日差しが夏の手前で跳ね、白い壁は少し眩しすぎるくらいに光っていた。ポスターはまだ校内の要所に貼られている。青と白の二人は、どこを歩いても視界の端に現れ、見上げれば笑わない笑顔でこちらを見ている。体育祭ののぼりは片づけられたが、話題はまだ続いていた。教室の隅でも、廊下の端でも、SNSのタイムラインでも。
〈#天峰星川連番尊い〉
〈司派? 湊派? いや連番派〉
〈体育祭アンカーで泣いた人→〉
〈廊下ですれ違っただけで健康になれる(幻覚)〉
冗談めいた言葉が、軽い風みたいに流れてく。ほとんどは善意で、ほとんどは遊びだ。けれど風は時折、砂を巻き上げる。砂は目に入り、笑っている口の端を少し切る。
「“どっち派”論争」が火種になったのは、昼休み明けのことだった。元々は投票スレッドの延長のようなものだったのだろう。
〈司くんの理詰め対応が一番、信頼〉
〈いや湊の太陽性が救うんだって〉
〈連番推しとしてはどっちも好き。けど、あえて言うなら——〉
〈連番って、結局どっちかがもう片方の踏み台では〉
〈は?〉
〈写真見ろよ。体育祭の。どう見ても湊が目立ってるじゃん〉
〈司くんが支えたから走れたのでは?〉
〈支えるって保護者じゃん(笑)〉
〈湊はモテが正義だしね。最近も一年と話してたし〉
〈それの写真ある〉
リンクが投げ込まれる。画面に現れたのは、体育館横の通路で星川(ほしかわ)湊が一年の男子に肩を並べ、スマホを見ながら何か説明している一枚。角度が悪い。湊の笑顔だけが切り取られ、相手の真剣な顔は影になっている。背景には、青いベンチ。キャプションはないのに、吹き出しは勝手につく。
〈後輩キラー〉
〈相談にかこつけて距離詰めてない?〉
〈モテ遊び?〉
〈いや普通にアドバイスでしょ〉
〈“普通”って、どこから?〉
湊は、そのスレッドをリアルタイムでは見ていなかった。彼はその時、ちょうど体育館の隅で一年の男子——小柄で、手が常に落ち着かず、シュートの時だけ指先だけはすっと伸びるタイプ——の相談に乗っていたからだ。肘の角度、踏み切り足の置き方、助走の速度。短い時間で伝えられるものは限られているけれど、伝えられるだけ伝えた。相手は「ありがとうございます」と頭を下げ、深く息を吐いてから走っていった。それで終わりだった。はずだった。
“切り取られた写真”は、別の時間軸で走り出す。
——天峰(あまみね)司は、不干渉を信条としてきた。誰かの会話に、必要以上に耳を入れない。迷惑がかかりそうな誤差には介入するが、意見に踏み込まない。意図しない解釈の連鎖はいつだって起きる。起きるものは、起きる。頭では、そう決めている。
その日、生徒会室で議事の下書きをしていた彼は、後輩から「SNS荒れてます」と端末を差し出されて、初めて件の写真を見た。画面に映る湊の笑顔は、彼の知っている笑顔だった。相手の筋肉をゆるめる種類の、あの笑顔。周囲の文字列が、その笑顔だけを別の意味に仕立てようとするのを、天峰の目は冷静に追った。追って、冷静でいられなくなったのは、自分でも意外だった。
眉根が、動いた。自分の顔の筋肉の動きを、自分で認識することがある。その一度だった。心拍数は上がらない。呼吸も変わらない。ただ、頭の中の決まりが一行、勝手に書き換えられた。
——不干渉、撤回。
生徒会室を出て、白い廊下に出る。掲示板の前は人で混んでいた。あのポスターの前で、また誰かがスマホをかざしている。天峰は流れに逆らわずに人を抜け、階段を降りる。視線は不用意に前に伸ばさず、必要なときだけ定規で線を引くみたいに上げる。視界の端。体育館へ続く廊下の陰から、湊が現れた。彼はいつも通りだった。汗は少し。肩は開いている。歩幅は軽い。表情は、普通の笑顔。——それが、火に油を注いだ。いや、油など最初から持っていなかった。ただ、火の位置が近づいた。
「君も断ればいい」
自分の声が、思っていたより冷たかった。冷たさを足して言ったわけではない。減らし方を知らなかっただけだ。音は短く、言葉は尖って、湊の胸に突き刺さる。
「……え?」
驚きの声は、最初は素の高さ。次に湊は笑った。笑って、受け流す体勢に入る。無意識の防御だ。けれど、笑いは一拍遅れて、胸に鈍い痛みが出た。痛みは、予想していなかった種類の場所から来る。
「俺、そういうの得意じゃない。誰でも断れるわけじゃない」
湊の声の「誰でも」のところに、わずかな震えが混ざった。震えは隠せる。隠せるが、隠さないと決める時もある。天峰は、その選択を認める前に、次の言葉を出してしまった。
「人気投票で遊んでおいて、今さら被害者面か」
言った瞬間、後悔した。口の中の味が変わる。鉄の味。けれど彼の顔は動かない。動かないように訓練されている。真顔の盾は、攻撃にもなる。
湊は、笑って背を向けた。笑った顔を盾にしているのに、背中は無防備だ。
「……了解。張り合い方、間違えたのは俺かもな」
足音は軽い。軽く聞こえるように歩いているだけだ。角を曲がったところで、湊は一度だけ壁に手をついた。掌に冷たい感触。白い壁は何も答えない。
教室に戻ると、クラスメイトが「大丈夫?」と笑い混じりに聞く。湊は「何が」と笑って返す。笑いは完璧だ。完成された芸としての笑い。けれど胸の薄い痛みは消えない。痛みは、呼吸の一部になって、喉の奥をこすっていく。
放課後。体育館の照明は半分だけ点いて、ラインの白が薄く浮かぶ。湊は練習を軽めに切り上げ、更衣室でシャツを脱ぎながら、スマホを取り出した。通知は、思ったよりも多くない。タイムラインは、思ったよりも騒がしい。
〈モテ遊び?〉
〈相手の一年、ちょっと迷惑そう〉
〈でも、普通にアドバイスだったよ。私、近くにいた〉
〈証拠〉
〈証拠って何?〉
〈“信じたいものだけ信じる”の典型……〉
湊は、画面を伏せた。画面は伏せても、文字は頭の中に反転して残る。残像は、消えるまで薄く光る。彼はベンチに座り、靴紐をほどいた。指先が、少しだけ震えた。疲れているからだ。そういうことにする。
(“例外”って、俺、勝手に思ってただけ?)
雨宿りの五分。絆創膏の白。息を吹きかけたときの、叫ぶほどではない恥ずかしさ。体育祭の白線。「行け」の声。肩に預けた体重。テントの影。「保護者ではなく隣として居る」。——言葉は確かだった。確かだったのに、今日のあの一言は、その確かさごと斜めに切っていく。「人気投票で遊んでおいて」。遊んでいない、と言い切れる自信はある。けれど、遊ばれていると見なされる構造に、乗ってきたのも事実だ。ポスター。SNS。笑顔。——張り合い方、間違えたのは自分か。自分だけか。答えは、今夜は出ない。
家に帰ると、カーテンは半分だけ開いていて、夏の手前の風が薄く入ってきた。湊は制服を椅子にかけ、シャワーを短く浴び、ベッドに体を落とした。スマホは机の上で伏せたまま。ひっくり返せば、何が見えるかは分かっている。分かっているものを見るために、今日はひっくり返す気力がない。枕に顔を押しつけ、目を閉じる。目を閉じても、文字は画面の裏から滲む。耳の奥で、体育祭の歓声が遅れて響く。遅れて響く声ほど、胸に刺さる。
(“隣”って、簡単じゃないのか)
誰かの隣でいることは、走るより難しい。走るのは、自分と地面と空気の問題だ。隣は、相手の呼吸と自分の呼吸を合わせること。合わせようとしても、どちらかが一度、意図せずに速くなることがある。今日は、どちらが速かったのだろう。答えは、今夜は出ない。
一方で——天峰は、自室の机に数学の問題集を広げた。広げて、ページが目の前で白く光るのを見た。文字列は黒いのに、白が眩しい。眩しい白は、何も入ってこない白だ。問題文の最初の「与えられた」の「与」の字が、ただの線の集合に見える。視線は、文字の上で滑って、定着しない。書き込みをしようとペンを持ち上げ、ペン先が紙に触れる前に止まる。止まったペン先の下で、紙の目がほんの少し毛羽立っているのが見える。視力は正常だ。観測の対象だけが、今夜は違う。
「……不合理だ」
声に出したら、少し落ち着くかと思った。落ち着かなかった。彼は、今日の自分の言葉を何度も反芻した。反芻は、言葉を薄く伸ばし、薄く伸ばされた言葉は、刃物の代わりに紙やすりになる。削れるのは、相手の表面ではなく、自分の内側の角だ。角が削れると、形が変わる。変わることは、嫌いではない。けれど、意図しない変化は、統計の外側にある。
「人気投票で遊んでおいて——」
なぜ、その言葉が出たのか。自分でも、わからないわけではない。投票に意味はない、とずっと思ってきた。意味のあるものは、別にある。学力、実行力、責任の所在。けれど、あのポスターが貼られてから、投票の数字が自分の周囲の空気を変えるのを、彼は知ってしまった。空気は形を持たないが、速度を持つ。他人の速度に自分の歩幅が影響されることが、何よりも嫌だった。嫌だったのに——湊に悪意が向いた瞬間、彼は自分から速度を変えにいった。不干渉の原則を破り、冷たい声で踏み込んだ。踏み込んで、踏み越えた。境界線は白いチョークで引かれているわけではない。けれど、今は自分の靴底に粉の感触が残っている。
机の端に置いていたノートを開いた。そこには、ここ数週間の“記録”が並ぶ。〈記録:雨宿り五分。隣在時、心拍数の上昇は許容範囲。会話、非業務系の成功。指先の接触に対し回避反応なし。仮説:例外指定の影響〉。——例外指定。自分で書いた言葉が、今夜は遠い。一行飛ばしたページに、今日の日付を入れる。ペン先が震えないうちに、短く書く。
〈発言:不適切。原因:感情の介入。結果:距離が生じた模様〉
「模様」。曖昧さを残す保険の語。保険は好きだ。けれど今夜は、保険でも救えない種類の誤差がある。彼はペンを置き、両手で目を覆った。目の裏側に、白い廊下が見える。自分の声の冷たさが、耳の奥で硬化していく。硬化したものは、砕けにくい。砕けにくいものを、どう扱うべきか。解法は、今夜は見つからない。
ベッドに横になっても、眠りは浅い。浅い眠りは、夢の代わりに思考を繰り返す。繰り返すたび、同じ画像が少しずつ解像度を上げる。体育祭の白線。廊下の陰。湊の笑い。背を向ける肩甲骨。——「保護者ではなく隣として居る」。自分の言葉は、自分に返る。返された言葉は、別の意味になる。隣は、距離の単位ではない。関係の形だ。その形を、自分で歪めた。歪んだものは、熱だけでは戻らない。
翌朝。昇降口に、朝の湿気が薄く残っている。靴箱の扉は少し重い。金属の蝶番が小さく鳴る。人は多い。騒がしくはない。ざわざわと、紙をめくるような音が続く。ポスターの前には、まだ立ち止まる生徒がいる。写真の二人は今日も並び、距離は手のひら半分。——現実は、その半分よりも遠い。
湊は、いつもの笑顔を被っていた。被る、という言葉が今日だけは正確だ。笑顔は顔の皮膚の上にある別の皮膚だ。被り物としての笑顔は、よく出来ている。目尻の皺も、声の高さの調整も、完璧だ。だからこそ、隣を通り過ぎる相手にはバレない。バレてほしくない相手にも、バレない。
天峰は、靴の先を揃えてから上履きに足を入れた。動作はいつも通り。紐の結び目は左右対称。肩にかけた鞄の重さは、昨日と同じ。——違うのは視線だ。視線は、斜め下へ落ちる。落ちる視線は、負けのサインではない。けれど、勝ちでもない。判断保留。保留は、役に立つ言葉だった。今日は、言い訳に近い。
二人は、昇降口の中央で、ほんの一瞬、同じ空気の中に立った。向き合わない。向き合えば、何かがこぼれるからだ。こぼれたものは、拭き取れない。湊は、廊下の向こうを見た。天峰は、掲示板の端のピンの位置を見た。見て、何も直さなかった。直せるものは他にあったが、今は手を出せない。
すれ違う一瞬、指先は触れない距離を選んだ。選んだという自覚があるほどの短い時間ではない。けれど、体は賢い。体の賢さは、時に心よりも残酷だ。半歩だけ内側に入れる膝の角度を、湊は昨日覚えた。今日は、半歩だけ外側へ出す。安全第一。安全は、誰のためのものか。今朝は、自分のためだ。
背中同士が遠ざかる。背中は、顔より正直だ。正直さは、朝の空気に紛れて、誰にも見えない。見えないことに、救われる人と、救われない人がいる。二人は、救われないまま、同じ学校の同じ一日へ入っていく。
——SNSの“切り取られた写真”は、今日も一人歩きしている。吹き出しは増えたり減ったりして、誰かが真面目に反論して、誰かが冗談で火を広げる。画面の向こうで燃えるものは、画面のこちら側の体温を上げる。上がった体温を下げる方法は、いくつもある。深呼吸。冷水。距離をとる。隣にいる。——最後の方法は、今は使えない。だからこそ、必要だと分かる。必要だと分かったものは、いつか、手に入れる。手に入れるために、今日の距離を記録する。
廊下の角で、湊は一度だけ立ち止まり、振り返らなかった。振り返ることは、簡単だ。簡単だからこそ、難しい。教室に入る。「おはよう」という声が飛ぶ。彼は「おはよう」と返す。声は明るい。明るさは必要だ。必要で、嘘だ。嘘は悪ではない。必要な嘘は、誰かを守る。今日は、自分を守る。
生徒会室では、天峰がホワイトボードの前に立ち、マーカーのキャップを開けた。予定表の曜日の並びを一つずつ書き入れていく。月、火、水。木、金。字はいつも通りに綺麗だ。綺麗さは、何も保証しない。彼は、キャップを閉め、机に座った。ペンを持ち、ノートを開く。開いたページの上に、今日の言葉を一行だけ置く。
〈距離:発生。対処:未定〉
未定。未定のまま、鐘が鳴る。チャイムの音は、昨年から少し音質が変わった。新しいスピーカーに替えたからだ。音は新しい。けれど、鳴らす意味は変わらない。始業。始まりは、いつだって同じ音で告げられる。違うのは、そこに立っている二人の配置だ。ポスターの中では、いつも並んでいる。現実の二人は、今日は並ばない。その不一致が、胸の奥で薄く痛む。
初めての距離が生まれた。距離は、数字にできる。できるが、したくない。数字にしてしまうと、縮めるときに壁になる。壁は、越えるより、回す方が得意だ。回り道は、時に最短になる。——そういう理屈を、二人は知っている。知っているのに、朝は過ぎる。過ぎることしか、朝にはできないからだ。
映えるシーンは、今日もどこかにある。SNSの“切り取られた写真”と陰口の吹き出し。廊下でのすれ違い・指先が触れない距離。ポスターの前で立ち止まる誰かの靴の影。——誰も撮らない瞬間だけが、本当は一番、後に残る。残るものは、次の章の材料になる。材料が苦いほど、火にかけたときの香りは強い。そういう料理の仕方を、二人はまだ知らない。知らないまま、今日の一行を、それぞれのノートに書き足す。
〈保留:継続〉
保留の文字は、前より重い。重さは、持てる。持ちながら走ることだって、できる。重さが“隣”という言葉の肩にかかるとき、どう支え合うのか。——答えは、まだ、ない。だが、舞台はもう組まれている。青と白の幕は、まだ下りていない。次の合図がかかるのを、鐘が待っている。
〈#天峰星川連番尊い〉
〈司派? 湊派? いや連番派〉
〈体育祭アンカーで泣いた人→〉
〈廊下ですれ違っただけで健康になれる(幻覚)〉
冗談めいた言葉が、軽い風みたいに流れてく。ほとんどは善意で、ほとんどは遊びだ。けれど風は時折、砂を巻き上げる。砂は目に入り、笑っている口の端を少し切る。
「“どっち派”論争」が火種になったのは、昼休み明けのことだった。元々は投票スレッドの延長のようなものだったのだろう。
〈司くんの理詰め対応が一番、信頼〉
〈いや湊の太陽性が救うんだって〉
〈連番推しとしてはどっちも好き。けど、あえて言うなら——〉
〈連番って、結局どっちかがもう片方の踏み台では〉
〈は?〉
〈写真見ろよ。体育祭の。どう見ても湊が目立ってるじゃん〉
〈司くんが支えたから走れたのでは?〉
〈支えるって保護者じゃん(笑)〉
〈湊はモテが正義だしね。最近も一年と話してたし〉
〈それの写真ある〉
リンクが投げ込まれる。画面に現れたのは、体育館横の通路で星川(ほしかわ)湊が一年の男子に肩を並べ、スマホを見ながら何か説明している一枚。角度が悪い。湊の笑顔だけが切り取られ、相手の真剣な顔は影になっている。背景には、青いベンチ。キャプションはないのに、吹き出しは勝手につく。
〈後輩キラー〉
〈相談にかこつけて距離詰めてない?〉
〈モテ遊び?〉
〈いや普通にアドバイスでしょ〉
〈“普通”って、どこから?〉
湊は、そのスレッドをリアルタイムでは見ていなかった。彼はその時、ちょうど体育館の隅で一年の男子——小柄で、手が常に落ち着かず、シュートの時だけ指先だけはすっと伸びるタイプ——の相談に乗っていたからだ。肘の角度、踏み切り足の置き方、助走の速度。短い時間で伝えられるものは限られているけれど、伝えられるだけ伝えた。相手は「ありがとうございます」と頭を下げ、深く息を吐いてから走っていった。それで終わりだった。はずだった。
“切り取られた写真”は、別の時間軸で走り出す。
——天峰(あまみね)司は、不干渉を信条としてきた。誰かの会話に、必要以上に耳を入れない。迷惑がかかりそうな誤差には介入するが、意見に踏み込まない。意図しない解釈の連鎖はいつだって起きる。起きるものは、起きる。頭では、そう決めている。
その日、生徒会室で議事の下書きをしていた彼は、後輩から「SNS荒れてます」と端末を差し出されて、初めて件の写真を見た。画面に映る湊の笑顔は、彼の知っている笑顔だった。相手の筋肉をゆるめる種類の、あの笑顔。周囲の文字列が、その笑顔だけを別の意味に仕立てようとするのを、天峰の目は冷静に追った。追って、冷静でいられなくなったのは、自分でも意外だった。
眉根が、動いた。自分の顔の筋肉の動きを、自分で認識することがある。その一度だった。心拍数は上がらない。呼吸も変わらない。ただ、頭の中の決まりが一行、勝手に書き換えられた。
——不干渉、撤回。
生徒会室を出て、白い廊下に出る。掲示板の前は人で混んでいた。あのポスターの前で、また誰かがスマホをかざしている。天峰は流れに逆らわずに人を抜け、階段を降りる。視線は不用意に前に伸ばさず、必要なときだけ定規で線を引くみたいに上げる。視界の端。体育館へ続く廊下の陰から、湊が現れた。彼はいつも通りだった。汗は少し。肩は開いている。歩幅は軽い。表情は、普通の笑顔。——それが、火に油を注いだ。いや、油など最初から持っていなかった。ただ、火の位置が近づいた。
「君も断ればいい」
自分の声が、思っていたより冷たかった。冷たさを足して言ったわけではない。減らし方を知らなかっただけだ。音は短く、言葉は尖って、湊の胸に突き刺さる。
「……え?」
驚きの声は、最初は素の高さ。次に湊は笑った。笑って、受け流す体勢に入る。無意識の防御だ。けれど、笑いは一拍遅れて、胸に鈍い痛みが出た。痛みは、予想していなかった種類の場所から来る。
「俺、そういうの得意じゃない。誰でも断れるわけじゃない」
湊の声の「誰でも」のところに、わずかな震えが混ざった。震えは隠せる。隠せるが、隠さないと決める時もある。天峰は、その選択を認める前に、次の言葉を出してしまった。
「人気投票で遊んでおいて、今さら被害者面か」
言った瞬間、後悔した。口の中の味が変わる。鉄の味。けれど彼の顔は動かない。動かないように訓練されている。真顔の盾は、攻撃にもなる。
湊は、笑って背を向けた。笑った顔を盾にしているのに、背中は無防備だ。
「……了解。張り合い方、間違えたのは俺かもな」
足音は軽い。軽く聞こえるように歩いているだけだ。角を曲がったところで、湊は一度だけ壁に手をついた。掌に冷たい感触。白い壁は何も答えない。
教室に戻ると、クラスメイトが「大丈夫?」と笑い混じりに聞く。湊は「何が」と笑って返す。笑いは完璧だ。完成された芸としての笑い。けれど胸の薄い痛みは消えない。痛みは、呼吸の一部になって、喉の奥をこすっていく。
放課後。体育館の照明は半分だけ点いて、ラインの白が薄く浮かぶ。湊は練習を軽めに切り上げ、更衣室でシャツを脱ぎながら、スマホを取り出した。通知は、思ったよりも多くない。タイムラインは、思ったよりも騒がしい。
〈モテ遊び?〉
〈相手の一年、ちょっと迷惑そう〉
〈でも、普通にアドバイスだったよ。私、近くにいた〉
〈証拠〉
〈証拠って何?〉
〈“信じたいものだけ信じる”の典型……〉
湊は、画面を伏せた。画面は伏せても、文字は頭の中に反転して残る。残像は、消えるまで薄く光る。彼はベンチに座り、靴紐をほどいた。指先が、少しだけ震えた。疲れているからだ。そういうことにする。
(“例外”って、俺、勝手に思ってただけ?)
雨宿りの五分。絆創膏の白。息を吹きかけたときの、叫ぶほどではない恥ずかしさ。体育祭の白線。「行け」の声。肩に預けた体重。テントの影。「保護者ではなく隣として居る」。——言葉は確かだった。確かだったのに、今日のあの一言は、その確かさごと斜めに切っていく。「人気投票で遊んでおいて」。遊んでいない、と言い切れる自信はある。けれど、遊ばれていると見なされる構造に、乗ってきたのも事実だ。ポスター。SNS。笑顔。——張り合い方、間違えたのは自分か。自分だけか。答えは、今夜は出ない。
家に帰ると、カーテンは半分だけ開いていて、夏の手前の風が薄く入ってきた。湊は制服を椅子にかけ、シャワーを短く浴び、ベッドに体を落とした。スマホは机の上で伏せたまま。ひっくり返せば、何が見えるかは分かっている。分かっているものを見るために、今日はひっくり返す気力がない。枕に顔を押しつけ、目を閉じる。目を閉じても、文字は画面の裏から滲む。耳の奥で、体育祭の歓声が遅れて響く。遅れて響く声ほど、胸に刺さる。
(“隣”って、簡単じゃないのか)
誰かの隣でいることは、走るより難しい。走るのは、自分と地面と空気の問題だ。隣は、相手の呼吸と自分の呼吸を合わせること。合わせようとしても、どちらかが一度、意図せずに速くなることがある。今日は、どちらが速かったのだろう。答えは、今夜は出ない。
一方で——天峰は、自室の机に数学の問題集を広げた。広げて、ページが目の前で白く光るのを見た。文字列は黒いのに、白が眩しい。眩しい白は、何も入ってこない白だ。問題文の最初の「与えられた」の「与」の字が、ただの線の集合に見える。視線は、文字の上で滑って、定着しない。書き込みをしようとペンを持ち上げ、ペン先が紙に触れる前に止まる。止まったペン先の下で、紙の目がほんの少し毛羽立っているのが見える。視力は正常だ。観測の対象だけが、今夜は違う。
「……不合理だ」
声に出したら、少し落ち着くかと思った。落ち着かなかった。彼は、今日の自分の言葉を何度も反芻した。反芻は、言葉を薄く伸ばし、薄く伸ばされた言葉は、刃物の代わりに紙やすりになる。削れるのは、相手の表面ではなく、自分の内側の角だ。角が削れると、形が変わる。変わることは、嫌いではない。けれど、意図しない変化は、統計の外側にある。
「人気投票で遊んでおいて——」
なぜ、その言葉が出たのか。自分でも、わからないわけではない。投票に意味はない、とずっと思ってきた。意味のあるものは、別にある。学力、実行力、責任の所在。けれど、あのポスターが貼られてから、投票の数字が自分の周囲の空気を変えるのを、彼は知ってしまった。空気は形を持たないが、速度を持つ。他人の速度に自分の歩幅が影響されることが、何よりも嫌だった。嫌だったのに——湊に悪意が向いた瞬間、彼は自分から速度を変えにいった。不干渉の原則を破り、冷たい声で踏み込んだ。踏み込んで、踏み越えた。境界線は白いチョークで引かれているわけではない。けれど、今は自分の靴底に粉の感触が残っている。
机の端に置いていたノートを開いた。そこには、ここ数週間の“記録”が並ぶ。〈記録:雨宿り五分。隣在時、心拍数の上昇は許容範囲。会話、非業務系の成功。指先の接触に対し回避反応なし。仮説:例外指定の影響〉。——例外指定。自分で書いた言葉が、今夜は遠い。一行飛ばしたページに、今日の日付を入れる。ペン先が震えないうちに、短く書く。
〈発言:不適切。原因:感情の介入。結果:距離が生じた模様〉
「模様」。曖昧さを残す保険の語。保険は好きだ。けれど今夜は、保険でも救えない種類の誤差がある。彼はペンを置き、両手で目を覆った。目の裏側に、白い廊下が見える。自分の声の冷たさが、耳の奥で硬化していく。硬化したものは、砕けにくい。砕けにくいものを、どう扱うべきか。解法は、今夜は見つからない。
ベッドに横になっても、眠りは浅い。浅い眠りは、夢の代わりに思考を繰り返す。繰り返すたび、同じ画像が少しずつ解像度を上げる。体育祭の白線。廊下の陰。湊の笑い。背を向ける肩甲骨。——「保護者ではなく隣として居る」。自分の言葉は、自分に返る。返された言葉は、別の意味になる。隣は、距離の単位ではない。関係の形だ。その形を、自分で歪めた。歪んだものは、熱だけでは戻らない。
翌朝。昇降口に、朝の湿気が薄く残っている。靴箱の扉は少し重い。金属の蝶番が小さく鳴る。人は多い。騒がしくはない。ざわざわと、紙をめくるような音が続く。ポスターの前には、まだ立ち止まる生徒がいる。写真の二人は今日も並び、距離は手のひら半分。——現実は、その半分よりも遠い。
湊は、いつもの笑顔を被っていた。被る、という言葉が今日だけは正確だ。笑顔は顔の皮膚の上にある別の皮膚だ。被り物としての笑顔は、よく出来ている。目尻の皺も、声の高さの調整も、完璧だ。だからこそ、隣を通り過ぎる相手にはバレない。バレてほしくない相手にも、バレない。
天峰は、靴の先を揃えてから上履きに足を入れた。動作はいつも通り。紐の結び目は左右対称。肩にかけた鞄の重さは、昨日と同じ。——違うのは視線だ。視線は、斜め下へ落ちる。落ちる視線は、負けのサインではない。けれど、勝ちでもない。判断保留。保留は、役に立つ言葉だった。今日は、言い訳に近い。
二人は、昇降口の中央で、ほんの一瞬、同じ空気の中に立った。向き合わない。向き合えば、何かがこぼれるからだ。こぼれたものは、拭き取れない。湊は、廊下の向こうを見た。天峰は、掲示板の端のピンの位置を見た。見て、何も直さなかった。直せるものは他にあったが、今は手を出せない。
すれ違う一瞬、指先は触れない距離を選んだ。選んだという自覚があるほどの短い時間ではない。けれど、体は賢い。体の賢さは、時に心よりも残酷だ。半歩だけ内側に入れる膝の角度を、湊は昨日覚えた。今日は、半歩だけ外側へ出す。安全第一。安全は、誰のためのものか。今朝は、自分のためだ。
背中同士が遠ざかる。背中は、顔より正直だ。正直さは、朝の空気に紛れて、誰にも見えない。見えないことに、救われる人と、救われない人がいる。二人は、救われないまま、同じ学校の同じ一日へ入っていく。
——SNSの“切り取られた写真”は、今日も一人歩きしている。吹き出しは増えたり減ったりして、誰かが真面目に反論して、誰かが冗談で火を広げる。画面の向こうで燃えるものは、画面のこちら側の体温を上げる。上がった体温を下げる方法は、いくつもある。深呼吸。冷水。距離をとる。隣にいる。——最後の方法は、今は使えない。だからこそ、必要だと分かる。必要だと分かったものは、いつか、手に入れる。手に入れるために、今日の距離を記録する。
廊下の角で、湊は一度だけ立ち止まり、振り返らなかった。振り返ることは、簡単だ。簡単だからこそ、難しい。教室に入る。「おはよう」という声が飛ぶ。彼は「おはよう」と返す。声は明るい。明るさは必要だ。必要で、嘘だ。嘘は悪ではない。必要な嘘は、誰かを守る。今日は、自分を守る。
生徒会室では、天峰がホワイトボードの前に立ち、マーカーのキャップを開けた。予定表の曜日の並びを一つずつ書き入れていく。月、火、水。木、金。字はいつも通りに綺麗だ。綺麗さは、何も保証しない。彼は、キャップを閉め、机に座った。ペンを持ち、ノートを開く。開いたページの上に、今日の言葉を一行だけ置く。
〈距離:発生。対処:未定〉
未定。未定のまま、鐘が鳴る。チャイムの音は、昨年から少し音質が変わった。新しいスピーカーに替えたからだ。音は新しい。けれど、鳴らす意味は変わらない。始業。始まりは、いつだって同じ音で告げられる。違うのは、そこに立っている二人の配置だ。ポスターの中では、いつも並んでいる。現実の二人は、今日は並ばない。その不一致が、胸の奥で薄く痛む。
初めての距離が生まれた。距離は、数字にできる。できるが、したくない。数字にしてしまうと、縮めるときに壁になる。壁は、越えるより、回す方が得意だ。回り道は、時に最短になる。——そういう理屈を、二人は知っている。知っているのに、朝は過ぎる。過ぎることしか、朝にはできないからだ。
映えるシーンは、今日もどこかにある。SNSの“切り取られた写真”と陰口の吹き出し。廊下でのすれ違い・指先が触れない距離。ポスターの前で立ち止まる誰かの靴の影。——誰も撮らない瞬間だけが、本当は一番、後に残る。残るものは、次の章の材料になる。材料が苦いほど、火にかけたときの香りは強い。そういう料理の仕方を、二人はまだ知らない。知らないまま、今日の一行を、それぞれのノートに書き足す。
〈保留:継続〉
保留の文字は、前より重い。重さは、持てる。持ちながら走ることだって、できる。重さが“隣”という言葉の肩にかかるとき、どう支え合うのか。——答えは、まだ、ない。だが、舞台はもう組まれている。青と白の幕は、まだ下りていない。次の合図がかかるのを、鐘が待っている。



