文化祭の目玉企画のひとつ——「校内フォトスポット」は、中庭から中央階段へと続く動線の途中に三つの撮影エリアを置く構成で決まった。テーマはポスターに合わせた“青と白”。写真部と広報委員が主催、生徒会は監修。監修、という肩書きの中身を具体に変えるのは、図面を引く者と、現場で人の流れを読む者だ。
天峰(あまみね)司は、朝のホームルーム前に生徒会室のホワイトボードに二本の青いペンを磁石で留めた。一本は太字、一本は細字。太字で導線、細字で注意書き。矢印は三種のスケールで描き分け、角はすべて四十五度で折る。紙面の上であれ、床の上であれ、直線は直線であるべきだった。
「入場口から右寄せで流して、動線の外側に『待機の余白』を必ず取る。ここ、三メートルは空ける」
「三メートルってどれくらい?」
星川(ほしかわ)湊が、バスケ部のTシャツの裾を握りながら、覗き込む。天峰は、歩幅で見せた。彼の歩幅は正確に七十二センチで、四歩と少しで三メートルになる。
「四歩と一歩、弱」
「弱って表現、地味に好きだな」
「強弱は重要だ」
「はいはい。じゃ、その“余白”には、白いベンチ置こうぜ。並ぶ人が座れるし、写真映えする。青は空とリボンでつくる」
「青の分量を増やしすぎると、白がくすむ」
「青は細い線で、白は面。——このリボン、三本だけ垂らして、ベンチの背もたれに蝶々結び。垂れた影が“線”の役割を果たす」
紙の上では、彼らは驚くほど噛み合った。天峰は図面を引きながら、人の足が止まる場所と加速する場所を予測する。星川はそこに、光と材質の肌理を当てはめる。白いベンチはマットな表面、青いリボンは光沢のあるサテン地。スマホの画面に収まったときに明暗がはっきり分かれる素材を、星川は瞬時に選ぶ。
作業が始まると、二人は無駄な会話をしなかった。話すよりも先に身体が動く。天峰は作業台に置いたガムテープの切り口を、常に角を揃えて止める。星川は、未開封の段ボールを軽々と持ち上げ、リボンの束をほどくと、余計な芯をすぐに捨てる。役割分担は自然に決まっていた。
——なのに、休憩になると途端に空気がぎこちない。
午前の作業をひと区切りして、外の喧騒から離れた倉庫の前で紙コップのアイスティーを受け取る。紙コップの白、溶ける氷の音、甘さの薄い香り。これにふさわしい言葉は何か、と天峰は考える。作業中なら「あと三巻き」「矢印を十五センチ下げる」といった名詞や数字を口へ投げ合える。休憩になると、言葉は急に大きな意味を背負いすぎる。
「——今日、暑いな」
星川が、何ということもない語を選ぶ。いつもの彼なら軽口の速度で笑いをつける。今は、笑いが半拍遅れる。
「ああ」
「アイス、溶ける」
「物理的に」
「おまえさ……」
「何」
「いや、なんでも」
沈黙。沈黙は、彼らの間ではまだ硬い。昼前なら笑って流せる無駄話が、休憩では妙に重くなる。口に出すことが、変数に触れることに感じられる。触れれば計測が変わる。変われば、戻れない。
午後に入った頃、天気が曇った。校内放送では流れない種類の暗さが、白い廊下にうっすら落ちる。遠くで雷が鳴った。誰かが「洗濯物」と言って走る。内側からも外側からも、空気の粒がわずかに荒くなる気配。
最初の雨は、パラパラと音だけを寄越した。次に、風。花壇の青いリボンが、一本だけ高く跳ねた。星川が追いかけて結び直す。——と、来た。ざあ、と音が一段階上がる。夕立。夏の入口の儀式のように、音と光景が等間隔に並んで現れる。準備の手を止めた生徒たちが、わあ、と声を上げて、ひさしのある場所へ散った。
「ここ、一旦、切ろう」
写真部の先輩が手を振る。「機材、濡らさないでね!」「ポスターは内側へ!」。指示が飛ぶ。天峰は、図面や印刷物の束を抱え、倉庫棟のひさしへ走った。星川は、長いリボンの端とホチキスの箱を持ち、同じ場所を目指す。自然と、二人の足音が重なった。
倉庫棟のひさしは、去年より白く塗り直されていた。雨粒は均一に地面を叩き、コンクリートの色を濃くする。ひさしの端から五十センチほど内側は、風が吹かなければ濡れない。雨のカーテンが、目の高さで揺れる。
二人きりの雨宿り。言葉にしなくても、それは場の情報として共有された。周りの声は遠い。ここは、仮に切り取られたフレームの内側だ。
星川は、息を整えながら、隣の天峰の指に目を留めた。右手の人差し指の、第二関節の脇。細い傷が赤く走っている。午前、段ボールの縁でやったのだろう。血はもう止まっている。薄皮が張って、紙をめくるときに引っかかりそうな、そんな程度。
「……怪我」
言いながら、星川は自分のポケットを探った。いつからか、絆創膏を一枚は持ち歩くようになっていた。部活で誰かが指を切るたび、救護班へ走るより早い方法を覚えたからだ。ポケットの紙の感触は、安心の記号だ。
「絆創膏、ある。貼る?」
差し出したとき、紙の白が、雨の白と重なった。天峰は、不意に目を瞬いた。
「……覚えてたのか」
「何を」
「以前、君が持っていたことを」
「そりゃ、覚える。おまえ、利き手の指怪我すると顔が少しだけ困る」
言ってから、少し照れた。観察を言語化するのは容易い。けれど、それを“君”に向けて言うとき、言葉は突然、温度を持ち始める。温度は隠せない。星川はコホンと咳払いして、絆創膏の紙を器用に剥がした。
「動かすなよ」
「わかった」
指先を軽く持ち、貼る位置を決める。皮膚と紙の間に空気が入らないように、端から乗せる。——そして、無意識に、ふっと息を吹いた。糊が指にくっつかないように、僅かな湿気を飛ばす癖。部活で誰かにバンテージを巻くときに身についた、小さな習慣。
ふたりとも、一拍遅れて真っ赤になった。
「いや、その、癖で」
「救護班かと思った」
「まあ、実質そう」
笑いが、雨の音に混ざっていく。近すぎる距離の笑いは、遠くのざわめきよりも静かに聞こえる。天峰は、貼られた指の感触を確かめながら、深呼吸を一度だけした。呼吸の仕方は、星川から習った。肺を満たし、肩を上げずに吐く。呼吸は、場を測る物差しだ。
雨脚は強い。ひさしの端から十センチ外へ出れば、瞬時に濡れる。倉庫の扉は閉め切られ、周囲には誰もいない。視界の端に、濡れた床が鏡みたいに二人を映していた。白いひさしの裏面に反射した光が、薄く揺れる。
「星川は、どうしてそんなに人に優しい?」
不意に、天峰が言った。声は、雨の音にかき消されない程度の大きさ。問いは、観測の延長にあった。彼にとって、問いかけは相手を評価する意図ではない。仮説を立てるための前提を、相手の言葉で確かめたいだけだ。
「ライバル以外には普通」
星川は、ふざけずに返した。すぐに聞き返しが飛ぶ。
「では、私は?」
雨が、ひさしの端で跳ねる。返答は、遠くから近づいてくる雷みたいに、言葉になる前から胸で鳴った。
「……例外」
「なぜ?」
「気になるから。負けたくない、でも見たい。隣で」
“隣で”。言ってから、星川は自覚した。これまで、競争相手は前に置くものだと信じてきた。追いかけるか、追われるか。並ぶという選択肢は、スポーツのコート上にはない。けれど、今、彼が選んだのは“隣”。言葉は、意識より先に真実を言うことがある。
「……」
天峰は、短い沈黙で返した。その沈黙は、拒絶ではない。沈思だ。彼は、目の焦点を一度だけ雨のカーテンの向こう側に外して、また戻した。その戻し方が、以前よりも滑らかだと星川は感じた。
ふと、指先が触れた。貼ったばかりの絆創膏の上から、別の指が確かめるように乗る。どちらが先だったかは、わからない。わからないが、今度は星川が引かなかった。引かないことで伝わる情報がある。安全第一の定規からはみ出す一ミリの線。そこに意味は多すぎるほどある。
五分。星川の感覚で、雨宿りは五分だった。実際は七分かもしれないし、三分かもしれない。けれど、彼らが内部時計で刻んだ時間の単位は“五分”で、その五分は、普通の五分より長かった。雷の間隔が少しずつ遠のき、雨粒の厚みが薄くなる。ひさしの端から、滴が一定の速度で落ちる。全てが、収束に向かう。
「——弱まった」
天峰が言う。観測が言葉になる。星川も、ひさしから半歩だけ足を出して、靴先に二滴の雨を受けた。冷たさは、さほどではない。彼は笑った。
「行くか」
「ああ」
二人は、倉庫の影から出て、廊下へ走った。床は濡れていて、鏡みたいに二人を映した。天井の蛍光灯が一本、タイミングをずらして点滅する。映像のような一瞬。星川は息を吐き、天峰は視線を下に落とし、二人の影と反射が重なる位置で、自然に歩幅を揃えた。
「写真に残すべき瞬間というのが、本当にあるのだな」
天峰が、独り言に近い声で呟いた。星川は、横目でその横顔を見て、口の端を上げた。
「今の、カメラ向けられたら逃げるくせに」
「逃げる」
「素直」
「逃げることと、記録したいことは別だ」
「じゃ、俺の脳内に保存しとく。バックアップ」
「その保存媒体は、信頼性が低そうだ」
「ひど」
笑い合いながら、二人は仕事へ戻った。雨上がりの空気は軽く、濡れた青と白は、乾いた青と白よりも一段だけ発色が良い。星川は、濡れたベンチの水を手ぬぐいで軽く拭き、リボンの滴を人差し指で払う。天峰は、濡れた床に滑り止めの注意札を追加し、矢印の位置を五センチ上げる。小さな変更が、全体の見え方を変える。
作業は再開した。言葉も、さっきより少しだけ軽やかに行き来する。星川が持ってきた白いマスキングテープを、天峰が「ありがとう」と受け取る。天峰が、絵柄の位置が一ミリずれたリボンを指で直すと、星川が「こだわりが過ぎる」と笑う。過ぎる、という指摘に、天峰は「適正範囲だ」と真顔で返す。適正範囲は、いつの間にか二人の中で重なり始めていた。
夕方、雲はほとんど切れて、日差しが戻った。濡れた床の反射は淡くなり、風が通る。写真部の先輩が、屋外機材のチェックをしながら、ポツリと呟いた。
「雨のあとって、いい光だね」
「わかる」
星川が即答する。天峰も、頷いた。光のことを“いい”と言うとき、具体的な数値はない。けれど、合意はある。こういう合意は、数字より強い時がある。
片づけに入った頃、人のいない廊下で星川が足を止めた。さっきのひさしの前ほどではないが、ここも静かだ。彼は、白い壁に寄りかかり、ほんの少しだけ、息を整えた。自分の心臓の音は、雨の音が去ったあともまだ大きい。誇らしい音、と以前自分で名づけたその音色は、今日も鳴っていた。
「なあ」
「何」
「おまえ、俺のこと嫌いじゃないだろ」
半分挑発、半分本音。挑発は、距離を詰めるための足場だ。冗談に逃げ道を作る代わりに、真ん中に本音を置く。星川の得意技のひとつ。
天峰は、少しだけ目を見開いた。反射で眉が上がる。次に、視線を落とす。答えは短い。短いが、曖昧ではない。
「判断保留」
「ズル」
「安全第一だ」
「それ、万能だな」
万能の言葉——保留。けれど、“保留”は引き延ばしではない。次の段階へ押し出すための、必要な準備期間だ。保留にした事柄は、頭の一番手前のカゴに入る。目につく。目につくものは、手に取られやすい。二人にとって、その意味は明瞭だった。
その夜、校内SNSには、午後の雨上がりの写真が上がった。写真部の一年が撮った一枚で、濡れた廊下に青いリボンの反射が薄く伸び、白いベンチの脚が二本だけ写っている。人影はない。空は、写っていない。コメント欄には「エモい」の文字が並んだ。エモい、という語の浅さは、時に本質を突く。何にどれほど心が動いたのかを、まだ言葉にできない時に、便利な器だ。
画面を眺めながら、星川は、ひさしの下の五分を思い出した。紙コップの白、絆創膏の白、ひさしの裏の白。青は、雨で濃くなった地面と、自分のTシャツ。二色しかないのに、充分だった。余白がちょうどよく、息がしやすかった。
天峰は、自室の机で日誌を開き、今日の記録に短く追記した。
〈記録:雨宿り五分。隣在時、心拍数の上昇は許容範囲。会話、非業務系の成功。指先の接触に対し回避反応なし。仮説:例外指定の影響〉
書きながら、彼はペンを一度止めた。記録が、いつの間にか詩の端を踏んでいる。測れるものの周りに、測れないものが薄く付着する。付着を、そのままにしておくことに、今日の彼は成功した。
翌日から、準備の現場はまた忙しくなる。矢印は増え、ベンチは乾き、リボンは風にやわらかく鳴る。二人が並んで作業をしていると、誰かが「公式」と囁いて通り過ぎる。囁きは、今日は刺さらなかった。刺さらない代わりに、ひさしの下で温まった言葉が胸の中で柔らかく転がる。
負けたくない。けれど、見たい。隣で。
その矛盾は、彼らの次の地図の中心に×印をつけた。五分の雨宿りが、二人の距離感の定規を一ミリ壊し、同時に一ミリ作り直した。壊れた線はもう引き直せない。新しい線は、前より正確だ。準備は、続く。勝負も、続く。保留中の判断は、いつか、どこかで、自然に確定するだろう。雨上がりの光のように、誰にも合図されないのに、全員が同時に気づく種類の確定だ。
倉庫のひさしは、今日も白い。雨の気配はない。けれど、あの五分は、記録されない写真として、二人のなかで鮮明に残っている。もしも誰かがカメラを向けたなら——彼らはまだ、逃げるかもしれない。逃げながら、たぶん笑う。笑いながら、たぶん、もう半歩、近づく。
天峰(あまみね)司は、朝のホームルーム前に生徒会室のホワイトボードに二本の青いペンを磁石で留めた。一本は太字、一本は細字。太字で導線、細字で注意書き。矢印は三種のスケールで描き分け、角はすべて四十五度で折る。紙面の上であれ、床の上であれ、直線は直線であるべきだった。
「入場口から右寄せで流して、動線の外側に『待機の余白』を必ず取る。ここ、三メートルは空ける」
「三メートルってどれくらい?」
星川(ほしかわ)湊が、バスケ部のTシャツの裾を握りながら、覗き込む。天峰は、歩幅で見せた。彼の歩幅は正確に七十二センチで、四歩と少しで三メートルになる。
「四歩と一歩、弱」
「弱って表現、地味に好きだな」
「強弱は重要だ」
「はいはい。じゃ、その“余白”には、白いベンチ置こうぜ。並ぶ人が座れるし、写真映えする。青は空とリボンでつくる」
「青の分量を増やしすぎると、白がくすむ」
「青は細い線で、白は面。——このリボン、三本だけ垂らして、ベンチの背もたれに蝶々結び。垂れた影が“線”の役割を果たす」
紙の上では、彼らは驚くほど噛み合った。天峰は図面を引きながら、人の足が止まる場所と加速する場所を予測する。星川はそこに、光と材質の肌理を当てはめる。白いベンチはマットな表面、青いリボンは光沢のあるサテン地。スマホの画面に収まったときに明暗がはっきり分かれる素材を、星川は瞬時に選ぶ。
作業が始まると、二人は無駄な会話をしなかった。話すよりも先に身体が動く。天峰は作業台に置いたガムテープの切り口を、常に角を揃えて止める。星川は、未開封の段ボールを軽々と持ち上げ、リボンの束をほどくと、余計な芯をすぐに捨てる。役割分担は自然に決まっていた。
——なのに、休憩になると途端に空気がぎこちない。
午前の作業をひと区切りして、外の喧騒から離れた倉庫の前で紙コップのアイスティーを受け取る。紙コップの白、溶ける氷の音、甘さの薄い香り。これにふさわしい言葉は何か、と天峰は考える。作業中なら「あと三巻き」「矢印を十五センチ下げる」といった名詞や数字を口へ投げ合える。休憩になると、言葉は急に大きな意味を背負いすぎる。
「——今日、暑いな」
星川が、何ということもない語を選ぶ。いつもの彼なら軽口の速度で笑いをつける。今は、笑いが半拍遅れる。
「ああ」
「アイス、溶ける」
「物理的に」
「おまえさ……」
「何」
「いや、なんでも」
沈黙。沈黙は、彼らの間ではまだ硬い。昼前なら笑って流せる無駄話が、休憩では妙に重くなる。口に出すことが、変数に触れることに感じられる。触れれば計測が変わる。変われば、戻れない。
午後に入った頃、天気が曇った。校内放送では流れない種類の暗さが、白い廊下にうっすら落ちる。遠くで雷が鳴った。誰かが「洗濯物」と言って走る。内側からも外側からも、空気の粒がわずかに荒くなる気配。
最初の雨は、パラパラと音だけを寄越した。次に、風。花壇の青いリボンが、一本だけ高く跳ねた。星川が追いかけて結び直す。——と、来た。ざあ、と音が一段階上がる。夕立。夏の入口の儀式のように、音と光景が等間隔に並んで現れる。準備の手を止めた生徒たちが、わあ、と声を上げて、ひさしのある場所へ散った。
「ここ、一旦、切ろう」
写真部の先輩が手を振る。「機材、濡らさないでね!」「ポスターは内側へ!」。指示が飛ぶ。天峰は、図面や印刷物の束を抱え、倉庫棟のひさしへ走った。星川は、長いリボンの端とホチキスの箱を持ち、同じ場所を目指す。自然と、二人の足音が重なった。
倉庫棟のひさしは、去年より白く塗り直されていた。雨粒は均一に地面を叩き、コンクリートの色を濃くする。ひさしの端から五十センチほど内側は、風が吹かなければ濡れない。雨のカーテンが、目の高さで揺れる。
二人きりの雨宿り。言葉にしなくても、それは場の情報として共有された。周りの声は遠い。ここは、仮に切り取られたフレームの内側だ。
星川は、息を整えながら、隣の天峰の指に目を留めた。右手の人差し指の、第二関節の脇。細い傷が赤く走っている。午前、段ボールの縁でやったのだろう。血はもう止まっている。薄皮が張って、紙をめくるときに引っかかりそうな、そんな程度。
「……怪我」
言いながら、星川は自分のポケットを探った。いつからか、絆創膏を一枚は持ち歩くようになっていた。部活で誰かが指を切るたび、救護班へ走るより早い方法を覚えたからだ。ポケットの紙の感触は、安心の記号だ。
「絆創膏、ある。貼る?」
差し出したとき、紙の白が、雨の白と重なった。天峰は、不意に目を瞬いた。
「……覚えてたのか」
「何を」
「以前、君が持っていたことを」
「そりゃ、覚える。おまえ、利き手の指怪我すると顔が少しだけ困る」
言ってから、少し照れた。観察を言語化するのは容易い。けれど、それを“君”に向けて言うとき、言葉は突然、温度を持ち始める。温度は隠せない。星川はコホンと咳払いして、絆創膏の紙を器用に剥がした。
「動かすなよ」
「わかった」
指先を軽く持ち、貼る位置を決める。皮膚と紙の間に空気が入らないように、端から乗せる。——そして、無意識に、ふっと息を吹いた。糊が指にくっつかないように、僅かな湿気を飛ばす癖。部活で誰かにバンテージを巻くときに身についた、小さな習慣。
ふたりとも、一拍遅れて真っ赤になった。
「いや、その、癖で」
「救護班かと思った」
「まあ、実質そう」
笑いが、雨の音に混ざっていく。近すぎる距離の笑いは、遠くのざわめきよりも静かに聞こえる。天峰は、貼られた指の感触を確かめながら、深呼吸を一度だけした。呼吸の仕方は、星川から習った。肺を満たし、肩を上げずに吐く。呼吸は、場を測る物差しだ。
雨脚は強い。ひさしの端から十センチ外へ出れば、瞬時に濡れる。倉庫の扉は閉め切られ、周囲には誰もいない。視界の端に、濡れた床が鏡みたいに二人を映していた。白いひさしの裏面に反射した光が、薄く揺れる。
「星川は、どうしてそんなに人に優しい?」
不意に、天峰が言った。声は、雨の音にかき消されない程度の大きさ。問いは、観測の延長にあった。彼にとって、問いかけは相手を評価する意図ではない。仮説を立てるための前提を、相手の言葉で確かめたいだけだ。
「ライバル以外には普通」
星川は、ふざけずに返した。すぐに聞き返しが飛ぶ。
「では、私は?」
雨が、ひさしの端で跳ねる。返答は、遠くから近づいてくる雷みたいに、言葉になる前から胸で鳴った。
「……例外」
「なぜ?」
「気になるから。負けたくない、でも見たい。隣で」
“隣で”。言ってから、星川は自覚した。これまで、競争相手は前に置くものだと信じてきた。追いかけるか、追われるか。並ぶという選択肢は、スポーツのコート上にはない。けれど、今、彼が選んだのは“隣”。言葉は、意識より先に真実を言うことがある。
「……」
天峰は、短い沈黙で返した。その沈黙は、拒絶ではない。沈思だ。彼は、目の焦点を一度だけ雨のカーテンの向こう側に外して、また戻した。その戻し方が、以前よりも滑らかだと星川は感じた。
ふと、指先が触れた。貼ったばかりの絆創膏の上から、別の指が確かめるように乗る。どちらが先だったかは、わからない。わからないが、今度は星川が引かなかった。引かないことで伝わる情報がある。安全第一の定規からはみ出す一ミリの線。そこに意味は多すぎるほどある。
五分。星川の感覚で、雨宿りは五分だった。実際は七分かもしれないし、三分かもしれない。けれど、彼らが内部時計で刻んだ時間の単位は“五分”で、その五分は、普通の五分より長かった。雷の間隔が少しずつ遠のき、雨粒の厚みが薄くなる。ひさしの端から、滴が一定の速度で落ちる。全てが、収束に向かう。
「——弱まった」
天峰が言う。観測が言葉になる。星川も、ひさしから半歩だけ足を出して、靴先に二滴の雨を受けた。冷たさは、さほどではない。彼は笑った。
「行くか」
「ああ」
二人は、倉庫の影から出て、廊下へ走った。床は濡れていて、鏡みたいに二人を映した。天井の蛍光灯が一本、タイミングをずらして点滅する。映像のような一瞬。星川は息を吐き、天峰は視線を下に落とし、二人の影と反射が重なる位置で、自然に歩幅を揃えた。
「写真に残すべき瞬間というのが、本当にあるのだな」
天峰が、独り言に近い声で呟いた。星川は、横目でその横顔を見て、口の端を上げた。
「今の、カメラ向けられたら逃げるくせに」
「逃げる」
「素直」
「逃げることと、記録したいことは別だ」
「じゃ、俺の脳内に保存しとく。バックアップ」
「その保存媒体は、信頼性が低そうだ」
「ひど」
笑い合いながら、二人は仕事へ戻った。雨上がりの空気は軽く、濡れた青と白は、乾いた青と白よりも一段だけ発色が良い。星川は、濡れたベンチの水を手ぬぐいで軽く拭き、リボンの滴を人差し指で払う。天峰は、濡れた床に滑り止めの注意札を追加し、矢印の位置を五センチ上げる。小さな変更が、全体の見え方を変える。
作業は再開した。言葉も、さっきより少しだけ軽やかに行き来する。星川が持ってきた白いマスキングテープを、天峰が「ありがとう」と受け取る。天峰が、絵柄の位置が一ミリずれたリボンを指で直すと、星川が「こだわりが過ぎる」と笑う。過ぎる、という指摘に、天峰は「適正範囲だ」と真顔で返す。適正範囲は、いつの間にか二人の中で重なり始めていた。
夕方、雲はほとんど切れて、日差しが戻った。濡れた床の反射は淡くなり、風が通る。写真部の先輩が、屋外機材のチェックをしながら、ポツリと呟いた。
「雨のあとって、いい光だね」
「わかる」
星川が即答する。天峰も、頷いた。光のことを“いい”と言うとき、具体的な数値はない。けれど、合意はある。こういう合意は、数字より強い時がある。
片づけに入った頃、人のいない廊下で星川が足を止めた。さっきのひさしの前ほどではないが、ここも静かだ。彼は、白い壁に寄りかかり、ほんの少しだけ、息を整えた。自分の心臓の音は、雨の音が去ったあともまだ大きい。誇らしい音、と以前自分で名づけたその音色は、今日も鳴っていた。
「なあ」
「何」
「おまえ、俺のこと嫌いじゃないだろ」
半分挑発、半分本音。挑発は、距離を詰めるための足場だ。冗談に逃げ道を作る代わりに、真ん中に本音を置く。星川の得意技のひとつ。
天峰は、少しだけ目を見開いた。反射で眉が上がる。次に、視線を落とす。答えは短い。短いが、曖昧ではない。
「判断保留」
「ズル」
「安全第一だ」
「それ、万能だな」
万能の言葉——保留。けれど、“保留”は引き延ばしではない。次の段階へ押し出すための、必要な準備期間だ。保留にした事柄は、頭の一番手前のカゴに入る。目につく。目につくものは、手に取られやすい。二人にとって、その意味は明瞭だった。
その夜、校内SNSには、午後の雨上がりの写真が上がった。写真部の一年が撮った一枚で、濡れた廊下に青いリボンの反射が薄く伸び、白いベンチの脚が二本だけ写っている。人影はない。空は、写っていない。コメント欄には「エモい」の文字が並んだ。エモい、という語の浅さは、時に本質を突く。何にどれほど心が動いたのかを、まだ言葉にできない時に、便利な器だ。
画面を眺めながら、星川は、ひさしの下の五分を思い出した。紙コップの白、絆創膏の白、ひさしの裏の白。青は、雨で濃くなった地面と、自分のTシャツ。二色しかないのに、充分だった。余白がちょうどよく、息がしやすかった。
天峰は、自室の机で日誌を開き、今日の記録に短く追記した。
〈記録:雨宿り五分。隣在時、心拍数の上昇は許容範囲。会話、非業務系の成功。指先の接触に対し回避反応なし。仮説:例外指定の影響〉
書きながら、彼はペンを一度止めた。記録が、いつの間にか詩の端を踏んでいる。測れるものの周りに、測れないものが薄く付着する。付着を、そのままにしておくことに、今日の彼は成功した。
翌日から、準備の現場はまた忙しくなる。矢印は増え、ベンチは乾き、リボンは風にやわらかく鳴る。二人が並んで作業をしていると、誰かが「公式」と囁いて通り過ぎる。囁きは、今日は刺さらなかった。刺さらない代わりに、ひさしの下で温まった言葉が胸の中で柔らかく転がる。
負けたくない。けれど、見たい。隣で。
その矛盾は、彼らの次の地図の中心に×印をつけた。五分の雨宿りが、二人の距離感の定規を一ミリ壊し、同時に一ミリ作り直した。壊れた線はもう引き直せない。新しい線は、前より正確だ。準備は、続く。勝負も、続く。保留中の判断は、いつか、どこかで、自然に確定するだろう。雨上がりの光のように、誰にも合図されないのに、全員が同時に気づく種類の確定だ。
倉庫のひさしは、今日も白い。雨の気配はない。けれど、あの五分は、記録されない写真として、二人のなかで鮮明に残っている。もしも誰かがカメラを向けたなら——彼らはまだ、逃げるかもしれない。逃げながら、たぶん笑う。笑いながら、たぶん、もう半歩、近づく。



