冬の匂いは、いつだって黒板の粉より先に廊下の隅に落ちる。終業式前の学校は、忙しないのにどこか透き通っていて、窓ガラスの冷たさが全ての音に薄い輪郭を与えていた。広報委員の貼り換え作業日は、朝からポスターと掲示物が行き交い、セロハンテープの切れる音とホチキスの乾いた音が、授業のチャイムと並走する。
〈断り方テンプレ〉を配ってから、SNSのざわめきは目に見えて落ち着いている。誰かが誰かに「今は無理」を言い、言われた側がその紙を指でとんとん叩いて笑う。公の空気が、ほんの少しだけ呼吸を覚えた。そういう変化は、数値で測れないけれど、廊下の温度計みたいなもので敏感に分かる。
天峰(あまみね)司は、その空気を確かめるみたいに、掲示スペースの前で一度だけ立ち止まった。広報の貼り換え図面は前日に引いてある。場所配分、タイトルのフォントサイズ、紙の余白。誤差が出ないように、ピンの位置には小さく鉛筆で印をつけた。いつもの仕事だ。だが、今日の紙束には——いつもと違う角が混じっている。
白い厚紙に、光沢を抑えた写真が数枚。タイトルカードには、黒いペンで慎ましく書かれている。
〈今日の隣〉
“写真コーナー”。庶務の仕事書類の端っこに小さく書き足したその文字に、彼は一晩かけて責任を編み込んだ。作者名は出さない。写真は星川(ほしかわ)湊がここ数週間、校内でふいに撮っていたもの。撮るといっても、スマホを胸の高さで軽く構えて、一秒も立ち止まらない。彼の手帳の端には、撮る行為の言い訳みたいな短いメモがはみ出している。〈粉が舞った。光が階段に落ちて、踊り場がやわらかかった。床に線が増えた〉。——その「見る速度」が、天峰には新鮮だった。地図にはないものが映っている。
設営は、放課後の始業チャイムが鳴る前に済ませる。掲示板のポスター群の端、壁面の余白に縦長のスペースを開け、透明のフォトコーナー用コーナーに一枚ずつ差し込む。並べ方は、等間隔。ただし、二枚目と三枚目の距離だけ、ほんの少しだけ広げる。見る人の呼吸が、そこですこしゆるむように。
一枚目。黒板を消した直後、チョークの粉が宙に残っている。窓からの光にふわりと撫でられ、文字が消えたのに文章の気配だけがある、あの瞬間。キャプションは、十文字前後の短さで。
〈消えた白は、明日の余白〉
二枚目。中央階段の踊り場。午後二時の光が板ガラスを斜めに通り抜け、壁に四角い光のパッチを作る。そこを横切る学生の影が薄く切れている。キャプション。
〈角を曲がる前に、呼吸が合う〉
三枚目。夕方の体育館。木の床に細い傷が一本、直線じゃないのに真っ直ぐに見える。照明の反射が細く乗って、昨日の試合の時間をまだ引きずっている。キャプション。
〈昨日の直線、今日の傷〉
四枚目。昇降口の横、傘立ての濡れ跡。冬の入り口の匂い。折りたたみ傘の骨の影。キャプション。
〈外から持ち込まれる天気〉
五枚目。自販機の下、十円玉が一枚だけ取り残されている。ん? と拾おうか迷ってやめた気配だけがある。キャプション。
〈一〇円の躊躇、二〇円の笑い〉
六枚目。図書室の扉の影が床に落ち、影の外側に小さく毛糸玉が転がっている。キャプション。
〈静音の中の点景〉
そして最後に、小さなカードを添える。これは、天峰の“脚注”だ。匿名でありながら、誰か一人に触れにいくための、薄い合図。
〈君が見ている景色は、私の知らない地図だ〉
テープが壁に触れるときの小さな音。紙が壁に馴染む時の微かな沈黙。全てが、設営の成功のサインだ。広報委員の先輩が、横目でそれを見て、ひそひそ声で言う。
「センス良……」
「誰の?」
「掲示の話だ」
「はいはい。匿名、ね?」
「ああ」
匿名は、逃げではない。公と私の間に、やわらかい膜を一枚挟むこと。その膜は、破ろうと思えば破れる、けれど、普通は破らない。破らないことで透けて見えるものもある。天峰は、カードの角を最後に指の腹でならし、そこに指の温度を置いた。
昼休み。廊下には、自然と人の流れができた。新しいものが貼られると、群れは吸い寄せられる。写真コーナーの前で、二人組、三人組が立ち止まり、声を絞る。
「え、これ、校内?」
「黒板の粉、きれ……」
「踊り場、いつも通ってるところじゃん。こんな光、あった?」
「最後の一枚、何これ……尊い……」
“尊い”は、語彙として便利だ。感情が言語より早いときに使える。匿名のキャプションに、何人かは顔を見合わせ、誰かはニヤリとし、誰かはスマホで一枚だけ撮って、すぐにしまう。何かを持ち帰りたくなった時、人は音を小さくする。
星川湊は、教室へ戻る道で、それを見た。人垣は大きくない。目立たない。けれど、視線が重なる場所特有の“温度”がある。湊は輪の外から覗き込み、最初の一枚で足を止めた。黒板。粉。光。——見覚えがある、どころではない。自分の手の癖が、シャッターの高さに残っている。二枚目に移る。踊り場の光。三枚目。体育館の傷。四枚目。傘立て。五枚目。自販機。六枚目。図書室。——全部、俺の一瞬だ。
キャプションを追う。短い。短いのに、体の中で噛める。最後のカードで、指先が止まる。
〈君が見ている景色は、私の知らない地図だ〉
……ずるい。胸のどこかで、つい笑いが漏れてしまう。嬉しいの、苦手なのに。顔、にやけるの、止められないのに。匿名のはずなのに、「俺に向けられた言葉」だとすぐ分かる仕様になってるの、設計が良すぎる。やられた。
午後の授業は、いつもより短かった気がする。終礼の後、教室を出て、廊下を誰もいない速度で歩く。窓の外は、もう少しで群青になる前の青。体育館から漏れる声が遠い。自販機のモーター音が低く続く。足音が二つ、重なって、同じ位置で止まった。
「……見た?」
隣に自然に揃った肩の高さで、天峰が問いかける。問い方が、やさしい。答えを急がない問い方だ。
「見た。反則」
「どの部分が」
「全部。匿名の顔して、匿名じゃない」
「匿名の利点は、見えるべき人にだけ輪郭が濃くなることだ」
「うん……」
湊は、耳まで赤くなるのを自覚した。冬は、顔の色が嘘をつかない。
「俺、嬉しいの苦手。顔、にやける」
「なら、にやければいい」
「真顔で言うな」
「事実を述べた」
笑う。笑いは、今日だけは音になってもいい。廊下には人がいない。公と私の、境界線の白いチョークは、今この瞬間、少しだけ柔らかい。天峰が掲示板の写真を、目で一枚ずつ撫でるように見る。視線でなぞられて、写真は軽く息をする。
「『君が見ている景色は、私の知らない地図だ』」
「うん」
「——その地図を、君から借りたい」
「貸出カード、作る?」
「期限はない」
「延滞金、高いぞ」
「払う」
「言い方」
肩で小突く。冬の制服の布越しに、骨と筋肉の確かな形。公の廊下で、それ以上の触れ方はしない。しないことで、触れた場所が長持ちする夜もある。二人は、掲示区画から離れ、階段を降りる。足音は半拍ずれて、踊り場で自然に揃う。
終業式の周辺は、クリスマスの気配が校内にも紛れ込む。誰かがコンビニのケーキ予約のパンフレットを広げ、誰かが赤と緑の配色を小馬鹿にした調子で褒める。宗教行事への理解は校内アンケートの対象外だが、平和な消費文化は、寒さの中で手のひらをすり合わせるのと同じ効能がある。
放課後の帰り道、校門を出る前に、湊は呼吸をひとつ整えた。整えてから、言葉を選ばずに置く。
「当日、予定空けとけ」
いつもなら、軽口の余白を付ける。付けなかった。付けない種類の真面目さに、天峰は一拍で応じる。
「宗教行事に興味は薄いが、君に付き合うのは有意義」
「言い方!」
「翻訳:行く」
「最初からそれでいい」
「学習中」
「学習速度、早い」
「君が教師だから」
また、小突く。小突き方が乱暴じゃないのは、学びの成果だ。天峰はスマホのカレンダーに、無表情で〈空ける〉と入れた。予定名はそれだけ。通知は前日夜。効率のよい恋は、たぶん効率がよくないところが本体だ。
それから数日、二人は“内緒だけど内緒すぎない”の練習を続けた。朝、昇降口では並ばない。並ばない代わりに視線は一度だけぶつける。昼、写真コーナーの前では立ち止まらない。立ち止まらない代わりに、帰り道で一枚分の感想を交換する。期限のない貸出カードは、返却の必要がないから、気が楽だ。
クリスマスの前夜。掲示板の「今日の隣」は、一枚だけ差し替えられた。新しい写真は、夕暮れの渡り廊下のガラスに映った、ぼんやりした二人分の影。その影は並んでいるようで、微妙に前後している。キャプションは、さらに短い。
〈並んで、追いかける〉
誰の目にも、二人とは書いていない。ただ、見た人は何かをうっすら知る。うっすらでいい。はっきりは、また別の場所で。
*
当日の夜。校門前の通りは、ほんのささやかなイルミネーションで縁取られていた。電飾は高価ではない。色も派手ではない。交差点の街路樹に、暖色の小さな粒がいくつも点いていて、風に合わせてゆっくり瞬く。吐く息は白く、土の上の霜柱が薄く鳴る。
湊は、手袋をはめた手をポケットから出すのに少し時間がかかった。手袋は、勇気に一枚余計な布を被せる。布のせいで、勇気は逃げ遅れる。逃げ遅れた勇気は、しっかり捕まえられる。
「寒い?」
「適正範囲」
「おまえの“適正範囲”、便利すぎ」
「便利に設計してある」
「設計思想が出てる」
歩く。歩幅は自然に揃う。話題はわざと少なくする。音の少ない夜は、言葉を拡声器なしで遠くへ運ぶ。今夜の言葉は、遠くへ行かなくていい。交差点の手前で、湊は立ち止まった。信号は赤。車は少ない。街路樹の灯りが、ふたりの肩の線を淡く縁どる。
「——」
何も言わないまま、湊は天峰の左手に、自分の右手を重ねた。手袋越しに、指を絡める。絡めるといっても、指の間に布があるから、力は伝わらない。その代わりに温度はゆっくり伝わる。手袋という装備を付けた触れ合いは、直接よりも誠実だ。お互いに、握り返すときには準備がいる。準備の一秒が、愛想笑いの代わりになる。
天峰は、少し驚いた顔をした。驚いた顔にも、彼は正確さがある。眼差しがほんの一ミリ、広がる。けれど、解かない。解かないという選択が、体の奥で合図される。指の骨が手袋の中で軽く触れあい、糸の縫い目が肌に小さく押し当てられる。二人の間に布があることで、境界がたしかに存在する。存在するから、その上に、やわらかく上書きできる。
「あのさ」
「何」
湊は深呼吸を一つ。空気が胸の内側を冷やし、言葉がちゃんとした形になるのを待つ。待ってから、置く。
「俺と、付き合ってください」
言葉の前後に飾りはつけない。花も、星も、ハッシュタグも、不要。彼は、ただ言った。夜の静けさが、余計な音をすべて吸い取ってくれることを信じて。
天峰は、即答ではなかった。瞬き一回分だけ、時間があった。たぶん、それは礼儀だ。言葉を受け取る前に、指の絡み具合を確認する礼儀。確認してから、答える。
「喜んで」
短い。短いのに、こんなに重みのある返事を今まで聞いたことがない。喜ぶ、という動詞を口にする彼を初めて見た。湊は笑った。笑いはもう、苦手じゃない。にやけていい夜は、にやけないと損だ。
天峰が、わずかに体を寄せた。厚手のマフラーの上から、頬に“キス未満”の触れ方で、そっと触れる。唇ではない。頬と頬の間に、マフラーの布がわずかに挟まる。布の繊維が笑う音が、耳のすぐそばで小さく鳴った。触れた場所は、すぐに冷える。冷えたところを、体の中から温度が追いかける。その速度を、お互いに測る。測って、笑う。
公と私の境界は、この夜、硬い線で引き直されるのではなかった。やわらかく、上書きされた。写真コーナーの角で指でならしたあの感じに似ている。壁の上に紙を置く。紙の上に言葉を置く。言葉の上に、目線を置く。——そうやって、誰にも気づかれない速度で、ひとつの関係は別の名前を持ち始める。
「“今日の隣”、明日も見る?」
「もちろん。差し替えの計画がある」
「新しい写真?」
「君が撮って、私が言葉を添える」
「ずっと?」
「期限はない」
「延滞金、やっぱ高い?」
「アイス二本」
「値上げした」
「冬季特別料金」
「理不尽」
「恋愛は非線形」
「おまえが言うと説得力あるの、ずるい」
もう一度、笑う。笑いは、イルミネーションの粒よりも長く残る。道の向こうから、犬の小さな鳴き声。遠くで、駅へ向かう人たちの足音。世界は続いている。二人だけの世界に閉じ込めないで、二人が立つ場所の方を少しだけ変える。公と私のあいだにある透明の膜は、そのためにある。
校門の影が背中に落ち、二人の影が歩道に並ぶ。並ぶ影は、朝よりも濃い。濃さは濃さで、自分たちの形の確からしさを教えてくれる。湊は、握ったままの手に、指で小さく返事を書いた。〈了解〉。手袋越しでも、伝わる。伝わりにくいからこそ、きちんと伝えようとする動作が増える。動作が増えれば、写真が増える。明日の“今日の隣”の候補は、もういくつも頭の中に並んでいる。
黒板の粉は、冬の朝でも舞う。階段の踊り場の光は、季節で角度を変える。体育館の床の傷は、増えもするし、磨かれて消えもする。傘立てには、別の傘が立つ。自販機の十円は、誰かのポケットへ移る。図書室の毛糸玉は、どこかに片づけられる。——それでも、並んで歩く影は、今日のものだけだ。今日の隣。タイトルに貼ったその四文字が、今夜はやけに素直に胸に入ってくる。
帰り道の分かれ目まで、ふたりは言葉を節約した。節約した分、指に任せた。信号が青に変わる。渡る。冷たい風が一度だけ、顔を正面から撫でる。手袋の中の手は、温度を保ったまま、少しだけ力を込めた。解かないまま、角でふわりと手をほどき、代わりに視線を軽くぶつける。夜風が、合図の代わりをしてくれる。
「じゃあ、また明日」
「明日」
それだけで充分。充分で、満たされる。明日の掲示板の前で、匿名のカードの角をまた撫でるだろう。撫でながら、言葉を一つ考えるだろう。たとえば——。
〈手袋の中に、返事〉
誰かがそれを見て、「センス良……」とこっそり呟く。呟く声は、写真より長く残る。残るものだけが、境界を上書きする。青と白の幕は、冬の間も小さく揺れている。揺れるたび、紙は少しずつ壁になじむ。なじむたび、二人の距離は、見えないところで正確に縮む。
——廊下の小さな写真展は、公と私の間にできた、冬の渡り廊下だった。切り取られた一秒が連続コマになり、そこを通るたび、誰かの歩幅が少しだけ揃う。今日の隣。明日の隣。期限なし。延滞金は、アイス二本。支払いは、笑いで済む。そんな制度なら、みんな喜んで加入する。天峰司は、そういう制度設計が得意だ。星川湊は、その制度を人の体温で運用するのが得意だ。二人が得意を重ねると、公と私の境界は、やさしい線で引かれる。
その線の内側で、今夜も手袋越しの指が、静かに絡む。頬に触れる“キス未満”の距離は、誰にも迷惑をかけない。けれど、当人たちには、十分すぎるほど世界の中心になる。世界は広い。けれど、中心は小さくていい。小さな中心は、明日の写真の真ん中に、きちんと写る。タイトルは、もう決まっている。
〈今日の隣〉
〈断り方テンプレ〉を配ってから、SNSのざわめきは目に見えて落ち着いている。誰かが誰かに「今は無理」を言い、言われた側がその紙を指でとんとん叩いて笑う。公の空気が、ほんの少しだけ呼吸を覚えた。そういう変化は、数値で測れないけれど、廊下の温度計みたいなもので敏感に分かる。
天峰(あまみね)司は、その空気を確かめるみたいに、掲示スペースの前で一度だけ立ち止まった。広報の貼り換え図面は前日に引いてある。場所配分、タイトルのフォントサイズ、紙の余白。誤差が出ないように、ピンの位置には小さく鉛筆で印をつけた。いつもの仕事だ。だが、今日の紙束には——いつもと違う角が混じっている。
白い厚紙に、光沢を抑えた写真が数枚。タイトルカードには、黒いペンで慎ましく書かれている。
〈今日の隣〉
“写真コーナー”。庶務の仕事書類の端っこに小さく書き足したその文字に、彼は一晩かけて責任を編み込んだ。作者名は出さない。写真は星川(ほしかわ)湊がここ数週間、校内でふいに撮っていたもの。撮るといっても、スマホを胸の高さで軽く構えて、一秒も立ち止まらない。彼の手帳の端には、撮る行為の言い訳みたいな短いメモがはみ出している。〈粉が舞った。光が階段に落ちて、踊り場がやわらかかった。床に線が増えた〉。——その「見る速度」が、天峰には新鮮だった。地図にはないものが映っている。
設営は、放課後の始業チャイムが鳴る前に済ませる。掲示板のポスター群の端、壁面の余白に縦長のスペースを開け、透明のフォトコーナー用コーナーに一枚ずつ差し込む。並べ方は、等間隔。ただし、二枚目と三枚目の距離だけ、ほんの少しだけ広げる。見る人の呼吸が、そこですこしゆるむように。
一枚目。黒板を消した直後、チョークの粉が宙に残っている。窓からの光にふわりと撫でられ、文字が消えたのに文章の気配だけがある、あの瞬間。キャプションは、十文字前後の短さで。
〈消えた白は、明日の余白〉
二枚目。中央階段の踊り場。午後二時の光が板ガラスを斜めに通り抜け、壁に四角い光のパッチを作る。そこを横切る学生の影が薄く切れている。キャプション。
〈角を曲がる前に、呼吸が合う〉
三枚目。夕方の体育館。木の床に細い傷が一本、直線じゃないのに真っ直ぐに見える。照明の反射が細く乗って、昨日の試合の時間をまだ引きずっている。キャプション。
〈昨日の直線、今日の傷〉
四枚目。昇降口の横、傘立ての濡れ跡。冬の入り口の匂い。折りたたみ傘の骨の影。キャプション。
〈外から持ち込まれる天気〉
五枚目。自販機の下、十円玉が一枚だけ取り残されている。ん? と拾おうか迷ってやめた気配だけがある。キャプション。
〈一〇円の躊躇、二〇円の笑い〉
六枚目。図書室の扉の影が床に落ち、影の外側に小さく毛糸玉が転がっている。キャプション。
〈静音の中の点景〉
そして最後に、小さなカードを添える。これは、天峰の“脚注”だ。匿名でありながら、誰か一人に触れにいくための、薄い合図。
〈君が見ている景色は、私の知らない地図だ〉
テープが壁に触れるときの小さな音。紙が壁に馴染む時の微かな沈黙。全てが、設営の成功のサインだ。広報委員の先輩が、横目でそれを見て、ひそひそ声で言う。
「センス良……」
「誰の?」
「掲示の話だ」
「はいはい。匿名、ね?」
「ああ」
匿名は、逃げではない。公と私の間に、やわらかい膜を一枚挟むこと。その膜は、破ろうと思えば破れる、けれど、普通は破らない。破らないことで透けて見えるものもある。天峰は、カードの角を最後に指の腹でならし、そこに指の温度を置いた。
昼休み。廊下には、自然と人の流れができた。新しいものが貼られると、群れは吸い寄せられる。写真コーナーの前で、二人組、三人組が立ち止まり、声を絞る。
「え、これ、校内?」
「黒板の粉、きれ……」
「踊り場、いつも通ってるところじゃん。こんな光、あった?」
「最後の一枚、何これ……尊い……」
“尊い”は、語彙として便利だ。感情が言語より早いときに使える。匿名のキャプションに、何人かは顔を見合わせ、誰かはニヤリとし、誰かはスマホで一枚だけ撮って、すぐにしまう。何かを持ち帰りたくなった時、人は音を小さくする。
星川湊は、教室へ戻る道で、それを見た。人垣は大きくない。目立たない。けれど、視線が重なる場所特有の“温度”がある。湊は輪の外から覗き込み、最初の一枚で足を止めた。黒板。粉。光。——見覚えがある、どころではない。自分の手の癖が、シャッターの高さに残っている。二枚目に移る。踊り場の光。三枚目。体育館の傷。四枚目。傘立て。五枚目。自販機。六枚目。図書室。——全部、俺の一瞬だ。
キャプションを追う。短い。短いのに、体の中で噛める。最後のカードで、指先が止まる。
〈君が見ている景色は、私の知らない地図だ〉
……ずるい。胸のどこかで、つい笑いが漏れてしまう。嬉しいの、苦手なのに。顔、にやけるの、止められないのに。匿名のはずなのに、「俺に向けられた言葉」だとすぐ分かる仕様になってるの、設計が良すぎる。やられた。
午後の授業は、いつもより短かった気がする。終礼の後、教室を出て、廊下を誰もいない速度で歩く。窓の外は、もう少しで群青になる前の青。体育館から漏れる声が遠い。自販機のモーター音が低く続く。足音が二つ、重なって、同じ位置で止まった。
「……見た?」
隣に自然に揃った肩の高さで、天峰が問いかける。問い方が、やさしい。答えを急がない問い方だ。
「見た。反則」
「どの部分が」
「全部。匿名の顔して、匿名じゃない」
「匿名の利点は、見えるべき人にだけ輪郭が濃くなることだ」
「うん……」
湊は、耳まで赤くなるのを自覚した。冬は、顔の色が嘘をつかない。
「俺、嬉しいの苦手。顔、にやける」
「なら、にやければいい」
「真顔で言うな」
「事実を述べた」
笑う。笑いは、今日だけは音になってもいい。廊下には人がいない。公と私の、境界線の白いチョークは、今この瞬間、少しだけ柔らかい。天峰が掲示板の写真を、目で一枚ずつ撫でるように見る。視線でなぞられて、写真は軽く息をする。
「『君が見ている景色は、私の知らない地図だ』」
「うん」
「——その地図を、君から借りたい」
「貸出カード、作る?」
「期限はない」
「延滞金、高いぞ」
「払う」
「言い方」
肩で小突く。冬の制服の布越しに、骨と筋肉の確かな形。公の廊下で、それ以上の触れ方はしない。しないことで、触れた場所が長持ちする夜もある。二人は、掲示区画から離れ、階段を降りる。足音は半拍ずれて、踊り場で自然に揃う。
終業式の周辺は、クリスマスの気配が校内にも紛れ込む。誰かがコンビニのケーキ予約のパンフレットを広げ、誰かが赤と緑の配色を小馬鹿にした調子で褒める。宗教行事への理解は校内アンケートの対象外だが、平和な消費文化は、寒さの中で手のひらをすり合わせるのと同じ効能がある。
放課後の帰り道、校門を出る前に、湊は呼吸をひとつ整えた。整えてから、言葉を選ばずに置く。
「当日、予定空けとけ」
いつもなら、軽口の余白を付ける。付けなかった。付けない種類の真面目さに、天峰は一拍で応じる。
「宗教行事に興味は薄いが、君に付き合うのは有意義」
「言い方!」
「翻訳:行く」
「最初からそれでいい」
「学習中」
「学習速度、早い」
「君が教師だから」
また、小突く。小突き方が乱暴じゃないのは、学びの成果だ。天峰はスマホのカレンダーに、無表情で〈空ける〉と入れた。予定名はそれだけ。通知は前日夜。効率のよい恋は、たぶん効率がよくないところが本体だ。
それから数日、二人は“内緒だけど内緒すぎない”の練習を続けた。朝、昇降口では並ばない。並ばない代わりに視線は一度だけぶつける。昼、写真コーナーの前では立ち止まらない。立ち止まらない代わりに、帰り道で一枚分の感想を交換する。期限のない貸出カードは、返却の必要がないから、気が楽だ。
クリスマスの前夜。掲示板の「今日の隣」は、一枚だけ差し替えられた。新しい写真は、夕暮れの渡り廊下のガラスに映った、ぼんやりした二人分の影。その影は並んでいるようで、微妙に前後している。キャプションは、さらに短い。
〈並んで、追いかける〉
誰の目にも、二人とは書いていない。ただ、見た人は何かをうっすら知る。うっすらでいい。はっきりは、また別の場所で。
*
当日の夜。校門前の通りは、ほんのささやかなイルミネーションで縁取られていた。電飾は高価ではない。色も派手ではない。交差点の街路樹に、暖色の小さな粒がいくつも点いていて、風に合わせてゆっくり瞬く。吐く息は白く、土の上の霜柱が薄く鳴る。
湊は、手袋をはめた手をポケットから出すのに少し時間がかかった。手袋は、勇気に一枚余計な布を被せる。布のせいで、勇気は逃げ遅れる。逃げ遅れた勇気は、しっかり捕まえられる。
「寒い?」
「適正範囲」
「おまえの“適正範囲”、便利すぎ」
「便利に設計してある」
「設計思想が出てる」
歩く。歩幅は自然に揃う。話題はわざと少なくする。音の少ない夜は、言葉を拡声器なしで遠くへ運ぶ。今夜の言葉は、遠くへ行かなくていい。交差点の手前で、湊は立ち止まった。信号は赤。車は少ない。街路樹の灯りが、ふたりの肩の線を淡く縁どる。
「——」
何も言わないまま、湊は天峰の左手に、自分の右手を重ねた。手袋越しに、指を絡める。絡めるといっても、指の間に布があるから、力は伝わらない。その代わりに温度はゆっくり伝わる。手袋という装備を付けた触れ合いは、直接よりも誠実だ。お互いに、握り返すときには準備がいる。準備の一秒が、愛想笑いの代わりになる。
天峰は、少し驚いた顔をした。驚いた顔にも、彼は正確さがある。眼差しがほんの一ミリ、広がる。けれど、解かない。解かないという選択が、体の奥で合図される。指の骨が手袋の中で軽く触れあい、糸の縫い目が肌に小さく押し当てられる。二人の間に布があることで、境界がたしかに存在する。存在するから、その上に、やわらかく上書きできる。
「あのさ」
「何」
湊は深呼吸を一つ。空気が胸の内側を冷やし、言葉がちゃんとした形になるのを待つ。待ってから、置く。
「俺と、付き合ってください」
言葉の前後に飾りはつけない。花も、星も、ハッシュタグも、不要。彼は、ただ言った。夜の静けさが、余計な音をすべて吸い取ってくれることを信じて。
天峰は、即答ではなかった。瞬き一回分だけ、時間があった。たぶん、それは礼儀だ。言葉を受け取る前に、指の絡み具合を確認する礼儀。確認してから、答える。
「喜んで」
短い。短いのに、こんなに重みのある返事を今まで聞いたことがない。喜ぶ、という動詞を口にする彼を初めて見た。湊は笑った。笑いはもう、苦手じゃない。にやけていい夜は、にやけないと損だ。
天峰が、わずかに体を寄せた。厚手のマフラーの上から、頬に“キス未満”の触れ方で、そっと触れる。唇ではない。頬と頬の間に、マフラーの布がわずかに挟まる。布の繊維が笑う音が、耳のすぐそばで小さく鳴った。触れた場所は、すぐに冷える。冷えたところを、体の中から温度が追いかける。その速度を、お互いに測る。測って、笑う。
公と私の境界は、この夜、硬い線で引き直されるのではなかった。やわらかく、上書きされた。写真コーナーの角で指でならしたあの感じに似ている。壁の上に紙を置く。紙の上に言葉を置く。言葉の上に、目線を置く。——そうやって、誰にも気づかれない速度で、ひとつの関係は別の名前を持ち始める。
「“今日の隣”、明日も見る?」
「もちろん。差し替えの計画がある」
「新しい写真?」
「君が撮って、私が言葉を添える」
「ずっと?」
「期限はない」
「延滞金、やっぱ高い?」
「アイス二本」
「値上げした」
「冬季特別料金」
「理不尽」
「恋愛は非線形」
「おまえが言うと説得力あるの、ずるい」
もう一度、笑う。笑いは、イルミネーションの粒よりも長く残る。道の向こうから、犬の小さな鳴き声。遠くで、駅へ向かう人たちの足音。世界は続いている。二人だけの世界に閉じ込めないで、二人が立つ場所の方を少しだけ変える。公と私のあいだにある透明の膜は、そのためにある。
校門の影が背中に落ち、二人の影が歩道に並ぶ。並ぶ影は、朝よりも濃い。濃さは濃さで、自分たちの形の確からしさを教えてくれる。湊は、握ったままの手に、指で小さく返事を書いた。〈了解〉。手袋越しでも、伝わる。伝わりにくいからこそ、きちんと伝えようとする動作が増える。動作が増えれば、写真が増える。明日の“今日の隣”の候補は、もういくつも頭の中に並んでいる。
黒板の粉は、冬の朝でも舞う。階段の踊り場の光は、季節で角度を変える。体育館の床の傷は、増えもするし、磨かれて消えもする。傘立てには、別の傘が立つ。自販機の十円は、誰かのポケットへ移る。図書室の毛糸玉は、どこかに片づけられる。——それでも、並んで歩く影は、今日のものだけだ。今日の隣。タイトルに貼ったその四文字が、今夜はやけに素直に胸に入ってくる。
帰り道の分かれ目まで、ふたりは言葉を節約した。節約した分、指に任せた。信号が青に変わる。渡る。冷たい風が一度だけ、顔を正面から撫でる。手袋の中の手は、温度を保ったまま、少しだけ力を込めた。解かないまま、角でふわりと手をほどき、代わりに視線を軽くぶつける。夜風が、合図の代わりをしてくれる。
「じゃあ、また明日」
「明日」
それだけで充分。充分で、満たされる。明日の掲示板の前で、匿名のカードの角をまた撫でるだろう。撫でながら、言葉を一つ考えるだろう。たとえば——。
〈手袋の中に、返事〉
誰かがそれを見て、「センス良……」とこっそり呟く。呟く声は、写真より長く残る。残るものだけが、境界を上書きする。青と白の幕は、冬の間も小さく揺れている。揺れるたび、紙は少しずつ壁になじむ。なじむたび、二人の距離は、見えないところで正確に縮む。
——廊下の小さな写真展は、公と私の間にできた、冬の渡り廊下だった。切り取られた一秒が連続コマになり、そこを通るたび、誰かの歩幅が少しだけ揃う。今日の隣。明日の隣。期限なし。延滞金は、アイス二本。支払いは、笑いで済む。そんな制度なら、みんな喜んで加入する。天峰司は、そういう制度設計が得意だ。星川湊は、その制度を人の体温で運用するのが得意だ。二人が得意を重ねると、公と私の境界は、やさしい線で引かれる。
その線の内側で、今夜も手袋越しの指が、静かに絡む。頬に触れる“キス未満”の距離は、誰にも迷惑をかけない。けれど、当人たちには、十分すぎるほど世界の中心になる。世界は広い。けれど、中心は小さくていい。小さな中心は、明日の写真の真ん中に、きちんと写る。タイトルは、もう決まっている。
〈今日の隣〉



