六月五日深夜。
湿った夜気は、灯籠の笠の内側に薄い霧を溜めて、焔を自然に半寸、低くした。低くなった灯は段差を隠し、路地の音を遠くへ押しやる。遠くへ押しやられた音の隙間に、刀の匂いだけが濃くなる。祇園の囃子はまだ箱に眠り、紙衣の匂いが軒の梁でじっと息をひそめている。京の町は、町そのものの骨で震えていた。のちの世が「池田屋騒動」と名づける夜の真ん中に、音もなく穴が開いていた。
正面を割ったのは近藤勇の声だった。
「御用改めである!」
扉板が砕け、二階の座敷へ厚い気圧が流れ込む。畳に散った盃が跳ね、押し殺された笑いが悲鳴に裏返る。刀の腹が空気を割る音、鯉口の乾く鳴り、柱に柄が当たる硬さ。音は次々に形を変えて、血の匂いと混じり合った。畳に落ちた血はすぐに滑りとなり、足裏を奪う。滑りは倒れを生み、倒れは怒号になる。怒号は刃を早める。
裏口では、矢野蓮が呼吸を短く刻んでいた。
「静、ここ、押しとくぞ」
「はい。矢野さんは“前の手前”でお願いします」
静の声は、水気のない風のように淡い。淡いが、方向がある。蓮は刀の柄を握り直し、手の平に寄ってくる汗の滑りを袖で拭った。次の影が駆け出してくる。逃げる足は軽い。軽い足は、音が高い。高い音は、角度で止まる。蓮は半歩だけ身を斜にし、肩を狙った刃の角度を柄で撫で、膝の内側を足の甲で軽く押した。押しただけなのに、相手の体は勝手に落ちる。落ちる音が柔らかいのは、材木の陰に吸い込まれるよう仕掛けてあるからだ。
「化け物め!」
裏の細路へ転げ出ながら、浪士のひとりが声をよじらせた。声の向きは蓮ではない、静の方だ。白い袖が灯の縁で一瞬だけ浮き、すぐ鼠色に沈む。静は背後で、蓮の捌ききれない“余り”だけを、一閃で片づけていく。斬るというより、音を一つ消す。消された音は、表に届かない。届かない音は、紙にならない。
二階では、尊攘派の要の声が混じっていた。北添佶摩、宮部鼎蔵――名のある者ほど沈んだ声で命じ、名のない者ほど高い声で吠える。高い声は、すぐ裂ける。裂ける声の下で、火の支度をする影が一つ動いた。火薬、火縄。火の根は言葉より速い。だが、それより先に静がすでに根を潰していた。昼から仕込まれた“半寸低い灯”、湿り気を含ませた香の皿、粉屋の樽の口。火は高い灯を好み、乾いた空気を好む。今夜はどちらも足りない。
「一人残らず捕らえよ!」
近藤の声が階を縦に貫く。
蓮は息を吐いた。吐くたび、吐き気が角を持つ。角は柄の角で相殺する。次の影。長い刀。手のひらの皮が固い――稽古を重ねている手だ。こういう手には、足元の滑りが効く。蓮はあえて踏み替えを早く見せ、相手の目に“勝てる道”を一瞬だけ与えた。与えられた勝ち筋へ相手の足が出る。出た先は、寝かされた角材の柔らかい罠だ。足裏を吸われ、肩が落ちる。落ちた肩に、静の刃が一寸だけ触れた。触れただけなのに、男は音を出さずに折れて沈んだ。
「矢野さん、半刃右へ」
「わかってる」
静の指示は短い。短いほど、身体は動く。蓮は半刃だけ右へとずれ、次の影の背を“前の手前”で塞ぐ。斬らない。柄で喉の前の空気を撫でる。撫でられた声は出る前に止まる。止まった声の代わりに、目が泳ぐ。目が泳いだ者は、足を忘れる。
二階の畳に、刃が縦に入った。裂け目から出た空気が、階段の陰でひゅうと鳴く。総司の気配が春風のように走り、笑いが短く混じった。すぐ浅い咳が、小さく尾を引く。静の瞼が刹那だけ震え、また凪いだ。光に心配をかけない。影の礼儀だ。
裏口から、若い浪士が窓枠を破って飛び出した。
蓮の視界の端で、白い破片が散る。若い背の筋肉は良く育っている。足は速い。速い足は、背を狙う横薙ぎに弱い。蓮は横に半歩切り上げ、刀を水平に走らせた。肩口で刃が止まり、男の身体が土の上を転がる。転がりながらも這い続ける――生の方向性は強い。蓮は追い討ちの体勢に入り、そこで肩を押さえる手の重みを感じた。
「もう動けん。無駄に血を散らすな」
静だ。
蓮は刃をわずかに持ち上げ、ゆっくり下ろした。静の声はいつもどおり淡々だが、眼差しの底に、火の色の反射があった。命を奪う冷徹さと、不要な殺しを避ける慈悲。両方が同じ刃の中に同居して、互いに角を取って丸くなっているようだった。
その一瞬の静止にも、夜は容赦なく流れる。
梯子を駆け降りる足音。二段目でたわみ、三段目で止まる。止まった踵に、静の指先が軽く触れる。触れられた場所に、身体は自分の重みを集めて座り込む。座った背中の熱が土に溶けるまで、刃は上がらない。
屋根へ逃げる足音。木鼻の湿りで滑り、濡れ縄の結び目に手が届かない半寸をもがく。半寸は、夜の決定だ。届かない半寸のあいだに、蓮は“狼だ”とだけ言った。噂の言葉は心を先に斬る。斬られた心は脚を忘れる。
「化け物!」
別の男が、灯の下で静に叫ぶ。叫びは自分を励ますための音だ。
「矢野さん。――灯が下がりました」
「見えてる」
灯が半寸下がると、段差が見えない。見えない段差は重心を奪う。重心を奪われた身体は、勝手に“止まる方”へ落ちていく。落ちたところで刃は要らない。
蓮は、腕に飛んだ血の湿りを感じた。熱はすぐ冷える。冷えた血は、刃の背よりも重い。重みは肩へ移る。肩が重いと、構えが下がる。構えが下がると、斬らない技が増える。――それでいい。
二階の座敷は、修羅の圧で軋みを上げていた。北添佶摩が斜めに踏み込み、宮部鼎蔵が後ろの小さな間へ人を逃がそうとする。二人とも、刃の使い方を知っている。知っている者ほど、退き際が美しい。美しい退き際は、裏の者にとって厄介だ。
「静。二階の東、まだ生きてる“骨”がある」
「はい。――香の皿が高いのを見ていますね」
「上げてくるぞ」
「下げてあります」
静はすでに香の皿を低くし、火の根への道を狭めていた。火は高い灯を愛す。今夜の池田屋は、灯が“愛想なし”だ。
「一人残らず捕らえよ!」
近藤の声が再び縦に落ちる。
土方の筋は、裏の筋肉のように固く動かない。動かないことで、全体の姿勢は保たれる。山南は紙の上で点を打つ日を、すでに頭の中で決めているだろう。紙は明日を待つ。今夜は、紙にしない技の出番だ。
裏口から逃げた金筋の男が、泣き笑いの顔で蓮に縋りかかった。
「通してくれ、俺はただの使いだ!」
「通らない」
低い声で、理由を与えない。与えない空白に、男は自分の理由を勝手に並べる。それを並べ終える前に、静の視線が“喉”を捕まえる。視線は刃と同じ。温度がある。温度に触れた喉は、声を出すのを忘れる。
「静!」
蓮の視界の縁で、火花が一度だけ走った。二階の端。火縄の残りか、あるいは別の手筋か。
「はい」
静は柱を蹴って、空気の固さを足で押し上げた。刃を振るのではなく、握りを奪う。火の根は、人の手の熱に住む。熱を奪えば、火は息を引き取る。斬らず、掬う。掬われた火が床を転がり、香の火に届く前に沈んだ。
「静、戻れ」
「はい。戻りました」
静は何も持たずに戻り、位置を半歩横へずらした。ずらした一歩で、逃げ道の角度が変わる。角度が変わると、音が変わる。音が変わると、人数が変わる。――夜は足し算が効く。
裏の狭間に、ひとりの影が立った。
若い。体幹が強い。恐れより怒りのほうが濃い。怒りは、直線を好む。直線は、短い。短い直線には、半寸の曲がりを入れるといい。蓮は膝の抜きで身を沈め、相手の刃が空を切る前に柄で肘の内を撫でた。撫でて、踏む。踏まれた重心は、自分で土に落ちる。
「静。……いける」
「はい。矢野さん、良い音です」
「音で褒めるな」
「音が全てです」
静は小さく笑ったような、笑わなかったような気配で答えた。
池田屋の中では、近藤が血の中を踏み、土方の視線が刃の角度を整え、総司の笑いが短く混じって、また咳がひとつ。
宮部の背に、最後の気配が重なる。
「終いだ」
終いの音は、長くない。短い音が、空気に溶けた。
硬い音が一つ途切れ、池田屋という家が音を一つ返した。返された音は、夜風にちぎれて川の上へ散る。戻っては来ない。
「よくやった! 京は守られたぞ!」
二階から近藤の声が落ちてきた。
返す声がいくつも重なり、どの声も少し高い。高い声は、勝ちの余白だ。余白は、紙になる。紙は明日の手柄を書く。
蓮の耳には、声が少し虚ろに響いた。守られたものは確かにある。火は上がらず、御所は眠り、町人は明日を商う。だがここで失われた数え切れない息は、紙にはなりにくい。書かれる名は“表”の剣のもの。裏で逃げ道を断った手のことは、一行にもならない。そういう夜だ。そういう夜でいいと、静は言うだろう。
蓮は刃の先に乾きかけた血を見た。拭おうとして、やめた。静の言ったとおり、刃は洗わない。忘れないために。背だけ濡らす。背の冷たさが、今夜の温度を残す。
やがて、足元の滑りがしずまり、叫びは消え、灯はもう一段低くなった。
静は蓮の肩へ人差し指を置いた。重さはないが、形はある。
「矢野さん。――ここから先は、入らないでください」
「お前は」
「僕も、入りません。今夜の“噂”を、明日の“紙”にしないためです」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
蓮は息を一度だけ深く吐き、刀を納めた。鞘走りの音は短く、乾いている。乾いた音は、朝に残らない。
◇
事が済んだあと、裏手の材木小屋で血の色を目だけで確かめた。
木の繊維の間に落ちた血は、すでに温度を失い、暗い布のように静かだ。匂いは風でほどけ、指の腹には重みだけが残る。
「見るのは、今だけです」
「見たくねぇよ」
「見たくないものだけが、手癖を変えます」
「……見た」
「ありがとうございます」
静の礼は、何に向いているのかわからない。わからないから、余計に効く。
井戸で、蓮は刃の背だけを水で濡らした。
「洗わない、だろ」
「刃は、です。背は、濡らしてください」
「なんでだ」
「“忘れない”場所に涼しさを置くためです」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、よく効きます」
水面に、白い月が細く揺れる。揺れはすぐに繋がる。繋がるたび、夜は畳まれていく。
屯所へ戻る道で、静は粉屋の樽の口を元へ戻し、香具屋の皿を高くし、香の火を一つ消した。消した跡だけが、次の夜の道具になる。跡は、紙にならない。紙にならないから、長持ちする。
土間に入ると、空気は冷たかった。
近藤の肩は下がり、土方の目は薄く、山南は帳面の端に赤い点を置いて、真ん中の点をわずかに薄くした。総司は笑って、咳を二つ。二つとも浅い。
「静。裏は」
土方の声は短い。
「噂だけです」
「よし」
土方は紙を三枚、机に置いた。
一枚は「突入」。
一枚は「捕縛」。
一枚は「火防」。
「火は、来なかった」
近藤が低く言い、皆が黙って頷いた。黙ることで、夜は静かに畳まれる。
蓮は居並ぶ顔の向こうで、ふっと視線を外した。紙の上に自分の名はない。なくていい――という言葉が、いまは喉に引っかかる。なくていい、が、ずっと続いたら? 静は、それで平気なのか。
「静」
「はい」
「俺は……今夜、いくつか斬った」
「はい」
「でもさ、斬らずに止めた数のほうが、たぶん多い」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。……それでいいのか?」
「はい。斬らない夜は、町が太ります」
「町が太る、ね」
「太った町は、刃を折りません」
理屈は悪いが、悪い理屈ほど夜には効く。
蓮は笑って、天井の梁を見た。梁の節に、昼の静が置いた“釘の音”の名残が、まだ薄く残っている気がした。
◇
翌朝。
京は“知らない顔”で目を覚ました。
商いは始まり、犬は一声だけ吠え、子が石を蹴って井戸の足に当てる。良い音。
紙には幾つかの名が並んだ。捕らえられた者、討たれた者、逃れた者。
火の字は、ない。
火の字のない紙は、軽い。軽い紙は風でめくれ、めくれた白は、夜の色だ。
青い羽織は辻で道を割り、壬生狼の名は口に出される回数を少し減らした。“減る”のは、緊張が深く骨に入った合図だ。噂は薄まり、事績は太る。太った事績は紙になる。紙は、表の英雄のためにある。
「名を残す者」と「名を消す者」。
昨夜の池田屋は、その境界を濃く引いた。
境界のこちら側に、自分の足跡がある。蓮はそれを舌で確かめるように、胸の内側で触れた。苦い。だが、苦いから、忘れない。
昼の稽古場は、竹の音がよく通る。
「矢野さん。――今夜から数日は、“前の手前”をさらに短くしてください」
「まだ短くすんのかよ」
「はい。短い“手前”は、長い“余白”になります」
「余白、余白って、お前は白が好きだな」
「灯の外では、鼠です」
「うるせぇ」
「承知しています」
竹が三度、乾いて鳴った。静は半寸、間を詰め、蓮は膝を抜いて肩を落とす。体から“斬る理由”を少し抜けば、残った空白に“止める角度”が生まれる。
その日の夕刻、辻占の婆が札を裏返した。裏には欠けた「与」。返らない借り。静は触れず、目で礼をした。
「静」
「はい」
「お前、また借りを増やしたのか」
「はい。返せないものは、僕が持ちます」
「勝手に決めるな」
「はい。決めます」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
蓮は、笑いながら視線を静の背に置いた。視線は刃と同じ。温度がある。温度は、背中に入る。背が温かければ、刃は真っ直ぐには走らない。ほんの少し遅れてくれる。その遅れが、人を生かす。
◇
夜、川縁。
風は薄く、灯は低い。
総司が笑い、咳をひとつ。
「静。君の“横”は、今夜もよく効く」
「ありがとうございます」
「矢野。君の“前の手前”も、だ」
「“前”じゃなくて悪かったな」
「前と手前の間に、火がある。君がそこに立つと、火は遠い」
「詩人ぶるなよ」
「春の仕事さ」
春の笑いは風に千切れ、千切れた端が水面に落ちて三つの輪になり、すぐ消えた。
静はその輪のあとを目で追い、短く言った。
「矢野さん。背中を預けるのは、光にだけでいいです」
「わかってる。俺は、お前の背中に視線を置き続ける」
「ありがとうございます。視線は、影の釘です」
「格好つけやがって」
「矢野さんのためだけに、です」
◇
日が変わる。池田屋という名の夜は紙になり、事績になり、噂は別の名を探して動き出す。
町の骨は、昨夜より少しだけ硬い。硬い骨は、強いが折れやすい。折れないために、余白が要る。余白を作るのが、裏の役だ。
静は灯の高さを、半寸、また半寸と下げ、濡れ縄の結び目をほどけやすくほどけにくくし、蝶番の油壺を“正しい位置から半歩”ずらし、香の皿を低く、粉屋の樽の口を緩めては戻す。
蓮は“前の手前”を短くし、柄で喉の前の空気を撫で、声を出させず、怒りに曲がり角を与えて直線を折る。
斬らない夜は、町を太らせる。
太った町は、刃を折らない。
折れない町は、長く息をする。
長く息をする町で、誰かが紙に名を書き、誰かが白い余白に名を残さず立つ。
名を残す者と、名を消す者。
線は濃い。だが、濃い線は、いずれ滲む。滲むまでの間が、仕事だ。
蓮は帳面に短く書いた。
――灯を半寸、下げ続けろ。
――“前の手前”は短く、噂は長く。
――刃は濡らさず、背だけ濡らす。
――釘になる。
書いて、灯を本当に半寸、下げた。紙の黒は濃くなり、乾くのに時間がいる。時間がいる文字は、記憶に食い込む。食い込んだ記憶は、次の夜の筋肉になる。
池田屋の夜は、京を守った。
その記録に、蓮の名はない。静の名もない。
ないことは、悔しさになる。
悔しさは、刃を早くする。
早い刃は、夜を壊す。
だから、半寸、遅らせる。
蓮は、柄の角を指で撫でた。角は丸く、丸い角は、今夜の角度を教える。
静は、欠けた「与」の札を懐に戻した。返らない借りを、また一つ持つために。持つ者の指は冷えて、長く刃を握れる。
「静」
「はい」
「池田屋は、俺たちの夜でもあったよな」
「はい。――でも、紙には書かれません」
「わかってる。わかってるけど、言っておく」
「ありがとうございます。言葉は、釘です」
「お前、何でも釘にすんな」
「矢野さんのためだけに、です」
六月の風は、まだ湿っている。
寺の鐘が、ひとつ遅れて鳴った。
遅れのぶんだけ、音の尾は長い。
長い尾が、昨夜の熱を隊の骨へ戻していく。
白は、夜の色だ。
白い余白に、書かれないほうの歴史が、音もなく積もっていく。
積もったものは、やがて次の名――蛤御門、禁門、七月の炎へ――流れていく。
その前に、半寸を十回。
半寸の差で、人は生き、名は残り、誰かは書かれずに消える。
書かれない者の呼吸を揃えるために、静は間を詰め、蓮は“前の手前”に立ち続けた。
それが、この夜の、本当の騒動の終わり方だった。
湿った夜気は、灯籠の笠の内側に薄い霧を溜めて、焔を自然に半寸、低くした。低くなった灯は段差を隠し、路地の音を遠くへ押しやる。遠くへ押しやられた音の隙間に、刀の匂いだけが濃くなる。祇園の囃子はまだ箱に眠り、紙衣の匂いが軒の梁でじっと息をひそめている。京の町は、町そのものの骨で震えていた。のちの世が「池田屋騒動」と名づける夜の真ん中に、音もなく穴が開いていた。
正面を割ったのは近藤勇の声だった。
「御用改めである!」
扉板が砕け、二階の座敷へ厚い気圧が流れ込む。畳に散った盃が跳ね、押し殺された笑いが悲鳴に裏返る。刀の腹が空気を割る音、鯉口の乾く鳴り、柱に柄が当たる硬さ。音は次々に形を変えて、血の匂いと混じり合った。畳に落ちた血はすぐに滑りとなり、足裏を奪う。滑りは倒れを生み、倒れは怒号になる。怒号は刃を早める。
裏口では、矢野蓮が呼吸を短く刻んでいた。
「静、ここ、押しとくぞ」
「はい。矢野さんは“前の手前”でお願いします」
静の声は、水気のない風のように淡い。淡いが、方向がある。蓮は刀の柄を握り直し、手の平に寄ってくる汗の滑りを袖で拭った。次の影が駆け出してくる。逃げる足は軽い。軽い足は、音が高い。高い音は、角度で止まる。蓮は半歩だけ身を斜にし、肩を狙った刃の角度を柄で撫で、膝の内側を足の甲で軽く押した。押しただけなのに、相手の体は勝手に落ちる。落ちる音が柔らかいのは、材木の陰に吸い込まれるよう仕掛けてあるからだ。
「化け物め!」
裏の細路へ転げ出ながら、浪士のひとりが声をよじらせた。声の向きは蓮ではない、静の方だ。白い袖が灯の縁で一瞬だけ浮き、すぐ鼠色に沈む。静は背後で、蓮の捌ききれない“余り”だけを、一閃で片づけていく。斬るというより、音を一つ消す。消された音は、表に届かない。届かない音は、紙にならない。
二階では、尊攘派の要の声が混じっていた。北添佶摩、宮部鼎蔵――名のある者ほど沈んだ声で命じ、名のない者ほど高い声で吠える。高い声は、すぐ裂ける。裂ける声の下で、火の支度をする影が一つ動いた。火薬、火縄。火の根は言葉より速い。だが、それより先に静がすでに根を潰していた。昼から仕込まれた“半寸低い灯”、湿り気を含ませた香の皿、粉屋の樽の口。火は高い灯を好み、乾いた空気を好む。今夜はどちらも足りない。
「一人残らず捕らえよ!」
近藤の声が階を縦に貫く。
蓮は息を吐いた。吐くたび、吐き気が角を持つ。角は柄の角で相殺する。次の影。長い刀。手のひらの皮が固い――稽古を重ねている手だ。こういう手には、足元の滑りが効く。蓮はあえて踏み替えを早く見せ、相手の目に“勝てる道”を一瞬だけ与えた。与えられた勝ち筋へ相手の足が出る。出た先は、寝かされた角材の柔らかい罠だ。足裏を吸われ、肩が落ちる。落ちた肩に、静の刃が一寸だけ触れた。触れただけなのに、男は音を出さずに折れて沈んだ。
「矢野さん、半刃右へ」
「わかってる」
静の指示は短い。短いほど、身体は動く。蓮は半刃だけ右へとずれ、次の影の背を“前の手前”で塞ぐ。斬らない。柄で喉の前の空気を撫でる。撫でられた声は出る前に止まる。止まった声の代わりに、目が泳ぐ。目が泳いだ者は、足を忘れる。
二階の畳に、刃が縦に入った。裂け目から出た空気が、階段の陰でひゅうと鳴く。総司の気配が春風のように走り、笑いが短く混じった。すぐ浅い咳が、小さく尾を引く。静の瞼が刹那だけ震え、また凪いだ。光に心配をかけない。影の礼儀だ。
裏口から、若い浪士が窓枠を破って飛び出した。
蓮の視界の端で、白い破片が散る。若い背の筋肉は良く育っている。足は速い。速い足は、背を狙う横薙ぎに弱い。蓮は横に半歩切り上げ、刀を水平に走らせた。肩口で刃が止まり、男の身体が土の上を転がる。転がりながらも這い続ける――生の方向性は強い。蓮は追い討ちの体勢に入り、そこで肩を押さえる手の重みを感じた。
「もう動けん。無駄に血を散らすな」
静だ。
蓮は刃をわずかに持ち上げ、ゆっくり下ろした。静の声はいつもどおり淡々だが、眼差しの底に、火の色の反射があった。命を奪う冷徹さと、不要な殺しを避ける慈悲。両方が同じ刃の中に同居して、互いに角を取って丸くなっているようだった。
その一瞬の静止にも、夜は容赦なく流れる。
梯子を駆け降りる足音。二段目でたわみ、三段目で止まる。止まった踵に、静の指先が軽く触れる。触れられた場所に、身体は自分の重みを集めて座り込む。座った背中の熱が土に溶けるまで、刃は上がらない。
屋根へ逃げる足音。木鼻の湿りで滑り、濡れ縄の結び目に手が届かない半寸をもがく。半寸は、夜の決定だ。届かない半寸のあいだに、蓮は“狼だ”とだけ言った。噂の言葉は心を先に斬る。斬られた心は脚を忘れる。
「化け物!」
別の男が、灯の下で静に叫ぶ。叫びは自分を励ますための音だ。
「矢野さん。――灯が下がりました」
「見えてる」
灯が半寸下がると、段差が見えない。見えない段差は重心を奪う。重心を奪われた身体は、勝手に“止まる方”へ落ちていく。落ちたところで刃は要らない。
蓮は、腕に飛んだ血の湿りを感じた。熱はすぐ冷える。冷えた血は、刃の背よりも重い。重みは肩へ移る。肩が重いと、構えが下がる。構えが下がると、斬らない技が増える。――それでいい。
二階の座敷は、修羅の圧で軋みを上げていた。北添佶摩が斜めに踏み込み、宮部鼎蔵が後ろの小さな間へ人を逃がそうとする。二人とも、刃の使い方を知っている。知っている者ほど、退き際が美しい。美しい退き際は、裏の者にとって厄介だ。
「静。二階の東、まだ生きてる“骨”がある」
「はい。――香の皿が高いのを見ていますね」
「上げてくるぞ」
「下げてあります」
静はすでに香の皿を低くし、火の根への道を狭めていた。火は高い灯を愛す。今夜の池田屋は、灯が“愛想なし”だ。
「一人残らず捕らえよ!」
近藤の声が再び縦に落ちる。
土方の筋は、裏の筋肉のように固く動かない。動かないことで、全体の姿勢は保たれる。山南は紙の上で点を打つ日を、すでに頭の中で決めているだろう。紙は明日を待つ。今夜は、紙にしない技の出番だ。
裏口から逃げた金筋の男が、泣き笑いの顔で蓮に縋りかかった。
「通してくれ、俺はただの使いだ!」
「通らない」
低い声で、理由を与えない。与えない空白に、男は自分の理由を勝手に並べる。それを並べ終える前に、静の視線が“喉”を捕まえる。視線は刃と同じ。温度がある。温度に触れた喉は、声を出すのを忘れる。
「静!」
蓮の視界の縁で、火花が一度だけ走った。二階の端。火縄の残りか、あるいは別の手筋か。
「はい」
静は柱を蹴って、空気の固さを足で押し上げた。刃を振るのではなく、握りを奪う。火の根は、人の手の熱に住む。熱を奪えば、火は息を引き取る。斬らず、掬う。掬われた火が床を転がり、香の火に届く前に沈んだ。
「静、戻れ」
「はい。戻りました」
静は何も持たずに戻り、位置を半歩横へずらした。ずらした一歩で、逃げ道の角度が変わる。角度が変わると、音が変わる。音が変わると、人数が変わる。――夜は足し算が効く。
裏の狭間に、ひとりの影が立った。
若い。体幹が強い。恐れより怒りのほうが濃い。怒りは、直線を好む。直線は、短い。短い直線には、半寸の曲がりを入れるといい。蓮は膝の抜きで身を沈め、相手の刃が空を切る前に柄で肘の内を撫でた。撫でて、踏む。踏まれた重心は、自分で土に落ちる。
「静。……いける」
「はい。矢野さん、良い音です」
「音で褒めるな」
「音が全てです」
静は小さく笑ったような、笑わなかったような気配で答えた。
池田屋の中では、近藤が血の中を踏み、土方の視線が刃の角度を整え、総司の笑いが短く混じって、また咳がひとつ。
宮部の背に、最後の気配が重なる。
「終いだ」
終いの音は、長くない。短い音が、空気に溶けた。
硬い音が一つ途切れ、池田屋という家が音を一つ返した。返された音は、夜風にちぎれて川の上へ散る。戻っては来ない。
「よくやった! 京は守られたぞ!」
二階から近藤の声が落ちてきた。
返す声がいくつも重なり、どの声も少し高い。高い声は、勝ちの余白だ。余白は、紙になる。紙は明日の手柄を書く。
蓮の耳には、声が少し虚ろに響いた。守られたものは確かにある。火は上がらず、御所は眠り、町人は明日を商う。だがここで失われた数え切れない息は、紙にはなりにくい。書かれる名は“表”の剣のもの。裏で逃げ道を断った手のことは、一行にもならない。そういう夜だ。そういう夜でいいと、静は言うだろう。
蓮は刃の先に乾きかけた血を見た。拭おうとして、やめた。静の言ったとおり、刃は洗わない。忘れないために。背だけ濡らす。背の冷たさが、今夜の温度を残す。
やがて、足元の滑りがしずまり、叫びは消え、灯はもう一段低くなった。
静は蓮の肩へ人差し指を置いた。重さはないが、形はある。
「矢野さん。――ここから先は、入らないでください」
「お前は」
「僕も、入りません。今夜の“噂”を、明日の“紙”にしないためです」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
蓮は息を一度だけ深く吐き、刀を納めた。鞘走りの音は短く、乾いている。乾いた音は、朝に残らない。
◇
事が済んだあと、裏手の材木小屋で血の色を目だけで確かめた。
木の繊維の間に落ちた血は、すでに温度を失い、暗い布のように静かだ。匂いは風でほどけ、指の腹には重みだけが残る。
「見るのは、今だけです」
「見たくねぇよ」
「見たくないものだけが、手癖を変えます」
「……見た」
「ありがとうございます」
静の礼は、何に向いているのかわからない。わからないから、余計に効く。
井戸で、蓮は刃の背だけを水で濡らした。
「洗わない、だろ」
「刃は、です。背は、濡らしてください」
「なんでだ」
「“忘れない”場所に涼しさを置くためです」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、よく効きます」
水面に、白い月が細く揺れる。揺れはすぐに繋がる。繋がるたび、夜は畳まれていく。
屯所へ戻る道で、静は粉屋の樽の口を元へ戻し、香具屋の皿を高くし、香の火を一つ消した。消した跡だけが、次の夜の道具になる。跡は、紙にならない。紙にならないから、長持ちする。
土間に入ると、空気は冷たかった。
近藤の肩は下がり、土方の目は薄く、山南は帳面の端に赤い点を置いて、真ん中の点をわずかに薄くした。総司は笑って、咳を二つ。二つとも浅い。
「静。裏は」
土方の声は短い。
「噂だけです」
「よし」
土方は紙を三枚、机に置いた。
一枚は「突入」。
一枚は「捕縛」。
一枚は「火防」。
「火は、来なかった」
近藤が低く言い、皆が黙って頷いた。黙ることで、夜は静かに畳まれる。
蓮は居並ぶ顔の向こうで、ふっと視線を外した。紙の上に自分の名はない。なくていい――という言葉が、いまは喉に引っかかる。なくていい、が、ずっと続いたら? 静は、それで平気なのか。
「静」
「はい」
「俺は……今夜、いくつか斬った」
「はい」
「でもさ、斬らずに止めた数のほうが、たぶん多い」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。……それでいいのか?」
「はい。斬らない夜は、町が太ります」
「町が太る、ね」
「太った町は、刃を折りません」
理屈は悪いが、悪い理屈ほど夜には効く。
蓮は笑って、天井の梁を見た。梁の節に、昼の静が置いた“釘の音”の名残が、まだ薄く残っている気がした。
◇
翌朝。
京は“知らない顔”で目を覚ました。
商いは始まり、犬は一声だけ吠え、子が石を蹴って井戸の足に当てる。良い音。
紙には幾つかの名が並んだ。捕らえられた者、討たれた者、逃れた者。
火の字は、ない。
火の字のない紙は、軽い。軽い紙は風でめくれ、めくれた白は、夜の色だ。
青い羽織は辻で道を割り、壬生狼の名は口に出される回数を少し減らした。“減る”のは、緊張が深く骨に入った合図だ。噂は薄まり、事績は太る。太った事績は紙になる。紙は、表の英雄のためにある。
「名を残す者」と「名を消す者」。
昨夜の池田屋は、その境界を濃く引いた。
境界のこちら側に、自分の足跡がある。蓮はそれを舌で確かめるように、胸の内側で触れた。苦い。だが、苦いから、忘れない。
昼の稽古場は、竹の音がよく通る。
「矢野さん。――今夜から数日は、“前の手前”をさらに短くしてください」
「まだ短くすんのかよ」
「はい。短い“手前”は、長い“余白”になります」
「余白、余白って、お前は白が好きだな」
「灯の外では、鼠です」
「うるせぇ」
「承知しています」
竹が三度、乾いて鳴った。静は半寸、間を詰め、蓮は膝を抜いて肩を落とす。体から“斬る理由”を少し抜けば、残った空白に“止める角度”が生まれる。
その日の夕刻、辻占の婆が札を裏返した。裏には欠けた「与」。返らない借り。静は触れず、目で礼をした。
「静」
「はい」
「お前、また借りを増やしたのか」
「はい。返せないものは、僕が持ちます」
「勝手に決めるな」
「はい。決めます」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
蓮は、笑いながら視線を静の背に置いた。視線は刃と同じ。温度がある。温度は、背中に入る。背が温かければ、刃は真っ直ぐには走らない。ほんの少し遅れてくれる。その遅れが、人を生かす。
◇
夜、川縁。
風は薄く、灯は低い。
総司が笑い、咳をひとつ。
「静。君の“横”は、今夜もよく効く」
「ありがとうございます」
「矢野。君の“前の手前”も、だ」
「“前”じゃなくて悪かったな」
「前と手前の間に、火がある。君がそこに立つと、火は遠い」
「詩人ぶるなよ」
「春の仕事さ」
春の笑いは風に千切れ、千切れた端が水面に落ちて三つの輪になり、すぐ消えた。
静はその輪のあとを目で追い、短く言った。
「矢野さん。背中を預けるのは、光にだけでいいです」
「わかってる。俺は、お前の背中に視線を置き続ける」
「ありがとうございます。視線は、影の釘です」
「格好つけやがって」
「矢野さんのためだけに、です」
◇
日が変わる。池田屋という名の夜は紙になり、事績になり、噂は別の名を探して動き出す。
町の骨は、昨夜より少しだけ硬い。硬い骨は、強いが折れやすい。折れないために、余白が要る。余白を作るのが、裏の役だ。
静は灯の高さを、半寸、また半寸と下げ、濡れ縄の結び目をほどけやすくほどけにくくし、蝶番の油壺を“正しい位置から半歩”ずらし、香の皿を低く、粉屋の樽の口を緩めては戻す。
蓮は“前の手前”を短くし、柄で喉の前の空気を撫で、声を出させず、怒りに曲がり角を与えて直線を折る。
斬らない夜は、町を太らせる。
太った町は、刃を折らない。
折れない町は、長く息をする。
長く息をする町で、誰かが紙に名を書き、誰かが白い余白に名を残さず立つ。
名を残す者と、名を消す者。
線は濃い。だが、濃い線は、いずれ滲む。滲むまでの間が、仕事だ。
蓮は帳面に短く書いた。
――灯を半寸、下げ続けろ。
――“前の手前”は短く、噂は長く。
――刃は濡らさず、背だけ濡らす。
――釘になる。
書いて、灯を本当に半寸、下げた。紙の黒は濃くなり、乾くのに時間がいる。時間がいる文字は、記憶に食い込む。食い込んだ記憶は、次の夜の筋肉になる。
池田屋の夜は、京を守った。
その記録に、蓮の名はない。静の名もない。
ないことは、悔しさになる。
悔しさは、刃を早くする。
早い刃は、夜を壊す。
だから、半寸、遅らせる。
蓮は、柄の角を指で撫でた。角は丸く、丸い角は、今夜の角度を教える。
静は、欠けた「与」の札を懐に戻した。返らない借りを、また一つ持つために。持つ者の指は冷えて、長く刃を握れる。
「静」
「はい」
「池田屋は、俺たちの夜でもあったよな」
「はい。――でも、紙には書かれません」
「わかってる。わかってるけど、言っておく」
「ありがとうございます。言葉は、釘です」
「お前、何でも釘にすんな」
「矢野さんのためだけに、です」
六月の風は、まだ湿っている。
寺の鐘が、ひとつ遅れて鳴った。
遅れのぶんだけ、音の尾は長い。
長い尾が、昨夜の熱を隊の骨へ戻していく。
白は、夜の色だ。
白い余白に、書かれないほうの歴史が、音もなく積もっていく。
積もったものは、やがて次の名――蛤御門、禁門、七月の炎へ――流れていく。
その前に、半寸を十回。
半寸の差で、人は生き、名は残り、誰かは書かれずに消える。
書かれない者の呼吸を揃えるために、静は間を詰め、蓮は“前の手前”に立ち続けた。
それが、この夜の、本当の騒動の終わり方だった。



