焼け」と人が呼ぶ大きな筋は、紙の上では黒い線に変わった。
 黒い線は、名を太らせる。
 近藤の名、薩摩の名、会津の名。
 静と蓮の名は、まだどこにもない。
 ないままでいい、と静は言う。
 蓮は何度か、頷く練習をした。
 練習が上手くなるほど、胸の石は丸くなる。
 丸い石は、足の裏で転がり、歩幅を短くする。
 短い歩幅は、火を遅らせる。
 遅れは、合図だ。
 次の“長州”や“禁門”や、別の名へ向かう合図。

 昼過ぎ、瓦版が新しい版木を叩いた。
 「長州敗走、京守護の功」
 紙は太い。
 紙の影で、辻占の婆が札を裏返す。
 欠けた「与」。
 返らない借りは、もう両手では足りない。
 静は札に触れず、目で礼をした。
「静」
「はい」
「全部、返せるのか」
「全部は、返せません。――半分ずつにします」
「半分って、またかよ」
「半寸ずつです」
 蓮は笑い、肩を回した。骨の上に、静の釘が一本、まだ薄く残っている。
 釘の上に、「前の手前」を置く。
 置いた先で、灯を半寸、下げる。
 寺の鐘がひとつ遅れて鳴り、音の尾が長く伸びた。
 長い尾が、京の骨に昨夜の熱を戻す。

     ◇

 その晩、鴨川の縁で、二人は少しだけ座った。
 火の匂いは、もう薄い。
 薄くなった匂いは、遠いところでまた濃くなる。
 遠いところ――下関、周防、吉田。地名が、風の端で小さく鳴る。
「静。……長州は、まだ終わってないな」
「はい。終わるのは、名だけです」
「名だけ?」
「はい。――人は、呼吸を続けます」
「呼吸が続くなら、火も続く」
「はい。だから、遅くします」
「お前は、世界の足を引っ張る役かよ」
「はい。矢野さんのためだけに、です」
 蓮は鼻を鳴らし、石を一つ拾って川へ投げた。
 輪が三つ、四つと広がり、やがて消える。
 消えるまでの短い間が、余韻だ。
 余韻は、明日の夜へ続く。

 禁門の変――。
 その言葉が紙に載るより早く、京は“遅れ”を覚えた。
 遅れのぶんだけ、人が生き、町が息をして、名が太った。
 名を太らせる影は、灯を下げ、噂を曲げ、刃を遅らせ、水を渡し、鈴を鳴らし、梯子の二段目にたわみを残した。
 書かれない方の歴史は、白い余白に積もる。
 白は、夜の色だ。
 白い余白に、今日も半寸の記憶が置かれる。
 半寸の差で、人は生き、火は遠のき、名は残り、名は消える。
 そして、誰かの背に、軽い釘が一本――。
 その釘の形を覚えているかぎり、二人は、次の夜へ歩いていける。
「行くか、静」
「はい、矢野さん」
「今夜はどっちだ」
「北です。噂に、乗らせます」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
 二人は、灯の低い方へ消えた。
 消えるときだけ、白い袖が鼠色に、ほんの少し揺れた。
 京の石は、その揺れの重みを、しかと受け止めていた。