一 呼び声

 朝の三更の鐘が、薄く宮を満たしていた。
 女官長・蘭秀が静かな足取りで寝殿に現れ、扇の骨で障子を一度だけ叩く。合図は短いほど重い。凌は筆を置き、深い呼吸をひとつ落として立ち上がった。

「太后さまがお呼びです」

「いまから、ですか」

「いまから、です」

 蘭秀はそれ以上は言わない。言葉を削るのは、宮中で生きる者の礼儀だ。
 凌は誓珠を着直し、外套の紐を結ぶ。胸の玉は朝の冷気でひんやりと重い。重さは、落ち着きをくれる。落ち着きがないのは、責務が軽いからだ――自分に言い聞かせるように、玉へ指を添える。

 太后の私室へ向かう回廊は、いつ来ても風の音が違う。敷石は磨かれ、柱は黒檀、灯は意図的に少ない。少なさは力だ。見えない範囲があるほど、人は想像で膝を折る。

 扉の前で宦官が膝をついた。「お入りを」

 凌は深く一礼し、香の層へ足を踏み入れた。

二 沈香の檻

 部屋の中心は、香の縁で描かれている。沈香が底のほうでくゆり、薄い白が層を作って漂う。光はやわらかく、しかしどこか重い。

 太后は帳の向こうに座っていた。白地の衣に淡い金糸、扇の骨は一本欠けている。欠けた骨を親指で押さえる癖は、前にも見た。欠けは弱点ではない。欠けは人の形だ。人の形が見えると、政治は静かに動く。

「来たか」

 短い声。凌は膝を折る。床の感触が、ほんのわずかに暖かい。暖かさは新しい。昨夜、ここで誰かが長く話していたのだろう。

「男妃は過ちだ」

 前置きなく、太后は言った。
 扇が一度だけ空を切り、香が揺れる。揺れに呼応して、帳がわずかに波打つ。言葉の刃が帳の縁をかすめ、音もなく落ちた。

 凌は反論しない。
 反論は、準備が整っていないときほど、相手の論の枝葉を増やす。枝葉は絡まる。絡まれば、森は濃くなる。濃くなった森で迷うのは、自分だ。

「……承りました」

 ただそれだけを言い、顔を上げない。
 沈黙は、言葉より大きい。太后は沈黙を長く扱う人だ。長く扱える人の前で、無用な言葉を増やせば、負ける。

 扇が閉じる音がした。
「過ちを正す方法は、ひとつ。男妃を“例外”に戻すこと。例外は消える。見た者の記憶から」

 凌は伏せたまま、呼吸を整える。
 例外。自分という存在を指しているのは明らかだ。
 けれど、その言葉の裏側――“例外を作る権限が太后にある”という自己確認の響きも、はっきり聞こえる。

(例外を、制度へ。制度を、広場へ。私は私を私一人にしない)

 胸の誓珠が脈のたびにわずかに鳴った。
 視線をわずかにずらす。太后の机上、香炉の隣に祈祷札の束。紙の角は使い込まれ、端に僅かな湿りが残る。祈祷の手は最近も動いている。

 束の上に、一枚だけ新しい札が伏せられていた。伏せられた札は、見てほしい札だ。完全に隠したいものは、机には出さない。
 札の端に、癖のある墨。名がある。
 〈岳祢(がくね)〉――民の間で“願掛け”を担う陰陽師の名。宮中公認ではない。だが、民の祈りは制度より速く動く。

 凌は名を目に焼き付け、顔を上げずに息をひとつ落とした。

「お顔を上げよ」

 太后が言う。
 凌は静かに従う。視線が重なる。太后の瞳は濃い。濃い色の水面に、自分の影が小さく吸い込まれた気がした。

「おまえは、言い返す口を持っている。その口は、陛下を強く見せるのに使いなさい。私を刺すのに使えば、おまえは長く持たない」

 太后はそこで微笑した。
「憎ませるのは嫌いではない。憎まれた母は、子の盾になる」

「……はい」

 凌は深く礼をし、その場を辞した。
 反論は、いずれ。
 今日の刃は、鞘で温めておく。

三 廊の影

 私室を出ると、回廊の風が少し冷たかった。沈香の匂いが衣の裾へまとわりつく。香は記憶に近い。忘れたいものほど、香りは残る。

 角を曲がった瞬間、風の音が一度途切れた。
 音の消失は、刃の予告だ。
 凌の身体より先に、誓珠が細く鳴る。
 視界の端で影が跳ね、白木の柱に黒が走った。

 刃の光。
 時間が伸びる。
 伸びた時間の中で、凌は袖を翻して身を浅く引いた。刃は風を裂き、衣の端を冷たく撫でる。
 すぐに、金属の音。燕青の刀が横から差し込み、剣筋を弾いた。

「下がって」

 燕青の声は乾いている。乾いているのは恐怖ではない。濡れない刃は、斬ったあとで錆びにくい。

 影は二。屋根の破風からの一、欄干の陰からの一。二つは互いの間合いを測り合う癖がある。癖は隙だ。燕青はその隙を知っている。
 ひとつの刃を受け流し、もう一方の手首を切り落とす角度で踏み込む――が、相手は躱しが早い。燕青が刃の目を変え、踵を返す。
 足音、布の擦れる音、短い呻き。
 二度、金属が鳴り、次の瞬間には親衛の影が廊を満たしていた。景焔の親衛は、命令がなくても囲う。囲ってから命令を待つ。囲い終えた輪は、獣道を塞ぐ。

「陛下に!」

 親衛の声が飛ぶ。
 刹那、凌の前に影が差した。景焔が、そこにいた。
 速い。帝は速い。帝という言葉の前に、人が立っているのだと毎度思う。

 景焔の目は静かだ。静かだが、底が熱い。熱は怒りを、静けさは剣を呼ぶ。

「――おまえに触れた手を、全部落とす」

 低く、硬い声音。廊の柱が震えた気がした。
 刺客はもう残っていない。燕青が追い、親衛が外を塞ぎ、風だけが通っている。
 凌は景焔を見上げ、頭を横に振った。

「復讐ではなく、構造を終わらせてください」

 その一言で、景焔の肩がわずかに止まる。
 止まった肩に、言葉を置く。

「手を落とせば、次の手が生えます。腕を落とせば、胴が育ちます。……“腕が生える土”を枯らしてください。香と銀と帳、そして“例外に戻したい願い”。土の成分を、制度で変えるべきです」

 景焔はしばし凌の瞳を見つめ、やがて息をふたつだけ吐いた。怒りの温度が、皮膚の表面から内側へ沈む。沈んだ怒りは、燃料になる。

「親衛。外を洗え。捕える手は捕えよ。だが、落とすな。……記録せよ」

 命が流れ、輪が走る。
 燕青が戻ってきて、「逃がしました」と短く報告した。
 逃がした、ではない。逃がした、と言う。追えば落とせたろうに。燕青が刃を収めたのは、景焔の“記録せよ”の一音を読み、将来の“証”のために“生きた線”を残したからだ。

 景焔は凌の袖の裂け目に目を落とし、指でそっと撫でた。指の腹が震えている。
 震えは、恐怖のせいではない。間に合わなかったかもしれない、という“もし”の熱。帝は速いのに、人はいつも間に合わない未来に怯える。

「……悪い」

 景焔が低く呟く。
 謝る帝は、帝という形に人を閉じ込めない。閉じ込めない器は、長く持つ。

「悪くありません。――狙いは私です」

 凌は微笑んだ。笑いは小さいほど効く。
 景焔の眉間の硬さがほんの少し溶け、親衛が目だけで安堵を漏らす。

「太后さまの私室からの帰り。香の風道は読みやすい。……それでも、いまは“落とさない”。ありがとうございます」

 景焔は頷き、凌の手を取った。そのまま、ほんの一瞬だけ掌を合わせる。誓珠がふたりの間で小さく鳴り、音は衣の中でほどけて消えた。

四 祈祷札の名

 寝殿へ戻る途中、凌は足を緩めずに燕青へ呟く。

「祈祷札に〈岳祢〉の名。民間の陰陽師。宮の外です」

「宮の外の名を、太后さまが机に?」

「伏せてありました。伏せは“見せたい”の亜種。見せてほしいものは堂々と置く。見せたくないものは引き出しへ。伏せは、わざとらしい“忘れもの”です」

「釣り針、ですね」

「ええ。こちらが網を張る前に、向こうが“針”を垂らしている。……だから、針に鱗だけ落として返す」

 燕青は短く頷いた。
「鱗は?」

「香炉の縁に残った銀粉。井戸の刻印。“銀工組合”の下働き。……そして、あの名。組み合わせれば、“太后の祈りを利用する者”の絵が描ける」

「太后さまが利用される?」

「母は国の最大の象徴です。象徴は祈りを集める。祈りは金に変わり、金は網になる。網を持つ者は、いつでも海の名前を変えられる」

「……難しい」

「私も難しい。だから、紙に変えます」

 凌は笑い、誓珠に触れた。玉は静かだ。静かな玉は、重さだけを残して意見しない。意見しない石は、良い証人になる。

五 夜の縁(へり)

 夜。景焔は会議を短く切り上げ、禁裏へ戻った。
 寝殿の灯は少なく、床の上には薄い影が縞を作っている。
 凌は机の上に紙を広げ、祈祷の系図を書いていた。祈りが誰から誰へ渡り、どこで金に変わり、どの香炉に焚かれ、どの宦官が香を運び、どの女官が袖に匂いを移したか――可能性の線をすべて引き、最後に“穴”を丸で囲む。穴は空白。空白は獣道。獣道があるなら、獣は通る。

 景焔が入ってきて、黙って紙の向かいへ座る。
 黙る帝は、誰より雄弁だ。沈黙に対話の椅子を用意できる人間は少ない。

「復讐ではなく、構造を終わらせろと言ったな」

「はい」

「構造は見えるか」

「輪郭は。――香、銀、帳、祈り、例外への欲。……その中心に、人がひとり」

「誰だ」

 凌は首を振った。「まだ“癖”だけです。名前は、癖が紙に変わってから」

 景焔は頷き、少しの間黙ってから、寝台に視線を落とした。
「……今夜は、ここで休め」

 凌は筆を置き、少しだけ迷った。
 迷いは、恋と政治の境目にできる。境目は曖昧でいい。曖昧なところにしか、互いの弱さは置けない。

「床入りは――」

「しない」

 景焔は先に言った。「おまえの言ったとおり、“公”を先に、だ。だが今夜だけは……隣にいろ」

 声に、疲れが混じる。混じった疲れを晒すことができるのは、戦っている証拠だ。
 凌は静かに頷いた。

「では、誓珠だけ――」

「握れ」

 景焔は寝台に腰を下ろし、凌に向かって手を差し出す。
 凌は恐る恐る、しかし最後は確かにその手を取った。誓珠の玉をふたりの掌の間に置く。
 玉は冷たく、やわらかい。やわらかく感じるのは、掌の温度が上がっているからだ。温度は嘘をつかない。

 寝台に横たわる。天蓋の布が夜をやわらげ、風は微かに通る。
 しばらく、何も話さない。
 言葉を使わない時間は、関係を深くする。
 静寂の中に、ふたりの呼吸だけが交互に重なり、離れてはまた重なる。

「……男妃は過ちだと、太后は言った」

 先に口を開いたのは凌だった。
 景焔は、すぐに答えない。答えない沈黙は、同意でも否定でもない――「聞いている」の合図。

「私は“過ち”のままでは終わりません。例外で始まったものを、規格へ。規格を制度へ。制度を、広場へ」

「広場へ」

「はい。民の目の高さへ。誓珠の掛け替えは、その最初の一歩でした。次は“香の公開”。香は目に見えません。だから香炉の底へ印を映す鏡を置く。香に名前を与える。……名がつけば、香は怖くない」

 景焔の肩が、やわらいだ。
「名を与えるのが、おまえの得意だな」

「陛下の孤独にも、名が欲しい」

 凌は半分冗談の調子で言い、半分は本気だった。
 景焔は短く笑い、反対の手で凌の髪を撫でる。撫でる手は大きい。大きい手で触れられると、恐れよりも安堵が先に来る。

「孤独には、名がないほうが、たぶんいい」

「……そうですか」

「名があると、呼ばれる。呼ばれると、そこに来る。来ると、居座る」

「なるほど」

 凌は目を閉じた。
 掌の玉が、ふたりの間でほんの少し転がる。
 転がった先で、景焔の指先が玉を押さえる。
 押さえられた玉は、呼吸に合わせて熱を取り、静かに冷めていく。

「凌」

「はい」

「――ありがとう」

 たったそれだけの言葉は、帝が言うと、重くも軽くもなる。
 重さは責務、軽さは許し。
 凌はうなずき、玉を握り直した。

 夜の深さが一段静かになる。
 外では、親衛が交代の足音を一度だけ立て、すぐに消す。
 燕青はどこかの廊で風を読んでいるだろう。風は裏切らない。裏切るのは、人と香だ。だから、香に名前を、裏切る人に役割を。役割があれば、人は裏切りにくい。

 まぶたの裏に、祈祷札の名が浮かぶ。〈岳祢〉。
 民の祈りは速い。
 速い祈りを、遅い制度のほうへ繋ぐ橋。橋は誰が架けた?
 香の商いの銀工。太后の側の老官はもういない。宰相家の“橋”は昨日、刃の挨拶を受けた。
 残るのは――“私を知っている距離の誰か”。
 その誰かに、明日、もうひとつの“針”を垂れてやろう。

 凌は、眠る直前にもう一度だけ玉を握り、脈を数えた。
 脈はふたり分。
 ふたり分の呼吸が揃って、夜は、ようやく夜らしくなった。

六 翌朝の光

 鳥が一声鳴き、夜が解けていく。
 凌は目を開けた。景焔はすでに起き、床几で外套を羽織っている。目の下に僅かな影――それでも顔は澄んでいる。澄む顔は、負けない。

「朝餉はここで取る。女官に言ってある」

「ありがとうございます」

 凌が起き上がると、隣に置かれた誓珠がころりと転がり、衣の上に小さく音を立てた。拾い上げると、玉の中の銀砂が朝の光で細く揺れる。
 景焔がその音に目をやり、ふと視線を戻した。

「香の公開をやるのだろう」

「はい。香炉の底に鏡を置きます。映った刻印は、紙に写せます。写した紙は、広場の板に貼る。――“今日の香”の名と道を」

「よい」

 景焔は短く言い、立ち上がった。
「“今日の香”を見に、民が集まる。集まれば、噂は減る。噂の減ったところに、祈りが落ちる。祈りは、穏やかなほうが旨い」

「陛下も、噂の少ない朝を」

「望む」

 景焔は一歩近づき、凌の額に軽く唇を触れさせた。
 触れたのは一瞬。
 一瞬で充分だ。充分なものは、少なくていい。

「行け」

「はい」

 凌は誓珠を胸に戻し、外套を整えた。
 扉を出ると、燕青が待っている。影は薄く、気配は深い。

「今朝は風が良い。香は“上へ逃げる”でしょう」

「なら、鏡は浅く斜めに」

「はい」

 ふたりで歩き出す。
 廊の向こう、学堂の板には昨日の学堂印を押した紙がいくつも貼られ、女官たちが指で示し合っている。
 証は誇り。
 誇りは連鎖する。
 連鎖の中に、毒は混ざりにくい。毒は孤独を好む。孤独に名前を。名のない孤独は、呼べないから居座る。

 今日の“針”は、祈祷札の名から垂らす。
 岳祢。
 香の商いの銀工。
 宰相家の橋。
 太后の“憎ませる盾”。
 そして、唯一妃という“過ち”。

 過ちは、修辞だ。
 修辞を制度に置き換えるのが、私の仕事だ。

 凌は朝の光へ踏み出し、紙を握り直した。
 握った紙は皺を刻む。皺は記録。記録は、人を裏切らない。
 裏切らないものを増やしてゆけば、裏切る余地は狭くなる。
 狭くなった場所で、黒幕は息が浅くなる。
 浅い息は、音になる。
 その音を、私は聞く。

 誓珠が胸の上でかすかに鳴った。
 鳴りは、納得の音にも、宣戦の音にも聞こえた。

 ――男妃は過ちだと、あなたは言った。
 ならば私は、過ちを練り直して“型”にする。
 型は、国の骨になる。
 骨の上で、人はまっすぐに眠れる。

 昨夜の眠りは浅かったけれど、今夜はきっと、少し深い。
 隣にある呼吸が、同じ速さで続く限り。
 私たちはきっと、歩ける。