一 古い日付

 朝の光は、油紙を透かして柔らかかった。
 内庫の帳場は窓が少なく、常に昼と夜の境目みたいな色をしている。
 凌はいつもどおり、机の上に穀倉帳簿を積み上げ、ページを一枚ずつめくっていた。

 穀倉帳簿は“国の胃袋”だ。
 どの村から、どれだけの穀が、どの道を通って宮へ入り、どれだけが兵糧として出ていったか。
 数字は、誰の言い訳よりも雄弁に語る。
 凌は筆致の癖、墨色の変化、紙の繊維の方向までを目で撫でていく。

(……やはり、ここだ)

 戦時名目の横流し。
 兵糧に回したと記された米俵の数が、実際の兵の動員数と合わない。
 動員数の台帳は軍務派の管轄、穀倉は内庫の管轄、二つの帳は常に少しだけズレる。その“少し”が、横流しの温床になる。

 凌はページを戻し、押印の欄を指で押さえた。
 印章は本物。印影は正規の朱の色をしている。
 だが、記された押印日――その“記し方”が古い。

 暦の書き方には癖がある。
 帝国では昨年、暦法の改定が行われた。月の数え方、閏の取り扱い、日付の表記。
 旧暦では「朔」「既望」の表記を併記し、新暦では数字のみ。
 帳簿の片隅には「朔」の字が、小さく、習慣のように記されている。
 “知らずに”書くには、あまりに自然すぎる旧い癖。

(改定後に押された印に、改定前の記載。……犯人は“暦”を知らない)

 暦を知らない、というのは、ただ無知という意味ではない。
 “今の宮廷で働く者の手ではない”、ということだ。
 改定は大ごとだった。役所の全ての人間に通達が出て、書式の見本が配られ、口酸っぱく指導があった。
 それなのに、旧い記法が自然に紙の上に滑り出る。
 なら、その手は――宮中の外。もしくは、宮にいても、長く筆を執っていない老いの手。

 凌は筆をとり、余白に小さく記した。
 〈印章・本物/押印日・旧記法/書手・外部 or 老官〉
 それから、紙の端を指の腹でなでる。繊維がわずかに毛羽立つ。
 毛羽立ち方は、湿度の記録に似ている。今日の湿り気は薄い。昨夜は風がよく通った。
 指が撫でたところに、ごく細い“針の跡”があった。紙を束ねるときに刺す針の跡。紙を束ね直した者がいる。束ね直しは、順番を入れ替えるときに使う姑息な技だ。

(範囲は狭い。押印の日付の書き手。紙束の針穴の位置。……このふたつで、首根っこは掴める)

 凌は巻物をまとめ、帳場の若い書記に指示を出した。

「この三ヶ月分の押印担当の名を、別紙に。紙束の紐をほどいた者の名も」

 若い書記はおびえたように頷く。
 凌は笑って肩に手を置いた。「怯えなくていい。犯人を見つけるのはあなたじゃない。犯人の“動線”を見せてくれるだけでいい」

 動線。
 人の通った道は、匂いと温度を持つ。
 匂いは香に、温度は汗に、汗は紙に、紙は数字に変わる。
 数字にしてしまえば、あとは“読む”だけだ。

二 暦法の罠

 昼、御前会議。
 広間には太后、宰相、軍務派の将、祭祀局の官、内庫の長官――顔ぶれはいつもどおりだが、空気の粒子がひとつ違った。
 凌は自分の場所に座し、景焔の一歩後ろに控える。誓珠は胸で冷たい。

 景焔が口火を切る。「内庫の帳を洗ったと聞く」
 凌は一礼し、簡潔に報告した。

「戦時名目の横流しの痕跡が複数見つかりました。押印は本物。しかし押印日が旧い記法のまま。暦法改定後の帳に旧記法が“自然に”紛れ込むことは、通常ありません」

 ざわ、と衣の擦れる音。
 太后の扇がわずかに止まり、宰相の眉が半分だけ上がる。
 軍務派の将は腕を組んだまま、目だけが細くなった。

「暦法は民の暮らしにも関わる。……改定は陛下が民学を尊ぶ証」
 凌はあえて言葉を重ねる。御前で、はっきりと。

 途端に、広間の温度がひとつ変わった。
 暦は人の習慣であり、祭の骨であり、農の刻みだ。
 その改定を「陛下の学の証」と言いきることは、つまり――その学に同心でない者を“古い”と切り捨てる宣言になる。

「暦の改定など、年寄りには難しいものよ」
 太后が扇の陰で笑う。
 凌は頭を下げた。「だからこそ、御前で申し上げました。今後“暦の講”を後宮でも開きたい。女官、宦官、年寄りも若い者も」

「講など……」宰相が鼻で笑い、言いかけて飲み込む。「まあ、好きにするがよい」

 景焔はうなずいた。「講は許す。明日からはじまれ」

「はっ」

 凌は膝を下げ、視線の端で人々の顔色を測った。
 講そのものは本題ではない。網だ。
 “暦を改定前のまま書く癖”を持つ者を、御前で炙り出すための網。
 御前で暦を話題にする。それだけで、暦に自信のない者の顔は動く。目線は、癖のある方へ逃げる。
 その目線の逃げ道に――ひとり、引っかかった者がいた。

 太后の側近の老官、賀梁(がりょう)。
 彼は一度も口を挟まず、ただ小さく笑っていた。笑い方が“旧い”。
 笑うとき、目を細める角度で年が出る。
 その目は、旧い暦で時を刻んできた目だ。
 それ自体は罪ではない。だが、帳に旧い記し方を紛れ込ませた“癖”は、罪の匂いを呼び寄せる。

(釣れた)

 凌は心の中で静かに糸を引いた。

三 亡霊の名

 会議が散じ、廊に人影が薄くなる。
 凌は燕青に目で合図を送り、内庫の長官に声をかけた。「今夜、内庫の別室で“暦の講”の準備をしたい。帳簿も持ち込みます」

 長官はうなずき、鍵を渡した。
 鍵は重い。重みは、責務の重さに似ている。責務を持つ者の指の温度は、鍵を通じてわかる。
 長官の指は温かい。温かい指は、嘘をつきにくい。

 夜、内庫の別室。
 凌は机を二つ並べ、片方に穀倉帳簿、片方に暦の見本書を置いた。
 そこへ、ほどなく賀梁が入ってきた。
 老官は猫背で、歩幅は小さい。が、畳の目を踏まない。畳の目を踏まず歩く人間は、昔の作法を身体に染み込ませている。

「妃殿下が“講”を開かれると聞きましてな。お手伝いできることがあれば」

 舌の回りは滑らかだ。老いてなお言葉はよく働く。
 凌は微笑み、机を指さした。

「では、これを。改定前と後の表記を、両方書いていただけますか」

 老官は筆を取り、書いた。
 旧記法は流れる。新記法は止まる。
 止まった筆先が、ごく僅かに紙をひっかいた。
 その音は、凌の耳にだけ聞こえるほど小さかった。

「……お見事です」
 凌は称え、あえて何も言わなかった。
 使うのは今ではない。
 老官の目は笑っている。
 笑っている目は、まだ死んでいない。死んでいない目に死の影が差すとき、最も濃い“黒”が現れる。

 その黒を、凌は見た。

 障子の外で、空気がひとつ――破れた。
 音にならない音。
 燕青の刃がその瞬間に動く。障子が裂け、影が入る。
 影は老官の背へ。
 凌が手を伸ばすよりも早く、風が血の匂いを運んだ。

「……っ」

 老官は崩れ落ちた。
 口元に、紅。
 燕青は影を追って外へ出る。足音は一瞬のち、遠くで途切れた。

 凌は老官の体を抱き起こし、耳を傾ける。
 残りの息は少ない。
 言葉は、それでも、しがみつくように唇から零れた。

「黒……幕……は……」
 舌が動きかけ、止まる。
 老官の目は凌を見ていない。
 最後に見ているのは、“旧い暦”。
 ずっと、そこにあった時間。

 凌は静かに目を閉じさせ、布をかけた。
 帳簿の亡霊は、ここでひとつ口を閉ざした。
 だが、亡霊は消えない。紙の上に残った筆圧、針穴、旧記法。
 それらは、老官の息が止んでも、動かずに“指さし続ける”。

四 見えない刃の所在

 燕青が戻ってきた。袖に血はなく、息は乱れていない。
「逃げ足が速い。狙いは“口封じ”だけ。私たちを殺す気は、はじめからない」

「私を“餌”にした」

 凌は低く言った。
 老官が網にかかることを、黒幕は読んでいた。
 だから、御前で暦法の話を出した瞬間から、口封じの動線は敷かれていたのだ。

「黒幕は“暦”を知らないだけでなく、“私”をよく知っている」

「距離が近い」
 燕青の声は淡々としていた。「後宮の内側にいる。外の者には、御前の空気の変化を読むことは難しい」

 凌は頷いた。
 そしてため息を一つ落とす。
 ため息は、弱さの印ではない。
 脳に新しい空気を入れるための呼吸だ。

「太后さまには?」
「伝える。……でも、言い方を間違えると、勝ちも負けもない場所へ落ちる」

 凌は内庫の鍵を返し、夜の廊を歩いた。
 廊は長く、灯は少ない。
 長い廊は、思考を深くする。
 考えごとに向いた廊。
 その廊の角に、女官長・蘭秀が立っていた。扇を閉じ、眼差しは静か。

「老官が、死にましたね」

 蘭秀の声は、驚きと悲しみと諦めのすべてから距離を置いていた。
 凌は足を止め、うなずいた。

「口封じです。黒幕は、私が『暦』を話題にするのを知っていた」

「知っていた者は多い」
 蘭秀は短く答え、扇で廊の向こうを指す。「太后さまにお目にかかりましょう。言葉を選ぶ必要があります」

五 太后の間にて

 太后の私室は沈香の匂いが濃かった。
 香が濃いのは、隠すものが多いときだ。
 太后は凌を見るなり、扇をやや持ち上げた。

「講はどうだった」

「始める前に、ひとり死にました。太后さまの側近の賀梁です」

 太后の扇が止まる。
 止まった扇の骨が、ひとつ欠けている。
 欠けたところを、太后は自分の親指で押さえた。癖だ。
 癖は、心の動きを紙より早く示す。

「口封じ、ね」
 太后は息を吐いた。「誰が」

「“宰相派”と答えれば簡単です。でも、簡単な答えほど危険。……太后さま。私を餌にして動く者がいます。御前で暦を話に出した瞬間から、動いていた」

「ならば、餌になったおまえが悪いのか?」

 刺す言い方。
 凌は首を振らない。
 否定で返せば、ふたりで落ちる。
 太后は母であり、政治であり、後宮の空気そのものだ。
 その空気に刃を向ければ、風が止まる。

「餌になるしかない日もあります。……でも、餌の仕込みを工夫すれば、釣れる魚が変わる」

 太后は扇を閉じ、短く笑った。「工夫してみせなさい」

 凌は膝をつき、低く告げた。

「“暦の講”を、本当にやります。御前で、女官も、宦官も、官たちも、全員同じ紙に、同じ日に、同じ書式で日付を書く。……その場で、押印の手も見せてもらう」

「晒し首か」
 太后の目が笑う。「好きよ、そういうやり方。だが、誰も来ないのでは?」

「来ない者は、記録します。来た者は、紙を持ち帰れるようにします。勉強した“証”を持ち帰れるように。証は誇りになります」

 太后はきびすを返し、軽くうなずいた。「よい。やってみせなさい」

 部屋を辞すとき、太后がふと呼び止めた。

「凌。……勝つことばかりが愛ではない。だが、負けが続けば、愛は立てない。おまえが立て」

 凌は深く礼をした。
 扉の外で、燕青が短く目だけで笑った。
 笑いは、小さいほど効く。
 効く笑いは、人を歩かせる。

六 筆と秤

 翌日、“暦の講”が開かれた。
 会場は御前に隣接する広い学堂。
 机が並び、紙と筆と見本帳、砂時計、そして秤。
 秤は余計かもしれない。けれど、凌は置いた。
 “重さ”が目の前にあると、人は嘘をつきにくい。

 女官たちが最初に入ってきた。
 続いて宦官、若い官吏、年老いた書記。
 軍務派の兵が壁際に立ち、宰相派の文官は遅れてやって来る。
 太后の姿はない。だが香が、遠くからゆっくりと漂ってきた。
 香は見えない目だ。
 見えない目に、凌は紙で目を返す。

「本日は“暦の講”です」
 凌は高座に立ち、声を張った。
 張った声は、すぐに柔らかい高さへ落とす。
 硬い声は、硬い耳にしか届かない。

「今年、暦は改まりました。朔の字は記さず、数字を明確に。
 今日の課題は三つ。
 一、今日の日付を“新暦の書式で”。
 二、三ヶ月前のこの日を“新暦の書式で”。
 三、押印の所作を“公開で”。」

 ざわ、と波。
 書は手に染みつく癖が出る。
 公開の押印。震える者は震える。
 その震えが、秤の皿の上に落ちる――紙が震えれば砂が揺れ、砂が揺れれば皿の針が微かに踊る。
 踊る針は、人目を牽く。牽かれた目は、隠せない。

 最初に躓いたのは、中堅の宦官だった。
 新暦で三ヶ月前を書く際、旧い「既望」の字を余白に小さく添えた。
 凌は咎めない。
 ただ、紙の端に小さな印を押す。学堂印――講を受けた証。
 証は、人に小さな誇りを与える。
 誇りがあれば、人は次も来る。

 二人目、女官。
 新暦で今日を書き、三ヶ月前も書き、押印の所作は美しい。
 だが、押印の前に筆を“旧式の位置”に戻した。
 旧い式では紙の左へ。新しい式では紙の上へ。
 癖は動作に出る。
 凌は微笑み、小さな印を押し、目だけで燕青に合図した。

 そして――
 宰相派の文官が、列の最後にゆっくりと現れた。
 背筋は伸び、足音は正確。
 紙に日付を書き、押印の所作は完璧。
 完璧すぎる。
 完璧すぎる者は、いつもわずかに“過去”を知らない。
 新しい所作を“完璧に”なぞることはできても、旧い所作が“身体”にない。
 ゆえに、旧記法を“自然に”紛れ込ませることができない。

(おまえは帳をいじっていない。……いじったのは“身体に旧い暦が残っている者”)

 釣り針は、想定より静かに沈んだ。
 そして、別のところで――小さく揺れた。

 列の途中、年老いた女官が押印の所作で手を震わせ、印の縁をわずかに外した。
 外した縁に、銀の粉がひかる。
 銀は香の煤を拾い、香は儀式の間を漂う。
 儀は太后の間から御前へ、御前から内庫へ流れ――銀は印の縁に、習慣のように残る。

「……よろしい」
 凌は声を落とし、印の前に秤を置いた。
「重さは正確です。正確であることは、かっこいい」

 女官たちが笑い、宦官が肩の力を抜いた。
 笑いが落ち着いたとき、凌は静かに言った。

「今夜、この講の続きとして、帳簿の写しを開きます。
 戦時名目の横流しの“亡霊”を、お見せする」

七 亡霊を照らす

 夜。学堂に再び灯がともり、紙の音だけが響く。
 凌は机の上に、改ざんされた帳簿の写しを広げた。
 余白に打った×印、針穴の位置、押印日の旧記法――すべてが、光の下でくっきりと浮かび上がる。

「これは“贋作”ではありません。印は本物。……本物の印を、嘘の上に押した帳、です」

 集まった顔ぶれは昼と違った。
 女官長・蘭秀、内庫の長官、軍務派の将。
 宰相派からは誰もいない。
 太后は来ない。香も来ない。
 代わりに、風が静かに流れていた。

「旧記法が紛れました。
 これは“無知”の証ではない。
 “身体に旧い暦が残っている者の手”が、この帳に触れた証」

 凌はページをめくり、押印日の欄を示した。
 「既望」の字が、押印欄の脇に針でつつくように小さく刻まれている。
 紙に書かれた文字ではない。
 指が緊張したとき、癖で爪が紙を押した跡。
 その跡は、“誰の習慣か”までを語らない。だが、“どんな習慣か”は語る。

「太后の側近・賀梁は、旧い暦の人でした。
 彼は今日、口を封じられました。
 賀梁は黒幕ではない。黒幕を“知る人間”でした」

 軍務派の将が低く唸った。「黒幕は“内”にいる」
「ええ。……それも、私の“網”を知っている距離に」

 蘭秀の扇が、音もなく動いた。「妃殿下。網を張ると魚は寄る。寄った魚が小さければ、網を広げる。寄った魚が大きければ、網を破られる」

「破られない網を張る方法は?」
「網を網と気づかせないこと。……籠の形に見せないこと」

 凌は笑い、「勉強になります」と頭を下げた。
 蘭秀は扇で学堂の外を指す。「今夜はここまで。明日は“香”を切る」

「香を?」

「香は太后さまの武器。だが、武器は使い方しだいで自分も傷つける。……あなたは香を使わない。あなたの武器は紙で、秤で、笑いだ」

 笑い、と蘭秀は小さく真似をした。
 その笑いは、疲れの底でかすかに光る。

八 帝の前で

 学堂を閉じ、禁裏に戻る。
 景焔は高座にひとり座し、夜の風を聞いていた。
 凌が膝を折ると、景焔は目だけで「話せ」と言った。

「帳に“旧い暦の手”が入っていました。太后側近の老官が、御前の昼のあとに口封じを受けました。……私を餌にして魚を寄せるのは、成功です。だが、餌そのものが喰われはじめています」

 景焔は黙って聞き、やがて短く頷いた。

「おまえは、餌であり続けられるか」

「続けます。……ただし、餌の“味”を変えます」

「味?」

「紙と秤の味にします。
 疑いも怒りも、数字に変換し続ける。
 “暦の講”は明日も続ける。押印の所作はさらに公開する。
 逃げる者は記録し、残る者は誇りを与える」

 景焔は微かに微笑んだ。「誇りを与える餌は、旨い」
「餌が旨ければ、魚は離れません。……ただ、釣り上げる瞬間、糸が切れないように」

 景焔は席を立ち、凌の前に来ると、静かに一礼した。
 帝が妃に頭を下げる所作は、世が見れば驚く。
 だが、ここには世はない。ただ、人と人の距離があるだけだ。

「おまえの判断だけは、疑わない」
 景焔は繰り返し、凌の指先に口づけた。
 その熱は、夜の冷えに溶けて、誓珠の内側で小さく鳴った。

九 亡霊の行き先

 翌日、“暦の講”の二日目。
 前日よりも多くの者が集まった。
 紙の端に学堂印が押されている女官が、宦官の友を連れてきた。
 友は、紙を胸に抱いて言う。「これ、家に見せたい」
 証は誇り、誇りは連鎖する。

 その輪の隅に、見慣れない影が一つ。
 銀工組合の若い職人だ。
 宮の修繕に呼ばれていると称し、ふらりと顔を出した。
 凌は目で合図し、紙を渡す。
 若い職人は、躊躇いもなく新暦を書いた。
 手が早い。
 慣れている。
 だが、押印の所作の前に、筆を紙の左ではなく“上”に戻した。
 それは新式の所作だ。
 彼の“身体”には、旧い暦がない。
 なら――彼は帳をいじる“手”ではない。
 ただ、“銀の粉”を印に残す側だ。

 講のあと、凌は職人を呼び止めた。「どこで働いている」
「銀工組合の蔵です。井戸の修繕もしました」
「香炉の底も?」
「底を磨くのは、別の班です。私は縁を打つ仕事で」

 縁。
 印の縁に残った銀粉。
 香炉の縁、印の縁、紙の縁。
 縁を打つ者は、縁を汚す者でもある。

「蔵の帳は、誰がつけている」
「字の上手い爺さんが。……あ、でも最近は、目が悪いって。若い女官に書かせることが増えました」

 若い女官。
 昨日、押印の前に筆を“旧式の位置”に戻した女官。
 彼女の袖に、銀の粉。
 彼女は黒幕か。
 違う。
 “使われた手”だ。

 凌は微笑み、職人の肩を軽く叩いた。「講に来てくれてありがとう」

 学堂から外へ出ると、燕青が短く報告した。「宰相派の文官、昨夜から屋敷に籠っています。動きません。動かないのは、動きたいからです」

「動かない者は、見やすい」
「ええ。……見えすぎて、逆に見失います」

 凌は笑った。「では、見失ったふりをしましょう」

十 網の撓み

 夕刻。
 凌はわざとらしく忙しさを装い、御前と学堂と内庫を行き来した。
 行き来の途中、帳場の若い書記に大声で尋ねる。「明日の講の紙は足りるか!」
 書記が慌てて走り、女官たちが紙を抱えて走る。
 御前の廊で、宰相派の若党が立ち止まって道を空ける。
 景焔の近侍が眉をひそめ、軍務派の兵が目だけで笑う。
 網は、撓む。
 撓んだ網は、掬い上げるときに力を溜める。

 夜、内庫の別室。
 凌は机の上に、三冊の帳を並べた。
 一冊目――“本当の本”。
 二冊目――“改ざんされた本”。
 三冊目――“誰かが慌てて戻した本”。
 それぞれの押印の位置、針穴、日付の書き方、紙の匂い。
 匂いは油で、油は灯で、灯は夜の長さで、夜の長さは“不安の長さ”で決まる。

 扉が開き、宰相家の文官が入ってきた。
 彼の歩幅は一定、呼吸は浅い。
 浅い呼吸は、短い夜の印。
 短い夜は、不安の長さが短い。
 不安の短い者は、早く終わらせたい。
 早く終わらせたい者は、最後に“雑な一手”を打つ。

「妃殿下。帳のことでお話が」
「どうぞ」

 文官は机の帳に目を落とし、わざと一冊目から七割目を開いた。
 その“わざとらしさ”は、彼が騙しに慣れていない証拠だ。
 慣れている者は、もっと自然に“偶然”を作る。

「戦時の横流しなど、あり得ません。軍務の記録と照らし合わせても、ほら、この通り――」
 指が走り、押印欄に触れかけて止まる。
 止めたのは理性ではない。
 乾いた銀粉が、彼の指先でわずかに光った。
 彼の指は“印の縁”に何度も触れている。
 触れる指は、銀を覚える。

「指に、銀が」

 凌の声は静かだった。
 文官はわずかに肩を強張らせ、すぐに笑った。「銀は、どこにでも」

「香炉の縁にも、井戸の補修にも、印の縁にも」
 凌は微笑み、三冊目の帳をゆっくりと彼の前へ押しやった。
 彼は反射的に手を伸ばし、押印欄の隣を押さえた。
 爪が紙を押し、爪の跡が“既望”の位置に刻まれる。
 彼の身体に旧い暦はない。
 けれど、彼の“まわり”にはある。
 ――彼は、旧い暦の手に“印を押させていた”。

「あなたが黒幕ではないことは、わかっています」
 凌は目を細めた。「あなたは“橋”です。旧い暦の手と、新しい帳の間の」

 文官の笑みが、固まった。
 固まった笑みは、崩れる。
 崩れる直前が、一番よく喋る。

「……妃殿下。私は、命じられただけです」

「誰に」

「それは――」
 言葉は、そこまでだった。
 障子の外で、空気がまた破れた。
 燕青の刃が走り、影が柱に張りつき、次の瞬間には消える。
 文官の首筋に、赤い点がひとつ。
 点は線にならず、広がらず、ただ――警告のように止まった。

「……見ています、という挨拶だ」

 燕青が低く言った。
 凌は頷き、文官の肩に布をかけた。「あなたはここから動かないで。軍務派を呼びます。……生きて“証言”を」

 証言は、紙より弱い。
 だが、紙に変換すれば、紙の強さを持つ。
 凌は内庫の長官を呼び、軍務派の将を呼び、御前に知らせ、太后には知らせなかった。
 太后に知らせるのは、いつも最後でいい。
 太后は知っている。
 知っていないふりをしていることを、凌は知っている。

十一 亡霊の居場所

 夜更け。
 学堂でひとり、凌は帳を閉じた。
 紙の上で動いていた亡霊は、いま、場所を持った。
 「橋」としての文官、印の縁の銀、旧い暦の癖。
 黒幕はまだ顔を見せない。
 顔を見せない者は、顔より先に“癖”を見せる。
 癖は、網にかかる。

 誓珠が胸で冷たく鳴った。
 凌はそれを手で包む。
 包んだ手の中で、玉の内側の銀砂が、微かに光ったように見えた。

「――私は、餌であり続ける」
 誰に聞かせるでもなく呟いて、凌は灯を消した。
 暗闇は怖くない。
 怖いのは、暗闇の中にいる“自分の影”だ。
 自分の影は、自分の足を掬う。
 掬われないためには、足場を数える。
 数字は、足場だ。
 足場を数え、重さを測り、笑いをひとつ置く。
 それが、唯一妃の“夜”。

十二 朝の光、帝の影

 明け方、景焔は早く起きていた。
 庭の砂に足跡を残し、剣を軽く振り、汗を拭ったあと、寝殿の戸口で立ち止まる。
 凌が起きてくる。
 眠りは浅そうだが、目は澄んでいる。
 景焔は何も言わず、凌の髪に触れた。
 触れた手は、短い間だけ震える。
 震える手は、見せることができる相手にだけ震える。

「黒幕は、まだ見えない」
 凌が言う。
「見えないほうが、長く生きる」
 景焔は淡々と答えた。「だが、おまえは長く生きろ。生きて、見えるままにしておけ」

「生きて、見えるままに」

 凌は繰り返し、微笑んだ。
 微笑みは、硬い朝に柔らかい影を落とす。
 影は、形を見せる。
 形は、規格を呼ぶ。
 規格は、国家になる。

 帳簿の亡霊は、今日も紙の上で指を差す。
 指の先にあるのは、旧い癖、新しい所作、銀の縁。
 そこに、名前が刻まれるまで。
 凌は網を張り続ける。

 そして、己が“餌”であるという危うさを、忘れない。
 餌は甘いほど狙われる。
 甘い餌にわざと“苦味”を混ぜ、獣の舌を鈍らせる。
 苦味は数字、苦味は秤、苦味は公開。
 公開は、闇の値段を上げる。
 値段が上がれば、そう易々とは闇は動かない。

 朝の光は、油紙を透かして今日も柔らかかった。
 柔らかい光の下で、凌はまた紙を開く。
 亡霊は紙に住み、紙の外で人を動かす。
 動かされる前に、動かす。
 それが、唯一妃の“政”。