朝から空は高く、白い雲が薄く引き伸ばされたまま動かなかった。校庭の白線は昨日の夕方に引き直され、粉の匂いが風に混じっている。スピーカーから流れる開会宣言は少しだけ音割れしていて、先生の声はやけに張り切っていた。紅白の万国旗が揺れ、テントの下には氷と水を詰めたバケツが並ぶ。体育祭の空気は、毎年同じで、毎年少し違う。
星川(ほしかわ)湊は、スタート地点を見渡して、軽く脚を弾ませた。体は良く動く。昨日の夜に張り替えたスパイクのピンが、砂の感触を正しく伝える。彼はアンカー。クラス対抗リレーの最後を任された。いつものコートとは違うトラックだが、走ることの根っこは同じだ。呼吸、接地、腕の振り。音楽のリズムを身体でなぞるように、準備の動作が続く。
一方で、天峰(あまみね)司は、運営補助という名の“戦略立案とバトン修正係”としてテントの横に陣取っていた。ホワイトボードに簡単なコース図と各クラスの出走順、目安タイムを書き込み、バトンエリアの幅とラインの位置をチェックする。バトンのテープ巻き直し、グリップの摩耗確認、交代ゾーンの最適な立ち位置の指示——彼にとって、競技は数式に似ていた。正しく整えれば、余分な誤差は減る。
「天峰、こっちのバトン、テープ端っこ剥がれてる」
クラスメイトの水谷が差し出す。青いテープが端でめくれ、指にくっつきそうだ。天峰はハサミで斜めに切り落とし、巻き直した。端は必ず斜めに。角が次の剥がれの起点になる。彼は無駄なく手を動かしながら、目だけでトラックを追う。
始まった。他クラスの第一走者が一斉に飛び出し、歓声が一段上がる。砂が跳ねる音。スパイクが食い込むリズム。天峰は、バトンの受け渡しエリアの境界線に視線を滑らせ、二年三組の第二走者のスタート位置を一歩だけ修正する。「ライン手前、足ひとつ分」。指示は短く、正確に。
「了解!」
湊は、その様子を横目に見ながら、深呼吸を一度だけした。胸が上下する。肺が空気を飲み込み、血に混ざり、足の裏へ降りていく。アンカーの仕事は、受け取った状況をひっくり返すことではない。受け取った状況の、最善の出口を探すことだ。そう教えてくれたのは、何度も競ったコートと、最近では隣で淡々と地図を引く男だ。
第一走者が折り返し、二番手へ。二年三組は悪くない位置。四位と三位の間の距離が詰まり、次が肝だ——そう思った矢先、第三走者の一人がカーブで足を滑らせ、派手に転んだ。ざっと息が詰まる音が、テントの影からいくつも上がる。
「大丈夫か!」
「転倒あり!」
係の先生が駆け寄る。その一瞬で、各クラスの並びが崩れ、交代ゾーンの空気がざわついた。予定より早く、アンカーにまわってくる。湊は表情を変えない。むしろ、眉を少しだけ下げて、視界の余計な色を落とした。早まった呼吸を整えるのは練習で身につけた。身体は、命令すれば応える。
だが、走り出してすぐ、右足首の内側に違和感が走った。朝のアップで少しひねったのを忘れていたわけではない。忘れてはいないが、軽微と判断し、処理した。テーピングで補助もしてある。——それでも、カーブの角度で、わずかなノイズが現れる。痛みではない。信号だ。湊は顔を変えない。表情を走る道具にしないことも、彼は知っている。
天峰の目だけが、その一瞬のフォームの乱れを捉えた。右足の接地角が、通常より三度外を向いた。膝の振り出しが、半拍遅れた。腕の振りは維持。視線は落ちない。このまま直線なら持つ。だが、次のカーブでさらに内側に力がかかる。修正が必要——。
彼はバトンエリアの手前、コース脇に移動し、人のざわめきに紛れるギリギリの声量で、湊だけに届く音域を選んだ。声は短く、斜めに届く。
「次のカーブ、膝をもう一歩内側へ」
湊の耳が、わずかに動いたように見えた。伝わった。彼はカーブの入口で、膝をほんの半歩だけ内側へ差し入れ、足首への負担の方向を変えた。重心がスムーズに流れる。無理のない加速。外から一人をかわし、順位がひとつ上がる。歓声が抜けた空気へ戻り、押し返す波のように高まる。
「二年三組、詰めてきた!」
「いける、いける!」
ラストの直線が迫る。湊は、ピッチを無理に上げない。ストライドの微調整で速度を作る。接地は短く、離地は軽く。右足首の違和感は、今はただの情報だ。痛みにするかどうかは、自分が決める。そんな冷静さと、熱の真ん中でしか鳴らない鼓動。背中で風が押す。
僅差でトップの背中が見え、並びかけた瞬間——天峰は、バトンエリアの白い三角印のぎりぎり手前に駆け寄った。レギュレーションぎりぎり。そこから先は入ってはいけない。白線一つだけの距離を隔て、彼は湊の目線の高さに合わせるために、半歩だけ腰を落とした。
「——行け」
短い。けれど、背骨をまっすぐ通る声。湊は笑った。笑いの正体は余裕ではない。信頼だ。誰に、何を、と問う必要のない種類の信頼。彼は最後の四歩でピッチを一段上げ、胸がテープを切る感触を受け止めた。白が音もなく裂ける。歓声が爆発する。
耳の内側が熱い。呼吸が早い。視界の端で、クラスメイトが宙に飛び上がるのが見えた。肩が叩かれ、背中に腕がまわる。その全部に頷き返す余裕はない。身体が、限界を訴え始めていた。右足首は「もうやめて」と言うまではいかないが、「負荷の角度を変えろ」と強く要求している。膝が、砂の上で抜けかけた。
支えたのは、反射だった。
天峰の手が、湊の肘の内側を正確に捉え、肩甲骨の内側にもう片方の手のひらを滑り込ませる。抱き寄せたのではない。倒れ込みを受け止め、重心を一度だけ持ち上げ、背中に預からせる角度を作った。シルエットだけ見れば、抱き寄せに近い。けれど、力の入れどころは救護と同じだ。合理は優しさの形をすることがある。
「救護テントへ」
「おおげさ」
「歩けるのか」
「歩く。けど、隣にいて」
「いる」
短い言葉の往復。湊は、言い訳なしに肩に重さを預けた。負けた気はしない。負けることの定義が、さっき少しだけ変わったのだと、彼の身体が知っていた。背中の支えは固くなく、かといって柔らかすぎもしない。安全第一。けれど、その中に、今日だけは“例外”の熱が混じっていた。
救護テント。ひんやりした影。白い布の匂い。巻かれた氷嚢。保健の先生がテキパキと問診をし、腫れの有無を確かめ、軽く圧迫をかける。「捻挫ではなさそうね。張り。アイシング二十分」。湊は靴を脱ぎ、スパイクの紐を緩め、足首を氷に預けた。冷たさが皮膚から骨へ降り、熱を静かに連れ出していく。
天峰は、先生の邪魔をしない距離で、氷嚢の位置を手で支えている。指先は落ち着いていて、わずかに湿っている。汗ではない。氷の水滴だ。彼は時計を見、時間を口に出さないまま数える。湊は、その横顔を視界に入れたまま、笑った。
「ありがと。助かった」
氷嚢が少しずれて、天峰の手が軽く位置を直す。動作にためらいはない。湊は、さっきの「行け」の声と、今のこの手の確かさが、同じ場所から来ているのを感じた。言葉と行為の根っこが一致している人間は、少ない。
「君が倒れると、私のペースも崩れる」
天峰は、真顔で言った。抑揚はない。けれど、その平板さが、むしろ本音の輪郭をくっきりさせる。湊は「……それ、心配したってこと?」と問うた。彼は冗談で逃げなかった。逃げない方が良い場面を、今日は見分けられる。
「理に適う行動だ」
短い返答。いつもの彼らしい逃げ道——いや、防水。言葉に余分な感情が染み込んで、形を歪めないように。けれど湊は、その理屈の奥に透ける私情を見た。氷の冷たさに、胸の内側だけが温かい。心臓は、試合のときほど速くないのに、打つたびに「ここにいる」と告げてくる。
テントの端で、風が少し動いた。白い布がふわりと揺れ、影が形を変える。湊は天井の布の端を眺めながら、淡く息を吐いた。
「なあ」
「何」
「おまえ、今日、何回“安全第一”って言った?」
「四回」
「数えてるのかよ」
「癖で」
笑いが落ちたあと、ふいに静けさが降りた。応援の歓声は遠のき、テントの中は、冷たい水滴が落ちる音が時々するだけだ。湊は、自分で驚くほど素直に次の言葉を出した。
「……それが、今日はすごく心強かった」
天峰は、目を一度だけ細めた。彼は評価や賛辞に対して、礼を言うタイミングを誤らないタイプだ。けれど、今は礼を言わなかった。代わりに、氷嚢の上から手のひらで、軽く圧をかける。その圧は、返事の代わりだった。
「あと十六分」
「長い」
「短い」
「……次の競技、見に行ってもいい?」
「ダメだ」
「即答」
「理に適わない」
「はいはい」
言い合いは、いつもより丸かった。角を落とした木の玩具みたいに、掌の中で転がる。湊は、氷の冷たさがじわじわと痛みを“情報”へ戻していくのを感じながら、ふと考えた。自分は“支えられる”ことに、昔から少しだけ不器用だった。背負われるより、背負う方が簡単だ。けれど、今日のあの一瞬——膝が抜けた瞬間に、反射で肩を差し出す相手がいることを、体の芯が覚えた。覚えたことは、次の動作を滑らかにする。
アイシングが終わり、軽く圧迫を残してテーピングを巻き直す。保健の先生が注意事項を言い、湊は素直に頷いた。天峰は、クラスのリレー結果と得点状況を短くまとめ、ホワイトボードの修正に向かう。湊はその背中を目で追い、足を床に戻して、靴紐を結ぶ。縛り直した結び目は、さっきより少しだけ固い。固いことが、安心になることがある。
午後の競技が終わり、閉会式が済んだ頃には、空は少し赤くなり、校庭の砂はところどころで薄く色を変えていた。クラスメイトが「打ち上げ行こうぜ」と声を上げ、名前が呼ばれる。フードコートのある駅前か、いつもの安いファミレスか。笑い声は疲れを隠し、疲れは笑いを柔らかくする。
人混みを抜ける廊下は、万国旗の影が長く伸び、窓の外には片付け中のテントが見えた。湊は歩きながら、前を行く天峰の袖を、また「ちょん」と引いた。ひさしの下で覚えた、控えめな引力。布が一センチ動く。彼は、足を止めた。
「俺、弱ってるとき、素直になる」
「知っている」
「……今日、すごく心強かった」
繰り返し。言葉は、二度目に言った方が深く届くことがある。自分の耳にも、相手の胸にも。湊は、それを学んだ。学びは、今日一日でいちばんの得点かもしれない。
天峰は、短く息を吸った。返答は、いつもの「理に適う」でも、「安全第一」でもない。彼は、ほんのわずかに目線を落として、言葉を選んだ。選んだことが、わかる速度で。
「次は保護者ではなく隣として居る」
“隣”。その言葉に、湊の耳の奥で何かが長く残った。鼓膜の裏に貼りついて、じわりと温度を放つ。保護者、という比喩で逃げなかった。保護者なら理由は簡単だ。正しさで語れる。隣は違う。選択だ。選んだことを、今、言った。言って、引き受けた。
「……隣、な」
湊は、笑った。照れる笑いじゃない。誇らしい音が、また胸の奥で鳴る。今日、何度目だろう。回数を数える癖はないが、この音だけは、増えれば増えるほど強くなる。
「打ち上げ、どうする」
「行け」
「お前も?」
「少しだけ。騒音が閾値を超えたら帰る」
「相変わらず」
「君は?」
「隣がいるなら、どこでも」
「それは、理に適わない」
「適わせる」
二人の会話は廊下の端まで続き、角で自然に途切れた。角を曲がった先の夕陽は、白い壁を薄い金色に染め、床の反射に二人の影を伸ばす。映えるシーン——ゴール直前の並走のハイライト、支え起こす抱き寄せシルエット、テントでのアイシングの手元。そのすべてが、写真にはない。けれど、写真にないものが人を動かすことはある。今日の二人は、それを学んだ。
校門を出ると、風が少しひんやりしていた。駅へ向かう道は人であふれており、笑い声が重なる。湊は、歩調を半歩だけ落とし、隣の歩幅に合わせた。合わせることを意識するのは、最初だけでいい。一度合えば、身体が覚える。
「なあ」
「何」
「“判断保留”って、いつまで?」
「判定条件が満たされるまで」
「条件、多いのか」
「少なくはない」
「じゃ、増やしてやる」
「何を」
「一緒に走った回数。隣にいた回数。助けた回数。助けられた回数。笑った回数。——今日、いっぱい増えた」
「……カウントは、君の方が得意かもしれない」
「そうか?」
「感情のカウントは、私の仕様外だった」
「仕様外に対応アップデート?」
「検討中」
「検討、保留?」
「保留」
「はいはい」
二人の笑い声が、夕方の街に溶けた。今日は勝った。勝ったことは、明日には新しい勝ち負けの地図の一部になる。アンカーの仕事は、受け取った状況の最善の出口を探すこと——それは、競技の外でも同じだ。出口を見つけるとき、隣に誰がいるかで、出口の形は変わる。隣がいれば、出口は広くなる。広くなる出口は、人を二人分、三人分、通す。
打ち上げの店先で、クラスメイトの声が弾む。「おつかれ!」「湊やばかった!」「司もやばかった!」。やばいは、大抵褒め言葉だ。天峰は、店の騒音を一度だけ測るように耳を傾け、「閾値、ぎりぎり」と呟いた。湊は笑い、出入口の扉を押さえてやる。手と手がすれ違う。触れたのか、触れていないのか境目が曖昧なほどの距離で。
夜はまだ浅い。けれど、今日という日のハイライトは、もう充分に撮れた。目にも、胸にも。次のページには、まだ余白がある。余白に何を書くかは、二人が決める。保護者ではなく、隣として。
——体育祭アンカーは、テープを切った瞬間に役目を終える。けれど、支え合いのアンカーは、そのあとの歩幅を揃えるところから始まる。湊はそれを知り、天峰はそれを学び、二人の地図の端に、小さな×印がまた一つ増えた。
星川(ほしかわ)湊は、スタート地点を見渡して、軽く脚を弾ませた。体は良く動く。昨日の夜に張り替えたスパイクのピンが、砂の感触を正しく伝える。彼はアンカー。クラス対抗リレーの最後を任された。いつものコートとは違うトラックだが、走ることの根っこは同じだ。呼吸、接地、腕の振り。音楽のリズムを身体でなぞるように、準備の動作が続く。
一方で、天峰(あまみね)司は、運営補助という名の“戦略立案とバトン修正係”としてテントの横に陣取っていた。ホワイトボードに簡単なコース図と各クラスの出走順、目安タイムを書き込み、バトンエリアの幅とラインの位置をチェックする。バトンのテープ巻き直し、グリップの摩耗確認、交代ゾーンの最適な立ち位置の指示——彼にとって、競技は数式に似ていた。正しく整えれば、余分な誤差は減る。
「天峰、こっちのバトン、テープ端っこ剥がれてる」
クラスメイトの水谷が差し出す。青いテープが端でめくれ、指にくっつきそうだ。天峰はハサミで斜めに切り落とし、巻き直した。端は必ず斜めに。角が次の剥がれの起点になる。彼は無駄なく手を動かしながら、目だけでトラックを追う。
始まった。他クラスの第一走者が一斉に飛び出し、歓声が一段上がる。砂が跳ねる音。スパイクが食い込むリズム。天峰は、バトンの受け渡しエリアの境界線に視線を滑らせ、二年三組の第二走者のスタート位置を一歩だけ修正する。「ライン手前、足ひとつ分」。指示は短く、正確に。
「了解!」
湊は、その様子を横目に見ながら、深呼吸を一度だけした。胸が上下する。肺が空気を飲み込み、血に混ざり、足の裏へ降りていく。アンカーの仕事は、受け取った状況をひっくり返すことではない。受け取った状況の、最善の出口を探すことだ。そう教えてくれたのは、何度も競ったコートと、最近では隣で淡々と地図を引く男だ。
第一走者が折り返し、二番手へ。二年三組は悪くない位置。四位と三位の間の距離が詰まり、次が肝だ——そう思った矢先、第三走者の一人がカーブで足を滑らせ、派手に転んだ。ざっと息が詰まる音が、テントの影からいくつも上がる。
「大丈夫か!」
「転倒あり!」
係の先生が駆け寄る。その一瞬で、各クラスの並びが崩れ、交代ゾーンの空気がざわついた。予定より早く、アンカーにまわってくる。湊は表情を変えない。むしろ、眉を少しだけ下げて、視界の余計な色を落とした。早まった呼吸を整えるのは練習で身につけた。身体は、命令すれば応える。
だが、走り出してすぐ、右足首の内側に違和感が走った。朝のアップで少しひねったのを忘れていたわけではない。忘れてはいないが、軽微と判断し、処理した。テーピングで補助もしてある。——それでも、カーブの角度で、わずかなノイズが現れる。痛みではない。信号だ。湊は顔を変えない。表情を走る道具にしないことも、彼は知っている。
天峰の目だけが、その一瞬のフォームの乱れを捉えた。右足の接地角が、通常より三度外を向いた。膝の振り出しが、半拍遅れた。腕の振りは維持。視線は落ちない。このまま直線なら持つ。だが、次のカーブでさらに内側に力がかかる。修正が必要——。
彼はバトンエリアの手前、コース脇に移動し、人のざわめきに紛れるギリギリの声量で、湊だけに届く音域を選んだ。声は短く、斜めに届く。
「次のカーブ、膝をもう一歩内側へ」
湊の耳が、わずかに動いたように見えた。伝わった。彼はカーブの入口で、膝をほんの半歩だけ内側へ差し入れ、足首への負担の方向を変えた。重心がスムーズに流れる。無理のない加速。外から一人をかわし、順位がひとつ上がる。歓声が抜けた空気へ戻り、押し返す波のように高まる。
「二年三組、詰めてきた!」
「いける、いける!」
ラストの直線が迫る。湊は、ピッチを無理に上げない。ストライドの微調整で速度を作る。接地は短く、離地は軽く。右足首の違和感は、今はただの情報だ。痛みにするかどうかは、自分が決める。そんな冷静さと、熱の真ん中でしか鳴らない鼓動。背中で風が押す。
僅差でトップの背中が見え、並びかけた瞬間——天峰は、バトンエリアの白い三角印のぎりぎり手前に駆け寄った。レギュレーションぎりぎり。そこから先は入ってはいけない。白線一つだけの距離を隔て、彼は湊の目線の高さに合わせるために、半歩だけ腰を落とした。
「——行け」
短い。けれど、背骨をまっすぐ通る声。湊は笑った。笑いの正体は余裕ではない。信頼だ。誰に、何を、と問う必要のない種類の信頼。彼は最後の四歩でピッチを一段上げ、胸がテープを切る感触を受け止めた。白が音もなく裂ける。歓声が爆発する。
耳の内側が熱い。呼吸が早い。視界の端で、クラスメイトが宙に飛び上がるのが見えた。肩が叩かれ、背中に腕がまわる。その全部に頷き返す余裕はない。身体が、限界を訴え始めていた。右足首は「もうやめて」と言うまではいかないが、「負荷の角度を変えろ」と強く要求している。膝が、砂の上で抜けかけた。
支えたのは、反射だった。
天峰の手が、湊の肘の内側を正確に捉え、肩甲骨の内側にもう片方の手のひらを滑り込ませる。抱き寄せたのではない。倒れ込みを受け止め、重心を一度だけ持ち上げ、背中に預からせる角度を作った。シルエットだけ見れば、抱き寄せに近い。けれど、力の入れどころは救護と同じだ。合理は優しさの形をすることがある。
「救護テントへ」
「おおげさ」
「歩けるのか」
「歩く。けど、隣にいて」
「いる」
短い言葉の往復。湊は、言い訳なしに肩に重さを預けた。負けた気はしない。負けることの定義が、さっき少しだけ変わったのだと、彼の身体が知っていた。背中の支えは固くなく、かといって柔らかすぎもしない。安全第一。けれど、その中に、今日だけは“例外”の熱が混じっていた。
救護テント。ひんやりした影。白い布の匂い。巻かれた氷嚢。保健の先生がテキパキと問診をし、腫れの有無を確かめ、軽く圧迫をかける。「捻挫ではなさそうね。張り。アイシング二十分」。湊は靴を脱ぎ、スパイクの紐を緩め、足首を氷に預けた。冷たさが皮膚から骨へ降り、熱を静かに連れ出していく。
天峰は、先生の邪魔をしない距離で、氷嚢の位置を手で支えている。指先は落ち着いていて、わずかに湿っている。汗ではない。氷の水滴だ。彼は時計を見、時間を口に出さないまま数える。湊は、その横顔を視界に入れたまま、笑った。
「ありがと。助かった」
氷嚢が少しずれて、天峰の手が軽く位置を直す。動作にためらいはない。湊は、さっきの「行け」の声と、今のこの手の確かさが、同じ場所から来ているのを感じた。言葉と行為の根っこが一致している人間は、少ない。
「君が倒れると、私のペースも崩れる」
天峰は、真顔で言った。抑揚はない。けれど、その平板さが、むしろ本音の輪郭をくっきりさせる。湊は「……それ、心配したってこと?」と問うた。彼は冗談で逃げなかった。逃げない方が良い場面を、今日は見分けられる。
「理に適う行動だ」
短い返答。いつもの彼らしい逃げ道——いや、防水。言葉に余分な感情が染み込んで、形を歪めないように。けれど湊は、その理屈の奥に透ける私情を見た。氷の冷たさに、胸の内側だけが温かい。心臓は、試合のときほど速くないのに、打つたびに「ここにいる」と告げてくる。
テントの端で、風が少し動いた。白い布がふわりと揺れ、影が形を変える。湊は天井の布の端を眺めながら、淡く息を吐いた。
「なあ」
「何」
「おまえ、今日、何回“安全第一”って言った?」
「四回」
「数えてるのかよ」
「癖で」
笑いが落ちたあと、ふいに静けさが降りた。応援の歓声は遠のき、テントの中は、冷たい水滴が落ちる音が時々するだけだ。湊は、自分で驚くほど素直に次の言葉を出した。
「……それが、今日はすごく心強かった」
天峰は、目を一度だけ細めた。彼は評価や賛辞に対して、礼を言うタイミングを誤らないタイプだ。けれど、今は礼を言わなかった。代わりに、氷嚢の上から手のひらで、軽く圧をかける。その圧は、返事の代わりだった。
「あと十六分」
「長い」
「短い」
「……次の競技、見に行ってもいい?」
「ダメだ」
「即答」
「理に適わない」
「はいはい」
言い合いは、いつもより丸かった。角を落とした木の玩具みたいに、掌の中で転がる。湊は、氷の冷たさがじわじわと痛みを“情報”へ戻していくのを感じながら、ふと考えた。自分は“支えられる”ことに、昔から少しだけ不器用だった。背負われるより、背負う方が簡単だ。けれど、今日のあの一瞬——膝が抜けた瞬間に、反射で肩を差し出す相手がいることを、体の芯が覚えた。覚えたことは、次の動作を滑らかにする。
アイシングが終わり、軽く圧迫を残してテーピングを巻き直す。保健の先生が注意事項を言い、湊は素直に頷いた。天峰は、クラスのリレー結果と得点状況を短くまとめ、ホワイトボードの修正に向かう。湊はその背中を目で追い、足を床に戻して、靴紐を結ぶ。縛り直した結び目は、さっきより少しだけ固い。固いことが、安心になることがある。
午後の競技が終わり、閉会式が済んだ頃には、空は少し赤くなり、校庭の砂はところどころで薄く色を変えていた。クラスメイトが「打ち上げ行こうぜ」と声を上げ、名前が呼ばれる。フードコートのある駅前か、いつもの安いファミレスか。笑い声は疲れを隠し、疲れは笑いを柔らかくする。
人混みを抜ける廊下は、万国旗の影が長く伸び、窓の外には片付け中のテントが見えた。湊は歩きながら、前を行く天峰の袖を、また「ちょん」と引いた。ひさしの下で覚えた、控えめな引力。布が一センチ動く。彼は、足を止めた。
「俺、弱ってるとき、素直になる」
「知っている」
「……今日、すごく心強かった」
繰り返し。言葉は、二度目に言った方が深く届くことがある。自分の耳にも、相手の胸にも。湊は、それを学んだ。学びは、今日一日でいちばんの得点かもしれない。
天峰は、短く息を吸った。返答は、いつもの「理に適う」でも、「安全第一」でもない。彼は、ほんのわずかに目線を落として、言葉を選んだ。選んだことが、わかる速度で。
「次は保護者ではなく隣として居る」
“隣”。その言葉に、湊の耳の奥で何かが長く残った。鼓膜の裏に貼りついて、じわりと温度を放つ。保護者、という比喩で逃げなかった。保護者なら理由は簡単だ。正しさで語れる。隣は違う。選択だ。選んだことを、今、言った。言って、引き受けた。
「……隣、な」
湊は、笑った。照れる笑いじゃない。誇らしい音が、また胸の奥で鳴る。今日、何度目だろう。回数を数える癖はないが、この音だけは、増えれば増えるほど強くなる。
「打ち上げ、どうする」
「行け」
「お前も?」
「少しだけ。騒音が閾値を超えたら帰る」
「相変わらず」
「君は?」
「隣がいるなら、どこでも」
「それは、理に適わない」
「適わせる」
二人の会話は廊下の端まで続き、角で自然に途切れた。角を曲がった先の夕陽は、白い壁を薄い金色に染め、床の反射に二人の影を伸ばす。映えるシーン——ゴール直前の並走のハイライト、支え起こす抱き寄せシルエット、テントでのアイシングの手元。そのすべてが、写真にはない。けれど、写真にないものが人を動かすことはある。今日の二人は、それを学んだ。
校門を出ると、風が少しひんやりしていた。駅へ向かう道は人であふれており、笑い声が重なる。湊は、歩調を半歩だけ落とし、隣の歩幅に合わせた。合わせることを意識するのは、最初だけでいい。一度合えば、身体が覚える。
「なあ」
「何」
「“判断保留”って、いつまで?」
「判定条件が満たされるまで」
「条件、多いのか」
「少なくはない」
「じゃ、増やしてやる」
「何を」
「一緒に走った回数。隣にいた回数。助けた回数。助けられた回数。笑った回数。——今日、いっぱい増えた」
「……カウントは、君の方が得意かもしれない」
「そうか?」
「感情のカウントは、私の仕様外だった」
「仕様外に対応アップデート?」
「検討中」
「検討、保留?」
「保留」
「はいはい」
二人の笑い声が、夕方の街に溶けた。今日は勝った。勝ったことは、明日には新しい勝ち負けの地図の一部になる。アンカーの仕事は、受け取った状況の最善の出口を探すこと——それは、競技の外でも同じだ。出口を見つけるとき、隣に誰がいるかで、出口の形は変わる。隣がいれば、出口は広くなる。広くなる出口は、人を二人分、三人分、通す。
打ち上げの店先で、クラスメイトの声が弾む。「おつかれ!」「湊やばかった!」「司もやばかった!」。やばいは、大抵褒め言葉だ。天峰は、店の騒音を一度だけ測るように耳を傾け、「閾値、ぎりぎり」と呟いた。湊は笑い、出入口の扉を押さえてやる。手と手がすれ違う。触れたのか、触れていないのか境目が曖昧なほどの距離で。
夜はまだ浅い。けれど、今日という日のハイライトは、もう充分に撮れた。目にも、胸にも。次のページには、まだ余白がある。余白に何を書くかは、二人が決める。保護者ではなく、隣として。
——体育祭アンカーは、テープを切った瞬間に役目を終える。けれど、支え合いのアンカーは、そのあとの歩幅を揃えるところから始まる。湊はそれを知り、天峰はそれを学び、二人の地図の端に、小さな×印がまた一つ増えた。



