五月に入った最初の月曜、昇降口の掲示板に新しい紙が一枚、斜めにピン留めされた。白地に青い文字、見出しは〈文化祭広報・校内ポスター撮影について〉。その紙自体は、毎年貼られるお知らせに過ぎない。けれど、三行目の人名を見つけた女子の小さな悲鳴から、さざ波は始まった。

〈モデル:天峰 司(生徒会副会長)/星川 湊(バスケットボール部)〉

「え、勝手に!?」
「最高じゃん」
「公式……公式……」

 SNSのコメント欄でよく見かける言葉が、廊下の空気に直接浮かび上がる。広報委員の誰かが、写真部の誰かに相談して、相談の勢いがそのまま推薦になったのだろう。連絡の矢印は、ふだんなら生徒会に向かって飛んでくる。今回は、飛んでこなかった。

 天峰は、掲示に気づいた瞬間に足を止めた。読み、確認し、紙の端に親指を当て、傾きをまっすぐに直す。彼にとって斜めは、最初の誤差だ。

「……事前相談、なし」

 背後で星川が、笑う。悪びれない、けれど悪気もない笑いだ。

「まあ、広報だし。俺ら、看板というか。な? それに、こういうの拒否ると余計に炎上するんだぞ」

「炎上を前提に話を進めないでほしい」

「はは。可愛いこと言う」

 天峰はそこで、ほんの一拍だけ黙った。可愛い、と形容された経験は薄い。けれど、反論の対象ではないと判断して、言葉を飲み込む。紙の四隅を目で確かめ、ピンが緩んでいないことを確認すると、前を向いた。

「日時は明日放課後。場所は中庭と屋上、体育館の三カ所。——テーマ“青と白の青春”?」

「いいじゃん。青は空と俺の部活、白はシャツ。完璧」

「標語としては凡庸」

「でも、写真映えする。先輩、そういうの得意なんだってさ」

 言いながら、星川は掲示板の端を指で軽く叩く。木の枠が乾いた音を出す。彼の指先は運動部のそれで、節が固く、皮膚は薄くない。天峰は、視界の端でその動きを捕捉し、内心で深呼吸のタイミングを一つだけ調整した。

 翌日。放課後の中庭は、校舎の白壁と青空のコントラストが気持ちいい。芝は短く刈られ、真新しいベンチが二脚。写真部の備品が、三脚とレフ板とともにベンチの周囲に陣地をつくる。写真部の先輩——肩までの髪を後ろでまとめ、首からカメラを二台ぶらさげた女子が、手を叩いた。

「はーい、被写体のお二人、ありがとうございます! テーマは“青と白の青春”。シンプルだからこそ、対照が生きるやつ! 理詰めの美と動く太陽、最高のペアです!」

「理詰めの美……」

 天峰は、眉をほんの一ミリ下げた。

「動く太陽、いいねえ。俺、太陽らしい」

「うん。ほんと眩しい。——じゃ、最初は個別カットからいくよ。天峰くん、白シャツのボタン一つ開けられる?」

「校則で——」

「一個までOK! 先週、生活指導の先生に交渉して緩和取りました!」

 写真部という組織の実務能力は、時に生徒会を上回る。天峰は小さく頷き、最上段のボタンを外した。喉元に空気が触れる。体温が逃げる感触に、うっすらと違和感が走る。だが、それを表情に出すことはしない。

「星川くんは、部活のユニ着てきたんだ。最高。青が勝ってる。髪はそのままで。前髪、風で遊ばせたいから」

「任せろ。風は、俺の味方」

「暑苦しいこと言うな」

「おい、そこ、面白くて好き」

 軽口が数本、シャッターの音に混ざる。先輩はファインダーを覗くと同時にしゃべるタイプで、褒め言葉と指示と駄洒落を同じ速度で出してくる。場が固まらない。天峰にとって、そういう速度は苦手だ。苦手だが、理解はできる。理解は常に、彼の最初の武器だ。

「はい、天峰くん、目線はあっちの校舎、少し遠く。眉間の力を抜いて。そう、そのまま——うん……固い! 笑えないなら、目線だけでも柔らかく!」

 シャッターが五枚切られて、先輩の声が弾む。けれど、すぐに止まる。

「うーん、天峰くん、写真、苦手?」

 天峰は、短く返した。

「得意ではない」

「だよね。静止画の“見られてる”は、動画より残酷だからね。——星川くん、ちょっと横に立って」

「はいよ」

 星川が並ぶ。青と白が、並ぶ。距離は肩一つ分。先輩はテンポ良く指示を飛ばす。

「天峰くん、星川くんの肩の“向こう側”を見るイメージで。焦点は遠く。はい、吸って——吐いて。もう一枚。うん、悪くないけど、まだ固い」

 “固い”。その言葉が、天峰の鼓膜の内側で微細に響く。理数のテストなら、固さは正解の近道だ。写真では、そうではないらしい。

 小休止。先輩がレフ板の角度を変えている間に、星川が天峰の袖を「ちょん」と引いた。ほんの一センチ、布を動かすだけの、控えめな引力。

「……疲れたら深呼吸。俺も試合前そうする」

 天峰は、視線だけを横に滑らせた。彼の目は、観測する目だ。星川の瞳の黒は、いつもより一段落ち着いて見えた。彼は冗談を言うときの速度を、今は選ばない。選ばないことを、意識している。——深呼吸。

 天峰は、短く頷いた。肺に空気を入れる。数の数え方を変える。一、二、三。吐くときに、肩を上げない。頭の後ろの筋肉を緩める。数学の証明に入る前の、ノートを開く動作のように。身体に方法を与える。

 次のシャッターの瞬間、わずかに目元がほどけた。ほんの少しだけ、光が入った。先輩の声が、弾む。

「今の、最高! 一枚戻して、もう一回、同じ呼吸で。はい、いくよ——!」

 カシャ、カシャ、と連続する音が、拍手のように聞こえる。モニターに映る二人は、青空の下で自然に肩が並んでいた。距離は手のひら半分。画面越しに、温度が上がる。

「……これ、俺ら?」

 星川がのぞき込み、素直に驚いた声を出す。天峰は頷いた。

「写っている以上は、そうだ」

「いや、さあ。そうだけどさ。——良いな、これ」

 星川の頬が、陽の光みたいにゆっくり熱を帯びる。彼は自分の顔がそういう変化をするとき、さほど照れない。けれど、隣にいる相手が天峰だと、温度計の目盛りは、いつもより少し内側に刻まれる。

 移動。次は屋上。白いパラペットが低く、空が近い。風が少し強い。機材を抱えた写真部員が列になって階段を上がる。途中の踊り場で、星川が自販機の前に立ち止まった。

「飲み物、いく?」

「——ありがたい」

 缶やペットボトルが整列する中、星川は迷いなく二つを取り出す。紙コップのラテ。ひとつは砂糖なし、ひとつは砂糖あり。彼は学生証で支払うと、二つのコップを器用に指と掌で持って、振り返る。

「砂糖なしのラテ。おまえ、甘いの苦手だろ」

 コップ越しに、手が近づく。紙の薄さが、温度を直に伝える。天峰は、瞬きの速度を少し遅らせた。驚きは、外に出す必要のない情報だ。けれど、反応は必要だ。

「……よく見てる」

「ライバルだからな」

 星川は、照れ隠しに上手い笑い方を選んだ。口角だけ上げる。声を軽くする。けれど、心の中では(何だ、嬉しい)という単純な感情が波紋を広げていた。青空の下で、紙コップ越しに手が近づく。映えるシーン、ひとつ追加だ、と誰かが言ったら、素直に頷くだろう。

 屋上。風の速度が、髪を遊ばせる。先輩が手をひらりと振る。

「二人とも、柵には寄りすぎないでね。安全第一で。——青と白が勝つ角度、探そう」

 カメラは下から、横から、時に逆光を味方に。二人は、指示に従って立ち位置を変える。天峰の無駄のない動きと、星川のほんの少し大きい動きが、フレームの中で面白い反復をつくる。先輩は無言で頷き、足を一歩下げ、レンズを替え、またシャッターを切る。

「星川くん、走って手すりの方へ来て、止まる直前、視線だけ右に。——そう、それ!

 天峰くんは、ほどいた目で、その“止まる直前”を見送る。顔はほぼ動かさない。目だけで追う。——うん、いまの!」

 風が強くなり、前髪が跳ねる。青が揺れ、白が光る。先輩は満足げに頷き、親指を立てる。

「よし! 最後は体育館。動きのあるやつ、いくよ!」

 体育館のフロアは、白いラインが規則正しく走り、青いベンチが並ぶ。夕方の柔らかい光が、窓の高い位置から斜めに差し込んで、埃の粒子が可視化される。空気の密度が変わる。

「ここでは、動と静を交互に。星川くんがドリブルして、止まる。天峰くんは、止まっている。対照。——二人で、同じ場所に、別の時間を置く感じ」

「詩人だな、先輩」

「写真ってそういうもの。——いくよ!」

 バスケットボールが床を叩く音は、いつでも胸の奥に直接届く。星川の身体は、それを知っている。スニーカーの滑り、汗の粒の浮き方、息の吸い方。天峰は、星川の速度を“見る”。数式ではない。観測だ。さらさらと、右から左へ流れるのではなく、目の奥に薄いフィルムを一枚、貼り付けるみたいに“残す”。

 その、一連の動きの最後。先輩が、ふっと息を吸った。

「——オッケー。ラスト一枚。二人で、センターサークルの縁に立って。青と白、対照。——それから」

 彼女は、カメラを下ろし、少しだけ間を取った。間の取り方が上手い人は、言葉の重さを知っている。次の言葉は、軽くない。

「最後は、“恋人と思って”、もう一歩だけ近づいて」

 体育館の空気が、一度だけ止まった。音が止まるのではなく、粒が止まる。舞っていた埃が宙で静止するくらいの、一秒。

 星川は、笑ってみせた。笑う以外に、選択肢がなかったからではない。笑った方が、前に進むからだ。

「プロの指示には従うタイプなんで」

 言いながら、半歩寄る。天峰の肩に、微かに自分の肩が触れる。天峰も、微かな角度で肩を寄せる。抵抗はない。むしろ、計算の結果としての“接触”。安全第一。けれど、指先の熱は、昨日の階段のときと同じ温度に近づいた。

「目線、合わせて。いや、合わせない。ずらす。——ううん、やっぱり、合わせよっか」

 先輩の指示が揺れる。揺れるくらいに、フレームが美しいのだ。シャッター音が連続する。カシャ、カシャ、カシャ。画面は、ほぼ頬が触れる距離。風が二人の前髪を揺らす。光が、髪の一本一本に小さく止まる。

「はい、そこ! 今の! ——はい、カット!」

 先輩がカメラを下ろした瞬間、体育館の時間が動き出す。埃が落ちる。息が流れる。星川は、深く息を吸い、ゆっくり吐いた。胸の内側で、誇らしい音が鳴る。まだ早い。まだ何も決まっていないのに、どうしてこんなに胸が満ちるのか、自分でも少しわからない。

「お疲れさま。最高だった。データ、整理して、明日には仮レイアウト出すね。——あ、ちょっと確認」

 先輩は背面モニターを二人にも見えるように傾けた。そこにあったのは、“青と白”を言葉以上に説明する一枚。肩と肩が並び、距離は手のひら半分。目線は、ほんの少しだけ絡んで、互いの輪郭を確かめ合う。すべてが、過剰ではない。過剰ではないのに、充分だった。

「……」

 天峰は、喉の奥で小さく呼吸を整えた。その間に、星川が茶化す余地は、ある。あるのに、選ばなかった。選ばないことが、今日の正解だと思えた。

 撮了後。体育館の扉を出たところで、二人はしばらく並んで歩いた。夕方の風が、汗の塩分を薄く舐める。階段を降りる途中、誰もいない踊り場で、天峰が口を開いた。声は小さい。小さいけれど、明瞭だ。

「……君が隣だと、意外と平気だ」

「え?」

 星川は、反射で立ち止まった。聞き返す声が、半音上ずる。けれど、天峰は首を横に振り、一段先の影に視線を逸らした。

「何でもない」

 それで会話は終わったはずだった。はずなのに、星川の胸は、さっきの“誇らしい音”と同じ音を、もう一度鳴らした。繰り返しに耐える音は、本物だ。

 翌々日。出来上がったポスターが校内に貼られた。昇降口の掲示板、中央階段の踊り場、図書室前、そして生徒会室の前。青と白が、校舎の白に重なっていく。写真部の先輩が、ピンの位置を確認し、微妙な傾きを直しながら、満足げに頷く。

「いい。すごくいい。これ、文化祭の来場者、増えるやつ」

 人だかりができる。「尊い」「公式」。言葉が飛ぶ。写真の中の二人は、こちらを見ているようで、見ていない。見ることと見られることの間に立って、正確に立っている。

「……これ、俺らなんだな」

 星川は、ポスターの前で、手を後ろで組んで立った。自分の顔が、いつもよりも少しだけ他人に見える。不思議と嫌じゃない。他人に見えるということは、その分だけ、自分の中に新しい自分が増えたということだ。

 天峰は、星川の隣で、ポスターの紙質を視覚的に測った。光沢は強すぎない。印刷の網点は荒くない。発色は充分。情報としての完成度は高い。——それでも、彼は、いつものように点検の言葉を口にしなかった。代わりに、短く言った。

「広報として、理想的だと思う」

「よかった」

 星川は、素直に笑った。誇らしい音が、また鳴る。音は外には出ないが、自分で聞こえる。音は自尊心に似ている。ぬくい自尊心。張り合いの中に、そんな温度が混ざる日が来るなんて、少し前の自分なら想像できなかった。

 その日、放課後。校内SNSのタイムラインに、広報委員会の公式アカウントがポスターの写真を上げた。キャプションは〈テーマ“青と白の青春”。文化祭、来てね〉。コメント欄は瞬く間に埋まる。

〈尊い以外の語彙力がない〉
〈距離感、天才〉
〈公式でこの距離って、つまり公式じゃん(混乱)〉
〈写真部先輩仕事できすぎ問題〉
〈ポスターの前でツーショ撮ると恋が成就するって今決めた〉

 スクロールしながら、星川は笑い、そして、ほんの少しだけ照れた。照れるということは、自分が何かを大事に思っている証拠だ。大事に思うことは、彼にとっては怖くない。怖くないけれど、慎重にはなる。

 生徒会室。天峰は、来週の議事予定を整理しながら、机の端に置いたスマホの通知をひとつだけ開いた。広報委員会の投稿。ポスターの自分。肩が並ぶ。距離は手のひら半分。目線は絡まず、絡む。画面を閉じて、彼は日誌に一行だけ書き足した。

〈記録:撮影時、深呼吸。隣在時、平常心に近づく傾向。仮説:対象が特定個人であることによる〉

 科学的であろうとする言葉は、すぐに詩になる。詩になることを、彼はまだ知らない。けれど、少しずつ、知り始めている。

 帰り道。中央階段の踊り場で、二人は同時に立ち止まった。視線の先には、ポスター。夕方の光が、青を柔らかくし、白を少しだけ金色にする。誰かが、写真の前で立ち止まり、友達の腕を引いて「見て見て」と言う。笑い声。シャッター音。

「なあ」

「何」

「俺ら、これから——」

 星川の言葉は、そこで止まった。未来形は、軽くない。軽くない言葉を、体育館での先輩のように上手く置ける自信は、まだない。

「——勝負、続けるんだろ?」

「もちろん」

 天峰は、迷いなく言う。その迷いのなさは、星川の胸の内側にまた“誇らしい音”を鳴らした。音は、今度は前に進むための合図みたいだった。

「じゃあさ。次の勝負、何にする?」

「成績は、僕が勝つ」

「だろうな。バスケは、俺が勝つ」

「だろうな」

「じゃあ、文化祭、動員数で勝負。どっちの導線案で人が多く動いたか、カウント」

「統計をとる方法は、今度二人で決めよう」

「デートの誘い方、天才か」

「今のは会議の打ち合わせ」

「はいはい」

 二人の足音が、階段を降りるリズムに重なる。外の空気は、初夏の匂いがする。ポスターの中の二人は、ずっと並んだままだけれど、現実の二人は、並んだり離れたり、競ったり譲ったりしながら、同じ校門をくぐる。

 張り合いの地図の上に、ぬくい自尊心が一つ、印をつけた。青と白の円の、ちょうど重なるところに、目に見えない小さな×印。そこに立ったとき、呼吸は不思議と整い、視界は少しだけ広くなる。——君が隣だと、意外と平気だ。言葉はもう、回収されない。けれど、体は覚えている。覚えているものは、次の一歩をきれいにする。

 風が廊下を抜けるたび、ポスターの四隅がかすかに鳴る。ピンは緩んでいない。斜めは直っている。文化祭は、まだ先だ。けれど、青と白の季節は、もう始まっている。