六月の夜は、湿り気が骨の芯まで入ってくる。
薄い霧が灯籠の笠の内側で溜まり、焔は自然に半寸、低くなる。低くなった灯は、路地の段差を隠し、音を遠くへ押しやる。音が遠くへ行くと、噂だけが近くなる。祇園の飾りはまだ箱から出されず、紙衣の匂いが町家の軒先で眠っている。人々は早々に戸を閉ざし、雨戸の隙間に目だけを残して、夜をやり過ごすつもりでいた。嵐の前の静けさ――町の骨がそう呟いていた。
静と蓮は、池田屋の周辺を鼠のように歩いた。
鼠は鳴かない。鳴かない代わりに、木の繊維の方向を爪で撫でて確かめる。石畳の欠け目を足裏で覚える。軒の竹のきしむ高さで、屋根の重さを推し量る。
「囮になるのは俺の役目か?」
「はい。矢野さんが近づき、気配を引き寄せてください。――その間に、僕が数を読みます」
静の声は、いつもの淡さのまま夜気を割った。薄いが、方向がある。蓮には、その冷たさが今夜の霧より冷えて感じられた。
池田屋は三条小橋の北、格子の目が細かい旅籠で、二階は座敷。表は湯気と笑い、裏は息の合図。密偵たちの報せが重なって、二階座敷には長州の影と土佐の足運び、脱藩の匂いが何筋も絡んでいるらしい。御所の焼き討ち――「風の計画」と彼らは呼ぶ。風は見えない。見えないものは、大きい声で語られやすい。大きい声は、遠くまで通る。
蓮は、わざと足音を大きくした。
石の上で紐の先が擦れ、鞘の口金が格子の影に小さく当たる。うるさくはないが、無視できない音。
障子の隙間から灯が漏れ、二階の床板のきしみが下へ落ちてくる。低く押えた声が四つ、五つ。裏口の影に人影が三つ。うち一人は鯉口に触れて離さない癖。もう一人は足が内に入る。残りの一人は、膝が鳴る。
蓮が視線を投げると、男たちは眉をひそめ、刀の柄に手をやった。
緊張の糸が張った瞬間、屋根の上から小石が乾いた音で跳ねた。
男たちは一斉に振り返る。
そこには誰もいない。
ただ、白い袖が闇の端で揺れた気配だけが、目に残る。
静の仕業だ。白は噂の色。灯の外では鼠色に紛れ、灯の中では紙の白に化ける。
その隙に、蓮は路地を抜け、角を一つ、さらに一つ、曲がる。
心臓が喉から飛び出しそうになる。飛び出しそうな心臓を、歯で噛んで押し戻す。
気づく。静の影が背に掛かっている。見えないが、ある。視線を後ろに投げなくても、温度でわかる。背中に置かれた“釘”の温もり。
戻ると、静は短く言った。
「二十以上、います。刀を抜けば、一気に“炎”になります」
「俺たちは……どこまでやるのか」
「逃がさない。――それだけです」
それだけ、が重い。剣で斬るより重い。逃げ道を断つことは、生の可能性を奪うことだ。斬れば運も技も介在する。だが、道を奪えば、結果だけが残る。
背筋に冷たい汗が伝う。汗は、刃より先に落ちる。
遠くで太鼓がひとつ、遅れて鳴った。
突入の時は、まだ少し先だ。
今は“前の手前”。音を動かしてはいけない時間。
蓮は刀の鯉口を親指で半寸だけ押し、音が鳴らないことを確かめる。
「静。――長い夜になりそうだ」
「はい。長い夜ほど、短い手が効きます」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
◇
密偵の道は、昼に敷いて夜に渡る。
昼のうちに、薄い紙片が十枚、街の骨の間へ差し込まれていた。
古書肆の棚の奥、読み捨ての往来物の表紙の裏に、欠けた「与」。
香具屋の勘定台の板の割れ目に、薄墨で描かれた半円。
辻占の札の裏に、煤で点を一つ。
それぞれ別の意味を持つが、流れで見れば一つの合図になる。
静は日中、鼠色の薄布を肩に掛け、言葉を使わない言葉で道を並べた。
返らない借り――「与」。
いつも少し欠けている。欠けは重心だ。重心は、音の高さを変える。音が変われば、足が変わる。足が変われば、刃はいらない。
茶屋の娘は、昼の客の数と、夜の盃の重さを代価に、路地の噂を渡してくれた。
「白い人が、北に立つって、辻の婆が」
白い人。噂は勝手に形を整える。
「白は夜の色です」
静は銭を置き、湯気の匂いと一緒に短い礼を残した。
蓮は娘の目が脇へ滑るのを見た。滑る目は、嘘ではない。恐れだ。恐れがあれば、噂はよく効く。
夕刻前、香具屋の裏口で、静は油の壺を“正しい位置から半歩”ずらした。
「静。……これだけで、変わるのか」
「変わります。足音の高さが変わります」
「足音の高さ、ね」
「はい。高い音は、軽い手です。軽い手は、角度で止まります」
「角度は、お前の仕事だろ」
「矢野さんの“前の手前”で、十分です」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
日が落ち切る前に、もう一筋、薄い糸を通す必要があった。
河岸の粉屋。白い粉は湿りやすく、湿ると匂いを強くする。
今夜、粉屋の“粉”は、香具屋の匂いに紛れて、火の匂いを薄める役をする。
静は粉屋の樽をひとつ、口を半寸だけ緩めた。
「粉は火を嫌う。――火も粉を嫌います」
「なんだよそれ」
「嫌いどうしを近くに置くと、黙ります」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、よく効きます」
◇
夜が本格的に降りると、京の音はさらに遠くへ行った。
池田屋の二階、盃の当たる音が小さく跳ねる。
節の合わない笑いが一度高くなり、すぐ低く沈む。低い笑いは、内へ向いた合図だ。
静は屋根の上を三歩だけ滑った。瓦の温度が掌に移り、瓦の下の木鼻が湿っているのが指にわかる。
小石をひとつ、摘む。
摘んだまま落とすのではなく、瓦の縁に当てて跳ねさせる。跳ねた音は、真下ではなく一つずれた位置へ届く。
裏口の男二人が、同時に違う方向を見た。
その一拍の“ずれ”に、蓮は角を曲がる。
角を曲がりながら、短く声を投げた。
「通る」
男たちの手が柄に触れ、しかし抜かれない。抜けば、音が立つ。音が立てば、座敷の内側の耳がこちらへ向く。
今は、音を動かしてはならない。
「静。二階の人数は」
「……二十三。ただし、動線にいる“草”が四」
「草?」
「見張りでも見張らない者です。噂を拾って、逆に流す役」
「どの筋の草だ」
「混じっています。長州、土佐、あと一つは“金”です」
金筋の草は、刃より怖い。金は誰にでも付く。
「金筋は、今夜、どちらに付く」
「お金の匂いが、どちらから強いかで決まります」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
「……じゃあ、その鼻を塞げ」
「はい。粉屋の樽で」
裏手の材木小屋に回る。
昼間に寝かせた二本の角材の位置を、静は足の甲で軽く触れて確かめた。
寝ているものは、よく効く。立つものは、見える。見える障害は、避けられる。見えない障害は、止める。
蓮は小屋の柱に背を当て、二階の床板のきしみを数え始める。
きしみの間隔。歩幅。重さ。
一人、重い足音が、他の音と合っていない。
「静。二階の南端、重い」
「はい。――鎧の匂いがします」
「座敷に鎧?」
「“火”が絡むと、用心深い人が混じります」
「厄介だな」
「厄介な人ほど、灯の高さを見ます」
「どうする」
「灯を半寸、下げます」
静は香の皿の位置を、格子の影に沿って指で示した。
「香具屋の娘に、さっき“香の火を低く”と伝えておきました」
「いつの間に」
「昼です」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
◇
密偵の道は、人の道でもある。
言葉が通らないところでは、手の温度を使う。
静は“草”のひとりに近づいた。
この男は、昼間、粉屋の前で立ち止まり、粉の匂いを一度だけ鼻で切った者だ。鼻で切れる者は、嗅ぎ分ける。嗅ぎ分ける者は、金に付く。
男は表へ回って酒を二合買い、裏へ戻る。戻る途中の狭い角で、静は足音を一度だけ増やした。
増えた音は、すぐ消える。
消えた音を、人は追う。
追った先で、細い段差に足裏を取られる。
男の体がわずかに浮いた瞬間、静は袖口を掠めただけで離した。
男は転びはしない。転ばない代わりに、息が変わる。
息が変わると、匂いが変わる。
匂いが変わると、鼻が混乱する。
混乱した鼻は、今夜の「金の匂い」を読み損なう。
読み損なえば、草はただの人だ。
薄い霧が強くなり、灯がさらに半寸、下がった。
灯が低い夜の刃は、角度で勝負になる。力で勝とうとすると、音が硬くなる。硬い音は、朝まで残る。朝に残る音は、紙になる。紙になれば、噂が死ぬ。噂が死ぬと、次の夜の道具が減る。
静は噂を道具にする人間だ。道具を減らしたくない。だから、音を柔らかくする。
「静。……俺は囮で、どこまで踏み込む」
「“前の手前”で止まってください。――今夜は“手前”が短いです」
「池田屋の腹が重いからか」
「はい。腹が重いときは、外で“音”を削ります」
「わかった。……総司は、来るか」
「来ます。光は、必ず来ます」
言葉は、風の方向と同じ確かさで置かれた。
蓮は頷き、手の中の吐き気を丸め直す。
丸い吐き気は、柄の角に置けば角度を教える。角度があれば、刃はいらない。
◇
池田屋の裏手、塀に沿った細い通りに、若い二人組の浪士が入ってきた。
足音は軽く、声は大きい。大きい声は、怖さの裏返しだ。
「今夜だ。今夜、京を燃やす」
「北から風が来る。御所は――」
蓮は二人の前へ出て、狭い通りで身を半歩、斜めに置いた。
「通る」
短い声。声は低く、理由を与えない。
浪士の片方が肩を揺すり、鯉口に指をかけた。
鯉口の鳴りが高い。
高い音は、軽い手。
軽い手は、角度で止まる。
蓮は柄で手首の内側を撫で、同時に膝の内を足の甲で軽く押した。
足が半寸、内へ入る。
入った足は、出ない。
出ない足は、止まる。
「通れ」
蓮が言うと、二人は反射で道を開けた。
開けつつ、背を見せず、横にずれる。
横にずれた背の肩甲骨の形で、夜の稽古の成果が見える。――奴らは“斬る”ことしか知らない。止められると、斬られたくなる。
斬らせないのが、今夜の仕事だ。
通り抜けながら、蓮はわざと小さな石を蹴った。
石は二度跳ね、三度目に材木小屋の角で止まる。
止まる音は、柔らかい。
柔らかい音は、誰にも拾われない。
「静。――二人、通した」
「ありがとうございます。香の火が下がりました」
静の声は、裏口の向こうから来た。
「鎧の人間が、香の皿を見ました。低い灯は、火を遠ざけます」
「良い夜だな」
「はい。良い夜は、記録されません」
◇
潜るほど、夜は深くなる。
池田屋の二階で盃の音が一度だけ大きく鳴り、すぐに消えた。
合図だ。
近藤たちが、どこかの息の合い間に指を一本、そっと差し込んだ合図。
土方の筋はまだ動かない。動かない筋の方が、後で効く。
静は屋根から降り、格子の影に薄く身を寄せた。
裏口の蝶番に、油は差さない。
音が高いほど、逃げる足は躊躇する。
躊躇の一拍があれば、刃はいらない。
「矢野さん。――もう一つ、道の“釘”を打ちます」
「どこだ」
「この角です」
静は柱の節に指を当て、爪で一度だけ鳴らした。
乾いた、小さな音。
その音は、今夜一度しか鳴らない。
鳴らない音は、記憶だけになる。
「何の合図だ」
「“ここで止まる”という癖の、合図です」
「人間の癖に、合図が効くのか」
「効きます。癖は、音でできています」
池田屋の表で、盃が倒れた。
太鼓が、遠くで一つ。
灯が、さらに半寸、下がった。
静は立ち位置を、潮のように半歩ずらした。
蓮は“前の手前”を短くし、膝を抜いて肩を落とす。
「静。――来るぞ」
「はい。ここからは、刃の音を出さないでください」
「出すなよ」
「はい。出しません」
裏口の戸が、内から開いた。
酒と汗の匂いが一気に溢れ、湿った木の香と混じる。
一人、走り出た。
蓮は肩を半寸、前へ。
静は足を半歩、横へ。
男の刀は抜かれかけで、抜かれきらない。
鯉口の鳴りが高い。
柄が喉の前の空気を撫でる。
撫でられた声は、出る前に止まる。
足は、材木の寝かせに吸われ、膝が折れる。
倒れる音は、柔らかい。
柔らかい音は、誰にも拾われない。
二人目が来る。
梯子を駆け下りる足。
二段目でたわんで、三段目で止まる。
止まった踵に、静の指が軽く触れる。
触れた場所に、身体は自分で重みを集める。
集めた重みで、勝手に座り込む。
刃は、要らない。
三人目は、屋根へ逃げようとした。
屋根の木鼻は湿っている。
湿った木は、足を嫌う。
足が滑る。
滑った瞬間、濡れ縄の結び目が、ちょうど手の届かない半寸にある。
半寸が、今夜を決める。
男は、下へ落ちず、前へ崩れる。
前へ崩れた背に、蓮の掌が一瞬だけ触れる。
触れた熱が、逃げる心を“生きる”に変える。
表の喧噪は、硬く短く、乾いていく。
総司の気配が、春風のように一度だけ通り抜け、浅い咳がひとつ。
静の瞼が、刹那だけ揺れたが、すぐ凪いだ。
光に心配をかけない――影の礼儀は変わらない。
やがて、硬い音がひとつ途切れた。
大きな笑いの主が、音を失った合図だ。
池田屋という家が、音を一つ返した。
◇
裏口の外で、静は動かない。動かないことが、構えだ。
構えは斬るより難しい。難しい方が、町は壊れない。
蓮は呼吸だけを動かす。
吐く。
吸う。
吐く。
吸う。
その間に、掌の吐き気が角の形になり、柄の角に収まる。
「静。……俺、本当に今夜は誰も斬ってない」
「ありがとうございます」
「礼じゃねぇ」
「言わせてください」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
材木小屋の陰で、人の気配がもう一つ揺れた。
逃げるのではない。
隠れるのでもない。
“覗く”気配。
覗きは、怖れではない。好奇心だ。
好奇心は、噂の親。
親を摘み取れば、子は増えない。
静は気配の方へ、白い袖を一度だけ見せた。
見せて、すぐ消す。
消すと、人は自分で続きを作る。
作った続きは、明日の辻に並ぶ。
「白い影は、北に立つ」
それでいい。北に立つと思ってくれれば、南の火は遅れる。
◇
事が収まり、夜風が一度冷えた。
静は材木の血の色を目だけで確かめ、蓮は井戸の水で刃の背を濡らした。
刃は濡らさない。背だけを濡らす。
「洗わない、だろ」
「刃は、です。――背は、濡らしてください」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、よく効きます」
水面が揺れ、灯の白い月を細く裂く。
裂け目はすぐ繋がる。
繋がるたびに、夜が畳まれていく。
屯所へ戻る道すがら、静は粉屋の樽の口を元へ戻し、香具屋の皿を高くし、香の火を一つ消した。
消して、跡だけ残す。
跡は、翌日の「平穏」という字の下で乾く。
乾いた跡は、紙にならない。
紙にならないものだけが、次の夜の道具になる。
◇
翌朝、京は“知らない顔”で起きた。
商いは始まり、犬は一声だけ吠え、子は石を蹴って井戸の足に当てた。
良い音。
紙には、幾つかの名が並んだ。捕らえられた者、逃れた者。
火の字は、なかった。
火の字のない紙は、軽い。
軽い紙は、風でめくれる。
めくれた白は、夜の色だ。
稽古場で、静は蓮に短く言った。
「矢野さん。――今夜から数日は、“前の手前”をさらに短くしてください」
「また短くすんのかよ」
「はい。短い“手前”は、長い“余白”になります」
「余白ね。お前は白が好きだな」
「灯の外では、鼠です」
「うるせぇ」
「承知しています」
竹の音が三度、乾いて鳴る。
蓮は柄を握り直し、手の中の吐き気の角を確かめる。
角は、今は丸くなっていた。
丸い角は、次の夜の資本だ。
資本は、増やしすぎると鈍る。
鈍らせないように、短く使う。
短い“前の手前”。
刃を抜かずに勝てる場所の、いちばん手前。
◇
午後、辻占の婆が札を裏返す。
裏には、欠けた「与」。
静は札に触れず、目で礼をした。
返らない借りは増える。
増えるたび、指が冷える。
冷えた指で、刃を長く握る。
握るたび、蓮の視線が背を温める。
温度の落差で、夜が立つ。
その夜、川辺で総司が短く笑い、咳を一つ。
「静。君の“横”は、相変わらずよく効く」
「ありがとうございます」
「矢野。君の“前の手前”も、だ」
「“前”じゃなくて悪かったな」
「前と手前の間に、火がある。君がそこに立つと、火は遠い」
「詩人ぶるなよ」
「春の仕事さ」
春の笑いは、風で千切れた。
千切れた笑いの端に、遠い太鼓が一つ。
合図は、また北を指している。
◇
密偵の道は、一度敷けば終わりではない。
毎晩、半寸ずつ、置き石をずらし、灯を下げ、噂の向きを変える。
池田屋の夜は一つで終わらない。
同じ名の別の夜が、同じ町にいくつもある。
火は来なかった。
来なかったことは、紙にならない。
紙にならない勝利が、町を眠らせる。
眠った町の朝、寺の鐘がひとつ遅れて鳴る。
遅れのぶんだけ、夜は骨に染みる。
蓮は帳面に短く書いた。
――火は灯を好む。灯を半寸、下げ続けろ。
――“前の手前”は短く、噂は長く。
――刃は濡らさず、背だけ濡らす。
書いたあとで、灯を本当に半寸下げた。
紙の黒は濃くなり、乾くのに時間がかかる。
時間がかかる文字は、記憶に食い込む。
食い込んだ記憶は、次の夜の筋肉になる。
「静」
「はい」
「俺、今夜も多分、斬らない」
「ありがとうございます」
「礼じゃねぇ。……それで、いいのか」
「はい。斬らない夜は、町が太ります」
「町が太る、ね」
「はい。太った町は、刃を折りません」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、よく効きます」
「……お前、本当に、悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
白は夜の色だ。
白い余白に、名のない仕事が書かれないまま残る。
残る仕事が、京の炎を遠ざける。
遠ざけられた炎は、紙には書かれない。
紙に書かれない歴史が、見えないまま町を支える。
見えない支えの上で、青い羽織は道を割り、犬は一声だけ吠え、子は石を蹴って良い音を出す。
良い音の夜は、長持ちする。
長持ちする夜のために、密偵の道は、今夜も半寸だけ、ずらされる。
半寸の差で、人は生き、名は残り、誰かは書かれずに消える。
書かれない方の歴史を、静と蓮はそれぞれの位置で運んだ。
“前の手前”と、“横”。
その二つの距離が、京の骨を支えていることを、二人とも知っていた。
知りながら、誰にも言わない。
言わないまま、灯を半寸、下げる。
下がった灯の下で、寺の鐘がひとつ、遅れて鳴った。
それが合図だった。
次の夜へ向かう、密偵の道の合図。
薄い霧が灯籠の笠の内側で溜まり、焔は自然に半寸、低くなる。低くなった灯は、路地の段差を隠し、音を遠くへ押しやる。音が遠くへ行くと、噂だけが近くなる。祇園の飾りはまだ箱から出されず、紙衣の匂いが町家の軒先で眠っている。人々は早々に戸を閉ざし、雨戸の隙間に目だけを残して、夜をやり過ごすつもりでいた。嵐の前の静けさ――町の骨がそう呟いていた。
静と蓮は、池田屋の周辺を鼠のように歩いた。
鼠は鳴かない。鳴かない代わりに、木の繊維の方向を爪で撫でて確かめる。石畳の欠け目を足裏で覚える。軒の竹のきしむ高さで、屋根の重さを推し量る。
「囮になるのは俺の役目か?」
「はい。矢野さんが近づき、気配を引き寄せてください。――その間に、僕が数を読みます」
静の声は、いつもの淡さのまま夜気を割った。薄いが、方向がある。蓮には、その冷たさが今夜の霧より冷えて感じられた。
池田屋は三条小橋の北、格子の目が細かい旅籠で、二階は座敷。表は湯気と笑い、裏は息の合図。密偵たちの報せが重なって、二階座敷には長州の影と土佐の足運び、脱藩の匂いが何筋も絡んでいるらしい。御所の焼き討ち――「風の計画」と彼らは呼ぶ。風は見えない。見えないものは、大きい声で語られやすい。大きい声は、遠くまで通る。
蓮は、わざと足音を大きくした。
石の上で紐の先が擦れ、鞘の口金が格子の影に小さく当たる。うるさくはないが、無視できない音。
障子の隙間から灯が漏れ、二階の床板のきしみが下へ落ちてくる。低く押えた声が四つ、五つ。裏口の影に人影が三つ。うち一人は鯉口に触れて離さない癖。もう一人は足が内に入る。残りの一人は、膝が鳴る。
蓮が視線を投げると、男たちは眉をひそめ、刀の柄に手をやった。
緊張の糸が張った瞬間、屋根の上から小石が乾いた音で跳ねた。
男たちは一斉に振り返る。
そこには誰もいない。
ただ、白い袖が闇の端で揺れた気配だけが、目に残る。
静の仕業だ。白は噂の色。灯の外では鼠色に紛れ、灯の中では紙の白に化ける。
その隙に、蓮は路地を抜け、角を一つ、さらに一つ、曲がる。
心臓が喉から飛び出しそうになる。飛び出しそうな心臓を、歯で噛んで押し戻す。
気づく。静の影が背に掛かっている。見えないが、ある。視線を後ろに投げなくても、温度でわかる。背中に置かれた“釘”の温もり。
戻ると、静は短く言った。
「二十以上、います。刀を抜けば、一気に“炎”になります」
「俺たちは……どこまでやるのか」
「逃がさない。――それだけです」
それだけ、が重い。剣で斬るより重い。逃げ道を断つことは、生の可能性を奪うことだ。斬れば運も技も介在する。だが、道を奪えば、結果だけが残る。
背筋に冷たい汗が伝う。汗は、刃より先に落ちる。
遠くで太鼓がひとつ、遅れて鳴った。
突入の時は、まだ少し先だ。
今は“前の手前”。音を動かしてはいけない時間。
蓮は刀の鯉口を親指で半寸だけ押し、音が鳴らないことを確かめる。
「静。――長い夜になりそうだ」
「はい。長い夜ほど、短い手が効きます」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
◇
密偵の道は、昼に敷いて夜に渡る。
昼のうちに、薄い紙片が十枚、街の骨の間へ差し込まれていた。
古書肆の棚の奥、読み捨ての往来物の表紙の裏に、欠けた「与」。
香具屋の勘定台の板の割れ目に、薄墨で描かれた半円。
辻占の札の裏に、煤で点を一つ。
それぞれ別の意味を持つが、流れで見れば一つの合図になる。
静は日中、鼠色の薄布を肩に掛け、言葉を使わない言葉で道を並べた。
返らない借り――「与」。
いつも少し欠けている。欠けは重心だ。重心は、音の高さを変える。音が変われば、足が変わる。足が変われば、刃はいらない。
茶屋の娘は、昼の客の数と、夜の盃の重さを代価に、路地の噂を渡してくれた。
「白い人が、北に立つって、辻の婆が」
白い人。噂は勝手に形を整える。
「白は夜の色です」
静は銭を置き、湯気の匂いと一緒に短い礼を残した。
蓮は娘の目が脇へ滑るのを見た。滑る目は、嘘ではない。恐れだ。恐れがあれば、噂はよく効く。
夕刻前、香具屋の裏口で、静は油の壺を“正しい位置から半歩”ずらした。
「静。……これだけで、変わるのか」
「変わります。足音の高さが変わります」
「足音の高さ、ね」
「はい。高い音は、軽い手です。軽い手は、角度で止まります」
「角度は、お前の仕事だろ」
「矢野さんの“前の手前”で、十分です」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
日が落ち切る前に、もう一筋、薄い糸を通す必要があった。
河岸の粉屋。白い粉は湿りやすく、湿ると匂いを強くする。
今夜、粉屋の“粉”は、香具屋の匂いに紛れて、火の匂いを薄める役をする。
静は粉屋の樽をひとつ、口を半寸だけ緩めた。
「粉は火を嫌う。――火も粉を嫌います」
「なんだよそれ」
「嫌いどうしを近くに置くと、黙ります」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、よく効きます」
◇
夜が本格的に降りると、京の音はさらに遠くへ行った。
池田屋の二階、盃の当たる音が小さく跳ねる。
節の合わない笑いが一度高くなり、すぐ低く沈む。低い笑いは、内へ向いた合図だ。
静は屋根の上を三歩だけ滑った。瓦の温度が掌に移り、瓦の下の木鼻が湿っているのが指にわかる。
小石をひとつ、摘む。
摘んだまま落とすのではなく、瓦の縁に当てて跳ねさせる。跳ねた音は、真下ではなく一つずれた位置へ届く。
裏口の男二人が、同時に違う方向を見た。
その一拍の“ずれ”に、蓮は角を曲がる。
角を曲がりながら、短く声を投げた。
「通る」
男たちの手が柄に触れ、しかし抜かれない。抜けば、音が立つ。音が立てば、座敷の内側の耳がこちらへ向く。
今は、音を動かしてはならない。
「静。二階の人数は」
「……二十三。ただし、動線にいる“草”が四」
「草?」
「見張りでも見張らない者です。噂を拾って、逆に流す役」
「どの筋の草だ」
「混じっています。長州、土佐、あと一つは“金”です」
金筋の草は、刃より怖い。金は誰にでも付く。
「金筋は、今夜、どちらに付く」
「お金の匂いが、どちらから強いかで決まります」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
「……じゃあ、その鼻を塞げ」
「はい。粉屋の樽で」
裏手の材木小屋に回る。
昼間に寝かせた二本の角材の位置を、静は足の甲で軽く触れて確かめた。
寝ているものは、よく効く。立つものは、見える。見える障害は、避けられる。見えない障害は、止める。
蓮は小屋の柱に背を当て、二階の床板のきしみを数え始める。
きしみの間隔。歩幅。重さ。
一人、重い足音が、他の音と合っていない。
「静。二階の南端、重い」
「はい。――鎧の匂いがします」
「座敷に鎧?」
「“火”が絡むと、用心深い人が混じります」
「厄介だな」
「厄介な人ほど、灯の高さを見ます」
「どうする」
「灯を半寸、下げます」
静は香の皿の位置を、格子の影に沿って指で示した。
「香具屋の娘に、さっき“香の火を低く”と伝えておきました」
「いつの間に」
「昼です」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
◇
密偵の道は、人の道でもある。
言葉が通らないところでは、手の温度を使う。
静は“草”のひとりに近づいた。
この男は、昼間、粉屋の前で立ち止まり、粉の匂いを一度だけ鼻で切った者だ。鼻で切れる者は、嗅ぎ分ける。嗅ぎ分ける者は、金に付く。
男は表へ回って酒を二合買い、裏へ戻る。戻る途中の狭い角で、静は足音を一度だけ増やした。
増えた音は、すぐ消える。
消えた音を、人は追う。
追った先で、細い段差に足裏を取られる。
男の体がわずかに浮いた瞬間、静は袖口を掠めただけで離した。
男は転びはしない。転ばない代わりに、息が変わる。
息が変わると、匂いが変わる。
匂いが変わると、鼻が混乱する。
混乱した鼻は、今夜の「金の匂い」を読み損なう。
読み損なえば、草はただの人だ。
薄い霧が強くなり、灯がさらに半寸、下がった。
灯が低い夜の刃は、角度で勝負になる。力で勝とうとすると、音が硬くなる。硬い音は、朝まで残る。朝に残る音は、紙になる。紙になれば、噂が死ぬ。噂が死ぬと、次の夜の道具が減る。
静は噂を道具にする人間だ。道具を減らしたくない。だから、音を柔らかくする。
「静。……俺は囮で、どこまで踏み込む」
「“前の手前”で止まってください。――今夜は“手前”が短いです」
「池田屋の腹が重いからか」
「はい。腹が重いときは、外で“音”を削ります」
「わかった。……総司は、来るか」
「来ます。光は、必ず来ます」
言葉は、風の方向と同じ確かさで置かれた。
蓮は頷き、手の中の吐き気を丸め直す。
丸い吐き気は、柄の角に置けば角度を教える。角度があれば、刃はいらない。
◇
池田屋の裏手、塀に沿った細い通りに、若い二人組の浪士が入ってきた。
足音は軽く、声は大きい。大きい声は、怖さの裏返しだ。
「今夜だ。今夜、京を燃やす」
「北から風が来る。御所は――」
蓮は二人の前へ出て、狭い通りで身を半歩、斜めに置いた。
「通る」
短い声。声は低く、理由を与えない。
浪士の片方が肩を揺すり、鯉口に指をかけた。
鯉口の鳴りが高い。
高い音は、軽い手。
軽い手は、角度で止まる。
蓮は柄で手首の内側を撫で、同時に膝の内を足の甲で軽く押した。
足が半寸、内へ入る。
入った足は、出ない。
出ない足は、止まる。
「通れ」
蓮が言うと、二人は反射で道を開けた。
開けつつ、背を見せず、横にずれる。
横にずれた背の肩甲骨の形で、夜の稽古の成果が見える。――奴らは“斬る”ことしか知らない。止められると、斬られたくなる。
斬らせないのが、今夜の仕事だ。
通り抜けながら、蓮はわざと小さな石を蹴った。
石は二度跳ね、三度目に材木小屋の角で止まる。
止まる音は、柔らかい。
柔らかい音は、誰にも拾われない。
「静。――二人、通した」
「ありがとうございます。香の火が下がりました」
静の声は、裏口の向こうから来た。
「鎧の人間が、香の皿を見ました。低い灯は、火を遠ざけます」
「良い夜だな」
「はい。良い夜は、記録されません」
◇
潜るほど、夜は深くなる。
池田屋の二階で盃の音が一度だけ大きく鳴り、すぐに消えた。
合図だ。
近藤たちが、どこかの息の合い間に指を一本、そっと差し込んだ合図。
土方の筋はまだ動かない。動かない筋の方が、後で効く。
静は屋根から降り、格子の影に薄く身を寄せた。
裏口の蝶番に、油は差さない。
音が高いほど、逃げる足は躊躇する。
躊躇の一拍があれば、刃はいらない。
「矢野さん。――もう一つ、道の“釘”を打ちます」
「どこだ」
「この角です」
静は柱の節に指を当て、爪で一度だけ鳴らした。
乾いた、小さな音。
その音は、今夜一度しか鳴らない。
鳴らない音は、記憶だけになる。
「何の合図だ」
「“ここで止まる”という癖の、合図です」
「人間の癖に、合図が効くのか」
「効きます。癖は、音でできています」
池田屋の表で、盃が倒れた。
太鼓が、遠くで一つ。
灯が、さらに半寸、下がった。
静は立ち位置を、潮のように半歩ずらした。
蓮は“前の手前”を短くし、膝を抜いて肩を落とす。
「静。――来るぞ」
「はい。ここからは、刃の音を出さないでください」
「出すなよ」
「はい。出しません」
裏口の戸が、内から開いた。
酒と汗の匂いが一気に溢れ、湿った木の香と混じる。
一人、走り出た。
蓮は肩を半寸、前へ。
静は足を半歩、横へ。
男の刀は抜かれかけで、抜かれきらない。
鯉口の鳴りが高い。
柄が喉の前の空気を撫でる。
撫でられた声は、出る前に止まる。
足は、材木の寝かせに吸われ、膝が折れる。
倒れる音は、柔らかい。
柔らかい音は、誰にも拾われない。
二人目が来る。
梯子を駆け下りる足。
二段目でたわんで、三段目で止まる。
止まった踵に、静の指が軽く触れる。
触れた場所に、身体は自分で重みを集める。
集めた重みで、勝手に座り込む。
刃は、要らない。
三人目は、屋根へ逃げようとした。
屋根の木鼻は湿っている。
湿った木は、足を嫌う。
足が滑る。
滑った瞬間、濡れ縄の結び目が、ちょうど手の届かない半寸にある。
半寸が、今夜を決める。
男は、下へ落ちず、前へ崩れる。
前へ崩れた背に、蓮の掌が一瞬だけ触れる。
触れた熱が、逃げる心を“生きる”に変える。
表の喧噪は、硬く短く、乾いていく。
総司の気配が、春風のように一度だけ通り抜け、浅い咳がひとつ。
静の瞼が、刹那だけ揺れたが、すぐ凪いだ。
光に心配をかけない――影の礼儀は変わらない。
やがて、硬い音がひとつ途切れた。
大きな笑いの主が、音を失った合図だ。
池田屋という家が、音を一つ返した。
◇
裏口の外で、静は動かない。動かないことが、構えだ。
構えは斬るより難しい。難しい方が、町は壊れない。
蓮は呼吸だけを動かす。
吐く。
吸う。
吐く。
吸う。
その間に、掌の吐き気が角の形になり、柄の角に収まる。
「静。……俺、本当に今夜は誰も斬ってない」
「ありがとうございます」
「礼じゃねぇ」
「言わせてください」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
材木小屋の陰で、人の気配がもう一つ揺れた。
逃げるのではない。
隠れるのでもない。
“覗く”気配。
覗きは、怖れではない。好奇心だ。
好奇心は、噂の親。
親を摘み取れば、子は増えない。
静は気配の方へ、白い袖を一度だけ見せた。
見せて、すぐ消す。
消すと、人は自分で続きを作る。
作った続きは、明日の辻に並ぶ。
「白い影は、北に立つ」
それでいい。北に立つと思ってくれれば、南の火は遅れる。
◇
事が収まり、夜風が一度冷えた。
静は材木の血の色を目だけで確かめ、蓮は井戸の水で刃の背を濡らした。
刃は濡らさない。背だけを濡らす。
「洗わない、だろ」
「刃は、です。――背は、濡らしてください」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、よく効きます」
水面が揺れ、灯の白い月を細く裂く。
裂け目はすぐ繋がる。
繋がるたびに、夜が畳まれていく。
屯所へ戻る道すがら、静は粉屋の樽の口を元へ戻し、香具屋の皿を高くし、香の火を一つ消した。
消して、跡だけ残す。
跡は、翌日の「平穏」という字の下で乾く。
乾いた跡は、紙にならない。
紙にならないものだけが、次の夜の道具になる。
◇
翌朝、京は“知らない顔”で起きた。
商いは始まり、犬は一声だけ吠え、子は石を蹴って井戸の足に当てた。
良い音。
紙には、幾つかの名が並んだ。捕らえられた者、逃れた者。
火の字は、なかった。
火の字のない紙は、軽い。
軽い紙は、風でめくれる。
めくれた白は、夜の色だ。
稽古場で、静は蓮に短く言った。
「矢野さん。――今夜から数日は、“前の手前”をさらに短くしてください」
「また短くすんのかよ」
「はい。短い“手前”は、長い“余白”になります」
「余白ね。お前は白が好きだな」
「灯の外では、鼠です」
「うるせぇ」
「承知しています」
竹の音が三度、乾いて鳴る。
蓮は柄を握り直し、手の中の吐き気の角を確かめる。
角は、今は丸くなっていた。
丸い角は、次の夜の資本だ。
資本は、増やしすぎると鈍る。
鈍らせないように、短く使う。
短い“前の手前”。
刃を抜かずに勝てる場所の、いちばん手前。
◇
午後、辻占の婆が札を裏返す。
裏には、欠けた「与」。
静は札に触れず、目で礼をした。
返らない借りは増える。
増えるたび、指が冷える。
冷えた指で、刃を長く握る。
握るたび、蓮の視線が背を温める。
温度の落差で、夜が立つ。
その夜、川辺で総司が短く笑い、咳を一つ。
「静。君の“横”は、相変わらずよく効く」
「ありがとうございます」
「矢野。君の“前の手前”も、だ」
「“前”じゃなくて悪かったな」
「前と手前の間に、火がある。君がそこに立つと、火は遠い」
「詩人ぶるなよ」
「春の仕事さ」
春の笑いは、風で千切れた。
千切れた笑いの端に、遠い太鼓が一つ。
合図は、また北を指している。
◇
密偵の道は、一度敷けば終わりではない。
毎晩、半寸ずつ、置き石をずらし、灯を下げ、噂の向きを変える。
池田屋の夜は一つで終わらない。
同じ名の別の夜が、同じ町にいくつもある。
火は来なかった。
来なかったことは、紙にならない。
紙にならない勝利が、町を眠らせる。
眠った町の朝、寺の鐘がひとつ遅れて鳴る。
遅れのぶんだけ、夜は骨に染みる。
蓮は帳面に短く書いた。
――火は灯を好む。灯を半寸、下げ続けろ。
――“前の手前”は短く、噂は長く。
――刃は濡らさず、背だけ濡らす。
書いたあとで、灯を本当に半寸下げた。
紙の黒は濃くなり、乾くのに時間がかかる。
時間がかかる文字は、記憶に食い込む。
食い込んだ記憶は、次の夜の筋肉になる。
「静」
「はい」
「俺、今夜も多分、斬らない」
「ありがとうございます」
「礼じゃねぇ。……それで、いいのか」
「はい。斬らない夜は、町が太ります」
「町が太る、ね」
「はい。太った町は、刃を折りません」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、よく効きます」
「……お前、本当に、悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
白は夜の色だ。
白い余白に、名のない仕事が書かれないまま残る。
残る仕事が、京の炎を遠ざける。
遠ざけられた炎は、紙には書かれない。
紙に書かれない歴史が、見えないまま町を支える。
見えない支えの上で、青い羽織は道を割り、犬は一声だけ吠え、子は石を蹴って良い音を出す。
良い音の夜は、長持ちする。
長持ちする夜のために、密偵の道は、今夜も半寸だけ、ずらされる。
半寸の差で、人は生き、名は残り、誰かは書かれずに消える。
書かれない方の歴史を、静と蓮はそれぞれの位置で運んだ。
“前の手前”と、“横”。
その二つの距離が、京の骨を支えていることを、二人とも知っていた。
知りながら、誰にも言わない。
言わないまま、灯を半寸、下げる。
下がった灯の下で、寺の鐘がひとつ、遅れて鳴った。
それが合図だった。
次の夜へ向かう、密偵の道の合図。



