新学期の朝は、黒板の硬い白と、廊下のガラスに貼りついた冷えた空気の匂いでできている。下駄箱の前に人の流れが集まって、ぎゅっと詰んだ声が天井で反響する。誰かのマフラーに付いた毛糸がふわりと落ち、誰かがそれを拾って傘立ての端に乗せる。その小さな親切が、教室の温度を半度上げる。
“付き合っている”ことを、天峰(あまみね)司と星川(ほしかわ)湊は、わざわざ言わない。言わないけれど、校内の空気は薄々察している。察する、というのは公と私の間に挟まる透明の膜の厚みの話だ。厚みは人によって違うが、冬の間に、みんな少しだけ薄くなる。薄くなった膜は、指で押せばたわみ、押さなくても光を通す。
昇降口の掲示板の端には、例の写真コーナー〈今日の隣〉が、年をまたいでも静かな人気を保っていた。白い厚紙に差し込まれた写真が七枚、縦に並ぶ。キャプションは短い。署名はない。それでも、見た人はだいたい、誰が撮って誰が書いたか、勘で分かる。勘は、理屈より早く届く真実のひとつだ。そこに最近、ちいさな変化が加わった。キャプションの言葉が、ほんの時々、言い回しの“癖”を入れ替えるのだ。いつも厳密な語を選ぶ人が、ある朝は“ゆるい”言い方をし、いつも風景を擬人化しがちな人が、ある夕方は“定義”を持ち込む。見る人は首をかしげ、「視点が混ざってる?」と囁く。囁きは、やさしい推理の音だ。
そんな空気を横目に、広報委員会の部屋では、春の文化計画が進んでいる。春といっても、まだ風は刺す。ポスターの貼り替えスケジュール、イベントの予告、借用掲示板の新レイアウト。広報委員の先輩が、資料の束を抱え、二人のところへ歩いてきた。
「第二弾、いこう。ポスター。“青と白”の続編、今度は“スポーツ×図書”で」
天峰は、紙の端をきれいに揃える癖のまま、眉を一ミリだけ上げた。
「異分野融合」
「そう。異分野って言うな、青春コラボって言え」
星川は、笑って肩をすくめた。
「無茶振り、嫌いじゃない。ボール担いでどこ入ればいい?」
「図書室の手前の廊下! 午後の斜光が入る時間帯。天峰は、分厚い本を三冊くらい抱える。タイトル見えると宣伝になる。——“勉強”“運動”、両方の正義を同じ画面に入れる」
「正義の共存、了解」
「言い方!」
写真部の先輩も乗り気だ。前回の“青と白”が校内の未だかつてない反響を呼んだことに気をよくし、今度は「図書室前の廊下の質感、絶対良い」などと、廊下に照明の試し撮りをしている。放課後、指定された時間に二人が向かうと、すでにレフ板と三脚が整然と並んでいた。窓から差し込む光は冬の角度で、紙の繊維を撫で、真鍮のドアノブに薄い金色を置く。
「構図は、背中合わせ」
先輩は、カメラの背面を確認しながら指示する。
「湊はボールを右肩に、肘を少し上げる。司は本を胸に抱えて、左肩を下げる。二人の肩線が矢印になる感じ。——そう、いいよ。視線は、最初は外。二枚目、同じタイミングでほんの少しだけ内側に。三枚目、笑いを我慢」
「笑いを我慢って、いちばん難しいやつ」
「知ってる。さ、テストいくよ」
シャッター音が、廊下の奥まで跳ね返る。扉の影が二人の足元に伸びて、フレームに入る。背中と背中が触れそうで触れない距離。肩甲骨の位置が、互いの呼吸の深さを伝える。天峰は、本を抱える腕の握りを少し緩め、背中越しに言った。
「君、肩が上がりすぎている」
「緊張だよ。背中、近いから」
「なら、下げる」
天峰の背中が、ほんの半歩ぶんだけ重みを預ける。その少しの“預け”だけで、肩の高さが自然に落ちる。レンズの向こうで、先輩が「いま!」と嬉しそうな声を上げる。二枚、三枚。背中合わせの構図が、画面の中で強い意味を持ち始める。バスケットボールのオレンジと、図書の背表紙の青と白。校内の風景を象徴する色が、ひとつのフレームで落ち着く場所を見つける。
テストの合間。レフ板の角度を調整するために少し時間が空いた。廊下の先では、委員会帰りの生徒がまばらに行き来する。湊はボールを膝で軽く弾ませ、息を合わせるように止めたまま口を開いた。
「なあ」
「何」
「俺、まだおまえに勝ちたい」
天峰は、迷いのない目で湊を見た。勝ちたい、という語は、彼らの辞書で古いページにある言葉だ。けれど、古い語は捨てない。使い方を更新する。
「どの分野で」
「人を好きになる勇気で」
ボールが、膝の上で一度だけ低く鳴った。湊は笑っていない。笑っていないときの声の方が、誠実だということを、天峰は知っている。冬の斜光が湊の耳の端に引っかかり、赤を薄く透かす。
「勝敗は不要。同点でいい」
間髪を入れず、天峰は言った。定義を更新する声の速さだった。
湊は、目を丸くして、それから笑った。笑いは音になって、レフ板の銀に跳ね返る。
「それ、ずるい勝ち方」
「勝たない方法の最短経路だ」
「翻訳:一緒に勝つ」
「そう」
先輩が「本番、いくよー!」と呼ぶ。二人は背中合わせの位置に戻り、視線をそれぞれの“外”に置き、合図でほんの少しだけ内側にずらす。画面の中で二人の輪郭が、ゆっくりと交わる。シャッターは連続で切られる。背中合わせが、向き合う前の“準備体操”だと、撮られながら、彼ら自身が理解する。
撮影は順調に終わった。最後の確認で、カメラのモニターに映る自分たちを見ながら、湊は肩越しに小声で言う。
「“張り合い”、更新すっか」
「定義の再構築」
「“点数や票”じゃなくてさ、“隣でどれだけ日常を面白くできるか”——それ、競技にしよう」
「可能だ。採点基準は“笑いの回数”“救われた回数”“安心の持続時間”」
「理数系は指標作るの好きだな」
「計測できないものもある」
「じゃ、そこは主観で」
「主観の相互承認」
「はい、もう勝てない」
彼らは、新しい“張り合い”を、その場で軽く握手するみたいに取り決めた。誰かに承認される必要はない競技。競技場は、朝の昇降口、授業中のメモ、放課後の体育館の片隅——日常のあらゆる薄い場所だ。
翌日から、その競技は静かに始まった。
朝の昇降口。湊が靴を履き替えるわずかな時間に、天峰が表情だけで「眠いか」と問う。湊は目尻を緩めて「眠いけど、うれしい」と返す。言葉は要らない。目の端の皺の数で、得点が入る。
授業中。ノートの端に、細い鉛筆の線で矢印が描かれる。〈この問題、解ける〉という無地の励ましと、〈放課後、階段の踊り場の光、見に行く〉という約束の走り書き。返事は、〈解けた。光、晴れ〉。文字は小さい。小さいが、昼休みまで持つ熱量がある。教科書のページをめくる音に重ならない種類の、静かな歓声が二人の間だけに立つ。
部活後。湊が足首のアイシングをするとき、天峰は“氷嚢を置く角度の最適化”を当たり前の手際でやる。氷が肌に乗る冷たさを最初の十秒で馴致させ、痺れる前に軽く位置を変える。湊が「痛い」と言う前に、手が動く。湊は笑いながら「おまえの“合理”って、ときどき“甘やかし”の顔してる」と言い、天峰は「合理は、人を救う」と真面目に返す。真面目さで笑いが増える。得点。
〈今日の隣〉は、そんな日々の小さな試合の記録になった。写真は相変わらず匿名なのに、キャプションはときどき二人の“混ざり”を見せる。たとえば、黒板消しの粉が窓に浮かぶ一枚に、〈白いノイズも、合図にできる〉という文字。体育館の床の線が増えた写真に、〈昨日の直線、今日の分岐。——行け〉という、どこかで聞いた短い命令の残響。図書室のページの影の写真に、〈余白の読み方、君に習う〉と、普段なら詩を避ける男が珍しく詩的に書く。見る誰かが、写真の前でふっと笑う。笑い方が柔らかい。柔らかい笑いは連鎖する。連鎖は、校内のトゲをひとつずつ丸める。かつて「どっち派」で荒れたコメント欄の人たちも、写真の前では立ち止まって、目に見えない拍手を一拍だけ打つようになった。
さらに、〈今日の隣〉は進化した。週に一度、写真の下に小さな“空白キャプションカード”が貼られるようになった。誰でも一言書けるスペース。指で触れると書ける特殊紙で、すぐに消せる。朝に誰かが〈おはよう〉と書き、昼に別の誰かが〈間に合った〉と書く。夕方には〈明日も見る〉。匿名が匿名を呼び、書かれた言葉は、翌朝にはふわっと消える。それでも、書いた人の胸には残る。見た人の足取りも、少しだけ変わる。校内の名物が、静かに“共用の心拍”になっていく。
広報委員会は第二弾ポスターを廊下に貼り出した。背中合わせの二人。バスケボールのオレンジが冬の光を拾い、図書の背表紙の白と青が静かに並ぶ。タイトルは〈読んで、走って、隣で〉。写真部の先輩は、得意げに親指を立てた。見上げる生徒たちの視線に、からかいが少ない。からかう必要が、薄れているのだ。からかいは、距離を測る道具でもある。距離が測れたら、道具はしまえる。
それでも、日々は完璧ではない。成績が思ったように伸びない日もある。試合で指先が重い日もある。校内SNSで誰かが拗ねる夜も、世界の片隅にある。そんな日に限って、昇降口で朝の会話がうまく始まらないこともある。会話の歯車は、小さい。だからこそ、噛み合うときに音がしない。噛み合わない日には、二人は無理をしない。〈今日の隣〉のキャプションが、代わりに一言を言う。〈“今は無理”は“ずっと無理”ではありません〉。テンプレの延長であり、昨日の夜の延長であり、未来の夜の予告でもある。
新学期の中盤、雪の予報が一度だけ外れた午後。湊は、階段の踊り場の光をまぶたに載せ、手すりに肘を置きながら尋ねた。
「俺たち、この先もずっと張り合えるかな」
質問の形だけど、未来への挨拶に近い。天峰は、間髪入れずに答えた。
「君が隣に居続ける限り」
言い方はいつも通り淡々としている。けれど「限り」という日本語のささやかなルールが、このときばかりはやけに心地よく響く。限界の線は、隣である限り伸び続ける。伸び続ける線は、直線でも曲線でもいい。湊は笑い、その笑いの勢いで、少しだけ手を握った。手袋なしの、素手の季節。掌の温度が重なる。重ねた時間の分だけ、手の握り方は自然になる。自然な握り方は、写真に映らない種類の“強さ”を持つ。
春の試験前、図書室では、自習のざわめきがいつもより続いた。天峰は湊に、難しい問題の図表の読み方を小声で説明する。矢印を二本だけ引き、式を一行減らす。減らした一行の分だけ、湊の眉間の皺が浅くなる。湊は逆に、体育館で新しく導入されたフットワーク練習を、無駄のない動きで教える。「膝、内側、半歩」。体育祭のときに覚えた教え方が、ここで役に立つ。役に立つたび、あの日の白線の手触りが胸に戻ってくる。
週末、二人は“公開”と“非公開”の境目の遊び方を、少しずつ覚えていく。〈今日の隣〉の補充写真を撮るとき、湊は「目線、右上」と小声で言い、天峰は「記録、完了」とつぶやく。写真部が偶然通りかかり、「二人、いまの距離、最高」とニヤつく。彼らは視線を合わせずに「匿名で」とだけ告げる。匿名のルールは、信用で運用される。信用は、少しずつ固くなる。
ある日、掲示板の前で、かつて過激に“どっち派”を名乗っていた上級生が、下級生の肩を軽く叩きながら、写真のキャプションを指して言った。
「これ、良くない? “角を曲がる前に、呼吸が合う”」
「わかります。先輩、誰と呼吸合わせたいんです?」
「うるさい」
二人とも、笑っている。笑いは“連番推し”の軽薄さを少しだけ洗う。洗われた場所には、余白が生まれる。余白に人は優しくなる。優しさの小さな連鎖が、校内のどこかで今日も続く。——それ自体が、“張り合いの得点”になるのだとすれば、競技はすでに始まり、静かに勝ちつづけている。
放課後の屋上に、夕暮れが早い。冬の終わりの夕陽は、色の温度を急速に失って、代わりに輪郭を濃くする。風は弱く、ポスターの端がもう鳴らない。写真部の先輩が、第二弾の「別バージョン」を撮りたいと、またしても無茶振りをしてきたのだ。「夕暮れ、屋上、背中合わせからゆっくり向き直る連続カット」。映えるシーンは、撮る前から映えている。
「いくよ。背中合わせ——湊、ボールは足元に置いて。司、本は背中越しに抱え直して。——合図で、ゆっくり向き直る。目線は、最初は肩。次に、喉元。最後に、目」
「細かい」
「細かくて、いいの」
合図。二人は同時に、ゆっくりと向き直る。風が前髪をほんの少しだけ持ち上げる。夕陽が瞳の奥の暗い色を拾って、一瞬だけ金を溶かす。目線が、肩から喉へ、喉から目へ。動きは遅いほど、心拍が上がる。上がった心拍は、互いの掌の温度で静まる。静まる前の高まりだけを、カメラはちゃんと拾う。
向き合ってから、湊が笑って先手を取る。
「次の勝負、朝の“おはよう”をどっちが先に言うか」
「君が先で」
「や、負けない」
「同点でいい」
「ずる」
「勝敗は不要」
「はいはい、参りました」
笑いが夕空に落ちる。落ちるというより、薄い空の真上に貼り付く。屋上のフェンスの影が床に長く伸び、二人の影と少しだけ重なる。背中合わせからゆっくり向き直り、同じフレームに収まる。——映えるシーンのカタログ通りに、しかしカタログ以上の意味で、その瞬間は成立した。
撮影が終わり、写真部が機材をまとめて去ったあと、屋上には二人だけが残る。夕陽は最後の一息を吐き、遠くのビルの縁にかかりながら、色の粒を落とす。風がやんで、音が薄くなる。湊は、フェンスにもたれ、空を見上げた。
「卒業、遠いな」
「遠い」
「遠いの、好きだ。遠いから、計画できる」
「私も同意する」
「……俺さ、ずっと張り合ってたい。おまえと」
「張り合いの定義は、更新済みだ」
「確認させろ」
「“隣でどれだけ日常を面白くできるか”。勝敗は不要。同点でいい」
「それ、ずるい勝ち方」
「採用された」
「もう。——でもさ、そのルール、俺、好きだ」
湊は言いながら、指先で天峰の袖をちょんと引いた。昔から変わらない、控えめな引力。布が一センチ動く。合図の代わりに、彼はそっと手を握る。握り方は、冬から春に移る前の、まだ慎重な力加減。天峰も、同じ力で握り返す。手のひらの真ん中で、「大丈夫」がひとつだけ確定する。
校内のどこかでは、掲示板の前で誰かが〈今日の隣〉を眺めている。黒板の粉。踊り場の光。体育館の傷。傘立ての濡れ跡。自販機の十円。図書室の毛糸玉。そして、夕暮れの渡り廊下に写る二人の影。観客の微笑は、小さく、長い。微笑は、写真より長持ちする合図だ。合図が増えるたび、校内の空気はやわらかく上書きされていく。
夜、湊は帰り道のコンビニでアイスを二本買った。寒いのに、アイスを買う理由は“冬季特別料金”のペナルティがあるからではない。幸せの定義が、簡単な食べ物の形をしている夜がある。彼は一つを天峰に手渡し、もう一つを自分の口に当てる。
「勝ち負けなし。うまい」
「同意」
「それ、ずるい勝ち方」
「採用」
二人の笑いは、屋上の夕陽と同じ色で、夜の空気の上に薄く流れた。校舎の窓には明日のための光が小さく残り、昇降口のガラスには、今夜のための見えない指紋がつく。指紋は、朝にはもう見えない。見えないものが、いちばん長く残る。
翌朝。昇降口の喧騒の中で、二人の視線が一度だけぶつかる。湊が、ほんの一瞬、吸い込みにかかった息を飲み込む。「おはよ——」と言いかけたのを、天峰の「おはよう」が一秒早く追い越した。湊は目を丸くし、次の瞬間、肩で小突いて笑う。
「負けた」
「同点でいい」
「でも、負けた」
「では、今日の“同点”に一票」
「何それ」
「新ルール」
ルールは増える。増えるたびに、日常は面白くなる。面白さは、写真に写らない。写らないから、〈今日の隣〉は続く。匿名のキャプションは、今日も誰かの朝を救い、誰かの夕方を笑わせる。混ざる視点は、読む人の視点も少しだけ混ぜる。混ざった視点で見た世界は、昨日の世界よりやさしい。
教室の窓際で、湊が手帳を開く。背後から、天峰が静かに覗き込む。ページの余白に、二人は今日の合図を一つだけ書き込む。〈張り合いの定義——更新完了〉。文字は小さい。けれど、はっきりしている。消しゴムでこすっても消えない種類の痕になる。
夕暮れ、屋上。第二弾ポスター用の連続ショットの中から選ばれた一枚が、掲示板の中央に大きく貼られた。背中合わせから向き直る途中の瞬間。肩線が矢印になり、目線がまだ完全には交差していない。余白の方が多い写真。余白の強さを知っている写真。タイトルは、シンプルに〈張り合いの定義〉。
誰かが見上げて、微笑む。誰かが隣の誰かに、「これ、好き」と囁く。囁きは、明日の朝の“おはよう”を一秒早くする効能がある。効能の連鎖は、校内の見えないところで静かに続く。
“この二人をずっと見守っていたい♡”——そんな読後感は、ポスターの前で立ち止まった人の胸の中に、確かに残る。残ったものは、春の風で飛ばない。飛ばないように、〈今日の隣〉のカードの角を、誰かがそっと撫でる。撫でられた紙が、小さく鳴る。鳴った音は、二人の“同点”にもう一票を投じる。
張り合いは、終わらない。終わりにしない。点数も、票も、もう要らない。必要なのは、朝の「おはよう」を先に言う勇気と、夜の「おやすみ」を丁寧に置く礼儀。勝敗は不要。同点でいい。——それが、今のところの、彼らの“ハッピーの固定”だ。
固定したものは、壊れやすい。だからこそ、毎朝、毎夕、軽く上書きする。上書きするたび、線はやわらかくなり、色は深くなる。〈今日の隣〉の見出しは、明日も変わらずそこにある。二人が背中合わせから向き直る速度は、明日もきっと同じだ。遅いほど、美しい。遅いほど、長く続く。続くものを選び続けるという張り合いは、今日も静かに、勝ち続けている。
“付き合っている”ことを、天峰(あまみね)司と星川(ほしかわ)湊は、わざわざ言わない。言わないけれど、校内の空気は薄々察している。察する、というのは公と私の間に挟まる透明の膜の厚みの話だ。厚みは人によって違うが、冬の間に、みんな少しだけ薄くなる。薄くなった膜は、指で押せばたわみ、押さなくても光を通す。
昇降口の掲示板の端には、例の写真コーナー〈今日の隣〉が、年をまたいでも静かな人気を保っていた。白い厚紙に差し込まれた写真が七枚、縦に並ぶ。キャプションは短い。署名はない。それでも、見た人はだいたい、誰が撮って誰が書いたか、勘で分かる。勘は、理屈より早く届く真実のひとつだ。そこに最近、ちいさな変化が加わった。キャプションの言葉が、ほんの時々、言い回しの“癖”を入れ替えるのだ。いつも厳密な語を選ぶ人が、ある朝は“ゆるい”言い方をし、いつも風景を擬人化しがちな人が、ある夕方は“定義”を持ち込む。見る人は首をかしげ、「視点が混ざってる?」と囁く。囁きは、やさしい推理の音だ。
そんな空気を横目に、広報委員会の部屋では、春の文化計画が進んでいる。春といっても、まだ風は刺す。ポスターの貼り替えスケジュール、イベントの予告、借用掲示板の新レイアウト。広報委員の先輩が、資料の束を抱え、二人のところへ歩いてきた。
「第二弾、いこう。ポスター。“青と白”の続編、今度は“スポーツ×図書”で」
天峰は、紙の端をきれいに揃える癖のまま、眉を一ミリだけ上げた。
「異分野融合」
「そう。異分野って言うな、青春コラボって言え」
星川は、笑って肩をすくめた。
「無茶振り、嫌いじゃない。ボール担いでどこ入ればいい?」
「図書室の手前の廊下! 午後の斜光が入る時間帯。天峰は、分厚い本を三冊くらい抱える。タイトル見えると宣伝になる。——“勉強”“運動”、両方の正義を同じ画面に入れる」
「正義の共存、了解」
「言い方!」
写真部の先輩も乗り気だ。前回の“青と白”が校内の未だかつてない反響を呼んだことに気をよくし、今度は「図書室前の廊下の質感、絶対良い」などと、廊下に照明の試し撮りをしている。放課後、指定された時間に二人が向かうと、すでにレフ板と三脚が整然と並んでいた。窓から差し込む光は冬の角度で、紙の繊維を撫で、真鍮のドアノブに薄い金色を置く。
「構図は、背中合わせ」
先輩は、カメラの背面を確認しながら指示する。
「湊はボールを右肩に、肘を少し上げる。司は本を胸に抱えて、左肩を下げる。二人の肩線が矢印になる感じ。——そう、いいよ。視線は、最初は外。二枚目、同じタイミングでほんの少しだけ内側に。三枚目、笑いを我慢」
「笑いを我慢って、いちばん難しいやつ」
「知ってる。さ、テストいくよ」
シャッター音が、廊下の奥まで跳ね返る。扉の影が二人の足元に伸びて、フレームに入る。背中と背中が触れそうで触れない距離。肩甲骨の位置が、互いの呼吸の深さを伝える。天峰は、本を抱える腕の握りを少し緩め、背中越しに言った。
「君、肩が上がりすぎている」
「緊張だよ。背中、近いから」
「なら、下げる」
天峰の背中が、ほんの半歩ぶんだけ重みを預ける。その少しの“預け”だけで、肩の高さが自然に落ちる。レンズの向こうで、先輩が「いま!」と嬉しそうな声を上げる。二枚、三枚。背中合わせの構図が、画面の中で強い意味を持ち始める。バスケットボールのオレンジと、図書の背表紙の青と白。校内の風景を象徴する色が、ひとつのフレームで落ち着く場所を見つける。
テストの合間。レフ板の角度を調整するために少し時間が空いた。廊下の先では、委員会帰りの生徒がまばらに行き来する。湊はボールを膝で軽く弾ませ、息を合わせるように止めたまま口を開いた。
「なあ」
「何」
「俺、まだおまえに勝ちたい」
天峰は、迷いのない目で湊を見た。勝ちたい、という語は、彼らの辞書で古いページにある言葉だ。けれど、古い語は捨てない。使い方を更新する。
「どの分野で」
「人を好きになる勇気で」
ボールが、膝の上で一度だけ低く鳴った。湊は笑っていない。笑っていないときの声の方が、誠実だということを、天峰は知っている。冬の斜光が湊の耳の端に引っかかり、赤を薄く透かす。
「勝敗は不要。同点でいい」
間髪を入れず、天峰は言った。定義を更新する声の速さだった。
湊は、目を丸くして、それから笑った。笑いは音になって、レフ板の銀に跳ね返る。
「それ、ずるい勝ち方」
「勝たない方法の最短経路だ」
「翻訳:一緒に勝つ」
「そう」
先輩が「本番、いくよー!」と呼ぶ。二人は背中合わせの位置に戻り、視線をそれぞれの“外”に置き、合図でほんの少しだけ内側にずらす。画面の中で二人の輪郭が、ゆっくりと交わる。シャッターは連続で切られる。背中合わせが、向き合う前の“準備体操”だと、撮られながら、彼ら自身が理解する。
撮影は順調に終わった。最後の確認で、カメラのモニターに映る自分たちを見ながら、湊は肩越しに小声で言う。
「“張り合い”、更新すっか」
「定義の再構築」
「“点数や票”じゃなくてさ、“隣でどれだけ日常を面白くできるか”——それ、競技にしよう」
「可能だ。採点基準は“笑いの回数”“救われた回数”“安心の持続時間”」
「理数系は指標作るの好きだな」
「計測できないものもある」
「じゃ、そこは主観で」
「主観の相互承認」
「はい、もう勝てない」
彼らは、新しい“張り合い”を、その場で軽く握手するみたいに取り決めた。誰かに承認される必要はない競技。競技場は、朝の昇降口、授業中のメモ、放課後の体育館の片隅——日常のあらゆる薄い場所だ。
翌日から、その競技は静かに始まった。
朝の昇降口。湊が靴を履き替えるわずかな時間に、天峰が表情だけで「眠いか」と問う。湊は目尻を緩めて「眠いけど、うれしい」と返す。言葉は要らない。目の端の皺の数で、得点が入る。
授業中。ノートの端に、細い鉛筆の線で矢印が描かれる。〈この問題、解ける〉という無地の励ましと、〈放課後、階段の踊り場の光、見に行く〉という約束の走り書き。返事は、〈解けた。光、晴れ〉。文字は小さい。小さいが、昼休みまで持つ熱量がある。教科書のページをめくる音に重ならない種類の、静かな歓声が二人の間だけに立つ。
部活後。湊が足首のアイシングをするとき、天峰は“氷嚢を置く角度の最適化”を当たり前の手際でやる。氷が肌に乗る冷たさを最初の十秒で馴致させ、痺れる前に軽く位置を変える。湊が「痛い」と言う前に、手が動く。湊は笑いながら「おまえの“合理”って、ときどき“甘やかし”の顔してる」と言い、天峰は「合理は、人を救う」と真面目に返す。真面目さで笑いが増える。得点。
〈今日の隣〉は、そんな日々の小さな試合の記録になった。写真は相変わらず匿名なのに、キャプションはときどき二人の“混ざり”を見せる。たとえば、黒板消しの粉が窓に浮かぶ一枚に、〈白いノイズも、合図にできる〉という文字。体育館の床の線が増えた写真に、〈昨日の直線、今日の分岐。——行け〉という、どこかで聞いた短い命令の残響。図書室のページの影の写真に、〈余白の読み方、君に習う〉と、普段なら詩を避ける男が珍しく詩的に書く。見る誰かが、写真の前でふっと笑う。笑い方が柔らかい。柔らかい笑いは連鎖する。連鎖は、校内のトゲをひとつずつ丸める。かつて「どっち派」で荒れたコメント欄の人たちも、写真の前では立ち止まって、目に見えない拍手を一拍だけ打つようになった。
さらに、〈今日の隣〉は進化した。週に一度、写真の下に小さな“空白キャプションカード”が貼られるようになった。誰でも一言書けるスペース。指で触れると書ける特殊紙で、すぐに消せる。朝に誰かが〈おはよう〉と書き、昼に別の誰かが〈間に合った〉と書く。夕方には〈明日も見る〉。匿名が匿名を呼び、書かれた言葉は、翌朝にはふわっと消える。それでも、書いた人の胸には残る。見た人の足取りも、少しだけ変わる。校内の名物が、静かに“共用の心拍”になっていく。
広報委員会は第二弾ポスターを廊下に貼り出した。背中合わせの二人。バスケボールのオレンジが冬の光を拾い、図書の背表紙の白と青が静かに並ぶ。タイトルは〈読んで、走って、隣で〉。写真部の先輩は、得意げに親指を立てた。見上げる生徒たちの視線に、からかいが少ない。からかう必要が、薄れているのだ。からかいは、距離を測る道具でもある。距離が測れたら、道具はしまえる。
それでも、日々は完璧ではない。成績が思ったように伸びない日もある。試合で指先が重い日もある。校内SNSで誰かが拗ねる夜も、世界の片隅にある。そんな日に限って、昇降口で朝の会話がうまく始まらないこともある。会話の歯車は、小さい。だからこそ、噛み合うときに音がしない。噛み合わない日には、二人は無理をしない。〈今日の隣〉のキャプションが、代わりに一言を言う。〈“今は無理”は“ずっと無理”ではありません〉。テンプレの延長であり、昨日の夜の延長であり、未来の夜の予告でもある。
新学期の中盤、雪の予報が一度だけ外れた午後。湊は、階段の踊り場の光をまぶたに載せ、手すりに肘を置きながら尋ねた。
「俺たち、この先もずっと張り合えるかな」
質問の形だけど、未来への挨拶に近い。天峰は、間髪入れずに答えた。
「君が隣に居続ける限り」
言い方はいつも通り淡々としている。けれど「限り」という日本語のささやかなルールが、このときばかりはやけに心地よく響く。限界の線は、隣である限り伸び続ける。伸び続ける線は、直線でも曲線でもいい。湊は笑い、その笑いの勢いで、少しだけ手を握った。手袋なしの、素手の季節。掌の温度が重なる。重ねた時間の分だけ、手の握り方は自然になる。自然な握り方は、写真に映らない種類の“強さ”を持つ。
春の試験前、図書室では、自習のざわめきがいつもより続いた。天峰は湊に、難しい問題の図表の読み方を小声で説明する。矢印を二本だけ引き、式を一行減らす。減らした一行の分だけ、湊の眉間の皺が浅くなる。湊は逆に、体育館で新しく導入されたフットワーク練習を、無駄のない動きで教える。「膝、内側、半歩」。体育祭のときに覚えた教え方が、ここで役に立つ。役に立つたび、あの日の白線の手触りが胸に戻ってくる。
週末、二人は“公開”と“非公開”の境目の遊び方を、少しずつ覚えていく。〈今日の隣〉の補充写真を撮るとき、湊は「目線、右上」と小声で言い、天峰は「記録、完了」とつぶやく。写真部が偶然通りかかり、「二人、いまの距離、最高」とニヤつく。彼らは視線を合わせずに「匿名で」とだけ告げる。匿名のルールは、信用で運用される。信用は、少しずつ固くなる。
ある日、掲示板の前で、かつて過激に“どっち派”を名乗っていた上級生が、下級生の肩を軽く叩きながら、写真のキャプションを指して言った。
「これ、良くない? “角を曲がる前に、呼吸が合う”」
「わかります。先輩、誰と呼吸合わせたいんです?」
「うるさい」
二人とも、笑っている。笑いは“連番推し”の軽薄さを少しだけ洗う。洗われた場所には、余白が生まれる。余白に人は優しくなる。優しさの小さな連鎖が、校内のどこかで今日も続く。——それ自体が、“張り合いの得点”になるのだとすれば、競技はすでに始まり、静かに勝ちつづけている。
放課後の屋上に、夕暮れが早い。冬の終わりの夕陽は、色の温度を急速に失って、代わりに輪郭を濃くする。風は弱く、ポスターの端がもう鳴らない。写真部の先輩が、第二弾の「別バージョン」を撮りたいと、またしても無茶振りをしてきたのだ。「夕暮れ、屋上、背中合わせからゆっくり向き直る連続カット」。映えるシーンは、撮る前から映えている。
「いくよ。背中合わせ——湊、ボールは足元に置いて。司、本は背中越しに抱え直して。——合図で、ゆっくり向き直る。目線は、最初は肩。次に、喉元。最後に、目」
「細かい」
「細かくて、いいの」
合図。二人は同時に、ゆっくりと向き直る。風が前髪をほんの少しだけ持ち上げる。夕陽が瞳の奥の暗い色を拾って、一瞬だけ金を溶かす。目線が、肩から喉へ、喉から目へ。動きは遅いほど、心拍が上がる。上がった心拍は、互いの掌の温度で静まる。静まる前の高まりだけを、カメラはちゃんと拾う。
向き合ってから、湊が笑って先手を取る。
「次の勝負、朝の“おはよう”をどっちが先に言うか」
「君が先で」
「や、負けない」
「同点でいい」
「ずる」
「勝敗は不要」
「はいはい、参りました」
笑いが夕空に落ちる。落ちるというより、薄い空の真上に貼り付く。屋上のフェンスの影が床に長く伸び、二人の影と少しだけ重なる。背中合わせからゆっくり向き直り、同じフレームに収まる。——映えるシーンのカタログ通りに、しかしカタログ以上の意味で、その瞬間は成立した。
撮影が終わり、写真部が機材をまとめて去ったあと、屋上には二人だけが残る。夕陽は最後の一息を吐き、遠くのビルの縁にかかりながら、色の粒を落とす。風がやんで、音が薄くなる。湊は、フェンスにもたれ、空を見上げた。
「卒業、遠いな」
「遠い」
「遠いの、好きだ。遠いから、計画できる」
「私も同意する」
「……俺さ、ずっと張り合ってたい。おまえと」
「張り合いの定義は、更新済みだ」
「確認させろ」
「“隣でどれだけ日常を面白くできるか”。勝敗は不要。同点でいい」
「それ、ずるい勝ち方」
「採用された」
「もう。——でもさ、そのルール、俺、好きだ」
湊は言いながら、指先で天峰の袖をちょんと引いた。昔から変わらない、控えめな引力。布が一センチ動く。合図の代わりに、彼はそっと手を握る。握り方は、冬から春に移る前の、まだ慎重な力加減。天峰も、同じ力で握り返す。手のひらの真ん中で、「大丈夫」がひとつだけ確定する。
校内のどこかでは、掲示板の前で誰かが〈今日の隣〉を眺めている。黒板の粉。踊り場の光。体育館の傷。傘立ての濡れ跡。自販機の十円。図書室の毛糸玉。そして、夕暮れの渡り廊下に写る二人の影。観客の微笑は、小さく、長い。微笑は、写真より長持ちする合図だ。合図が増えるたび、校内の空気はやわらかく上書きされていく。
夜、湊は帰り道のコンビニでアイスを二本買った。寒いのに、アイスを買う理由は“冬季特別料金”のペナルティがあるからではない。幸せの定義が、簡単な食べ物の形をしている夜がある。彼は一つを天峰に手渡し、もう一つを自分の口に当てる。
「勝ち負けなし。うまい」
「同意」
「それ、ずるい勝ち方」
「採用」
二人の笑いは、屋上の夕陽と同じ色で、夜の空気の上に薄く流れた。校舎の窓には明日のための光が小さく残り、昇降口のガラスには、今夜のための見えない指紋がつく。指紋は、朝にはもう見えない。見えないものが、いちばん長く残る。
翌朝。昇降口の喧騒の中で、二人の視線が一度だけぶつかる。湊が、ほんの一瞬、吸い込みにかかった息を飲み込む。「おはよ——」と言いかけたのを、天峰の「おはよう」が一秒早く追い越した。湊は目を丸くし、次の瞬間、肩で小突いて笑う。
「負けた」
「同点でいい」
「でも、負けた」
「では、今日の“同点”に一票」
「何それ」
「新ルール」
ルールは増える。増えるたびに、日常は面白くなる。面白さは、写真に写らない。写らないから、〈今日の隣〉は続く。匿名のキャプションは、今日も誰かの朝を救い、誰かの夕方を笑わせる。混ざる視点は、読む人の視点も少しだけ混ぜる。混ざった視点で見た世界は、昨日の世界よりやさしい。
教室の窓際で、湊が手帳を開く。背後から、天峰が静かに覗き込む。ページの余白に、二人は今日の合図を一つだけ書き込む。〈張り合いの定義——更新完了〉。文字は小さい。けれど、はっきりしている。消しゴムでこすっても消えない種類の痕になる。
夕暮れ、屋上。第二弾ポスター用の連続ショットの中から選ばれた一枚が、掲示板の中央に大きく貼られた。背中合わせから向き直る途中の瞬間。肩線が矢印になり、目線がまだ完全には交差していない。余白の方が多い写真。余白の強さを知っている写真。タイトルは、シンプルに〈張り合いの定義〉。
誰かが見上げて、微笑む。誰かが隣の誰かに、「これ、好き」と囁く。囁きは、明日の朝の“おはよう”を一秒早くする効能がある。効能の連鎖は、校内の見えないところで静かに続く。
“この二人をずっと見守っていたい♡”——そんな読後感は、ポスターの前で立ち止まった人の胸の中に、確かに残る。残ったものは、春の風で飛ばない。飛ばないように、〈今日の隣〉のカードの角を、誰かがそっと撫でる。撫でられた紙が、小さく鳴る。鳴った音は、二人の“同点”にもう一票を投じる。
張り合いは、終わらない。終わりにしない。点数も、票も、もう要らない。必要なのは、朝の「おはよう」を先に言う勇気と、夜の「おやすみ」を丁寧に置く礼儀。勝敗は不要。同点でいい。——それが、今のところの、彼らの“ハッピーの固定”だ。
固定したものは、壊れやすい。だからこそ、毎朝、毎夕、軽く上書きする。上書きするたび、線はやわらかくなり、色は深くなる。〈今日の隣〉の見出しは、明日も変わらずそこにある。二人が背中合わせから向き直る速度は、明日もきっと同じだ。遅いほど、美しい。遅いほど、長く続く。続くものを選び続けるという張り合いは、今日も静かに、勝ち続けている。



