一 宴のはじまり

 宰相邸の大広間は、艶のある翡翠の床と、金箔を押した梁で飾られていた。
 この夜は「外敵に屈せず国威を示した宴」と名がついていたが、誰もが心の底で別の名で呼んでいる――“唯一妃のお披露目に見せかけた圧力”。
 盃の数は、力の数だ。盆に並ぶ杯は、主ごとに微妙に形が異なる。口縁が薄いもの、重いもの、脚が高いもの。凌は一歩引いた位置から、卓の配置と運ばれる順を目で追い、頭の内の碁盤に駒を置いていく。

 景焔は座の中央。宰相は一段下がったところで笑っている。笑みの角が少し固い。太后派の老臣は表情を石にして黙って酒を見つめ、軍務派の武は腕を組んで壁際の風を見ている。

(風向きは南西。扇がひとつ、卓の陰で逆回りに振られている……)

 凌は緩やかに視線を移動させた。青磁の瓶の口が、不自然に布で覆われている。布の端に、細い白い粉の滲み。粉は甘い香に擬態する。だが香は帯、粉は点だ。光の角度で判る。
 奏でられる秦琴の音が短く途切れ、舞姫の袖がひるがえった。空気が一度だけ波立ち、盃の縁へ白粉が一片――

 凌は卓の端に置かれていた朱の箸をすくい、袖で盃を覆って倒した。
 次の呼吸で景焔が立ち上がる。目に見えない刃の音が広間を駆けた。

「軍務派、廊を塞げ。出入口、屋根裏、屏風の裏――全て」
 命が飛ぶ。親衛が床を蹴り、廊の火が一斉に低くなった。皿が鳴り、誰かの笑いが凍る。宰相は笑顔の形のまま口角の温度だけを二度変えた。

 転がった盃の中で、酒は皿にこぼれ、白粉は溶けなかった。溶けない粉――温で促進、冷で停滞。毒の多くは温で速まるが、溶けないのは“媒介”が別にあるということだ。
 凌は目で台所の係に合図し、盃を布で包ませた。舞が終わり、楽が途切れ、誰もが呼吸の回数を数えている。

「騒ぐな」
 景焔の一声で厅の音が落ちる。
 その直後、廊から二人引き立てられてきた。宰相家の若党と、その同輩だ。若党の一人は青ざめ、片方は妙に目が据わり、汗の粒が丸い。

「陛下、屋根裏からこの者を」
 軍務派の将が言う。若党は膝をつき、「わ、私が……」と口走る。あまりにも早い。用意された言葉は早い。早すぎる告白は、価値が低い。

 凌は若党の手元を見た。指の腹に粉の白い線が残っている――が、指の付け根には粉の“陰”がない。粉を落として拭った者特有の欠けがない。
(触ったのは事後。触らされた、と見るべき)

 景焔の視線が凌へ問う。凌は小さく首を振るだけで、言葉は飲み込んだ。ここで言えば、場は宰相の手柄に化ける。いま必要なのは、騒ぎではなく、動線の固定だ。

「宴は続ける」
 景焔は座へ戻り、盃を掲げた。
 宰相は焦ったように盃を上げ、太后派の老臣はさらに石の色を増した。

二 宵のほころび

 宴が散じると、邸は急に音を失った。人の流れは一方向に見えて、実際には渦を巻く。出入口を塞いだ軍務派の足取りに迷いはなく、それがむしろ、宰相家の長年の訓練の緻密さを示していた。
 凌は燕青と共に屏風の裏、花器の影、扇の骨を見て回る。白粉の粒はどこにも残っていない。
 代わりに、凌は香炉の下の煤にごく僅かな銀の反射を見つけた。銀粉。――銀工組合。井戸を補修した職人の印と同じ匂いだ。

「香で目を曇らせ、粉で儀を汚し、銀で流れを繋ぐ」
 凌は独り言のように呟く。
 燕青が短く頷いた。「矢は、形を変えます」

「若党は囮だ。……指の陰がない」
「ええ。『罪を着る』手当を受けた手だ」

 宰相家の廊下は、遠目には静かだが、耳を澄ませば畳の下で雨が流れているような音がした。人の焦りの音だ。
 凌は、宰相の書院へ向かう角で立ち止まる。行かない。行けば、そこに“待っている話”に捕まる。いま欲しいのは話ではなく、数字だ。

「納入の帳場に寄ります」
 燕青にだけ告げ、凌は裏手へ回った。蔵の札の並び、盆の重さ、持ち手の汗の跡――数字に変わる手触りは、いつだってそこにある。

 帳場の灯の油は新しく、夜の中にわずかに柑橘の香りが混じる。油の出荷元が変わった印。香は嘘をつく、油はつきにくい。
 帳面を開けば、直前の三日だけ、筆致が別人。四の字の尾が短く、七の縦線が深い。しかも記載時刻が“宴の最中”。宰相家の文官は、宴の間に帳場へ降りるのか――降りる。降りる理由があるからだ。

 凌は筆をとり、余白に小さな×を打った。焼けば消える。だが焼いた痕は残る。×の煤は、証言より強い。

三 薄氷の上の宣言

 宰相は最後に残り、景焔と二人で廊を歩いていた。凌と燕青は距離を取り、影となる。
 宰相は殊勝な声音で言う。「陛下、若い者の暴走。厳罰に処します。陛下の威儀を損なった罪は重い」

「暴走か」
 景焔は足を止めない。「暴走は群れない」

 宰相の指先がわずかに固まる。凌は見ている。指に巻かれた布の端が、甘い香を吸って色を滲ませている。
 宰相は笑みの形を整え直し、膝を折って見せた。「以後はこの宰相、命を賭して」

「命を賭す前に、帳を正せ」
 景焔の声は静かで、冷たい。刀身が布の上を滑るときの音に似ている。
 宰相は「はっ」と頭を垂れ、去っていった。去る背中に、家の長さと、傾きと、こぼれた砂の音が見えた。

 庭に出ると、夜風が花の匂いを薄めていく。
 景焔は歩みを緩め、ふと、凌へ視線を寄越した。

「……見えたか」

「はい。見えたのは“囮の形”です。本体は、まだ風の中に」

「よい」
 それだけ言って、景焔は前を向いた。
 その「よい」の重さを、凌は喉の誓珠に受け止めた。冷たさが胸の内側に染み込むほど、確かな重みだった。

四 捕縛と“早すぎる犯人”

 宵のうちに捕まった若党は、軍務派の詰所で取り調べを受けた。
 凌は廊に控え、扉の隙から影だけを見た。
 若党は最初から「私です」と言った。二度言い、三度言い、涙は出ない。涙腺には水があるのに、命令に従うと涙は出にくい。命令は、涙の筋を塞ぐ。

 軍務派の将が出てきて首を横に振る。「自白は取れた。だが、浅い」

「深くするには?」
 凌の問いに、将は肩をすくめた。「斬れば深まる。だが陛下は斬れとは仰せではない」

「斬らないほうが、深い跡が残ることもあります」
「ほう」

 凌は将と視線を交わす。将の目は、刃の端を磨いてきた目だ。
 凌は言葉を選び、小さく続ける。

「明日、厨房に“遅効性毒の検知”を入れます。匙では測れない遅効は、杯の順番と温度で現れます。宰相家の若党の手が杯に触れたなら、温度の跡が盆に残る」

「温度の跡?」
「汗です。人は嘘を吐くとき、手が冷えます。冷えた手で触れた杯は、温酒に乗せても温まりにくい。盆の裏に、冷の輪が残る」

 将は唇の端だけで笑った。「面白い。やってみろ」

 凌は一礼し、詰所を離れた。
 廊下の先、燕青が壁の影に立っている。
「殴らずに済むなら、それに越したことはありません」
 燕青の声は淡い。「殴らずに済ませるために、殴れる者が必要です」
「あなたが、殴れる者です」
「あなたが、殴らない者です」

 ふたりの会話は短く、もつれない。それがいちばんの武器だと、凌は思った。

五 夜の帳、帝の孤独

 夜半を過ぎて、禁裏へ戻る。
 寝殿の灯は少なく、景焔は外套のまま床几に腰をかけていた。外套の裾に、宴の砂が一粒、光っている。落とせば消える粒を、わざと残しているように見えた。

 凌が近づくと、景焔は目だけを動かした。「眠れ」

「その前に、ひとつだけ」
 凌は膝を折り、目線を合わせた。「陛下は――誰も信じていない」

 景焔の眼の奥の光が、わずかに動いた。怒りではない。警戒でもない。もっと、深い場所で動くもの。
 凌は続ける。

「信じれば、殺される。そう教え込まれてここまで来られた。太后さまも、宰相も、軍務も、礼も……すべて、陛下から“奪う手”として見える」

「見えている」
 景焔は低く答えた。「奪う手は、見えている。だが、見えていることを知られれば、次は“奪うふりをしない手”が伸びる。……我は、見ることしかできぬ」

「見て、選べます」
 凌は誓珠を指で押さえた。「私は“席”ではありません。制度です。陛下が“信じない”と決めたうえで、唯一、陛下の判断だけは疑わない者として置けばいい。私は、疑う代わりに計算します。疑いを数字に変えます」

 景焔は視線を落とし、凌の指を掴んだ。指先に口づける。
 その仕草は不意を突くほど静かで、熱があった。

「おまえの判断だけは、疑わない」
 言葉は、約束の形をしていた。
 凌の胸の奥に、固いものが落ちた。それは恋の音であると同時に、責務の音だった。

「床入りは――」
 景焔が言いかける。凌は首を振った。

「“公”を先に。私を後へ」
 景焔は頷き、指を離した。
「明日、公開の儀だ。おまえの案でいこう」

 寝殿の外で、風が揺れた。
 凌は一礼し、背を伸ばして立ち上がる。眠りは浅く、朝は早い。眠りは浅いほうが、夢を見ない。

六 朝の兆し――匙では測れないもの

 夜が白み始めるころ、凌は御台所に立ち、女料理頭とともに新しい手順を敷いた。
 杯は温と冷を交互に。注ぐ順は、帳場の記録の順に。盆は裏に薄紙を貼り、汗の輪が浮けば記録が残るように。
 医局には陶皿と薬草を運び、遅効性毒の沈殿の色を見分ける手順を書き付けて壁に留めた。匙は壁に残す。匙は瞬間、皿は時間。時間は嘘を暴く。

 侍医たちは最初は半信半疑だったが、女医官が一人、袖をまくって言った。「昨夜、喉が痺れました。盃の順が変わっていました」
 凌は頷き、紙に印をつける。
 台所の少年が大きな目で凌を見上げる。
「妃さま、あの……おかわりの時、盆が重くて手が冷たくなって、落としそうになったんです。あたし、嘘はつきません」
「嘘をつかない者の手は、いい手だ」
 凌は目を細め、少年の掌に細い紐を巻いた。「これを巻いておけば、汗を吸う。輪は残らない。輪を残すのは、嘘の手だけでいい」

 少年は目を丸くしながら笑った。
 笑いは、刃より人を動かす。笑いは、最初の味方になる。

七 自首の朝

 太鼓が一つ鳴り、朝が完全に来た。
 医局に、顔色の悪い侍女が現れた。太后派の一人。昨日の宴で酒を運んだ班にいた女だ。
 彼女は膝から崩れ落ちるようにして言った。「混ぜました。……でも、命じられたから。混ぜたのは、砂糖です。毒は――毒は、別に」

 女医官が彼女の脈を取る。細く、速い。恐怖の脈だ。
 凌は座したまま問う。

「誰が命じた」
「お顔は――仮面のような布で。声は……若くはない。でも、老いではない。手に、銀がついていました」

 銀。香炉の煤。井戸の刻印。
 景焔が現れ、侍女を見下ろし、視線を凌へ投げた。「裁け」
 凌は静かに答える。

「罪はあります。でも、告白は制度にとって薬です。罰は軽く。……命じた者を追う証に、この方の袖を残したい。銀の粉がついています。粉は、どこでつくのかを辿る糸です」

 景焔は頷き、侍女の身柄を保護させた。軍務派の将が目で笑う。太后派の老臣が目で憎む。宰相派は目を細めて計算している。目は嘘をつく、計算は嘘をつかない。

八 計算と祈り

 凌は地図に白い点を足した。御台所、医局、詰所、帳場、香炉、井戸。白点は線で繋がり、小さな網になる。
 網の外側で、宰相派と太后派と軍務派の太い線が、しきりに揺れている。揺れるのは、支えを探すからだ。支えを作れば、揺れは弱まる。

 誓珠は、胸の上で静かだ。眠っているのか、見ているのか。
 凌は掌で玉を包み、深く息をついた。
 数字を並べ、線を引き、皿を置き、杯を回し、笑いを一つ配り、怒りを一つ捨てる。
 それが“唯一妃”の朝だ。
 祈る相手はいない。祈りは、手順に変換する。

九 夕刻の呼び声

 日が傾き始めた頃、景焔が凌を呼んだ。
 寝殿には誰もいない。誓珠に夕陽が入って、玉の内側で銀砂が舞う。

「……おまえの“網”は、どこまで掛かった」
「宰相家の廊の隅まで。爪痕は二つ残しました。焼けば判る×です」

「焼くのは、いつ」
「明日、公開の儀の後。民の前で“秤”を見せれば、帳簿は“重さ”を持つ。重さを持った本は、燃えにくい」

 景焔は目を細め、黙って頷いた。
 黙った頷きは、言葉より重い。
 凌は、ためらいを少しだけ残しながら言う。

「陛下。……私は、公においては、陛下を疑い続けます。私にできる忠誠は“疑いの仕事”です。私にできる恋は、そのあとで」
「よい」

 景焔はまた、凌の指先に口づけた。
 誓珠が揺れ、夕陽が――一瞬、金ではなく白に光った。
 刹那、凌は確信に近いものを得た。
 帝の孤独は、鋼ではなく、骨に近い。折れにくく、しかし折れれば致命。支えるものは、筋ではない。――規格。形だ。

「陛下、明日は私の“形”を見てください。あなたが疑わなくていいように」
「見ている。ずっと」

十 薄闇の廊、影の笑み

 寝殿を出ると、燕青が廊にいた。
「明日は忙しくなります」
「いつも忙しい」

 ふたりで短く笑い合う。
 燕青がふと、珍しく問いを投げた。「妃殿下は、陛下をお慕いですか」
 凌は足を止め、少し考えた。
「慕う、という言葉の中に“私”が多すぎるなら、違います。私は、陛下の“政”を愛したい。政は人の形で、愛は政の規格で……うまく言えないですね」

「うまく言えないことを抱えた人は、斬りにくい」
 燕青は軽く肩をすくめた。「それで十分です」

 短いやり取りのあと、ふたりはそれぞれの影に戻った。
 凌は最後に一度だけ夜空を見上げる。雲が低く、星は少ない。星が少ない夜は、地図が役に立つ。

十一 そして――“第一の暗殺”は記録になる

 翌朝の公開の儀は、約定どおり粛々と進んだ。
 誓珠の掛け替え、民の歓声、太后の沈黙。
 香炉は底に微細な刻印を映し、帳簿は余白の×を焼かれて黒い輪を残した。輪は輪であり、目で見える印であり、誰も否定できない“重さ”に変わった。

 軍務派は“囮の若党”を宥免し、代わりに香の流通に関わった銀工組合の一部と宰相家の文官の線を辿って包囲を狭める。太后派は沈黙のまま香を焚かず、廊の風は清澄に戻る。

 “第一の暗殺”は、未遂に終わった。
 未遂に終わったことそのものが、最大の記録になった。
 宰相家の盃は、以後、口縁が厚くなった。厚い盃は、音を鈍らせる。鈍い音は、長い戦の始まりの音だ。

 凌は寝殿で誓珠を外さなかった。玉は冷たく、重い。
 重みは、落ち着かせる。
 落ち着きが欲しい者ほど、重みを望む。
 重みは、責務の別名だ。

 唯一妃は席ではない。
 唯一妃は規格であり、網であり、秤であり、笑いであり、ときに刃の鞘である。
 政敵の的に立つということは、矢を受けることではなく、矢の値段を上げることだ。
 矢の値段が上がれば、そう易々とは放てない。

 帝は夜に眠り、民は朝に働く。
 その当たり前を守るために、凌は今日も数字を磨く。
 景焔は今日も、人であり帝であり続ける。
 信じない帝のそばで、疑わない唯一妃が、疑いを計算に変えてゆく。

 ――第一の暗殺は、ここで終わる。
 第二の暗闘は、もう始まっている。