名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 京は、名の音で満ちていた。
 池田屋の夜から幾日も経たぬうちに、辻の角ごとに「近藤」「土方」の二文字が跳ね、口上はたちまち太った。瓦版は墨を濃くして「壬生狼 京を護る」と打ち、寺子屋の子らはそれを指でなぞって声に出す。名の音は、朝の露より早く町に広がり、昼の熱より遅くまで残る。名は人を集め、集めた人は噂を太らせる。京という器が、ふいにひとつ大きくなったような数日だった。

 屯所の土間でも、名は紙の上で太った。
 会津からの使者が来て、礼と今後の権限を述べる文が読み上げられる。近藤は背を正し、土方は目だけで全体を押さえ、山南は端に点を足す。紙の上では、事は綺麗に並ぶ。誰が突入し、誰が討ち取り、誰が捕縛したか。名と数字は鏡のように整然だ。
 蓮は柱の影から、その鏡を斜めに覗いた。自分と静の名が、どこにも映っていないことは、知っていた。知らないふりをする術も、覚えていた。けれど、知っていても身体は温度を持つ。喉の奥に小石が入り込んだような違和感が、飲み込みづらく残る。

「静」
「はい」
 静は、刃の“背”だけを布で拭いていた。刃は拭かない。背は濡らす。冷たさを“忘れない場所”に置くやり方だ。
「俺たち、どこにも書かれてない」
「はい」
「平気なのか」
「はい。――書かれないほうが、長持ちします」
「何が」
「夜が、です」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、夜にはよく効きます」

 昼、茶屋の前を通れば、娘が目を輝かせて言った。
「近藤さん、ほんまにようやりはったんやて」
 蓮は頷き、湯気の向こうで息を吐く。湯気は白い。白は夜の色だ。
 静は小さく銭を置き、湯飲みの影を指で一度なぞって立ち去る。影は、触ると形が崩れる。崩れた形は、次の夜の道具になる。

     ◇

 名は人を呼ぶ。人は紙を欲しがる。紙は、名を増やす。
 ある日、会津詰めの書役が屯所に現れ、夜の次第を改めて筆記したいと言った。表の者だけでは足りぬ、と。
「裏手の手当も、記入する必要がある」
 書役は、目に薄い光を含んでいた。紙のための目だ。
 土方は短く答える。
「裏は裏だ。裏であるから裏だ」
「しかし会津の御用としては、過不足なく――」
「過不足のない紙は、夜を壊す」
 言い切りは鋭く、しかし声は上げない。声を上げると、紙が太る。太った紙は、棚を占領する。棚が重いと、夜が折れる。
 書役は唇を噛み、やがて別の紙を取り出した。
「では……せめて裏路地の配置図だけでも」
 そこで静が一歩、半寸だけ前へ出た。
「配置図でしたら、僕が描きます」
 土方が目だけで許す。
 静の筆は早く、薄く、余白が多い。余白が多い図は、読む者を選ぶ。書役は何度も首を傾げ、ついに「なるほど」と言った。なるほどの中身は、何も伝わっていない。だが紙は満足し、満足した紙は、棚で静かに眠る。眠る紙は、夜を邪魔しない。

 図を描き終えたのち、静は筆を洗いながら小声で言う。
「矢野さん。――筆で殺せるなら、それが一番静かで効率的だ、と前に言いました」
「言った。気に入らなかった」
「はい。僕も、気に入っていないです」
「は?」
「紙に任せすぎると、噂が死ぬからです」
「……お前、ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

     ◇

 名は、瓦版屋も呼ぶ。
 池田屋近くの路地に、痩せた瓦版売りが立った。名を太く言い、手柄を並べ、どこかに“物語の隙間”を探している。
「兄さん方、昨夜の“白い影”は、どこの誰や」
 木口版に描かれた白は、子供でも怖がらぬ丸い白だった。
「幽霊やろ」
「幽霊は文章にしづらいです」と瓦版売りは苦笑した。「名が要る」
 静は首を傾げ、湯飲みの縁を指で弾く。小さく乾いた音が出る。
「幽霊に名を与えると、生き返りますよ」
「ほな、それがええ」
「生き返った幽霊は、噛みます」
 瓦版売りの喉が動いた。
「……ほな、そのまま幽霊でええ」
 静は笑わない。笑わないことで、夜の隙間はそのまま保たれる。
 蓮は湯を飲み干し、瓦版屋にひとつだけ嘘を渡した。
「白い影は北に立つ」
 嘘は、噂の兄弟だ。兄弟をひとり増やせば、敵の足は半歩遅れる。

     ◇

 名は、町人の礼も呼ぶ。
 夕暮れ、材木小屋の親父が背を丸めて来て、静の前で頭を下げた。池田屋の夜に小屋を貸した、と彼は言う。実際には“貸した”のではなく、“あった”のだが、人は自分の夜に理由をつけたがる。
「おかげで、うちの角材は、ええ仕事した」
「ありがとうございます」
 静は深く頭を下げ、親父の手に包んだ薄い金を握らせる。
「いや、わし、金は……」
「返らない借りです。――僕のほうが」
 静の指は冷たい。冷たい指で握られた金は、熱が金のほうへ移る。金が熱を持つと、言葉が柔らかくなる。
 蓮は横で黙って見ていた。返らない借りが、またひとつ増えた。静の懐の「与」は、さらに欠けを増す。

     ◇

 名は、敵も呼ぶ。
 池田屋の取りこぼしが、小さな牙を研いでいた。夜半、古書肆の裏で、長州の草が二人、密談した。
「白い影は、北に立つらしい」
「ならば、南で火を起こす」
 言葉は、意志を持ちたがる。意志を持った言葉は、足になる。
 静はその足の向きを、半寸だけずらした。香具屋の火を低くし、粉屋の口を緩め、梯子の二段目にわずかな“たわみ”を残す。
「矢野さん。今夜は“前の手前”を長くしてください」
「この前は短くって言っただろ」
「はい。今夜は、噂の足を疲れさせます」
「わかるように言え」
「遅い夜は、壊れません」
「……詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
 蓮は肩を落とし、歩幅を半寸、短くする。短くすると、足裏が石の欠け目を拾う。拾った欠け目のぶん、呼吸が静かになる。静かになれば、噂は勝手に遠くへ行く。

     ◇

 そんな夜の合間、蓮はどうしても訊かずにいられなかった。
「俺たちは、このまま名もなく消えるんですか」
 焚き火の明かりが、静の白い頬の端だけを照らす。灯は低く、火は長持ちする高さだ。
「名は消えても、刃は残ります」静はいつもの調子で言う。「人が語る噂の中にでも、残ることはあります。――でも、僕らの刃は“残らない”ことに意味がある」
「意味って、なんだよ」
「記録に残らないからこそ、縛られない。縛られないから、間に入れます。名の者と名の者の、隙間に」
「隙間に入って、何をする」
「噂の向きを半寸、変えます。灯を半寸、下げます。刃を半寸、遅らせます」
「半寸、半寸って……」
「半寸の差で、人は生き、町は眠ります」
 焚き火が小さくはぜる。はぜた音は、紙にならない。
 蓮は黙った。自由、という言葉は甘いが、夜に甘い言葉は役に立たない。静は甘く言わない。言わないかわりに、半寸の手を置く。
 沈黙が伸び、焚き火の赤がゆっくり低くなる。
「静。……お前は、誰を守ってる」
「矢野さん」
「俺じゃなくて」
「近藤さん。総司さん。新選組。――それから、町です」
「全部かよ」
「はい。全部は守れませんから、半分ずつ守ります」
「半分?」
「はい。半寸ずつ」
 蓮は笑って、額に手を当てた。火の熱は遠く、夜の冷たさが手の甲に薄く残る。

     ◇

 名を持たぬ者の仕事は、名を持つ者のすぐ隣で起きる。
 ある晩、近藤が町人に囲まれて礼を受けていた。子供が抱かれ、女房が涙を拭い、男たちが「誠」の旗に手を触れる。
 その群れの外側に、ひとりの若い浪士が“声”を仕込んで近寄った。
「会津の犬が偉そうに」
 小さな声は、意外と遠くへ行く。小さな声に人が集まる。集まったところへ火が入る。
 蓮は群れを割る寸前の若い肩に、わざとぶつかり、湯気の立つ饅頭を落として見せた。
「おい、すまねぇ」
 熱い餡が手を汚す。汚れた手は鯉口に触れない。触れない手が一呼吸分、世界を遅らせる。遅れの間に、静の白い袖が“声”の根を撫でた。喉の前の空気を、刃ではなく視線で押さえる。若い浪士は視線に喉を掴まれ、言葉を忘れた。
 近藤は何も知らない。知らないまま笑い、礼を受け、町の器を少し大きくして去る。それでいい。名は、器の外側を磨く。影は、器の内側のヒビを撫でる。

     ◇

 名を持たぬ者は、記録を消すこともする。
 その夜、会津の役宅で、池田屋の補記が加えられると聞いた。裏手に走った者の名も、何名か記すという。
 静はその紙に、薄い墨で「点」を打った。点は小さいが、墨の粒は多い。多い粒は、乾きが遅い。遅い乾きは、紙を重ねる手を慎重にする。慎重になった指は、名前の一つを見落とす。
 見落とされた名は、記録に残らない。残らないことは、空白であり、余白だ。余白は、夜の資本。
「静」
「はい」
「俺の名、消したのか」
「はい。――矢野さんの、ではなく“矢野という形の名”を」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
 蓮は息を吐いた。吐いた息が、夜の温度で少し白い。白は夜の色だ。

     ◇

 名を持たぬ者は、名を与えることもある。
 翌晩、辻の陰で、小僧が泣いていた。池田屋の夜、父親を失ったらしい。名は紙に残ったが、飯が残らない。
 静は無言で近づき、小僧の手に小さな札を握らせた。そこには新しい「名」が書かれている。
 ――材木小屋の手伝い。
 名のない働き口に、名をつける。名をつけると、人が見つけやすい。見つかったところで、静は離れる。
「静。……優しいのか、残酷なのか、わからん」
「はい。わからないうちは、壊れません」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
 小僧は札を抱え、走り去った。走る小さな背中は、名を持った。名があれば、今夜は眠れる。

     ◇

 名は重い。
 近藤の名が京で太るほど、土方の視線は薄く鋭くなった。太いものの隣では、薄いものがよく効く。
「池田屋の誉は、紙に渡した。――裏は、白に残す」
 土方はそう言った。白は夜の色であり、余白だ。
 蓮は頷いた。心の奥の小石は、完全には消えない。だが形が変わる。角が取れて、丸くなる。丸い小石は、歩くときに足裏で転がり、足の置き方を教えてくれる。

 夜、川辺で、蓮は日記に書きつけた。
――名を持たぬ者。だが、その影にこそ真実がある。
 筆跡は震えた。震えた線は、紙に食い込む。食い込んだ線は、明日の夜の筋肉になる。
 書き終えて、刃の背を濡らす。背は冷え、刃は濡れない。忘れない場所に涼しさを置く。置いて、灯を半寸、下げる。下がった灯の下で、寺の鐘がひとつ遅れて鳴った。遅れのぶんだけ、音の尾が長い。長い尾が、池田屋の余韻を骨へ戻していく。

     ◇

 総司が咳を二つ。
 笑いをひとつ。
「静。君の白は、今夜もよく効く」
「ありがとうございます」
「矢野。君の“前の手前”は、もう君の癖になっている」
「直らない癖は、良い癖か?」
「夜には、ね」
 春の冗談は、秋の気配の前で薄く笑い、風で千切れて水面に落ちた。輪が広がる。すぐ消える。

 静は蓮の背に向かって、いつもの言葉を置いた。
「背中を預けるのは、光にだけでいいです」
「わかってる。俺は、お前の背中に視線を置く」
「ありがとうございます。視線は、影の釘です」
「もういい、その喩え飽きた」
「承知しています」
 飽きた喩えは、しかし身体に残る。残るというのは、効くということだ。

     ◇

 名を持たぬ者の夜は、次の名に備える夜でもある。
 御所の風向きが変わり、町の骨が別の熱で鳴る。七月の文字が紙の隅に薄く現れ、まだ名にならない音だけが先に走る。
 静は灯をまた半寸、下げた。
 蓮は歩幅を半寸、短くした。
 半寸の差で、火は遠のく。
 半寸の差で、人は生きる。
 半寸の差で、名は残り、名は消える。
 その差を、毎夜、置く。

 蓮は静の横顔を見た。白い頬は焚き火の赤をほとんど拾わない。拾わない分だけ、長く残る。
「静。……お前、名が欲しくないのか」
「はい。要りません」
「ずっとか」
「はい。矢野さんが、覚えていてくだされば」
 あまりに真っすぐ言うものだから、蓮は鼻を鳴らした。
「お前、ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
 返事が、妙に柔らかかった。柔らかい返事は、夜の骨の隙間で鳴る。

     ◇

 京の朝はまた来る。
 魚の匂い、米の匂い、濡れた木の匂い。井戸の足を子が石で叩き、良い音を出す。良い音は、紙にならない。紙にならないものだけが、長持ちする。
 壬生狼の名は、相変わらず辻に立ち、人を動かし、町を止める。
 その陰で、名を持たぬ者が、灯を半寸、噂を半寸、刃を半寸、あらゆるものを“遅く”する。遅くしたぶんだけ、夜は壊れない。

 名を持たぬ者――矢野蓮と沖田静。
 記録にない二つの影は、町の骨の隙間を選び、呼吸の間で立ち、紙の外側で夜を支えた。
 蓮の胸の小石は、もはや石ではない。角の取れた“釘”になり、肩に一本、背に一本、静の指の形で残っている。
 その釘の上に、今日も「前の手前」を置く。
 置いた先で、灯を半寸、下げる。
 下がった灯の下で、寺の鐘がひとつ遅れて鳴る。
 遅れは、合図だ。次の夜への。

 名は、いつか紙から剝がれる。紙は、いつか棚から落ちる。
 それでも、白は夜の色だ。
 白い余白に、人の手が置いた半寸の記憶が残る。
 残った記憶は、誰にも読めないが、確かにそこにある。
 名を持たぬ者の仕事は、その“読めない確かさ”を毎夜、増やすことだ。
 蓮は日記を閉じ、静の背に視線を置いた。視線は刃と同じ。温度がある。温度は背中に入り、刃は真っ直ぐ走らない。ほんの少し遅れる。その遅れが、誰かを生かす。

「行くか、静」
「はい、矢野さん」
「今日はどっちだ」
「北です。噂に“乗らせ”ます」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
 ふたりは、灯の低い方へ歩き出した。
 半寸の歩幅で、半寸の呼吸で、半寸の刃で。
 名は背に付かない。
 だが、足跡は残る。紙には書かれないが、石は覚える。
 京の石は、今日も二人の足の重みを、確かに受け止めた。