夜明け前の京は、音のない器のようだった。
池田屋の周りの石畳は、まだ温度を持っている。血が乾くときに出す、鉄と塩の匂いが薄く立ちのぼり、風に撫でられては路地の角に溜まっていた。町人は戸を閉ざし、雨戸の間からだけ目を出す。犬は吠えない。寺の鐘も、ひとつ遅れて鳴るのをためらっている。
新選組屯所の土間には、紙が多かった。
夜の仕事は紙にならない、と誰もが知りながら、夜の翌朝だけは紙が増える。捕縛した者、討ち取った者、逃げた者――数字と名が等間隔に並び、墨の黒は濃く、乾くのに時間がかかる。紙の上の勝ち負けは、乾いてから効く。乾く前の匂いは、生きている。
近藤勇は真ん中に座し、報告を束ねてから背を正した。声は太く、抑えが利いている。
「会津様への上使には、俺が出る。池田屋にて尊攘の徒を捕らえ、市中に火の手なし――それでよい」
土方歳三は横で首をわずかに動かし、数字の列を指先でなぞってから、一本抜いた。
「よい。……ただし“逃れ”は、あと二」
「承知」
短い言葉が、畳に吸われる。
蓮は柱の影で帳面を見ていた。紙には、多くが載り、少しが載らない。載らない少しの方に、自分の手が含まれている。逃げ道を塞ぎ、火を遠ざけ、声を出させず、刃の角度だけ奪う――そうした手は、紙の行に乗らない。
それが当然だと頭ではわかっている。だが胸の内側で、まだ乾かない何かが重く残っていた。
「静」
「はい」
白い袖が、背でゆっくり揺れる。静は刀の背だけを布で拭いていた。刃は拭かない。拭かないで、背だけ濡らして、冷やして、置く。
「名が残らないのは、寂しくないか」
「名は、残らなくていいです。――刃が残れば」
「刃って、物かよ」
「はい。物です。手の中の重みは、嘘をつかないですから」
「物なら、いつか錆びる」
「錆びます。錆びる前に、手癖に変えてしまえば、しばらく大丈夫です」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、夜にはよく効きます」
土方が帳面の束を軽く叩き、全体を見回した。
「表は俺たちが受け取る。裏は、お前らが持ってろ」
静は軽く頭を下げ、蓮は無言で顎を引いた。
表と裏は、対になる。対が崩れない限り、組は進む。崩れないうちに、次の夜の支度をする――それが、この屯所の骨の動きだった。
◇
町は、朝のうちに噂を立てた。
「新選組が三十人を斬った」「白い影が火を消した」「狼が京を守った」。数字はその都度ふくらみ、白い影は怪異になり、狼は群れに増える。昼までには「池田屋の二階に幽霊がいた」までが加わる。蓮は茶屋の軒で湯飲みを持ちながら、耳で噂の温度を計った。
噂は、冷たいうちに人の心を締める。温まると、饅頭になる。饅頭になった噂は、甘くて食べやすいぶん、効き目が薄い。
静は隣で湯気を見ていた。
「矢野さん。今日の噂は、明日まで持ちません」
「わかるのか」
「はい。言葉が丸いです」
「丸いと、だめなのか」
「丸いと、転びます。角があるうちは、人の骨に刺さります」
「理屈が悪い」
「ありがとうございます」
噂の角は、午後には丸くなった。
「会津の犬が、長州の狐を噛んだ」まで出てくれば、もう饅頭だ。子供の歌になり、辻で輪唱され、やがて飽きられる。
飽きられる前に、夜は次の呼吸を準備する。静は香具屋の裏で香の皿を一つ高くし、粉屋の樽の口をほんの半寸だけ締め、辻占の婆の札に目だけで礼をした。札の裏には、相変わらず欠けた「与」。返らない借りは、増えるほど軽くなる。軽くなるぶん、持つ手の指は冷える。
◇
正午過ぎ、会津から使者が来た。
近藤が座して応対し、土方が言葉を端折って受け、山南が紙の端に点を打つ。
「池田屋の夜、会津守護の功」
言葉は太く、紙は厚い。蓮の耳には、遠い。
紙に書かれた夜と、自分の足の感触の間に、半寸の隙間がある。半寸は小さく、しかし確実だ。
蓮はその隙間に、自分の吐き気を置いた。吐き気は角を持つ。角は柄の角で相殺できる。相殺したあと、残るのは少しの苦味だけ。苦味は、夜を遅らせるのに役立つ。
夕刻前、総司が縁に腰を下ろし、竹を膝に乗せて笑った。
「静。君の“横”は、昨日も今日もよく効く」
「ありがとうございます」
「矢野。君の“前の手前”も、だ」
「“前”じゃなくて悪かったな」
「前と手前の間に、火がある。君がそこに立つと、火は遠い」
「詩人ぶるなよ」
「春の仕事さ」
笑いのあとで、咳がひとつ。浅い。浅いうちは、影が支える番だ。
静は一歩引き、総司の咳に目を落とさない。光に心配をかけない――影の礼儀は、いつもどおりだ。
◇
夜、川辺。
衣についた血の色は、水の中で薄くほどけ、川の底で紙のように波打った。蓮は膝を折り、刃の背を濡らす。刃は濡らさない。
「静」
「はい」
「俺たちは、何になるんだ」
「影です」
「影って、形がないだろ」
「はい。形がないものほど、長く残ります」
「人は、死ねば消える」
「死ねば消えるものを、夜の間だけ人にします」
「誰が」
「僕が。――いえ、僕らが」
静は言い直した。砕けた敬語は、角が取れて丸くなる。丸い敬語は、夜の骨を柔らかくする。
水面に月が細く立つ。立った月の端に風がかかり、輪が幾つか広がる。輪はすぐ消える。消えるまでの短い間が、余韻だ。
池田屋の余韻は、長くはない。だが短いゆえに、深く沈む。沈んだものは、動かすときに力が要る。力を使い過ぎると、夜が壊れる。
「静。……俺の中で、まだうるさい」
「はい。うるさいうちは、刃を抜かないでください」
「抜かないで、どうする」
「柄で、喉の前の空気を撫でます」
「またそれか」
「はい。音を書いているだけです」
◇
翌日。京は“知らない顔”で動き始めた。
魚屋が声を張り、桶の水が陽に白く光り、子供が井戸の足を蹴ってよい音を出した。市は、夜よりも速い。昼の速さに夜の余韻は混じりにくい。
それでも、町の骨には薄く残っている。辻の陰で、誰かが囁く――「白い影が火を食った」。
静はそれを聞き流し、香の皿に目をやる。火は低い。低い火は、長持ちする。長持ちする火は、夜を遅らせる。
昼過ぎ、土方が静を呼んだ。
「裏の手当てだ」
彼が差し出したのは紙ではなく、古びた手拭と、薄い金子。
「香具屋、粉屋、辻占。……そして、茶屋の娘」
「承知しました」
返らない借りは、増える。増えるたび、指は冷える。冷えた指で、刃を長く握る。
蓮は横で見ていたが、何も言わない。言えば、裏が表に上がる。上がれば、噂が死ぬ。噂が死ねば、道具が減る。
「矢野さん」
「なんだよ」
「今日の稽古は、“前の手前”をさらに短くします」
「また短くすんのか」
「はい。短い“手前”は、長い“余白”になります」
「余白ばっか言うな」
「白は、夜の色です」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
◇
その晩、稽古場で竹の音が乾いて三度鳴る。
静は半寸、間を詰めてから、さらに半寸、下がった。
「静。……詰めたり下がったり、忙しいな」
「はい。忙しい動きほど、外からは“何もしていない”ように見えます」
「それがいいのか」
「はい。“何もしていない”ように見える夜が、一番、町が太ります」
「町が太る、ね」
「太った町は、刃を折りません」
蓮は苦笑し、構えの肩をわずかに落とした。落とすと、胸のうるささが半分まで沈む。沈んだぶん、目がよく見える。目が見えれば、角度が見える。角度が見えれば、斬らないで止められる。
そこへ、総司がふらりと現れた。
「二人とも、昨夜の残り火で手を温めるのは、ほどほどに」
「はい」
「わかってる」
笑いに、咳が一本、薄く継がる。静は視線を落としたまま、何も言わない。蓮は総司の横顔の皮膚の色を一瞬だけ確かめ、それ以上見ないと決めた。光へ心配を投げるのは、影の礼儀に反する。
◇
三日目。
池田屋の名は、紙の上で太った。瓦版は大きな字で“新選組大手柄”と打ち、寺子屋の子供はその字を指でなぞった。噂は逆に薄くなった。白い影の話は、幽霊譚に落ちて、肝試しの材料になった。
幽霊は、役に立つ。恐れは、人を家に帰らせる。帰った人は、火を持たない。火を持たない夜は、音が柔らかい。
その日、蓮はひとりで池田屋の裏路地を歩いた。
血の跡は、雨で薄くなっている。材木小屋の角材は、誰かが別の場所へ運び、縄の結び目は解かれかけたまま、もう生きていない。
「静」
背後には誰もいないが、呼んでしまう。
影の感触は、そこに残っている。
「俺たちの夜は、紙にならない」
声に出すと、少し軽くなる。
ふと、路地の角で、年端もいかない子が石を拾い上げ、蓮を見上げた。
「おじちゃん、幽霊とったん?」
「幽霊は、子供がとるもんだ」
「ほんま?」
「ほんま」
子は笑って、石を井戸の足に投げた。良い音がした。
蓮は、その音で十分だと思った。噂はもう饅頭でいい。饅頭の上で、誰かが安心して眠れるなら、それが夜の手柄だ。
◇
四日目の早朝、会津からの返書が届き、近藤が皆に読み上げた。
「京守護の忠節、殊勝。以降、巡察の権、ますます任せる」
紙の言葉は太く、意味は重い。太くて重いほど、隙間が少ない。隙間がない紙は、呼吸を邪魔する。
土方は読み終えて紙を畳み、声を低くした。
「……つまり、ここからが本番だ。表は硬く、裏は柔らかく。音を変えるな」
「承知」
静の返事は短い。蓮は口を引き結んだ。
表が硬くなればなるほど、裏には余白が要る。余白の管理は、刃より難しい。刃は角度で決まるが、余白は呼吸で決まる。呼吸は、人だ。人は、揺れる。
その夜、静がいつもより早く言った。
「矢野さん。――“前の手前”、今日は長くしてください」
「おい、今度は長くすんのか」
「はい。長い“手前”は、短い“刃”になります」
「意味がわかんねぇ」
「刃は、短いほうが、遅くなります」
「遅いのが、いいのか」
「はい。遅い夜は、壊れません」
理屈は悪い。だが、悪い理屈ほど夜には効く。蓮は肩を落とし、呼吸を長くした。長い呼吸に合わせて、町の音が少し遠くへ行く。遠くへ行った音は、戻るまでに時間がかかる。その時間の間は、刃が抜かれにくい。
◇
五日目。
瓦版に新しい記事が出た。「池田屋にて討死の有名浪士」。名の並びに、蓮は目を落とした。知っている目の形が、そこに紙の字になっている。知っているというのは、たった一度、裏口の涼しさの中ですれ違っただけだったが、それでも目は目だ。
目は生き物だ。紙の上に目はない。紙の上にあるのは、文字だ。
蓮は瓦版を折り、井戸の縁に置いて風に任せた。風は、紙をめくった。めくられた余白が、白い。白は夜の色だ。
「静」
「はい」
「俺、あの目、知ってたわ」
「はい。――知っている目ほど、紙にすると、軽くなります」
「軽くなって、いいのか」
「はい。軽くなるぶん、夜の下に沈んでいた重さが、少し上がります」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
その日の暮れ、辻占の婆が札を裏返した。
裏には、欠けた「与」。
静は札に触れず、目で礼をした。
返らない借りは、ここ数日でまた増えた。香具屋、粉屋、茶屋の娘、材木小屋の親父、瓦版を届けた小僧。
「静」
「はい」
「全部、返す気か」
「はい。返せないのは、僕が持ちます」
「勝手に決めるな」
「はい。決めます」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
そのやりとりは、夜の骨の音になって、二人の足の裏で小さく鳴った。
◇
六日目、巡察の夜。
池田屋の筋は、人が避けるようになった。避ける道は、細い筋に人を集める。集まったところには、噂が巣を作る。
「白い影を見た」
噂は、今や子供の肝試しではなく、路地の見張りの合言葉になっていた。
静はそれを嫌わなかった。合言葉は、盗まれるためにある。盗まれた合言葉は、道の向きを教える。
「矢野さん。今夜は北へ立ちます」
「白い影、北に立つ、ね」
「はい。言葉どおりに立つ夜が、時々、必要です」
「わざと噂に乗るのか」
「噂に乗せるのではなく、噂に“乗らせる”んです」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
北に立つと、南の火は遅れる。
遅れた火は、別の夜の名になる。名が増えれば、紙は太る。紙が太れば、噂は薄まる。薄まった噂は、また拵えが利く。
夜を幾つか先回りし、裏口の蝶番に油を差さず、梯子の二段目のたわみをそっと残し、濡れ縄をほどけやすくほどけにくい角度で結び直す。
蓮は“前の手前”を長く取り、声を出させない。出そうとする声の前で、空気を撫でて止める。止められた声は、内側へ戻る。内側へ戻った声は、怒鳴りにならない。怒鳴りがない夜は、長持ちする。
◇
七日目。
池田屋の跡に、別筋の匂いが混じり始めた。長州の動き。七月に向けて、京の骨が別の熱を帯びてくる。
近藤が紙を握り、土方が目で京の地図を撫で、会津からの文が厚くなる。
静は、灯をさらに半寸、下げた。
「矢野さん。――ここから、日々、半寸ずつです」
「また半寸かよ」
「はい。半寸を十回やれば、五寸です」
「算術するな」
「音を書いているだけです」
蓮は笑って、柄の角を指で撫でた。角は丸くなり、丸い角は、今夜の角度を教える。角度があれば、刃はいらない。
その夜、川辺で総司が笑い、咳を二つ。
「静。君の白は、今夜も鼠だ」
「はい。灯の外では」
「灯の内では、紙だ」
「紙は、いつか破れます」
「破れたら、また貼ろう」
蓮は二人のやり取りを聞きながら、川面に浮く月の輪を数えた。輪は三つ、四つと広がり、やがて消える。消えるたび、胸のうるささが半分まで沈む。沈んだぶんだけ、夜が軽くなる。
◇
八日目の朝。
町はいつものように魚の匂いで目を覚まし、井戸の足に子が石を当てて良い音を出し、茶屋の娘が湯気を数え、粉屋の樽が白く静かに息をする。
池田屋は、もう過去だ。過去は紙になり、紙は棚に入れられ、棚はほこりをかぶる。
ほこりが積もる前に、蓮は帳面を開いた。
――灯を半寸、下げ続けろ。
――“前の手前”は短くも長くも、夜の骨に合わせて。
――刃は濡らさず、背だけ濡らす。
――釘になる。
書いたあとで、灯を本当に半寸、下げた。紙の黒は濃くなり、乾くのに時間がいる。時間がいる文字は、記憶に食い込む。食い込んだ記憶は、次の夜の筋肉になる。
静は懐の「与」を指で確かめた。欠けは、少し増えている。
返らない借りを持つ者の指は、冷える。冷えた指で刃を握ると、長く持てる。長く持てる刃は、遅い。遅い刃は、夜を壊さない。
「静」
「はい」
「池田屋は、俺たちの夜でもあったよな」
「はい。――でも、紙には書かれません」
「わかってる。わかってるけど、言っておく」
「ありがとうございます。言葉は、釘です」
「なんでも釘にすんな」
「矢野さんのためだけに、です」
蓮は笑い、視線を静の背に置いた。視線は刃と同じ。温度がある。温度が背中に入ると、刃は真っ直ぐ走らない。ほんの少し遅れてくれる。その遅れが、人を生かす。
◇
九日目の夕刻。
辻に、武家の駕籠が増えた。動きが速く、声が低い。御所の周りの風が変わっている。町の骨が、新しい熱に慣れようとしてぎしりと鳴った。
「静」
「はい」
「次の火は、どこからだ」
「南から来て、北へ逃げます」
「理由は」
「噂の向きが、今日、南を指しました」
「誰の噂だ」
「“金”です」
金筋の噂は、刃より速い。速いものに刃を当てても、刃が磨り減るだけだ。
蓮は顎を引き、肩を落とした。
「じゃあ、俺は“手前”を長くする」
「ありがとうございます。僕は“横”を広くします」
「お前は、横ばっかだな」
「はい。横は、余白です」
「余白、余白……」
「白は、夜の色です」
「……もういい」
二人の会話は、そのまま骨の音になった。
◇
十日目、夜半。
池田屋の通りを、若い浪士が三人、慎重に横切った。音は軽く、目は動き、手は鯉口から離れない。
蓮は“前の手前”で息を一度だけ変え、短く言った。
「通る」
浪士は反射で道を開けかけ、静の白い袖が一瞬だけ灯の縁に浮き、すぐ消えた。
「狼だ」
噂の言葉で返すと、三人の脚から力が抜けた。噂は、心を先に斬る。心が斬られると、刃は遅れる。遅れた刃は、夜を壊さない。
その帰り途、川面に月が折れて揺れる。総司の笑いが遠く、咳が一つ。
静は月を見ず、川の縁の濡れ縄の結び目を直した。結び目は、ほどけやすくほどけにくい角度。
「静」
「はい」
「俺、まだ、池田屋がうるさい」
「はい。……うるさいうちは、半寸、歩幅を短くしてください」
「歩幅?」
「はい。歩幅を短くすると、刃は遅れます」
「遅れれば、いいのか」
「はい。遅れれば、見えます」
蓮は黙り、歩幅を半寸、短くした。短くすると、足の裏が石の欠け目を拾う。拾った欠け目のぶんだけ、呼吸が整う。
◇
十一日目。
会津からの書状に、禁門の火の文字が薄くにじむ。まだ名にはなっていないが、骨が覚悟を始めている。
近藤は昼、土間で声を低くした。
「池田屋の夜は終わった。次は、都の夜だ」
都の夜。
蓮はその言葉の響きに、胸の奥のうるささが少しだけ形を変えるのを感じた。大きな夜は、個々の呼吸を飲み込む。飲み込まれないために、余白が要る。余白を作るのは、裏の役だ。
静は、灯をまた半寸、下げた。香の皿を低くし、粉屋の樽の口を緩め、蝶番に油を差さず、梯子の二段目にわずかなたわみを残した。
「矢野さん」
「なんだ」
「今夜は、“釘”をもう一本、打ちます」
「どこへ」
「あなたの肩へ」
「……は?」
静は、蓮の右肩の骨の上に、人差し指を軽く置いた。置いて、すぐ離す。
「そこに“止まる”を、覚えさせてください」
「あいにく、肩は賃貸じゃねぇ」
「はい。借ります」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
指の感触は短く、しかし残る。残るから、次の夜に効く。
◇
十二日目。
池田屋周辺の通りに、また子供の声が戻った。幽霊をとっただの、狼の足跡を見ただの、白い影に肩を叩かれただの、話は丸く甘くなって、笑いの形で転がった。
笑いは、夜を遠ざける。
その笑いの背で、別の笑いが咳に繋がり、薄く消えた。総司の笑いはいつも春だ。春は薄くて、遠くへ飛ぶ。飛んで、戻ってくる。戻る間に、影が支える。
夜、蓮は川辺で衣の血をもう一度洗った。血は薄くなり、代わりに布の匂いが強くなる。布の匂いは、昼のものだ。昼の匂いを夜に持ち込むと、夜が少し軽くなる。
「静」
「はい」
「池田屋のこと、俺、忘れねぇようにする」
「ありがとうございます。――忘れない場所に、涼しさを置いてください」
「背を濡らすってやつか」
「はい」
蓮は刃の背を水に浸し、冷たさを指に移した。冷たさは、重みを静かに変える。重みが変われば、角度が変わる。角度が変われば、刃はいらない。
◇
十三日目。
紙は棚へ、噂は饅頭へ。
夜は、新しい名を探し始めた。蛤、御門、七月。
名が来る前に、半寸を十回。
静は間を詰め、蓮は“前の手前”で止まり、二人の呼吸が揃う。
「矢野さん」
「なんだ」
「背中を預けるのは、光にだけでいいです」
「わかってる。俺は、お前の背中に視線を置き続ける」
「ありがとうございます。視線は、影の釘です」
「もういい、釘と白は腹いっぱいだ」
「承知しています」
言いながら、静はほんの少し笑った。
笑いは短く、音にならない。音にならない笑いは、夜の余白を柔らかくする。
◇
十四日目の夜明け前。
京は、また器のように静かだった。
池田屋の路地では、血の匂いはもう薄い。代わりに、乾いた木と米の匂いが戻ってきている。
誰もが、あの夜を口にするだろう。紙は太く、噂は甘く、名は残る。
だが、名のない方の夜も、確かに残る。灯の高さ、結び目の角度、蝶番に差さなかった油、たわませた二段目、材木の寝かせ、柄で撫でた喉の前の空気、洗わなかった刃の背、そして欠けた「与」。
それらは紙にならず、人の手の中と足の裏にだけ残る。
残るぶんだけ、次の夜は壊れにくい。
蓮は立ち上がり、肩の骨を軽く回した。
そこには、静の指の釘が、まだ薄く残っている。
「静」
「はい」
「俺、ようやく少し、静かになった」
「はい。……ありがとうございます」
「礼を言うな。――行くぞ」
「はい。行きます。矢野さんの“前の手前”に、間に合うように」
「遅れるなよ」
「遅れます」
「は?」
「半寸だけ。――夜を壊さないために」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
二人は同じ方向へ出た。
灯は低く、風は薄く、寺の鐘がひとつ遅れて鳴る。
遅れのぶんだけ、音の尾は長い。
長い尾が、池田屋の夜の余韻を、隊の骨に帰していく。
白は、夜の色だ。
白い余白に、書かれないほうの歴史が、音もなく積もっていく。
その上を踏まず、踏ませず、半寸ずらして、次の名の方へ――二人の足音は、相変わらず、良い音だった。
池田屋の周りの石畳は、まだ温度を持っている。血が乾くときに出す、鉄と塩の匂いが薄く立ちのぼり、風に撫でられては路地の角に溜まっていた。町人は戸を閉ざし、雨戸の間からだけ目を出す。犬は吠えない。寺の鐘も、ひとつ遅れて鳴るのをためらっている。
新選組屯所の土間には、紙が多かった。
夜の仕事は紙にならない、と誰もが知りながら、夜の翌朝だけは紙が増える。捕縛した者、討ち取った者、逃げた者――数字と名が等間隔に並び、墨の黒は濃く、乾くのに時間がかかる。紙の上の勝ち負けは、乾いてから効く。乾く前の匂いは、生きている。
近藤勇は真ん中に座し、報告を束ねてから背を正した。声は太く、抑えが利いている。
「会津様への上使には、俺が出る。池田屋にて尊攘の徒を捕らえ、市中に火の手なし――それでよい」
土方歳三は横で首をわずかに動かし、数字の列を指先でなぞってから、一本抜いた。
「よい。……ただし“逃れ”は、あと二」
「承知」
短い言葉が、畳に吸われる。
蓮は柱の影で帳面を見ていた。紙には、多くが載り、少しが載らない。載らない少しの方に、自分の手が含まれている。逃げ道を塞ぎ、火を遠ざけ、声を出させず、刃の角度だけ奪う――そうした手は、紙の行に乗らない。
それが当然だと頭ではわかっている。だが胸の内側で、まだ乾かない何かが重く残っていた。
「静」
「はい」
白い袖が、背でゆっくり揺れる。静は刀の背だけを布で拭いていた。刃は拭かない。拭かないで、背だけ濡らして、冷やして、置く。
「名が残らないのは、寂しくないか」
「名は、残らなくていいです。――刃が残れば」
「刃って、物かよ」
「はい。物です。手の中の重みは、嘘をつかないですから」
「物なら、いつか錆びる」
「錆びます。錆びる前に、手癖に変えてしまえば、しばらく大丈夫です」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、夜にはよく効きます」
土方が帳面の束を軽く叩き、全体を見回した。
「表は俺たちが受け取る。裏は、お前らが持ってろ」
静は軽く頭を下げ、蓮は無言で顎を引いた。
表と裏は、対になる。対が崩れない限り、組は進む。崩れないうちに、次の夜の支度をする――それが、この屯所の骨の動きだった。
◇
町は、朝のうちに噂を立てた。
「新選組が三十人を斬った」「白い影が火を消した」「狼が京を守った」。数字はその都度ふくらみ、白い影は怪異になり、狼は群れに増える。昼までには「池田屋の二階に幽霊がいた」までが加わる。蓮は茶屋の軒で湯飲みを持ちながら、耳で噂の温度を計った。
噂は、冷たいうちに人の心を締める。温まると、饅頭になる。饅頭になった噂は、甘くて食べやすいぶん、効き目が薄い。
静は隣で湯気を見ていた。
「矢野さん。今日の噂は、明日まで持ちません」
「わかるのか」
「はい。言葉が丸いです」
「丸いと、だめなのか」
「丸いと、転びます。角があるうちは、人の骨に刺さります」
「理屈が悪い」
「ありがとうございます」
噂の角は、午後には丸くなった。
「会津の犬が、長州の狐を噛んだ」まで出てくれば、もう饅頭だ。子供の歌になり、辻で輪唱され、やがて飽きられる。
飽きられる前に、夜は次の呼吸を準備する。静は香具屋の裏で香の皿を一つ高くし、粉屋の樽の口をほんの半寸だけ締め、辻占の婆の札に目だけで礼をした。札の裏には、相変わらず欠けた「与」。返らない借りは、増えるほど軽くなる。軽くなるぶん、持つ手の指は冷える。
◇
正午過ぎ、会津から使者が来た。
近藤が座して応対し、土方が言葉を端折って受け、山南が紙の端に点を打つ。
「池田屋の夜、会津守護の功」
言葉は太く、紙は厚い。蓮の耳には、遠い。
紙に書かれた夜と、自分の足の感触の間に、半寸の隙間がある。半寸は小さく、しかし確実だ。
蓮はその隙間に、自分の吐き気を置いた。吐き気は角を持つ。角は柄の角で相殺できる。相殺したあと、残るのは少しの苦味だけ。苦味は、夜を遅らせるのに役立つ。
夕刻前、総司が縁に腰を下ろし、竹を膝に乗せて笑った。
「静。君の“横”は、昨日も今日もよく効く」
「ありがとうございます」
「矢野。君の“前の手前”も、だ」
「“前”じゃなくて悪かったな」
「前と手前の間に、火がある。君がそこに立つと、火は遠い」
「詩人ぶるなよ」
「春の仕事さ」
笑いのあとで、咳がひとつ。浅い。浅いうちは、影が支える番だ。
静は一歩引き、総司の咳に目を落とさない。光に心配をかけない――影の礼儀は、いつもどおりだ。
◇
夜、川辺。
衣についた血の色は、水の中で薄くほどけ、川の底で紙のように波打った。蓮は膝を折り、刃の背を濡らす。刃は濡らさない。
「静」
「はい」
「俺たちは、何になるんだ」
「影です」
「影って、形がないだろ」
「はい。形がないものほど、長く残ります」
「人は、死ねば消える」
「死ねば消えるものを、夜の間だけ人にします」
「誰が」
「僕が。――いえ、僕らが」
静は言い直した。砕けた敬語は、角が取れて丸くなる。丸い敬語は、夜の骨を柔らかくする。
水面に月が細く立つ。立った月の端に風がかかり、輪が幾つか広がる。輪はすぐ消える。消えるまでの短い間が、余韻だ。
池田屋の余韻は、長くはない。だが短いゆえに、深く沈む。沈んだものは、動かすときに力が要る。力を使い過ぎると、夜が壊れる。
「静。……俺の中で、まだうるさい」
「はい。うるさいうちは、刃を抜かないでください」
「抜かないで、どうする」
「柄で、喉の前の空気を撫でます」
「またそれか」
「はい。音を書いているだけです」
◇
翌日。京は“知らない顔”で動き始めた。
魚屋が声を張り、桶の水が陽に白く光り、子供が井戸の足を蹴ってよい音を出した。市は、夜よりも速い。昼の速さに夜の余韻は混じりにくい。
それでも、町の骨には薄く残っている。辻の陰で、誰かが囁く――「白い影が火を食った」。
静はそれを聞き流し、香の皿に目をやる。火は低い。低い火は、長持ちする。長持ちする火は、夜を遅らせる。
昼過ぎ、土方が静を呼んだ。
「裏の手当てだ」
彼が差し出したのは紙ではなく、古びた手拭と、薄い金子。
「香具屋、粉屋、辻占。……そして、茶屋の娘」
「承知しました」
返らない借りは、増える。増えるたび、指は冷える。冷えた指で、刃を長く握る。
蓮は横で見ていたが、何も言わない。言えば、裏が表に上がる。上がれば、噂が死ぬ。噂が死ねば、道具が減る。
「矢野さん」
「なんだよ」
「今日の稽古は、“前の手前”をさらに短くします」
「また短くすんのか」
「はい。短い“手前”は、長い“余白”になります」
「余白ばっか言うな」
「白は、夜の色です」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
◇
その晩、稽古場で竹の音が乾いて三度鳴る。
静は半寸、間を詰めてから、さらに半寸、下がった。
「静。……詰めたり下がったり、忙しいな」
「はい。忙しい動きほど、外からは“何もしていない”ように見えます」
「それがいいのか」
「はい。“何もしていない”ように見える夜が、一番、町が太ります」
「町が太る、ね」
「太った町は、刃を折りません」
蓮は苦笑し、構えの肩をわずかに落とした。落とすと、胸のうるささが半分まで沈む。沈んだぶん、目がよく見える。目が見えれば、角度が見える。角度が見えれば、斬らないで止められる。
そこへ、総司がふらりと現れた。
「二人とも、昨夜の残り火で手を温めるのは、ほどほどに」
「はい」
「わかってる」
笑いに、咳が一本、薄く継がる。静は視線を落としたまま、何も言わない。蓮は総司の横顔の皮膚の色を一瞬だけ確かめ、それ以上見ないと決めた。光へ心配を投げるのは、影の礼儀に反する。
◇
三日目。
池田屋の名は、紙の上で太った。瓦版は大きな字で“新選組大手柄”と打ち、寺子屋の子供はその字を指でなぞった。噂は逆に薄くなった。白い影の話は、幽霊譚に落ちて、肝試しの材料になった。
幽霊は、役に立つ。恐れは、人を家に帰らせる。帰った人は、火を持たない。火を持たない夜は、音が柔らかい。
その日、蓮はひとりで池田屋の裏路地を歩いた。
血の跡は、雨で薄くなっている。材木小屋の角材は、誰かが別の場所へ運び、縄の結び目は解かれかけたまま、もう生きていない。
「静」
背後には誰もいないが、呼んでしまう。
影の感触は、そこに残っている。
「俺たちの夜は、紙にならない」
声に出すと、少し軽くなる。
ふと、路地の角で、年端もいかない子が石を拾い上げ、蓮を見上げた。
「おじちゃん、幽霊とったん?」
「幽霊は、子供がとるもんだ」
「ほんま?」
「ほんま」
子は笑って、石を井戸の足に投げた。良い音がした。
蓮は、その音で十分だと思った。噂はもう饅頭でいい。饅頭の上で、誰かが安心して眠れるなら、それが夜の手柄だ。
◇
四日目の早朝、会津からの返書が届き、近藤が皆に読み上げた。
「京守護の忠節、殊勝。以降、巡察の権、ますます任せる」
紙の言葉は太く、意味は重い。太くて重いほど、隙間が少ない。隙間がない紙は、呼吸を邪魔する。
土方は読み終えて紙を畳み、声を低くした。
「……つまり、ここからが本番だ。表は硬く、裏は柔らかく。音を変えるな」
「承知」
静の返事は短い。蓮は口を引き結んだ。
表が硬くなればなるほど、裏には余白が要る。余白の管理は、刃より難しい。刃は角度で決まるが、余白は呼吸で決まる。呼吸は、人だ。人は、揺れる。
その夜、静がいつもより早く言った。
「矢野さん。――“前の手前”、今日は長くしてください」
「おい、今度は長くすんのか」
「はい。長い“手前”は、短い“刃”になります」
「意味がわかんねぇ」
「刃は、短いほうが、遅くなります」
「遅いのが、いいのか」
「はい。遅い夜は、壊れません」
理屈は悪い。だが、悪い理屈ほど夜には効く。蓮は肩を落とし、呼吸を長くした。長い呼吸に合わせて、町の音が少し遠くへ行く。遠くへ行った音は、戻るまでに時間がかかる。その時間の間は、刃が抜かれにくい。
◇
五日目。
瓦版に新しい記事が出た。「池田屋にて討死の有名浪士」。名の並びに、蓮は目を落とした。知っている目の形が、そこに紙の字になっている。知っているというのは、たった一度、裏口の涼しさの中ですれ違っただけだったが、それでも目は目だ。
目は生き物だ。紙の上に目はない。紙の上にあるのは、文字だ。
蓮は瓦版を折り、井戸の縁に置いて風に任せた。風は、紙をめくった。めくられた余白が、白い。白は夜の色だ。
「静」
「はい」
「俺、あの目、知ってたわ」
「はい。――知っている目ほど、紙にすると、軽くなります」
「軽くなって、いいのか」
「はい。軽くなるぶん、夜の下に沈んでいた重さが、少し上がります」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
その日の暮れ、辻占の婆が札を裏返した。
裏には、欠けた「与」。
静は札に触れず、目で礼をした。
返らない借りは、ここ数日でまた増えた。香具屋、粉屋、茶屋の娘、材木小屋の親父、瓦版を届けた小僧。
「静」
「はい」
「全部、返す気か」
「はい。返せないのは、僕が持ちます」
「勝手に決めるな」
「はい。決めます」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
そのやりとりは、夜の骨の音になって、二人の足の裏で小さく鳴った。
◇
六日目、巡察の夜。
池田屋の筋は、人が避けるようになった。避ける道は、細い筋に人を集める。集まったところには、噂が巣を作る。
「白い影を見た」
噂は、今や子供の肝試しではなく、路地の見張りの合言葉になっていた。
静はそれを嫌わなかった。合言葉は、盗まれるためにある。盗まれた合言葉は、道の向きを教える。
「矢野さん。今夜は北へ立ちます」
「白い影、北に立つ、ね」
「はい。言葉どおりに立つ夜が、時々、必要です」
「わざと噂に乗るのか」
「噂に乗せるのではなく、噂に“乗らせる”んです」
「ややこしい」
「ややこしいほど、表には出ません」
北に立つと、南の火は遅れる。
遅れた火は、別の夜の名になる。名が増えれば、紙は太る。紙が太れば、噂は薄まる。薄まった噂は、また拵えが利く。
夜を幾つか先回りし、裏口の蝶番に油を差さず、梯子の二段目のたわみをそっと残し、濡れ縄をほどけやすくほどけにくい角度で結び直す。
蓮は“前の手前”を長く取り、声を出させない。出そうとする声の前で、空気を撫でて止める。止められた声は、内側へ戻る。内側へ戻った声は、怒鳴りにならない。怒鳴りがない夜は、長持ちする。
◇
七日目。
池田屋の跡に、別筋の匂いが混じり始めた。長州の動き。七月に向けて、京の骨が別の熱を帯びてくる。
近藤が紙を握り、土方が目で京の地図を撫で、会津からの文が厚くなる。
静は、灯をさらに半寸、下げた。
「矢野さん。――ここから、日々、半寸ずつです」
「また半寸かよ」
「はい。半寸を十回やれば、五寸です」
「算術するな」
「音を書いているだけです」
蓮は笑って、柄の角を指で撫でた。角は丸くなり、丸い角は、今夜の角度を教える。角度があれば、刃はいらない。
その夜、川辺で総司が笑い、咳を二つ。
「静。君の白は、今夜も鼠だ」
「はい。灯の外では」
「灯の内では、紙だ」
「紙は、いつか破れます」
「破れたら、また貼ろう」
蓮は二人のやり取りを聞きながら、川面に浮く月の輪を数えた。輪は三つ、四つと広がり、やがて消える。消えるたび、胸のうるささが半分まで沈む。沈んだぶんだけ、夜が軽くなる。
◇
八日目の朝。
町はいつものように魚の匂いで目を覚まし、井戸の足に子が石を当てて良い音を出し、茶屋の娘が湯気を数え、粉屋の樽が白く静かに息をする。
池田屋は、もう過去だ。過去は紙になり、紙は棚に入れられ、棚はほこりをかぶる。
ほこりが積もる前に、蓮は帳面を開いた。
――灯を半寸、下げ続けろ。
――“前の手前”は短くも長くも、夜の骨に合わせて。
――刃は濡らさず、背だけ濡らす。
――釘になる。
書いたあとで、灯を本当に半寸、下げた。紙の黒は濃くなり、乾くのに時間がいる。時間がいる文字は、記憶に食い込む。食い込んだ記憶は、次の夜の筋肉になる。
静は懐の「与」を指で確かめた。欠けは、少し増えている。
返らない借りを持つ者の指は、冷える。冷えた指で刃を握ると、長く持てる。長く持てる刃は、遅い。遅い刃は、夜を壊さない。
「静」
「はい」
「池田屋は、俺たちの夜でもあったよな」
「はい。――でも、紙には書かれません」
「わかってる。わかってるけど、言っておく」
「ありがとうございます。言葉は、釘です」
「なんでも釘にすんな」
「矢野さんのためだけに、です」
蓮は笑い、視線を静の背に置いた。視線は刃と同じ。温度がある。温度が背中に入ると、刃は真っ直ぐ走らない。ほんの少し遅れてくれる。その遅れが、人を生かす。
◇
九日目の夕刻。
辻に、武家の駕籠が増えた。動きが速く、声が低い。御所の周りの風が変わっている。町の骨が、新しい熱に慣れようとしてぎしりと鳴った。
「静」
「はい」
「次の火は、どこからだ」
「南から来て、北へ逃げます」
「理由は」
「噂の向きが、今日、南を指しました」
「誰の噂だ」
「“金”です」
金筋の噂は、刃より速い。速いものに刃を当てても、刃が磨り減るだけだ。
蓮は顎を引き、肩を落とした。
「じゃあ、俺は“手前”を長くする」
「ありがとうございます。僕は“横”を広くします」
「お前は、横ばっかだな」
「はい。横は、余白です」
「余白、余白……」
「白は、夜の色です」
「……もういい」
二人の会話は、そのまま骨の音になった。
◇
十日目、夜半。
池田屋の通りを、若い浪士が三人、慎重に横切った。音は軽く、目は動き、手は鯉口から離れない。
蓮は“前の手前”で息を一度だけ変え、短く言った。
「通る」
浪士は反射で道を開けかけ、静の白い袖が一瞬だけ灯の縁に浮き、すぐ消えた。
「狼だ」
噂の言葉で返すと、三人の脚から力が抜けた。噂は、心を先に斬る。心が斬られると、刃は遅れる。遅れた刃は、夜を壊さない。
その帰り途、川面に月が折れて揺れる。総司の笑いが遠く、咳が一つ。
静は月を見ず、川の縁の濡れ縄の結び目を直した。結び目は、ほどけやすくほどけにくい角度。
「静」
「はい」
「俺、まだ、池田屋がうるさい」
「はい。……うるさいうちは、半寸、歩幅を短くしてください」
「歩幅?」
「はい。歩幅を短くすると、刃は遅れます」
「遅れれば、いいのか」
「はい。遅れれば、見えます」
蓮は黙り、歩幅を半寸、短くした。短くすると、足の裏が石の欠け目を拾う。拾った欠け目のぶんだけ、呼吸が整う。
◇
十一日目。
会津からの書状に、禁門の火の文字が薄くにじむ。まだ名にはなっていないが、骨が覚悟を始めている。
近藤は昼、土間で声を低くした。
「池田屋の夜は終わった。次は、都の夜だ」
都の夜。
蓮はその言葉の響きに、胸の奥のうるささが少しだけ形を変えるのを感じた。大きな夜は、個々の呼吸を飲み込む。飲み込まれないために、余白が要る。余白を作るのは、裏の役だ。
静は、灯をまた半寸、下げた。香の皿を低くし、粉屋の樽の口を緩め、蝶番に油を差さず、梯子の二段目にわずかなたわみを残した。
「矢野さん」
「なんだ」
「今夜は、“釘”をもう一本、打ちます」
「どこへ」
「あなたの肩へ」
「……は?」
静は、蓮の右肩の骨の上に、人差し指を軽く置いた。置いて、すぐ離す。
「そこに“止まる”を、覚えさせてください」
「あいにく、肩は賃貸じゃねぇ」
「はい。借ります」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
指の感触は短く、しかし残る。残るから、次の夜に効く。
◇
十二日目。
池田屋周辺の通りに、また子供の声が戻った。幽霊をとっただの、狼の足跡を見ただの、白い影に肩を叩かれただの、話は丸く甘くなって、笑いの形で転がった。
笑いは、夜を遠ざける。
その笑いの背で、別の笑いが咳に繋がり、薄く消えた。総司の笑いはいつも春だ。春は薄くて、遠くへ飛ぶ。飛んで、戻ってくる。戻る間に、影が支える。
夜、蓮は川辺で衣の血をもう一度洗った。血は薄くなり、代わりに布の匂いが強くなる。布の匂いは、昼のものだ。昼の匂いを夜に持ち込むと、夜が少し軽くなる。
「静」
「はい」
「池田屋のこと、俺、忘れねぇようにする」
「ありがとうございます。――忘れない場所に、涼しさを置いてください」
「背を濡らすってやつか」
「はい」
蓮は刃の背を水に浸し、冷たさを指に移した。冷たさは、重みを静かに変える。重みが変われば、角度が変わる。角度が変われば、刃はいらない。
◇
十三日目。
紙は棚へ、噂は饅頭へ。
夜は、新しい名を探し始めた。蛤、御門、七月。
名が来る前に、半寸を十回。
静は間を詰め、蓮は“前の手前”で止まり、二人の呼吸が揃う。
「矢野さん」
「なんだ」
「背中を預けるのは、光にだけでいいです」
「わかってる。俺は、お前の背中に視線を置き続ける」
「ありがとうございます。視線は、影の釘です」
「もういい、釘と白は腹いっぱいだ」
「承知しています」
言いながら、静はほんの少し笑った。
笑いは短く、音にならない。音にならない笑いは、夜の余白を柔らかくする。
◇
十四日目の夜明け前。
京は、また器のように静かだった。
池田屋の路地では、血の匂いはもう薄い。代わりに、乾いた木と米の匂いが戻ってきている。
誰もが、あの夜を口にするだろう。紙は太く、噂は甘く、名は残る。
だが、名のない方の夜も、確かに残る。灯の高さ、結び目の角度、蝶番に差さなかった油、たわませた二段目、材木の寝かせ、柄で撫でた喉の前の空気、洗わなかった刃の背、そして欠けた「与」。
それらは紙にならず、人の手の中と足の裏にだけ残る。
残るぶんだけ、次の夜は壊れにくい。
蓮は立ち上がり、肩の骨を軽く回した。
そこには、静の指の釘が、まだ薄く残っている。
「静」
「はい」
「俺、ようやく少し、静かになった」
「はい。……ありがとうございます」
「礼を言うな。――行くぞ」
「はい。行きます。矢野さんの“前の手前”に、間に合うように」
「遅れるなよ」
「遅れます」
「は?」
「半寸だけ。――夜を壊さないために」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
二人は同じ方向へ出た。
灯は低く、風は薄く、寺の鐘がひとつ遅れて鳴る。
遅れのぶんだけ、音の尾は長い。
長い尾が、池田屋の夜の余韻を、隊の骨に帰していく。
白は、夜の色だ。
白い余白に、書かれないほうの歴史が、音もなく積もっていく。
その上を踏まず、踏ませず、半寸ずらして、次の名の方へ――二人の足音は、相変わらず、良い音だった。



