一 砂盤の上の風
朝の第三の鐘、御前の広間ではなく、軍務府の奥にある軍議室に呼ばれた。招いたのは軍務派の将・賀蘭(がらん)。
扉をくぐると、目に入るのは巨大な砂盤だった。黒檀の枠に淡い砂が敷き詰められ、山稜は糸で、川筋は藍の粉で描き込まれている。砂盤の周りを、武官たちの低い呼気が輪になって流れていた。
「唯一妃殿下、ようこそ。砂の上では、礼も簡略で願いたい」
賀蘭は無骨な笑みを浮かべた。四十手前、日焼けした皮膚に細かい傷が幾筋も走る。鎧の留め具は油で丁寧に拭かれ、刃の匂いではなく革と汗の匂いがする。
凌は頷いて砂盤の縁に立った。景焔はまだ来ていない。先に呼ばれたのは、計算のためだろう。
「国境の“鳳梧塞(ほうごさい)”で小競り合いが続いています」
賀蘭が山の稜線に指を滑らせる。「敵は夜襲を繰り返すが、引き際が速すぎる。補給線が短いはずだ。だが――」
砂盤の上、藍の点がいくつも置かれていた。敵の夜営地の推定位置。その距離は、こちらの糧秣の算段から見て“無理のない”範囲よりも短い。
凌は砂盤に置かれた木片の重量を指先で確かめ、砂の沈み方を見た。乾いた砂は嘘をつかない。湿りがあれば、誰かが息を止めた。
「短すぎますね。塩と乾糒(ほしいい)の消費と移動速度が一致しない。……“水の場所”を、敵は知っている」
武官の一人が眉をひそめた。「水など、谷を下れば」
「谷の水は“人の水”ではありません。隊が飲める水は限られる。泉の涌き出し、枯れない浅井戸、塩抜き不要の苔、火にかける時間――地図を知らなければ“飲めない水”です」
賀蘭は嬉しそうに口角を上げた。「そうだ。敵は『飲める水』を選んで動いている。……こちらの“軍路図”を持っている、としか思えん」
(軍路図――内庫の地図)
凌の喉の誓珠がひやりと鳴った。軍路図には、補給点の“水”が赤い点で記されている。内庫の金庫に二部、軍務府に一部。写しは禁止。
だが禁止はいつだって、抜け目の多さに比例する。
「捕えた敵斥候の荷に、紙片は?」
凌が問うと、賀蘭が頷き、書記に目配せした。
黒い布包みから出てきたのは、掌ほどの地図片。山と谷、点と点。水の印が、こちらの地図の流儀に酷似している。
凌は手を伸ばした。紙は薄く、しなりがある。縁の「耳」が、ごくわずかに毛羽立っていた。
内庫の紙――雁皮(がんぴ)と楮(こうぞ)を混ぜ、薄く漉いて乾かす。乾かす桁の木目が極細で、仕上げに米糊を刷く。触ればわかる、というほど単純ではない。だが、匂いが違う。
紙が吸って吐く匂い。内庫は柑橘油が混ざる。軍務府は麻の油。地方は亜麻仁。鼻は数字だ。鍛えておけば、騙さない。
凌は紙片を鼻先に寄せ、ほんの一瞬、目を閉じる。
(柑橘。……内庫)
次に、紙片を砂盤の上に置き、指先で軽く撫でる。指に残る粉――藍の粉の粒が細かい。軍務府の藍は粗い。内庫の藍は細かい。
そして、決定的な“耳”。切り口の角度。内庫で使う裁ち刀は刃が薄く、刃先が片側だけ鈍い。裁断面にわずかな“片倒れ”が出る。
紙片の耳には、その片倒れがあった。
「これは“内庫の紙”です」
武官の一人がどよめいた。
賀蘭の眉がぴくりと動き、すぐに平らに戻る。「内庫から、抜かれたか」
「内庫か、内庫の紙を扱える者。……宰相家の文官は、内庫の写し場に“橋”を持っています」
砂盤の空気が冷えた。
賀蘭は周囲の武官たちを一瞥し、短く言う。「いまの言葉は、ここに落とせ」
男たちは一斉に拳を胸に当て、砂に触れた。誓いの所作。砂の上に落ちた言葉は、外へ運ばれない。
そこへ、景焔が入ってきた。
武官たちは膝をつき、砂がわずかに鳴る。
景焔は砂盤の前に立ち、凌の視線を受け止めた。目だけで“話せ”と言う。
「敵は『飲める水』を正確に辿っています。軍路図が漏れている。紙質は内庫。裁断の片倒れと、匂い。内通者が地図を渡しています」
景焔は紙片を受け取り、短く匂いを嗅ぎ、鼻で笑った。「柑橘の油。……内庫か」
凌は続ける。「紙の“産地”を、簡単に確かめる方法があります。炊いた米のとぎ汁で浮かべ、沈みの速さを砂時計で見れば、繊維の比率が出る。雁皮が多いほど沈みが遅い。内庫の紙は遅い。地方は早い」
景焔の目がわずかに細くなる。「すぐに」
砂盤脇に簡易の盆が用意され、書記が米のとぎ汁を運んだ。凌は紙片の耳を極細に裂き、粒ほどの欠片を浮かべる。砂時計を返し、息を止める。
とぎ汁の表面張力が微かに震え、白い欠片がゆっくりと沈み始めた。
遅い。
凌は砂時計の砂が落ち切るのを見て、頷いた。「内庫」
軍議室の空気は、剣より冷えた。
賀蘭が砂盤の西へ指を走らせる。「内通の流路が分かったなら、兵は動ける。補給点を偽装し、敵を『短い線』に誘う」
「偽装の地図を、わざと漏らす」
凌が言うと、景焔は頷いた。「餌の地図だ。だが、噛ませる相手がいる」
景焔は砂盤から視線を外さず、低く命じた。「宰相を呼べ」
二 宰相の前で
宰相はいつもの柔らかい笑みで現れた。今日は香を焚いていない。香を焚かない宰相は、何かを隠すときか、逆に見せるとき。
景焔は席に座らせる前に、砂盤の短い線を示した。
「国境の夜襲、内通者がいる」
宰相は笑みを崩さない。「なぜ我に」
「内庫の紙で地図が抜かれた」
笑みが、ほんの一刹那だけ滑った。
凌はその滑りに数字を当てる。滑りは“無意識の筆圧”。心拍に換算すれば二拍増。増えた二拍は、恐れの二拍ではなく“計算の二拍”。
宰相はすぐに笑みを立て直した。「内庫の失態は失態。だが、宮には鼠が多い」
景焔は宰相の目を見ない。砂盤の上の藍だけを見る。見るものを限定すると、相手は目を外せない。
「鼠を獲る罠を置く。……宰相」
「は」
「おまえを“中書令”に上げる」
軍議室の空気が変わった。
中書令――文の中枢。政の「筆」を握る者。
罷免ではなく、昇進。
凌は思わず景焔を見た。景焔は見返さない。砂の山を見ている。
「昇進、とは……ありがたき幸せ。しかし、今は軍のことが」
「だからだ。筆を高く置け。高い筆は、低い筆を集める」
宰相の喉が一度だけ動いた。
高く上げられた餌は、腹のすいた鳥にしか見えない。
高い地位は“より高い裏切り”を呼び込む。裏切る者は、より大きな利を求めて素を晒す。
凌は景焔の“冷たさ”を知りながら、その鮮やかさに目を奪われた。
「内庫の監印は、おまえに預ける」
景焔の声は平坦だった。「餌の地図を作れ。……おまえの筆で」
宰相は目を伏せた。その伏せは、従順の角度ではない。計算の角度だ。
やがて彼はゆっくりと膝を折り、「身命を尽くします」と言った。
砂盤の上の風が、ほんの少しだけ逆巻いた。
三 餌の地図
内庫の写し場は緊張で色を失っていた。
凌は監印の箱に誓珠の影を落とし、印の縁に極小の“欠け”をつけた。欠けは焼けば分かる。焼いた者にしか見えない。
紙は内庫の最上の雁皮紙。柑橘の油を少量にし、代わりに薄く蜜蝋を刷く。蜜蝋は常温では匂わないが、夜の冷えで微かに立つ。その匂いを追えば、持ち出しの道が分かる。
地図の内容は、“飲める水”のうち三箇所をわざとずらした。ずらしは致命にならない程度。兵を殺すためではない。“短い線”をさらに短く見せ、敵を縛るためだ。
さらに、道の一部に“沼”の印を刻印に紛らせて打った。沼ではない場所に、沼の印。印を見慣れた者ほど騙される。
「できた」
凌は地図の端を乾かしながら、呼吸を整えた。
宰相の文官が、手を受けて低く礼をする。
彼は以前、凌が“橋”と呼んだ男だ。
指は長く、爪は短い。墨の匂いは薄く、銀の粉が袖に微かに残る。
「中書令のご用にて」
文官は敬語のかたちで“役得”を言い換えた。
凌は頷いて、文官の指が地図の端に触れる瞬間を見た。触れ方は“持ち出す指”。持ち出す者は、受け取りのときに端を持たない。折り目の中心を押さえ、空気を抜く。長い道を歩くための持ち方だ。
(行け。――行って、網にかかれ)
凌は心の中でだけ呟き、地図を託した。
四 短い線の罠
鳳梧塞の夜。
砂と岩の谷に、冷たい風が蛇のように這った。
賀蘭は斥候を散らし、偽装の焚き火を三箇所で焚いた。煙は谷の形で折れ曲がり、遠目には“行軍の列”に見える。
水場と見せた窪地には、薄く氷を張らせてある。昼は沼、夜は氷。足を取られぬよう草を隠し、浅い罠を敷いた。
やがて、谷の暗がりが微かにざわめいた。
影が流れ、息が止まり、砂の音が二拍遅れて返ってくる。
敵の先鋒だ。
短い線で動く兵は、動きが「速い」のではない。「速く見せる」術を持っている。
賀蘭は一度だけ手を上げ、押し殺した声で命じた。「まだ」
敵が水場へ吸い寄せられる。
足が氷を踏む。
最初の二人が滑る。
“短い線”は、ほんの僅かな遅滞で“詰まる”。
詰まった瞬間、横から火矢が飛ぶ。
火は敵を焼くためではない。夜の風を変えるためだ。風の形を変えれば、音の伝わる速度が狂う。
敵の列が乱れ、旗が二度、同じ角度で揺れる。
合図の癖。
賀蘭はその癖を待っていた。
「いま」
親衛の影が走り、谷は刃の光で一瞬だけ昼になった。
短い線は、ちぎれた糸のように散り、逃げる影は、来た道ではなく“知っている道”を選んだ。
知っている道のひとつに、賀蘭が置いた目があった。
夜が明けるころ、縛られた捕虜が四人。
その荷から、凌が仕込んだ“沼の印”の地図が出てきた。
紙の端には蜜蝋の匂い。
そして、折り目の中心に、極小の“欠け”。
“焼けば見える”はずの欠けが、露になっていた。
焼いたのだ――昨夜、寒さに焚いた火で。
抱え込んだ地図を箱に入れ、火に当てたのだろう。紙の縁の蜜蝋が溶け、欠けが浮いた。
賀蘭は口角を上げた。「噛んだな」
鳳梧塞の風は冷たい。だが、風向きは変わった。
短い線は、もう“短すぎること”の強みを失った。
五 “より高い裏切り”
都。
宰相は予定どおり“中書令”に叙された。
広場では鼓が鳴り、文官たちが頭を下げ、女官たちが紙を抱えて囁き合う。
凌は学堂の縁から、その光景を見ていた。
燕青が側に立つ。「昇進させるのですか」
「“より高い裏切り”を誘うために」
言葉にしてしまうと、寒い。
凌は自分の声の温度を測り、誓珠を指で押さえた。
景焔は軍議室で、賀蘭と罠の“次の罠”を置く。
宰相は中書令の権を使い、文の筆を集める。集めるとき、人は“癖”を見せる。癖は網だ。
宰相家の“橋”である文官は、今や宰相に最も近い。
凌は、その文官が夜な夜な出入りする茶房の裏口に、学堂印の紙をわざと落としておいた。“今日の祓い”と“今日の香”。
紙は誇りだ。
誇りは、食えない者の腹には入らないが、飢えた心の隙間には入る。
文官はその紙を拾い、袖に入れ、袖の銀で紙の端を汚す。
汚れが、彼がどこを通るかを示す。
「冷たいですね」
燕青が言った。
凌は頷きも否定もしない。「勝つための温度です」
六 帝の温度
夜。禁裏。
凌は景焔に鳳梧塞の戦果と、紙の欠けの露見を報告した。
景焔は黙って聞き、短く言った。「よい」
「宰相を罷免しないのですか」
「罷免すれば、鼠は散る。散った鼠は、次に“大きな穴”を掘る。……鼠の穴を見つけるには、餌のにおいを高くする」
「昇進は餌」
「餌だ。高い餌は、低い鼠には届かない。高い鼠だけが飛びつく」
凌は喉が乾くのを感じた。
景焔の政治は、苛烈だ。
だが、苛烈は、無駄に人を殺さないための苛烈でもある。
景焔は続けた。
「おまえの“香の公開”“祓いの公開”は、良い。闇の値段を上げる。……しかし、値段を上げるだけでは足りぬ。闇を“高く売りつける店”を作っておいて、そこに鼠を集める。店の主は、我だ」
「危険です」
「危険は、おまえを餌にするよりは、我が餌になるほうがよい」
凌は返す言葉を失った。
景焔はゆっくりと立ち上がり、凌の手を取った。
いつものように指先に口づける代わりに、掌を包み、誓珠をその間に挟んだ。
「おまえの判断だけは、疑わない。……我の冷たさは、疑ってよい」
「いいえ」
凌はかぶりを振った。
「冷たいのではなく、“温度の置き換え”です。陛下は、私より先に“自分を餌にする”選択を口にされた」
景焔の目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「おまえは、ときどき、我の孤独に名をつけたがる」
「名がつけば、呼べます」
「呼べば、来る」
「来れば、居座る」
景焔は短く笑い、凌の額へ軽く唇を当てた。「居座らせないよう、頼む」
七 橋、揺れる
中書令に叙された宰相は、儀を終えたあと、夜更けの茶房に寄った。
橋である文官は、そこで宰相の袖を整え、茶を淹れる。
茶の匂いに混じるのは、蜜蝋。
凌の餌の地図の匂いだ。
「お前は、よい“橋”だ」
宰相の声は甘い。「橋は、高い岸と高い岸をつなぐ。……池の端など、橋はかからぬ」
文官の喉が動く。「恐れ入ります」
「恐れ入る場所を、間違えるな」
宰相は茶を置き、文官の目を見た。「敵はどこから来る」
「内からも、外からも」
「よかろう」
宰相は立ち上がり、外を見た。
その背に、文官は一瞬、迷いを落とした。
迷いは砂の上では見えない。
だが、袖の銀は嘘をつかない。
銀が紙に触れ、紙は香を吸い、香は祈りに変わる。
祈りは、凌の板に貼られる。
八 砂の朝
二日後。
鳳梧塞からの早馬が入り、賀蘭が砂盤の前で報告した。
「敵の短い線、こちらの沼に足を取られ、補給隊が孤立。背後の兵站倉から“密路”を使おうとしたところを挟撃。……“密路”は我らの偽書に載せておいた道だ」
凌は息を吐いた。
偽の密路――本来は地図に載っていないはずの、山の腹にある古い獣道。内庫の地図にだけ“点線”で示される。
その点線を、凌は餌の地図に“丁寧に”なぞっておいた。
敵がそれを「正しい密路」と信じて使えば、そこに待つのは挟撃。
短い線は、己の“近道”で死ぬ。
「捕虜の荷から、また地図が。……欠けがあります」
賀蘭が差し出した紙の端に、焼き出しの欠けが見えた。
凌は指の腹で触れ、うなずいた。「同じ“持ち出しの手”」
「宰相家の文官が、昨夜から見えない」
燕青の声が背後から落ちた。「屋敷を出た形跡。橋は、渡った先で折るつもりです」
「折られる前に、板を渡す」
凌はすぐに学堂に戻り、板に新しい札を貼った。
〈今日の香/今日の祓い/今日の軍路〉
軍路――広場に出せる範囲の“偽の道”。
民に見せるためではない。
鼠に、「こちらに道がある」と教えるため。
教えられた鼠は、誇りに寄ってくる。
誇りの近くにしか、鼠は顔を出せない。
九 凍る手
夜。
凌はひとり寝殿で紙をめくっていた。
指が冷えた。
冷えるのは、外気のせいではない。
勝つための“温度”を、うまく置き換えられているか、自信が揺れるとき、指先が最初に冷える。
景焔が入ってきて、言葉もなく凌の手を包んだ。
温度はすぐ戻る。
戻る速さが、関係の強さだ。
「……冷たい」
「少しだけ」
「我のやり方が、怖いか」
問われて、凌は正直に頷いた。
「怖いです。けれど、学びます。冷たさを“制度”に変える方法を」
「制度」
「はい。人の冷たさは刃になる。刃はいつか持ち手ごと傷つけます。……でも制度は、刃の鞘です。鞘があれば、刃は長く使える」
景焔は目を細め、誓珠に指を触れた。「鞘に入れろ」
「入れます」
凌は答え、深く息を吐いた。
吐いた息は夜に消え、夜は少しだけ薄くなった。
十 橋の落ちる音
翌朝、軍務府へ宰相家の文官の身柄が“無人”で届いた。
都の外れで倒れているのを、夜回りの兵が見つけたのだという。
生きている。首に細い痣。
“挨拶”だ。
「見ているぞ」と告げるための、刃の届かない痕。
凌は詰所で文官の目を覗いた。
目は、まだ人の目だ。
彼は何度か口を開き、音にならない音をこぼし、ようやく言葉を絞り出した。
「私は……橋です」
「知っています」
「橋は、渡る者のためにある。渡る者が、いなくなるまで」
「あなたは、渡る者に“名”を」
文官は首を振った。「名は……言えません。言えば、ここで終わります。……でも」
彼は袖から一枚の紙片を出した。
紙片には、印も名もない。
ただ、紙の耳に、内庫の片倒れではない“別の片倒れ”があった。
――祭祀局の印場で使う裁ち刀の癖。
民の祈祷札を大量に裁つために、刃の角度が少し違う。
凌は紙を受け取り、「ありがとう」と言った。
文官の目に水が溜まり、落ちた。
涙は、砂よりも多くを語る。
彼は橋であり続けようとして、折れた。
折れた橋は、なお川の流れを示す。
十一 “店”の灯
夜。
景焔は広間に灯を多く焚かせ、文官たちと軍務派、祭祀局の官を一所に集めた。
“店”だ。
高く売るための、明るい店。
闇を避ける者ほど、明るい店を怖れる。
怖れた足は、暗がりへ向かい、暗がりには網がある。
「内通の件。今日より、この店――中書省の灯の下で扱う」
景焔の声は静かだった。「闇の話は、闇のまま高く売れ。買うのは我だ。……売らぬ者は、貧しいままでよい」
宰相は口元だけで笑い、頭を垂れた。
女官長・蘭秀は扇を閉じ、何も言わない。
太后は現れないが、沈香の薄い匂いが風に混じる。
祈りは、灯の数を数える。
灯が多いほど、祈りは“値”を得る。
凌は板に、また紙を貼った。
〈今日の香/今日の祓い/今日の軍路/今日の灯〉
灯の数を、広場に下ろす。
数は誇り。
誇りは、噂よりも速い。
十二 短い線の終わりと、長い学び
鳳梧塞から最終の報が届いた。
短い線は、ついに切れた。
敵の補給は自壊し、夜襲は消え、谷は静けさを取り戻しつつある。
凌は軍務府の廊で、賀蘭と肩を並べた。
将は短く言う。「数字は、強い」
「人の手で動く数字は、もっと強い」
賀蘭が笑い、「また来い」と背中を叩いた。
叩かれた衝撃が、胸の玉に響く。
誓珠は静かに鳴り、鳴りは“勝ち”の音ではなく、“続ける”音だった。
景焔の政治は苛烈で、凌はその冷たさを怖れる。
だが、怖れを数に変える術を、凌は身につけつつある。
怒りを公開に、復讐を構造に、冷たさを制度に。
その置き換えは、恋ではない。愛に近い。
愛は、名がないほうがいい、と帝は言った。
名をつけるのが凌の癖だ。
癖と癖は、ときに喧嘩する。
喧嘩は、長い学びになる。
都の夜風は、香と祈りと紙の匂いを運び、遠くの鳳梧塞の砂の匂いまでは運ばない。
だが、砂の上の風も、いつか広場に下りる。
そのとき、唯一妃という“席”は、完全に制度になる。
制度が骨になれば、国は眠れる。
眠れる国の朝は、噂ではなく、板の紙で始まる。
凌は誓珠を握り、広場の板を振り返った。
〈今日の香/今日の祓い/今日の軍路/今日の灯〉
四つの紙が、夜露で少しだけ波打っている。
波打つ紙は、呼吸をしている。
呼吸をする都市は、負けない。
――短い線は終わった。
次は、長い線をどう引くかだ。
長い線は、いつも、静かに始まる。
朝の第三の鐘、御前の広間ではなく、軍務府の奥にある軍議室に呼ばれた。招いたのは軍務派の将・賀蘭(がらん)。
扉をくぐると、目に入るのは巨大な砂盤だった。黒檀の枠に淡い砂が敷き詰められ、山稜は糸で、川筋は藍の粉で描き込まれている。砂盤の周りを、武官たちの低い呼気が輪になって流れていた。
「唯一妃殿下、ようこそ。砂の上では、礼も簡略で願いたい」
賀蘭は無骨な笑みを浮かべた。四十手前、日焼けした皮膚に細かい傷が幾筋も走る。鎧の留め具は油で丁寧に拭かれ、刃の匂いではなく革と汗の匂いがする。
凌は頷いて砂盤の縁に立った。景焔はまだ来ていない。先に呼ばれたのは、計算のためだろう。
「国境の“鳳梧塞(ほうごさい)”で小競り合いが続いています」
賀蘭が山の稜線に指を滑らせる。「敵は夜襲を繰り返すが、引き際が速すぎる。補給線が短いはずだ。だが――」
砂盤の上、藍の点がいくつも置かれていた。敵の夜営地の推定位置。その距離は、こちらの糧秣の算段から見て“無理のない”範囲よりも短い。
凌は砂盤に置かれた木片の重量を指先で確かめ、砂の沈み方を見た。乾いた砂は嘘をつかない。湿りがあれば、誰かが息を止めた。
「短すぎますね。塩と乾糒(ほしいい)の消費と移動速度が一致しない。……“水の場所”を、敵は知っている」
武官の一人が眉をひそめた。「水など、谷を下れば」
「谷の水は“人の水”ではありません。隊が飲める水は限られる。泉の涌き出し、枯れない浅井戸、塩抜き不要の苔、火にかける時間――地図を知らなければ“飲めない水”です」
賀蘭は嬉しそうに口角を上げた。「そうだ。敵は『飲める水』を選んで動いている。……こちらの“軍路図”を持っている、としか思えん」
(軍路図――内庫の地図)
凌の喉の誓珠がひやりと鳴った。軍路図には、補給点の“水”が赤い点で記されている。内庫の金庫に二部、軍務府に一部。写しは禁止。
だが禁止はいつだって、抜け目の多さに比例する。
「捕えた敵斥候の荷に、紙片は?」
凌が問うと、賀蘭が頷き、書記に目配せした。
黒い布包みから出てきたのは、掌ほどの地図片。山と谷、点と点。水の印が、こちらの地図の流儀に酷似している。
凌は手を伸ばした。紙は薄く、しなりがある。縁の「耳」が、ごくわずかに毛羽立っていた。
内庫の紙――雁皮(がんぴ)と楮(こうぞ)を混ぜ、薄く漉いて乾かす。乾かす桁の木目が極細で、仕上げに米糊を刷く。触ればわかる、というほど単純ではない。だが、匂いが違う。
紙が吸って吐く匂い。内庫は柑橘油が混ざる。軍務府は麻の油。地方は亜麻仁。鼻は数字だ。鍛えておけば、騙さない。
凌は紙片を鼻先に寄せ、ほんの一瞬、目を閉じる。
(柑橘。……内庫)
次に、紙片を砂盤の上に置き、指先で軽く撫でる。指に残る粉――藍の粉の粒が細かい。軍務府の藍は粗い。内庫の藍は細かい。
そして、決定的な“耳”。切り口の角度。内庫で使う裁ち刀は刃が薄く、刃先が片側だけ鈍い。裁断面にわずかな“片倒れ”が出る。
紙片の耳には、その片倒れがあった。
「これは“内庫の紙”です」
武官の一人がどよめいた。
賀蘭の眉がぴくりと動き、すぐに平らに戻る。「内庫から、抜かれたか」
「内庫か、内庫の紙を扱える者。……宰相家の文官は、内庫の写し場に“橋”を持っています」
砂盤の空気が冷えた。
賀蘭は周囲の武官たちを一瞥し、短く言う。「いまの言葉は、ここに落とせ」
男たちは一斉に拳を胸に当て、砂に触れた。誓いの所作。砂の上に落ちた言葉は、外へ運ばれない。
そこへ、景焔が入ってきた。
武官たちは膝をつき、砂がわずかに鳴る。
景焔は砂盤の前に立ち、凌の視線を受け止めた。目だけで“話せ”と言う。
「敵は『飲める水』を正確に辿っています。軍路図が漏れている。紙質は内庫。裁断の片倒れと、匂い。内通者が地図を渡しています」
景焔は紙片を受け取り、短く匂いを嗅ぎ、鼻で笑った。「柑橘の油。……内庫か」
凌は続ける。「紙の“産地”を、簡単に確かめる方法があります。炊いた米のとぎ汁で浮かべ、沈みの速さを砂時計で見れば、繊維の比率が出る。雁皮が多いほど沈みが遅い。内庫の紙は遅い。地方は早い」
景焔の目がわずかに細くなる。「すぐに」
砂盤脇に簡易の盆が用意され、書記が米のとぎ汁を運んだ。凌は紙片の耳を極細に裂き、粒ほどの欠片を浮かべる。砂時計を返し、息を止める。
とぎ汁の表面張力が微かに震え、白い欠片がゆっくりと沈み始めた。
遅い。
凌は砂時計の砂が落ち切るのを見て、頷いた。「内庫」
軍議室の空気は、剣より冷えた。
賀蘭が砂盤の西へ指を走らせる。「内通の流路が分かったなら、兵は動ける。補給点を偽装し、敵を『短い線』に誘う」
「偽装の地図を、わざと漏らす」
凌が言うと、景焔は頷いた。「餌の地図だ。だが、噛ませる相手がいる」
景焔は砂盤から視線を外さず、低く命じた。「宰相を呼べ」
二 宰相の前で
宰相はいつもの柔らかい笑みで現れた。今日は香を焚いていない。香を焚かない宰相は、何かを隠すときか、逆に見せるとき。
景焔は席に座らせる前に、砂盤の短い線を示した。
「国境の夜襲、内通者がいる」
宰相は笑みを崩さない。「なぜ我に」
「内庫の紙で地図が抜かれた」
笑みが、ほんの一刹那だけ滑った。
凌はその滑りに数字を当てる。滑りは“無意識の筆圧”。心拍に換算すれば二拍増。増えた二拍は、恐れの二拍ではなく“計算の二拍”。
宰相はすぐに笑みを立て直した。「内庫の失態は失態。だが、宮には鼠が多い」
景焔は宰相の目を見ない。砂盤の上の藍だけを見る。見るものを限定すると、相手は目を外せない。
「鼠を獲る罠を置く。……宰相」
「は」
「おまえを“中書令”に上げる」
軍議室の空気が変わった。
中書令――文の中枢。政の「筆」を握る者。
罷免ではなく、昇進。
凌は思わず景焔を見た。景焔は見返さない。砂の山を見ている。
「昇進、とは……ありがたき幸せ。しかし、今は軍のことが」
「だからだ。筆を高く置け。高い筆は、低い筆を集める」
宰相の喉が一度だけ動いた。
高く上げられた餌は、腹のすいた鳥にしか見えない。
高い地位は“より高い裏切り”を呼び込む。裏切る者は、より大きな利を求めて素を晒す。
凌は景焔の“冷たさ”を知りながら、その鮮やかさに目を奪われた。
「内庫の監印は、おまえに預ける」
景焔の声は平坦だった。「餌の地図を作れ。……おまえの筆で」
宰相は目を伏せた。その伏せは、従順の角度ではない。計算の角度だ。
やがて彼はゆっくりと膝を折り、「身命を尽くします」と言った。
砂盤の上の風が、ほんの少しだけ逆巻いた。
三 餌の地図
内庫の写し場は緊張で色を失っていた。
凌は監印の箱に誓珠の影を落とし、印の縁に極小の“欠け”をつけた。欠けは焼けば分かる。焼いた者にしか見えない。
紙は内庫の最上の雁皮紙。柑橘の油を少量にし、代わりに薄く蜜蝋を刷く。蜜蝋は常温では匂わないが、夜の冷えで微かに立つ。その匂いを追えば、持ち出しの道が分かる。
地図の内容は、“飲める水”のうち三箇所をわざとずらした。ずらしは致命にならない程度。兵を殺すためではない。“短い線”をさらに短く見せ、敵を縛るためだ。
さらに、道の一部に“沼”の印を刻印に紛らせて打った。沼ではない場所に、沼の印。印を見慣れた者ほど騙される。
「できた」
凌は地図の端を乾かしながら、呼吸を整えた。
宰相の文官が、手を受けて低く礼をする。
彼は以前、凌が“橋”と呼んだ男だ。
指は長く、爪は短い。墨の匂いは薄く、銀の粉が袖に微かに残る。
「中書令のご用にて」
文官は敬語のかたちで“役得”を言い換えた。
凌は頷いて、文官の指が地図の端に触れる瞬間を見た。触れ方は“持ち出す指”。持ち出す者は、受け取りのときに端を持たない。折り目の中心を押さえ、空気を抜く。長い道を歩くための持ち方だ。
(行け。――行って、網にかかれ)
凌は心の中でだけ呟き、地図を託した。
四 短い線の罠
鳳梧塞の夜。
砂と岩の谷に、冷たい風が蛇のように這った。
賀蘭は斥候を散らし、偽装の焚き火を三箇所で焚いた。煙は谷の形で折れ曲がり、遠目には“行軍の列”に見える。
水場と見せた窪地には、薄く氷を張らせてある。昼は沼、夜は氷。足を取られぬよう草を隠し、浅い罠を敷いた。
やがて、谷の暗がりが微かにざわめいた。
影が流れ、息が止まり、砂の音が二拍遅れて返ってくる。
敵の先鋒だ。
短い線で動く兵は、動きが「速い」のではない。「速く見せる」術を持っている。
賀蘭は一度だけ手を上げ、押し殺した声で命じた。「まだ」
敵が水場へ吸い寄せられる。
足が氷を踏む。
最初の二人が滑る。
“短い線”は、ほんの僅かな遅滞で“詰まる”。
詰まった瞬間、横から火矢が飛ぶ。
火は敵を焼くためではない。夜の風を変えるためだ。風の形を変えれば、音の伝わる速度が狂う。
敵の列が乱れ、旗が二度、同じ角度で揺れる。
合図の癖。
賀蘭はその癖を待っていた。
「いま」
親衛の影が走り、谷は刃の光で一瞬だけ昼になった。
短い線は、ちぎれた糸のように散り、逃げる影は、来た道ではなく“知っている道”を選んだ。
知っている道のひとつに、賀蘭が置いた目があった。
夜が明けるころ、縛られた捕虜が四人。
その荷から、凌が仕込んだ“沼の印”の地図が出てきた。
紙の端には蜜蝋の匂い。
そして、折り目の中心に、極小の“欠け”。
“焼けば見える”はずの欠けが、露になっていた。
焼いたのだ――昨夜、寒さに焚いた火で。
抱え込んだ地図を箱に入れ、火に当てたのだろう。紙の縁の蜜蝋が溶け、欠けが浮いた。
賀蘭は口角を上げた。「噛んだな」
鳳梧塞の風は冷たい。だが、風向きは変わった。
短い線は、もう“短すぎること”の強みを失った。
五 “より高い裏切り”
都。
宰相は予定どおり“中書令”に叙された。
広場では鼓が鳴り、文官たちが頭を下げ、女官たちが紙を抱えて囁き合う。
凌は学堂の縁から、その光景を見ていた。
燕青が側に立つ。「昇進させるのですか」
「“より高い裏切り”を誘うために」
言葉にしてしまうと、寒い。
凌は自分の声の温度を測り、誓珠を指で押さえた。
景焔は軍議室で、賀蘭と罠の“次の罠”を置く。
宰相は中書令の権を使い、文の筆を集める。集めるとき、人は“癖”を見せる。癖は網だ。
宰相家の“橋”である文官は、今や宰相に最も近い。
凌は、その文官が夜な夜な出入りする茶房の裏口に、学堂印の紙をわざと落としておいた。“今日の祓い”と“今日の香”。
紙は誇りだ。
誇りは、食えない者の腹には入らないが、飢えた心の隙間には入る。
文官はその紙を拾い、袖に入れ、袖の銀で紙の端を汚す。
汚れが、彼がどこを通るかを示す。
「冷たいですね」
燕青が言った。
凌は頷きも否定もしない。「勝つための温度です」
六 帝の温度
夜。禁裏。
凌は景焔に鳳梧塞の戦果と、紙の欠けの露見を報告した。
景焔は黙って聞き、短く言った。「よい」
「宰相を罷免しないのですか」
「罷免すれば、鼠は散る。散った鼠は、次に“大きな穴”を掘る。……鼠の穴を見つけるには、餌のにおいを高くする」
「昇進は餌」
「餌だ。高い餌は、低い鼠には届かない。高い鼠だけが飛びつく」
凌は喉が乾くのを感じた。
景焔の政治は、苛烈だ。
だが、苛烈は、無駄に人を殺さないための苛烈でもある。
景焔は続けた。
「おまえの“香の公開”“祓いの公開”は、良い。闇の値段を上げる。……しかし、値段を上げるだけでは足りぬ。闇を“高く売りつける店”を作っておいて、そこに鼠を集める。店の主は、我だ」
「危険です」
「危険は、おまえを餌にするよりは、我が餌になるほうがよい」
凌は返す言葉を失った。
景焔はゆっくりと立ち上がり、凌の手を取った。
いつものように指先に口づける代わりに、掌を包み、誓珠をその間に挟んだ。
「おまえの判断だけは、疑わない。……我の冷たさは、疑ってよい」
「いいえ」
凌はかぶりを振った。
「冷たいのではなく、“温度の置き換え”です。陛下は、私より先に“自分を餌にする”選択を口にされた」
景焔の目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「おまえは、ときどき、我の孤独に名をつけたがる」
「名がつけば、呼べます」
「呼べば、来る」
「来れば、居座る」
景焔は短く笑い、凌の額へ軽く唇を当てた。「居座らせないよう、頼む」
七 橋、揺れる
中書令に叙された宰相は、儀を終えたあと、夜更けの茶房に寄った。
橋である文官は、そこで宰相の袖を整え、茶を淹れる。
茶の匂いに混じるのは、蜜蝋。
凌の餌の地図の匂いだ。
「お前は、よい“橋”だ」
宰相の声は甘い。「橋は、高い岸と高い岸をつなぐ。……池の端など、橋はかからぬ」
文官の喉が動く。「恐れ入ります」
「恐れ入る場所を、間違えるな」
宰相は茶を置き、文官の目を見た。「敵はどこから来る」
「内からも、外からも」
「よかろう」
宰相は立ち上がり、外を見た。
その背に、文官は一瞬、迷いを落とした。
迷いは砂の上では見えない。
だが、袖の銀は嘘をつかない。
銀が紙に触れ、紙は香を吸い、香は祈りに変わる。
祈りは、凌の板に貼られる。
八 砂の朝
二日後。
鳳梧塞からの早馬が入り、賀蘭が砂盤の前で報告した。
「敵の短い線、こちらの沼に足を取られ、補給隊が孤立。背後の兵站倉から“密路”を使おうとしたところを挟撃。……“密路”は我らの偽書に載せておいた道だ」
凌は息を吐いた。
偽の密路――本来は地図に載っていないはずの、山の腹にある古い獣道。内庫の地図にだけ“点線”で示される。
その点線を、凌は餌の地図に“丁寧に”なぞっておいた。
敵がそれを「正しい密路」と信じて使えば、そこに待つのは挟撃。
短い線は、己の“近道”で死ぬ。
「捕虜の荷から、また地図が。……欠けがあります」
賀蘭が差し出した紙の端に、焼き出しの欠けが見えた。
凌は指の腹で触れ、うなずいた。「同じ“持ち出しの手”」
「宰相家の文官が、昨夜から見えない」
燕青の声が背後から落ちた。「屋敷を出た形跡。橋は、渡った先で折るつもりです」
「折られる前に、板を渡す」
凌はすぐに学堂に戻り、板に新しい札を貼った。
〈今日の香/今日の祓い/今日の軍路〉
軍路――広場に出せる範囲の“偽の道”。
民に見せるためではない。
鼠に、「こちらに道がある」と教えるため。
教えられた鼠は、誇りに寄ってくる。
誇りの近くにしか、鼠は顔を出せない。
九 凍る手
夜。
凌はひとり寝殿で紙をめくっていた。
指が冷えた。
冷えるのは、外気のせいではない。
勝つための“温度”を、うまく置き換えられているか、自信が揺れるとき、指先が最初に冷える。
景焔が入ってきて、言葉もなく凌の手を包んだ。
温度はすぐ戻る。
戻る速さが、関係の強さだ。
「……冷たい」
「少しだけ」
「我のやり方が、怖いか」
問われて、凌は正直に頷いた。
「怖いです。けれど、学びます。冷たさを“制度”に変える方法を」
「制度」
「はい。人の冷たさは刃になる。刃はいつか持ち手ごと傷つけます。……でも制度は、刃の鞘です。鞘があれば、刃は長く使える」
景焔は目を細め、誓珠に指を触れた。「鞘に入れろ」
「入れます」
凌は答え、深く息を吐いた。
吐いた息は夜に消え、夜は少しだけ薄くなった。
十 橋の落ちる音
翌朝、軍務府へ宰相家の文官の身柄が“無人”で届いた。
都の外れで倒れているのを、夜回りの兵が見つけたのだという。
生きている。首に細い痣。
“挨拶”だ。
「見ているぞ」と告げるための、刃の届かない痕。
凌は詰所で文官の目を覗いた。
目は、まだ人の目だ。
彼は何度か口を開き、音にならない音をこぼし、ようやく言葉を絞り出した。
「私は……橋です」
「知っています」
「橋は、渡る者のためにある。渡る者が、いなくなるまで」
「あなたは、渡る者に“名”を」
文官は首を振った。「名は……言えません。言えば、ここで終わります。……でも」
彼は袖から一枚の紙片を出した。
紙片には、印も名もない。
ただ、紙の耳に、内庫の片倒れではない“別の片倒れ”があった。
――祭祀局の印場で使う裁ち刀の癖。
民の祈祷札を大量に裁つために、刃の角度が少し違う。
凌は紙を受け取り、「ありがとう」と言った。
文官の目に水が溜まり、落ちた。
涙は、砂よりも多くを語る。
彼は橋であり続けようとして、折れた。
折れた橋は、なお川の流れを示す。
十一 “店”の灯
夜。
景焔は広間に灯を多く焚かせ、文官たちと軍務派、祭祀局の官を一所に集めた。
“店”だ。
高く売るための、明るい店。
闇を避ける者ほど、明るい店を怖れる。
怖れた足は、暗がりへ向かい、暗がりには網がある。
「内通の件。今日より、この店――中書省の灯の下で扱う」
景焔の声は静かだった。「闇の話は、闇のまま高く売れ。買うのは我だ。……売らぬ者は、貧しいままでよい」
宰相は口元だけで笑い、頭を垂れた。
女官長・蘭秀は扇を閉じ、何も言わない。
太后は現れないが、沈香の薄い匂いが風に混じる。
祈りは、灯の数を数える。
灯が多いほど、祈りは“値”を得る。
凌は板に、また紙を貼った。
〈今日の香/今日の祓い/今日の軍路/今日の灯〉
灯の数を、広場に下ろす。
数は誇り。
誇りは、噂よりも速い。
十二 短い線の終わりと、長い学び
鳳梧塞から最終の報が届いた。
短い線は、ついに切れた。
敵の補給は自壊し、夜襲は消え、谷は静けさを取り戻しつつある。
凌は軍務府の廊で、賀蘭と肩を並べた。
将は短く言う。「数字は、強い」
「人の手で動く数字は、もっと強い」
賀蘭が笑い、「また来い」と背中を叩いた。
叩かれた衝撃が、胸の玉に響く。
誓珠は静かに鳴り、鳴りは“勝ち”の音ではなく、“続ける”音だった。
景焔の政治は苛烈で、凌はその冷たさを怖れる。
だが、怖れを数に変える術を、凌は身につけつつある。
怒りを公開に、復讐を構造に、冷たさを制度に。
その置き換えは、恋ではない。愛に近い。
愛は、名がないほうがいい、と帝は言った。
名をつけるのが凌の癖だ。
癖と癖は、ときに喧嘩する。
喧嘩は、長い学びになる。
都の夜風は、香と祈りと紙の匂いを運び、遠くの鳳梧塞の砂の匂いまでは運ばない。
だが、砂の上の風も、いつか広場に下りる。
そのとき、唯一妃という“席”は、完全に制度になる。
制度が骨になれば、国は眠れる。
眠れる国の朝は、噂ではなく、板の紙で始まる。
凌は誓珠を握り、広場の板を振り返った。
〈今日の香/今日の祓い/今日の軍路/今日の灯〉
四つの紙が、夜露で少しだけ波打っている。
波打つ紙は、呼吸をしている。
呼吸をする都市は、負けない。
――短い線は終わった。
次は、長い線をどう引くかだ。
長い線は、いつも、静かに始まる。



