名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 六月五日深夜。
 京の夜は、湿り気を抱いたまま呼吸を浅くしていた。灯籠の笠の内側にたまった霧が焔を押さえ、灯は自然に半寸、低くなる。低くなった灯は段差を隠し、音を遠くへ追いやる。音が遠くへ行ったぶん、噂だけが近くなる。祇園囃子の前触れはまだ箱に眠り、紙衣の匂いが軒下でじっとしている。戸は、いつもより早く閉ざされていた。嵐の前の静けさ――町の骨がそれを認めている。

 池田屋は、三条小橋北の格子の奥で息を潜めているふうを装いながら、二階だけが妙に明るかった。明るさは笑い声の厚みで支えられている。笑いが厚ければ厚いほど、奥の事情は薄れ、見えにくくなる。盃の音は軽く、座敷に膝を崩す浪士たちの目の底だけが鋭い。酔いは仮面だ。仮面は見せるためより、内側を守るためにある。

 裏手の細路には、鼠が二匹。
 沖田静と矢野蓮。
 鼠は鳴かない。鳴かない代わりに、木の繊維を足で撫で、石の欠け目を掌で覚え、灯の高さで心の揺れを測る。

「囮になるのは俺の役目か」
 蓮が声を抑えた。鞘の口金に親指を当て、音が出ないことを確かめる。

「はい。矢野さんが近づいて、気配を引き寄せてください。その間に、僕が“数”を読みます」
 静の声は、いつもどおり淡く乾いている。水気のない風みたいな声だが、方向は明らかで迷わない。

「数って、どこまで数える」
「逃げる足の数。躊躇の回数。刃を抜く意志の高さ。――全部です」
「欲張りだな」
「夜は足し算が効きます」

 雨戸の隙間から覗くと、二階の座敷に十数名。巻物、地図、火薬。火の粉の匂いはまだ立っていないが、鼻の奥で渇いた金属がこすれ合う気配がする。御所に火、要人の拉致、京の混乱――紙の上に広げられた計画は、紙だからこそ大胆だ。紙の中では、人は簡単に死ぬし、火は簡単に延びる。現実に移すための“手”が、この座敷の中にある。

「静。……逃げ道は」
「表が一本、裏が二本、屋根伝いが一本、井戸の狭間が一つ。合計五つ。今は四つ半、こちらが握っています」
「半ってなんだよ」
「躊躇の“半拍”です」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、よく効きます」

 合図の前に、囮が道を温める必要がある。蓮はわざと足音を大きくし、裏口へ寄った。かかとが石の角を拾い、鞘の口金が格子に小さく当たる。無礼でない程度に、しかし無視できない音。
 すぐに二人、気配が立つ。裏口の陰から現れた浪士が、眉を寄せ、柄に手を置く。
 その瞬間、屋根の上から小石がころりと落ちた。乾いた音が一つ、ずれて響く。浪士の視線は反射で引き寄せられ、空を切る。白い袖が一瞬、闇にぬめり、すぐ消えた。静だ。白は夜の色。灯の外では鼠色、灯の内では紙の白。見る者の目を勝手に塗り替える。

 視線が外れた隙に、蓮は路地の角を回り、砂を指でつまんで置いておく。砂は音を柔らげる。柔らかい音は拾われにくく、拾われない音は長持ちする。

「二十以上、います」
 戻った蓮に、静は短く告げる。「刀は、抜けば“炎”になります」

「俺たちは、どこまでやる」
「逃がさない。――それだけです」
「斬らなくていいのか」
「斬るのは、表の刃です」
「お前の言い方は、いつも嫌いだ」
「ありがとうございます」
 静はそう言って、わずかに目を伏せた。礼の向きは曖昧だ。曖昧さが、夜の仕事の潤滑油になる。

 遠くで、太鼓が一つだけ遅れて鳴る。
 遅れは、合図。
 合図は、町の骨にじわりと染み込む。
 静は鼠のように裏手の梯子を見上げ、二段目のたわみを足の甲で確かめた。昼間から仕込んだ“わずかな柔らかさ”が、今はしっかり息をしている。

「矢野さん。――“前の手前”で立ってください。今夜の手前は、短いです」
「わかった。……総司は」
「光は来ます。光は、遅れても、来ます」

 蓮はうなずき、鯉口に親指をかけた。わざと、わずかに鳴らす。鞘走りの音は短く、乾いている。
 裏口の障子が、内側からゆっくり滑った。

 最初の二人は、軽かった。
 軽い手は音が高い。高い音は角度に弱い。
 蓮は半歩退き、蹴り上げた砂で視界を濁らせた。砂の粒が灯を受けてちらつく。その刹那、静の刃が一線だけ、空気を切った。声が生まれる前に、声の根を撫でる。倒れる音は柔らかく、材木の影に吸い込まれた。
 蓮は震える手で身体を押しやり、入口の“釘”になる。釘は打たれてこそ効く。自分で自分を打つしかない。

「これで、逃げ道は一つもない」
 静が囁く。
 言葉の温度は水みたいに冷たいが、温度のない冷たさではない。内部に小さな火が見える。火は低い位置に置かれている。低い火は、長持ちする。

 そのとき、表から駆け足の群れ。
 近藤勇の声が、扉を蹴破る音と一緒に飛び込んできた。
「御用改めである!」
 座敷の笑いは砕け、怒号と悲鳴が重なる。盃が転がり、足が畳を裂く。刃は、音を必要としない。その代わり、空気を裂いて合図を出す。

 裏口の番を買って出た蓮は、肩をわずかに落として刀を構える。
 最初に飛び出した男の肩口へ、一閃。刃が食い込み、血が暖かさを忘れて飛ぶ。――斬った実感が遅れてくる。遅れてくるぶん、吐き気が早く来る。
 次の瞬間、静がその背後の影を断った。二人は背中合わせに立つ。背中合わせは、互いの視線の代わりだ。視線は刃と同じ。温度がある。
「矢野さん。――迷いは、斬られます」
「言われなくてもわかってる」
「ありがとうございます」

 裏へ雪崩れる影は、四つ、六つと増えた。
 梯子を駆ける足は二段目で止まり、屋根へ逃げる足は木鼻の湿りに滑る。材木の寝かせに足裏が吸い込まれ、濡れ縄の結び目がちょうど“届かない半寸”にある。
 半寸が今夜を決める。
 半寸を十回、置く。それが静の仕事だ。
 蓮の仕事は、その半寸を“前の手前”で受けること。角度で止め、音を立てない。

 裏口から飛び出してきた男の刃がまっすぐ蓮の喉を狙った。
 鯉口の鳴りが低い。重い手。重い手は、力を知っている。
 蓮は半歩も引かない。柄で手首の内側を撫で、肘の角度を一度だけ奪う。奪った角度のぶん、命を残す。
 男の体勢が崩れ、静の足が横から絡み、地面へ吸い付かせた。
「静、二階!」
 蓮の視界の端で、白い火花が散った。
 火縄。火薬。
 静は柱を蹴った。
 跳ぶというより、空気の固さを蹴り出す感じで二階へ上がり、刃を振らずに腕を撫でる。斬るのではない。握りを奪い、火の根を弾く。火縄が床を滑り、香の皿の火は低い。低い火は、火を育てない。
 火薬は未然に防がれた。
 未然は、紙に書かれない。

 戻ってきた静は、息を一つだけ整え、すぐまた位置を横にずらした。
「矢野さん。灯が半寸、下がりました。――火は遠いです」
「話してる暇はねぇぞ」
「はい。話すことで、息が揃います」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 裏へ出た三人目は、金筋の匂いがした。
 匂いの出所は、言葉の端。言い訳が先に立つ者は、金に付く。
「通してくれ。俺はただの使いだ」
「通らない」
 蓮の声は短く、低い。理由を与えない。
 男は鯉口に触れたが、抜かない。抜けば、音が立つ。音が立てば、座敷の誰かがこちらへ伸びる。
「通れ」
 再び短く。今度は、男の目の“躊躇”に合わせて呼吸を入れ替える。
 男は道を開けた。開けながら、背を見せず、横へずれる。
 横へずれた肩甲骨の形が、弱い。
 静はその弱さへ刃を置かず、視線だけ置いた。
 視線は刃と同じ。温度がある。
 見張られている温度は、逃げる足から力を抜く。

 池田屋の中で、総司が風みたいに一度だけ走った。春の笑いが、刀の合間に短く混じる。咳が一つ、浅く続いた。
 静の瞼が刹那だけ震え、すぐ凪ぐ。光に心配をかけない。影の礼儀だ。
 総司の声が遠くで弾み、誰かの柄が柱に当たって乾いた音を鳴らした。乾いた音は、終わりに近い音だ。

 裏口の番は、続く。
 四人目は、屋根伝いを選んだ。
 屋根の木鼻は湿り、瓦はぬるい。
 足が滑る。
 そこで、濡れ縄の結び目が生きる。
 結び目は、ほどけやすくほどけにくい角度。力任せならほどける。慎重なら触らない。――今夜の彼は、力任せだった。
 ほどけた縄は音を短く鳴らし、足が止まる。
 止まった足の前に、蓮の“前の手前”。
「狼だ」
 噂の言葉で返すと、相手は脚を忘れる。心が先に斬られるからだ。
 斬らずに、止まる。

 五人目、六人目――数は減り、呼吸は合い、音は柔らかくなっていく。
 柔らかい音は朝に残らない。朝に残らなければ、紙にならない。紙にならない夜だけが、隊を長持ちさせる。

 ふいに、狭い角から覗く目があった。
 敵の目ではない。町の目。好奇心の目。
 好奇心は、噂の親。親を摘めば、子は増えない。
 静は白い袖を一度だけ見せ、すぐ消した。
 見せて、消す。
 消せば、人は自分で続きを作る。
 作った続きは、明日の辻で勝手に配られる。
 「白い影は北に立つ」――北へ向く噂は、南の火を遅らせる。

 やがて、表の硬い音が一つ、ふっと途切れた。
 大きな笑いの主の声だ。
 池田屋という家が、音を一つ返した合図。
 終わりは、声で来ない。空気で来る。
 空気が軽くなり、血の匂いが風へ溶ける。
 静は、蓮の肩に人差し指を置いた。
「矢野さん。――もう、中へは入らないでください」
「お前は」
「僕も、入りません。噂を“紙”にしないために」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」

 静と蓮は、裏口の“釘”として最後まで立ち続けた。
 立つことが構えだ。構えは、斬るより難しい。難しいことだけが、町を壊さない。

 静かな終わり方を選んだ夜は、翌朝の商いを太らせる。
 太った商いは、刃を折らない。
 折れない町は、誠の字をまっすぐにする。

      *

 事が済んだあと、材木小屋の陰で血の色を目だけで確かめた。
 血は薄く、冷えて、木の繊維の間で静かになっている。
 匂いは風に分解され、指先の腹だけに重みが残る。
「見るのは、今だけです」
「見たくねぇ」
「見たくないものだけが、手癖を変えます」
「……見た」
「ありがとうございます」

 井戸へ戻り、刃の背を水で濡らす。刃は濡らさない。
「洗わない、だろ」
「刃は、です。背は、濡らしてください」
「なんでだよ」
「“忘れない”場所に、涼しさを置くためです」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、よく効きます」

 帰り道、静は粉屋の樽の口を元へ戻し、香具屋の皿を高くした。香の火を一つ消す。消して、跡だけ残す。
 跡は、翌日の「平穏」の字に吸い込まれる。
 平穏は、影の仕事が成功したときの、光の言葉だ。

 屯所に戻ると、土間の空気は冷たかった。
 近藤の肩は下がり、土方の目はいつものように薄く、山南は帳面に点を打つ。
 総司は笑って、咳を二つ。二つとも浅い。
「静。裏は」
 土方の声は短い。短い声は、余計なものを残さない。
「噂だけです」
「よし」
 土方は紙を三枚抜き、机に置いた。
 一枚は「突入」、一枚は「捕縛」、一枚は「火防」。
「火は、来なかった」
 近藤が低く呟く。
「はい。灯が、低かったので」
 静の答えに、誰も笑わない。笑わないことで、夜は静かに畳まれる。

 蓮は、柄の背に残った水を指で拭い、指の腹で自分の脈を聴いた。早いが、乱れていない。静の指がさっき肩に置かれた感触が、まだ残っている。
「静。……俺、斬った」
「はい」
「それでも、今夜、俺は“斬らずに止めた”のが多かった」
「はい。ありがとうございます」
「礼じゃねぇ」
「言わせてください」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

      *

 夜が明けた。
 京は“知らない顔”をして目を覚ます。
 商いが始まり、犬が一声だけ吠え、子が石を蹴って井戸の足に当てる。良い音。
 紙には幾つかの名が並んだ。捕らえられた者、逃れた者。
 火の字は、ない。
 ないことで、町は一息つく。ないことは、誰の手柄にもならない。誰の手柄にもならないことのために、昨夜はあった。

 昼、稽古場。竹の音が三度乾いて鳴る。
 静は半寸、間を詰める。蓮は“前の手前”をさらに短くする。
「矢野さん。――今夜からしばらくは、手前をもっと短く」
「またかよ」
「短い“手前”は、長い“余白”になります」
「余白、余白って、お前は白が好きだな」
「灯の外では、鼠です」
「うるせぇ」
「承知しています」

 総司が稽古場の縁に立ち、竹を肩に担いだ。
「静。君は、昨夜もよく“横”にいた」
「ありがとうございます」
「矢野。君は、昨夜もよく“前の手前”にいた」
「“前”じゃなくて悪かったな」
「前と手前の間に、火がある。君がそこに立つ限り、火は遠い」
「詩人ぶるなよ」
「春の仕事さ」
 総司は笑い、咳を一つだけ。音は浅い。
 浅い音は、深くならないうちに忘れさせてくれる。忘れさせてくれるうちは、影が支える番だ。

      *

 午後、辻占の婆が札を裏返す。
 裏には、欠けた「与」。返らない借りの印。
 静は札に触れず、目で礼をした。
 返らない借りは、増える。増えるたび、指が冷える。冷えた指は、刃を長く握る。
 蓮は、その指に自分の視線を置いた。
 視線は刃と同じ。温度がある。温度は背中へ入る。
「静」
「はい」
「お前は、また“借り”を増やしたのか」
「はい。返せないものは、僕が持ちます」
「勝手に決めるな」
「はい。決めます」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 夕刻前、香具屋の娘が小声で言った。
「昨夜の“病”は、早かったね」
 病。紙の上の言葉。
 病で括れば、夜は眠れる。眠れた夜の朝は、音がよく通る。
 静は銭を一枚、黙って置いた。

 夜。川辺。風は薄く、灯は低い。
 総司が笑って、咳を二つ。
「静。君の白は、今夜も鼠だね」
「はい。灯の外では」
「灯の内では、紙だ」
「紙は、いつか破れます」
「破れたら、また貼ろう」
 春の笑いは風に千切れ、千切れた端が水面に落ちる。輪が広がる。輪はすぐ消える。
 蓮は静の背中に視線を置いた。
「静。……俺は、今夜も“釘”でいる」
「ありがとうございます。視線は、影の釘です」
「格好つけやがって」
「矢野さんのためだけに、です」

      *

 池田屋潜入の夜は、一つで終わらない。
 同じ名の、別の夜が続く。
 逃げ道を数え、半寸ずらし、灯を下げ、音を柔らげ、噂の向きを変える――密偵の道は、毎夜、組み替えられる。
 紙に残るのは、名と数と、わずかな地名。
 紙に残らないのは、灯の高さ、結び目の角度、蝶番の油壺の位置、角材の寝かせ、柄で撫でた喉の前の空気、洗わない刃の背、そして「与」の欠け。
 紙に残らない歴史が、町を眠らせる。
 眠った町の朝、寺の鐘がひとつ遅れて鳴る。遅れたぶんだけ、音の尾が長い。長い尾が、昨夜の熱を隊の骨へ戻していく。

 その日、土方は紙を一枚だけ増やした。
「火防、補注」
 隅に小さく、灯の高さについての記し。
 紙にならないことを、ほんの少し紙に寄せる。寄せ過ぎれば、道具が減る。寄せなければ、誰も知らない。
 静は紙を見ず、井戸の縁に腰を下ろした。
 蓮が隣に座る。
「静。俺の“前の手前”は、間違ってないか」
「間違っていません。矢野さんの“前の手前”が短いほど、僕の“横”は、長くなります」
「横は長くていいのか」
「はい。横は、余白です」
「また白だ」
「白は、夜の色です」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
 蓮は笑って、水面へ小石を投げた。輪が三つ、静かに広がる。

      *

 その夜の終わりに、蓮は帳面へ書いた。
――灯を半寸、下げる。
――“前の手前”は短く、噂は長く。
――刃は濡らさず、背だけ濡らす。
――釘になる。
 書いてから、灯を本当に半寸、下げた。
 紙の黒は濃くなり、乾くのに時間がいる。時間がいる文字は、記憶に食い込む。食い込んだ記憶は、次の夜の筋肉になる。

 静は、簪の欠けた「与」を懐に戻した。返らない借りを、また一つ増やして。
 返らない借りがある限り、影は人でいられる。人でいる影は、光に心配をかけない。
 光は、明日も笑う。
 影は、明日も半寸ずらす。
 半寸の差で、人は生き、名は残り、誰かは書かれずに消える。
 書かれない方の歴史を、静と蓮は肩と背で分け合った。

 白は、夜の色だ。
 白い余白に、池田屋という名の夜が、音もなく積み重なっていく。
 積み重なった夜の上を、薄群青が渡り、寺の鐘がひとつ遅れて鳴った。
 それが合図だった。
 次の夜へ向かう、見えない道の合図。
 見えない道の上で、静は半寸、間を詰め、蓮は“前の手前”に立った。
 呼吸は揃い、音は乾き、灯は低い。
 火は、まだ遠い。
 遠いままにするのが、二人の仕事だった。
 仕事は、紙にならない。
 紙にならない夜だけが、町を眠らせる。
 眠る町の上で、青い羽織が静かに道を割っていく。
 その中心に、背中を預けない影と、視線を預ける前が、黙って立っていた。