一 写された迷宮

 夜の帳が下りても、凌の寝殿には明かりが絶えなかった。
 机上に広げられているのは、後宮の間取り図と人事表。女官長・蘭秀に請い、特別に閲覧を許されたものである。

 白紙に緻密な墨線を引き写す作業は、学者の性に近い。
 凌は定規代わりの簪で測り、建物の配置や通路の角度を正確に書き移していった。

 書き込みは一度では終わらない。
 宦官の所属、女官の出身、兵舎と倉庫の位置。
 さらには人事表と納入台帳を照合し、権力線を赤・青・黒の三色に分けた。

 赤――太后派。
 青――宰相派。
 黒――軍務派。

 三つ巴の線が、地図の上で蜘蛛の巣のように絡み合う。
 建物の壁よりも、線の交差が凌の視線を引いた。

(力は人の流れに宿る。人の流れは、帳簿と間取りで可視化できる)

 凌は吐息をつき、手を止めた。地図の中心、後宮の奥。そこには空白がある。誰の所属も記されていない「禁裏」。
 景焔と自分だけが立ち入る領域。だが空白は、常に「誰かに狙われる余地」を生む。

二 燕青の助言

「……また地図ですか」

 障子の外から声がした。
 現れたのは侍従の燕青。夜直けの冷気を纏ったまま、影のように座敷へ足を踏み入れる。

「妃に必要なのは、地図よりも味方です」

「味方?」

 凌は筆を置き、問い返す。

「はい。後宮は数字で動きません。腹が減れば人は嘘をつき、病に怯えれば刃を抜きます。妃殿下がまず抑えるべきは、厨房と医局。食と医は、人の心を掴みます」

 燕青は淡々と語る。その瞳には揺るぎがない。
 凌は頷き、心に刻んだ。

(数字だけで国は動かない。食と医は、人心の根。まずはそこを押さえるべきか)

三 厨房の俵

 翌朝、凌は御台所に赴いた。
 煙と湯気の中、女料理頭が腕を振るっている。
 凌が求めたのは、仕入れ表と消費記録だった。

 俵に貼られた札を一つひとつ確認する。
 入荷日と消費量が噛み合わない。特定の俵が“消えた”ように処理されている。

「これは?」

 凌の問いに、料理頭は首を振った。

「帳面上では“欠品”としか……。でも実際には入荷しているはずです」

 俵の重さを計る。札に記された目方と、実際の重みが違う。中身を開けば――麦に紛れ込む異物。
 白粉に似た粉末。甘い香。遅効性の痺れ毒。

 凌は即座に指示を出した。

「麦は私の監視下で煎じ直すこと。札は入荷順に並べ替え、次からは重さを再計量して記録するように」

 女料理頭は深々と頭を下げた。その背に、信頼が芽生えるのを凌は感じた。

四 医局との議論

 次に向かったのは医局。
 薬棚には無数の瓶が並び、銀の匙が壁に掛けられていた。

「これで毒見は充分か?」凌は問いかけた。
 侍医たちは戸惑う。

「銀は多くの毒を変色で示します。しかし……遅効性のものは」

「そう。遅効性は、匙を濁らせる前に体に回る」

 凌は机に小さな道具を広げた。
 陶器の皿、水差し、干した薬草。

「水に混ぜて沈殿の色を見分ける方法があります。
 幼い頃、貧民街で病に倒れた弟に、薬の量を測るために使った。数息で変色はしませんが、一夜置けば差は歴然です」

 侍医たちは目を見張った。
 凌はさらに続けた。

「匙は一瞬の毒見に、これは遅効性に。両輪があれば、人は安心して食を口にできます。安心は、最も強い薬です」

 女医官の一人が涙ぐみ、「導入を」と声を上げた。

五 侍女の自首

 翌朝。後宮に動揺が走った。
 太后派の侍女が自ら医局に現れ、「毒を混ぜた」と泣きながら告白したのだ。

「だが私は命じられただけ。……失敗させろと」

 侍女の声は震えていた。
 凌は傍らで静かに耳を傾けた。

(失敗を仕組んだ者がいる。毒を混ぜさせ、その失敗で“唯一妃”を失脚させようとしたのだ)

 景焔が現れ、冷ややかに侍女を見下ろした。
 だが処罰を命じる代わりに、視線を凌へと向ける。

「凌。おまえはどう裁く」

 凌は一瞬考え、口を開いた。

「罪はあります。しかし、この者は告白した。告白は、制度の欠陥を明かす勇気です。罪は軽く。むしろ、命じた者を追うべきです」

 景焔は頷き、侍女を下がらせた。

六 地図が動き出す

 夜、凌は再び地図に向かった。
 厨房と医局の建物に印をつけ、その内部に“味方”の名を記す。

 赤と青と黒の三色の線が交錯する迷宮に、小さな白い点が灯る。
 白は、凌の味方。

 白点はまだ僅か。だが光は連なれば道となる。
 凌は筆を握り直し、線を描き足した。

(後宮の地図は、まだ未完成だ。だが、私はここに“新しい色”を刻む。数字で、人で、制度で)

 誓珠が胸元で冷たく光った。
 凌の眼差しは、迷宮の奥を越えて、帝都全体を見据えていた。