名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 朝の音は、夜より遠くへ届く。
 粛清の翌朝、壬生の空はよく晴れ、竹の葉は乾いて、風に当たるたびにざわりと鳴った。寺の鐘はひとつ遅れて響き、遅れたぶんだけ長く尾を引く。尾の長い音は、昨夜の残滓を隙間に押し込める。押し込められた夜は、表面では見えなくなる。だが、見えないだけで、消えはしない。

 新選組は、何事もなかったように巡察に出た。
 青い羽織が揃って路地を折れ、足音は一定。棒で町の骨の間隔を測るように、同じ歩幅で進む。表向きは、いつもどおり。だが、空気は明らかに変わっていた。
 芹沢鴨という大きな影は、町のどこにも落ちていない。昨夜まであった重心がひとつ消え、かわりに目に見えない型が隊内に走る。規律は強まり、各人の背筋が半寸伸びたような気配がある。
 近藤は先頭に立ち、声は出さないが、肩で隊の速度を保つ。土方は後方に位置し、視線の角度だけで列の歪みを矯正する。角度が鋭いほど、歪みは早く正される。
「これで一枚岩になった」
 屯所に戻ると、土方は紙を畳むように言い切った。紙は折り目があるほど、強くなる。だが、折り目の数を自分の指で確かめられない者には、その強さはただの硬さだ。

 蓮は、その“一枚”に自分が含まれているのかどうか、わからないまま歩いた。
 列の真ん中、竹刀ではなく刀を佩いて、腰の重さを確かめる。重さは昨日と変わらない。だが、内側の温度が違う。冷たい。血のぬめりを洗わなかったせいだ。爪の内側に黒が居座り、指の腹に薄い膜のような感触が残る。
 気持ちが悪い。
 だが、その気持ち悪さは、昨夜より「役に立つ」形をしている。
 それが、なおさら嫌だった。

 巡察の隊列の後ろから、ふと声が飛ぶ。
「おお、狼だ」
 笑っているのか、恐れているのか、判別しづらい声色。路地の陰で、米俵を担ぐ若者が肩を揺らし、半歩下がって道を空ける。青い羽織はそれを当然のように受け取って進む。
 蓮は、目だけで反応した。昨夜の血と今朝の空気の間に、何かが挟まっている。その挟まったものが何か、名前がつかない。名前がないと、刃は入らない。名は刃の鞘だ。
「静」
「はい」
「俺たち、一枚岩になったのか」
「“見え方”は、そうです」
「見え方かよ」
「はい。内側は、層です。層が重なれば、一枚に見えます」
「お前の言葉は、朝から冷たい」
「朝は冷たい方が立ちます」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 粛清に関わった者たちは、互いに口を閉ざした。
 語るべきでない夜がある。語れば薄まる夜がある。薄まれば、次の夜に必要な濃度が足りなくなる。濃度の管理は、稽古と同じで、怠ると刃が鈍る。それを、静は知っている。知っている者は語らない。
 近藤は何も問わず、土方は必要な三枚の紙を分け、総司は春の笑みの角をひとつ折って、いつもの位置に立った。山南は帳面に赤い点を一つ減らし、二つ増やした。「増える」のは、規律ではなく、頼み事の数だった。頼み事の数は、隊の温度である。

 昼の稽古は、遅れて始まった。
 朝の巡察が長引き、飯の湯気が薄くなり、竹の香が濃くなったころ、静は竹刀を二本持って土間に立った。
「矢野さん」
「ん」
「今日の“前の手前”は、短くします」
「昨日の夜のせいか」
「はい。短い“前の手前”は、長い“忘れない”になります」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、よく効きます」

 静は竹刀の先を半寸下げ、間合いを詰めた。
 蓮は呼吸を一度だけ押し殺し、そのまま動かずに受ける。静の竹は、角度で勝ち、力で勝とうとしない。力で勝とうとすると、昨夜の匂いが蘇る。匂いを呼ばないために、音を先に置く。
 竹の音がひとつ、乾いて鳴り、続けて柔らかい音が重なる。柔らかい音は、硬い音の前ぶれだ。身体は、前ぶれの方を覚える。
「静。……さっきの、もう一度」
「はい。灯を半寸、下げてから入ります」
「灯はここにない」
「心の灯です」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」

 竹刀が、三度鳴った。
 鳴るたびに、蓮の掌の内側で昨夜のぬめりが形を変える。ぬめりは、ただの感覚ではない。鈍らせるものだ。
 静は稽古を止め、竹刀を置いて言った。
「血は剣を鈍らせます。――だから、剣にこびりついた血は洗わない方がいいです」
 蓮は眉をしかめた。
「どういう理屈だって、今朝も言ったよな」
「はい」
「忘れないため、か」
「はい。忘れないでいると、動きに余計な“熱”が混ざりません。熱は、刃の角度を丸くします」
「冷たければいいのか」
「冷たさのまま、前に出たくないときは、“横”に回ってください」
「勝手に指示するな」
「はい。勝手に指示します」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 午後、隊の空気はさらに締まった。
 芹沢の名が消え、代わりに「法度」の字が濃く見える。法度は紙の上にあり、紙の上にあるものは、目が慣れる。目が慣れたものは、身体に入る。身体に入ったものは、いつか自然に出る。
 土方の目配せは少なくなり、近藤の笑いは短くなり、総司の咳は小さくなった。――小さく、回数が増えた。増えたことを、誰も言わない。言わないことが、守りになる夜がある。
 蓮は、その守りの中に自分の居場所を探した。
 一枚岩。
 薄い層。
 表の刃。
 裏の紙。
 どこも、居場所のようで、どこでもない。

 夕刻前、用足しついでに善根宿へ寄ると、帳場の女が小声で言った。
「狼さん、昨夜の“病”、早かったねえ」
 病の字に、女は指を添えた。添えた指は爪の先だけ白い。紙の上に添えられた白は、余白に似ている。
「静」
「はい」
「“病”って字、便利だな」
「はい。刀傷が“病”に化けるとき、町は眠れます」
「眠れるなら、いいのかもしれない」
「はい。――眠れない夜の方が、長く残ります」
「お前、それを嫌ってるのか、好んでるのか」
「扱いやすい、と思っています」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 その日の夜、月は薄く、灯は高かった。
 高い灯は、帰り道の影を短くする。短い影は、足元に収まり、踏んでも気づかない。気づかないまま、影はついてくる。
 蓮は部屋で筆を取った。日記とも覚書ともつかぬ薄い帳面に、短い文を置く。筆先は、朝より軽い。軽さは危険だ。軽い筆は、深く刺さる。
――名を残す者は、血を洗い流す。名を残さぬ者は、血を刻む。
 書き終えて、灯を半寸、下げた。
 灯が下がると、紙の黒は濃くなる。濃くなった黒は、今夜の言葉を動かしにくくする。「忘れないため」の小さな仕掛けだった。

 翌朝からの巡察は、さらに「何事もなし」の形を徹底した。
 南の辻で子どもが石蹴りをして、石は意外とまっすぐに転がり、井戸端の桶の足に当たって止まる。止まった音は小さく、良い音だった。
 町人の笑いは短く、犬はひとつ吠えてやめた。やめ方が上手い犬は、町の空気をよく知っている。
 壬生狼の名を口にする者は減った。名は、言い尽くすと飽きられる。飽きられた名は、仕事がしやすい。静は、その飽きを好む。

 粛清の夜について、誰も語らないのは、語る必要がないからだけではない。
 語れば、線が曲がる。曲がった線は、刃の角度を変える。角度が変われば、次の夜の勝ち筋が細る。
 静は稽古のあと、蓮の刀の鍔に指を添えた。
「矢野さん。鍔の位置を半刃、前に」
「なんで」
「昨夜から、手が前に出やすくなっています。――鈍りが、焦りに化けないように」
「お前、ほんとよく見てるな」
「矢野さんを見ています」
「やめろ。くすぐったい」
「書いておきます」
「書くな」
「書きます」
「悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 その日の午後、些細な揉め事があった。
 大和屋の店先で、若い浪士が米の値を吹っ掛け、店の者と掴み合いになりかけた。浪士の背には新しい刀。新しい刀はよく抜けるが、よく戻らない。
 巡察の列から半歩だけ抜け、蓮は浪士と店の間に入った。
「邪魔だ、どけ」
「どかねぇよ」
「抜くぞ」
「抜かせねぇよ」
 浪士が鯉口を切る。鞘鳴りが高い。高い音は、軽い手の証拠だ。軽い手は、初太刀に好きな角度を与える。
 蓮は、前へは出ない。“前の手前”に立ち、柄で浪士の手首に触れるだけで、重心を半寸ずらした。ずれた重心は、刀を自分で重く感じさせる。動かない剣は、抜けない。
「静」
「はい」
「今の、俺の“横”は足りたか」
「足りました。音が柔らかかったです」
「音、ね」
「はい。硬くすると、後に残ります」
 浪士は恥じ入り、店の者は胸を撫で下ろし、通りは、刃を見ずに済んだ。

 夜、静は珍しく自ら稽古を申し出た。
 灯は低く、風は薄い。土間の土は少し湿っている。
「矢野さん。今夜は、“洗わない”稽古をします」
「どういうのだよ」
「“洗わない”という意志を、身体のどこに置くか、の稽古です」
「そんなの稽古でやることか」
「はい。やらないと、忘れます」
「忘れた方が楽なんだろ」
「楽は、次の夜に負けます」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 静は、蓮の刀の背に自分の指を置き、押さず、ただ触れた。
「ここに“洗わない”を置きます」
「ここ、か」
「はい。刃じゃなく、背です。背中に置くと、前は冷たいまま動けます」
「刃に置いたら」
「鈍ります」
「嫌だな」
「はい。嫌です」
 嫌いなものを、嫌いなまま連れて歩く。それを稽古にするのは、不思議に効いた。効き目は、鈍い刃を角度で切り替えるとき、よく出た。

 日々は流れ、粛清の夜は町の「病」に吸い込まれ、紙は別の字を呼び込むようになる。「江戸」とか「上洛」とか「公武」とか、固い字ばかりだ。
 その固さの端で、静は小さな柔らかい字を増やした。「与」。返す手の印だ。
 古着屋の奥で見た白い簪の刻印と、香具屋の帳場で拾った薄墨の端の印と、どれも同じ形で、どれも少し欠けている。欠けた「与」は、返しきれない借りの印。返しきれない借りを誰が持つのか。静は、その問いを紙に書かない。
 蓮は、紙に書かれない問いほど長く残ることを知り始めていた。

 粛清の翌七日、会津藩邸からの使いが来た。
 顔は硬いが、言葉は柔らかい。
「お手前方の働き、目覚ましく存じます。――病は、治まりました」
 病の字に、男は薄笑いを添えた。
 近藤は丁寧に礼を返し、土方は短く答え、総司は微笑んで咳をひとつ。
 蓮は、背筋を半寸伸ばし、目だけで静の方を見た。
 静は目を伏せ、「ありがとうございます」とだけ言った。
 誰に向けた礼か、わからない礼だった。
 だが、礼は、空気を落ち着かせる。落ち着いた空気は、次の夜のために冷えていく。

 その夜、蓮は眠れなかった。
 眠れないときは、音を使う。太鼓の遠音、竹の軋み、猫の足音、風の通り。音を拾うと、呼吸が整理される。
 整理された呼吸の中に、昨夜のぬめりがまた立ち上がる。ぬめりは、もう、ただの嫌悪ではない。
 役割。
 代償。
 鎖。
 どの字も、ぬめりの中に沈んでいる。
 沈んだ字を、掬い上げない。
 掬い上げずに、背に置く。
 背中に置いて歩く。
 歩けるか。
 歩くしかないのだと、思った。

 翌朝、静は何も言わず、桶を持って井戸へ向かった。
 蓮はついていき、桶の縁に手を添えた。水面が朝の白い空を割り、細い輪が広がる。
「静」
「はい」
「俺、昨夜、書いた」
「ありがとうございます」
「まだ何も言ってないぞ」
「矢野さんが“書いた”と言うときは、書いて良いものを書いたときです」
「お前、いつから占い師になった」
「辻占の人から、少しだけ教わりました」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
 蓮は笑って、短く息を吐いた。
「名を残す者は、血を洗い流す。名を残さぬ者は、血を刻む――そう書いた」
「いい字です」
「字じゃねぇ、言葉だ」
「言葉は、字の形をしています」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」

 静は桶の水を掌ですくい、指の腹に水を馴染ませ、それから、蓮の刀の背を軽く撫でた。
「これで、今朝は洗いました」
「洗うなって言ったのはどこの誰だ」
「洗う場所の話です。――刃は洗わず、背を濡らす」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、よく効きます」

 日が昇るほどに、隊の足並みはさらに整った。
 壬生の町は、狼の影を薄くし、代わりに「棒」を求めるようになった。秩序の棒だ。棒は、痛みを事前に思い出させる。思い出す痛みほど、効く薬はない。
 近藤は棒を掲げ、土方は棒の重心を計り、総司は棒の影を涼しくした。
 静は、棒が折れないように、“横”で手を添える。添えた手は、見えない。
 蓮は、棒がぶれないように、“前の手前”で足を調える。調えた足は、褒められない。
 褒められない仕事は、長く残る。

 やがて、秋の端が深くなった。
 朝晩の冷えが刃を締め、昼の乾きが音を軽くする。
 紙は「病」の字を離れ、「誠」の字を濃くする。
 誠。
 その字の重さは、人それぞれだ。
 近藤の誠は火で、土方の誠は氷で、総司の誠は風で、静の誠は影だ。
 蓮の誠は、まだ形が定まらない。定まらないまま、鎖の音がする。
 血に染まった誓い。
 それは組を守るための代償であり、同時に自分を縛る鎖だった。鎖は、動きの“無駄”を削る。削られた無駄は、刃の起こりを短くする。短い起こりは、夜に強い。
 強さを、嫌いにはなれない。
 嫌いになれない自分を、蓮は嫌った。
 嫌いながら、使う。
 使いながら、忘れないように背に置く。
 それが、今のところのやり方だった。

 夜、帳面にまた短い文を足す。
――“前”は洗い、“横”は刻む。
 書きながら、苦笑が出た。
 静の生き方の真似事だ。
 真似事でも、動けるなら、構わない。動けないよりは、ずっといい。

 その翌日、総司が稽古場に現れ、いつになく長く竹を振った。
 笑いはいつもどおりだが、呼吸の繋ぎ目が少し粗い。粗いところを、本人は誰よりも先に笑いで隠す。
「静さん。あなたはやっぱり白いですね」
「灯の外では、鼠です」
「その鼠が、刀を持ってるのが怖いところだ」
「鼠は、噛みます」
「だろうね」
 総司は振りを止め、蓮の竹の先を軽く弾いた。
「矢野さん。あなたは前で立つのが似合う」
「前の手前で立つのが楽になってきた」
「楽、か」
「楽は負ける、って静が言う」
「僕もそう思います」
 少しだけ咳。
 静は、目の端だけ動かし、何も言わなかった。
 光に心配をかけないのが、影の礼儀だ。

 粛清から半月。
 芹沢の名は、とうとう「病」の字の中で動かなくなった。
 代わりに、木屋町の川沿いに人が集まり、北の辻で噂が立ち、辻占の札が「北」と書き、占い師が「灯の高さに注意」と囁く。――季節が動き、町の回廊がわずかに位置を変える。
 静は、噂の置き石のいくつかを拾い、別の角度へ置き直した。
 蓮は、「前の手前」で少しずつ勝ち続けた。
 勝つと、忘れそうになる。
 忘れないでいることを、身体に刻む。
 刻む場所は、刃ではなく、背。
 背に重さが集まり、足取りは重くなる。
 重さを嫌わず、歩く。
 歩けるうちは、歩く。

 夜更け、静がぽつりと言った。
「矢野さん。――誓いを、ひとつ増やしてもいいでしょうか」
「なんだよ、急に」
「“背を洗わない”という誓いです」
「もうやってる」
「言葉にすると、長く続きます」
「言葉、か」
「はい。言葉は、字の形をして、息の温度になります」
「詩人ぶるな」
「音を書いているだけです」
「わかった。……誓う。背は洗わない」
「ありがとうございます。僕も、誓います」
「お前はもう誓ってるだろ」
「はい。矢野さんと、同じ夜に誓い直します」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 背を洗わない。
 血を刻む。
 忘れない。
 それは、救いにはならない。
 ただ、次の夜のための準備になる。
 準備がある夜は、倒れにくい。
 倒れにくい者だけが、長く見張りに立てる。
 見張りは、褒められない。
 褒められない仕事ばかりが、町を静かにする。

 秋が深まり、音はさらに遠くへ届くようになった。
 竹は乾き、刀は冷え、紙は硬く、灯は低い。
 壬生の空に薄群青がかかり、寺の鐘がひとつ遅れて鳴る。
 その遅れが、合図のように感じられるようになって久しい。
 合図は、誰にも告げられないまま、隊の中を巡る。
 一枚岩。
 層。
 棒。
 影。
 どれもが、「誠」という字の下で、同じ温度を目指す。
 温度が揃えば、音が揃う。
 音が揃えば、町は静かになる。
 静かになった町の片隅で、誰も知らない鎖が、音を立てずに引き締まる。
 鎖の片端は、蓮の背に繋がり、もう片端は、静の指に絡まっている。
 絡みは、誓いであり、罰であり、道具だ。
 道具は、使い方しだいで、人を守る。

 その夜、蓮は帳面の余白に、もう一行だけ置いた。
――背は洗わず、前は冷たく、横は長く。
 書きながら、灯を半寸、下げた。
 半寸の差で、目が紙から離れ、耳が外へ向く。
 外では、風が薄くなり、猫が塀を渡り、小さな器が棚から落ち、遠くで笑いが止み、さらに遠くで犬が一声だけ吠えた。
 吠え方が上手い。
 上手い夜だ。
 上手い夜は、記録されない。
 記録されない夜が、隊を守る。
 隊が守られれば、町が眠れる。
 眠れた町の朝は、音がよく通る。
 通る音の中で、血に染まった誓いは、乾いていく。
 乾いた誓いは、折れにくい。
 折れにくいものだけが、次の章で必要になる。

 そして、朝。
 壬生の空は薄群青。
 寺の鐘が、ひとつ遅れて鳴る。
 竹の音が乾く。
 静は半寸、間を詰め、蓮は“前の手前”に立つ。
 ふたりの呼吸は、昨夜より揃っている。
 揃った呼吸は、名では呼ばれない。
 名がつかないものだけが、長く効く。
 効くものだけが、史実の隙間を支える。
 粛清という史実の“裏”に置かれた、洗わない背中の誓いが、音もなく固まっていく。
 それは鎖であり、道であり、灯であり、合図であり、ただの習慣だ。
 習慣ほど、強い誓いはない。
 強い誓いほど、優しい刃になる。
 優しい刃は、町を壊さない。
 壊さないまま、斬る。
 斬るまま、忘れない。
 忘れないまま、先へ進む。

 蓮は静に言った。
「静。――俺は、一枚岩に入ってるか」
 静は少し考え、しかし、いつもの調子で答えた。
「矢野さんは“一枚岩”の、真ん中の“隙間”です」
「隙間?」
「はい。隙間がない岩は、割れます。隙間がある岩は、しなります」
「理屈が悪い」
「悪い理屈が、よく効きます」
「……なら、隙間でいい」
「ありがとうございます。――僕は、その隙間の“横”にいます」
「勝手に決めるな」
「はい。決めます」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 朝の光が、土間の埃を細かく透かした。
 細かな光の粒の中で、剣の背に残した黒が、わずかに鈍く光った。
 洗わない。
 刻む。
 忘れない。
 それだけで、今朝は十分だった。
 そして、それだけが、次の大きな夜――池田屋へ向かう長い道の、最初の一歩だった。