一 返り灯、薄い蜂蜜
百日祭の夜を越え、夜明けの蜂蜜が喉の奥の火を鎮めたころ、凌は静かに目を開いた。
灯は低く、香は清、祓いは和。女医官の指は迷いがなく、包帯は薄く軽く、呼吸は浅くなく深く。
胸の下、布に縫い込んだ銀の粉――砕けた誓珠の名残が、骨の下で乾いた星のようにきらと鳴る。痛みは、もう名を持たない。名を失った痛みは、ただの仕事になる。
「戻りましたね」
女医官が笑い、薄荷をひとさじ湯に落とした。
「戻ったのは、灯と歌ですよ」
凌は声の端だけで返した。
燕青が襖の隙に影を置き、「影は見ます」と短く言って退いた。賀蘭の棒は廊の角に立ち、剣は鞘のまま、眠っている。
「銀は硬い。……だが、誓は柔らかい。混ぜられる」
凌は言葉を確かめるように口に出し、女医官の紙に三つの丸を描いた。
> 銀の新貨
> 刻印の母型
> 誓珠の銀粉
丸と丸のあいだに隣という字を置く。
名は隣り合い、混じらない。
物は混じり、隣り合った名の証になる。
彼はゆっくり身を起こし、胸の布の上から指で小さく叩いた。一打。
眠る前の規格は、起き上がる前の規格でもある。
二 工房の火、母型の構え
造幣司の工房は、朝の鐘よりも先に火が入る。
劉槃は耳で火の音を聞き、目で金属の色を見、掌で重さを測る男だ。彼は凌を見ると、わざとらしく眉をひとつ上げて見せた。
「剣の代わりに、今日は鋼(はがね)を見に来たか」
「母型を見に来た。鋼の母だ」
凌は小匣から薄布に包んだ銀粉を出した。砕けた誓珠の欠片を、微細に挽いたもの。光にかざすと、千格の帳のように微かに揺れる。
「混ぜる、と言うのか」
劉槃の声は慎重で、しかしどこか嬉しそうだ。
凌は頷いた。
「鋼の表層――刻印の肌に、焼き付ける。硬さを損なわず、記憶だけを残す配合。誓は物に宿らない。だが、物に手順は宿る。母型に宿った手順を、新貨の面に写す」
劉槃は火床の上に細い鋼片を置き、銀粉を紙に広げ、指の腹でそっと撫でた。
「祓い鋼(はらいがね)――香の層を嫌わず、音を損なわない鋼だ。……鋼の肌に誓の薄化粧。やってやれないことはない」
凌は板の端に、刻むべき三層を記した。
> 音――花輪十二葉。削り(クリッピング)に濁りで応える。
> 光――千格の帳。右上の一枡は欠け。眠りの枡。
> 香――香符〈沈一・清二・道一〉。香鏡で二度刻みの反射を読む。
「それに――」
凌は母型の中心に小さく円環を描いた。
> 隣り環(となりわ)
「誓珠の隣の字を、変形して輪にする。肉眼には模様、香鏡には誓。……母型の鋼の肌に、誓の手順を混ぜる」
劉槃は火箸で鋼片を取り、打音台に軽く当てた。
澄。
音は嘘をつかない。
「母は、子を選べないが、子は母を選ぶ。新貨の子らが音を覚え、光を覚え、香を覚えるなら、誓も覚えるだろう」
凌は笑みを薄くし、胸の布の上からもう一度一打を打った。
「眠りの前に、一打。銀貨が鈴になる」
三 御前の板、法の名
御前の大広間。灯は低く、板は民の目の高さ。太后は扇を閉じて座し、景焔は一行の短い筆を持つ。
凌は后印の朱を吸わせ、板の上へ文を刻む。
> 〈唯一妃法(ゆいいつひほう)〉
> 一、婚礼は一対に限る(席ではなく規格)。
> 二、複妃制は法として廃す。
> 三、後宮は“仕事の場”とし、学の規格を遵守。
> 四、后印は公平に、見えるところで押す。
> 五、眠りの札は権利。昼寝は罰ではない。
> 六、唯一の名を金融(新銀貨)に刻む。誓は物に混ぜず、手順に混ぜる。
景焔の筆が一行を走る。
> 〈唯一妃の名で、国を眠らせ、民を起こす〉
太后が扇骨を一度鳴らし、「賛」とだけ言った。蘭秀の扇骨の欠けが遠い風の角で小さく触れ合い、香は清の層で揺れず、祓いは和で柔らかい。
宰相家の代表は、もはやここにはいない。橋は乾き、杭は抜け、家は解体へ向かう。断頭ではなく、紙の解体。等幅の字が、金と人を同じ幅で扱う。
凌は后印を押し、朱の欠けが眠りの枡を作る。
朱と墨は隣り合い、混じらない。
法は歌になる。
> 唯一の朱 眠りの枡
> 二を廃して 一を守る
> 剣は後ろで 棒は輪
> 板は前で 歌は先
拙い。だが、速い。
法が噂より先に、歌で人の口に入る。
四 太后、扇を置く
議が終わり、太后は立ち上がった。扇は膝から離れ、掌の中で一度だけ音を立てる。
「隠棲する。扇は置く。景焔、凌、――眠れ」
その言葉に、景焔の目が柔らかく揺れ、凌は深く頭を垂れた。
「勝つことばかりが愛ではない。負けの設計を忘れるな」
太后は扇の欠けを最後に指でなぞり、沈香を薄く焚かせ、背を向けた。
扇は風であり、壁であった。今日は鍵だった。
扇が去り、板が残る。
母は影に、制度は前に。
五 宰相家、紙の解体
宰相家の廊下には、回覧が三巡した痕がある。今日は四巡めだ。
市場監・杜温が札を貼る。
> 〈解体順序〉
> 一、橋の撤去(賄いの帳簿の接点を等幅で切断)。
> 二、資産の分筆(郡工事・河川普請・学校建設へ割る)。
> 三、人の移し替え(給金は板に、段位は段に)。
> 四、罪は薄紙に(晒さず、長く)。
断頭はない。
棒は輪、剣は後。
均質の恐怖を排し、等幅の救いを残す。
宰相家の最後の笑いが薄く消え、家の者たちは仕事の札を受け取った。罪の札は薄い。薄いほうが、長い。
> 〈働きで償う〉
宰相家の次男は、祓具の金口の改修隊の先頭に立ち、港の堰の角度を測り、香鏡の読み手を育てた。
六 新貨の誕生――母型の束、誓の手順
工房の火は高くならない。灯は低く。
母型の鋼の肌に、誓の手順が焼かれていく。
花輪十二葉は音を澄ませ、千格の帳は光を呼吸し、隣り環は香鏡の中で誓を示す。
劉槃が耳を澄ませ、一打を重ねる。
澄。
澄。
澄。
同じように聞こえて、同じではない。
最初の音は母の音、次の音は子の音、三の音は孫の音。
音の世代がつながる。
凌は胸の布の上から指で一打した。
女医官が眉をひそめ、「動くな」と小さく叱って、蜂蜜を薄く舌に落とした。
りんと鳴る甘さが、喉の奥で規格になる。
七 城下の広場、口づけ
広場に板が立つ。民の目の高さ。灯は低く、香は清。
景焔は壇に上がらず、板の前に立った。
御台所の少年は太鼓を抱え、子どもたちは眠りの歌の拍を覚えている。女官・針子・従者は段位の房を揺らし、港からは青の袋が並び、市場監は秤を据えた。
凌が歩いて出る。
血は乾き、痛みは仕事になり、誓珠の粉は掌の線にわずかに残る。
后印の朱が衣の胸で呼吸する。
「私の唯一の政は、」
景焔が言い、言葉の間に灯が揺れた。
「おまえと行う」
口づけは、長くない。
公の長さに合わせた短さだ。
だが、歌にするには十分な深さだった。
> 朱と墨 隣り合い
> 唯一の政は 二人の拍
> 剣は後ろで 棒は輪
> 灯は低くて 眠り前
拙い。だが、速い。
噂は歌に変わり、歌は規格になる。
八 布告――複妃、廃す
板の前で、凌は后印を押し、短く読む。
「複妃制は、法で廃します。唯一は席ではなく、規格です。眠りのための規格。祓いの流量のための規格。闇の値段を上げるための規格」
人々の目に安堵が走り、次の瞬間、現実の算盤が回る。
「嫁はどうなる」「子は」「家の橋は」――
凌は先に板を出す。
> 〈移し替え〉
> 〈賃の等幅〉
> 〈段位の認定〉
> 〈昼寝の札〉
> 〈後宮学の外輪開放〉
後宮学は門を開く。
市の女たちが入り、字を習い、数を覚え、手を鍛える。
男の侍従も、段位で並ぶ。
公平は見えるから力になる。
九 オモテは甘く、ウラは冷徹に
オモテ――広場には蜂蜜の粥、眠り前の一打の澄、法の歌、后印の朱。
ウラ――市場監の回覧、偽貨の薄紙、等幅の会計、解体の順序、祓具の改修表。
甘い蜂蜜は口を潤し、冷たい薄紙は手を止める。
表裏は矛盾ではない。輪の内外。
凌は板の端に小さく書く。
> 〈表=眠・歌・粥/裏=紙・薄・長〉
> 〈甘は前、冷は後。剣はさらに後〉
賀蘭は棒を輪の外に立て、剣を鞘へ。
燕青は梁の継ぎ目へ息を置き、女医官は昼寝の札に布の覆いを足す。
表が速く、裏が長い。
速いものは歌になり、長いものは制度になる。
十 港の堰、青の袋
青塩湾の堰は二重輪の契いに従い、青の袋が階段のように並ぶ。
紅夷の船は距離を取り、海梁会の影は散る。
新銀貨の袋には青の香符が仕込まれ、遅れが出れば色になる。
色は言葉より速く、噂より正確だ。
港の板に歌が足される。
> 青の袋で 海を堰く
> 隣り環(わ)は 香で鳴る
> 光の欠けに 眠りあり
> 音の花輪で 値を守る
十一 後宮学、学びの輪
後宮学は輪を広げ、段位の札に星が増える。
針子の目は数になり、女官の筆は板になる。従者の手は香鏡を扱い、男の侍従の耳は打音を聞き分ける。
昼寝の札は権利で、欠勤の札ではない。
罰は薄く、仕事は太い。
公平は、見えることで初めて掌握になる。
御台所の少年は小さな板を持ち、字の読めない者に三つだけ教える。
> 〈市〉
> 〈賃〉
> 〈眠〉
指でなぞれば、歌になる。
> 市の字 賃の字 眠の字
> 指でなぞれば 段になる
十二 太后の隠棲、扇の影
太后は山裾の小さな寺へ隠れ、扇を壁に掛けた。
扇の欠けは、影の中で呼吸する。
景焔は彼女の前でひざまずき、長くは居ない。
「眠れ」とだけ言い、去る。
凌は寺の板の端に三つの字を小さく残す。
> 〈余白〉
> 〈眠〉
> 〈続〉
風が頁をめくり、沈香の層は祈りに戻る。
母は影、子は板、制度は風に耐える。
十三 国境――刃ではなく、歌で
北界の関では、新銀の一打が鳴り、関税の板は等幅に書かれ、青の袋は列を作る。
黎国の使節は、歌の前で口をつぐむ。
> 地の境は 刃の後
> 値の境は 歌の前
> 銀の澄 花の輪
> 欠けの枡で 眠り積む
剣は抜かれない。棒は輪に。
第二の国境は、音と光と香で守られる。
十四 新貨の放ち――音の巡礼
新銀貨が都と郡へ放たれた。
澄の音は、まるで巡礼の鈴のように路を渡る。
一打して眠り、一打して働く。
母は枕の下に半を置き、父は腰にひとつ忍ばせ、子は掌で音を覚える。
花輪の十二葉、千格の光、隣り環の誓。
銀は、歌になる。
> 銀の鈴 眠り前
> 隣り環で 名は寄る
> 剣は後ろで 棒は輪
> 灯は低くて 国は回る
十五 景焔の短い夜
夜、景焔は静陰殿の板の前で止まり、凌の枕元で短い眠りを取る。
「馬鹿だ」
いつもの言葉は、もう怒りではない。
凌は笑い、指先で一打する仕草をする。
「眠りの拍です」
景焔は指に唇を触れ、灯をさらに低くした。
「興味は持つ。板に、粥に、灯に、民に」
凌は目を閉じ、「それが政です」と囁く。
十六 紙の断頭――最後の橋
解体の最後は、宰相家に残っていた見えない橋だった。
紙で切る。
回覧を重ね、等幅で整え、薄紙で固定し、眠りで覆う。
名を晒さず、仕組みを晒す。
断頭ではなく、断面。
傷口が空気に当たれば、痛みは名になり、名は仕事に変わる。
杜温は最後の札を貼った。
> 〈橋、撤去完了〉
> 〈杭、再利用(学校・堰・板)〉
> 〈薄紙は一年〉
一年は長い。
だが、国の時間では短い。
短いものは歌に、長いものは制度に。
十七 后印の重さ、朱の呼吸
凌は后印を持ち直し、その重さを掌の骨で受けた。
印面の朱は、呼吸に合わせて濃淡を変える。
欠けの枡が、眠りの位置を教える。
「掌握は、力ではなく、公平で行う」
彼は繰り返す。板はそれを覚え、人も覚える。
朱は薄くも太くもなり、歌はそれを真似る。
十八 唯一妃の政、公布
唯一妃法が公布される日、板は都の四辻に立ち、郡板も同じ文を受け取る。
景焔は一行で、凌は后印で、民は一打で、祭は粥で、夜は灯で、それぞれに支える。
> 〈唯一妃の政〉
> 〈愛=国家の約束〉
> 〈約束=規格+余白+眠り〉
愛は個人の器にだけ置かれず、制度に移される。
席が愛ではない。規格が愛だ。
規格は人より長い。
人は規格より甘い。
オモテは甘く、ウラは冷徹に。
十九 歌と地図と貨幣――回り始める
帝国の広さは、歌で測れる。
港の青、北界の風、河の堰、郡の板、都の灯。
新銀の鈴は、毎夕の一打のたびに国中で澄と鳴り、粥の湯気は白槐の甘さを一滴だけ運ぶ。
後宮学の段位札は星のように増え、眠りの札は枕元で呼吸する。
剣は後ろで眠り、棒は輪に、板は前に。
香は祈りから規格へ、光は飾りから欠けへ、音は歓声から鈴へ。
唯一妃の政は、個人の愛を公共の約束に変え、後宮を学びの場に変え、相場を歌で囲い、家を仕事の単位に変えた。
> 唯一の朱で 眠り刻み
> 隣り環で 名を寄せる
> 表は蜂蜜 裏は薄紙
> 剣は後ろで 棒は輪
拙い。だが、速い。
国は、歌で回る。
二十 了――灯は低く、続ける
夜。
静陰殿の板の前で、凌は最後の札を足した。
〈今日の帳:唯一妃の政/公布〉
〈今日の香:清〉
〈今日の祓い:和〉
〈今日の灯:低〉
后印の朱が静かに乾き、隣り環は香鏡の中で静かに寄り、混じらない。
銀の一打が遠くで鳴り、粥の甘さが廊の隅でほどける。
景焔は凌の指に唇を触れ、太后の扇の欠けがどこかの風の角で小さく触れ、燕青の息は梁の継ぎ目で眠り、賀蘭の棒は輪の外で静止し、女医官の薄荷は冷たくやさしい。
“唯一は席ではない。規格だ。”
愛は感情ではなく、公共の約束。
約束は歌になり、貨幣になり、法になり、眠りになる。
オモテは甘く、ウラは冷徹に。
帝国は、再び――回り始めた。
〈了〉
百日祭の夜を越え、夜明けの蜂蜜が喉の奥の火を鎮めたころ、凌は静かに目を開いた。
灯は低く、香は清、祓いは和。女医官の指は迷いがなく、包帯は薄く軽く、呼吸は浅くなく深く。
胸の下、布に縫い込んだ銀の粉――砕けた誓珠の名残が、骨の下で乾いた星のようにきらと鳴る。痛みは、もう名を持たない。名を失った痛みは、ただの仕事になる。
「戻りましたね」
女医官が笑い、薄荷をひとさじ湯に落とした。
「戻ったのは、灯と歌ですよ」
凌は声の端だけで返した。
燕青が襖の隙に影を置き、「影は見ます」と短く言って退いた。賀蘭の棒は廊の角に立ち、剣は鞘のまま、眠っている。
「銀は硬い。……だが、誓は柔らかい。混ぜられる」
凌は言葉を確かめるように口に出し、女医官の紙に三つの丸を描いた。
> 銀の新貨
> 刻印の母型
> 誓珠の銀粉
丸と丸のあいだに隣という字を置く。
名は隣り合い、混じらない。
物は混じり、隣り合った名の証になる。
彼はゆっくり身を起こし、胸の布の上から指で小さく叩いた。一打。
眠る前の規格は、起き上がる前の規格でもある。
二 工房の火、母型の構え
造幣司の工房は、朝の鐘よりも先に火が入る。
劉槃は耳で火の音を聞き、目で金属の色を見、掌で重さを測る男だ。彼は凌を見ると、わざとらしく眉をひとつ上げて見せた。
「剣の代わりに、今日は鋼(はがね)を見に来たか」
「母型を見に来た。鋼の母だ」
凌は小匣から薄布に包んだ銀粉を出した。砕けた誓珠の欠片を、微細に挽いたもの。光にかざすと、千格の帳のように微かに揺れる。
「混ぜる、と言うのか」
劉槃の声は慎重で、しかしどこか嬉しそうだ。
凌は頷いた。
「鋼の表層――刻印の肌に、焼き付ける。硬さを損なわず、記憶だけを残す配合。誓は物に宿らない。だが、物に手順は宿る。母型に宿った手順を、新貨の面に写す」
劉槃は火床の上に細い鋼片を置き、銀粉を紙に広げ、指の腹でそっと撫でた。
「祓い鋼(はらいがね)――香の層を嫌わず、音を損なわない鋼だ。……鋼の肌に誓の薄化粧。やってやれないことはない」
凌は板の端に、刻むべき三層を記した。
> 音――花輪十二葉。削り(クリッピング)に濁りで応える。
> 光――千格の帳。右上の一枡は欠け。眠りの枡。
> 香――香符〈沈一・清二・道一〉。香鏡で二度刻みの反射を読む。
「それに――」
凌は母型の中心に小さく円環を描いた。
> 隣り環(となりわ)
「誓珠の隣の字を、変形して輪にする。肉眼には模様、香鏡には誓。……母型の鋼の肌に、誓の手順を混ぜる」
劉槃は火箸で鋼片を取り、打音台に軽く当てた。
澄。
音は嘘をつかない。
「母は、子を選べないが、子は母を選ぶ。新貨の子らが音を覚え、光を覚え、香を覚えるなら、誓も覚えるだろう」
凌は笑みを薄くし、胸の布の上からもう一度一打を打った。
「眠りの前に、一打。銀貨が鈴になる」
三 御前の板、法の名
御前の大広間。灯は低く、板は民の目の高さ。太后は扇を閉じて座し、景焔は一行の短い筆を持つ。
凌は后印の朱を吸わせ、板の上へ文を刻む。
> 〈唯一妃法(ゆいいつひほう)〉
> 一、婚礼は一対に限る(席ではなく規格)。
> 二、複妃制は法として廃す。
> 三、後宮は“仕事の場”とし、学の規格を遵守。
> 四、后印は公平に、見えるところで押す。
> 五、眠りの札は権利。昼寝は罰ではない。
> 六、唯一の名を金融(新銀貨)に刻む。誓は物に混ぜず、手順に混ぜる。
景焔の筆が一行を走る。
> 〈唯一妃の名で、国を眠らせ、民を起こす〉
太后が扇骨を一度鳴らし、「賛」とだけ言った。蘭秀の扇骨の欠けが遠い風の角で小さく触れ合い、香は清の層で揺れず、祓いは和で柔らかい。
宰相家の代表は、もはやここにはいない。橋は乾き、杭は抜け、家は解体へ向かう。断頭ではなく、紙の解体。等幅の字が、金と人を同じ幅で扱う。
凌は后印を押し、朱の欠けが眠りの枡を作る。
朱と墨は隣り合い、混じらない。
法は歌になる。
> 唯一の朱 眠りの枡
> 二を廃して 一を守る
> 剣は後ろで 棒は輪
> 板は前で 歌は先
拙い。だが、速い。
法が噂より先に、歌で人の口に入る。
四 太后、扇を置く
議が終わり、太后は立ち上がった。扇は膝から離れ、掌の中で一度だけ音を立てる。
「隠棲する。扇は置く。景焔、凌、――眠れ」
その言葉に、景焔の目が柔らかく揺れ、凌は深く頭を垂れた。
「勝つことばかりが愛ではない。負けの設計を忘れるな」
太后は扇の欠けを最後に指でなぞり、沈香を薄く焚かせ、背を向けた。
扇は風であり、壁であった。今日は鍵だった。
扇が去り、板が残る。
母は影に、制度は前に。
五 宰相家、紙の解体
宰相家の廊下には、回覧が三巡した痕がある。今日は四巡めだ。
市場監・杜温が札を貼る。
> 〈解体順序〉
> 一、橋の撤去(賄いの帳簿の接点を等幅で切断)。
> 二、資産の分筆(郡工事・河川普請・学校建設へ割る)。
> 三、人の移し替え(給金は板に、段位は段に)。
> 四、罪は薄紙に(晒さず、長く)。
断頭はない。
棒は輪、剣は後。
均質の恐怖を排し、等幅の救いを残す。
宰相家の最後の笑いが薄く消え、家の者たちは仕事の札を受け取った。罪の札は薄い。薄いほうが、長い。
> 〈働きで償う〉
宰相家の次男は、祓具の金口の改修隊の先頭に立ち、港の堰の角度を測り、香鏡の読み手を育てた。
六 新貨の誕生――母型の束、誓の手順
工房の火は高くならない。灯は低く。
母型の鋼の肌に、誓の手順が焼かれていく。
花輪十二葉は音を澄ませ、千格の帳は光を呼吸し、隣り環は香鏡の中で誓を示す。
劉槃が耳を澄ませ、一打を重ねる。
澄。
澄。
澄。
同じように聞こえて、同じではない。
最初の音は母の音、次の音は子の音、三の音は孫の音。
音の世代がつながる。
凌は胸の布の上から指で一打した。
女医官が眉をひそめ、「動くな」と小さく叱って、蜂蜜を薄く舌に落とした。
りんと鳴る甘さが、喉の奥で規格になる。
七 城下の広場、口づけ
広場に板が立つ。民の目の高さ。灯は低く、香は清。
景焔は壇に上がらず、板の前に立った。
御台所の少年は太鼓を抱え、子どもたちは眠りの歌の拍を覚えている。女官・針子・従者は段位の房を揺らし、港からは青の袋が並び、市場監は秤を据えた。
凌が歩いて出る。
血は乾き、痛みは仕事になり、誓珠の粉は掌の線にわずかに残る。
后印の朱が衣の胸で呼吸する。
「私の唯一の政は、」
景焔が言い、言葉の間に灯が揺れた。
「おまえと行う」
口づけは、長くない。
公の長さに合わせた短さだ。
だが、歌にするには十分な深さだった。
> 朱と墨 隣り合い
> 唯一の政は 二人の拍
> 剣は後ろで 棒は輪
> 灯は低くて 眠り前
拙い。だが、速い。
噂は歌に変わり、歌は規格になる。
八 布告――複妃、廃す
板の前で、凌は后印を押し、短く読む。
「複妃制は、法で廃します。唯一は席ではなく、規格です。眠りのための規格。祓いの流量のための規格。闇の値段を上げるための規格」
人々の目に安堵が走り、次の瞬間、現実の算盤が回る。
「嫁はどうなる」「子は」「家の橋は」――
凌は先に板を出す。
> 〈移し替え〉
> 〈賃の等幅〉
> 〈段位の認定〉
> 〈昼寝の札〉
> 〈後宮学の外輪開放〉
後宮学は門を開く。
市の女たちが入り、字を習い、数を覚え、手を鍛える。
男の侍従も、段位で並ぶ。
公平は見えるから力になる。
九 オモテは甘く、ウラは冷徹に
オモテ――広場には蜂蜜の粥、眠り前の一打の澄、法の歌、后印の朱。
ウラ――市場監の回覧、偽貨の薄紙、等幅の会計、解体の順序、祓具の改修表。
甘い蜂蜜は口を潤し、冷たい薄紙は手を止める。
表裏は矛盾ではない。輪の内外。
凌は板の端に小さく書く。
> 〈表=眠・歌・粥/裏=紙・薄・長〉
> 〈甘は前、冷は後。剣はさらに後〉
賀蘭は棒を輪の外に立て、剣を鞘へ。
燕青は梁の継ぎ目へ息を置き、女医官は昼寝の札に布の覆いを足す。
表が速く、裏が長い。
速いものは歌になり、長いものは制度になる。
十 港の堰、青の袋
青塩湾の堰は二重輪の契いに従い、青の袋が階段のように並ぶ。
紅夷の船は距離を取り、海梁会の影は散る。
新銀貨の袋には青の香符が仕込まれ、遅れが出れば色になる。
色は言葉より速く、噂より正確だ。
港の板に歌が足される。
> 青の袋で 海を堰く
> 隣り環(わ)は 香で鳴る
> 光の欠けに 眠りあり
> 音の花輪で 値を守る
十一 後宮学、学びの輪
後宮学は輪を広げ、段位の札に星が増える。
針子の目は数になり、女官の筆は板になる。従者の手は香鏡を扱い、男の侍従の耳は打音を聞き分ける。
昼寝の札は権利で、欠勤の札ではない。
罰は薄く、仕事は太い。
公平は、見えることで初めて掌握になる。
御台所の少年は小さな板を持ち、字の読めない者に三つだけ教える。
> 〈市〉
> 〈賃〉
> 〈眠〉
指でなぞれば、歌になる。
> 市の字 賃の字 眠の字
> 指でなぞれば 段になる
十二 太后の隠棲、扇の影
太后は山裾の小さな寺へ隠れ、扇を壁に掛けた。
扇の欠けは、影の中で呼吸する。
景焔は彼女の前でひざまずき、長くは居ない。
「眠れ」とだけ言い、去る。
凌は寺の板の端に三つの字を小さく残す。
> 〈余白〉
> 〈眠〉
> 〈続〉
風が頁をめくり、沈香の層は祈りに戻る。
母は影、子は板、制度は風に耐える。
十三 国境――刃ではなく、歌で
北界の関では、新銀の一打が鳴り、関税の板は等幅に書かれ、青の袋は列を作る。
黎国の使節は、歌の前で口をつぐむ。
> 地の境は 刃の後
> 値の境は 歌の前
> 銀の澄 花の輪
> 欠けの枡で 眠り積む
剣は抜かれない。棒は輪に。
第二の国境は、音と光と香で守られる。
十四 新貨の放ち――音の巡礼
新銀貨が都と郡へ放たれた。
澄の音は、まるで巡礼の鈴のように路を渡る。
一打して眠り、一打して働く。
母は枕の下に半を置き、父は腰にひとつ忍ばせ、子は掌で音を覚える。
花輪の十二葉、千格の光、隣り環の誓。
銀は、歌になる。
> 銀の鈴 眠り前
> 隣り環で 名は寄る
> 剣は後ろで 棒は輪
> 灯は低くて 国は回る
十五 景焔の短い夜
夜、景焔は静陰殿の板の前で止まり、凌の枕元で短い眠りを取る。
「馬鹿だ」
いつもの言葉は、もう怒りではない。
凌は笑い、指先で一打する仕草をする。
「眠りの拍です」
景焔は指に唇を触れ、灯をさらに低くした。
「興味は持つ。板に、粥に、灯に、民に」
凌は目を閉じ、「それが政です」と囁く。
十六 紙の断頭――最後の橋
解体の最後は、宰相家に残っていた見えない橋だった。
紙で切る。
回覧を重ね、等幅で整え、薄紙で固定し、眠りで覆う。
名を晒さず、仕組みを晒す。
断頭ではなく、断面。
傷口が空気に当たれば、痛みは名になり、名は仕事に変わる。
杜温は最後の札を貼った。
> 〈橋、撤去完了〉
> 〈杭、再利用(学校・堰・板)〉
> 〈薄紙は一年〉
一年は長い。
だが、国の時間では短い。
短いものは歌に、長いものは制度に。
十七 后印の重さ、朱の呼吸
凌は后印を持ち直し、その重さを掌の骨で受けた。
印面の朱は、呼吸に合わせて濃淡を変える。
欠けの枡が、眠りの位置を教える。
「掌握は、力ではなく、公平で行う」
彼は繰り返す。板はそれを覚え、人も覚える。
朱は薄くも太くもなり、歌はそれを真似る。
十八 唯一妃の政、公布
唯一妃法が公布される日、板は都の四辻に立ち、郡板も同じ文を受け取る。
景焔は一行で、凌は后印で、民は一打で、祭は粥で、夜は灯で、それぞれに支える。
> 〈唯一妃の政〉
> 〈愛=国家の約束〉
> 〈約束=規格+余白+眠り〉
愛は個人の器にだけ置かれず、制度に移される。
席が愛ではない。規格が愛だ。
規格は人より長い。
人は規格より甘い。
オモテは甘く、ウラは冷徹に。
十九 歌と地図と貨幣――回り始める
帝国の広さは、歌で測れる。
港の青、北界の風、河の堰、郡の板、都の灯。
新銀の鈴は、毎夕の一打のたびに国中で澄と鳴り、粥の湯気は白槐の甘さを一滴だけ運ぶ。
後宮学の段位札は星のように増え、眠りの札は枕元で呼吸する。
剣は後ろで眠り、棒は輪に、板は前に。
香は祈りから規格へ、光は飾りから欠けへ、音は歓声から鈴へ。
唯一妃の政は、個人の愛を公共の約束に変え、後宮を学びの場に変え、相場を歌で囲い、家を仕事の単位に変えた。
> 唯一の朱で 眠り刻み
> 隣り環で 名を寄せる
> 表は蜂蜜 裏は薄紙
> 剣は後ろで 棒は輪
拙い。だが、速い。
国は、歌で回る。
二十 了――灯は低く、続ける
夜。
静陰殿の板の前で、凌は最後の札を足した。
〈今日の帳:唯一妃の政/公布〉
〈今日の香:清〉
〈今日の祓い:和〉
〈今日の灯:低〉
后印の朱が静かに乾き、隣り環は香鏡の中で静かに寄り、混じらない。
銀の一打が遠くで鳴り、粥の甘さが廊の隅でほどける。
景焔は凌の指に唇を触れ、太后の扇の欠けがどこかの風の角で小さく触れ、燕青の息は梁の継ぎ目で眠り、賀蘭の棒は輪の外で静止し、女医官の薄荷は冷たくやさしい。
“唯一は席ではない。規格だ。”
愛は感情ではなく、公共の約束。
約束は歌になり、貨幣になり、法になり、眠りになる。
オモテは甘く、ウラは冷徹に。
帝国は、再び――回り始めた。
〈了〉



