名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 江戸の冬は、海のほうから刃のような風が上がってくる。浅草寺の瓦が薄く鳴り、鳩が身を縮める。待合に集められた浪士組は二百名余と触れられていたが、蓋を開ければ数などどうでもよかった。名簿の紙束に人の欲と不安が貼りついており、墨の列はゆがみ、手の震えは行間に出た。矢野蓮は末尾近くに己の名を書いた。拙い筆で、乾く前に指の腹で撫でて、にじみを均した。とっておきの字は持たない。だがここに、今はいる。そう言い聞かせるように墨の冷たさを確かめた。

 帰る家はない。上総の村で一家が崩れ、奉公先で主家に歯向かい、押し出されるように江戸へ流れてきた。剣と足と、しぶとい呼吸だけが残った。浪士組の列に混じると、人の匂いにむせた。飢えと酒と油の匂い。遠国の訛りが折り重なり、尊王攘夷の看板は口々の流儀で読み替えられた。諸藩の落ち武者、江戸で食い詰めた者、名を求める者、名を捨てた者。口先では京だ天子だと騒ぎ、甲冑の継ぎ目には借金取りの手形がのぞく。二百名余は、二百通り余の欲でできていた。

 蓮は場の端で風を吸い込みながら、群れの陰影を眺めた。ざわめきの向こうに、立ち尽くす若い男がいる。背は低くはない。白に近い浅黄の襟がのぞき、目のふちに薄い眠たさが残っている。どことなく欠伸の余韻に似た気配だ。だが目が合うと、水底の冷たさがのぞいた。人の意図を壊さず、ただ受けて流す眼。蓮は直感した。この男は、名簿の墨にはいない。

「矢野さん」

 背から声が落ちてきた。呼びかけの響きが奇妙に丁重で、蓮は振り返る。さっきの男だ。顔立ちは線が細く、顎に童の名残をとどめている。

「俺は、名簿を見ていないはずだが」
「わたしは名簿にございませんので、見ておるのは人のほうです。沖田静と申します」

「静、か」
「ええ。矢野さんは、上総のご出だとか」

「どこで聞いた」
「風が運んできました。風は嘘をつきますが、匂いは正直です」

 軽く笑う。人を刺す意志がない笑いだが、触れれば切れる薄刃のようでもある。蓮は鼻で短く笑い返し、立ち位置を半歩ずらした。男の肩越しに、土方歳三が通るのが見えた。黒い目が人群れを一閃で計る。近藤勇はそこから半歩下がって全体を受け、声の調子ひとつで空気の段差をならす。二人の背に、いま言葉を交わしているこの男の薄影が溶けていることに、蓮は遅れて気づいた。

 出立の朝、町はまだ眠っていた。浅草の裏通りに白息が漂い、路地に凍った水の筋が光った。隊列はざわめきながら動き出した。清河八郎は堂々と馬にまたがり、道すがら旗を翻した。言葉は熱を持っていたが、熱は煙のように散り、残ったのは隊をまとめる近藤と土方の目と声だった。蓮は列の後方に位置を取り、足の裏の硬さを確かめる。旅が始まるのはいつだって足の裏からだ。胸ではない。

 初日から、行軍は「浪士」の字の通りだった。列は伸びて縮み、宿場では一斉に崩れた。蓮は馴染みのない相撲取りのような浪士に肩を叩かれ、酒盛りに引き込まれそうになった。断ると舌打ちが飛んだ。道は長い。関所を抜けるような鋭さは、もう誰にもない。足が痛み、腹が鳴り、看板の字が滲み、視線は下を向く。尊王も攘夷も、腹が鳴れば遠のく。

 道中の稽古は気分直しに近かった。木賃宿の中庭で、木刀が打ち合わされる。合間に茶と干し餅。笑い声は軽く、大太刀を担いだ大男が自慢を並べる。蓮は列に入り、三本ほど相手をして汗を流した。三本目の終わり、柱の影からひょいと人が出た。静だった。彼は名を名乗らず、ただ木刀を手にした。

 相手になったのは、さきほどの大男である。打ち込みは重く、木刀の芯が唸る。静は半歩さがり、空気だけを切らせた。拍子が一つ遅れる。遅れたはずなのに、間が詰まっている。大男の肩が微かに緩み、静の木刀の切っ先が喉元に貼り付いた。打った音はしない。空気だけが移動した。

「今の見たか」
「なんだ、今の。いつ振った」

 見物の声が上ずる。笑って忘れる者、黙って忘れる者。蓮はどちらでもなかった。ただ、あの一瞬の“消える間合い”を体で覚えようとした。

 夜、縁側に風が通った。月の薄い光が敷居の木目にかかり、どこか魚の腹に似た白さがあった。蓮は座って息を整えた。背に気配が落ちる。

「矢野さん、先ほどはどうも」
「何がどうもだ。見物しただけだ」

「見物の目が良い方が、わたしは助かります。斜めからでも、間は見えますから」
「お前は何者だ。名簿にいないのは、陰口を集めるのが役目だからか」

「陰口はよく燃えます。火の回りを確かめるのが、わたしの仕事でして」
「内偵か」
「まあ、そんなものです」

 静は欄干に肩を預け、空を見た。欠伸を噛み殺すような気配は、やはり嘘ではない。眠たさは、油断ではない。必要な時に芯が立つための、仮の睡りだ。蓮はそのことに気づき、少しだけ息が楽になった。

 行軍の雑さは、日を追って大きくなった。宿銭を踏み倒す話が出た。蓮は嫌な予感を抱えながら裏口に立った。夜半、騒ぎが起きた。博打で揉めた浪士が地元の若者に囲まれ、短刀が光った。蓮は割って入った。足は動いたが、数は覆らない。背から空気が切れて、蓮は身を沈める。灯の外に白いものが揺れた。刃が跳ね、膝が折れ、一人が呻いた。静が縁側に背を預け、肩の埃を払っている。

「夜風が冷えますね」
「助かった」
「いえ。風が刃を鈍らせただけです」

 礼の形を探す暇はなかった。人はすぐに散り、静はすぐに影にもどる。彼は助けに出るためにそこにいたのではなく、群れの温度が上がりすぎないように、火のそばを歩いているだけだ。そういう歩き方だった。

 噂は京のほうから先にやって来た。長州は動く、薩摩は勘定に暗い、会津は京を押さえる。朝廷の御所では言葉が増え、言葉は紙に乗り、紙は火になりそうだ。清河八郎は将軍の上洛を建白し、浪士組の「江戸帰還」を画策する。江戸へ戻れと言う。表の旗は尊王、裏の縄は幕臣化。旗と縄の間に、人の首が置かれる。近藤と土方は黙ったまま、京に残る腹づもりを固める。名や位ではなく、道場と人の目と、鉄の匂いのする場所を選ぶ人たちだ。

 分岐の二日前、夜明け前の野で静が蓮を呼んだ。畦道に霜が降り、踏めばしゃくりと鳴る。

「矢野さん、京に残りますか」
「訊く理由は」
「こちら側に立つ人は、最初の一歩でわかりますので」

 蓮は答えを探した。名を欲するのか、場所を欲するのか。名は紙に残る。場所は身体に残る。紙の字は他人が読み替える。身体の傷は、誰にも読み替えられない。

「剣の届く範囲に、居場所があればいい」
「それはよい言葉です。では、その範囲を少し狭める稽古を、今から」

 木刀を持った。静は構えない。立っているだけだ。蓮が踏み出す。木が鳴る。静は半拍遅れて動く。遅いのに早い。足の裏の皮が薄く削れ、冷たさが骨に入る。三合、五合、十合。蓮の呼吸が荒くなり、静の呼吸は一定のまま。汗の塩が目にしみ、周りの音が遠くなる。静が小さく言う。

「矢野さん、刃を短くしてみましょう」
「短く?」
「腕を縮めるのではなく、心の届く距離を、です」

 意味はすぐには落ちない。だが身体は先に従った。切っ先を喉の前一寸で止める稽古。止めるために、切り込む。切り込むために、止める。矛盾が両立する位置まで踏み込み、そこでやめる。やめるための力が、斬るための力より深いことを、初めて知った。

 日の縁が白くなり、鳥が一羽だけ鳴いた。静が木刀を納め、背を伸ばした。

「今日で、道は分かれます。江戸に戻る列と、京に残る列。矢野さん」
「わかってる。俺は残る」
「ありがとうございます。わたしも、残ります」

 ありがとう。妙な礼だと蓮は思った。だが礼を言われる筋合いがないはずの場所で礼を言える人間は、少ない。静はその少ない側にいた。

 分岐の日、清河は言葉で列を引き、京の手前で江戸を指さした。多くが従い、少なさが残った。近藤が前に立ち、土方が横に立つ。空は薄曇りで、風は乾いていた。蓮は列の中央に立ち、足の裏をまた確かめた。ここが始まりだ。終わりはいつでも後で決まる。始まりは、自分で決める。

 京に入る前に、空気は変わった。街道の脇の松が重く、茶店の女の目が慎重で、町人の笑い声が短い。言葉は裏返し、札は裏に墨を足され、裏が表より濃い。長州の名は囁かれ、会津の紋は遠巻きに見られ、薩摩の影は物の值段に現れた。京は表を磨き、裏で血を拭く町だ。蓮は鼻でその匂いを嗅ぎ分け、背の皮膚が薄く波打つのを感じた。

 屯所の当座は壬生の空家だった。畳は古く、障子は黄ばみ、井戸の水は冷たいが澄んでいた。近藤が全員を並べ、「京に残るのは、京を守るためだ」と静かに言った。土方は紙を出し、規律を読み上げた。裏切り、無断外出、喧嘩、賭博――罰は重い。笑っていられたのはここまでだ、と蓮は思った。ここから先は、笑う口に血の味が混ざる。

 初の巡察は夜だった。三条から四条へ、辻々に立つ灯の色が違う。明るい灯は安全ではない。暗い辻は危険ではない。匂いと影の重なり方で、町の呼吸がわかる。静は列の外へ出たり戻ったりし、足音を消して角を曲がる。蓮は距離を置いてその背を追った。白い裾が月にかすかに光る。あの白は目印であって、囮だ。目印に見せかけて、目を奪う。目を奪った瞬間に、間が生まれる。間は人を殺す。静は間をつくる側の人間だった。

 祇園の手前で、乱暴者の噂が立った。名はすぐに芹沢の字を連れてくる。隊内の別の動脈の名だ。近藤と土方は目配せし、言葉より先に配備を組み替える。静は短く「見てきます」と言って消えた。蓮は歯を食いしばったまま待つのが苦手で、別筋から回った。短い路地の突き当たり、藁を巻いた桶の陰で、若い衆が短刀を弄んでいる。蓮は声を出さずに近づき、柄で手首を打った。短刀が落ち、若い衆が怒鳴る。背で空気が揺れ、次の瞬間には若い衆の声が布で塞がれていた。静がいつの間にかいる。蓮は目だけで礼を言い、静は目だけで受けた。

「矢野さん、ここは矢野さんの間合いでした」
「さっき教わったばかりだ」
「教わってすぐ使えるのが、矢野さんの良いところでして」

 砕けた敬語は、距離を測るための柔らかいものだ。丁重に話しながら、突くべきところで迷わない。蓮はその口調を真似する気はないが、悪くないと思った。人の間合いにも礼がある。その礼が薄くしかれた場所では、刃がよく通る。

 数日後、稽古の時間をねん出してくれたのは土方だった。紙と墨と、無表情な声で規律を塗り固める男が、静に目を投げて言う。「見せてやれ」。静は頷き、蓮に向かって言う。

「矢野さん、今日は、止める稽古ではなく、抜く稽古を」
「抜く?」
「刀を抜く前に心を抜く稽古です。迷いが柄を固めますので」

 抜刀の呼吸を何十度も繰り返す。抜かずに抜く、を重ね、最後に一度だけ抜く。抜いた刃は、空の白さより静かだった。土方がわずかに顎を引いた。評価は言葉ではない。評価が言葉になる前に、背中が次の命を準備している。そういう場の連続で、日が動いていく。

 江戸へ戻るはずだった列はとうに見えなくなり、京の町の呼吸は「新選組」という名を覚え始めた。壬生狼。噂は名を飾り、名は人を縛る。蓮は名に縛られるのを嫌い、静は名から外れる道を歩く。だが隊の名が立てば、影にも役割が増える。静は紙に現れない仕事を受け、蓮はその影の影を務めた。裏口を見張り、逃げ道を塞ぎ、声を出さずに人を止める。止めるために斬る夜もあった。斬るために止める夜もあった。

 ある夜、巡察の帰りに小さな茶屋の灯が震えた。店の裏手で、旅の娘が蹲っている。歯が鳴り、肩が細かく震える。蓮は足を止めた。静が横で言う。

「矢野さん、ここは――」
「わかってる。俺の居場所じゃない。」

 言いながら、蓮は自分の外套をほどいた。娘は目を上げ、礼も言わずに外套に縮こまる。蓮は何も言わずに立ち上がる。背で静の視線が細くなる。

「矢野さん、やさしいですね。」
「違う。寒いからだ。」
「寒いのは、いつも良い理屈になります。」

 静かな皮肉に、蓮は笑った。笑いは短い。笑いの後ろで、京の風がまた匂いを変える。

 清河の名は京で薄くなった。江戸での動きは遠く、ここでは会津の紋と長州の噂が大きい。土方は規律を強め、近藤は人心をまとめ、静は間を整え、蓮は足でそれを繋いだ。剣の届く範囲を狭める稽古は、やがて町の届く範囲を狭める仕事に変わる。火の手が上がる前に火種を潰す。噂の角を折り、口の軽い者の酒を薄め、逃げ道を一つだけ残す。逃げ道は、敵のために残すのではない。味方のために残すのだ。混乱が起きたとき、誰も見ない道を、最初に踏み出せる者が生きる。

「矢野さん」
「なんだ静」
「背を預けるのは、二人だけにしておきましょう」
「もう決めたのかよ」

「はい。光に立つ方が一人。もう一人は――矢野さんで」

 あのときの言葉に、蓮は怒りも笑いも出せなかった。光に立つ方は、沖田総司だろうと直感した。名のある者。剣の天才。病の匂いが、すでに衣の奥に薄く漂っているのを、蓮はまだ知らない。

 夜半、薄い雨が降った。土の匂いが立ち、瓦の線が黒く濡れた。蓮は雨の粒の数を数えるように足を運び、静は雨の線の角度で人の流れを読む。京は湿っていた。湿った町で、火はよく回る。湿った町で、足音はよく消える。消えるための稽古を積む場所として、京ほどふさわしい土地はなかった。

 巡察から屯所へ戻る途中、堀川沿いで年寄りが一人倒れていた。足がもつれたらしい。蓮は肩を貸し、家まで送り届けた。年寄りの家は小さく、土壁のひびに紙が貼られている。茶を出され、蓮は断って外に出た。静が路地の影から出てくる。目だけで問う。「何か」。蓮は首を振る。何もない。ただ、ここに人が生きている。それを知ることが仕事の半分だ。

 帰り道、静が珍しく言葉を多くした。

「矢野さん、記録に残るのは、たいてい“こと”です」
「事件とか、戦とか、血とか、だろ」
「はい。ですが、わたしたちが扱うのは“こと”ではなく“間”でして。間は紙に残りません」

「残らないものに、意味はあんのか」
「間がなければ、ことは起きません。起きたことだけで世の中を語るのは、出来事の背中しか見ないのと同じでして」

「背中がいちばん頼りになるけどな」
「ええ、だからわたしは背中を見ます。矢野さんのも」

 丁寧な言い回しの奥に、妙な温かさがある。蓮は肩の力を少し抜いた。人は時々、誰かの目を自分の背中に感じないと、道の上に独りでいることを忘れる。孤独は強さになるが、長く持てば毒にもなる。毒を薄めるのは、こういう間の言葉だ。

 京の町が新選組を覚え始めた頃には、蓮は足の裏にこの町の地図を持っていた。石畳の割れ目の深さ、橋の欄干の釘の冷たさ、茶屋の灯の色の違い。静はこの町の影の地図を持っていた。風の回り、匂いの角、声のしぼみ。二つの地図が重なると、人は見えない道を歩ける。見えない道を歩く者の足は軽い。軽さは逃げるためではない。間に入るためだ。

 その夜、蓮は布団に横になりながら、今日の歩数を数えた。数えるうちに眠り、眠りのうちに歩いた。夢の中で、静が前を行き、白い裾が風に揺れた。呼びかけると、振り向かない。振り向かないのは、信頼のかたちだ。振り向くのは、疑いのかたちだ。蓮は目を閉じたまま頷いた。

 翌朝、土方が紙束を配り、近藤が人の名を呼んだ。名を呼ばれることの重さと軽さを、蓮は同時に感じた。呼ばれない名が世界には多すぎる。呼ばれない名のために働く者がいる。そのことを、静の横顔が教えていた。

 京は雨の匂いを変え、風の向きを変え、人の心を早く変えた。蓮は変わらず歩き、静は変わらず消えた。消えることによって場所を持つ者がいる。消えないことによって居場所を失う者がいる。蓮はそのどちらにもなりたくなかった。彼は消えもしないし、残りもしない。足跡だけを、土の下に薄く置いていく。誰にも見えない形で。

 そのうち、池田屋という屋号が、町の陰で囁かれる。だがそれは、まだ先の話だ。今はただ、江戸から京へ来たばかりの男が、自分の居場所を「剣の届く範囲」と決め、その範囲を毎夜少しずつ狭める稽古を続けているだけだ。狭めるとは、見捨てることではない。届かないところを最初から斬らないということだ。届くところだけを確かに斬る。斬らずに済むなら、もっと良い。

 静が縁側に腰を下ろし、空を見た。欠伸を噛み殺し、薄く笑う。眠たさは仮の睡りだ。必要なときに芯が立つまで、眠っておく。矢野蓮は、隣に立って同じ空気を吸った。

「矢野さん」
「なんだ静」
「今日は、よく歩きましたね」
「お前もな」
「はい。では、また夜に」

 夜は、いつも来る。闇は、いつも味方だ。名は、いつも邪魔だ。二人はそれぞれの持ち場へ散り、同じ町の別の影へ溶けた。足音は残らない。だが、足の裏は覚えている。この町の固さと、冷たさと、重さを。

 その覚えがあれば、人は迷わない。迷っても、戻れる。戻る背中を、預けられる相手がいれば、なお良い。蓮は無意識に背を伸ばし、見えない手のひらの重みを確かめた。そこに、確かな温度があった。

 ――文久三年初頭、江戸を発ち、京に入る。名簿の末尾の墨は、もう乾いている。指で撫でれば粉が落ちる。だが、紙の裏へ滲んだ黒は、指ではどうにもならない。そこに残ったしみの形が、矢野蓮の最初の地図になった。

 日毎に列は痩せ、背嚢の軽さとは裏腹に人心の重さが濃くなった。関宿を抜け、三重へ入る頃には、尊王攘夷の大義は口にする者の数より酒場の徳利の数のほうが多かった。矢野蓮は足の裏にひびを作り、歩を進めるたびに石の鋭さが沁みた。

 そんな道すがら、沖田静はいつも淡々と歩いていた。背は低くはない。蓮よりもわずかに高い。肩は華奢に見えるが、骨の輪郭が浮き、余分な肉はない。少年めいた骨っぽさが逆に軽やかさを与えていた。列の雑踏に混じっても、その歩幅は乱れない。腰を落とさず、刀の鞘先が石を擦ることもない。

「静、疲れないのか」
 蓮が吐息まじりに言うと、横から柔らかく返ってきた。
「矢野さん、疲れを見せないのが稽古でして」
「強がりだろ」
「強がりでも続けば、強さに見えます」

 にやりと笑った顔は、やはり眠たげな眼差しをしていた。だがその奥に潜む硬さを、蓮はもう知っていた。

 道中、尾張の宿場で騒ぎが起きた。浪士の一人が宿銭をごまかし、宿主と口論になったのである。口角に泡を飛ばし合い、今にも斬り合いになりかけたとき、静が間に立った。

「ここで血を流せば、後の道が狭まりますよ」

 静の声は柔らかいが、不思議と人を押し返す力があった。宿主は「なら払え」と吐き捨て、浪士は舌打ちしながら銭を投げた。蓮はその場を脇で見ていたが、静が動いたのは一歩だけだった。刀を抜かず、ただ間に入った。だが一歩の位置が絶妙だった。斬れば相手の刃筋が宿主を巻き込む。だから誰も斬れない。

「静、お前、ああいう場面でよく震えねえな」
「震えは膝で隠します。矢野さんもどうぞ」
「俺は隠せない。だから斬るしかなくなる」
「それも正しさでして。ただ、背を預けられる相手がいれば、震えを隠す余裕も出ます」

 軽口めいた敬語に、蓮はむず痒い思いで黙った。

 やがて近江へ入った。琵琶湖の水面が空の色を映し、隊列は湿った風を受けながら進んだ。京はもう近い。町人の視線は冷ややかで、浪士組を見ても敬意ではなく好奇と猜疑が混じっている。噂は先に届いていた。清河八郎は将軍上洛を建白したが、その一方で浪士組を江戸に呼び戻そうと画策している。

 列がざわついた夜、蓮は静に問うた。
「お前は……京に残る気なのか」
「はい。影は光の側に寄り添うものですので」
「光ってのは……近藤さんたちもか」
「ええ。そして総司さんも」

 静の言葉に、蓮は口をつぐんだ。沖田総司――剣の天才。だがその光に近づける者は限られている。静は己の役割を「影」と呼んだ。ならば、自分は何だ。

「俺は……名を残す気もない。ただ……」
 言いかけて蓮はやめた。静が待っている気配を感じながらも、言葉は喉に引っかかった。名も場所もない。けれど刀を振れる範囲に、居たいだけだ。

 翌朝。京まであとわずかという野道で、静が小声で言った。
「矢野さん、少し稽古を」
「こんな時にか」
「こんな時だから、です」

 まだ薄暗い曙。人の列から少し外れた畦道で、二人は木刀を構えた。

 静の動きは軽やかで、少年のような体は風に乗る。間合いは深く浅く揺らぎ、蓮の剣は空を切った。汗が額を伝い、呼吸が荒くなる。

「静……本気でやってるな」
「影はいつでも本気でして」

 木刀がぶつかる音が霜の畦に響いた。蓮は喉の奥で笑った。名は要らない。ただ、いま隣に立つこの背に、自分の剣を預けられるかどうかだけだ。

 京の空はまだ遠い。だが、影はもうそこに届いていた。