秋の夜気は薄く刃を磨ぐ。
壬生の長屋の棟木は冷え、畳の目は乾いてきしみ、竹刀の先が空気を撫でるだけで、音が遠くまで届く季節になった。京の町に“壬生狼”の名が肥えるほど、隊の中には二つの空気が育っていた。恐怖と、反発。
恐怖は声を低くし、反発は笑いを粗くする。どちらの空気も、芹沢鴨の周りで渦を巻く。慕う者は酒と声で従い、嫌う者は黙って距離を取る。会津藩の顔つきも硬くなりつつあった。いつまでも「荒ぶる鷹」を放ってはおけぬ。だが、いま「手を掛ける」わけにもいかぬ――そんな逡巡の温度が、藩邸の土塀から夜気へ染み出していた。
静と蓮は、その温度を体温に取り込むように動いた。密命は簡潔だ。「芹沢派の影を、形にせよ」。
遊郭の二階での放蕩、料亭の奥の間での密談、町人からの搾取の帳尻――それらの「証」を集める。証は紙にしか棲めない。だから、筆が剣より重くなる。
昼、善根宿の帳面の欄外に、静は赤い小点を置く。「ここに“匿名”が混ざります」。
「静。匿名は悪か?」
「悪ではありません。けれど、“追跡不能”という力を持ちます。悪に使われやすい力です」
「言い換えたな」
「言い換えが、術です」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
蓮は笑ってみせ、筆へ戻る。笑いは短い。短い笑いは、長い沈黙の前触れだ。
夜、二人は油小路の角に立った。芹沢の側近・浅葱羽織の男たちは、まるで祭り囃子のように出入りする。香の匂いは濃く、盃の音は高く、器の割れる音は低い。
蓮は石畳の欠け目を数え、静は灯の高さを数えた。灯が半寸下がると、家の息は“内”になり、刃の速度が変わる。
その夜の紙には、こう記された。
――「三条・『松葉屋』。芹沢、夜半入座。上座に座る。盃の音、高し(七)。器、割れる(小)。金の音、三。……」
羅列だ。羅列に血は通っていない。だが、血を通わせるのは明日の朝の仕事ではない。いつか来る「いざ」の朝に、羅列は心臓に化ける。静はそれを知っていた。
*
芹沢の影は、夜ごと濃くなった。
ある晩、酒の勢いで路地の商家の男と口論になり、芹沢が拳を振るった。男は壁に頭を打ちつけ、ずるりと座り込む。目の白が上へ滑り、口から薄い音がこぼれる。
「静――」
蓮の足は、意思より先に石畳を蹴っていた。
静の指が袖を掴む。冷えた、しかし確かな指だ。
「今は、まだ駄目です」
「やめろ。今だろ」
「今では、ありません」
蓮の視界に、男の血の赤がじわりと広がる。赤は温度を持つ。温度は思考を焼く。
「見殺しにすんのか」
「死ぬべき時に死なせます。――それが、僕らの役目です」
「……人でなしが」
「はい」
静は肯う。肯い方が、遅れて自分を刺す言葉を受け止めやすい。
芹沢は笑い、袖で口を拭い、供を連れて去った。笑いの尾が路地に残る。尾は、紙で掴める。
その夜の記録は短く、重かった。
――「四条魚棚町・路地。芹沢、町人と衝突。被害者:伊助、年三十余。意識混濁。立会:芹沢供二、遊女一。……」
蓮は筆を置いて、井戸で手首を冷やした。
「静。俺ら、剣、持ってるよな」
「はい」
「じゃあ、なんで抜かない」
「抜けば、町が壊れます。――抜かずに、芹沢が壊れる夜を探します」
「いつ」
「“いざ”の時です」
「それは、お前が決めるのか」
「決めません。来ます。――来る場所を、僕らが用意します」
蓮は唇の裏を噛み、血の味を舌で消した。味はすぐ消えるが、感覚は残る。残った感覚が、次の夜の足を止める。
*
隊内の空気は二つに裂けた。
芹沢に肩入れする連中は、酒の量で自分の声の太さを測る。
嫌う連中は、夜の灯を低くし、足の音を消す。
近藤は笑って「おまえら、ようやっとる」と言うが、その笑いの端には疲れがあった。
総司は春の笑みの角をひとつ折り、「静。君の白、染みすぎる」と小さく言った。
土方は黙って紙をめくり、必要な三枚だけを抜く。三枚あれば足りる。三枚に絞る。絞った紙は、刃の長さと同じだ。
蓮の胸に、日を追うごとに重りが増した。
剣を抜かず、ただ追い、ただ書く。
書くことが、人の命を削る。
いくら理で飾っても、腹は抗う。腹の抗いは、眠りの質を落とす。
ある夜、蓮は稽古場で竹刀を握り、床に座り込んだ。
「静。俺、人を人とも思わないような気がしてきた」
「はい」
「お前、肯くなよ」
「否めません。――矢野さん、今の言葉は“症状”です。病名を自分で言えた人は、たいてい治ります」
「医者ぶるな」
「はい。稽古の先生です」
「こっちは患者か」
「矢野さんは、前衛です」
「屁理屈の名医め」
「ありがとうございます」
蓮は笑い、すぐ顔を伏せた。笑いの後で、涙の形になりそうなものを、息で押し戻す。
*
証は集まった。
遊郭の札、料亭の帳場、町人の訴え、善根宿の欄外、香具屋の奥の金の音、白い簪の「与」。
芹沢の影は、紙の上で濃くなり、手で触れられるほどの厚みを持ちはじめた。
だが、厚みは刃にはならない。刃は、夜が作る。
その夜、芹沢がまた「やらかした」。
五条の橋のたもとで駕籠の若衆に難癖を付け、脇差の鞘で頭を小突き回す。若衆の血が白い額から流れて橋板に落ちる。
「静、行く!」
蓮の身体が走る。
静の指が、また掴む。
「駄目です」
「何でだ!」
「ここで止めれば、芹沢は“乱暴だが命は奪わない男”になります」
「それでいいじゃねえか!」
「“それでいい”が、明日の“最悪”を連れてきます」
「……お前は、人を人と思っていないのか!」
橋の下を、黒い水が音なく流れる。
静は短い沈黙を挟んで、言った。
「僕は“記録に残らない人”です。人に見られなければ、人である必要もありません」
その言葉に、蓮は言葉を無くした。
正気か、狂気か。
たぶん、どちらでもあり、どちらでもない。
ただ、組を守っているのは、こういう冷たさだと、頭のどこかで理解してしまった自分が嫌だった。
夜が終わる前に、静は井戸端で桶を押さえた。
蓮は喉を洗い、額を濡らし、息を整える。
「静。……お前が言ったこと、全部は飲めない」
「はい。全部は要りません。――矢野さんが前で立てば、僕は横に立ちます」
「横、ね」
「はい。横なら、倒れません」
「勝手に決めるな」
「はい。決めます」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
桶の水面が、月を細く割った。割れた月は、すぐ繋がった。
*
会津藩の空気は、決意へ向かっていた。
「黙認は利ならず」。
紙の端に、誰かの手がそう書いたかのように、風は冷たくなった。
土方は静に、言葉少なく紙を差し出した。
「“いざ”が来たら、三枚。――迷うな」
「はい」
「近藤さんの“火”は、俺が受ける。おまえは風の温度を見ろ」
「承知しました」
総司は縁側で春風の笑みを少し痩せさせ、言った。
「静さん。あなたは人に見られないと言いましたね」
「はい」
「僕は、君を見ています」
「ありがとうございます」
「それで充分です」
近藤は隊の前で、何も言わなかった。言わないのは、信の形だ。
静と蓮は、最後の「影」を拾いに出た。
芹沢が最近通うようになった、小さな茶屋の裏口。
夕刻、灯が低く、香が薄く、茶の湯気だけが白い。
裏木戸に、また「与」の細い紙片が挟まっている。
静は指で抜き、蓮に見せた。
「返す手が、揃いました」
「返す?」
「芹沢の借り。――借りを返す夜が、自動的に“いざ”を呼びます」
「自動的、かよ」
「はい。そう設計しました」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
蓮は肩で笑い、そのまま息を吐いた。白い湯気が、灯の外で消える。
夜の京は、薄群青を深くしていく。
音は遠くから近づき、近くで低くなり、また遠ざかる。
壬生狼の名は、もう説明を要らなかった。
芹沢鴨の影は、切り取られるべき形を持ち始めた。
切り取る刃は、まだ鞘の中。
鞘の中で、冷え方を覚えている。
刃は鋭いほど、柄は冷たい。
柄の冷たさを忘れない者だけが、長く握れる。
静は、忘れない。
蓮は、忘れないように息をした。
*
翌朝、稽古場で竹の音が乾く。
静は半寸、間を詰め、蓮は“前の手前”で勝ちに入る。
打太刀の呼吸、踏み替えの土の擦れ、汗の塩の匂い――どれもが、紙に写せる音だ。
「静」
「はい」
「俺はお前の言葉を、全部は飲めない。でも、半分は飲んだ」
「ありがとうございます。半分は、十分です」
「残り半分は、俺のままにさせろ」
「はい。矢野さんのままが、前になります」
「調子に乗るな」
「はい。乗ります」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
竹の音が一度、柔らかくなった。柔らかい音は、硬い音の前ぶれだ。
紙束は、机の端で静かに待っている。
「いざ」の三枚は、もう選ばれている。
一枚は、遊郭の夜。
一枚は、料亭の金。
一枚は、路地の血。
どれもが、名の骨だ。骨は折れる。折れた骨は、紙の上で音を立てる。
その音を、刃に変える夜が来る。
京の闇は、芹沢鴨という名の影を、切り落とす準備を終えていた。
風は、刃の温度を、氷へ合わせている。
静は筆を置き、蓮の肩を叩いた。
「矢野さん。今夜は、書きません」
「剣の夜か」
「はい。――でも、書いた夜のぶんだけ、静かに斬れます」
「上等だ」
二人は立ち上がる。
名を持つ隊の、名を守るために。
記録に残らない者と、記録を書く者が、同じ速度で息を合わせる。
芹沢鴨の影は、夜の形をしていた。
夜の形は、白で縁取られる。
白は、夜の色だ。
白い余白の向こうで、寺の鐘がひとつ遅れて鳴った。
それが、合図だった。
壬生の長屋の棟木は冷え、畳の目は乾いてきしみ、竹刀の先が空気を撫でるだけで、音が遠くまで届く季節になった。京の町に“壬生狼”の名が肥えるほど、隊の中には二つの空気が育っていた。恐怖と、反発。
恐怖は声を低くし、反発は笑いを粗くする。どちらの空気も、芹沢鴨の周りで渦を巻く。慕う者は酒と声で従い、嫌う者は黙って距離を取る。会津藩の顔つきも硬くなりつつあった。いつまでも「荒ぶる鷹」を放ってはおけぬ。だが、いま「手を掛ける」わけにもいかぬ――そんな逡巡の温度が、藩邸の土塀から夜気へ染み出していた。
静と蓮は、その温度を体温に取り込むように動いた。密命は簡潔だ。「芹沢派の影を、形にせよ」。
遊郭の二階での放蕩、料亭の奥の間での密談、町人からの搾取の帳尻――それらの「証」を集める。証は紙にしか棲めない。だから、筆が剣より重くなる。
昼、善根宿の帳面の欄外に、静は赤い小点を置く。「ここに“匿名”が混ざります」。
「静。匿名は悪か?」
「悪ではありません。けれど、“追跡不能”という力を持ちます。悪に使われやすい力です」
「言い換えたな」
「言い換えが、術です」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
蓮は笑ってみせ、筆へ戻る。笑いは短い。短い笑いは、長い沈黙の前触れだ。
夜、二人は油小路の角に立った。芹沢の側近・浅葱羽織の男たちは、まるで祭り囃子のように出入りする。香の匂いは濃く、盃の音は高く、器の割れる音は低い。
蓮は石畳の欠け目を数え、静は灯の高さを数えた。灯が半寸下がると、家の息は“内”になり、刃の速度が変わる。
その夜の紙には、こう記された。
――「三条・『松葉屋』。芹沢、夜半入座。上座に座る。盃の音、高し(七)。器、割れる(小)。金の音、三。……」
羅列だ。羅列に血は通っていない。だが、血を通わせるのは明日の朝の仕事ではない。いつか来る「いざ」の朝に、羅列は心臓に化ける。静はそれを知っていた。
*
芹沢の影は、夜ごと濃くなった。
ある晩、酒の勢いで路地の商家の男と口論になり、芹沢が拳を振るった。男は壁に頭を打ちつけ、ずるりと座り込む。目の白が上へ滑り、口から薄い音がこぼれる。
「静――」
蓮の足は、意思より先に石畳を蹴っていた。
静の指が袖を掴む。冷えた、しかし確かな指だ。
「今は、まだ駄目です」
「やめろ。今だろ」
「今では、ありません」
蓮の視界に、男の血の赤がじわりと広がる。赤は温度を持つ。温度は思考を焼く。
「見殺しにすんのか」
「死ぬべき時に死なせます。――それが、僕らの役目です」
「……人でなしが」
「はい」
静は肯う。肯い方が、遅れて自分を刺す言葉を受け止めやすい。
芹沢は笑い、袖で口を拭い、供を連れて去った。笑いの尾が路地に残る。尾は、紙で掴める。
その夜の記録は短く、重かった。
――「四条魚棚町・路地。芹沢、町人と衝突。被害者:伊助、年三十余。意識混濁。立会:芹沢供二、遊女一。……」
蓮は筆を置いて、井戸で手首を冷やした。
「静。俺ら、剣、持ってるよな」
「はい」
「じゃあ、なんで抜かない」
「抜けば、町が壊れます。――抜かずに、芹沢が壊れる夜を探します」
「いつ」
「“いざ”の時です」
「それは、お前が決めるのか」
「決めません。来ます。――来る場所を、僕らが用意します」
蓮は唇の裏を噛み、血の味を舌で消した。味はすぐ消えるが、感覚は残る。残った感覚が、次の夜の足を止める。
*
隊内の空気は二つに裂けた。
芹沢に肩入れする連中は、酒の量で自分の声の太さを測る。
嫌う連中は、夜の灯を低くし、足の音を消す。
近藤は笑って「おまえら、ようやっとる」と言うが、その笑いの端には疲れがあった。
総司は春の笑みの角をひとつ折り、「静。君の白、染みすぎる」と小さく言った。
土方は黙って紙をめくり、必要な三枚だけを抜く。三枚あれば足りる。三枚に絞る。絞った紙は、刃の長さと同じだ。
蓮の胸に、日を追うごとに重りが増した。
剣を抜かず、ただ追い、ただ書く。
書くことが、人の命を削る。
いくら理で飾っても、腹は抗う。腹の抗いは、眠りの質を落とす。
ある夜、蓮は稽古場で竹刀を握り、床に座り込んだ。
「静。俺、人を人とも思わないような気がしてきた」
「はい」
「お前、肯くなよ」
「否めません。――矢野さん、今の言葉は“症状”です。病名を自分で言えた人は、たいてい治ります」
「医者ぶるな」
「はい。稽古の先生です」
「こっちは患者か」
「矢野さんは、前衛です」
「屁理屈の名医め」
「ありがとうございます」
蓮は笑い、すぐ顔を伏せた。笑いの後で、涙の形になりそうなものを、息で押し戻す。
*
証は集まった。
遊郭の札、料亭の帳場、町人の訴え、善根宿の欄外、香具屋の奥の金の音、白い簪の「与」。
芹沢の影は、紙の上で濃くなり、手で触れられるほどの厚みを持ちはじめた。
だが、厚みは刃にはならない。刃は、夜が作る。
その夜、芹沢がまた「やらかした」。
五条の橋のたもとで駕籠の若衆に難癖を付け、脇差の鞘で頭を小突き回す。若衆の血が白い額から流れて橋板に落ちる。
「静、行く!」
蓮の身体が走る。
静の指が、また掴む。
「駄目です」
「何でだ!」
「ここで止めれば、芹沢は“乱暴だが命は奪わない男”になります」
「それでいいじゃねえか!」
「“それでいい”が、明日の“最悪”を連れてきます」
「……お前は、人を人と思っていないのか!」
橋の下を、黒い水が音なく流れる。
静は短い沈黙を挟んで、言った。
「僕は“記録に残らない人”です。人に見られなければ、人である必要もありません」
その言葉に、蓮は言葉を無くした。
正気か、狂気か。
たぶん、どちらでもあり、どちらでもない。
ただ、組を守っているのは、こういう冷たさだと、頭のどこかで理解してしまった自分が嫌だった。
夜が終わる前に、静は井戸端で桶を押さえた。
蓮は喉を洗い、額を濡らし、息を整える。
「静。……お前が言ったこと、全部は飲めない」
「はい。全部は要りません。――矢野さんが前で立てば、僕は横に立ちます」
「横、ね」
「はい。横なら、倒れません」
「勝手に決めるな」
「はい。決めます」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
桶の水面が、月を細く割った。割れた月は、すぐ繋がった。
*
会津藩の空気は、決意へ向かっていた。
「黙認は利ならず」。
紙の端に、誰かの手がそう書いたかのように、風は冷たくなった。
土方は静に、言葉少なく紙を差し出した。
「“いざ”が来たら、三枚。――迷うな」
「はい」
「近藤さんの“火”は、俺が受ける。おまえは風の温度を見ろ」
「承知しました」
総司は縁側で春風の笑みを少し痩せさせ、言った。
「静さん。あなたは人に見られないと言いましたね」
「はい」
「僕は、君を見ています」
「ありがとうございます」
「それで充分です」
近藤は隊の前で、何も言わなかった。言わないのは、信の形だ。
静と蓮は、最後の「影」を拾いに出た。
芹沢が最近通うようになった、小さな茶屋の裏口。
夕刻、灯が低く、香が薄く、茶の湯気だけが白い。
裏木戸に、また「与」の細い紙片が挟まっている。
静は指で抜き、蓮に見せた。
「返す手が、揃いました」
「返す?」
「芹沢の借り。――借りを返す夜が、自動的に“いざ”を呼びます」
「自動的、かよ」
「はい。そう設計しました」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
蓮は肩で笑い、そのまま息を吐いた。白い湯気が、灯の外で消える。
夜の京は、薄群青を深くしていく。
音は遠くから近づき、近くで低くなり、また遠ざかる。
壬生狼の名は、もう説明を要らなかった。
芹沢鴨の影は、切り取られるべき形を持ち始めた。
切り取る刃は、まだ鞘の中。
鞘の中で、冷え方を覚えている。
刃は鋭いほど、柄は冷たい。
柄の冷たさを忘れない者だけが、長く握れる。
静は、忘れない。
蓮は、忘れないように息をした。
*
翌朝、稽古場で竹の音が乾く。
静は半寸、間を詰め、蓮は“前の手前”で勝ちに入る。
打太刀の呼吸、踏み替えの土の擦れ、汗の塩の匂い――どれもが、紙に写せる音だ。
「静」
「はい」
「俺はお前の言葉を、全部は飲めない。でも、半分は飲んだ」
「ありがとうございます。半分は、十分です」
「残り半分は、俺のままにさせろ」
「はい。矢野さんのままが、前になります」
「調子に乗るな」
「はい。乗ります」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
竹の音が一度、柔らかくなった。柔らかい音は、硬い音の前ぶれだ。
紙束は、机の端で静かに待っている。
「いざ」の三枚は、もう選ばれている。
一枚は、遊郭の夜。
一枚は、料亭の金。
一枚は、路地の血。
どれもが、名の骨だ。骨は折れる。折れた骨は、紙の上で音を立てる。
その音を、刃に変える夜が来る。
京の闇は、芹沢鴨という名の影を、切り落とす準備を終えていた。
風は、刃の温度を、氷へ合わせている。
静は筆を置き、蓮の肩を叩いた。
「矢野さん。今夜は、書きません」
「剣の夜か」
「はい。――でも、書いた夜のぶんだけ、静かに斬れます」
「上等だ」
二人は立ち上がる。
名を持つ隊の、名を守るために。
記録に残らない者と、記録を書く者が、同じ速度で息を合わせる。
芹沢鴨の影は、夜の形をしていた。
夜の形は、白で縁取られる。
白は、夜の色だ。
白い余白の向こうで、寺の鐘がひとつ遅れて鳴った。
それが、合図だった。



