梅雨明けの空は、湯気のように薄く揺れていた。
文久四年六月。京の町の石畳は昼に熱を吸い、夜になるとゆっくりと吐き出す。吐き出された熱は路地の膝裏あたりを這い、灯の笠の内側で焔を低くさせた。灯が半寸下がると、音が遠くまで通る。遠くまで通る音は、噂を運ぶ。
御所の北で「風の計画」が囁かれている――辻の辻に立つ声は、最初は笑い話の調子で、次に悪口の調子で、最後には祈りの調子で同じ文句を繰り返した。御所を焼き、天子様を長州へ移す。市中に火を放ち、武家屋敷を煙で塞ぐ。夜風で炎を伸ばし、混乱のうちに要人を攫う。
悪い冗談は、火口の匂いが混ざると冗談ではなくなる。京の空気は、その匂いを覚え始めていた。
屯所の座敷に、青い羽織が並んだ。
近藤勇は真ん中に座し、声を抑えた。抑えた声は、太い。抑えなければ太くならない種類の声だ。
「尊攘派が火を放つ前に、奴らを捕らえる。会津様の信頼は、この一戦で決まる」
土方歳三が横で紙を広げる。紙の上に墨の赤で囲いが走り、烏丸から三条、木屋町、先斗町へ、細い線が血管のように繋がっている。
「敵は三十を超える。こちらは数十。正面でぶつかれば、削られる」
ざわめきが畳に吸い込まれた。
「だから裏が要る。逃げ道を潰し、相手に選択肢を与えない」
土方の視線が、座敷の端にすっと滑る。
「静――お前の役目だ」
「承ります」
沖田静は、頷いただけで目を動かさない。目は水面の硬さをしている。そこに投げられた石は、すぐ沈む。波紋は立たない。
隣で、矢野蓮が息を飲んだ。
「静。俺も……行くんだな」
「はい。僕一人では網が粗いです。矢野さんの足音で、穴を埋めてください」
「足音?」
「はい。逃げる人は、音を嫌います。矢野さんの音は“止める音”です」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
夜。寝所に横たわっても、眠りは来ない。
火の匂いが、まだないのに鼻の奥を刺した。想像の火は、現実よりも速く燃える。
裏の仕事は、剣より冷たい。剣には勝ちも負けもあるが、裏は結果だけだ。逃げ道を断つというのは、相手に「死しか残らない」場所を用意することだ。用意しただけで、手は血の匂いを覚える。
蓮は仰向けから横向き、横向きからうつ伏せに転がり、布団の端を噛んだ。噛む相手が布だと、歯は黙る。黙った歯は、朝まで持つ。
翌朝の巡察で、京の肌はざらついていた。
町人の歩幅が半寸短い。辻々で浪士の背が増える。井戸端の桶は片方だけ濡れ、香具屋の奥の引き戸は昨夜より高く鳴る。
茶屋の女中が、盃を拭きながら顔を上げずに言った。
「池田屋に、人が寄ってます」
短い文の最後の助詞は、針のように鋭い。蓮の胸の内側を、ひと刺しして残る。
屯所に戻ると、決定は速かった。
二手に分かれての突入。近藤隊は正面、土方隊は別筋。静と蓮はさらに先行して、裏口を封じる。
「これは、ただの斬り合いじゃない」
静が囁く。
「町全体を守る一手です」
「わかってる。……わかってるつもりだ」
「ありがとうございます。矢野さんが“前の手前”に立てば、僕は“横”で音を止めます」
「お前は詩人か」
「音を書いているだけです」
*
昼から夕への間、静と蓮は町の「音」を揃えた。
池田屋までの細路の蝶番に油を差し、しかし油壺は半歩ずらす。開く音は柔らかくなるが、壺を倒す音は高くなる。高い音は、逃げる足を躊躇させる。
材木小屋の角に角材を二本、一本は立て、一本は寝かせる。立てた一本は目に入る。寝かせた一本は足に入る。見える障害は避けられる。見えない障害は止める。
香の皿を低くして、灯の高さを半寸下げる。灯が下がれば、段差が見えない。見えない段差は、重心を奪う。
川沿いの火除地には濡れ縄を張り、結び目を「ほどけやすく、ほどけにくい」角度に置く。力任せならほどける。慎重なら触れない。どちらに転んでも、火は走らない。
「静。逃げ道は何本だ」
「表の通りが一本、裏の細路が二本、屋根伝いが一本、井戸側の狭間がひとつ。――合計五つです」
「五つ。……俺が押さえるのは」
「矢野さんは“前の手前”で、裏の細路の一本を。音を止める役です」
「殺さない、でいいんだな」
「はい。殺すのは、別の刃です」
「誰のだ」
「“表”の刃です」
「言い方が嫌いだ」
「ありがとうございます」
夕風が、汗を一度だけ冷やした。
池田屋の前を、素知らぬ顔で通り過ぎる。格子の木目は新しく、棟の軋みは古い。新しい木はよく鳴る。古い木はよく持つ。
店の者が樽を運び、芸妓が行き、男たちの笑いが二階で溜まる。笑いが溜まると、灯が低くなる。灯が低くなると、刃が近づく。
静は格子の影の濃さを目で量り、蓮は石畳の欠け目を足で数えた。
「静。……ここで、人は死ぬのか」
「はい。ここではなく、ここから、です」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
日が落ちる前、静は一度だけ北へ足を伸ばした。
辻占の婆が札を並べる小さな祠。札の裏には、薄墨の細い印がある。「与」。
欠けた「与」は、返しきれない借りの印だ。
静は札を一枚めくり、札の縁に小さな点を置いた。
「返す手が、今夜も働きます」
「“与”か。何度も出てくる」
「返せない借りは、誰かが持ちます。持つ手があれば、夜は静かに運べます」
「持つのは誰だ」
「僕です」
「勝手に決めるな」
「はい。決めます」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
*
夕刻、屯所の土間に、近藤と土方が立った。
近藤の声は太く、土方の言葉は薄い。薄いほど遠くへ通る。
「表は俺が叩く。――静、裏をたのむ」
「承ります」
「矢野。お前は静の“横”で、音を止めろ」
「了解」
「“了解”は軽い。――“やる”と言え」
「やる……ます」
土方の目が、半寸だけ柔らいだ。
「それでいい」
出立の前、静は蓮の鍔に触れた。
「矢野さん。鍔を半刃、前に」
「またそれか」
「今夜は、前に出る手が増えます。刃が勝手に前へ行かないように」
「わかったよ」
「ありがとうございます」
日が落ち、灯が半寸、下がる。
空気の濃度が変わる。匂いが濃くなる。音が遠くなる。
近藤隊が表から消え、土方隊が別筋へ溶け、静と蓮が鼠色の薄布に身を包んで路地へ潜った。
まず、裏口の蝶番。
静は油を差さず、指の腹で金属の温度を測るだけだ。冷たい。冷たければ、開く音は高い。高い音は、走る足を止める。
次に、梯子。
蓮が二段目の板を手で押す。たわみがある。そこを割るのは、今夜ではない。割れている「かもしれない」が、逃げる足に効く。
材木小屋の影に、角材の寝かせ。
寝かせた角材は、音を柔らかくする。柔らかい音は、近くまで来ないと聞こえない。近づいた足は、もう逃げていない。
井戸の縁に、濡れ縄の結び目。
ほどけにくい結び目は、手の温度でほどける。温度を奪えば、ほどけない。
「静。……俺、やっぱり、火が怖い」
「はい。火は、夜を食べます」
「剣で斬り合うより、火が怖い」
「僕も怖いです。――だから、半寸、遠ざけます」
「半寸で足りるのかよ」
「足ります。半寸を十回やれば、五寸です」
「算術するな」
「音を書いているだけです」
池田屋の二階で、盃が転がる音がした。
盃の音は軽い。軽い音は、重いことの前触れだ。
芸妓の笑いが一度高くなり、次に低く落ちた。低い笑いは、内に変わった合図だ。
合図のあとで、灯が半寸下がる。
静は、足を止めた。
「矢野さん。――今は、まだ駄目です」
「またそれか」
「はい。“表”が入る前は、音を動かせません」
「わかってる。……わかってるつもりだ」
蓮は掌の中で吐き気を丸め、柄に移した。柄に移すと、丸は角になる。角になった吐き気は、前へ行く手を半寸だけ止める。
川上から、風が変わった。
風向きは北。火の流れは南へ伸びる。今夜、火が出れば、市中の被害は大きい。
静は川縁の火除地へ目をやり、濡れ縄の張りを指先で確かめた。
結び目は、生きている。
生きた結び目は、最初の一息でほどけ、次の一息で締まる。火には、最初の一息を与えない。
裏路地の奥で、若い浪士がふたり、早口にささやき合った。
「今夜だ」「合図は火」「北から風」「御所は……」
蓮は、音の出所に“前の手前”で入った。
「静。俺がやる」
「お願いします。――半刃だけ右です」
蓮は歩幅を半刃、ずらした。
若い浪士の片方が肩をぶつけ、怒鳴り声を上げようとした瞬間、蓮の柄が喉の前の空気を撫でる。撫でられた声は、出る前に自分で止まる。
「通るぞ」
蓮の声は低く、短い。短い声は、言い訳の余地を与えない。
ふたりは、道を開けた。開けながら背を向け、足を速める。速い足のかかとは、高い音を鳴らした。高い音は、どこで止めればいいかを教える。
「静。――今の、止め方は」
「良かったです。音が柔らかいままでした」
「柔らかく止めると、あとが楽なのか」
「はい。硬い音は、誰かが拾います」
やがて、遠い方角で太鼓がひとつ鳴る。
鳴り方が、合図に似ている。
合図が来ると、灯がもう半寸下がる。
静は潮のように、立ち位置を半歩ずらした。
そのとき――池田屋の表が破れた。
声ではなく、空気の裂ける音。
刃が入ったのだ。
表の刃は、音を要らない。
音のない裂け目から、風が流れる。
風が変わると、裏の仕事が始まる。
「矢野さん。梯子へ」
「了解――じゃねぇ、“やる”だ」
「ありがとうございます」
梯子の下で、影が走った。
逃げる足は、二段目でたわみ、三段目で止まる。止まった身体を、蓮は“前の手前”で受けた。
刃を使わない。
肩を返し、肘を押し、膝の内側の筋を指で撫でる。
撫でられた筋は、力を忘れる。
忘れた身体は、地面に吸い付く。
吸い付いた背中の熱が冷えるまで、待つ。
待つ時間が長いほど、刃は要らない。
「静。もう一人来る」
「灯の影に、“与”の札が見えます。今のうちに半寸、下がってください」
「見えねぇよ」
「見えなくていいです」
材木小屋の影で、別の影がつまづいた。
寝かせた角材に、足の裏が気づかない。気づかない足は、膝を折る。膝を折った身体に、静の指が額の皮を掠めただけで、意識は「逃げる」から「生きる」に切り替わる。
切り替わった相手は、もう走らない。走らない相手には、刃は要らない。
屋根伝いの足音が、木鼻で滑った。
静は見上げず、耳で角度を測った。
降りてくる場所は、井戸の脇。井戸の縁には、濡れ縄。
足が縄に触れば、ほどける。ほどけると、足は止まる。
止まった足の前に、蓮が“前の手前”。
「誰が、そこにいる」
「狼だ」
言葉は、噂の形で返した。
噂は刃だ。
噂の刃は、心を先に斬る。
斬られた心は、脚を忘れる。
脚を忘れた相手は、ただうずくまる。
表の喧騒は、硬く、乾いていく。
盃が割れ、畳が裂け、柱に柄が当たり、短い悲鳴が斬られる。
風が、血の匂いを裏へ押し出した。
匂いは、蓮の舌の裏に小さく残った。
残った匂いは、吐き気に変わる。
吐き気は、掌で握る。
握った吐き気は、角に変わる。
角は、角度を教える。
角度があれば、刃は要らない。
「静。火は」
「まだ遠い。――火は、今夜は来ません」
「どうして言い切れる」
「灯の高さです。火は高い灯を好みます。今夜の灯は、低い」
「理屈、嫌いだ」
「ありがとうございます」
裏口から、酒と汗の混じった男が飛び出した。
蓮の肩が半寸、前に出る。
静の足が半歩、横に滑る。
男の刃は抜かれかけで、抜かれきらない。
鯉口の鳴りは高い。高い音は、軽い手。
軽い手は、角度に弱い。
蓮は柄で手首の内側を撫で、静は足の甲を薄く踏む。
男は、倒れた。
倒れた音は、材木の陰で柔らかくなった。
柔らかい音は、表へ届かない。
その間にも、総司の気配が一度、風みたいに走った。
笑い声が一瞬、春の形で混ざる。
続けて、浅い咳が一つ。
静の瞼が、刹那だけ揺れた。
揺れはすぐ、凪いだ。
光に心配をかけない――影の礼儀は変わらない。
やがて、表の硬さが、短くなった。
短い硬さは、終わりの前ぶれだ。
終わりの前ぶれが、風で裏へ届く。
静は、蓮の肩に指を置いた。
「矢野さん。――ここから先は、入らないでください」
「お前は」
「僕も、入りません」
「何が残ってる」
「噂です。今夜の“噂”を、明日の“紙”に変えないように」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
裏口の前で、二人はただ立った。
立つことが構えだ。
構えは、刃を抜くより難しい。
難しい方が、町は静かになる。
静かな夜は、翌日の商いを太らせる。
商いが太れば、名が太る。
名が太れば、紙が増える。
紙が増えれば、噂は薄まる。
薄まった噂は、また拵えが利く。
やがて、表の音がひとつ、途切れた。
大きな笑い声の主が、音を失った合図だ。
池田屋という家は、今夜、音を一つ返した。
返された音は、夜風に千切れて、鴨川の上で消えた。
*
事が済んだあと、裏口から離れる前に、静は一度だけ材木小屋の陰を覗いた。
血は薄く、木の繊維の間で暗く冷えている。
匂いは風で薄く、指の腹に重さだけ残る。
「見るのは、今だけです」
「見たくねぇよ」
「見たくないものだけが、手癖を変えます」
「……見た」
「ありがとうございます」
帰路、川沿いの火除地は、濡れ縄がまだ生きていた。
結び目は、ほどけたまま、次の息を待っている。
火は来なかった。
来なかった、という事実は、紙にならない。
紙にならない勝ちが、町を救う夜がある。
今夜が、その夜だ。
屯所に戻ると、土間の空気は冷たかった。
近藤の肩は下がり、土方の目は薄く、総司の笑いはいつもの形で、咳はふたつ。
山南が帳面に赤い点を打ち、三つ並んだ点のうち、真ん中を薄くした。
「静。裏は」
「噂だけです」
「よし」
土方は紙を三枚だけ抜き、机に置いた。
一枚は「突入」。
一枚は「捕縛」。
一枚は「火防」。
「火は、来なかった」
近藤が、声を低くして言う。
「はい。灯が、低かったので」
静の答えに、誰も笑わなかった。笑わないことで、夜は静かに保たれる。
深夜、井戸端で。
蓮は柄の背を水で濡らし、刃の表は濡らさない。
「静」
「はい」
「俺、今日、ひとりも斬ってない」
「ありがとうございます」
「礼じゃねぇ」
「言わせてください」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
水面が揺れ、灯の白い月を細く裂く。
裂かれた月は、すぐ繋がった。
*
翌日。
京の町は、昨夜のことを知らない顔で目を覚ました。
商いは始まり、犬は一声だけ吠え、子は石を蹴って井戸の足に当て、良い音を出した。
紙には、幾つかの名が記された。捕らえられた者の名。逃れた者の名。
火の字は、なかった。
火の字がない紙は、軽い。
軽い紙は、風でめくれる。
めくれた紙の下に、白い余白があった。
白は、夜の色だ。
白い余白に、静の名はない。
ないままで、いい。
ないままで、長く効く。
午後、稽古場。
竹の音は乾き、土間は少しひんやりする。
静が半寸、間を詰め、蓮が“前の手前”で止める。
「静。……昨夜、俺は“前”で立てたか」
「はい。矢野さんは“前の手前”でした」
「前じゃないのか」
「前に立つと、夜が壊れます」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
「まあ、いい。――総司は」
「光でした」
短い答えに、十分な温度があった。
その日の夕刻、辻占の婆が、また札を裏返した。
裏には、欠けた「与」。
静は札に触れず、ただ目で礼をした。
返らない借りは、増える。
増えるたびに、指が冷える。
冷えた指で、刃の背を撫でる。
刃の背は、洗わない。
洗わない背は、忘れない。
忘れないことだけが、次の夜の準備になる。
夜、川辺で。
風は薄く、灯は低い。
総司が笑って、咳をひとつ。
「静。君の“横”は、よく効く」
「ありがとうございます」
「矢野。君の“前の手前”も、よく効く」
「“前”じゃなくて悪かったな」
「前と手前の間に、“火”がある。君がそこに立つと、火は遠い」
「詩人ぶるなよ」
「春の仕事さ」
春の笑いは、風で千切れた。
千切れた笑いの端に、合図の太鼓が遠くでひとつ。
鳴り方が、次の夜を指している。
*
京の炎は、まだ燃えていない。
だが、熱は人の血を滾らせる。滾った血は、刃を早くする。
速い刃は、町を壊す。
だから、半寸、遅らせる。
半寸を十回、置く。
置いた半寸が、池田屋の夜を、火の手前で止めた。
書かれたのは、名と数と、わずかな地名。
書かれなかったのは、灯の高さ、結び目の角度、蝶番の油壺の位置、角材の寝かせ方、柄で撫でた喉の前の空気、洗わない刃の背、そして“与”の欠け。
それらは、紙にならない歴史だ。
紙にならない歴史が、町を眠らせる。
眠った町の朝、寺の鐘がひとつ遅れて鳴る。
遅れたぶんだけ、音の尾が長い。
長い尾は、昨夜の熱を持って、隊の骨を締める。
静は蓮に言った。
「矢野さん。――“前の手前”は、今夜からしばらく、短くなります」
「池田屋の余波か」
「はい。短い“手前”は、長い“余白”になります」
「余白」
「白は、夜の色です」
「やっぱり詩人だな」
「音を書いているだけです」
「……わかった。短くして、長く残す」
「ありがとうございます」
蓮はその夜、帳面に短く書いた。
――火は灯を好む。灯を半寸、下げ続けろ。
書いて、灯を本当に半寸だけ下げた。
紙の黒が濃くなる。
濃い黒は、乾くのに時間がかかる。
時間がかかる文字は、記憶に食い込む。
食い込んだ記憶は、次の夜の筋肉になる。
京の炎は、まだ燃えていない。
燃えないうちに、風を変える。
風が変われば、噂が変わる。
噂が変われば、道が変わる。
道が変われば、刃はいらない。
刃が要らない夜が、もう一つ、欲しい。
その欲は、誠の字の裏側にある。
誠の字は、筆先が冷たいとき、まっすぐに引ける。
今、筆先は冷えている。
冷えているうちに、次の夜の準備を始める。
白は夜の色だ。
白い余白に、名のない仕事が書かれないまま残る。
残る仕事が、次の章の扉を押す。
扉は、音もなく開く。
開く先に、同じ名が待っている。
池田屋。
名は同じでも、夜は別だ。
別の夜を、同じ呼吸で越えるために――静は半寸、間を詰め、蓮は“前の手前”に立った。
風は北。灯は低い。
火は、まだ遠い。
遠いままにするのが、今夜の仕事だ。
仕事は、紙にならない。
紙にならない夜だけが、町を眠らせる。
眠る町の上を、薄い群青が静かに渡っていった。
寺の鐘が、ひとつ遅れて鳴る。
それが、合図だった。
文久四年六月。京の町の石畳は昼に熱を吸い、夜になるとゆっくりと吐き出す。吐き出された熱は路地の膝裏あたりを這い、灯の笠の内側で焔を低くさせた。灯が半寸下がると、音が遠くまで通る。遠くまで通る音は、噂を運ぶ。
御所の北で「風の計画」が囁かれている――辻の辻に立つ声は、最初は笑い話の調子で、次に悪口の調子で、最後には祈りの調子で同じ文句を繰り返した。御所を焼き、天子様を長州へ移す。市中に火を放ち、武家屋敷を煙で塞ぐ。夜風で炎を伸ばし、混乱のうちに要人を攫う。
悪い冗談は、火口の匂いが混ざると冗談ではなくなる。京の空気は、その匂いを覚え始めていた。
屯所の座敷に、青い羽織が並んだ。
近藤勇は真ん中に座し、声を抑えた。抑えた声は、太い。抑えなければ太くならない種類の声だ。
「尊攘派が火を放つ前に、奴らを捕らえる。会津様の信頼は、この一戦で決まる」
土方歳三が横で紙を広げる。紙の上に墨の赤で囲いが走り、烏丸から三条、木屋町、先斗町へ、細い線が血管のように繋がっている。
「敵は三十を超える。こちらは数十。正面でぶつかれば、削られる」
ざわめきが畳に吸い込まれた。
「だから裏が要る。逃げ道を潰し、相手に選択肢を与えない」
土方の視線が、座敷の端にすっと滑る。
「静――お前の役目だ」
「承ります」
沖田静は、頷いただけで目を動かさない。目は水面の硬さをしている。そこに投げられた石は、すぐ沈む。波紋は立たない。
隣で、矢野蓮が息を飲んだ。
「静。俺も……行くんだな」
「はい。僕一人では網が粗いです。矢野さんの足音で、穴を埋めてください」
「足音?」
「はい。逃げる人は、音を嫌います。矢野さんの音は“止める音”です」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
夜。寝所に横たわっても、眠りは来ない。
火の匂いが、まだないのに鼻の奥を刺した。想像の火は、現実よりも速く燃える。
裏の仕事は、剣より冷たい。剣には勝ちも負けもあるが、裏は結果だけだ。逃げ道を断つというのは、相手に「死しか残らない」場所を用意することだ。用意しただけで、手は血の匂いを覚える。
蓮は仰向けから横向き、横向きからうつ伏せに転がり、布団の端を噛んだ。噛む相手が布だと、歯は黙る。黙った歯は、朝まで持つ。
翌朝の巡察で、京の肌はざらついていた。
町人の歩幅が半寸短い。辻々で浪士の背が増える。井戸端の桶は片方だけ濡れ、香具屋の奥の引き戸は昨夜より高く鳴る。
茶屋の女中が、盃を拭きながら顔を上げずに言った。
「池田屋に、人が寄ってます」
短い文の最後の助詞は、針のように鋭い。蓮の胸の内側を、ひと刺しして残る。
屯所に戻ると、決定は速かった。
二手に分かれての突入。近藤隊は正面、土方隊は別筋。静と蓮はさらに先行して、裏口を封じる。
「これは、ただの斬り合いじゃない」
静が囁く。
「町全体を守る一手です」
「わかってる。……わかってるつもりだ」
「ありがとうございます。矢野さんが“前の手前”に立てば、僕は“横”で音を止めます」
「お前は詩人か」
「音を書いているだけです」
*
昼から夕への間、静と蓮は町の「音」を揃えた。
池田屋までの細路の蝶番に油を差し、しかし油壺は半歩ずらす。開く音は柔らかくなるが、壺を倒す音は高くなる。高い音は、逃げる足を躊躇させる。
材木小屋の角に角材を二本、一本は立て、一本は寝かせる。立てた一本は目に入る。寝かせた一本は足に入る。見える障害は避けられる。見えない障害は止める。
香の皿を低くして、灯の高さを半寸下げる。灯が下がれば、段差が見えない。見えない段差は、重心を奪う。
川沿いの火除地には濡れ縄を張り、結び目を「ほどけやすく、ほどけにくい」角度に置く。力任せならほどける。慎重なら触れない。どちらに転んでも、火は走らない。
「静。逃げ道は何本だ」
「表の通りが一本、裏の細路が二本、屋根伝いが一本、井戸側の狭間がひとつ。――合計五つです」
「五つ。……俺が押さえるのは」
「矢野さんは“前の手前”で、裏の細路の一本を。音を止める役です」
「殺さない、でいいんだな」
「はい。殺すのは、別の刃です」
「誰のだ」
「“表”の刃です」
「言い方が嫌いだ」
「ありがとうございます」
夕風が、汗を一度だけ冷やした。
池田屋の前を、素知らぬ顔で通り過ぎる。格子の木目は新しく、棟の軋みは古い。新しい木はよく鳴る。古い木はよく持つ。
店の者が樽を運び、芸妓が行き、男たちの笑いが二階で溜まる。笑いが溜まると、灯が低くなる。灯が低くなると、刃が近づく。
静は格子の影の濃さを目で量り、蓮は石畳の欠け目を足で数えた。
「静。……ここで、人は死ぬのか」
「はい。ここではなく、ここから、です」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
日が落ちる前、静は一度だけ北へ足を伸ばした。
辻占の婆が札を並べる小さな祠。札の裏には、薄墨の細い印がある。「与」。
欠けた「与」は、返しきれない借りの印だ。
静は札を一枚めくり、札の縁に小さな点を置いた。
「返す手が、今夜も働きます」
「“与”か。何度も出てくる」
「返せない借りは、誰かが持ちます。持つ手があれば、夜は静かに運べます」
「持つのは誰だ」
「僕です」
「勝手に決めるな」
「はい。決めます」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
*
夕刻、屯所の土間に、近藤と土方が立った。
近藤の声は太く、土方の言葉は薄い。薄いほど遠くへ通る。
「表は俺が叩く。――静、裏をたのむ」
「承ります」
「矢野。お前は静の“横”で、音を止めろ」
「了解」
「“了解”は軽い。――“やる”と言え」
「やる……ます」
土方の目が、半寸だけ柔らいだ。
「それでいい」
出立の前、静は蓮の鍔に触れた。
「矢野さん。鍔を半刃、前に」
「またそれか」
「今夜は、前に出る手が増えます。刃が勝手に前へ行かないように」
「わかったよ」
「ありがとうございます」
日が落ち、灯が半寸、下がる。
空気の濃度が変わる。匂いが濃くなる。音が遠くなる。
近藤隊が表から消え、土方隊が別筋へ溶け、静と蓮が鼠色の薄布に身を包んで路地へ潜った。
まず、裏口の蝶番。
静は油を差さず、指の腹で金属の温度を測るだけだ。冷たい。冷たければ、開く音は高い。高い音は、走る足を止める。
次に、梯子。
蓮が二段目の板を手で押す。たわみがある。そこを割るのは、今夜ではない。割れている「かもしれない」が、逃げる足に効く。
材木小屋の影に、角材の寝かせ。
寝かせた角材は、音を柔らかくする。柔らかい音は、近くまで来ないと聞こえない。近づいた足は、もう逃げていない。
井戸の縁に、濡れ縄の結び目。
ほどけにくい結び目は、手の温度でほどける。温度を奪えば、ほどけない。
「静。……俺、やっぱり、火が怖い」
「はい。火は、夜を食べます」
「剣で斬り合うより、火が怖い」
「僕も怖いです。――だから、半寸、遠ざけます」
「半寸で足りるのかよ」
「足ります。半寸を十回やれば、五寸です」
「算術するな」
「音を書いているだけです」
池田屋の二階で、盃が転がる音がした。
盃の音は軽い。軽い音は、重いことの前触れだ。
芸妓の笑いが一度高くなり、次に低く落ちた。低い笑いは、内に変わった合図だ。
合図のあとで、灯が半寸下がる。
静は、足を止めた。
「矢野さん。――今は、まだ駄目です」
「またそれか」
「はい。“表”が入る前は、音を動かせません」
「わかってる。……わかってるつもりだ」
蓮は掌の中で吐き気を丸め、柄に移した。柄に移すと、丸は角になる。角になった吐き気は、前へ行く手を半寸だけ止める。
川上から、風が変わった。
風向きは北。火の流れは南へ伸びる。今夜、火が出れば、市中の被害は大きい。
静は川縁の火除地へ目をやり、濡れ縄の張りを指先で確かめた。
結び目は、生きている。
生きた結び目は、最初の一息でほどけ、次の一息で締まる。火には、最初の一息を与えない。
裏路地の奥で、若い浪士がふたり、早口にささやき合った。
「今夜だ」「合図は火」「北から風」「御所は……」
蓮は、音の出所に“前の手前”で入った。
「静。俺がやる」
「お願いします。――半刃だけ右です」
蓮は歩幅を半刃、ずらした。
若い浪士の片方が肩をぶつけ、怒鳴り声を上げようとした瞬間、蓮の柄が喉の前の空気を撫でる。撫でられた声は、出る前に自分で止まる。
「通るぞ」
蓮の声は低く、短い。短い声は、言い訳の余地を与えない。
ふたりは、道を開けた。開けながら背を向け、足を速める。速い足のかかとは、高い音を鳴らした。高い音は、どこで止めればいいかを教える。
「静。――今の、止め方は」
「良かったです。音が柔らかいままでした」
「柔らかく止めると、あとが楽なのか」
「はい。硬い音は、誰かが拾います」
やがて、遠い方角で太鼓がひとつ鳴る。
鳴り方が、合図に似ている。
合図が来ると、灯がもう半寸下がる。
静は潮のように、立ち位置を半歩ずらした。
そのとき――池田屋の表が破れた。
声ではなく、空気の裂ける音。
刃が入ったのだ。
表の刃は、音を要らない。
音のない裂け目から、風が流れる。
風が変わると、裏の仕事が始まる。
「矢野さん。梯子へ」
「了解――じゃねぇ、“やる”だ」
「ありがとうございます」
梯子の下で、影が走った。
逃げる足は、二段目でたわみ、三段目で止まる。止まった身体を、蓮は“前の手前”で受けた。
刃を使わない。
肩を返し、肘を押し、膝の内側の筋を指で撫でる。
撫でられた筋は、力を忘れる。
忘れた身体は、地面に吸い付く。
吸い付いた背中の熱が冷えるまで、待つ。
待つ時間が長いほど、刃は要らない。
「静。もう一人来る」
「灯の影に、“与”の札が見えます。今のうちに半寸、下がってください」
「見えねぇよ」
「見えなくていいです」
材木小屋の影で、別の影がつまづいた。
寝かせた角材に、足の裏が気づかない。気づかない足は、膝を折る。膝を折った身体に、静の指が額の皮を掠めただけで、意識は「逃げる」から「生きる」に切り替わる。
切り替わった相手は、もう走らない。走らない相手には、刃は要らない。
屋根伝いの足音が、木鼻で滑った。
静は見上げず、耳で角度を測った。
降りてくる場所は、井戸の脇。井戸の縁には、濡れ縄。
足が縄に触れば、ほどける。ほどけると、足は止まる。
止まった足の前に、蓮が“前の手前”。
「誰が、そこにいる」
「狼だ」
言葉は、噂の形で返した。
噂は刃だ。
噂の刃は、心を先に斬る。
斬られた心は、脚を忘れる。
脚を忘れた相手は、ただうずくまる。
表の喧騒は、硬く、乾いていく。
盃が割れ、畳が裂け、柱に柄が当たり、短い悲鳴が斬られる。
風が、血の匂いを裏へ押し出した。
匂いは、蓮の舌の裏に小さく残った。
残った匂いは、吐き気に変わる。
吐き気は、掌で握る。
握った吐き気は、角に変わる。
角は、角度を教える。
角度があれば、刃は要らない。
「静。火は」
「まだ遠い。――火は、今夜は来ません」
「どうして言い切れる」
「灯の高さです。火は高い灯を好みます。今夜の灯は、低い」
「理屈、嫌いだ」
「ありがとうございます」
裏口から、酒と汗の混じった男が飛び出した。
蓮の肩が半寸、前に出る。
静の足が半歩、横に滑る。
男の刃は抜かれかけで、抜かれきらない。
鯉口の鳴りは高い。高い音は、軽い手。
軽い手は、角度に弱い。
蓮は柄で手首の内側を撫で、静は足の甲を薄く踏む。
男は、倒れた。
倒れた音は、材木の陰で柔らかくなった。
柔らかい音は、表へ届かない。
その間にも、総司の気配が一度、風みたいに走った。
笑い声が一瞬、春の形で混ざる。
続けて、浅い咳が一つ。
静の瞼が、刹那だけ揺れた。
揺れはすぐ、凪いだ。
光に心配をかけない――影の礼儀は変わらない。
やがて、表の硬さが、短くなった。
短い硬さは、終わりの前ぶれだ。
終わりの前ぶれが、風で裏へ届く。
静は、蓮の肩に指を置いた。
「矢野さん。――ここから先は、入らないでください」
「お前は」
「僕も、入りません」
「何が残ってる」
「噂です。今夜の“噂”を、明日の“紙”に変えないように」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
裏口の前で、二人はただ立った。
立つことが構えだ。
構えは、刃を抜くより難しい。
難しい方が、町は静かになる。
静かな夜は、翌日の商いを太らせる。
商いが太れば、名が太る。
名が太れば、紙が増える。
紙が増えれば、噂は薄まる。
薄まった噂は、また拵えが利く。
やがて、表の音がひとつ、途切れた。
大きな笑い声の主が、音を失った合図だ。
池田屋という家は、今夜、音を一つ返した。
返された音は、夜風に千切れて、鴨川の上で消えた。
*
事が済んだあと、裏口から離れる前に、静は一度だけ材木小屋の陰を覗いた。
血は薄く、木の繊維の間で暗く冷えている。
匂いは風で薄く、指の腹に重さだけ残る。
「見るのは、今だけです」
「見たくねぇよ」
「見たくないものだけが、手癖を変えます」
「……見た」
「ありがとうございます」
帰路、川沿いの火除地は、濡れ縄がまだ生きていた。
結び目は、ほどけたまま、次の息を待っている。
火は来なかった。
来なかった、という事実は、紙にならない。
紙にならない勝ちが、町を救う夜がある。
今夜が、その夜だ。
屯所に戻ると、土間の空気は冷たかった。
近藤の肩は下がり、土方の目は薄く、総司の笑いはいつもの形で、咳はふたつ。
山南が帳面に赤い点を打ち、三つ並んだ点のうち、真ん中を薄くした。
「静。裏は」
「噂だけです」
「よし」
土方は紙を三枚だけ抜き、机に置いた。
一枚は「突入」。
一枚は「捕縛」。
一枚は「火防」。
「火は、来なかった」
近藤が、声を低くして言う。
「はい。灯が、低かったので」
静の答えに、誰も笑わなかった。笑わないことで、夜は静かに保たれる。
深夜、井戸端で。
蓮は柄の背を水で濡らし、刃の表は濡らさない。
「静」
「はい」
「俺、今日、ひとりも斬ってない」
「ありがとうございます」
「礼じゃねぇ」
「言わせてください」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
水面が揺れ、灯の白い月を細く裂く。
裂かれた月は、すぐ繋がった。
*
翌日。
京の町は、昨夜のことを知らない顔で目を覚ました。
商いは始まり、犬は一声だけ吠え、子は石を蹴って井戸の足に当て、良い音を出した。
紙には、幾つかの名が記された。捕らえられた者の名。逃れた者の名。
火の字は、なかった。
火の字がない紙は、軽い。
軽い紙は、風でめくれる。
めくれた紙の下に、白い余白があった。
白は、夜の色だ。
白い余白に、静の名はない。
ないままで、いい。
ないままで、長く効く。
午後、稽古場。
竹の音は乾き、土間は少しひんやりする。
静が半寸、間を詰め、蓮が“前の手前”で止める。
「静。……昨夜、俺は“前”で立てたか」
「はい。矢野さんは“前の手前”でした」
「前じゃないのか」
「前に立つと、夜が壊れます」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
「まあ、いい。――総司は」
「光でした」
短い答えに、十分な温度があった。
その日の夕刻、辻占の婆が、また札を裏返した。
裏には、欠けた「与」。
静は札に触れず、ただ目で礼をした。
返らない借りは、増える。
増えるたびに、指が冷える。
冷えた指で、刃の背を撫でる。
刃の背は、洗わない。
洗わない背は、忘れない。
忘れないことだけが、次の夜の準備になる。
夜、川辺で。
風は薄く、灯は低い。
総司が笑って、咳をひとつ。
「静。君の“横”は、よく効く」
「ありがとうございます」
「矢野。君の“前の手前”も、よく効く」
「“前”じゃなくて悪かったな」
「前と手前の間に、“火”がある。君がそこに立つと、火は遠い」
「詩人ぶるなよ」
「春の仕事さ」
春の笑いは、風で千切れた。
千切れた笑いの端に、合図の太鼓が遠くでひとつ。
鳴り方が、次の夜を指している。
*
京の炎は、まだ燃えていない。
だが、熱は人の血を滾らせる。滾った血は、刃を早くする。
速い刃は、町を壊す。
だから、半寸、遅らせる。
半寸を十回、置く。
置いた半寸が、池田屋の夜を、火の手前で止めた。
書かれたのは、名と数と、わずかな地名。
書かれなかったのは、灯の高さ、結び目の角度、蝶番の油壺の位置、角材の寝かせ方、柄で撫でた喉の前の空気、洗わない刃の背、そして“与”の欠け。
それらは、紙にならない歴史だ。
紙にならない歴史が、町を眠らせる。
眠った町の朝、寺の鐘がひとつ遅れて鳴る。
遅れたぶんだけ、音の尾が長い。
長い尾は、昨夜の熱を持って、隊の骨を締める。
静は蓮に言った。
「矢野さん。――“前の手前”は、今夜からしばらく、短くなります」
「池田屋の余波か」
「はい。短い“手前”は、長い“余白”になります」
「余白」
「白は、夜の色です」
「やっぱり詩人だな」
「音を書いているだけです」
「……わかった。短くして、長く残す」
「ありがとうございます」
蓮はその夜、帳面に短く書いた。
――火は灯を好む。灯を半寸、下げ続けろ。
書いて、灯を本当に半寸だけ下げた。
紙の黒が濃くなる。
濃い黒は、乾くのに時間がかかる。
時間がかかる文字は、記憶に食い込む。
食い込んだ記憶は、次の夜の筋肉になる。
京の炎は、まだ燃えていない。
燃えないうちに、風を変える。
風が変われば、噂が変わる。
噂が変われば、道が変わる。
道が変われば、刃はいらない。
刃が要らない夜が、もう一つ、欲しい。
その欲は、誠の字の裏側にある。
誠の字は、筆先が冷たいとき、まっすぐに引ける。
今、筆先は冷えている。
冷えているうちに、次の夜の準備を始める。
白は夜の色だ。
白い余白に、名のない仕事が書かれないまま残る。
残る仕事が、次の章の扉を押す。
扉は、音もなく開く。
開く先に、同じ名が待っている。
池田屋。
名は同じでも、夜は別だ。
別の夜を、同じ呼吸で越えるために――静は半寸、間を詰め、蓮は“前の手前”に立った。
風は北。灯は低い。
火は、まだ遠い。
遠いままにするのが、今夜の仕事だ。
仕事は、紙にならない。
紙にならない夜だけが、町を眠らせる。
眠る町の上を、薄い群青が静かに渡っていった。
寺の鐘が、ひとつ遅れて鳴る。
それが、合図だった。



