一 「公に誓う」という武器
朝の鐘が二つ目を打ったころ、凌は禁裏の帳を押し上げ、まっすぐに景焔の座へ進んだ。
外套の紐は固く、誓珠は胸で冷たい。冷たいものを握ってから話を始めるのは、心の温度を正しく置くためだ。
「――婚礼の儀を、正式に」
言い切る。
景焔は筆を止め、細い息だけ吐いた。驚きは見せない。驚きを見せないのは、帝としての呼吸のしかたを、骨で覚えているからだ。
「早い」
「遅いです」
凌は一歩進み、膝を折った。
机の端に置かれた『今日の香』の札が、朝風でわずかに揺れている。香は薄く、祓いの紙は昨日の数字のまま。板に貼られた紙は、宮と広場を細い線で結び続けている。
その線を太くしたい――それが凌の望みだ。
「陛下。公に誓えば、陰謀の“単価”が上がります」
景焔の眉がわずかに動いた。「単価」
「はい。内密の婚礼は、刃一本の費用で崩せます。公の婚礼は、噂十、紙百、風千、香万――桁が違う。闇に潜むほど、闇の値は上がるように」
「……論としては、わかる。だが、おまえの安全が整わぬ」
「整えます。整うまでの“段階”を設定しましょう。すべての儀を一夜で行わない。まず『第一の契り』として、誓珠の掛け替えを――公開で」
凌は誓珠へ指を添えた。
玉の中の銀砂が、朝の斜光でごく細く光る。
「儀は簡略。だが、効果は最大に。『香の公開』『祓いの公開』と同じです。見えるようにする。見えると、“折る値段”が上がります」
景焔は黙り、机の木目の一点を見た。
沈黙は、国の尺度だ。帝の沈黙は、常に「誰をどこに立たせるか」を測っている。
やがて、ゆっくりと視線が動いた。
「……二段階の簡略儀、か」
「第一は『掛珠の契り』。誓珠を互いの頸に掛け替え、御前と広場の前で誓います。第二は『合衣の定』。これは後日。夜の儀は最小限に。医局と祭祀局、御台所、軍務府――全部を“公開”の回路に乗せます」
「太后が黙るか」
「沈香で、沈黙を。太后さまの沈黙は、最も重い“許し”になります。……『祓抄』には『男妃の受容を祈る祓い』がある。あの名――〈太后〉も、板に写します」
景焔は息を吸い、吐き、椅子から半歩だけ距離を外した。
距離は、許可の前段だ。
「やれ。だが条件がある。儀の全てを“広場の明かり”へ。暗がりは一つも作らぬこと」
「承ります」
凌は深く頭を下げた。
頭を上げると、景焔の目は少しだけ柔らかい。
柔らかい目は、刃の鞘だ。鞘が固い夜に、刃は出しやすい。今朝の帝は、出しやすい刃を選んだ。
「……おまえが望んだなら、我は応える」
凌の胸の誓珠が、低く鳴った。
二 儀を“数字”へ分解する
寝殿に戻るとすぐ、紙を広げた。
『掛珠の契り』の手順を、数字に分解する。
入場の刻、香の名、祓いの流量、板に貼る札の数、学堂印の追加、御台所の献立、医局の検知手順、軍務府の外周警護――すべて、数えることができる。
燕青が影のまま現れ、筆の乾きを見る。「侵入経路の閉鎖、三重にします。屋根裏、欄干、壁内の風道」
「ありがとう。外は賀蘭将に」
「既に連絡が」
「女官長には、板と扇の“段”をお願い」
扇の段――女性たちの所作の高低は、儀の美しさだけでなく、警護の隙間の多寡にも関わる。扇の開閉は、視界の遮蔽角だ。
凌は簡単な図を引き、扇の骨の角度を五度刻みに記した。「扇は三割。香の軌道を隠しすぎないこと。沈香は『縁の香(ゆかりのこう)』、柑橘で穢れを払う『道の香』、二重で」
「“香鏡”は?」
「置く。香炉の底へ鏡。刻印は『今日の香』と同じ板に反射させる。香の名が、風の形で見えるように」
燕青が静かに頷き、影を薄くした。
彼は刃の人で、同時に舞台の人でもある。舞台の肢体は、刃の軌跡と親しい。親しいものは、最も遠いものを守る。
凌は次に医局の紙を作った。
〈遅効性毒の検知〉
一、匙による瞬間検査。
二、陶皿による沈殿の色変化。
三、盆裏の汗輪の記録。
四、献立の塩分と水分の比を変動させ、毒の反応を“揺らし”で抽出。
五、井戸の底の鏡――誓珠の影があるため、外からの“別の水”は散る。これは医局に告げない。告げると、記録が増え、記録は噂になる。
御台所には、祝い餅と薄粥、果。
祝い餅は、割らずに配る。割る所作は、割る言葉を呼ぶ。今日は、割らない。
薄粥は、老と幼のため。婚礼は、いつだって食卓と結婚する儀だ。腹の小さい者が、祝いの場で腹を痛めないように。
板――広場の板へは、新しい札を。
〈今日の香〉〈今日の祓い〉〈今日の灯〉に加え、
〈今日の契り〉
契りの刻(こく)、香の名、祓いの流量、誓珠鏡の反射印、学堂印の“婚礼印”。
婚礼印は小さな結び目の形に。結びはほどける。ほどけるからこそ、結び直せる。
最後に――太后。
太后は沈黙で儀を支える。沈黙は最も重い所作だ。
蘭秀へ短い文を送る。
〈太后さまへ。沈香の濃さは“薄く長く”に。伏せ札は机の上へ。名は伏せたままで〉
伏せる名――〈岳祢〉。
伏せは、見せる。見せるのは、守る。
守られる名が、守られる者を傷つけることがある。
だが今日だけは、伏せた名の重さが、広場の風を落ち着かせる。
三 太后の沈黙、女官長の段
太后の私室。
沈香の層は薄く、広く。
凌が帷をくぐると、太后は扇を膝に置いて微笑んだ。骨は一本、欠けたまま。欠けは磨かれて丸い。
「婚礼の儀、と」
「はい。第一の契り。誓珠を――公に」
太后は頷きもしない。否定もしない。
沈黙は、紙より重い。
それでも凌は続ける。
「祓抄に、〈男妃の受容を祈る祓い〉。あの紙を、今日の板へ写します。太后さまの名も」
「紙は、風に晒される」
「晒されるために、書かれました」
太后の視線が、凌の胸の誓珠へ落ちる。
「昔、王朝が変わるとき、誓珠を掛け替える儀を見たことがある。……あれは血で染まった。今日は、染めずに」
「染めないための公開です」
太后は扇を開き、ひと息だけ香をあおいだ。「蘭秀を使いなさい。段(だん)を見せる」
凌は下がり、廊へ出た。
女官長・蘭秀が待っていた。扇を半分だけ開き、扇骨の角度を、凌の図面と同じ五度で調整する。
「扇の段、三割。香への風は細く。婚礼印はこの色で」
蘭秀は小さな朱の印を見せる。結び目の形が美しい。
「……蘭秀」
「はい」
「あなたは、どこに立つのですか」
女官長は少しだけ首を傾げた。「真ん中です」
真ん中は凍える。
凌は笑みを薄くして、「ありがとう」とだけ言った。
四 街の準備、広場の紙
婚礼の札が板に貼られると、広場は一気に色を得た。
〈今日の契り〉の見出しには、小さな結びの印。
「香は、何を焚くの?」と子らが指差し、女たちが「『縁の香』よ」と答える。
学堂印のある紙を胸に差した者たちが、誇らしげに人だかりの前で「この印は、昨日の祓いの講で」と説明する。誇りは連鎖し、連鎖は暴徒を封じる。
御台所では祝い餅の蒸気が立ち、医局では陶皿の並ぶ棚が磨かれた。
厨房の少年が、凌に小さな声で言う。「妃さま、ぼく、今日、盆を落としません」
「落としてもいい。落ちないより、落ちて笑えるほうが強い」
少年は目を丸くして、それから笑顔で頷いた。笑いは、毒より速い。
祭祀局の前では、祓いの札の写しを求める列が静かに伸びる。
〈男妃の受容を祈る祓い〉――〈太后〉。
朱の印は、風に晒されて、少しだけ薄くなる。薄くなるのは、紙が生きている証拠だ。
軍務府の外周は賀蘭の兵が固め、屋根の上には燕青の目が散る。風の道も塞がれ、壁内の通風孔には薄い紙が張られた。紙がふわりと揺れれば、誰かが通った合図。
紙は安いが、よく働く。
五 儀の朝
婚礼の朝、空は高く、雲は薄い。
広場は既に人で埋まり、学堂印の紙が、胸元で点々と光っている。
『今日の香』『今日の祓い』『今日の灯』『今日の契り』――四枚の札の下に、細い手が幾つも伸び、指がなぞる。
太鼓ではなく、木柝(もくたく)が静かな拍を刻む。騒がしい楽ではない。今日の音は、言葉を聞かせるための音だ。
御前の階(きざはし)には、誓珠台。
台の上には、二つの玉。どちらも冷たい。
玉の下に、薄い秤が置かれている。
重さが等しいことを“見える”ように。
“見える”公正は、陰謀の刃より鈍く、しかし深い。
景焔が現れた。
衣は白に金糸。
肩の線はまっすぐ、目は遠くを見て、すぐ近くに戻る。
帝には、遠くと近くを行き来するための筋がある。鍛えられた筋は、言葉より雄弁だ。
凌は一歩下がった位置から進み出る。
衣は淡い色で、縁に結びの刺繍。
胸の誓珠は、今日に限って“外”に出してある。
見えるものは、奪われにくい。
奪う者に「ここにある」と言って見せるのは、防御の一種だ。
太后は欄干の奥。扇を開いたまま、顔の半ばを隠す。沈香の層は薄く、長い。
蘭秀は扇の角度を絶えず調整し、香の風道を乱さない。
宰相――いや、中書令は、文官たちの列の最後。笑みは整っている。整っている笑みは、整え続けるほど、端が疲れる。今日は、端が少しだけ疲れている。
燕青は見えない。だが、いる。
“見えないがいる”という状態は、もっとも人心を落ち着かせる。
六 掛珠の契り
木柝が三度、間をあけて鳴る。
祭祀局の官が、短く祓いの詞(ことば)を奏す。
〈男妃の受容を祈る祓い〉の写しが、御前の脇に掲げられる。
〈太后〉の朱印が、風の中で呼吸する。
景焔が誓珠台に右手を置いた。
凌は左手を置く。
秤の針は、静かに、真ん中を指す。
「我、景焔は、唯一の妃・凌に、国の灯の前で誓う」
帝の声は、遠くまで届き、すぐ近くでやわらぐ。「守るべきものを守るために、おまえを守る。おまえを守るために、国を守る」
凌は深く息を吸い、言葉を一つずつ置いていく。
「我、凌は、陛下に誓う。疑いを数に変え、怒りを公開に変え、復讐を構造に変えます。……私の“唯一”は席ではなく、制度。制度は、骨です」
ざわ、と風が広場を撫でた。
誰かが泣く声が、ひどく遠くでひとつだけした。
泣く声は、時に儀を完成させる。
景焔が玉を取り、凌の頸へ掛ける。
玉は冷たい。
冷たさは、最初の合図だ。
合図は、たしかなものほど短い。
凌も玉を取り、景焔の頸へ掛ける。
玉が触れる音が、静かな広場でよく響いた。
触れた音は、噂を上書きする。
噂は速いが、音はもっと速い。
香鏡に香が映り、〈縁の香〉の刻印が板に反射した。
『今日の香』の札に、その反射の印が追記される。
祭祀局の官が、祓いの流量を読み上げ、板の『今日の祓い』に数字が重ねられる。
灯が増え、広場の明かりがゆっくりと濃くなる。
「――唯一の妃」
景焔が、御前の中央でそう告げた。
群臣の列の端で、軍務派の賀蘭が拳を胸に当て、短く「おお」と息を漏らす。
文官たちは頭を垂れ、顔の角度で“それぞれの政治”を演じる。
太后は沈黙したまま、扇の奥で目を細めた。
沈黙は、拍手よりもはっきりと、儀を承認した。
その瞬間、広場の空気が、音を立てずに破裂した。
歓声。
笑い声。
誰かの「めでたい」という叫び。
御台所の祝い餅の盆が揺れ、医局の女医官が微笑んで頷く。
祈りは、香の上ではなく――今、この場に落ちた。
七 小さな揺れ、大きな見えない手
歓声の波の裏側で、燕青の視線が、屋根の端を一度だけ縫った。
飛ぶ影はない。矢の唸りもない。
だが、見えない“手”は、いつだって、拍手の音に紛れる。
宰相――中書令の袖口に、銀の粉。
祭祀局の若い書記の耳朶に、緊張の赤。
文官の列の後ろの、誰も見ない位置に、黒い布包み。
燕青は三つを見て、三つとも捨てた。
今日は「落とす日」ではない。
今日は「値を上げる日」だ。
蘭秀の扇が、香の軌道を保ち、太后の沈香が、沈黙の密度を支えた。
沈黙の密度は、陰謀の“摩擦係数”を上げる。
滑りにくくなった陰謀は、速さを失う。
速さを失った陰謀は、安くない。
八 広場を通る誓い
儀が終わると、凌は広場の板の前に進んだ。
『今日の契り』の札に、誓いの言葉の“要約”を書きつける。
〈疑いを数に/怒りを公開に/復讐を構造に〉
文字は人を食わせないが、人を立たせる。
立つ者が多い広場は、夜に眠れる。
群衆が紙を指差し、子らが声に出して読む。「ぎ……ぎ……」
母が助け、「うたがい」。
子の口は、すぐに覚える。
覚えた口は、すぐに伝える。
伝わる速度は、刃より速い。
凌は祝い餅をひとつ手に取り、最前列の老人へ手渡した。「固くないでしょうか」
「やわらかい。歯がなくても食える」
老人の笑い皺は深く、目は水のように澄んでいた。
水の澄むところで、婚礼は生きる。
景焔は御前に留まり、群臣と短く言葉を交わしていた。
太后は最後まで沈黙。
沈黙は、歌に似ていた。歌は、言葉より多くを言うときがある。
九 宵の灯、二人の間の紙
夜。
禁裏に戻ると、寝殿の灯はいつもより一つ多い。『今日の灯』の数字と合わせてある。
景焔は外套を脱ぎ、床几に腰をおろし、凌を見上げた。
「……おまえの言うとおりだったな。公に誓えば、陰謀のコストが上がる」
「今夜、刃は走らなかった。それだけで、半分以上、成功です」
「半分以下かもしれぬぞ」
景焔の目に悪戯が宿る。
凌は笑い、首を振った。「半分以上です。……今日の香の反射、祓いの流量、灯の数、『契りの札』。板に四つ並んだ紙が、宮と広場を一本の道にしました。道を壊すには、橋だけでなく“道幅”ぜんぶを壊さないといけない」
「道幅を壊すには、金がいる」
「はい。闇の金は、今日、何倍も高くなった」
景焔は静かに立ち上がった。
いつもは凌の指先に口づける。
だが、今夜、帝は少しだけ迷い、迷いを短く済ませ、凌の肩に手を置いた。
手は大きく、温かい。
温かさは、国では測れない。だからこそ、人は温かさを求める。
「……凌」
「はい」
「おまえは“唯一”であることで、多くを敵に回す。……それでも?」
「それでも」
凌は答え、言葉を足した。
「『唯一』は席ではありません。制度です。制度は、誰かの敵であっても、いつか誰かの“味方”になる。……私は、いつか誰かが眠れるための“骨”になりたい」
景焔の喉が小さく動いた。
帝の目が、やわらいだ。
やわらいだ目は、刃をしまう。
しまわれた刃の代わりに、景焔は一歩だけ近づいた。
「――なら、我も」
言葉の続きは、なかった。
かわりに、軽い口づけが落ちた。
額ではない。
瞼でもない。
唇に、ほんの短く、風よりも静かに。
触れたのか、触れていないのか――そのあいだの軽さで。
誓珠が、二人の胸のあいだでそっと鳴いた。
玉の中の銀砂が、夜の灯で微かに流れる。
「……“合衣の定”は、まだ先送りだ」
「はい。今日の契りで、充分です」
「不満か」
「満足です。――刃より、紙が増えましたから」
二人は並んで座り、短い沈黙を分け合った。
沈黙は、言葉より長く持つ。
長く持つものは、国を支える。
十 夜の余白、次の段
凌は寝台の端に紙を持ち込み、『婚礼(弐)』の下書きを引き始めた。
第二段階『合衣の定』は、さらに“公開”へ寄せる。
御前での三献を「三つの札」で置き換える。
一献――〈水の献〉。井戸の底の鏡に反射した“名のない光”を、紙に写す。
二献――〈灯の献〉。『今日の灯』の数字を、今夜だけ「民の灯」と「宮の灯」に分ける。
三献――〈香の献〉。香鏡の反射と“祓いの流量”を合わせ、香の道を可視化する。
可視化は安心。安心は最強の薬。
女官長・蘭秀へ宛てる短い文を、文末だけ空けて残す。
空白は、両属の者が埋める余地。余地があると、人は呼吸がしやすい。
祭祀局へは、〈祓抄〉の写しの増刷を依頼。
軍務府へは、外周警護の「灯と紙」の組み合わせの儀礼化を提案。兵は儀に弱いが、儀に強くなれば、戦に疲れにくい。
宰相――中書令の動きは、蘭秀と燕青の線で見る。
橋は揺れる。揺れても、渡る者はいる。
渡る者の足跡は、紙に残す。
紙は、いつでも証言台だ。
最後に、太后の私室へ送る伏せ札。
〈岳祢〉の名は書かない。
書かないことで、一度だけ、名の重さを空気に帰す。
空気は裏切らない。裏切るのは、香だ。
だから、香の名を明日も板に貼る。
十一 広場の夜泣き
広場では、夜更けまで人の声がした。
祝い餅を半分にして子に渡し、薄粥をすすり、誰かが笛を吹き、誰かが歌った。
歌は拙く、しかし美しかった。
「唯一の妃」の語が、歌に混じる。
歌に混じった語は、刃では切れない。
噂は切れる。歌は切れない。
板の『今日の契り』の札に、指が触れ、紙が少しだけ皺を刻む。
皺は記録。
記録は、人を裏切らない。
太后の沈香は、遠くから薄く流れ続けた。
沈黙の歌は続いている。
沈黙の歌は、やがて、次の段を呼ぶ。
十二 “唯一”の重さ
凌は寝台で誓珠を握ったまま、目を閉じた。
昼間の歓声がまだ皮膚の下で鳴っている。
歓声は甘く、甘いものは毒になる。
だから、砂時計をひっくり返す。
時間を小さく区切り、甘さを薄める。
今日、増やしたのは紙だ。
刃ではない。
紙は、夜のあいだに湿る。
湿った紙は、朝にもう一度、板に貼り直せばよい。
貼り直せるものだけを増やしていけば、国は少しずつ、眠り方を覚える。
「私は“唯一”であることで、多くを敵に回す、それでも」
昼に言った言葉が、また胸に落ちる。
敵は増える。
だが、味方も増える。
“唯一”とは、孤独の名ではない。
“唯一”とは、規格の名だ。
規格は、人が増やせる。
増えるものは、怖くない。
薄く眠りに落ちる直前、凌は微かに笑った。
今日の口づけは、風の重さだった。
重くない誓いは、長く持つ。
長く持つものを増やしていけば、短い刃は錆びる。
錆びていく音を、いつか静かに聞けるように。
明日の朝も、紙を一枚、増やそう。
朝の鐘が二つ目を打ったころ、凌は禁裏の帳を押し上げ、まっすぐに景焔の座へ進んだ。
外套の紐は固く、誓珠は胸で冷たい。冷たいものを握ってから話を始めるのは、心の温度を正しく置くためだ。
「――婚礼の儀を、正式に」
言い切る。
景焔は筆を止め、細い息だけ吐いた。驚きは見せない。驚きを見せないのは、帝としての呼吸のしかたを、骨で覚えているからだ。
「早い」
「遅いです」
凌は一歩進み、膝を折った。
机の端に置かれた『今日の香』の札が、朝風でわずかに揺れている。香は薄く、祓いの紙は昨日の数字のまま。板に貼られた紙は、宮と広場を細い線で結び続けている。
その線を太くしたい――それが凌の望みだ。
「陛下。公に誓えば、陰謀の“単価”が上がります」
景焔の眉がわずかに動いた。「単価」
「はい。内密の婚礼は、刃一本の費用で崩せます。公の婚礼は、噂十、紙百、風千、香万――桁が違う。闇に潜むほど、闇の値は上がるように」
「……論としては、わかる。だが、おまえの安全が整わぬ」
「整えます。整うまでの“段階”を設定しましょう。すべての儀を一夜で行わない。まず『第一の契り』として、誓珠の掛け替えを――公開で」
凌は誓珠へ指を添えた。
玉の中の銀砂が、朝の斜光でごく細く光る。
「儀は簡略。だが、効果は最大に。『香の公開』『祓いの公開』と同じです。見えるようにする。見えると、“折る値段”が上がります」
景焔は黙り、机の木目の一点を見た。
沈黙は、国の尺度だ。帝の沈黙は、常に「誰をどこに立たせるか」を測っている。
やがて、ゆっくりと視線が動いた。
「……二段階の簡略儀、か」
「第一は『掛珠の契り』。誓珠を互いの頸に掛け替え、御前と広場の前で誓います。第二は『合衣の定』。これは後日。夜の儀は最小限に。医局と祭祀局、御台所、軍務府――全部を“公開”の回路に乗せます」
「太后が黙るか」
「沈香で、沈黙を。太后さまの沈黙は、最も重い“許し”になります。……『祓抄』には『男妃の受容を祈る祓い』がある。あの名――〈太后〉も、板に写します」
景焔は息を吸い、吐き、椅子から半歩だけ距離を外した。
距離は、許可の前段だ。
「やれ。だが条件がある。儀の全てを“広場の明かり”へ。暗がりは一つも作らぬこと」
「承ります」
凌は深く頭を下げた。
頭を上げると、景焔の目は少しだけ柔らかい。
柔らかい目は、刃の鞘だ。鞘が固い夜に、刃は出しやすい。今朝の帝は、出しやすい刃を選んだ。
「……おまえが望んだなら、我は応える」
凌の胸の誓珠が、低く鳴った。
二 儀を“数字”へ分解する
寝殿に戻るとすぐ、紙を広げた。
『掛珠の契り』の手順を、数字に分解する。
入場の刻、香の名、祓いの流量、板に貼る札の数、学堂印の追加、御台所の献立、医局の検知手順、軍務府の外周警護――すべて、数えることができる。
燕青が影のまま現れ、筆の乾きを見る。「侵入経路の閉鎖、三重にします。屋根裏、欄干、壁内の風道」
「ありがとう。外は賀蘭将に」
「既に連絡が」
「女官長には、板と扇の“段”をお願い」
扇の段――女性たちの所作の高低は、儀の美しさだけでなく、警護の隙間の多寡にも関わる。扇の開閉は、視界の遮蔽角だ。
凌は簡単な図を引き、扇の骨の角度を五度刻みに記した。「扇は三割。香の軌道を隠しすぎないこと。沈香は『縁の香(ゆかりのこう)』、柑橘で穢れを払う『道の香』、二重で」
「“香鏡”は?」
「置く。香炉の底へ鏡。刻印は『今日の香』と同じ板に反射させる。香の名が、風の形で見えるように」
燕青が静かに頷き、影を薄くした。
彼は刃の人で、同時に舞台の人でもある。舞台の肢体は、刃の軌跡と親しい。親しいものは、最も遠いものを守る。
凌は次に医局の紙を作った。
〈遅効性毒の検知〉
一、匙による瞬間検査。
二、陶皿による沈殿の色変化。
三、盆裏の汗輪の記録。
四、献立の塩分と水分の比を変動させ、毒の反応を“揺らし”で抽出。
五、井戸の底の鏡――誓珠の影があるため、外からの“別の水”は散る。これは医局に告げない。告げると、記録が増え、記録は噂になる。
御台所には、祝い餅と薄粥、果。
祝い餅は、割らずに配る。割る所作は、割る言葉を呼ぶ。今日は、割らない。
薄粥は、老と幼のため。婚礼は、いつだって食卓と結婚する儀だ。腹の小さい者が、祝いの場で腹を痛めないように。
板――広場の板へは、新しい札を。
〈今日の香〉〈今日の祓い〉〈今日の灯〉に加え、
〈今日の契り〉
契りの刻(こく)、香の名、祓いの流量、誓珠鏡の反射印、学堂印の“婚礼印”。
婚礼印は小さな結び目の形に。結びはほどける。ほどけるからこそ、結び直せる。
最後に――太后。
太后は沈黙で儀を支える。沈黙は最も重い所作だ。
蘭秀へ短い文を送る。
〈太后さまへ。沈香の濃さは“薄く長く”に。伏せ札は机の上へ。名は伏せたままで〉
伏せる名――〈岳祢〉。
伏せは、見せる。見せるのは、守る。
守られる名が、守られる者を傷つけることがある。
だが今日だけは、伏せた名の重さが、広場の風を落ち着かせる。
三 太后の沈黙、女官長の段
太后の私室。
沈香の層は薄く、広く。
凌が帷をくぐると、太后は扇を膝に置いて微笑んだ。骨は一本、欠けたまま。欠けは磨かれて丸い。
「婚礼の儀、と」
「はい。第一の契り。誓珠を――公に」
太后は頷きもしない。否定もしない。
沈黙は、紙より重い。
それでも凌は続ける。
「祓抄に、〈男妃の受容を祈る祓い〉。あの紙を、今日の板へ写します。太后さまの名も」
「紙は、風に晒される」
「晒されるために、書かれました」
太后の視線が、凌の胸の誓珠へ落ちる。
「昔、王朝が変わるとき、誓珠を掛け替える儀を見たことがある。……あれは血で染まった。今日は、染めずに」
「染めないための公開です」
太后は扇を開き、ひと息だけ香をあおいだ。「蘭秀を使いなさい。段(だん)を見せる」
凌は下がり、廊へ出た。
女官長・蘭秀が待っていた。扇を半分だけ開き、扇骨の角度を、凌の図面と同じ五度で調整する。
「扇の段、三割。香への風は細く。婚礼印はこの色で」
蘭秀は小さな朱の印を見せる。結び目の形が美しい。
「……蘭秀」
「はい」
「あなたは、どこに立つのですか」
女官長は少しだけ首を傾げた。「真ん中です」
真ん中は凍える。
凌は笑みを薄くして、「ありがとう」とだけ言った。
四 街の準備、広場の紙
婚礼の札が板に貼られると、広場は一気に色を得た。
〈今日の契り〉の見出しには、小さな結びの印。
「香は、何を焚くの?」と子らが指差し、女たちが「『縁の香』よ」と答える。
学堂印のある紙を胸に差した者たちが、誇らしげに人だかりの前で「この印は、昨日の祓いの講で」と説明する。誇りは連鎖し、連鎖は暴徒を封じる。
御台所では祝い餅の蒸気が立ち、医局では陶皿の並ぶ棚が磨かれた。
厨房の少年が、凌に小さな声で言う。「妃さま、ぼく、今日、盆を落としません」
「落としてもいい。落ちないより、落ちて笑えるほうが強い」
少年は目を丸くして、それから笑顔で頷いた。笑いは、毒より速い。
祭祀局の前では、祓いの札の写しを求める列が静かに伸びる。
〈男妃の受容を祈る祓い〉――〈太后〉。
朱の印は、風に晒されて、少しだけ薄くなる。薄くなるのは、紙が生きている証拠だ。
軍務府の外周は賀蘭の兵が固め、屋根の上には燕青の目が散る。風の道も塞がれ、壁内の通風孔には薄い紙が張られた。紙がふわりと揺れれば、誰かが通った合図。
紙は安いが、よく働く。
五 儀の朝
婚礼の朝、空は高く、雲は薄い。
広場は既に人で埋まり、学堂印の紙が、胸元で点々と光っている。
『今日の香』『今日の祓い』『今日の灯』『今日の契り』――四枚の札の下に、細い手が幾つも伸び、指がなぞる。
太鼓ではなく、木柝(もくたく)が静かな拍を刻む。騒がしい楽ではない。今日の音は、言葉を聞かせるための音だ。
御前の階(きざはし)には、誓珠台。
台の上には、二つの玉。どちらも冷たい。
玉の下に、薄い秤が置かれている。
重さが等しいことを“見える”ように。
“見える”公正は、陰謀の刃より鈍く、しかし深い。
景焔が現れた。
衣は白に金糸。
肩の線はまっすぐ、目は遠くを見て、すぐ近くに戻る。
帝には、遠くと近くを行き来するための筋がある。鍛えられた筋は、言葉より雄弁だ。
凌は一歩下がった位置から進み出る。
衣は淡い色で、縁に結びの刺繍。
胸の誓珠は、今日に限って“外”に出してある。
見えるものは、奪われにくい。
奪う者に「ここにある」と言って見せるのは、防御の一種だ。
太后は欄干の奥。扇を開いたまま、顔の半ばを隠す。沈香の層は薄く、長い。
蘭秀は扇の角度を絶えず調整し、香の風道を乱さない。
宰相――いや、中書令は、文官たちの列の最後。笑みは整っている。整っている笑みは、整え続けるほど、端が疲れる。今日は、端が少しだけ疲れている。
燕青は見えない。だが、いる。
“見えないがいる”という状態は、もっとも人心を落ち着かせる。
六 掛珠の契り
木柝が三度、間をあけて鳴る。
祭祀局の官が、短く祓いの詞(ことば)を奏す。
〈男妃の受容を祈る祓い〉の写しが、御前の脇に掲げられる。
〈太后〉の朱印が、風の中で呼吸する。
景焔が誓珠台に右手を置いた。
凌は左手を置く。
秤の針は、静かに、真ん中を指す。
「我、景焔は、唯一の妃・凌に、国の灯の前で誓う」
帝の声は、遠くまで届き、すぐ近くでやわらぐ。「守るべきものを守るために、おまえを守る。おまえを守るために、国を守る」
凌は深く息を吸い、言葉を一つずつ置いていく。
「我、凌は、陛下に誓う。疑いを数に変え、怒りを公開に変え、復讐を構造に変えます。……私の“唯一”は席ではなく、制度。制度は、骨です」
ざわ、と風が広場を撫でた。
誰かが泣く声が、ひどく遠くでひとつだけした。
泣く声は、時に儀を完成させる。
景焔が玉を取り、凌の頸へ掛ける。
玉は冷たい。
冷たさは、最初の合図だ。
合図は、たしかなものほど短い。
凌も玉を取り、景焔の頸へ掛ける。
玉が触れる音が、静かな広場でよく響いた。
触れた音は、噂を上書きする。
噂は速いが、音はもっと速い。
香鏡に香が映り、〈縁の香〉の刻印が板に反射した。
『今日の香』の札に、その反射の印が追記される。
祭祀局の官が、祓いの流量を読み上げ、板の『今日の祓い』に数字が重ねられる。
灯が増え、広場の明かりがゆっくりと濃くなる。
「――唯一の妃」
景焔が、御前の中央でそう告げた。
群臣の列の端で、軍務派の賀蘭が拳を胸に当て、短く「おお」と息を漏らす。
文官たちは頭を垂れ、顔の角度で“それぞれの政治”を演じる。
太后は沈黙したまま、扇の奥で目を細めた。
沈黙は、拍手よりもはっきりと、儀を承認した。
その瞬間、広場の空気が、音を立てずに破裂した。
歓声。
笑い声。
誰かの「めでたい」という叫び。
御台所の祝い餅の盆が揺れ、医局の女医官が微笑んで頷く。
祈りは、香の上ではなく――今、この場に落ちた。
七 小さな揺れ、大きな見えない手
歓声の波の裏側で、燕青の視線が、屋根の端を一度だけ縫った。
飛ぶ影はない。矢の唸りもない。
だが、見えない“手”は、いつだって、拍手の音に紛れる。
宰相――中書令の袖口に、銀の粉。
祭祀局の若い書記の耳朶に、緊張の赤。
文官の列の後ろの、誰も見ない位置に、黒い布包み。
燕青は三つを見て、三つとも捨てた。
今日は「落とす日」ではない。
今日は「値を上げる日」だ。
蘭秀の扇が、香の軌道を保ち、太后の沈香が、沈黙の密度を支えた。
沈黙の密度は、陰謀の“摩擦係数”を上げる。
滑りにくくなった陰謀は、速さを失う。
速さを失った陰謀は、安くない。
八 広場を通る誓い
儀が終わると、凌は広場の板の前に進んだ。
『今日の契り』の札に、誓いの言葉の“要約”を書きつける。
〈疑いを数に/怒りを公開に/復讐を構造に〉
文字は人を食わせないが、人を立たせる。
立つ者が多い広場は、夜に眠れる。
群衆が紙を指差し、子らが声に出して読む。「ぎ……ぎ……」
母が助け、「うたがい」。
子の口は、すぐに覚える。
覚えた口は、すぐに伝える。
伝わる速度は、刃より速い。
凌は祝い餅をひとつ手に取り、最前列の老人へ手渡した。「固くないでしょうか」
「やわらかい。歯がなくても食える」
老人の笑い皺は深く、目は水のように澄んでいた。
水の澄むところで、婚礼は生きる。
景焔は御前に留まり、群臣と短く言葉を交わしていた。
太后は最後まで沈黙。
沈黙は、歌に似ていた。歌は、言葉より多くを言うときがある。
九 宵の灯、二人の間の紙
夜。
禁裏に戻ると、寝殿の灯はいつもより一つ多い。『今日の灯』の数字と合わせてある。
景焔は外套を脱ぎ、床几に腰をおろし、凌を見上げた。
「……おまえの言うとおりだったな。公に誓えば、陰謀のコストが上がる」
「今夜、刃は走らなかった。それだけで、半分以上、成功です」
「半分以下かもしれぬぞ」
景焔の目に悪戯が宿る。
凌は笑い、首を振った。「半分以上です。……今日の香の反射、祓いの流量、灯の数、『契りの札』。板に四つ並んだ紙が、宮と広場を一本の道にしました。道を壊すには、橋だけでなく“道幅”ぜんぶを壊さないといけない」
「道幅を壊すには、金がいる」
「はい。闇の金は、今日、何倍も高くなった」
景焔は静かに立ち上がった。
いつもは凌の指先に口づける。
だが、今夜、帝は少しだけ迷い、迷いを短く済ませ、凌の肩に手を置いた。
手は大きく、温かい。
温かさは、国では測れない。だからこそ、人は温かさを求める。
「……凌」
「はい」
「おまえは“唯一”であることで、多くを敵に回す。……それでも?」
「それでも」
凌は答え、言葉を足した。
「『唯一』は席ではありません。制度です。制度は、誰かの敵であっても、いつか誰かの“味方”になる。……私は、いつか誰かが眠れるための“骨”になりたい」
景焔の喉が小さく動いた。
帝の目が、やわらいだ。
やわらいだ目は、刃をしまう。
しまわれた刃の代わりに、景焔は一歩だけ近づいた。
「――なら、我も」
言葉の続きは、なかった。
かわりに、軽い口づけが落ちた。
額ではない。
瞼でもない。
唇に、ほんの短く、風よりも静かに。
触れたのか、触れていないのか――そのあいだの軽さで。
誓珠が、二人の胸のあいだでそっと鳴いた。
玉の中の銀砂が、夜の灯で微かに流れる。
「……“合衣の定”は、まだ先送りだ」
「はい。今日の契りで、充分です」
「不満か」
「満足です。――刃より、紙が増えましたから」
二人は並んで座り、短い沈黙を分け合った。
沈黙は、言葉より長く持つ。
長く持つものは、国を支える。
十 夜の余白、次の段
凌は寝台の端に紙を持ち込み、『婚礼(弐)』の下書きを引き始めた。
第二段階『合衣の定』は、さらに“公開”へ寄せる。
御前での三献を「三つの札」で置き換える。
一献――〈水の献〉。井戸の底の鏡に反射した“名のない光”を、紙に写す。
二献――〈灯の献〉。『今日の灯』の数字を、今夜だけ「民の灯」と「宮の灯」に分ける。
三献――〈香の献〉。香鏡の反射と“祓いの流量”を合わせ、香の道を可視化する。
可視化は安心。安心は最強の薬。
女官長・蘭秀へ宛てる短い文を、文末だけ空けて残す。
空白は、両属の者が埋める余地。余地があると、人は呼吸がしやすい。
祭祀局へは、〈祓抄〉の写しの増刷を依頼。
軍務府へは、外周警護の「灯と紙」の組み合わせの儀礼化を提案。兵は儀に弱いが、儀に強くなれば、戦に疲れにくい。
宰相――中書令の動きは、蘭秀と燕青の線で見る。
橋は揺れる。揺れても、渡る者はいる。
渡る者の足跡は、紙に残す。
紙は、いつでも証言台だ。
最後に、太后の私室へ送る伏せ札。
〈岳祢〉の名は書かない。
書かないことで、一度だけ、名の重さを空気に帰す。
空気は裏切らない。裏切るのは、香だ。
だから、香の名を明日も板に貼る。
十一 広場の夜泣き
広場では、夜更けまで人の声がした。
祝い餅を半分にして子に渡し、薄粥をすすり、誰かが笛を吹き、誰かが歌った。
歌は拙く、しかし美しかった。
「唯一の妃」の語が、歌に混じる。
歌に混じった語は、刃では切れない。
噂は切れる。歌は切れない。
板の『今日の契り』の札に、指が触れ、紙が少しだけ皺を刻む。
皺は記録。
記録は、人を裏切らない。
太后の沈香は、遠くから薄く流れ続けた。
沈黙の歌は続いている。
沈黙の歌は、やがて、次の段を呼ぶ。
十二 “唯一”の重さ
凌は寝台で誓珠を握ったまま、目を閉じた。
昼間の歓声がまだ皮膚の下で鳴っている。
歓声は甘く、甘いものは毒になる。
だから、砂時計をひっくり返す。
時間を小さく区切り、甘さを薄める。
今日、増やしたのは紙だ。
刃ではない。
紙は、夜のあいだに湿る。
湿った紙は、朝にもう一度、板に貼り直せばよい。
貼り直せるものだけを増やしていけば、国は少しずつ、眠り方を覚える。
「私は“唯一”であることで、多くを敵に回す、それでも」
昼に言った言葉が、また胸に落ちる。
敵は増える。
だが、味方も増える。
“唯一”とは、孤独の名ではない。
“唯一”とは、規格の名だ。
規格は、人が増やせる。
増えるものは、怖くない。
薄く眠りに落ちる直前、凌は微かに笑った。
今日の口づけは、風の重さだった。
重くない誓いは、長く持つ。
長く持つものを増やしていけば、短い刃は錆びる。
錆びていく音を、いつか静かに聞けるように。
明日の朝も、紙を一枚、増やそう。



