夜の色が変わるのは、決まって風が止んだあとだ。
文久三年九月、京の空は一皮だけ薄くなり、灯の笠の内側で焔がやや低く見えた。秋口の湿りが抜け、音は乾き、刃はよく走る。その夜に合わせるように、紙が一束、土間の角に積まれている。墨の匂いは浅く、代わりに米と酒と焼き魚の甘い匂いが町を満たしていた。宴の匂いだ。
芹沢鴨が、また大きく笑う――という噂は、夕刻には壬生まで届いていた。
表向きには「芹沢派の乱行を止めるため」と記すべき夜。だが実際には、会津がうっすら目を閉じ、土方が短くうなずき、近藤が声を出さずに息を整え、新選組という名の裏側に溜まった泥を、流れの強い場所へ落とすための段取りが、静かに整えられていく夜だった。
静と蓮の役目は、名簿にない。
名がつく前、名が残る後、その間に挟まる「見えない仕事」だ。今夜のそれは、一本の線を短くすること――逃げ道を断つこと。表の帳面には書かれないが、死の確度を上げる作業である。雑にやれば、ただの殺戮になる。丁寧にやれば、「終わり」に見えない形が与えられる。
「静」
「はい」
「今夜、俺は“前”に立つのか、“横”に立つのか」
「“前の手前”に立ってください」
「ずるい位置をよこすな」
「はい。ずるいのは、矢野さんが持つのが似合います」
「褒めるな。照れる」
「照れを書いておきます」
「書くな」
「書きます。――それで、勝ち筋が太くなります」
薄闇に紛れる鼠色の薄布を肩に掛け、静は刀を鞘から半寸だけ押し上げ、音を聞いた。鯉口の鳴りは、今夜は静かだ。氷で拭いたように乾いている。風は、北。灯は低い。水は遠い。――良い夜だ、と静は思った。
宴は先に始まっている。
大坂屋の座敷に敷かれた畳は人の重みでうねり、器が割れ、盃が跳ね、芸妓の笑いが襖に絡みつく。香は濃く、湯気は白い。芹沢の笑いは、低くて長い。低い笑いは、芯がある。芯がある声は、折れるとき音をたてる。
裏手の路地は、表の喧騒の余韻だけがゆっくりと流れ、灯の高さが半寸下がっていた。
静と蓮は、門の蝶番に油を差す代わりに、油壺を半歩ずらした。開く音の高低がそれだけで変わる。逃げる足は音を嫌う。嫌う音が鳴れば、躊躇する。躊躇は半心の遅れを生み、半心があれば刃はいらない。蓮は路地の砂を足で馴らし、石畳の欠けたところに細い木片を噛ませる。跳ねる足音が、ここでわずかに長くなる。長い音は、待つ者にとって贈り物だ。
「静、裏口の先、材木小屋までの道、角材は三本で足りるか」
「二本で足ります。二本目は少し寝かせてください。音が柔らかくなります」
「了解。……お前、ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
配置は、密やかに、だが迷いなく行われた。
表から「表の人たち」が入り、裏から「裏の人たち」が閉じ、脇から「名のない人たち」が呼吸を揃える。呼吸が揃えば、刃はひとつの生き物になる。夜はその生き物を、よく泳がせる。
静の役は、出口のひとつを潰すことだった。
構えを作る必要はない。立つだけでいい。立つことが構えだ。
裏口の桟に手を置く。木の冷たさで、手の熱が整う。
まだ笑い声が聞こえる。盃の音が上がる。器の割れる音が、細かく散る。――合図は、器ではない。合図は、灯の高さだ。灯が、さらに半寸、下がる。芸妓の指が細く動く。その温度が、座敷の中を「内」に変える。内に変わると、刃が近づく。
裏口の戸が、軽く開いた。
夜気が流れ、酒の匂いが外に出る。
男がひとり、気配を軽んじる歩き方で踊り出た。鼻歌。帯が緩い。目の焦点が定まらない。
静は、音を殺して前へ滑る。刃は氷だ。
喉の皮一枚。――叫びが生まれないように、音を切る。
男は一歩、前へ出て、そのまま倒れた。倒れる音は、材木の陰で柔らかくなる。柔らかければ、誰も振り返らない。
蓮は喉の奥に上がったものを飲み込み、吐き気の形を自分の掌に移す。掌を握ると、吐き気はそこに収まる。収まった吐き気は、役に立つ。「前の手前」に立つ時、掌の冷たさが角度を決めるのだ。
「静」
「はい」
「ここは俺が持つ。お前は梯子の方を」
「お願いします。梯子の上、二段目が割れています。足裏で覚えてください」
「わかった。……お前、今の一太刀、氷みたいだった」
「氷でなければ、夜が濁ります」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
そのとき、座敷の内側で器の重い音がひとつ鳴り、次に怒号が立ち上がる。
怒号は、短く立ち上がり、長く尾を曳く。尾には血の匂いが混ざる。
風が、香の煙を裏口へ押し出した。血の温度は、夜気で薄まる。薄まった匂いは、鼻より先に指先へ落ちる。蓮は刀を握りなおし、指の腹の感覚で自分の位置を確認した。位置がわかれば、刃は勝手に届く。
中からは、座の大きい動きと、小さな悲鳴の重なりが聞こえる。
近藤の声は聞こえない。土方の声も聞こえない。総司の笑いもない。声がないということは、刃が仕事をしているということだ。刃が仕事をすれば、声は要らない。声が要らない夜は、長く残る。
裏口から次の影が崩れ出た。
静は、今度は斬らなかった。
袖を取り、肩を流し、膝の力を抜く。裏口の敷居で足を滑らせ、男の身体は、自分の体重で自分を押し潰す。
そのまま、静は額に爪を当て、皮膚に薄い痛みだけを記憶させる。逃げる身体は、痛みを嫌う。嫌う記憶は、足を鈍らせる。鈍った足は、今夜は越えて来ない。
梯子が軋む音。
蓮は梯子の下に回り、二段目に足をかけようとする影の足首を、柄で軽く叩いた。足の神経は、わずかな刺激で全体が止まる。止まった一瞬があれば、刃は要らない。男は梯子から降り、壁に手をつき、振り返る余裕もないままに膝を折る。蓮はその後頭部に指を二本、当てるだけで済ませた。押さえる必要はない。触れるだけで、身体は従う。
座敷の中の音は、さらに硬く、短く、乾いた。
刃と刃が、畳の目で音を変える。長押にぶつかる柄の音。湯呑がころりと転がり、その空洞が小さな鐘のように鳴る。
その隙間に、誰かの息が途切れる音がした。
息の途切れは、声よりも正確だ。
蓮は眼を閉じ、唇を噛み、掌の吐き気をもう一度握り直した。
「静。……これは、正義か」
問う声は、ひどく低かった。
静は、裏口の柱に背を当て、目線を座敷に向けたまま答える。
「正義は“書き残す者”のものです。――僕らの役目は、書かれない方の歴史を作ることです」
「お前の言葉は、いつも冷たい」
「冷たくなければ、夜が燃えます」
「……お前は人を、人と思っていないのか」
静は、短く息を吸った。
「僕は“記録に残らない人”です。人に見られなければ、人である必要もありません」
蓮は、絶句した。
その冷たさは、正気か、狂気か。
おそらく、どちらでもあり、どちらでもない。
ただ、組を守っているのは、そういう手だ。その事実だけが、身体に残った。
雨ではないのに濡れた匂いがした。
血が木の繊維の間に入り込む匂いだ。畳の中の草が、湿りながら熱を持つ。
怒号が短くなり、足音が細かく動き、床板が鳴る。
合図は――来た。灯が、さらに半寸、下がる。
灯の高さは、終わりの合図だ。
座敷の襖が裂け、内から影がひとつ飛び出した。
蓮は“前の手前”で入り、刃の角度を半刃だけ斜めにした。人の躰は、角度に弱い。真正面には強いが、斜めには弱い。男は、その弱さで地面に吸い付く。
静は、もう一方の出口を潰していた。出ようとした足の前に、ほんの小さな段差を作っておいたのだ。段差は、灯が低いほど見えない。見えない段差は、逃げる心を無力化する。刃はいらない。
座敷の中で、声が途切れた。
長い笑い声の主が、音を立てずに倒れる。
芹沢鴨の名は、その夜、音を失った。
しばらくして、静と蓮は裏口から一歩だけ中へ入り、床板のエッジを目で確かめた。
血は、まだ温かい。
温かさは、風で薄まる。
薄まる前に、目に刻むのが静の流儀だった。
「矢野さん。――見るのは、今だけです」
「見たくない」
「見てください。見たくないものだけが、手癖を変えます」
「……見た。もういい」
「ありがとうございます」
表では、近藤が短く指示を出し、土方が紙の端を折るように場を畳んでいく。
総司は唇の色をほんの少しだけ薄くし、しかし笑った。
笑いは、春風のかたちのままだった。
皆、声を下げて動き、沈黙の中で手を洗い、血で濡れた布を内側に畳み、灯を元の高さに戻す。灯は、もとには戻らないが、戻ったふりはできる。
外へ出ると、夜風が細く肌を撫でた。
蓮の胸に残ったのは、冷たい夜風と、手にこびりついた血のぬめりだけだった。
井戸の水で洗っても、爪の内側の黒は落ちない。
落ちない黒は、明日の稽古で役に立つ。
静は桶を支え、顔を上げずに言う。
「矢野さん。血は剣を鈍らせます。――だから、剣にこびりついた血は、洗わない方がいいです」
「どういう理屈だよ」
「忘れないため、です」
「そういうところ、嫌いだ」
「ありがとうございます」
「褒めてねぇ」
「承知しています」
夜が、いったん終わる。
終わりは、紙に書かれない。
翌朝の紙には、「病」の字が並ぶ。
芹沢鴨、病死。
紙がそう言えば、町はそうなる。
噂は、一度だけ逆らい、それから紙に合わせて形を変える。
新選組は、何事もなかったように巡察へ出る。
青い羽織は道を割り、犬は吠えず、子は眠る。
空気は明らかに変わり、規律は強まり、近藤の権威は確かになる。土方は「これで一枚岩だ」と言い切った。
蓮は、自分がその“一枚”に含まれているのかどうか、わからないまま、足を前へ出した。前へ出す足は、昨夜より軽い。軽さが、怖い。
稽古場で竹の音を重ねる。
静は半寸、間を詰め、蓮は“前の手前”で止める。
止めることが、勝つことだ。斬らずに勝つことを、身体に思い出させる。
「静。……昨夜のこと、言葉にしたら、何になる」
「“誰にも言わないでください”になります」
「言わねぇよ」
「ありがとうございます」
「礼は要らない」
「言わせてください」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
夜が終わったはずなのに、夜はまだ、指の裏に残っていた。
蓮はその夜、短く書いた。
――名を残す者は、血を洗い流す。名を残さぬ者は、血を刻む。
紙に書いた文字は黒いが、胸の中の字は赤い。
赤い字は、誰にも見えない。
見えない字だけが、刃を待たせる。
静は、何も語らない。
語らない代わりに、灯の高さを元へ戻し、門の蝶番から油壺を半歩ずつ戻し、材木小屋に噛ませた二本の角材を拾い、掌で木の粉を払った。
払っても、粉は残る。
残ることが、仕事だ。
残る粉の感触を確かめながら、静は稽古帳の余白に小さく点を打つ。
――点は、灯。灯は、半寸。半寸は、命。
誰にも見えない、小さな文。
矢野蓮にだけは、すこし大きく見える文。
その日の夕刻、総司が縁側で笑った。
「静さん。芹沢の“病”、よく効く薬になりました」
「僕は薬を作っていません」
「“飲ませ方”を作った、という顔をしています」
「顔は、していないはずです」
「してるよ。……あなたはやっぱり、白い」
「灯の外では、鼠です」
「どちらでも、よろしい」
総司は笑い、わずかに咳をした。咳は短く、音は小さい。静は一瞬だけ目を細めたが、何も言わなかった。光は、影に心配されるのを嫌う。影は、光に心配させないように立つ。
夜は、もう一度だけ濃くなった。
町のどこかで、誰かが「病」の字を口にし、誰かが「狼」の字を口にし、誰かが「白」の字を口にする。
白は、夜の色だ。
白の簪は、その晩、静かな音で机の上を転がり、止まった。止まった場所は、紙の端。
静は簪をつまみ、懐に戻した。返すべき場所は、今夜ではない。返らない借りは、自分が持つ。持てば、軽くなる。軽くなれば、矢野さんが前へ出やすい。
蓮は、薄い灯の下で刀の背を指でなぞった。
血のぬめりは、指の腹で冷たくなっている。
洗わないと決めた。それは、静の言葉のせいだけではない。
忘れないためだ。
忘れないでいることは、苦しい。
だが、苦しさを握りなおす術を、もう知ってしまった。
掌に吐き気を移し、指で冷たさを確かめ、呼吸を整え、“前の手前”に立つ準備をする術を。
「静」
「はい」
「今夜、お前はどこにいた」
「矢野さんの横です」
「見えなかった」
「見えなくて、いい場所にいました」
「腹が立つ」
「ありがとうございます」
「褒めてねぇ」
「承知しています。――でも、横にいます」
「勝手に決めるな」
「はい。決めます」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
壬生の空は薄群青に変わる。
寺の鐘が、ひとつ遅れて鳴る。
鐘の音は、夜と朝の継ぎ目に小さな釘を打つ。
釘があれば、夜は落ちない。
落ちなかった夜の端に、芹沢鴨という名は、紙の上で「病」の字の中に畳まれた。
畳まれたものは、時が来れば開く。
だが、その時にはもう、刃は別の場所で仕事をしている。
刃は鋭いほど、柄は冷たい。
柄の冷たさを忘れない者だけが、長く握れる。
静は、忘れない。
蓮は、忘れないように息をする。
宴は終わった。
果てに残ったのは、静かな音と、洗わない血だけ。
それで十分だ、と夜が言う。
夜の言葉は、紙には残らない。
だが、剣には残る。
剣は、次の夜を待っている。
灯は、また半寸、下がる。
その半寸の差で、人は生き、名は残り、誰かは書かれずに消える。
書かれない方の歴史が、今夜また一つ、形になった。
文久三年九月、京の空は一皮だけ薄くなり、灯の笠の内側で焔がやや低く見えた。秋口の湿りが抜け、音は乾き、刃はよく走る。その夜に合わせるように、紙が一束、土間の角に積まれている。墨の匂いは浅く、代わりに米と酒と焼き魚の甘い匂いが町を満たしていた。宴の匂いだ。
芹沢鴨が、また大きく笑う――という噂は、夕刻には壬生まで届いていた。
表向きには「芹沢派の乱行を止めるため」と記すべき夜。だが実際には、会津がうっすら目を閉じ、土方が短くうなずき、近藤が声を出さずに息を整え、新選組という名の裏側に溜まった泥を、流れの強い場所へ落とすための段取りが、静かに整えられていく夜だった。
静と蓮の役目は、名簿にない。
名がつく前、名が残る後、その間に挟まる「見えない仕事」だ。今夜のそれは、一本の線を短くすること――逃げ道を断つこと。表の帳面には書かれないが、死の確度を上げる作業である。雑にやれば、ただの殺戮になる。丁寧にやれば、「終わり」に見えない形が与えられる。
「静」
「はい」
「今夜、俺は“前”に立つのか、“横”に立つのか」
「“前の手前”に立ってください」
「ずるい位置をよこすな」
「はい。ずるいのは、矢野さんが持つのが似合います」
「褒めるな。照れる」
「照れを書いておきます」
「書くな」
「書きます。――それで、勝ち筋が太くなります」
薄闇に紛れる鼠色の薄布を肩に掛け、静は刀を鞘から半寸だけ押し上げ、音を聞いた。鯉口の鳴りは、今夜は静かだ。氷で拭いたように乾いている。風は、北。灯は低い。水は遠い。――良い夜だ、と静は思った。
宴は先に始まっている。
大坂屋の座敷に敷かれた畳は人の重みでうねり、器が割れ、盃が跳ね、芸妓の笑いが襖に絡みつく。香は濃く、湯気は白い。芹沢の笑いは、低くて長い。低い笑いは、芯がある。芯がある声は、折れるとき音をたてる。
裏手の路地は、表の喧騒の余韻だけがゆっくりと流れ、灯の高さが半寸下がっていた。
静と蓮は、門の蝶番に油を差す代わりに、油壺を半歩ずらした。開く音の高低がそれだけで変わる。逃げる足は音を嫌う。嫌う音が鳴れば、躊躇する。躊躇は半心の遅れを生み、半心があれば刃はいらない。蓮は路地の砂を足で馴らし、石畳の欠けたところに細い木片を噛ませる。跳ねる足音が、ここでわずかに長くなる。長い音は、待つ者にとって贈り物だ。
「静、裏口の先、材木小屋までの道、角材は三本で足りるか」
「二本で足ります。二本目は少し寝かせてください。音が柔らかくなります」
「了解。……お前、ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
配置は、密やかに、だが迷いなく行われた。
表から「表の人たち」が入り、裏から「裏の人たち」が閉じ、脇から「名のない人たち」が呼吸を揃える。呼吸が揃えば、刃はひとつの生き物になる。夜はその生き物を、よく泳がせる。
静の役は、出口のひとつを潰すことだった。
構えを作る必要はない。立つだけでいい。立つことが構えだ。
裏口の桟に手を置く。木の冷たさで、手の熱が整う。
まだ笑い声が聞こえる。盃の音が上がる。器の割れる音が、細かく散る。――合図は、器ではない。合図は、灯の高さだ。灯が、さらに半寸、下がる。芸妓の指が細く動く。その温度が、座敷の中を「内」に変える。内に変わると、刃が近づく。
裏口の戸が、軽く開いた。
夜気が流れ、酒の匂いが外に出る。
男がひとり、気配を軽んじる歩き方で踊り出た。鼻歌。帯が緩い。目の焦点が定まらない。
静は、音を殺して前へ滑る。刃は氷だ。
喉の皮一枚。――叫びが生まれないように、音を切る。
男は一歩、前へ出て、そのまま倒れた。倒れる音は、材木の陰で柔らかくなる。柔らかければ、誰も振り返らない。
蓮は喉の奥に上がったものを飲み込み、吐き気の形を自分の掌に移す。掌を握ると、吐き気はそこに収まる。収まった吐き気は、役に立つ。「前の手前」に立つ時、掌の冷たさが角度を決めるのだ。
「静」
「はい」
「ここは俺が持つ。お前は梯子の方を」
「お願いします。梯子の上、二段目が割れています。足裏で覚えてください」
「わかった。……お前、今の一太刀、氷みたいだった」
「氷でなければ、夜が濁ります」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
そのとき、座敷の内側で器の重い音がひとつ鳴り、次に怒号が立ち上がる。
怒号は、短く立ち上がり、長く尾を曳く。尾には血の匂いが混ざる。
風が、香の煙を裏口へ押し出した。血の温度は、夜気で薄まる。薄まった匂いは、鼻より先に指先へ落ちる。蓮は刀を握りなおし、指の腹の感覚で自分の位置を確認した。位置がわかれば、刃は勝手に届く。
中からは、座の大きい動きと、小さな悲鳴の重なりが聞こえる。
近藤の声は聞こえない。土方の声も聞こえない。総司の笑いもない。声がないということは、刃が仕事をしているということだ。刃が仕事をすれば、声は要らない。声が要らない夜は、長く残る。
裏口から次の影が崩れ出た。
静は、今度は斬らなかった。
袖を取り、肩を流し、膝の力を抜く。裏口の敷居で足を滑らせ、男の身体は、自分の体重で自分を押し潰す。
そのまま、静は額に爪を当て、皮膚に薄い痛みだけを記憶させる。逃げる身体は、痛みを嫌う。嫌う記憶は、足を鈍らせる。鈍った足は、今夜は越えて来ない。
梯子が軋む音。
蓮は梯子の下に回り、二段目に足をかけようとする影の足首を、柄で軽く叩いた。足の神経は、わずかな刺激で全体が止まる。止まった一瞬があれば、刃は要らない。男は梯子から降り、壁に手をつき、振り返る余裕もないままに膝を折る。蓮はその後頭部に指を二本、当てるだけで済ませた。押さえる必要はない。触れるだけで、身体は従う。
座敷の中の音は、さらに硬く、短く、乾いた。
刃と刃が、畳の目で音を変える。長押にぶつかる柄の音。湯呑がころりと転がり、その空洞が小さな鐘のように鳴る。
その隙間に、誰かの息が途切れる音がした。
息の途切れは、声よりも正確だ。
蓮は眼を閉じ、唇を噛み、掌の吐き気をもう一度握り直した。
「静。……これは、正義か」
問う声は、ひどく低かった。
静は、裏口の柱に背を当て、目線を座敷に向けたまま答える。
「正義は“書き残す者”のものです。――僕らの役目は、書かれない方の歴史を作ることです」
「お前の言葉は、いつも冷たい」
「冷たくなければ、夜が燃えます」
「……お前は人を、人と思っていないのか」
静は、短く息を吸った。
「僕は“記録に残らない人”です。人に見られなければ、人である必要もありません」
蓮は、絶句した。
その冷たさは、正気か、狂気か。
おそらく、どちらでもあり、どちらでもない。
ただ、組を守っているのは、そういう手だ。その事実だけが、身体に残った。
雨ではないのに濡れた匂いがした。
血が木の繊維の間に入り込む匂いだ。畳の中の草が、湿りながら熱を持つ。
怒号が短くなり、足音が細かく動き、床板が鳴る。
合図は――来た。灯が、さらに半寸、下がる。
灯の高さは、終わりの合図だ。
座敷の襖が裂け、内から影がひとつ飛び出した。
蓮は“前の手前”で入り、刃の角度を半刃だけ斜めにした。人の躰は、角度に弱い。真正面には強いが、斜めには弱い。男は、その弱さで地面に吸い付く。
静は、もう一方の出口を潰していた。出ようとした足の前に、ほんの小さな段差を作っておいたのだ。段差は、灯が低いほど見えない。見えない段差は、逃げる心を無力化する。刃はいらない。
座敷の中で、声が途切れた。
長い笑い声の主が、音を立てずに倒れる。
芹沢鴨の名は、その夜、音を失った。
しばらくして、静と蓮は裏口から一歩だけ中へ入り、床板のエッジを目で確かめた。
血は、まだ温かい。
温かさは、風で薄まる。
薄まる前に、目に刻むのが静の流儀だった。
「矢野さん。――見るのは、今だけです」
「見たくない」
「見てください。見たくないものだけが、手癖を変えます」
「……見た。もういい」
「ありがとうございます」
表では、近藤が短く指示を出し、土方が紙の端を折るように場を畳んでいく。
総司は唇の色をほんの少しだけ薄くし、しかし笑った。
笑いは、春風のかたちのままだった。
皆、声を下げて動き、沈黙の中で手を洗い、血で濡れた布を内側に畳み、灯を元の高さに戻す。灯は、もとには戻らないが、戻ったふりはできる。
外へ出ると、夜風が細く肌を撫でた。
蓮の胸に残ったのは、冷たい夜風と、手にこびりついた血のぬめりだけだった。
井戸の水で洗っても、爪の内側の黒は落ちない。
落ちない黒は、明日の稽古で役に立つ。
静は桶を支え、顔を上げずに言う。
「矢野さん。血は剣を鈍らせます。――だから、剣にこびりついた血は、洗わない方がいいです」
「どういう理屈だよ」
「忘れないため、です」
「そういうところ、嫌いだ」
「ありがとうございます」
「褒めてねぇ」
「承知しています」
夜が、いったん終わる。
終わりは、紙に書かれない。
翌朝の紙には、「病」の字が並ぶ。
芹沢鴨、病死。
紙がそう言えば、町はそうなる。
噂は、一度だけ逆らい、それから紙に合わせて形を変える。
新選組は、何事もなかったように巡察へ出る。
青い羽織は道を割り、犬は吠えず、子は眠る。
空気は明らかに変わり、規律は強まり、近藤の権威は確かになる。土方は「これで一枚岩だ」と言い切った。
蓮は、自分がその“一枚”に含まれているのかどうか、わからないまま、足を前へ出した。前へ出す足は、昨夜より軽い。軽さが、怖い。
稽古場で竹の音を重ねる。
静は半寸、間を詰め、蓮は“前の手前”で止める。
止めることが、勝つことだ。斬らずに勝つことを、身体に思い出させる。
「静。……昨夜のこと、言葉にしたら、何になる」
「“誰にも言わないでください”になります」
「言わねぇよ」
「ありがとうございます」
「礼は要らない」
「言わせてください」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
夜が終わったはずなのに、夜はまだ、指の裏に残っていた。
蓮はその夜、短く書いた。
――名を残す者は、血を洗い流す。名を残さぬ者は、血を刻む。
紙に書いた文字は黒いが、胸の中の字は赤い。
赤い字は、誰にも見えない。
見えない字だけが、刃を待たせる。
静は、何も語らない。
語らない代わりに、灯の高さを元へ戻し、門の蝶番から油壺を半歩ずつ戻し、材木小屋に噛ませた二本の角材を拾い、掌で木の粉を払った。
払っても、粉は残る。
残ることが、仕事だ。
残る粉の感触を確かめながら、静は稽古帳の余白に小さく点を打つ。
――点は、灯。灯は、半寸。半寸は、命。
誰にも見えない、小さな文。
矢野蓮にだけは、すこし大きく見える文。
その日の夕刻、総司が縁側で笑った。
「静さん。芹沢の“病”、よく効く薬になりました」
「僕は薬を作っていません」
「“飲ませ方”を作った、という顔をしています」
「顔は、していないはずです」
「してるよ。……あなたはやっぱり、白い」
「灯の外では、鼠です」
「どちらでも、よろしい」
総司は笑い、わずかに咳をした。咳は短く、音は小さい。静は一瞬だけ目を細めたが、何も言わなかった。光は、影に心配されるのを嫌う。影は、光に心配させないように立つ。
夜は、もう一度だけ濃くなった。
町のどこかで、誰かが「病」の字を口にし、誰かが「狼」の字を口にし、誰かが「白」の字を口にする。
白は、夜の色だ。
白の簪は、その晩、静かな音で机の上を転がり、止まった。止まった場所は、紙の端。
静は簪をつまみ、懐に戻した。返すべき場所は、今夜ではない。返らない借りは、自分が持つ。持てば、軽くなる。軽くなれば、矢野さんが前へ出やすい。
蓮は、薄い灯の下で刀の背を指でなぞった。
血のぬめりは、指の腹で冷たくなっている。
洗わないと決めた。それは、静の言葉のせいだけではない。
忘れないためだ。
忘れないでいることは、苦しい。
だが、苦しさを握りなおす術を、もう知ってしまった。
掌に吐き気を移し、指で冷たさを確かめ、呼吸を整え、“前の手前”に立つ準備をする術を。
「静」
「はい」
「今夜、お前はどこにいた」
「矢野さんの横です」
「見えなかった」
「見えなくて、いい場所にいました」
「腹が立つ」
「ありがとうございます」
「褒めてねぇ」
「承知しています。――でも、横にいます」
「勝手に決めるな」
「はい。決めます」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
壬生の空は薄群青に変わる。
寺の鐘が、ひとつ遅れて鳴る。
鐘の音は、夜と朝の継ぎ目に小さな釘を打つ。
釘があれば、夜は落ちない。
落ちなかった夜の端に、芹沢鴨という名は、紙の上で「病」の字の中に畳まれた。
畳まれたものは、時が来れば開く。
だが、その時にはもう、刃は別の場所で仕事をしている。
刃は鋭いほど、柄は冷たい。
柄の冷たさを忘れない者だけが、長く握れる。
静は、忘れない。
蓮は、忘れないように息をする。
宴は終わった。
果てに残ったのは、静かな音と、洗わない血だけ。
それで十分だ、と夜が言う。
夜の言葉は、紙には残らない。
だが、剣には残る。
剣は、次の夜を待っている。
灯は、また半寸、下がる。
その半寸の差で、人は生き、名は残り、誰かは書かれずに消える。
書かれない方の歴史が、今夜また一つ、形になった。



