学校イチのイケメン×学校イチのイケメンは恋をする

 四月の風は、新しく貼り替えられた掲示物の端を、指で摘んで確かめるみたいにそっと揺らした。校舎のガラスは磨き込まれ、渡り廊下には白い光が等間隔に落ちている。始業式を終えたばかりの人波はまだ緩く、けれど誰もが少しだけ背筋を伸ばして、いつもより少しだけ早足だ。新しい席、新しい先生、新しい時間割。空気ごと、校内は一段階明るくなる。

 その明るさの中心に、いつだって名前が二つあった。

 天峰(あまみね)司。生徒会副会長、理数系トップ。淡い光沢を帯びた黒髪は横顔の輪郭に沿って滑らかで、無駄のない所作は黒板の図形みたいに澄んでいる。感情を外に零さない無表情ぎみの顔立ちは、逆に目を引いた。近寄りがたい——でも、だからこそ、見てしまう。

 星川(ほしかわ)湊。バスケ部のエース。笑うと目元に小さな皺が寄って、そこに一気に人が吸い寄せられていく。声は明るく、背が高く、肩幅があるのに、動作が軽い。体育館で跳ねる彼を一度でも見たら、その残像が一日中、どこかで跳ね続ける。

 校内SNSの非公式人気投票は、始業式の朝から既に熱い。トップ画に貼られたアンケートは「学校イチのイケメンは?」という、どう考えても先生には見せられないやつ。生徒会室の端末でこれを見つけたら、天峰はたぶん眉をひそめるし、星川は「またコレかよ」と笑うだろう。

 コメント欄のスクロールは止まらない。

〈今年もこの二人で決まりでしょ〉
〈司くんは“完成された美”、湊は“生きてる太陽”〉
〈でも実際しゃべりやすいの湊じゃね?〉
〈しゃべりやすさと顔は別ベクトル〉
〈司くん、数学の質問したら図で説明してくれた。恋に落ちた〉
〈湊、廊下でハイタッチしてくれた。恋に落ちた〉
〈両想いじゃん(?)〉

 そんな半分冗談みたいな流れの中で、票は朝のうちに一位天峰、二位星川で動き始めた。僅差。桁が増えるたび、数字は追い抜き追い抜かれを繰り返す。

 教室の窓辺。天峰は、何事もなかったように新しい時間割を手帳に写し取っていた。線は真っ直ぐ、文字は同じ大きさ、ペン先は引っ掛からない。斜め前の席で、星川がそれを横目に見やって、半分呆れるみたいに笑った。

「相変わらず、完璧すぎ」

 独り言のつもりだったのに、天峰のペン先が三ミリほど止まった。黒い瞳がちらりと動く。そこには嫌味も反論もない。ただ、測定。

「……君は、雑だけど人を惹きつける。だから票が入る」

「うわ。誉め言葉に刺しがあるタイプ」

「事実だ」

 そう言って、またペンが走る。文字は乱れない。星川は「はいはい」と肩をすくめたが、胸の内に小さな火花が落ちたのを感じた。雑、か。ふだんなら笑い飛ばせる。けれどこの男に言われると、なんだか自分の輪郭が甘いことまで見透かされた気がして、喉の奥がむずむずする。

 昼前、生徒会と部活動代表の会議が開かれた。来週末の学校説明会に向けて、各部署の役割を決めるためだ。集まったのは教員と主要生徒十名ほど。黒い長机を挟んで、議事がテンポよく進んでいく。

「今年は参加者が多い。去年の倍、いや三倍くらい来るかもしれない。生徒ガイドは例年通り、リーダーを立てて統率をとるかたちで……」

 教員の一人が資料をめくりながら顔を上げる。

「——で、だ。生徒ガイド長は、非公式とはいえ、人気投票一位の天峰と二位の星川。ダブルでやってもらおうと思う」

 ほんの一瞬、空気が波打つ。視線が二人に集まる。次の瞬間、重なった。

「自分ひとりで充分です」

 音の高さまで、びっくりするほど揃っていた。長机の向こう側で、教員二人が同時に目を瞬く。部代表の何人かが笑いを噛み殺す。空気の端で、紙が一枚、遠慮がちに擦れた。

 先に口を開いたのは星川だ。両手を肩の高さまで上げて、降参のジェスチャー。

「いやいや、ケンカ売ってるわけじゃなくて。現場は現場で動けるやつが指揮とるのが早いし、俺、動線わかってるんで——」

「複数のトップは意思決定を遅くする。トラブルの芽は、最初から摘むべきだ」

 被せる天峰の声は平板なのに、会議室の空気を一段冷やす効力がある。言葉は刃ではない。定規だ。正しさで机に線を引いて、逸れた分を測る。

「でも、今年は人が多い。二手に分けた方が物理的に早いわ」

 教頭が穏やかにまとめに入る。議論は短く終わった。結局、天峰と星川が共同で「来校者誘導のリーダー」を務める。教員の意図も、現場の現実も、折り合いをつけるかたちだ。

 会議後、廊下に出たところで、二人は数歩だけ並んだ。天井の蛍光灯が長く続く。床のワックスが滑らかだ。星川が横目で相手の表情を窺う。

「なあ。俺、邪魔なら邪魔って言っていいよ」

「邪魔かどうかは、まだ判断材料がない」

「はは。ひでぇ」

 笑ってはみたものの、胸の奥に、また小さく火花が落ちた。自分が火を持っていることは知っている。バスケでコートに立てば、それは絶対に消えない種類の火だ。けれどこの相手の前では、火が空気を選ぶ。燃え方を選び直す必要がある。そんな予感がした。

 準備の数日は、驚くほど滑らかに進んだ。滑らか——だったが、それは二人が自分の得意を押し付けなかったからだ。

 印刷室。配布資料の束を持ち上げた天峰は、一枚目に視線を滑らせた瞬間に止める。

「この数式、指数の位置がずれてる。正しくは——」

 彼はホチキスの針を外し、紙をばらし、ペンで小さく訂正を入れ、印刷データの修正を指示した。指先はためらいなく、動きに無駄がない。彼にとって誤差は誤差ではない。事故の入口だ。

 隣で検品していた星川が、それを見ながら口笛を短く鳴らす。

「三秒で見つけるなよ。怖えよ」

「気づけることと怖いことは違う」

「そーいうとこ」

 その「そういうとこ」が、星川の胸をちょっとだけ刺す。刺さるけれど、嫌じゃない。むしろ、自分の「雑」を微調整する定規を渡されたみたいな、不思議な心地よさだ。

 案内表示の矢印を貼る作業では、役割が逆転した。天峰が測量した通りに矢印を配置しようとすると、星川が首をひねった。

「それだと、歩く視線が泳ぐ。人って、矢印そのものより、人の顔につられて動くから」

「統計は」

「統計は好きだよ。でも、体育館で千回、人の群れをさばいた人間の勘も捨てたくない」

 星川は自分の身体を矢印だと思って、自然に動いて見せた。次に右? 左? 迷った瞬間に、彼の靴が半歩だけ右に寄る。その半歩が、見ている人の目線を連れ去る。

「こういうの。わかる?」

 天峰は三秒だけ黙って、頷いた。理解は速い。

「……合理的だ。採用する」

「素直」

「正しいものは採用する」

「……そういうとこ」

 二人の間に、少しずつ、細い橋が架かっていく。材質は違うけれど、同じ方向に渡すには充分な強度がある。星川は、認められたことが素直に嬉しかった。天峰は、自分だけでは届かない現場の角度が世界を少し鮮明にする感覚に、微かな興奮を覚えた。

 準備の最中、星川は迷子の中学生を見つけた。体育館の入口で、青いリュックを抱えた男の子が、靴の先で床をつついている。泣きそう、とまではいかないが、表情は固く、喉仏が上下に忙しい。

「お、どうした。迷子?」

 星川は背を屈めて視線を合わせた。難しい言葉は使わない。軽口を、軽口の速度で。男の子は一瞬、彼の顔と名前を一致させようとするみたいに見上げて、それから唇の端を緩めた。

「……理科室、どこ」

「理科室なら、俺も迷子になる自信ある。実験の匂いがする方へ行けばだいたい正解。ほら、あの矢印。あれ、天才が貼ったから、信じていい」

 男の子はくすっと笑って、肩の力が抜けた。星川は歩幅を合わせ、ゆっくりと歩き出す。途中、何度か無駄話を挟み、笑わせ、足取りを軽くする。理科室に着く頃には、男の子の声は自然な高さになっていた。

 離れて見ていた天峰は、脳内に不慣れな種類のデータを追加していた。星川が話すたび、相手の肩の筋肉が緩む。呼吸数が落ち着く。歩行のリズムが揃う。その一つひとつが、彼の言葉の選び方と視線の置き方に紐づいている。計測できないが、確かに存在するルール。人間の「惹きつける」という現象の、数学以前のところ。

「……君は、人の重心を動かすのが上手い」

「え?」

「迷子が、君についていくとき、身体が真ん中に戻っていた」

「な、何それ? でも、ちょっと嬉しい」

 星川は耳の後ろを掻いた。誉められることには慣れている。けれどこの男に分析されるのは、なぜだか照れる方向が違う。褒め言葉のつもりの言葉が、どこか刺さるのは相変わらずだが、刺さって痛いのではなく、刺さって温かい。そこから体温が広がっていく。自分でも驚く。

 説明会当日。朝の光はいつもより早く、校舎の東側を洗い流すみたいに差し込んだ。正門の前には受付テントが立ち、ボランティアの生徒が笑顔でパンフレットを配っている。保護者と中学生の列は、予想を超えて長い。日付けの違う同じ景色が、去年より二割増しの熱を帯びたコピーのように連続する。

「行くぞ」

「おう」

 二人は分担を決めて、校舎の中を巡回する。星川は体育館と西棟、天峰は理科室のある東棟と生徒会関係。トランシーバーで必要な情報を短く交換し、淀みなく動線を掃く。

『東棟二階の人流、理科室前で一時的に膨らむ。展示の人体模型に群がっている』

『OK、体育館側から二名出す。理科室の扉、半開きにして視線を流して。模型には「さわらないで」札追加』

『了解——』

 天峰は短く返事をして、即座に紙とペンで札を作った。紙面の中央に最短の線で字を置き、目線の高さに貼る。手元に迷いはない。歩きながら、通りすがりの保護者に自然に頭を下げる角度も、わずかに効率的だ。星川は星川で、体育館の人の波をスラロームのように切り分け、笑いと拍手で空気の密度を下げる。夏前の熱気はまだ軽く、汗は背中で吸われて消える。

 昼前、東棟と西棟の間にある中央階段が、一時的に飽和した。東からも西からも、団体がちょうど重なって流れてくる。この校舎の設計の、唯一の弱点がここだ。踊り場に人が溜まりそうな気配を感じて、星川はすぐに走った。天峰も、別方向から同じ踊り場を目指して、歩幅を一つ増やす。

 階段。踊り場までの段差は十二段。上から降りてくる母親が、子の手を引きながら少し足をもつれさせる。見た瞬間、星川は前に手を伸ばし、反射で支える体勢に入った。タイミングは十分だった——はずだった。

 彼の手首に、ひやりとした何かが触れた。伸びた自分の手よりも早く、細く白い指が、別の角度から母親の肘を支えていた。天峰。目が合う。近い。

 その一秒は、動画で切り出したスローモーションの一コマみたいだった。星川の手の甲と、天峰の指先が、すれ違いざまに触れ合う。皮膚が、ほんのわずかに重なる。ひやり、から、微熱。天峰は、触れた瞬間に離さない。支える角度を、ほとんど誤差のない精度で調整して——。

「——安全第一」

 何でもない顔で言って、指先を少しだけ遅く離す。母親は「ありがとうございます」と笑い、子の頭を撫でた。人の流れは滞らない。事故は起きない。何も起きなかったことだけが、完璧に起きた。

 遅れて跳ねたのは、星川の鼓動だ。胸の内側で、バスケットボールが床に弾むみたいに、どくん、と音を立てる。今の、何だ。支えたのは母親の肘で、触れたのは自分の手の甲で、起きたのは事故回避で、何も、何も——。

 天峰は、階段の角度と人流の圧力を再計算していた。彼にとって、さっきの接触は動作の一部で、記録の外側に置くべき偶然——のはずだった。だが、指先の温度だけが、記録に残っていた。微熱という言葉の定義を変えるほどの数値ではない。ただ、普段ならすぐに散るはずの熱が、皮膚の内側に薄く貼りつく。数字にならないから、消えていくはずの情報が、なぜか消えにくい。

 午後、来校者の波が二度目のピークを迎えた頃、二人は初めて、言い合いに近い会話をした。言い合い——と言っても、声が荒いわけではない。テンポが一段上がっただけだ。

「体育館に出す矢印、一本足りない」

「理科室前から一本持ってくる」

「理科室前を薄くすると、理科の先生が困る」

「じゃあ、俺が立って矢印になる」

「人間を矢印にするのは、持続可能性が低い」

「イベントは持続しない。今日一日、効果が最大なら勝ち」

「——反論が合理的だ」

「お。今の、勝ち?」

「引き分け」

「はいはい」

 そんな応酬を三度ほど繰り返して、終わる頃には、矢印の位置は最初の予定よりも良くなっていた。星川は、息を吐くたびに気持ちが軽くなるのを自覚した。張り合う相手が、張り合いがいのある相手だということは、それだけでぜいたくなことだ。天峰もまた、言葉数を増やさないまま、心拍数をほんの少し上げている。測れるほどではないが、ゼロではない。

 最後の案内が終わる頃、空は少し色を変えていた。日が傾き、校舎の窓に長い影がかかる。受付テントの撤収が始まり、パンフレットの余りを数える手が忙しい。

「お疲れ」

「お疲れ様」

 短い言葉の奥に、長い時間が重なる。二人の間で、何かの重さが少しだけ変わっていく。天峰が、携帯端末を取り出して、校内SNSの非公式人気投票のページを開いた。画面の上に、赤い丸印が灯っている。更新。

 押す。数字が入れ替わる。次の瞬間、掲示板前の人だかりが「わっ」と小さくどよめいた。誰かがその場でスクショを撮る音がする。

〈速報:同率1位〉

 スプリット画面のように、二人の名前の右に、同じ数字が並んだ。細い棒グラフがぴたりと同じ長さで止まる。人だかりのざわめきが、波の引き際みたいに静まっていく。

 掲示板の前で、二人は向かい合った。遠くの窓から、夕方の光が斜めに差す。天井の蛍光灯が一本、タイミングをずらして点滅する。そんな些細なものまで、視界に入ってくる。沈黙。沈黙は厚みを持って、けれど不快ではない。

 先に笑ったのは星川だ。口元が緩み、目尻に小さな皺が出来る。彼の笑いはいつも周囲の温度を上げるけれど、今は温度計の目盛りがひとつ、内側に刻まれたみたいだ。

「じゃ、次は正式に勝負だな、天峰」

 天峰は、その顔を見上げた。無表情ぎみの目に、ほんのわずか、光が入る。彼は頷く。言葉は短く、切れ味がある。

「望むところ」

 そして、ほんの少しだけ遅れて、唇の端が動いた。笑った、というほどの変化ではない。けれどそれは、彼にとっては大きな変化だった。星川はそれに気づいて、胸の奥のボールがまたひとつ跳ねるのを感じた。

 ——張り合いは、始まったばかり。

 帰り道、校舎のガラスに映る自分の影が、いつもよりも鮮やかに見えた。視線の先には、同じくらい鮮やかなもう一つの影が、並んでいるような気がした。並ぶ、と言っても肩を並べるわけではない。競う。追う。追われる。その距離感を、二人の影はすでに知っている。

 校舎の角を曲がると、夕焼けが一段明るくなる。正門のアーチをくぐる直前、星川はふと立ち止まり、後ろを振り返った。さっきの階段。踊り場。わずかな接触。指先の体温。自分の心臓の速度。それらは、たぶん誰の記録にも残らない。けれど、自分の中でははっきり残っている。バスケの試合で、踏み切る直前に床の反発を確かめるときの感覚。あの、次の一歩が、これまでと違う高さに到達することがわかる瞬間の、微かな確信。

「——よし」

 小さく息を吐いて前を向く。競うことと、認めることは、同じ地図の上にある。天峰司。あの名を、今日はいつもより正確に、心の中で発音できる。

 対して天峰は、生徒会室で日誌を書きながら、ペン先を一瞬止めた。効率的に並んだ文字列の上に、ごく小さな空白が生まれる。そこには、数値にできないものが置かれている。いや、正確に言えば、まだ数値にしていないだけだ。人の重心、熱の滞留、笑いの波及速度。そんな項目を、彼は初めて自分のノートに欄を設けて記してみる。実験は始まったばかり。仮説は、簡単には検証できない。だから——面白い。

 窓の外、夕暮れの校庭に、バスケ部の影が跳ねる。誰かが笑って、誰かがボールを投げる。風が、一枚だけめくれかかった掲示物を、また指で摘む。今日という日の端を、やさしく確かめるように。

 同率一位。数字は、二人の位置を表すだけだ。けれど、数字の向こうにあるものは、もう少し熱い。張り合いは、確かに始まった。安全第一で、正確で、でも、時々は指先が遅れるくらいの——そんな張り合いが、これから続いていく。

 そして、どちらかが前に出るたび、どちらかが追いかける。そのたびに、二人の足取りは、少しずつ、お互いの歩幅を覚えていく。勝ち負けの標識は、遠くに置いたままでいい。近くに置くのは、今、ここで、同じ熱のなかに立っているという確信だ。

 夕日に背を押されるようにして、二人はそれぞれの帰り道を歩き出す。背中の向きは違っても、朝になればまた同じ校門をくぐる。張り合いの続きを、笑いながら、あるいは笑わずに始めるために。

 ——映えるシーンは、いつでも突然だ。階段の指先アップ。視線の交差。掲示板の「同率1位」スプリット画面。あの日のスローモーションは、誰のスマホにも残っていない。けれど、きっといちばん鮮明に残っているのは、二人の中だけだ。次は正式に、勝負をしよう。望むところ——その合図だけが、今は必要だった。