名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 白は夜の色だ――と、京の空が言った気がした。
 粛清から幾日も経たないある朝、壬生の空は洗い立ての薄群青で、寺の鐘がひとつ遅れて鳴った。遅れたぶんだけ尾が長い。長い尾は、昨夜までのざわつきを絡め取って、町の隙間へ押し込める。押し込まれた夜は、表から消える。消えるが、芯は残る。その芯を、隊は握り直した。

 会津からの使いは、言葉より姿勢で礼を示した。土塀の内側、砂が掃き清められた庭に青い羽織が並び、近藤が一歩前へ出る。土方は脇に控え、目の角度で空気を締める。
「御用、滞りなく」
 使いの男の声は柔らかく、しかし、背筋が硬い。
「壬生の狼、よく吠えた」
 吠えたという字は、褒め言葉にも脅しにもなる。近藤は笑って受け、土方は頷きで返す。言葉は少ないほど、紙の上では太る。太った紙は、町の骨に変わる。骨が変われば、歩幅も変わる。

 この日から、新選組は名実ともに会津の信頼を得た。表の英雄は近藤勇。恐怖の象徴は土方歳三。そしてもう一人――記録には残らないが、確かに存在する「白き影」。
 白は噂の色だ。灯の外で鼠色に紛れ、灯の内で紙の白に化ける。人は白を見たがる。白を見たがる目は、黒を見落とす。黒で縁取られた影は、その隙間に立つ。

 昼下がり、稽古場に竹の音が乾いた。
 沖田総司が、久しぶりに長く竹を振る。笑いは春風の形を保ち、踏み込みは水面を切るように軽い。軽いが、時折ほんのわずかに呼吸が粗い。粗さは、本人の笑いで薄められる。
 向かいに立つ静は、声も表情も動かさない。動かない顔は、呼吸と足の角度に全ての意味を移す。半寸の間合いが、見学している者のまぶたをひやりと撫でる。
 ふたりは一度、竹を交わし、二度、交わし、三度目には交わさない。交わさずに、音だけを合わせる。竹の先が空を切る音と、足裏が土を撫でる音。その一致は、刃の一致より怖い。見ている者は、目を逸らせなくなる。

「静」
 柱の影から蓮が声をかける。
「はい」
「お前、総司さんと合わせるとき、呼吸どうしてる」
「矢野さんの“横”にいるときと同じです」
「俺の横と同じでいけんのか」
「はい。光の“横”も、影の“横”も、距離は同じです」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」

 総司が竹を下ろし、笑って近づいた。
「矢野さん。あなたの“前の手前”の稽古、静さんが面倒を見ているってね」
「まあ、見られてる。面倒を見られてる、とは言わねぇ」
「似たようなものです」
 総司は言い、軽く咳を一つ。音は小さいが、布を重くする種類の咳だった。蓮は視線を一瞬だけ落とし、すぐに戻す。静は、目を細めもしない。光に心配をかけないのが、影の礼儀だ。

「静さん。僕が倒れたら、君が僕の代わりをする」
 総司が冗談めかして言うと、静は淡く笑ったような、笑わなかったような顔で答えた。
「倒れないでください」
「希望としてはそうですね。でも、影は光より長生きしない。影はいつだって、光の形を失うと消えるから」
 笑っているが、言葉は冷たい。蓮は背筋に細いものが走るのを感じた。
「総司さん。縁起でもねぇこと言わねぇで」
「縁起なんてね、最初から縁取りです。静さんの白で、僕の輪郭は綺麗に見える」
「僕の黒で、です」
 静が訂正する。
「白は灯の内側です。灯の外にいるときの僕は、鼠です」
「どっちでもいいです」
 総司は笑い、竹を肩に担いで庭の縁へ出た。日差しは弱く、影の輪郭は柔らかい。柔らかい影は、すぐ形を変える。形を変える影だけが、長く持つ。

     *

 巡察に出る夜は、音を拾うところから始まる。
 油小路の角。辻占の札を裏返す音がひとつ。井戸端で桶の足が石に当たる音がひとつ。香具屋の奥で薄い引き戸が鳴る音がひとつ。
 音を拾うのは、静。
 拾った音の隙間を埋めるのは、蓮。
 総司は、その上を軽い足音で渡っていく。渡りながら、片手で噂を撫でて向きを変える。噂の向きを変えられる者は、光だ。人は光の方向へ動く。動いた人は、影を踏む。踏んだ影に、静と蓮がいる。

 この夜、三条の橋のたもとで小競り合いがあった。
 若い浪士が二人、行きずりの商人に刀の柄を押しつけ、金子を出せと凄む。商人の背中は汗で濡れ、声は出ない。
 総司が一歩、前へ出た。
「道が細いね。刀が太いね。――どっちを細くしようか」
 笑っている声は軽いが、目は笑っていない。
 若い浪士の手首が無意識に浮く。その浮いた手首に、総司の竹のように軽い指が触れ、重さを思い出させる。思い出した手は、刀を鞘の中へ戻す。
「兄さん。刀は出入り口が狭いんだ。出したら、戻りにくい」
 総司は軽く咳をし、笑って、商人の背すじを撫でるように視線で解いた。
「お騒がせ」
 商人は深く頭を下げ、足早に去る。
 光は、人を惹きつけ、ほどく。
 ほどかれた人は、奥へ消える。
 消えた奥には、影が立っている。

 同じ時刻、路地の裏手で静は別の二人を止めていた。
 逃げ道を先に封じ、灯の高さを半寸下げ、石畳の欠け目に砂を詰める。足音の反響点をずらし、鯉口を切る音の高低で手の癖を読む。
 目の前で男が一人、間合いを間違えた。
 静は斬らない。
 握りを少し返し、相手の肘の内側を竹の先で撫で、膝の力を抜かせる。抜けた力で地面が相手を吸い、静はその背中の熱が冷めるまで待つ。待つ時間が長いほど、刃は要らない。
「矢野さん」
「ここ」
 蓮が“前の手前”に収まる。相手の呼吸が浅くなり、視線が泳ぐ。泳ぐ視線は、足を止める。
「半刃、右へ」
 静の声に、蓮は片足を半刃分だけずらす。ずれた位置に、男の重みが勝手に流れ込んでくる。受け止めない。受け止めないのに、止まる。止まるのに、崩れる。
「……やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 夜の巡察が一段落したころ、三人は鴨川縁の低い石に腰を下ろした。
 川面は月の薄い光を崩し、やや湿った風が袖口に忍び込む。
 総司が小さく咳をして、空を見た。
「静さん、いえ静と呼ぼう。君は、僕の影だ」
「はい」
「僕が病に倒れたら、君が僕の代わりをする。――けれど、影は光より長生きしない。光が消えたら、影も消える」
「はい」
「怖くないの」
「怖いです」
「怖いなら、逃げる?」
「逃げません」
「どうして」
「矢野さんが“前”に立つからです。僕は“横”です」
 ふいに総司が笑って、蓮に視線を移した。
「矢野。君が“前の手前”に立つうちは、僕は楽ができる」
「楽は負ける、って静が言う」
「負けない楽もあるさ。――光の楽は、影が作る」
「詩人ぶるなよ、総司さん」
「春の仕事だから」
 春の笑いは短く、風にすぐ千切れる。千切れた笑いの端に、咳がひとつ結びついた。静の目が、ほんの刹那だけ揺れる。揺れはすぐ凪いだ。

     *

 噂は、隊の外で勝手に育つ。
 「白装束の剣士」。
 「白は血の温度を奪う」。
 「斬られても痛みを忘れる」。
 静は白を好まない。ただ、薄色の布が灯の外で鼠になるから纏うだけだ。
 だが、噂は道具だ。道具は、拵えしだいで剣にも盾にもなる。
 静と蓮は、噂の拵えを手なじませていた。

 この夜、北の辻占の婆が札の裏に書いた一文が、木屋町の裏通りでふいと翻った。
――白き影、北に立つ。
 札を見た若い浪士二人が、予定していた小路を避け、川沿いへ迂回する。その迂回路の角で、灯が半寸下がっている。下げたのは、昼間に香具屋の使いへ渡した薄い銭の効果だ。
 灯が低ければ、足元の段差が見えない。見えない段差は、逃げる心を止める。
 静と蓮は、そこにいた。
 斬らない。
 止める。
 止められた足が、空気の重さで勝手に鈍る。鈍りが広がると、刃は遠のく。遠のけば、音は柔らかくなる。
 柔らかい音の夜は、よく眠れる。眠れる町は、翌日の商いがよく回る。商いが回れば、名が太り、名が太れば、紙が増える。紙が増えれば、噂は薄まる。薄まった噂は、また拵えが利く。
「静。お前、町の“天気”を前からいじってるよな」
「天気は変えられません。――空気は、少しだけ」
「言い換えただけだろ」
「言い換えるのが、術です」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

     *

 昼間、会津の使いが来る。夜、噂が回る。朝、竹が鳴る。
 隊の内側は整い、外側は静まり、名は紙の上で硬くなる。
 硬くなる名の端で、ひとつだけ柔らかいものが増えていた。「与」。返す手の印だ。
 白い簪に刻まれた細い字。香具屋の帳場の隅に押された薄墨の印。古着屋の伝票の端から剥がれた小片。
 どれも「与」で、どれも少し欠けている。欠けた与は、返しきれない借りのしるしだ。
 静は、その欠けを集めるように、懐に小さな紙片を増やしていった。返しきれない借りは、誰が持つのか。持つ者の指先は冷たくなる。冷たくなった指は、刃を長く握れる。

 夕刻。稽古場。
 総司と静が、同じ面を左半分だけ濃く汗で染めて並んだ。
「矢野。君は両方を見る?」
「見える方を見てる。見えない方は静が見る」
「そうだね」
 総司は笑い、軽く咳をした。布が重くなる音はしない。まだ。
「静。並んで立つのは、いいね」
「はい。剣の角度が揃います」
「角度が揃うと、景色が揃う」
「はい。――景色が揃うと、敵がこちらを大きく見ます」
「大きく、か」
「はい。大きく見えたものは、避けます。避けた先に、矢野さんがいます」
「勝手に置くな」
「はい。置きます」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 ふたりが並び立つのを、蓮は息を詰めて見た。
 総司は人を惹きつける光。静はその影に潜む闇。
 だが、光と闇は切り離せない。光が濃いほど、影は濃く、影が濃いほど、光は輪郭を得る。輪郭を持った光は、長く見える。長く見えるが、長くはない。
 影は光より長生きしない――総司の言葉が、骨の中で鈍く鳴る。
 長生きしない影が、それでも影を超えて組を守ろうとしているのではないか。
 影を超える。
 言葉は奇妙だ。
 影が影を超えるとき、それはもう別の名だ。別の名は、紙に書かれない。書かれない名は、噂になる。噂は武器だ。
 武器を、誰が持つ。
 蓮は、自分の指を見た。爪の内側の黒は薄くなり、代わりに刃の背を撫でる癖が残った。洗わない背。洗えない背。
 それは誓いであり、鎖だ。鎖は重い。重いが、歩幅を一定にする。

     *

 夜の巡察の帰り道、総司がふと足を止めた。
 木屋町の端、川の匂いが強くなる辺りで、灯が自然に半寸下がっている。風のせいだ。
「静。背中を預けるのは、誰にでも、じゃないよ」
「はい」
「僕は、光にしか預けない」
 蓮は言葉の意味を探し、探した末に、自分の胸に苛立ちが灯るのを見つけた。
「俺は」
 静の背に向かって言う。
「俺は、お前の背中に視線を預け続けるぞ」
 静は振り返らない。
 振り返らずに、淡く、言葉を置いた。
「背中を預けるのは、光にだけでいいです」
「ふざけるな。俺は光じゃない」
「はい。矢野さんは“前”です」
「同じだろうが」
「違います。――前は、進行です。光は、指し示しです」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
 蓮は歯を食いしばり、笑った。
「じゃあ、俺は“前”として、お前の背に視線を置き続ける。お前が光じゃなくても、関係ない」
「ありがとうございます。視線は、刃と同じです。――温度があります」
「うるせぇ」
「承知しています」

 総司が二人のやりとりを、少し離れた場所で聞きながら笑っていた。
「仲が良いね」
「良くねぇ」
「良くありません」
 即答に、総司はさらに笑い、胸の内側を手で押さえた。
 押さえる手は軽い。
 軽い手は、まだ大丈夫だという合図だ。
 合図に、蓮と静は同じ速度で息を合わせた。

     *

 秋は深まり、音はさらに遠くへ届くようになった。
 竹は乾き、刀は冷え、紙は硬く、灯は低い。
 壬生の空に薄群青がかかり、朝の鐘がひとつ遅れて鳴る。
 遅れのある鐘は、合図だ。合図は、誰にも告げられないまま隊の中を巡り、骨を締める。
 噂は薄まり、代わりに“事績”が増える。事績は紙に残る。紙に残るのは、光の仕事だ。影の仕事は、紙の余白にだけ滲む。滲みは、乾くと見えなくなる。見えなくなるが、繊維には残る。
 ある日の昼、土方が紙を三枚だけ抜き、机の上に並べた。
 一枚は「巡察規」。
 一枚は「軍備」。
 一枚は「医薬」。
「医薬?」
 蓮が思わず口にする。
 土方は顔を上げなかった。
「春風の咳。――紙にしとく」
 紙にする。
 紙にすれば、噂でなくなる。噂でなくなれば、武器にならない。武器にならないものは、敵に奪われない。
 静は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
 土方は筆を置き、短く言う。
「“影”は、影のままでいろ」
「承知しました」

 夕刻、総司はひとりで稽古場に立った。
 灯は高く、風は薄い。
 竹の音は柔らかく、足の運びは早い。
 蓮は入口で立ち止まり、声を掛けなかった。
 掛けないでいると、総司の呼吸の継ぎ目が見える。継ぎ目が見えると、そこに手を伸ばしたくなる。伸ばしてはならない手だ。
 総司は最後の一太刀を振り下ろし、柄を胸元で止めたまま、こちらを向いた。
「矢野。君は“前の手前”の達人になりつつある」
「達人はやめてくれ。まだ手前だ」
「手前の達人。いいじゃないか」
「からかうなよ」
「からかってない」
 総司は笑って、咳をひとつ、浅く。
「静」
「はい」
「君は、僕の光だよ」
 静は、ほんの一瞬だけ目を丸くした。
「光は、春風の役目です」
「今夜は貸す」
「お断りします」
「頑固だね」
「矢野さんのためだけに、です」
 三人で笑い、笑いの端が夜風に千切れるのを見送った。

     *

 ある雨の夜、薄い霧が灯の笠の内側に溜まり、灯が自然に低くなった。
 霧は音を吸い、匂いを濃くする。
 この夜の京は、音ではなく匂いで動いた。
 酒の匂い。
 湿った藁の匂い。
 油の匂い。
 火の匂いが、まだ遠い。遠いのは良い兆しだ。
 静は川端の火除地に沿って歩き、火縄の置き場所を「届かない半寸」にずらした。半寸は、刃の上下だけではない。火と人の距離にも効く。
 蓮は、濡れ縄を石に回し、結び目を「ほどけやすくほどけにくい」角度に置いた。ほどけにくい結び目は、力任せに引くとほどける。力任せに引かない者は、そもそもそこに手を伸ばさない。
 総司は、表の路地で軽口をひとつ置き、刀を出させずに人を流す。流れた人は、火から遠ざかる。
 誰も火を見ないまま、夜が終わる。
 終わったという記録はない。
 終わらせたという噂もない。
 ただ、翌朝の紙に「平穏」と書かれた。
 平穏。
 平穏は、影の仕事が成功したときの、光の言葉だ。

 帰り道、蓮は静の背中に視線を置いた。
 背の布は鼠色で、夜の湿りを薄く含んでいる。含んだ湿りは、灯の外で白に見える。
「静」
「はい」
「さっき、総司さんが言ってた“光”の話、忘れろ」
「忘れません」
「俺は、光じゃない」
「はい。矢野さんは“前”です」
「同じだって言ってるだろ」
「違います」
 静は、いつもと同じ声で続けた。
「背中を預けるのは、光にだけでいいです。――でも、視線を預けるのは、矢野さんだけでいいです」
 蓮は、足を半歩だけ止めた。
「今、何て言った」
「視線は刃と同じです。温度があります。矢野さんの視線は、僕の“背”を鈍らせません」
「……やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
 笑いながら、胸のどこかに温かいものが落ちた。重さはないが、形はある。形は、呼吸の深さを変える。

     *

 季節は進む。
 紙は厚くなり、法度は身体に沈み、町の足音は一定になる。
 青い羽織は道を割り、犬は一声だけ吠え、子は眠る。
 昼の竹の音は乾き、夜の灯は低く、朝の鐘はひとつ遅れて鳴る。
 総司の笑いは保たれ、咳は小さく増えた。
 土方は紙を減らし、近藤は言葉を減らし、山南は点を増やした。
 静と蓮は、噂の置き石を北へ半町ずらし、退路の梯子を二段目で止め、火縄の置き場所を半寸遠ざけ、米の配りを一刻遅らせ、香の皿を低くし、灯の油を薄くした。
 それらのどれも、記録に残らない。
 残らないが、効いた。
 効いたことの証拠は、災いが起こらなかった、という一点だ。
 起こらない、は紙にならない。
 紙にならないことのために、夜はある。

 総司は、ときどき蓮と肩を並べた。
「矢野。影を見すぎると、目が慣れる。目が慣れると、光が眩しい」
「眩しいのは嫌いじゃない」
「いいね」
 笑って、咳をひとつ。
 蓮は、咳の音の高さを覚えた。
 覚えてしまった自分が、少し嫌だった。
 嫌っても、忘れない。
 忘れないことを、静が望むなら、忘れない役を引き受ける。

     *

 ある日、会津の使いが再び来た。
「御用、見事」
 言葉は短く、頭は深かった。
 近藤が礼を述べ、土方が紙を折り、山南が点を打つ。
 総司は笑って、咳をふたつ。
 静は、目を伏せて一礼しただけだ。
 目を伏せる、その縁で、蓮は静の睫毛の影が薄く揺れるのを見た。
 風のせいか、心のせいか。
 どちらでもいい。
 影が揺れた、という事実だけが、小さく胸に残った。

 夜、川辺で静が言う。
「矢野さん。――僕は“記録に残らない人”です」
「知ってる」
「人に見られなければ、人である必要もありません」
「それ、前にも言った」
「繰り返すのが、誓いになります」
「誓い、ね」
「はい。背を洗わない誓い。灯を半寸、下げる誓い。前の手前で止める誓い」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
 蓮は笑い、石を一つ、水面へ投げた。
 輪が三つ、広がる。
「静。お前が影でいるなら、俺は視線でお前を固定する」
「ありがとうございます。――視線は、影の釘です」
「格好つけやがって」
「矢野さんのためだけに、です」

     *

 総司と静が並ぶ場面は、その後も幾度か訪れた。
 表の巡察で、裏の設計で、稽古場で、井戸端で。
 総司は光であり続け、静は影であり続けた。
 だが、影はときに、光を先に進ませる。
 光はときに、影を人に見せる。
 その相互が、隊を長持ちさせた。

 蓮は、総司の言葉を思い出す。
「静は俺の影だ。俺が病に倒れたら、あいつが俺の代わりをする。けれど、影は光より長生きしない」
 戦慄は、消えない。
 消えないまま、鎖になる。
 鎖は、足を安定させる。
 安定した足で、蓮は“前の手前”に立つ。
 立ち続ける。
 静は“横”にいる。
 “横”は、安堵だ。
 安堵は、刃の角度を真っ直ぐにする。
 真っ直ぐな角度は、最短距離を拒む。
 最短距離は、夜に向かない。
 夜に向かない道を選べるように、二人は何度も呼吸を揃えた。

     *

 秋の終わり。
 灯の油は薄く、風は硬い。
 寺の鐘がひとつ遅れて鳴り、竹の音が短く響く。
 稽古場で総司が竹を振り、静が間を詰め、蓮が“前の手前”に立つ。
 青い羽織は相変わらず道を割り、壬生狼の名は、口に出される回数を減らした。
 噂は薄まり、紙は増える。
 紙の端で、静は小さな「与」をさらにひとつ、懐に収める。
 返しきれない借りは、増えていく。
 増えるたびに、指が冷える。
 冷えた指で、刃を長く握る。
 握るたびに、蓮の視線が背を温める。
 温度の落差で、夜が立つ。

 夜のはじめ、総司が言った。
「静。君は僕の影。矢野は君の釘。――三人でひとつの、見えない輪だね」
「輪は、割れます」
 静が言う。
「隙間があれば、しなります」
 蓮が続ける。
「じゃあ、隙間を担当するのは矢野だ」
「勝手に決めるな」
「はい。決めます」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
 三人で笑う。
 笑いは短く、音は乾いて、夜風に千切れる。
 千切れた笑いの端で、遠くの太鼓が一度だけ鳴った。
 鳴り方が、合図に似ている。
 合図は、池田屋のほうを向いていた。

     *

 夜の終わり、蓮は日記に短く書く。
――光に背を預け、影に視線を預け、“前の手前”に立つ。
 書き終えて、灯を半寸、下げる。
 下がった灯で、紙の黒は濃くなる。
 濃い黒は、乾くのに時間がいる。
 時間がいる文字は、記憶に食い込む。
 食い込んだ記憶は、次の夜の筋肉になる。
 筋肉があれば、倒れにくい。
 倒れにくい者だけが、長く見張りに立てる。

 静はその夜、簪の「与」を川へ返さなかった。
 返らない借りは、自分が持つ。
 持つ者がいる限り、隊は前へ進める。
 前へ進む限り、光は人を惹きつけ、影は人を止め、視線は背を温める。
 それでいい。
 それがいい。
 白は夜の色だ。
 白の余白に、隊の呼吸は書かれないまま残る。
 残る呼吸が、史実の隙間を支える。

 秋の空は薄群青。
 寺の鐘が、ひとつ遅れて鳴る。
 竹の音が乾く。
 静は半寸、間を詰め、蓮は“前の手前”に立ち、総司は光の角度を保つ。
 三つの位置が揃うたび、町の音は遠くまで通る。
 通る音の先に、池田屋という名の夜が待っている。
 その夜が来るとき、光は前へ躍り出て、影は横で筋を整え、前の手前は鎖を鳴らさずに道を切る。
 名が紙に記されるのは、光のため。
 名に記されないのは、影のため。
 記されないほうの歴史で、町は眠る。
 眠る町のために、今夜も灯を半寸、下げる。
 下がった灯の下で、静は小さく言った。
「矢野さん。背中を預けるのは、光にだけでいいです」
「わかってる。だから俺は、視線でお前の背を押す」
「ありがとうございます」
「礼は要らねぇ」
「言わせてください」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 そして、夜は静かに畳まれた。
 畳まれた夜の内側で、三つの呼吸が、同じ温度になった。
 温度が揃えば、音が揃う。
 音が揃えば、名は長く残る。
 名が残れば、影は安心して消える。
 消えるべき時に、消える。
 それが、影の誠だ。
 誠の字は、筆先が冷たいとき、いちばん真っ直ぐに引ける。
 真っ直ぐに引かれた線の先で、薄い霧が灯を撫でた。
 灯は、また半寸、下がる。
 半寸の差で、人は生き、名は残り、誰かは書かれずに消える。
 書かれないほうの歴史が、次の章の扉を、音もなく押し開けた。