放課後の空気は、昼の熱を薄く残したまま、廊下の奥でかすかに揺れていた。体育館へ続く渡り廊下では、いつものようにバスケットボールの音が遠雷みたいに続き、職員室前にはプリントを配る生徒が行き来する。何もかもが“学校の夕方”に忠実で、決まり切っているはずなのに、その秩序の縁に、見慣れない緊張の影がぶら下がっている。
天峰(あまみね)司は、生徒会室の戸を静かに閉めた。ドアノブを離す瞬間、わずかに指先が遅れた。昨夜、机の上で何ひとつ頭に入らなかった自分を思い出したからだ。〈発言:不適切。原因:感情の介入。結果:距離が生じた模様〉――ノートにそう記した文字列は、消しゴムでこすっても消えない種類の痕になっている。
目的地は一つ。体育館の脇の、道具庫の前。昼にSNSで拡散した“切り取られた写真”のことを告げてきたのは後輩だったが、そこから先は自分で確かめる必要がある。事実は、直接取りに行く。それが彼のやり方だった。人の心に土足で踏み込まないために、最初に確認するのは“誰の土”かという区別だ。今日は、踏み込みが遅れた。
道具庫は開け放たれ、ペンキの匂いと湿った木の匂いが混ざっていた。一年の男子が二人、古いビブスを畳んでいる。一人は小柄で、目がよく動き、手は落ち着かないのに、畳む仕草だけは妙に丁寧だった。昨日、湊と肩を並べていたのは、この顔だ――スクリーン越しで見た“影”が、やっと正体を持った。
「失礼する」
天峰が声をかけると、二人とも反射で背筋を伸ばした。上級生への反応は、部活が教える礼儀だ。天峰は余計な圧をかけないよう、半歩だけ距離を取り、目線の高さを落とした。
「少し、話を聞かせてほしい。昨日、星川と一緒にいたね」
「あ……はい。すみません、俺、写真のこと、後で知って……」
小柄な方が、慌てて頭を下げる。謝る対象が違うことはわかっているはずなのに、それでも謝る年頃の素直さが、言葉に先んじて出る。天峰は、首を横に振った。
「謝られることではない。確認したいだけだ。“相談”は、何の」
「バスケです。シュートのときの助走の速度が一定じゃなくて、身体が詰まる感じがするって言ったら、先輩が『“断る練習”もついでにしよう』って」
「……断る、練習?」
「はい。俺、先輩に、すぐ話しかけちゃうタイプで。練習前とか、先輩が準備してるときに話しかけちゃって、『今はやめとく』って言われると逆に安心するんですけど、言いにくいんだろうなって思って。だから、俺が“話しかけ役”になって、『今は無理』って先輩に言ってもらう練習……“断り方を一緒に練習してた”っていうか……」
ことばはぎこちないが、嘘が混ざる余地はなく、筋が通っている。断る練習。こんな単純な語の組み合わせが、どうしてSNSの上ではねじれてしまったのか。胸の底に冷たいものが落ちた。温度はゆっくり広がり、皮膚の内側を冷やしていく。冷たさは、彼にとって“正気”の合図だった。
「そうか。ありがとう。助かった」
礼は短く、確かに。天峰は、その足で体育館の外に出た。西の空が濃くなる前の色に切り替わっている。風が一段落ち、ポスターの角が鳴く。〈人気投票で遊んでおいて、今さら被害者面か〉――昨日の自分の言葉が、今さら、ひどく幼稚に聞こえた。幼稚、という語を自分に向けるのは初めてかもしれない。初めてだからこそ、効く。効く痛みは、正しく使えば薬にもなる。
足はもう、生徒会室には戻らなかった。向かった先は広報委員会の部屋だ。夕方の廊下は、靴音がよく響く。連絡を取っておいた広報の先輩が、鍵の束を机に置いたまま、手元の資料から顔を上げた。
「天峰。資料の追加なら、明日でいいよ」
「違います。図書室の鍵を、一時間だけ借りたい」
「図書室? 司書の先生、今日は五時で上がるよ?」
「承知しています。広報委員の“夜間掲示の仮レイアウトチェック”での使用という名目で、使用申請書はこれに。——責任は私が持つ。鍵はすぐ返す」
天峰は、すでに書き込んであった申請書を差し出した。広報の先輩が目を丸くして、内容とサインを確認する。
「……あんたさ、そういう“最短ルート”見つけるの早いよね」
「正当な利用目的を、最短で記述しただけです」
「はいはい。——一時間、ね。鍵、返しに来るの、君だよ?」
「もちろん」
鍵は、金属の乾いた重量で掌に収まった。ポケットに入れると、存在が不自然なほど目立った。重みは自覚で、音は決意だ。階段を降りながら、天峰はスマホを取り出した。メッセージアプリの入力欄に、指が迷いなく並ぶ。
〈今夜、図書室で話せるか〉
送信。既読はつかない。数十秒。通知音。既読。返信は、短い。
〈今から?〉
〈今から〉
〈鍵、どうした〉
〈借りた。広報委員名義〉
〈おまえ、そういうとこ〉
最後の一文だけで、一度深呼吸が必要だった。〈そういうとこ〉という語は、“救いの肯定”にも“呆れの半分”にもなる。どちらの半分かは、今夜の言葉で決まる。〈待ってる〉と打って、送る。
図書室は、日が落ちる前の半暗がよく似合う。窓の上部にある曇りガラスから入る光は、紙の表面の毛羽立ちと、背表紙の金文字の擦れを優しく浮かび上がらせる。司書台の横には貸出ノート、柱時計は針をゆっくり動かし、秒針の音はここだけ別の時間で刻まれているようだった。鍵を回す音は、静けさの膜を小さく破る音。天峰はスイッチを二つだけ入れた。天井の蛍光灯をすべて点けるのではなく、窓際のランプを中心に、読書灯だけを点す。必要な明るさだけで充分だ。机は使わない。ここでは、机が“壁”になることを知っている。
扉が開く音。足音。星川(ほしかわ)湊は、制服の上着を腕にかけ、息をひとつ飲み込んでから入ってきた。戸口で一瞬だけ立ち止まり、周囲の明るさと匂いを確かめる。それから、表情を整える。整えた笑顔ではない。表情を“置く”。置き場所の選び方が、いつもより慎重だ。
「……鍵、ほんとに借りてきたんだ」
「ああ」
天峰は、間を置かずに、頭を下げた。深々と。角度に迷いはない。
「私が浅はかだった。ごめん」
湊は、戸惑ったように目を瞬いた。謝罪を想定していなかった、というより、謝罪を受け取る準備ができていなかった顔。その顔は、少しだけ幼く見えた。幼さは弱さではない。無防備さの綺麗な側面だ。
「謝られると、弱い」
そう言って、彼は笑い、でも笑いの端に「降参」を少し混ぜた。天峰は、机を指さしかけて、指を戻した。
「机は使わない。——床に」
「いいね。俺も、その方が落ち着く」
二人は、窓際の低い本棚の前、絵本コーナーの柔らかなカーペットの上に、そのまま並んで座った。背中を本棚に預ける。背表紙の整然とした列が、背中越しに“秩序”を与えてくれる。机が壁になるなら、本棚は背骨になる。隣の距離は、手のひら半分より少しだけ遠い。手を伸ばせば触れるけれど、触れない距離。呼吸と呼吸が、同じページをめくるようにゆっくり揃っていく。
「——さっき、一年から事情を聞いた。『断り方の練習』だったと」
「……ああ。バレたか」
「隠すことではない」
「隠してたわけじゃない。ただ、言い訳にしたくなかった」
湊は視線を天井の角に浮かせて、言葉を探した。選ぶ速度はいつもより遅い。遅さは誠実の速度だ。彼は言葉の端を一度噛んでから、ほどいた。
「俺、さ。よく“太陽”とか言われるじゃん。自分でもわかってる。笑えば、場が明るくなる。ハイタッチすれば、誰かの機嫌がちょっと良くなる。——それ、やらないでいると、嫌われる気がする」
「嫌われるのが、怖い」
「うん。怖い。怖いから、バランス取っちゃう。どこでも“いい感じ”にしようとする。断れば楽になること、わかってるのに、『今は無理』って言えない。言ったあとの相手の顔を想像すると、ノドが詰まる。——それで、昨日の一年。話しかけるタイミング、俺にとっては“断る練習”にちょうどよかった。あいつも、俺に依存しすぎるのをやめたいって言ってくれたから、ロールプレイした。『今は無理』『あとで体育館で』『今日はこの話はここまで』って、言う練習」
言葉が、図書室の空気に沈んでいく。紙の匂いは、秘密を吸い取って隠してくれる。こぼれる音まで吸い取ってくれる。天峰は黙っていた。黙っていることが、聞くことの中で一番大事な手段だと知っている。沈黙は、相手の言葉の隙間に必要な酸素だ。
「……俺、人気者に見られてるの、嫌いじゃない。正直。でもその“人気”のせいで、余計に断れなくなる。『お前はいつも優しい』って言葉、嬉しいけど、枷になる。優しくない自分を見せたら、すぐ嫌われるんじゃないかって。——ほんとは、部活終わったあとは、誰とも話したくない日もある。帰り道、一人でコンビニの新作アイスを食べながら、何も考えず歩きたい日もある。でも、誰かに『写真撮ってください』って言われると、断れない。断ったあとに、タイムラインで『感じ悪い』って流れるのが怖い。だから、断り方を練習した。『今はできない』って言い方を、ちゃんと練習しないと俺、逃げ道を作れない」
湊の声は、途中で少し掠れた。掠れたところで、天峰は初めて、短く返した。
「怖いのは、私も同じだ」
「おまえが?」
「人に踏み込むほど、誤算が増える。私は誤差を嫌う。だから、最短で、必要な分だけ話し、必要な分だけ助け、必要な分だけ距離を取る。——そのはずだった」
ランプの灯りが、二人の横顔の輪郭を柔らかく撫でる。本棚から抜けた一冊分の隙間に、薄い影ができた。その影は、話の速さに応じて形を変えた。
「でも、おまえ、俺には踏み込んできた」
湊の声に、少し笑いが混じる。笑いは、やっと“いつもの”に戻りかけている。天峰は、素直に頷いた。
「君が、私の保留を崩すから」
息が、同時に止まった。図書室の空気が、一瞬だけ濃くなる。〈判断保留〉という言葉が、ふたりの頭の中で同じ意味で響いた。廊下ですれ違った朝、触れなかった指先の距離。保留は、道具だった。安全第一。けれど、道具は永遠ではない。使いどころを間違えると、傷になる。
天峰は、慎重に腕を上げた。動作は遅く、止まりそうで止まらない。湊の額に、人差し指の先を軽く置く。額は、ほんの少しだけ冷たい。そこから、前髪をなぞるように指をすべらせ、流れを整える。指先は、髪の毛の一本一本に過剰な圧をかけない。いつもの“安全第一”が、今夜は“優しさの形”をしている。
「乱れていた」
湊は、笑った。笑いは、降参と肯定を同じ割合で含む。
「雑に優しいの、反則」
「雑か?」
「褒め言葉のつもり」
「受領する」
言葉が溶けた。頭のどこにも引っかからず、舌の上でほどける種類の言葉。静かな図書室の空間に、二人の呼吸のリズムだけがある。外はもう青く暗い。窓ガラスに映る自分たちの影が、机の脚の影と重なって、シルエットになる。映えるシーンの言葉で言えば、〈夜の図書室・並んで座る二人のロングショット〉。誰も撮らないが、目は撮っている。
天峰は、ゆっくり、核心に触れた。音は低く、短い。
「保留は、解いていい?」
湊は、目を閉じた。まつ毛の影が頬に落ち、息が一拍遅れて出る。答えは短い。短いのに、音の厚みがある。
「……うん」
それだけで、充分だった。充分だとわかるのに、言葉はまだ続く。続けることは、正式にすることだ。正式は、二人にとって“逃げない”の言い換えだ。
閉館のチャイムが鳴る。図書室の鐘の音は、校内の他のどの音よりも少し長い余韻を持っている。時間を区切る鐘が、今夜は“区切りをほどく合図”になる。二人は立ち上がった。立ち上がると、視線が同じ高さになる。目の高さが揃うと、言葉は同じ平面に乗る。
天峰は、目を逸らさずに言った。これ以上削れないほど短く、たぶん一番やさしい定義で。
「では、正式に。君が好きだ」
湊の頬が、少しだけ赤くなった。赤くなるという現象は、本人にも自覚できる。そして、それを否定する言葉は、今夜はどこにも置かれていない。彼は一歩だけ近づいた。近づいた分だけ、影が重なる。二人の間に、机はない。本棚だけが背中を支えている。
「俺も。負けたくないけど、負けたい相手ができた」
茶目っ気の尻尾を、最後にほんの少しだけ残して、目は本気だ。勝負の言葉で愛を言うのは湊らしい。負けたい――その矛盾に、二人の物語の形が見える。天峰は、息を一度だけ笑いにした。
「その表現は、統計上、少数派だ」
「でも、優勝だろ」
「結果次第だ」
「結果、出そう」
言葉の“握手”が成立した。触れ合いはまだ最小限。額に触れた指の記憶だけが、体温の境界をやわらかくしている。〈額に触れる手のクローズアップ〉のカットが、遅れて胸の奥で再生される。図書室のランプが、二人の影を壁に長く延ばす。〈向き合うシルエット〉。どのカメラにも収まらないが、きっと誰かが見たら、“公式”のラベルを貼ってしまうだろう。
「……実務の話に戻す」
「戻すの早」
「SNSの件、広報委員とも共有する。『断り方テンプレ』を全校に配布する案を出す。『今は無理』『あとで』『ここまで』の三パターン。誰が言っても良い言葉として、学校の空気にする」
「いいな、それ。俺が一番助かる」
「君が助かるものは、他の誰かも助かる」
「……そういうとこ、ほんとにずるい」
「ずるいのか」
「褒め言葉だよ」
図書室の鍵を閉める前に、二人は一度だけ、座っていた場所を振り返った。本棚の下に小さな毛糸玉が落ちているのを、湊が拾い上げ、棚の上にそっと置く。誰かの手から転がり落ちたものは、誰かが拾えばいい。拾う手が隣にあるのは、想像以上に心強い。
鍵を回す音は、今度は“閉じる”ではなく“守る”に近い音に聞こえた。廊下は夜の匂いがする。蛍光灯の白が少し冷たく、窓の外の空は濃い藍に変わっていた。二人は肩を並べて歩いた。足音が、少しだけ同じテンポになる。階段の踊り場で、湊がふっと笑った。
「なあ」
「何」
「『保護者ではなく隣として居る』って言ったの、覚えてる?」
「ああ」
「さっき、“正式に”もらったから、俺も正式に返す。——隣、よろしく」
「了解。——君の“隣在”を、日常化する」
「難しい言い方しやがって」
「翻訳:そばにいる」
「それな」
出口のドアを押すと、夜風が頬を撫でた。カン、と遠くで自転車のスタンドが鳴る音。グラウンドに残った白線の粉が、靴底でかすかに鳴く。校舎の窓に、二人の影がうつり、一瞬だけ重なって、また別々になる。重なったことを、確かめる必要はもうない。必要なのは、重なった影がこれからどこまで伸びるかという測定だ。測定は、ふたりでやる。
帰り道、湊のスマホが震えた。通知の数は、まだ多い。けれど彼は、今夜は画面を伏せない。アプリを開き、深呼吸を一つ。指先が迷わず、短い文を打つ。
〈“断り方テンプレ”を作る。『今は無理』『あとで』『ここまで』。俺も使う。みんなも使って〉
投稿。賛否は来るだろう。けれど、“否”は、今夜は怖くない。“肯”も、過剰に頼らない。頼るのは、隣の歩幅だ。並んで歩くと、風の抜け方が少し変わる。角を曲がるときに、自然に肩が寄る。寄った肩を、誰も“保護者”とは呼ばない。呼び名が変わったのだから。
天峰は、ポケットの中で鍵の重さを確かめた。広報委員に返すための時間も、道筋も、頭の中で最短に組み直す。その作業の最中にも、隣の足音のリズムが耳の奥に入ってくる。邪魔ではない。むしろ、正確さのための基準になる。自分の歩幅だけで正確だった世界が、二つ分の歩幅で“より”正確になる。誤差は増える。だが、許容範囲は、隣に合わせて広がる。
「司」
「何」
「“人気投票で遊んでおいて”って言った件、根に持たないから」
「……ありがとう」
「ただし、二度目はペナルティ」
「具体的に」
「アイス奢り」
「合理的だ」
「だろ」
二人の笑い声が、夜の学校に小さく溶けた。図書室の窓はもう暗い。けれど、ここから続く物語のための光は、手のひらの中にしっかり灯っている。〈再接続完了〉。そんな言葉を、誰かがふざけてステッカーにしそうだ。ステッカーは要らない。要るのは、今夜の温度を明日へ運ぶための、真面目な歩調だけ。
翌朝、昇降口の空気はいつもより少し軽かった。ポスターの前で立ち止まる生徒の数も、いつもより少ない。SNSの「どっち派」スレッドは、夜のうちに新しい流れができていた。〈断り方テンプレ、使ってみた〉〈『今は無理』って言われたけど傷つかなかった〉〈言う方も楽〉。賛否の賛の方が、少しだけ多い。少しだけで充分だ。全員に届くことは、正しさの条件ではない。
湊は、昇降口で履き替えながら、背中の方から近づく足音に、自然に笑顔を向けた。被り物ではない笑顔。目の端が本当に緩む。天峰は、靴の先を揃えてから、その笑顔に、ごく小さく頷いた。朝の“おはよう”は、何も特別ではないが、今朝だけは“正式に”の余韻が薄く残っていた。
「おはよう」
「おはよう」
指先は触れない距離で、触れたのと同じくらいの情報を交換する。保留だったものはほどけ、かわりに結び目がひとつ増えた。ほどいた紐は、結び直した方が強い。強さは、競うためだけにあるわけじゃない。隣でいるためにも、必要だ。
校舎の角を曲がる風が、二人の前髪を同時に揺らした。天峰の指が、昨夜の癖を思い出すように、空中で一度だけ動いた。湊は、それに気づいて、少しだけ笑った。雑に優しいのは、やっぱり反則だ。反則は、ルールを壊すためではない。心を、少しだけ救うために使う。
今日も、授業が始まる。今日も、雑務がある。今日も、誰かが誰かに頼る。断り方のテンプレが、誰かの助けになる。広報委員会が配った紙の隅には、小さくこう書かれていた。〈“今は無理”は“ずっと無理”ではありません。〉――その注釈に、二人の昨夜がうっすら映っている。今は、解いた。次は、結ぶ。結び目の位置は、二人で決める。
図書室の鍵は、朝のうちに返却された。貸出ノートの欄外に、広報委員の先輩が練習で書いた字が残っている。〈青と白の夜〉。ジャンル不明のその四文字が、やけに気の利いたタイトルに見えた。天峰は、指先でそっとなぞり、何も言わずに扉を閉めた。湊は、廊下の向こうで友人に呼ばれ、軽く手を振って応え、それから一度だけ振り返った。視線がぶつかる。ぶつかっただけで、充分だ。
——保留の文字は、昨夜、ページから剥がれた。剥がれた跡は、薄く光っている。これから先、その光がどんな地図を照らすのかは、まだ誰も知らない。けれど、二人の歩幅は、もうその地図の上に正しく置かれている。負けたくなくて、負けたい。勝ちたくて、隣にいる。複雑な文法を、二人はこれから日常語にしていく。青と白の幕はまだ下りない。次の合図が鳴るまで、ページをめくる音を合わせればいい。
天峰(あまみね)司は、生徒会室の戸を静かに閉めた。ドアノブを離す瞬間、わずかに指先が遅れた。昨夜、机の上で何ひとつ頭に入らなかった自分を思い出したからだ。〈発言:不適切。原因:感情の介入。結果:距離が生じた模様〉――ノートにそう記した文字列は、消しゴムでこすっても消えない種類の痕になっている。
目的地は一つ。体育館の脇の、道具庫の前。昼にSNSで拡散した“切り取られた写真”のことを告げてきたのは後輩だったが、そこから先は自分で確かめる必要がある。事実は、直接取りに行く。それが彼のやり方だった。人の心に土足で踏み込まないために、最初に確認するのは“誰の土”かという区別だ。今日は、踏み込みが遅れた。
道具庫は開け放たれ、ペンキの匂いと湿った木の匂いが混ざっていた。一年の男子が二人、古いビブスを畳んでいる。一人は小柄で、目がよく動き、手は落ち着かないのに、畳む仕草だけは妙に丁寧だった。昨日、湊と肩を並べていたのは、この顔だ――スクリーン越しで見た“影”が、やっと正体を持った。
「失礼する」
天峰が声をかけると、二人とも反射で背筋を伸ばした。上級生への反応は、部活が教える礼儀だ。天峰は余計な圧をかけないよう、半歩だけ距離を取り、目線の高さを落とした。
「少し、話を聞かせてほしい。昨日、星川と一緒にいたね」
「あ……はい。すみません、俺、写真のこと、後で知って……」
小柄な方が、慌てて頭を下げる。謝る対象が違うことはわかっているはずなのに、それでも謝る年頃の素直さが、言葉に先んじて出る。天峰は、首を横に振った。
「謝られることではない。確認したいだけだ。“相談”は、何の」
「バスケです。シュートのときの助走の速度が一定じゃなくて、身体が詰まる感じがするって言ったら、先輩が『“断る練習”もついでにしよう』って」
「……断る、練習?」
「はい。俺、先輩に、すぐ話しかけちゃうタイプで。練習前とか、先輩が準備してるときに話しかけちゃって、『今はやめとく』って言われると逆に安心するんですけど、言いにくいんだろうなって思って。だから、俺が“話しかけ役”になって、『今は無理』って先輩に言ってもらう練習……“断り方を一緒に練習してた”っていうか……」
ことばはぎこちないが、嘘が混ざる余地はなく、筋が通っている。断る練習。こんな単純な語の組み合わせが、どうしてSNSの上ではねじれてしまったのか。胸の底に冷たいものが落ちた。温度はゆっくり広がり、皮膚の内側を冷やしていく。冷たさは、彼にとって“正気”の合図だった。
「そうか。ありがとう。助かった」
礼は短く、確かに。天峰は、その足で体育館の外に出た。西の空が濃くなる前の色に切り替わっている。風が一段落ち、ポスターの角が鳴く。〈人気投票で遊んでおいて、今さら被害者面か〉――昨日の自分の言葉が、今さら、ひどく幼稚に聞こえた。幼稚、という語を自分に向けるのは初めてかもしれない。初めてだからこそ、効く。効く痛みは、正しく使えば薬にもなる。
足はもう、生徒会室には戻らなかった。向かった先は広報委員会の部屋だ。夕方の廊下は、靴音がよく響く。連絡を取っておいた広報の先輩が、鍵の束を机に置いたまま、手元の資料から顔を上げた。
「天峰。資料の追加なら、明日でいいよ」
「違います。図書室の鍵を、一時間だけ借りたい」
「図書室? 司書の先生、今日は五時で上がるよ?」
「承知しています。広報委員の“夜間掲示の仮レイアウトチェック”での使用という名目で、使用申請書はこれに。——責任は私が持つ。鍵はすぐ返す」
天峰は、すでに書き込んであった申請書を差し出した。広報の先輩が目を丸くして、内容とサインを確認する。
「……あんたさ、そういう“最短ルート”見つけるの早いよね」
「正当な利用目的を、最短で記述しただけです」
「はいはい。——一時間、ね。鍵、返しに来るの、君だよ?」
「もちろん」
鍵は、金属の乾いた重量で掌に収まった。ポケットに入れると、存在が不自然なほど目立った。重みは自覚で、音は決意だ。階段を降りながら、天峰はスマホを取り出した。メッセージアプリの入力欄に、指が迷いなく並ぶ。
〈今夜、図書室で話せるか〉
送信。既読はつかない。数十秒。通知音。既読。返信は、短い。
〈今から?〉
〈今から〉
〈鍵、どうした〉
〈借りた。広報委員名義〉
〈おまえ、そういうとこ〉
最後の一文だけで、一度深呼吸が必要だった。〈そういうとこ〉という語は、“救いの肯定”にも“呆れの半分”にもなる。どちらの半分かは、今夜の言葉で決まる。〈待ってる〉と打って、送る。
図書室は、日が落ちる前の半暗がよく似合う。窓の上部にある曇りガラスから入る光は、紙の表面の毛羽立ちと、背表紙の金文字の擦れを優しく浮かび上がらせる。司書台の横には貸出ノート、柱時計は針をゆっくり動かし、秒針の音はここだけ別の時間で刻まれているようだった。鍵を回す音は、静けさの膜を小さく破る音。天峰はスイッチを二つだけ入れた。天井の蛍光灯をすべて点けるのではなく、窓際のランプを中心に、読書灯だけを点す。必要な明るさだけで充分だ。机は使わない。ここでは、机が“壁”になることを知っている。
扉が開く音。足音。星川(ほしかわ)湊は、制服の上着を腕にかけ、息をひとつ飲み込んでから入ってきた。戸口で一瞬だけ立ち止まり、周囲の明るさと匂いを確かめる。それから、表情を整える。整えた笑顔ではない。表情を“置く”。置き場所の選び方が、いつもより慎重だ。
「……鍵、ほんとに借りてきたんだ」
「ああ」
天峰は、間を置かずに、頭を下げた。深々と。角度に迷いはない。
「私が浅はかだった。ごめん」
湊は、戸惑ったように目を瞬いた。謝罪を想定していなかった、というより、謝罪を受け取る準備ができていなかった顔。その顔は、少しだけ幼く見えた。幼さは弱さではない。無防備さの綺麗な側面だ。
「謝られると、弱い」
そう言って、彼は笑い、でも笑いの端に「降参」を少し混ぜた。天峰は、机を指さしかけて、指を戻した。
「机は使わない。——床に」
「いいね。俺も、その方が落ち着く」
二人は、窓際の低い本棚の前、絵本コーナーの柔らかなカーペットの上に、そのまま並んで座った。背中を本棚に預ける。背表紙の整然とした列が、背中越しに“秩序”を与えてくれる。机が壁になるなら、本棚は背骨になる。隣の距離は、手のひら半分より少しだけ遠い。手を伸ばせば触れるけれど、触れない距離。呼吸と呼吸が、同じページをめくるようにゆっくり揃っていく。
「——さっき、一年から事情を聞いた。『断り方の練習』だったと」
「……ああ。バレたか」
「隠すことではない」
「隠してたわけじゃない。ただ、言い訳にしたくなかった」
湊は視線を天井の角に浮かせて、言葉を探した。選ぶ速度はいつもより遅い。遅さは誠実の速度だ。彼は言葉の端を一度噛んでから、ほどいた。
「俺、さ。よく“太陽”とか言われるじゃん。自分でもわかってる。笑えば、場が明るくなる。ハイタッチすれば、誰かの機嫌がちょっと良くなる。——それ、やらないでいると、嫌われる気がする」
「嫌われるのが、怖い」
「うん。怖い。怖いから、バランス取っちゃう。どこでも“いい感じ”にしようとする。断れば楽になること、わかってるのに、『今は無理』って言えない。言ったあとの相手の顔を想像すると、ノドが詰まる。——それで、昨日の一年。話しかけるタイミング、俺にとっては“断る練習”にちょうどよかった。あいつも、俺に依存しすぎるのをやめたいって言ってくれたから、ロールプレイした。『今は無理』『あとで体育館で』『今日はこの話はここまで』って、言う練習」
言葉が、図書室の空気に沈んでいく。紙の匂いは、秘密を吸い取って隠してくれる。こぼれる音まで吸い取ってくれる。天峰は黙っていた。黙っていることが、聞くことの中で一番大事な手段だと知っている。沈黙は、相手の言葉の隙間に必要な酸素だ。
「……俺、人気者に見られてるの、嫌いじゃない。正直。でもその“人気”のせいで、余計に断れなくなる。『お前はいつも優しい』って言葉、嬉しいけど、枷になる。優しくない自分を見せたら、すぐ嫌われるんじゃないかって。——ほんとは、部活終わったあとは、誰とも話したくない日もある。帰り道、一人でコンビニの新作アイスを食べながら、何も考えず歩きたい日もある。でも、誰かに『写真撮ってください』って言われると、断れない。断ったあとに、タイムラインで『感じ悪い』って流れるのが怖い。だから、断り方を練習した。『今はできない』って言い方を、ちゃんと練習しないと俺、逃げ道を作れない」
湊の声は、途中で少し掠れた。掠れたところで、天峰は初めて、短く返した。
「怖いのは、私も同じだ」
「おまえが?」
「人に踏み込むほど、誤算が増える。私は誤差を嫌う。だから、最短で、必要な分だけ話し、必要な分だけ助け、必要な分だけ距離を取る。——そのはずだった」
ランプの灯りが、二人の横顔の輪郭を柔らかく撫でる。本棚から抜けた一冊分の隙間に、薄い影ができた。その影は、話の速さに応じて形を変えた。
「でも、おまえ、俺には踏み込んできた」
湊の声に、少し笑いが混じる。笑いは、やっと“いつもの”に戻りかけている。天峰は、素直に頷いた。
「君が、私の保留を崩すから」
息が、同時に止まった。図書室の空気が、一瞬だけ濃くなる。〈判断保留〉という言葉が、ふたりの頭の中で同じ意味で響いた。廊下ですれ違った朝、触れなかった指先の距離。保留は、道具だった。安全第一。けれど、道具は永遠ではない。使いどころを間違えると、傷になる。
天峰は、慎重に腕を上げた。動作は遅く、止まりそうで止まらない。湊の額に、人差し指の先を軽く置く。額は、ほんの少しだけ冷たい。そこから、前髪をなぞるように指をすべらせ、流れを整える。指先は、髪の毛の一本一本に過剰な圧をかけない。いつもの“安全第一”が、今夜は“優しさの形”をしている。
「乱れていた」
湊は、笑った。笑いは、降参と肯定を同じ割合で含む。
「雑に優しいの、反則」
「雑か?」
「褒め言葉のつもり」
「受領する」
言葉が溶けた。頭のどこにも引っかからず、舌の上でほどける種類の言葉。静かな図書室の空間に、二人の呼吸のリズムだけがある。外はもう青く暗い。窓ガラスに映る自分たちの影が、机の脚の影と重なって、シルエットになる。映えるシーンの言葉で言えば、〈夜の図書室・並んで座る二人のロングショット〉。誰も撮らないが、目は撮っている。
天峰は、ゆっくり、核心に触れた。音は低く、短い。
「保留は、解いていい?」
湊は、目を閉じた。まつ毛の影が頬に落ち、息が一拍遅れて出る。答えは短い。短いのに、音の厚みがある。
「……うん」
それだけで、充分だった。充分だとわかるのに、言葉はまだ続く。続けることは、正式にすることだ。正式は、二人にとって“逃げない”の言い換えだ。
閉館のチャイムが鳴る。図書室の鐘の音は、校内の他のどの音よりも少し長い余韻を持っている。時間を区切る鐘が、今夜は“区切りをほどく合図”になる。二人は立ち上がった。立ち上がると、視線が同じ高さになる。目の高さが揃うと、言葉は同じ平面に乗る。
天峰は、目を逸らさずに言った。これ以上削れないほど短く、たぶん一番やさしい定義で。
「では、正式に。君が好きだ」
湊の頬が、少しだけ赤くなった。赤くなるという現象は、本人にも自覚できる。そして、それを否定する言葉は、今夜はどこにも置かれていない。彼は一歩だけ近づいた。近づいた分だけ、影が重なる。二人の間に、机はない。本棚だけが背中を支えている。
「俺も。負けたくないけど、負けたい相手ができた」
茶目っ気の尻尾を、最後にほんの少しだけ残して、目は本気だ。勝負の言葉で愛を言うのは湊らしい。負けたい――その矛盾に、二人の物語の形が見える。天峰は、息を一度だけ笑いにした。
「その表現は、統計上、少数派だ」
「でも、優勝だろ」
「結果次第だ」
「結果、出そう」
言葉の“握手”が成立した。触れ合いはまだ最小限。額に触れた指の記憶だけが、体温の境界をやわらかくしている。〈額に触れる手のクローズアップ〉のカットが、遅れて胸の奥で再生される。図書室のランプが、二人の影を壁に長く延ばす。〈向き合うシルエット〉。どのカメラにも収まらないが、きっと誰かが見たら、“公式”のラベルを貼ってしまうだろう。
「……実務の話に戻す」
「戻すの早」
「SNSの件、広報委員とも共有する。『断り方テンプレ』を全校に配布する案を出す。『今は無理』『あとで』『ここまで』の三パターン。誰が言っても良い言葉として、学校の空気にする」
「いいな、それ。俺が一番助かる」
「君が助かるものは、他の誰かも助かる」
「……そういうとこ、ほんとにずるい」
「ずるいのか」
「褒め言葉だよ」
図書室の鍵を閉める前に、二人は一度だけ、座っていた場所を振り返った。本棚の下に小さな毛糸玉が落ちているのを、湊が拾い上げ、棚の上にそっと置く。誰かの手から転がり落ちたものは、誰かが拾えばいい。拾う手が隣にあるのは、想像以上に心強い。
鍵を回す音は、今度は“閉じる”ではなく“守る”に近い音に聞こえた。廊下は夜の匂いがする。蛍光灯の白が少し冷たく、窓の外の空は濃い藍に変わっていた。二人は肩を並べて歩いた。足音が、少しだけ同じテンポになる。階段の踊り場で、湊がふっと笑った。
「なあ」
「何」
「『保護者ではなく隣として居る』って言ったの、覚えてる?」
「ああ」
「さっき、“正式に”もらったから、俺も正式に返す。——隣、よろしく」
「了解。——君の“隣在”を、日常化する」
「難しい言い方しやがって」
「翻訳:そばにいる」
「それな」
出口のドアを押すと、夜風が頬を撫でた。カン、と遠くで自転車のスタンドが鳴る音。グラウンドに残った白線の粉が、靴底でかすかに鳴く。校舎の窓に、二人の影がうつり、一瞬だけ重なって、また別々になる。重なったことを、確かめる必要はもうない。必要なのは、重なった影がこれからどこまで伸びるかという測定だ。測定は、ふたりでやる。
帰り道、湊のスマホが震えた。通知の数は、まだ多い。けれど彼は、今夜は画面を伏せない。アプリを開き、深呼吸を一つ。指先が迷わず、短い文を打つ。
〈“断り方テンプレ”を作る。『今は無理』『あとで』『ここまで』。俺も使う。みんなも使って〉
投稿。賛否は来るだろう。けれど、“否”は、今夜は怖くない。“肯”も、過剰に頼らない。頼るのは、隣の歩幅だ。並んで歩くと、風の抜け方が少し変わる。角を曲がるときに、自然に肩が寄る。寄った肩を、誰も“保護者”とは呼ばない。呼び名が変わったのだから。
天峰は、ポケットの中で鍵の重さを確かめた。広報委員に返すための時間も、道筋も、頭の中で最短に組み直す。その作業の最中にも、隣の足音のリズムが耳の奥に入ってくる。邪魔ではない。むしろ、正確さのための基準になる。自分の歩幅だけで正確だった世界が、二つ分の歩幅で“より”正確になる。誤差は増える。だが、許容範囲は、隣に合わせて広がる。
「司」
「何」
「“人気投票で遊んでおいて”って言った件、根に持たないから」
「……ありがとう」
「ただし、二度目はペナルティ」
「具体的に」
「アイス奢り」
「合理的だ」
「だろ」
二人の笑い声が、夜の学校に小さく溶けた。図書室の窓はもう暗い。けれど、ここから続く物語のための光は、手のひらの中にしっかり灯っている。〈再接続完了〉。そんな言葉を、誰かがふざけてステッカーにしそうだ。ステッカーは要らない。要るのは、今夜の温度を明日へ運ぶための、真面目な歩調だけ。
翌朝、昇降口の空気はいつもより少し軽かった。ポスターの前で立ち止まる生徒の数も、いつもより少ない。SNSの「どっち派」スレッドは、夜のうちに新しい流れができていた。〈断り方テンプレ、使ってみた〉〈『今は無理』って言われたけど傷つかなかった〉〈言う方も楽〉。賛否の賛の方が、少しだけ多い。少しだけで充分だ。全員に届くことは、正しさの条件ではない。
湊は、昇降口で履き替えながら、背中の方から近づく足音に、自然に笑顔を向けた。被り物ではない笑顔。目の端が本当に緩む。天峰は、靴の先を揃えてから、その笑顔に、ごく小さく頷いた。朝の“おはよう”は、何も特別ではないが、今朝だけは“正式に”の余韻が薄く残っていた。
「おはよう」
「おはよう」
指先は触れない距離で、触れたのと同じくらいの情報を交換する。保留だったものはほどけ、かわりに結び目がひとつ増えた。ほどいた紐は、結び直した方が強い。強さは、競うためだけにあるわけじゃない。隣でいるためにも、必要だ。
校舎の角を曲がる風が、二人の前髪を同時に揺らした。天峰の指が、昨夜の癖を思い出すように、空中で一度だけ動いた。湊は、それに気づいて、少しだけ笑った。雑に優しいのは、やっぱり反則だ。反則は、ルールを壊すためではない。心を、少しだけ救うために使う。
今日も、授業が始まる。今日も、雑務がある。今日も、誰かが誰かに頼る。断り方のテンプレが、誰かの助けになる。広報委員会が配った紙の隅には、小さくこう書かれていた。〈“今は無理”は“ずっと無理”ではありません。〉――その注釈に、二人の昨夜がうっすら映っている。今は、解いた。次は、結ぶ。結び目の位置は、二人で決める。
図書室の鍵は、朝のうちに返却された。貸出ノートの欄外に、広報委員の先輩が練習で書いた字が残っている。〈青と白の夜〉。ジャンル不明のその四文字が、やけに気の利いたタイトルに見えた。天峰は、指先でそっとなぞり、何も言わずに扉を閉めた。湊は、廊下の向こうで友人に呼ばれ、軽く手を振って応え、それから一度だけ振り返った。視線がぶつかる。ぶつかっただけで、充分だ。
——保留の文字は、昨夜、ページから剥がれた。剥がれた跡は、薄く光っている。これから先、その光がどんな地図を照らすのかは、まだ誰も知らない。けれど、二人の歩幅は、もうその地図の上に正しく置かれている。負けたくなくて、負けたい。勝ちたくて、隣にいる。複雑な文法を、二人はこれから日常語にしていく。青と白の幕はまだ下りない。次の合図が鳴るまで、ページをめくる音を合わせればいい。



