一 伏せられた名の方角

 翌朝の広場には、まだ昨夜の歓声の余韻が薄く漂っていた。板の〈今日の契り〉の札は夜露でわずかに波を打ち、女官の手が丁寧に端を撫でて皺を伸ばしている。
 凌は指先でその皺の浅さを測り、胸の誓珠へ触れてから、静かに視線を上げた。薄い雲が東に流れ、風の匂いは柑橘と沈香のあいだ。人が眠れる匂いだ。

 だが、眠りの底には必ず起きているものがある。
 凌は昨夜、寝台の灯を落とす直前に一枚の紙を机の底に差した。太后の机に伏せられていた祈祷札――〈岳祢〉。民間の陰陽師の名。伏せは見せる。見せるは、逃がす。逃がされた名は、追えば追うほどこちらの“欲”を映す鏡になる。

(鏡に映るのは、いまの私。……それでも追う)

 凌は学堂の隅で燕青と向かい合い、地図の端を指で押さえた。
「〈岳祢〉の足がつく場所。祭祀局の祓抄の出と入り、香の商いの銀工の帳、宰相家の橋の通い路……三つの線の交点に、廃寺があるはず」

「廃寺?」

「封鎖され、祭祀から外された古寺。名目は“古い祀が禁じられたから”。実際は、祀りの技だけが残り、言葉を失った場所です。……影を紙にする仕掛けは、そういう場所に隠されやすい」

 燕青は頷いた。
「外の見張りは私がやる。あなたは“紙”を」

「ええ。香鏡と誓珠、それに水面の鏡を」

 凌は誓珠の玉を光に傾け、銀砂がごく細く揺れるのを確認してから、短い文を二通したためた。ひとつは女官長・蘭秀へ。もうひとつは祭祀局へ。
 〈巡香の名の下に、廃寺の封鎖を一時解除する〉
 文には小さな婚礼印を押した。婚礼の余熱を、冷たく硬い封鎖の上に一匙置くためだ。

二 封鎖された門

 城下の北西、竹林の先に古寺はあった。名を〈玄虎院〉。かつて国境守護の祈を司り、王朝が改まった折に“過ぎた願掛け”とされて封じられたと、内庫の古書は語っていた。
 門は二重に封がされ、注連縄は新しい。封の紙は祭祀局の印、端に“遅れて出る印”を仕込んだ気配がある。凌は小刀で角を持ち上げ、紙の裏を光に透かした。

 薄い。
 薄さは、いまも誰かが通っている証拠だ。封は封の形をして、人の出入りを認める。
 凌が目で合図すると、燕青は封の紙を破らずに“剥いだ”。剥いだ紙を元の角度に戻せば、封は封の顔で立ち続ける。

 門をくぐると、空気が冷えた。
 中庭の石は黒ずみ、祠の扉には古い楔。鐘楼は半ば崩れ、代わりに香炉が並ぶ。香は焚かれていない。焚かれていない香炉から、柑橘とは違う、少し鉄に似た匂いが上がる。
 凌は足を止め、土の“沈み”を見た。足跡は古く、だが一カ所だけ砂が柔らかい。昨夜、あるいは今朝、誰かが小走りで通った。小走りの歩幅は、若い足だ。重さは軽い。女か、痩せた男。

「燕青」

「北の庫です。扉の釘が新しい」

 二人は息を潜め、庫裏の扉をほんの指一節分だけ開けた。暗い。だが、暗さが均質ではない。右の壁の下半分が、影のように濃い。
 凌は香鏡を取り出し、薄く油を引いた鏡面に誓珠の光を短く走らせる。光は影を嫌う。嫌った光が、濃い影を薄く剥ぐ。

 壁の土が、紙のようにめくれた。

三 影を紙にする

 壁の中から出てきたのは、黒い帳面だった。
 皮の表紙は古く、綴じの糸は新しい。
 帳の帯に、刻まれた名。
 〈影の帳〉。
 凌は喉の奥で息を飲んだ。陰陽師たちが“約定を影に留める”ために用いたと伝わる、半ば伝説の伝書。文字は墨ではなく影で書かれ、光の角度が合わなければ、ただの空白として見える。

 凌は帳を開き、香鏡の角度を変え、誓珠の光を細く絞った。
 ページの白が、ゆっくり濃淡を帯びる。
 現れる文字は、筆ではなく糸の結び目で織られたように微細だ。
 右頁には〈岳祢〉の小さな印。左頁の余白には、見覚えのある印章の“縁の欠け”。内庫の監印の欠け。凌が仕込んだ印ではない。だが、同じ思想だ。燃やせば出る印。遅れて出る印。
 頁をさらにめくる。
 そこには、見たくない言葉が、冷たい整いで並んでいた。

 ――〈唯一妃の廃止〉
 ――〈複妃制の復活〉
 ――〈宰相家/太后御側/祭祀局若官 連署〉
 ――〈流言の筋 香の名を変えて広場を汚せ/祓いの流量を過不足させて不安を撒け〉
 ――〈婚礼第一段ののち七日の内、第二段を挫け〉

 凌の指先がわずかに冷えた。
 影の文字は冷たい。冷たさは頭を澄ませるが、同時に心の温度を奪う。
 宰相家と太后派の連署――太后の“名”そのものはない。だが、御側と記されている。御側の名を隠すのは、太后の守りの形だ。守りの形は、武器にもなる。

「……持ち出す」

 凌は決め、頁の角に“剥がしの印”を付した。影の帳は綴じ糸ごと剥げない。だが、頁の“表皮”を薄く削いで写せる。
 香鏡を近づけ、誓珠の光を斜に当て、息を止め、親指の腹でわずかに押す。影の文字の凹凸が、薄皮の裏へ転写される。
 転写紙を三枚。うち一枚は胸の衣の内側へ。一枚は香鏡の背に。もう一枚は――燕青の袖へ。

「早い」

「早く」

 その時だった。
 庫の外で、細い金属の鳴る音。
 次いで、乾いた破裂音。
 柑橘とは違う、苦い香が鼻を刺した。

「火だ」

 燕青の声が低く固くなった。
 扉の隙間から、赤が這い、黒が走る。
 破風を伝って、火が上から降る。
 陰陽師の仕掛け――香炉に仕込まれた“禁香(きんこう)”。火ではなく“火の形”を吸って吐く香。吸われた火は壁の内側へ忍び、積年の油と埃を噛む。
 炎は最初、音がしない。音のない炎ほど、人の動きを鈍らせる。

「凌」

 呼ばれた瞬間、身体が浮いた。
 燕青が抱え上げる。
 背が壁に打ち、視界が一度白く弾け、次に赤く染まる。
 香鏡が床を転がり、誓珠の光が床の灰でわずかに跳ねた。

「帳――」

「死ぬな」

 燕青の腕が締まり、身体は次の瞬間、闇のほうへ投げ出された。
 床板の下。
 燕青が蹴り破ったのは、古寺の“水の道”――僧たちが雨を井戸へ集めるための木樋だ。
 樋は細い。大人が通るには狭い。だが、火はさらに狭い道を嫌う。

「息を止めて」

 燕青は凌を先に押し込み、自身も滑り込む。
 木の樋は滑りと音を吸い、赤はすぐ上でもがく。
 落ちる先は、井戸。
 井戸の底に、鏡がある――凌が昨夜、別の井戸へ仕込んだ“誓珠の影”の鏡と同じ、薄い古鏡が、偶然ここにも残っていた。
 偶然は、準備の別名だ。

 水へ落ちる直前、凌は胸の衣の内側を押さえた。転写紙の感触。
 紙は水に弱い。だが、柿渋と蜜蝋を薄く刷いてある。数息なら耐える。
 水が口へ入り、耳が鳴り、冷たさが世界を均した。
 次の瞬間、身体は外気へ押し上げられた。

四 追手の影

 井戸端。
 息を吐く前に、燕青が凌の身体を引き起こし、井戸の外へ転がした。
 空気は熱く、灰が風に舞う。古寺の屋根は燃え、黒い咆哮が空に柱を立てる。
 火は上へ向かい、人は下へ逃げる。逃げ道はふたつ。門か、北の塀の裂け目か。

 そのとき、門のほうから影が三つ。
 背丈が揃い、足の運びが同じ。
 訓練された歩幅――宮の中の足。
 先頭の影が扇を半ば開き、風を切る角度で前へ出た。
 扇の骨が一本、欠けている。
 欠けは丸く磨かれている。
 凌の胸を、冷たさが走った。

「……蘭秀」

 声は微塵も震えなかったのに、内側のどこかが、確かに削れた。
 女官長・蘭秀。両属の人。真ん中の冷たさに耐える背。
 彼女は扇を閉じ、目だけを細くして、こちらを見た。
 視線の端に刃の匂い。
 だが刃は抜かない。扇だけ。
 扇は武器にも、合図にもなる。
 今日の扇は――どちらだ。

 燕青が一歩前へ出て、凌を背に庇う。
 追手の二人が左右へ散り、取り囲む角度を調整する。燕青は角度の癖を読み、足の重心を変えた。
 火の音が大きくなる。
 灰が舞い、視界が細かく切れる。
 切れた視界の奥で、蘭秀の扇がほんのわずか――左に振れた。
 左へ振れるのは、“下がれ”の合図。
 宮の内側で通じる、古い合図。
 追手の二人は、しかし、下がらない。
 代わりに、一人が腰から短い弩を抜いた。

 弦の音。
 燕青の刃が弩の腕を打ち、矢は空へ逸れた。
 二の矢はない。
 蘭秀の扇が、今度は右へ――“止まれ”。
 止まるべき者が、止まらない。
 命令系統が二重だ。
 女官長の合図と、別の“主”の命令。
 追手たちは、蘭秀の扇を見ているようで見ていない。
 見ているのは、扇の向こう――太后か、中書令か、あるいは別の“影”か。

「燕青、走る」

 凌は言い、足を引いた。
 背は痛い。膝は重い。だが、紙は胸にある。
 紙は、刃より重い。
 ここで落とすわけにはいかない。

 蘭秀の扇がふたたび左へ――“行け”。
 燕青はその合図だけを刃で受け取り、塀の裂け目へ向かった。
 背後で、弩の弦が再び鳴り、火の柱が崩れ、古寺の鐘がひとつ、遅れて鳴いた。
 鐘の音は、逃げる足を軽くする。
 軽くなった足が、裂け目を抜けた瞬間、風が変わった。
 丘の向こうから、馬の気配。
 賀蘭の兵だ。
 凌は振り返らなかった。振り返るのは、逃げ切ってからでいい。

五 炎のあとで

 軍務府の詰所に入るやいなや、医局の女医官が凌の袖を掴んだ。
「火傷は?」
「軽い。……紙が先です」

 胸の衣の内側から転写紙を取り出す。柿渋と蜜蝋の薄皮は、水に耐え、熱にも縮まなかった。表面には、影の文字が凹凸の陰で、かろうじて読める。
 凌は砂時計を返し、乾きを待ちながら、並行して灰を集めた。古寺の灰は柑橘ではなく、苦い香。禁香の灰は、触れた指の温度で匂いを変える。変わる匂いは“混ぜ物”の証。混ぜられたのは、鉄胆の粉と、古い桃膠。
 桃膠は影の文字の接着に使われる。
 つまり、炎上は偶然ではない。
 “影の帳”を開けば燃える。
 仕掛けた者は、帳と寺ごと隠滅するつもりだった。

「陛下に」

 賀蘭の兵が頷き、すぐに禁裏へ走る。
 凌は女医官に礼を言い、袖の中の浅い火傷へ薄い薬を塗った。
 皮膚にじんわり熱が刺さる。
 熱は痛みを呼ぶ。
 痛みは、考えを短くする。
 短くなった考えは、正確であり、同時に冷たい。

(蘭秀……)

 扇の角度。左へ“行け”、右へ“止まれ”。
 彼女は、助けた。
 助けたが、そこにいた。
 両属の真ん中に立つ人が、真ん中から半歩ずれた日。
 半歩のずれは、真ん中の寒さではなく、熱に向かうときに起きる。
 熱は、太后の沈香か、中書令の灯か、あるいは――凌自身の“婚礼の熱”か。

 凌は自嘲の笑みをひとつだけ置き、転写紙を箱に収めた。

六 帝の前にて

 景焔は広間の灯を絞り、砂盤ではなく“机”の上に目を落としていた。
 凌が跪いて転写紙を差し出すと、帝は黙って受け取り、光の角度を探った。
 凹凸の影が、文字に変わる。
 〈唯一妃の廃止〉
 〈複妃制の復活〉
 〈連署〉

 景焔の指先が、紙の端で一度だけ止まった。それから、静かにもう一度読み返す。
 怒りは、帝の皮膚の下で燃える。
 燃えるが、表には出ない。
 出ない怒りは、冷たい燃料へ変わる。

「……よく持ち帰った」

 短く言って、景焔は視線を上げた。
「寺は?」

「燃えました。禁香。……入口の封は、剥がして戻せる。誰かが出入りしていました」

「誰だ」

「女官長・蘭秀が、門に。扇で“行け”と合図を。……でも、彼女の命令は追手に届かなかった」

 景焔は目を細めた。「両属の真ん中で、割れたか」

「はい。……私は、彼女を疑います。疑いは、痛い」

 凌は正直に言った。
 正直さは、刃になる。
 だが、帝の前で刃を見せるのは、儀礼だ。

「疑え」

 景焔の声は低い。「疑って、数にせよ。疑いは数にしないと腐る」

「数にします。……影の帳の“証”は、この転写紙と、灰の配合。さらに、祭祀局の印場で裁った紙の“片倒れ”の欠片。宰相家の橋の袖に残る銀。太后の祓抄の朱」

「足りるか」

「足す」

 凌は答え、息を少し長く吐いた。
 吐くと、痛みが少し薄くなる。
 薄くなった痛みは、計算の紙に変わる。

「“唯一妃の廃止”は、言葉として力がある。噂に乗りやすい。……だから、私たちは言葉で負けないように、板を増やします」

「板?」

「〈今日の契り〉の隣に、〈今日の帳〉。香と祓いと灯に加え、政治の“帳”を広場に下ろします。決まったこと、決めないこと、試み、失敗――“影の帳”に対する“光の帳”。」

 景焔は短く笑った。「おまえは、すぐに板を増やす」

「紙は刃より重い、というのは、今朝の私の慰めです」

「慰めは、使え」

 帝は立ち上がり、凌の手を取った。
 いつものように指先に口づける前に、少しだけためらい、ためらいを短く終わらせて、指の腹で誓珠を押さえた。

「……蘭秀は、我が呼ぶ」

「お願いします。私は、彼女に会えません。いまは」

 景焔は頷き、親衛に目で命じた。
 命は静かに走り、灯は揺れない。
 揺れない灯は、人を落ち着かせる。

七 女官長の影

 蘭秀が広間へ現れたのは、それから小半刻後だった。
 扇の骨は欠けたまま、磨かれて丸い。
 彼女は景焔に深く礼をし、凌へは目だけで短く「見た」と告げた。

「玄虎院にいたな」

 景焔が言うと、蘭秀は否定しなかった。
「いました。……太后さまの文で“封の点検”へ。女官三名を連れて。禁香の匂いがしました。扇で止めましたが、止まりませんでした」

「誰の命令で」

「“扇の向こう”です」

 彼女はそれ以上を言わなかった。
 言えば、扇は折れる。
折れた扇は、二度と同じ風を作れない。

 凌は景焔の横で、目を伏せた。
 伏せた目の裏に、井戸の暗さと、火の赤と、蘭秀の扇の左への振れが鮮やかに浮かぶ。
 助けられた。
 それでも、疑う。
 疑う痛みは、刃より鈍く、長い。

「蘭秀」

 景焔の声は平坦だった。「おまえは、どこに立っている」

「真ん中です」

「真ん中は凍える」

「ええ。……だから、扇を磨きます」

 景焔は目を細め、やがて短く頷いた。「下がれ」

 蘭秀が去ると、空気は少し軽くなった。
 軽くなった空気の中で、凌は胸に手を置く。
 誓珠は冷たい。
 冷たさは、今日の温度だ。

八 “光の帳”を起こす

 学堂の板に、四枚の札の隣へ新しい板を掛けた。
 〈今日の帳〉
 最初の項は、短く。
 〈玄虎院 封鎖/禁香/影の帳〉
 次に、〈調査中〉の欄。
 〈裁断の片倒れ/灰の配合/転写紙 乾燥待ち〉
 最後に、〈広場からの言葉〉。
 板の下に、小さな紙と筆を置いた。
 民が書けるように。
 書かれた言葉は、噂とは違う。筆の重さが、人の重さを呼ぶ。

 最初に紙を取ったのは、昨日“祝い餅がやわらかい”と言った老人だった。
 彼は筆を持ち、震えながら、しかし一字一字、ゆっくり書いた。
 〈火を恐れるな。紙で囲え〉
 凌は頭を下げた。
 老人の紙は、刃より強い。

 祭祀局の若い書記が板の前で立ち止まり、袖の中で拳を握るのが見えた。
 彼の耳朶には、昨日と同じ緊張の赤。
 だが、今日は赤の温度が違う。
 恥の赤ではない。覚悟の赤だ。

「書いて」

 凌が声をかけると、若い書記は頷き、筆を取った。
 〈祓いの流量は、香の名と一緒に板へ〉
 彼は書き終え、深く頭を下げた。
 板の前で、誇りの連鎖が起きる。

九 紙を乾かす時間

 禁裏の一室で、転写紙を“乾かす儀”が始まった。
 儀と言っても、やることは単純だ。
 柿渋の薄皮を張った紙を、湿りすぎず、乾きすぎない温度の風に当て、砂時計の砂が三度落ちるあいだ、誓珠の光を三度だけ斜に当てる。
 光の角度は、香鏡で測る。鏡の縁に刻んだ目盛は五度刻み。誓珠の光は、五度の差で文字を黒にもし、灰にもする。
 凌は呼吸を浅くし、目を細め、指で紙の端を支えた。
 燕青は扉の外で風の音を読み、賀蘭の兵は外周で足音を消す。
 景焔は室の隅に立ち、何も言わず、ただ“いる”。
 帝が“いる”というだけで、儀は儀になる。

 砂が落ち切ったとき、紙の上に、影の文字がふたたび浮かんだ。
 〈唯一妃の廃止〉
 〈複妃制の復活〉
 〈連署〉――〈宰相家/太后御側/祭祀局若官〉
 〈破婚七日〉

 破婚七日――婚礼第一段ののち、七日の内に第二段を挫け。
 七日。
 数字は刃より冷たい。
 冷たさは、計画の温度だ。

「七日以内に“合衣の定”を叩かれる」

 凌は紙から目を離さずに言った。
「叩かれ方は三つ。香の道を汚す、祓いの流量を乱す、灯を消す。……どれか一つでも欠ければ、噂は半分しか育たない。三つ揃えば、噂は刃になる」

「なら、三つとも“光の帳”へ上げろ」

 景焔の声は低く、よく通った。
「灯は我が増やす。香はおまえが鏡で映せ。祓いは祭祀局の若い書を書かせる。……七日のうちに、“見える手”を三つ、増やせ」

「はい」

 凌は頷いた。
 頷きは、痛みを短くする。
 短くなった痛みは、歩幅になる。
 歩幅が整えば、七日は長い。

十 夜、うたがいの重さ

 儀が終わると、夜はいつもより深かった。
 凌は寝殿の端で、紙を眺め続けた。
 目は文字を読み、心は扇の角度を思い出す。
 蘭秀の左――行け。右――止まれ。
 彼女は助けた。
 それでも、そこにいた。
 疑いは、痛い。

 景焔が静かに近づき、何も言わず、凌の肩に手を置いた。
 温度が戻る。
 戻る速さが、関係の強さだ。
 凌は目を閉じ、短い沈黙を置いたあと、低く問う。

「陛下。私は、彼女を疑っていいですか」

「疑え」

 返事は変わらない。
「疑って、働かせろ。疑われる者ほど、働く。……働かないなら、切れる」

「切りたくありません」

「切らずに済むなら、それがいちばんだ」

 景焔は誓珠に触れ、指先で軽く鳴らした。
 玉の中の銀砂が、夜の灯で細く流れる。
 流れる音が、刃を鞘に戻す音に似ていた。

「凌」

「はい」

「――よく生きて戻った」

 凌は笑い、頭を下げた。
「生きているほうが、紙が増やせます」

「紙を増やせ」

 帝の命は、いつも簡潔だ。
 簡潔な命令は、人を長く歩かせる。

十一 影の終わりを見に行く

 翌日、焼け落ちた玄虎院へ、軍務府と祭祀局の混成隊が入った。
 禁香の灰はまだ熱く、石は割れ、鐘は傾いでいる。
 だが、井戸は生きていた。
 凌は井戸の縁に鏡を置き、底へ光を落とした。
 光は、石の継ぎ目で散る。
 その散り方に、僅かな“影の尾”が残っていた。
 尾の先に、小さな金の片。
 指でつまみ上げる。
 誓珠のように小さく、刻印は半分だけ。
 刻印の“片倒れ”は――祭祀局の裁ち刀の癖。

「やはり、印場が使われた」

 凌はそれを薄紙に包み、箱に収めた。
 証拠は集まる。
 集まった証拠は、板へ上がる。
 板へ上がれば、闇の値段は上がる。

 帰り際、凌は一度だけ振り返った。
 焼けた寺は、黒い骨の形で立っている。
 骨は、夜を支える。
 支える骨が黒い日もある。
 黒い骨は、白い紙を欲しがる。

十二 宰相の灯

 中書令に叙された宰相は、広間で相変わらず柔らかな笑みを絶やさなかった。
 〈今日の帳〉の板を遠目に眺め、部下に「筆の補充を」と言い、祭祀局の若い書記の紙を褒め、女官たちに「婚礼印が美しい」と囁いた。
 囁きは、油のように滑る。
 滑る油は、いつか火を速くする。
 だが、いまは――滑りが、板の紙を守っている。

 宰相の袖に、銀の粉。
 袖口の縫い目に、蜜蝋の粒。
 凌は距離を取り、紙で宰相の動きを追った。
 紙にすると、憎しみは薄まる。
 薄まった憎しみは、制度に変わる。

十三 七日の刻

 “破婚七日”。
 板の端に、砂時計を掛けた。
 砂が落ちるたび、〈今日の帳〉に小さな印が増える。
 一日目、香の名は〈縁の香〉、祓いの流量は平、灯は増。
 二日目、香の名は〈道の香〉、祓いの流量はやや多、灯は増。
 三日目、香の名は〈清の香〉、祭祀局の若い書記が自ら数字を書いた。
 四日目、御台所が祝い餅ではなく、白い粥に小さな蜂蜜を落とした。甘さは毒になる。だから、砂時計の半分の甘さ。
 五日目、軍務府が外周の灯を増やし、井戸の鏡に新しい反射が映る。
 六日目、女官長・蘭秀が扇の角度を少し変え、香の道を“広げた”。
 広がった香の道は、陰謀の“摩擦係数”を上げる。
 七日目――

 七日目の朝、広場の板に、誰かが小さな紙を貼っていった。
 〈影の帳に、光を〉
 文字は拙く、墨は薄い。
 だが、その一枚で、板の前に人の輪ができた。
 輪の中心で、子が声に出して読む。「かげのちょうに、ひかりを」
 母が笑い、老人が頷き、兵が腕を組んだまま目だけで笑った。

 “破婚七日”は過ぎた。
 “合衣の定”はまだ先。
 だが、七日の刃は、折れた。

十四 痛みの端

 夜。
 凌は寝殿の端で、また紙を眺めていた。
 蘭秀の扇は、今日も真ん中。
 彼女は板の前で何も言わず、扇の骨をひとつ鳴らし、去って行った。
 鳴りは合図。
 合図は、裏面での友情だ。
 それでも、痛みは残る。
 痛みをすべて紙にできる日は来ない。
 紙にできなかった痛みは、夜の余白へ置く。

 景焔がそっと隣に座る。
 凌は首を傾け、静かに言った。

「私は、彼女を疑いました」

「疑って、助かった」

「はい。……でも、痛い」

「痛みは、生きている証だ」

 景焔は誓珠に触れ、玉を軽く鳴らした。
 鳴りは、慰めでも、命令でも、愛でもあった。
 名は、いらない。
 いらない名は、夜に溶ける。

「凌」

「はい」

「紙を増やせ。……“光の帳”を、もっと」

「増やします」

 凌は目を閉じ、頷いた。
 頷くたびに、紙は増える。
 増えた紙の下で、人は眠れる。

 “影の帳”は、炎に呑まれた。
 だが、影の文字は、転写紙の上で生きている。
 生きた文字は、明日の板へ上がる。
 板の上で、影は影でなくなる。

 その光景を想像して、凌はようやく、短い眠りに落ちた。
 眠りの中で、古寺の鐘が、遅れてもう一度鳴った。
 遅れて鳴る鐘は、約束の音に似ていた。