一 囁き
昼の光はよく晴れていた。
御前で「香の公開」を行ったあとの学堂は、紙の擦れる音と笑い声で満ちている。学堂印を押された紙を胸に抱え、女官たちが互いの字を見せ合っている。誇りの連鎖は、毒より速い。
その喧噪の縁で、女官長・蘭秀が凌の袖を軽く引いた。
扇の骨が一度だけ鳴る。鳴らし方が“内輪”。外向けではない。凌は筆を置き、わざと間を入れてから頷いた。
「厨房を守るなら、井戸を見てください」
囁きは短く、意味は重い。
蘭秀の目は冷たく、同時に熱かった。氷の中に炎を閉じ込めたような矛盾の温度。凌はうなずき、返す言葉を選ばなかった。言葉は、時に釣り針になる。今日は、針ではなく糸が要る。
燕青が影のように近づく。「行きますか」
「ええ。縄の長さを測る道具を」
凌は板尺と小さな砂時計、それに細い印布(いんぷ)を取って袖に入れた。印布は、縄に巻けば伸縮を記録する。数字は喋らないが、喋らない代わりに裏切らない。
二 古井戸の縁
後宮の北端。苔むした古井戸は、昼でも空気が冷たい。
井戸の口に紙垂の名残。最近、誰かが“清め”をした痕跡。桶の縁はよく磨かれ、結び直した縄はまだ新しい油の匂いを保っている。
凌は膝をつき、印布を縄の一部に巻きつけた。
布には目盛りが刺繍してある。巻いた位置と印の長さを控える。燕青が無言で桶を引き上げる。縄が滑り、木の滑車がきい、と乾いた声を上げた。
「……軽い」
燕青が言い、凌は頷いた。「水位が上がっていない。昨夜は風が強かった。蒸発は増えているはずなのに」
桶を上げ切る。水面には薄い油膜――香の余韻はない。凌は銀匙を差し、匙の色を眺めた。変色はない。毒は入っていない。
だが、水底から上がる冷気に、別の匂いが混じっていた。
鉄でも銀でもない。穀の、乾いた匂い。凌は眉を寄せ、桶の中を覗き込んだ。微細な粒がわずかに瞬いている。米とも麦とも違う粒――古い儀式に使う“誠実な供物”の砕き。
供えるのは、水の神へ。
誠実を沈める。
沈めた誠実が、上澄みに“穏やか”を浮かべる。
「供物が沈んでいます」
「誰の許可で?」
祭祀の儀は“許し”で動く。勝手な復活はあり得ない。
凌は縄へ視線を移した。結び目の回数。三、四、三。昨日と同じだ――が、印布が示す長さが違った。ほんの僅か、指二節分、短くなっている。
「縄の長さが変わった。結び目はそのまま、結ぶ位置だけずらしている」
「伸びたのではなく、縮めた」
「ええ。底に“何か”を沈めた。供物だけではない大きさ。……まだ沈め続けるつもりだ」
凌は印布をほどき、結び直して目印を付けた。
結び直された縄は、数式の誤差のように小さく、しかし累積すると大きくなる。今日の指二節は、明日の掌になる。掌は、明後日の肘になる。
「御台所に知らせますか」
「まだ。知らせれば、祭祀局が先に動く。動けば跡は消える。――先に、許しを出した者を探す」
井戸の口に薄い影。振り返ると、蘭秀が立っていた。
彼女は何も言わず、扇の骨をひとつだけ折り畳む仕草をして、踵を返した。
合図。
“次は祭祀局へ”と、言葉を使わずに伝える合図。
蘭秀の背が角を曲がる。
凌は見送らず、井戸の縁に触れた。石の冷たさは変わらない。変わらない冷たさの上で、人の熱だけが動いている。
三 祭祀局へ
祭祀局は後宮のさらに奥、廊の影の濃い場所にある。
紙と香と灰の匂い。古い暦の表が壁に掛かり、見目のよい若い書記官が筆を走らせていた。
凌は礼を取り、帳簿の閲覧を求める。「古井戸の清めの許可を出した集(しゅう)の記録を」
書記官は一瞬ためらい、それから素直に頷いた。学堂印の紙を胸に差している。昨日の講を受けた者だ。証は誇り、誇りは“迷いを短くする”。
記録は丁寧だった。
儀式の種類、日時、場所、供物、香。許可を出した官の名。
凌はページをめくり、指先に伝わる紙の厚さの違いを感じ取る。新しい紙と古い紙は、手触りが違う。新しく綴じ直した束には、針穴が一つ多い。針穴の角度で綴じ直しの手の癖がわかる。
「この“清め”は、いつから復活したのですか」
「三の月の十六より」
「許可者は?」
書記官が指し示す。
許可の欄に、濃い朱印。
――〈太后〉。
凌は息を吸った。
太后の名。
机上に伏せられた祈祷札の名が脳裏をよぎる。〈岳祢〉。
民の祈りと宮の儀が、一本の線で繋がり始めている。
「ここに“祓い”の記録もあります。『男妃の受容を祈る祓い』」
書記官が別の帳を持ってきた。
表紙に墨で〈祓抄〉。
開こうとする手がわずかに震えた。震えは、恐怖ではなく、興奮。新しい“名”を紙に載せるときの、筆が喜ぶ震え。
帳を開く。
祓の文言は簡潔だ。
〈男妃の受容を願い、祈りを香へ移し、香を水へ移し、水の道を通して後宮へ満たす〉
許しの名は、やはり――〈太后〉。
「これは、本当に太后さまが?」
「記録の上は」
書記官の答えは正確だ。
記録の上は、いつだって正確だ。
正確であるはずの紙の上に、正確でない“意図”が乗る瞬間、政治は音を立てずに曲がる。
凌は頁の余白に爪で小さな傷を入れ、すぐに指を離した。
傷は誰の目にも見えない。だが、燃やしたときだけ残る。燃やす手の前に“遅れて出る印”を仕込んでおく。その印は、燃やした者だけが背負う印になる。
「写しを」
凌は言い、紙を受け取った。
写された線は本物の半分の重量しかないはずなのに、手に持つと重く感じた。名が重い。名は刃にもなる。
四 両属
学堂へ戻る道すがら、燕青が口を開いた。「女官長は、どこまで」
「“両属”です」
凌は即答した。
蘭秀は太后の人であり、後宮の人であり、同時に“凌の人”でもある。
それは裏切りではない。後宮を動かす者は、複数の“属”に己を分ける。分けた瞬間の痛みで、均衡を取る。
「あなたは、それを許すのですか」
「許します。……許さなければ、女官長の仕事は務まりません」
燕青は納得したように頷いた。
影が一度、風に揺れた。廊の角、蘭秀が立っていた。
扇が半分だけ開き、またすぐ閉じられる。扇の骨が一本欠けている。欠けは癖。癖は人の形。
蘭秀は近づき、言った。
「井戸は?」
「供物。縄の長さ。祭祀局の許し。……祓いの帳に『男妃の受容』」
蘭秀は瞬きもしなかった。
扇の先端がほんの少しだけ下がる。肯定にも否定にも似た振れ。彼女は、知っていた。
知っていて、凌を井戸へ導いた。
「太后さまは、あなたを守りたいのです」
蘭秀の声は珍しく柔らかかった。
柔らかさは、刃の鈍りではない。布が刃に寄り添うときの音。
「“憎ませる盾”で?」
「ええ。憎まれるほど、陛下は強く見える。あなたは“過ち”と呼ばれる。……そして、過ちを制度に変えた“あなた”の名は、後で残る」
「なら、なぜ刺客は私を狙う」
「盾であるほど、穴を探されます」
蘭秀はそれだけ言い、踵を返した。
歩き去る背はまっすぐだ。まっすぐな背が、左右の“属”に引かれて微かにしなる。しなりは美しい。美しいものは、しばしば長く生きる。
五 揺らぎ
寝殿で紙を広げる。
〈男妃の受容を祈る祓い〉の写し。
許しの名――〈太后〉。
凌は誓珠に触れた。玉の内側の銀砂が光を抱き、ほどける。
(太后さまは、憎ませる盾になり、同時に“祓い”で私を守ろうとしている?)
人間は矛盾でできている。
矛盾に耐えうる器を“政治”と呼ぶのかもしれない。
凌は紙の端に小さく数字を書きつけた。
供物の量、縄の短縮の幅、儀式の回数、香炉の底に映った刻印の種類。
数字を並べると、祈りの“流量”が見える。祈りは目に見えないが、流れる。流れがあるなら、流量がある。
祓いが実施された日、井戸の水位はわずかに下がっている。供物の比重が水より僅かに大きいからだ。
つまり、祓いは“本当に”行われた。名ばかりではない。
太后の名で出され、太后の知らぬところで書かれた“ふり”ではない。
太后は、祈った。
祈りは弱さであり、強さでもある。
凌は胸の奥がわずかに揺れた。
揺らぎは危険だ。だが、揺れない判断は折れやすい。
「陛下へ」
凌は決め、書付を巻いて立った。
禁裏へ向かう廊の風は、午後の熱を運びながら、どこか塩の匂いを混ぜていた。遠くの海。
風は裏切らない。裏切るのは人と香。香に名を、祈りに秤を。
六 帝と祓抄
景焔は机に向かい、軍務の報告に印を落としていた。
凌が一礼し、巻紙を差し出す。
景焔は黙って受け取り、目を通し、最後の行へ指を置いた。〈太后〉の印。
「……母上の名だな」
「記録の上は」
凌は祭祀局の書記官の語法で答え、続ける。
「供物は“誠実な供物”。毒ではありません。縄の長さは短くなっている。儀は続く。……祈りは、あなたと私を広場へ押し出す力へも、なり得ます」
「広場へ」
「広場の高さにおろす。『今日の香』と同じです。祈りに“名”を、祈りの“流量”に数字を。祈りは、人を操るための闇ではなくなります」
景焔は紙をたたみ、しばらくの間、沈黙を置いた。
沈黙のなかで、彼の目は遠くを見る。
遠くを見る目は、近くの痛みを取り逃がすことがある。
だが、景焔は視線を戻すのが早い。戻す速さは、帝の修練だ。
「母上の真意は、おまえを守ることか。……それとも、我を守ることか」
「たぶん、両方。さらに言えば、“帝国”を守ることです」
凌は誓珠に触れ、続けた。
「太后さまは、私を憎ませる盾にもするし、祈りで包む母にもなる。両属です。女官長と同じ。……私はそれを“許す”政治を選びたい」
「許す?」
「両属でしか支えられない場所がある。片属の者だけで積んだ塔は、風で崩れます。風は、いつも吹く」
景焔はふっと笑い、椅子にもたれた。
「おまえの言うことは、難しくて、簡単だ」
「難しいのは言葉。簡単なのは手順です。祓いの“公開”。香と同じ。祓いの紙に写しを作り、学堂印を押して返す。『今日の祓い』の名と流量を、広場の板に」
「祓いを“広場へ”」
「はい。祓いは、元来、民のものですから」
景焔は頷き、短く言った。「やれ」
やれ、と言われると、凌の体内の歯車は軽く回転数を上げる。
歯車は目に見えない。だが、その回転が数字を運び、数字は人を動かす。
凌は一礼し、学堂へ戻るために踵を返した。
その時、景焔が呼び止めた。
「凌」
「はい」
「――ゆらぐな」
凌は笑みをおさえ、深く頭を下げた。
「ゆらぎを数にします」
七 廊の端で
学堂へ向かう途中、蘭秀がまた現れた。
扇の骨は欠けたまま。だが、骨の欠けは磨かれて、丸くなっている。丸くなった欠けは、最初の痛みを吸い込んで、静けさに変える。
「祓いを見ましたか」
「見ました。太后さまの名」
「そう」
蘭秀は扇を閉じ、凌をまっすぐ見た。
彼女の瞳はよく“見る”。見る人は、いつも“見られる”ことに慣れている。視線の往復が、彼女の職の呼吸だ。
「私は両属です」
不意に、彼女が言った。
凌は驚かなかった。
驚かないのは、予期していたからではない。予期していないものを、否定で受けない訓練ができているからだ。
「太后さまの人であり、後宮の人であり、あなたの人。……どれか一つだけになることは、できません」
「できます。――死ねば」
凌の冗談に、蘭秀はかすかに笑った。「そう。だから、私は生きます」
「生きる両属を、私は使う」
凌はさらりと言い、続けた。
「井戸は、まだ“誠実”だけ。けれど縄は短くなる。供物の量が増える。このままだと、誠実はやがて“重さ”になる。“重さ”は、底を抜く。……底が抜ける前に、井戸の“底”を強くしないと」
「底?」
「石の継ぎ目。銀工組合の刻印がある。縁ではなく底の石に、刻印の“影”が出るかもしれない。影は、光の癖で見える」
蘭秀は目を細めた。「見せましょう」
「お願い」
彼女は踵を返した。その背は今日もまっすぐで、両側の属に引かれてしなっている。
しなる背は折れにくい。折れにくいが、ひびは入る。ひびがひどくなる前に、補強を。補強は、役割で。
八 底を見る
夜。
井戸の底を見るための道具を集めた。
小さな鏡、油を落とさないための薄皮、長い棒、そして砂時計。
燕青が縄を支え、凌が鏡を吊り下げる。鏡は水面でわずかに揺れ、揺れは光に変わり、光は底の石に“線”を描く。
「……見えます」
底石の継ぎ目。そこに、微細な刻み。
銀工組合の印の“影”。
刻印そのものではない。だが、石を整えた器具の“癖”が出る。癖は匠の指紋だ。
凌は鏡を角度を変え、砂時計をひっくり返した。時間によって揺れが変わる。揺れの幅で、水の流入の“筋”が見える。
「ここから、水が入っている」
石の継ぎ目の一部。
ほんのわずかだが、外からの水が“追加”されている。
供物で水位が下がるはずの井戸が、一定水位を保っている理由。
誠実が沈む速度と、別の水の入る速度が、均衡している。
「外と、繋がっている」
燕青が低く言う。
凌は頷いた。「祓いは本物。……でも、祓い“だけ”じゃない」
背後、蘭秀の気配。「祭祀局の許しの“後”に、誰かが手を入れている」
「誰が?」
「見ます。――見せます」
蘭秀は扇を閉じ、静かに消えた。
九 祈りの回路
学堂の板に新しい札を張った。
〈今日の祓い〉
日時、場所、供物の量、香の名、祭祀局の許しの印、そして“流量”の数字。
女官たちが立ち止まり、指でなぞる。宦官が目を細め、兵が腕組みのまま見上げる。
祈りは目に見えないから怖い。
見えるようにすれば、怖さは半分になる。
半分になった怖さは、噂の餌にされにくい。
「妃さま、これ、家に持って帰れますか」
昨日学堂印をもらった女官が、目を輝かせて言った。
凌は頷き、同じ札の写しを渡した。
女官は抱きしめるように紙を抱き、走っていく。
誇りは連鎖する。誇りが多い場所は、毒が棲みにくい。
その背中を見送っていたとき、宰相家の文官が学堂の外に立っていた。
目は薄く笑い、唇は乾いている。
乾いた唇は、言葉を滑らせにくい。滑らない言葉は、つまずく。
「祓いまで広場に下ろすとは、前代未聞ですな」
「未聞は、はじめての証拠です」
「はじめては、常に失敗の母で」
「成功の父でもあります」
凌はさらりと返し、文官の袖に目をやった。袖の縫い目に銀の粉。
銀は香を拾い、香は祈りを呼ぶ。祈りは金に変わる。金は網になる。
網を持つ手のひとつが、宰相家。
だが、文官は橋だ。
橋は川を作らない。
川を作るのは、源頭。
十 裏面
夜が深くなるころ、蘭秀が戻ってきた。
扇の骨が、二度鳴った。内輪中の内輪。
彼女は誰もいない廊で立ち止まり、凌にだけ聞こえる声で言う。
「祭祀局の“印押しの場”が、宮の外に移されていた夜があった」
「外?」
「祈祷札の発着のため、と。……太后さまの“伏せ札”が、あの日に机に置かれた」
〈岳祢〉。
民の陰陽師。
太后の伏せ。
祭祀局の印。
宰相家の橋。
銀工組合の縁。
井戸の底の継ぎ目。
点は揃った。
線は、まだ“誰か”の癖を待っている。
「蘭秀。あなたは――私の味方ですか」
凌が問うと、女官長は少しだけ首を傾げた。
「私は、後宮の味方です」
「後宮は、私にとって“守る場所”です」
ふたりの目が合い、短い時間だけ、戦の外へ出た。
外に出ると、戦の音がよく聞こえる。
鳴っているのは太鼓ではない。紙の上の数字の音。継ぎ目を流れる水の音。香が上る音。祈りが落ちる音。
「――明日、井戸を“止めます”」
凌の言葉に、蘭秀はわずかに眉を上げた。「止める?」
「底の継ぎ目に“誓珠の影”を落とす。玉の刻印を極小の鏡に写し、鏡を継ぎ目に仕込む。鏡は祈りを反射し、異物の流入を“名のない光”に変える。……名のない光は、祈りに見えない」
「見えないものを、見えなくする」
「はい。見えるようにするのは広場で。見えなくするのは、底で」
蘭秀は短く笑い、「あなたは厄介です」とだけ言って去った。
十一 底を“止める”
翌夜。
鏡は髪飾りの裏から外した古鏡を磨き、誓珠の表面に刻まれた微細な模様を写した。
鏡面に薄い油を引き、水をはじく。
燕青が継ぎ目に手を伸ばし、鏡を差し込む。
鏡は石の隙間にぴたりと収まり、外からの水の筋に“乱れ”をつくる。
乱れは流速を落とし、供物の比重は水より大きいから、その場で“溜まる”。
溜まった供物は“祓いの目印”になり、誰がいつ供えたかを、香の名と合わせて記録できる。
「止まりました」
燕青が囁く。
凌は砂時計を返し、時間で“揺れ”を測った。
揺れは均され、井戸の水は“祓いだけの水位”で落ち着き始める。
これで、祈りは祈りの速度で流れ、外からの“別の水”は、鏡にぶつかって“名のない光”に散る。
「御台所には?」
「明日、“今日の祓い”の札と合わせて、井戸の“底の改修”を掲示します。……作法は祭祀局の筆で」
紙にする。
紙は人を動かし、紙は人を殺さない。
殺さないものを増やす。
それが、唯一妃の政。
十二 夜の対話
禁裏に戻ると、景焔はまだ起きていた。
凌が報告すると、景焔は黙って聞き、短く問う。
「女官長は、どこに立っている」
「真ん中です」
「真ん中は凍える」
「ええ。だから、私が火を足す。学堂の火で」
景焔は目を細め、やがて笑った。「おまえは、火と水の加減が上手い」
「料理頭に褒められました」
「なら、我も褒める」
景焔は立ち上がり、凌の額に軽く唇を触れさせた。
誓珠が胸で鳴る。
玉の中の銀砂が、夜の静けさでさらに細かく光った。
「凌」
「はい」
「――ありがとう」
その言葉を、凌は二度目としてではなく、はじめての言葉のように受け取った。
“ありがとう”は、言う者の中で更新される。更新された感謝は、古い感謝と重ならない。重ならないから、重くならない。重くない感謝は、長く続く。
十三 終わりではない
翌朝。
学堂の板に、新しい札が貼られた。
〈今日の祓い〉と〈井戸底の改修〉。
祭祀局の筆で、太后の名で、女官長の扇の印で。
宰相家の文官は遠くから眺め、軍務派の将は近くで読む。
女官たちは誇りを抱き、宦官は目を細め、香は風に薄く乗る。
蘭秀が凌の脇に立ち、声を落とした。
「あなたが“井戸を止めた”ことは、誰にもわからない」
「わからなくていい。……わからないことは、勝ち負けにならない」
「では、私だけは覚えておきます」
凌は笑った。「私も、あなたの“両属”を覚えておきます」
扇の骨が、ひとつ鳴った。
鳴りは合図。
合図は、裏面での友情だ。
遠く、太后の私室の方から沈香の匂いが寄せてくる。
祈りは続く。
祈りの流量は記録され、香の名は広場に貼られる。
縄の長さは印布で管理され、供物の量は秤にかけられる。
鏡は底で光を散らし、“別の水”は祓いに変わる。
それでも、黒幕は顔を出さない。
出さない顔は、癖で見つける。
癖は、紙に残る。
紙は、焼かれても“遅れて出る印”で語る。
“女官長”の裏面は、敵でも味方でもなかった。
裏面は、裏面のまま、後宮を支える。
それを“許す”政治を選ぶなら、凌はもっと多くを数え、もっと長くを待たなければならない。
待つことは、戦うことだ。
戦わない日は、数を増やす。
数が増えれば、闇の値段は上がる。
値段の上がった闇は、動きが鈍る。
誓珠が胸で小さく鳴った。
鳴りは、同意でも、警鐘でも、祈りでもあった。
凌は玉を握り、深く息をした。
――終わりではない。
まだ、始まりの裏面にいる。
裏面の地図を描き終えるまで、私は歩く。
両属の背を、真ん中の冷たさを、底の光を、香の名を、祈りの流量を、全部、地図の線にする。
その地図が広場に下りたとき、はじめて“唯一妃”は席ではなく、制度になる。
制度は骨になり、骨は夜を支える。
夜が支えられれば、人は眠れる。
眠れた朝に、人は笑える。
今日も、笑いを一つ配る。
笑いは、毒より速い。
昼の光はよく晴れていた。
御前で「香の公開」を行ったあとの学堂は、紙の擦れる音と笑い声で満ちている。学堂印を押された紙を胸に抱え、女官たちが互いの字を見せ合っている。誇りの連鎖は、毒より速い。
その喧噪の縁で、女官長・蘭秀が凌の袖を軽く引いた。
扇の骨が一度だけ鳴る。鳴らし方が“内輪”。外向けではない。凌は筆を置き、わざと間を入れてから頷いた。
「厨房を守るなら、井戸を見てください」
囁きは短く、意味は重い。
蘭秀の目は冷たく、同時に熱かった。氷の中に炎を閉じ込めたような矛盾の温度。凌はうなずき、返す言葉を選ばなかった。言葉は、時に釣り針になる。今日は、針ではなく糸が要る。
燕青が影のように近づく。「行きますか」
「ええ。縄の長さを測る道具を」
凌は板尺と小さな砂時計、それに細い印布(いんぷ)を取って袖に入れた。印布は、縄に巻けば伸縮を記録する。数字は喋らないが、喋らない代わりに裏切らない。
二 古井戸の縁
後宮の北端。苔むした古井戸は、昼でも空気が冷たい。
井戸の口に紙垂の名残。最近、誰かが“清め”をした痕跡。桶の縁はよく磨かれ、結び直した縄はまだ新しい油の匂いを保っている。
凌は膝をつき、印布を縄の一部に巻きつけた。
布には目盛りが刺繍してある。巻いた位置と印の長さを控える。燕青が無言で桶を引き上げる。縄が滑り、木の滑車がきい、と乾いた声を上げた。
「……軽い」
燕青が言い、凌は頷いた。「水位が上がっていない。昨夜は風が強かった。蒸発は増えているはずなのに」
桶を上げ切る。水面には薄い油膜――香の余韻はない。凌は銀匙を差し、匙の色を眺めた。変色はない。毒は入っていない。
だが、水底から上がる冷気に、別の匂いが混じっていた。
鉄でも銀でもない。穀の、乾いた匂い。凌は眉を寄せ、桶の中を覗き込んだ。微細な粒がわずかに瞬いている。米とも麦とも違う粒――古い儀式に使う“誠実な供物”の砕き。
供えるのは、水の神へ。
誠実を沈める。
沈めた誠実が、上澄みに“穏やか”を浮かべる。
「供物が沈んでいます」
「誰の許可で?」
祭祀の儀は“許し”で動く。勝手な復活はあり得ない。
凌は縄へ視線を移した。結び目の回数。三、四、三。昨日と同じだ――が、印布が示す長さが違った。ほんの僅か、指二節分、短くなっている。
「縄の長さが変わった。結び目はそのまま、結ぶ位置だけずらしている」
「伸びたのではなく、縮めた」
「ええ。底に“何か”を沈めた。供物だけではない大きさ。……まだ沈め続けるつもりだ」
凌は印布をほどき、結び直して目印を付けた。
結び直された縄は、数式の誤差のように小さく、しかし累積すると大きくなる。今日の指二節は、明日の掌になる。掌は、明後日の肘になる。
「御台所に知らせますか」
「まだ。知らせれば、祭祀局が先に動く。動けば跡は消える。――先に、許しを出した者を探す」
井戸の口に薄い影。振り返ると、蘭秀が立っていた。
彼女は何も言わず、扇の骨をひとつだけ折り畳む仕草をして、踵を返した。
合図。
“次は祭祀局へ”と、言葉を使わずに伝える合図。
蘭秀の背が角を曲がる。
凌は見送らず、井戸の縁に触れた。石の冷たさは変わらない。変わらない冷たさの上で、人の熱だけが動いている。
三 祭祀局へ
祭祀局は後宮のさらに奥、廊の影の濃い場所にある。
紙と香と灰の匂い。古い暦の表が壁に掛かり、見目のよい若い書記官が筆を走らせていた。
凌は礼を取り、帳簿の閲覧を求める。「古井戸の清めの許可を出した集(しゅう)の記録を」
書記官は一瞬ためらい、それから素直に頷いた。学堂印の紙を胸に差している。昨日の講を受けた者だ。証は誇り、誇りは“迷いを短くする”。
記録は丁寧だった。
儀式の種類、日時、場所、供物、香。許可を出した官の名。
凌はページをめくり、指先に伝わる紙の厚さの違いを感じ取る。新しい紙と古い紙は、手触りが違う。新しく綴じ直した束には、針穴が一つ多い。針穴の角度で綴じ直しの手の癖がわかる。
「この“清め”は、いつから復活したのですか」
「三の月の十六より」
「許可者は?」
書記官が指し示す。
許可の欄に、濃い朱印。
――〈太后〉。
凌は息を吸った。
太后の名。
机上に伏せられた祈祷札の名が脳裏をよぎる。〈岳祢〉。
民の祈りと宮の儀が、一本の線で繋がり始めている。
「ここに“祓い”の記録もあります。『男妃の受容を祈る祓い』」
書記官が別の帳を持ってきた。
表紙に墨で〈祓抄〉。
開こうとする手がわずかに震えた。震えは、恐怖ではなく、興奮。新しい“名”を紙に載せるときの、筆が喜ぶ震え。
帳を開く。
祓の文言は簡潔だ。
〈男妃の受容を願い、祈りを香へ移し、香を水へ移し、水の道を通して後宮へ満たす〉
許しの名は、やはり――〈太后〉。
「これは、本当に太后さまが?」
「記録の上は」
書記官の答えは正確だ。
記録の上は、いつだって正確だ。
正確であるはずの紙の上に、正確でない“意図”が乗る瞬間、政治は音を立てずに曲がる。
凌は頁の余白に爪で小さな傷を入れ、すぐに指を離した。
傷は誰の目にも見えない。だが、燃やしたときだけ残る。燃やす手の前に“遅れて出る印”を仕込んでおく。その印は、燃やした者だけが背負う印になる。
「写しを」
凌は言い、紙を受け取った。
写された線は本物の半分の重量しかないはずなのに、手に持つと重く感じた。名が重い。名は刃にもなる。
四 両属
学堂へ戻る道すがら、燕青が口を開いた。「女官長は、どこまで」
「“両属”です」
凌は即答した。
蘭秀は太后の人であり、後宮の人であり、同時に“凌の人”でもある。
それは裏切りではない。後宮を動かす者は、複数の“属”に己を分ける。分けた瞬間の痛みで、均衡を取る。
「あなたは、それを許すのですか」
「許します。……許さなければ、女官長の仕事は務まりません」
燕青は納得したように頷いた。
影が一度、風に揺れた。廊の角、蘭秀が立っていた。
扇が半分だけ開き、またすぐ閉じられる。扇の骨が一本欠けている。欠けは癖。癖は人の形。
蘭秀は近づき、言った。
「井戸は?」
「供物。縄の長さ。祭祀局の許し。……祓いの帳に『男妃の受容』」
蘭秀は瞬きもしなかった。
扇の先端がほんの少しだけ下がる。肯定にも否定にも似た振れ。彼女は、知っていた。
知っていて、凌を井戸へ導いた。
「太后さまは、あなたを守りたいのです」
蘭秀の声は珍しく柔らかかった。
柔らかさは、刃の鈍りではない。布が刃に寄り添うときの音。
「“憎ませる盾”で?」
「ええ。憎まれるほど、陛下は強く見える。あなたは“過ち”と呼ばれる。……そして、過ちを制度に変えた“あなた”の名は、後で残る」
「なら、なぜ刺客は私を狙う」
「盾であるほど、穴を探されます」
蘭秀はそれだけ言い、踵を返した。
歩き去る背はまっすぐだ。まっすぐな背が、左右の“属”に引かれて微かにしなる。しなりは美しい。美しいものは、しばしば長く生きる。
五 揺らぎ
寝殿で紙を広げる。
〈男妃の受容を祈る祓い〉の写し。
許しの名――〈太后〉。
凌は誓珠に触れた。玉の内側の銀砂が光を抱き、ほどける。
(太后さまは、憎ませる盾になり、同時に“祓い”で私を守ろうとしている?)
人間は矛盾でできている。
矛盾に耐えうる器を“政治”と呼ぶのかもしれない。
凌は紙の端に小さく数字を書きつけた。
供物の量、縄の短縮の幅、儀式の回数、香炉の底に映った刻印の種類。
数字を並べると、祈りの“流量”が見える。祈りは目に見えないが、流れる。流れがあるなら、流量がある。
祓いが実施された日、井戸の水位はわずかに下がっている。供物の比重が水より僅かに大きいからだ。
つまり、祓いは“本当に”行われた。名ばかりではない。
太后の名で出され、太后の知らぬところで書かれた“ふり”ではない。
太后は、祈った。
祈りは弱さであり、強さでもある。
凌は胸の奥がわずかに揺れた。
揺らぎは危険だ。だが、揺れない判断は折れやすい。
「陛下へ」
凌は決め、書付を巻いて立った。
禁裏へ向かう廊の風は、午後の熱を運びながら、どこか塩の匂いを混ぜていた。遠くの海。
風は裏切らない。裏切るのは人と香。香に名を、祈りに秤を。
六 帝と祓抄
景焔は机に向かい、軍務の報告に印を落としていた。
凌が一礼し、巻紙を差し出す。
景焔は黙って受け取り、目を通し、最後の行へ指を置いた。〈太后〉の印。
「……母上の名だな」
「記録の上は」
凌は祭祀局の書記官の語法で答え、続ける。
「供物は“誠実な供物”。毒ではありません。縄の長さは短くなっている。儀は続く。……祈りは、あなたと私を広場へ押し出す力へも、なり得ます」
「広場へ」
「広場の高さにおろす。『今日の香』と同じです。祈りに“名”を、祈りの“流量”に数字を。祈りは、人を操るための闇ではなくなります」
景焔は紙をたたみ、しばらくの間、沈黙を置いた。
沈黙のなかで、彼の目は遠くを見る。
遠くを見る目は、近くの痛みを取り逃がすことがある。
だが、景焔は視線を戻すのが早い。戻す速さは、帝の修練だ。
「母上の真意は、おまえを守ることか。……それとも、我を守ることか」
「たぶん、両方。さらに言えば、“帝国”を守ることです」
凌は誓珠に触れ、続けた。
「太后さまは、私を憎ませる盾にもするし、祈りで包む母にもなる。両属です。女官長と同じ。……私はそれを“許す”政治を選びたい」
「許す?」
「両属でしか支えられない場所がある。片属の者だけで積んだ塔は、風で崩れます。風は、いつも吹く」
景焔はふっと笑い、椅子にもたれた。
「おまえの言うことは、難しくて、簡単だ」
「難しいのは言葉。簡単なのは手順です。祓いの“公開”。香と同じ。祓いの紙に写しを作り、学堂印を押して返す。『今日の祓い』の名と流量を、広場の板に」
「祓いを“広場へ”」
「はい。祓いは、元来、民のものですから」
景焔は頷き、短く言った。「やれ」
やれ、と言われると、凌の体内の歯車は軽く回転数を上げる。
歯車は目に見えない。だが、その回転が数字を運び、数字は人を動かす。
凌は一礼し、学堂へ戻るために踵を返した。
その時、景焔が呼び止めた。
「凌」
「はい」
「――ゆらぐな」
凌は笑みをおさえ、深く頭を下げた。
「ゆらぎを数にします」
七 廊の端で
学堂へ向かう途中、蘭秀がまた現れた。
扇の骨は欠けたまま。だが、骨の欠けは磨かれて、丸くなっている。丸くなった欠けは、最初の痛みを吸い込んで、静けさに変える。
「祓いを見ましたか」
「見ました。太后さまの名」
「そう」
蘭秀は扇を閉じ、凌をまっすぐ見た。
彼女の瞳はよく“見る”。見る人は、いつも“見られる”ことに慣れている。視線の往復が、彼女の職の呼吸だ。
「私は両属です」
不意に、彼女が言った。
凌は驚かなかった。
驚かないのは、予期していたからではない。予期していないものを、否定で受けない訓練ができているからだ。
「太后さまの人であり、後宮の人であり、あなたの人。……どれか一つだけになることは、できません」
「できます。――死ねば」
凌の冗談に、蘭秀はかすかに笑った。「そう。だから、私は生きます」
「生きる両属を、私は使う」
凌はさらりと言い、続けた。
「井戸は、まだ“誠実”だけ。けれど縄は短くなる。供物の量が増える。このままだと、誠実はやがて“重さ”になる。“重さ”は、底を抜く。……底が抜ける前に、井戸の“底”を強くしないと」
「底?」
「石の継ぎ目。銀工組合の刻印がある。縁ではなく底の石に、刻印の“影”が出るかもしれない。影は、光の癖で見える」
蘭秀は目を細めた。「見せましょう」
「お願い」
彼女は踵を返した。その背は今日もまっすぐで、両側の属に引かれてしなっている。
しなる背は折れにくい。折れにくいが、ひびは入る。ひびがひどくなる前に、補強を。補強は、役割で。
八 底を見る
夜。
井戸の底を見るための道具を集めた。
小さな鏡、油を落とさないための薄皮、長い棒、そして砂時計。
燕青が縄を支え、凌が鏡を吊り下げる。鏡は水面でわずかに揺れ、揺れは光に変わり、光は底の石に“線”を描く。
「……見えます」
底石の継ぎ目。そこに、微細な刻み。
銀工組合の印の“影”。
刻印そのものではない。だが、石を整えた器具の“癖”が出る。癖は匠の指紋だ。
凌は鏡を角度を変え、砂時計をひっくり返した。時間によって揺れが変わる。揺れの幅で、水の流入の“筋”が見える。
「ここから、水が入っている」
石の継ぎ目の一部。
ほんのわずかだが、外からの水が“追加”されている。
供物で水位が下がるはずの井戸が、一定水位を保っている理由。
誠実が沈む速度と、別の水の入る速度が、均衡している。
「外と、繋がっている」
燕青が低く言う。
凌は頷いた。「祓いは本物。……でも、祓い“だけ”じゃない」
背後、蘭秀の気配。「祭祀局の許しの“後”に、誰かが手を入れている」
「誰が?」
「見ます。――見せます」
蘭秀は扇を閉じ、静かに消えた。
九 祈りの回路
学堂の板に新しい札を張った。
〈今日の祓い〉
日時、場所、供物の量、香の名、祭祀局の許しの印、そして“流量”の数字。
女官たちが立ち止まり、指でなぞる。宦官が目を細め、兵が腕組みのまま見上げる。
祈りは目に見えないから怖い。
見えるようにすれば、怖さは半分になる。
半分になった怖さは、噂の餌にされにくい。
「妃さま、これ、家に持って帰れますか」
昨日学堂印をもらった女官が、目を輝かせて言った。
凌は頷き、同じ札の写しを渡した。
女官は抱きしめるように紙を抱き、走っていく。
誇りは連鎖する。誇りが多い場所は、毒が棲みにくい。
その背中を見送っていたとき、宰相家の文官が学堂の外に立っていた。
目は薄く笑い、唇は乾いている。
乾いた唇は、言葉を滑らせにくい。滑らない言葉は、つまずく。
「祓いまで広場に下ろすとは、前代未聞ですな」
「未聞は、はじめての証拠です」
「はじめては、常に失敗の母で」
「成功の父でもあります」
凌はさらりと返し、文官の袖に目をやった。袖の縫い目に銀の粉。
銀は香を拾い、香は祈りを呼ぶ。祈りは金に変わる。金は網になる。
網を持つ手のひとつが、宰相家。
だが、文官は橋だ。
橋は川を作らない。
川を作るのは、源頭。
十 裏面
夜が深くなるころ、蘭秀が戻ってきた。
扇の骨が、二度鳴った。内輪中の内輪。
彼女は誰もいない廊で立ち止まり、凌にだけ聞こえる声で言う。
「祭祀局の“印押しの場”が、宮の外に移されていた夜があった」
「外?」
「祈祷札の発着のため、と。……太后さまの“伏せ札”が、あの日に机に置かれた」
〈岳祢〉。
民の陰陽師。
太后の伏せ。
祭祀局の印。
宰相家の橋。
銀工組合の縁。
井戸の底の継ぎ目。
点は揃った。
線は、まだ“誰か”の癖を待っている。
「蘭秀。あなたは――私の味方ですか」
凌が問うと、女官長は少しだけ首を傾げた。
「私は、後宮の味方です」
「後宮は、私にとって“守る場所”です」
ふたりの目が合い、短い時間だけ、戦の外へ出た。
外に出ると、戦の音がよく聞こえる。
鳴っているのは太鼓ではない。紙の上の数字の音。継ぎ目を流れる水の音。香が上る音。祈りが落ちる音。
「――明日、井戸を“止めます”」
凌の言葉に、蘭秀はわずかに眉を上げた。「止める?」
「底の継ぎ目に“誓珠の影”を落とす。玉の刻印を極小の鏡に写し、鏡を継ぎ目に仕込む。鏡は祈りを反射し、異物の流入を“名のない光”に変える。……名のない光は、祈りに見えない」
「見えないものを、見えなくする」
「はい。見えるようにするのは広場で。見えなくするのは、底で」
蘭秀は短く笑い、「あなたは厄介です」とだけ言って去った。
十一 底を“止める”
翌夜。
鏡は髪飾りの裏から外した古鏡を磨き、誓珠の表面に刻まれた微細な模様を写した。
鏡面に薄い油を引き、水をはじく。
燕青が継ぎ目に手を伸ばし、鏡を差し込む。
鏡は石の隙間にぴたりと収まり、外からの水の筋に“乱れ”をつくる。
乱れは流速を落とし、供物の比重は水より大きいから、その場で“溜まる”。
溜まった供物は“祓いの目印”になり、誰がいつ供えたかを、香の名と合わせて記録できる。
「止まりました」
燕青が囁く。
凌は砂時計を返し、時間で“揺れ”を測った。
揺れは均され、井戸の水は“祓いだけの水位”で落ち着き始める。
これで、祈りは祈りの速度で流れ、外からの“別の水”は、鏡にぶつかって“名のない光”に散る。
「御台所には?」
「明日、“今日の祓い”の札と合わせて、井戸の“底の改修”を掲示します。……作法は祭祀局の筆で」
紙にする。
紙は人を動かし、紙は人を殺さない。
殺さないものを増やす。
それが、唯一妃の政。
十二 夜の対話
禁裏に戻ると、景焔はまだ起きていた。
凌が報告すると、景焔は黙って聞き、短く問う。
「女官長は、どこに立っている」
「真ん中です」
「真ん中は凍える」
「ええ。だから、私が火を足す。学堂の火で」
景焔は目を細め、やがて笑った。「おまえは、火と水の加減が上手い」
「料理頭に褒められました」
「なら、我も褒める」
景焔は立ち上がり、凌の額に軽く唇を触れさせた。
誓珠が胸で鳴る。
玉の中の銀砂が、夜の静けさでさらに細かく光った。
「凌」
「はい」
「――ありがとう」
その言葉を、凌は二度目としてではなく、はじめての言葉のように受け取った。
“ありがとう”は、言う者の中で更新される。更新された感謝は、古い感謝と重ならない。重ならないから、重くならない。重くない感謝は、長く続く。
十三 終わりではない
翌朝。
学堂の板に、新しい札が貼られた。
〈今日の祓い〉と〈井戸底の改修〉。
祭祀局の筆で、太后の名で、女官長の扇の印で。
宰相家の文官は遠くから眺め、軍務派の将は近くで読む。
女官たちは誇りを抱き、宦官は目を細め、香は風に薄く乗る。
蘭秀が凌の脇に立ち、声を落とした。
「あなたが“井戸を止めた”ことは、誰にもわからない」
「わからなくていい。……わからないことは、勝ち負けにならない」
「では、私だけは覚えておきます」
凌は笑った。「私も、あなたの“両属”を覚えておきます」
扇の骨が、ひとつ鳴った。
鳴りは合図。
合図は、裏面での友情だ。
遠く、太后の私室の方から沈香の匂いが寄せてくる。
祈りは続く。
祈りの流量は記録され、香の名は広場に貼られる。
縄の長さは印布で管理され、供物の量は秤にかけられる。
鏡は底で光を散らし、“別の水”は祓いに変わる。
それでも、黒幕は顔を出さない。
出さない顔は、癖で見つける。
癖は、紙に残る。
紙は、焼かれても“遅れて出る印”で語る。
“女官長”の裏面は、敵でも味方でもなかった。
裏面は、裏面のまま、後宮を支える。
それを“許す”政治を選ぶなら、凌はもっと多くを数え、もっと長くを待たなければならない。
待つことは、戦うことだ。
戦わない日は、数を増やす。
数が増えれば、闇の値段は上がる。
値段の上がった闇は、動きが鈍る。
誓珠が胸で小さく鳴った。
鳴りは、同意でも、警鐘でも、祈りでもあった。
凌は玉を握り、深く息をした。
――終わりではない。
まだ、始まりの裏面にいる。
裏面の地図を描き終えるまで、私は歩く。
両属の背を、真ん中の冷たさを、底の光を、香の名を、祈りの流量を、全部、地図の線にする。
その地図が広場に下りたとき、はじめて“唯一妃”は席ではなく、制度になる。
制度は骨になり、骨は夜を支える。
夜が支えられれば、人は眠れる。
眠れた朝に、人は笑える。
今日も、笑いを一つ配る。
笑いは、毒より速い。



