一 百日祭の札、灯は低く
朝の一番鈍い鐘が、都の屋根で澄く鳴った。
凌は静陰殿の板に新しい札を掛ける。
〈今日の帳:婚礼百日祭/御前〉
〈今日の香:清二・道一(沈は祈りに留める)〉
〈今日の祓い:和〉
〈今日の灯:低〉
婚礼から百日――眠りを規格に変え、剣を後ろに眠らせ、棒を輪にしてきた日々の節目だ。
祭の骨は、武でも奢でもない。眠り前の一打(いちだ)と粥と歌。
板の下には、后印で押した百日祭の次第が貼られた。
> 一、音の儀――新銀の一打(花輪・千格・隣り環)
> 二、眠りの札――乳母と抱え女へ昼寝の覆い配布
> 三、段位授与――後宮学(言・数・手)の段
> 四、粥――白槐の蜂蜜一滴
> 五、歌――境の歌/銀の歌/眠りの歌
> 六、御前――陛下の一行/后印の朱
「棒は輪、剣は後。香鏡は斜に。――眠りが先」
燕青がうなずく。「梁の上、青の袋と香鏡、配置済み。遅れは見え次第、息で回します」
賀蘭が短く言う。「囲いは二重。剣は抜かぬ」
御台所の少年は、自慢の太鼓を抱えて跳ねた。「落としません」
凌は微笑み、胸の誓珠の破片――薄い布の内に縫い込んだ銀口を指先で確かめた。
かつて破珠にした珠の片。胸元で小さく鳴り、欠けを忘れさせない。
二 都の朝、百日に集う音
広場には、音の台と粥の釜が並ぶ。
市場監・杜温は秤を据え、造幣司の劉槃は打音台の高さを指で測った。
後宮学の女官・針子・従者が段位の札を胸にかけ、段の数だけ糸色の房が揺れる。
太后の行列は控えめだ。扇の骨は膝の上で静かに一度だけ鳴り、沈香は薄い層で和を保つ。
板の前で、凌は后印を掲げ、朱を吸わせる。
「公平で行く。――見えることで、掌握する」
女官長は頷き、針子の段位の札を確認して印を押した。
薄い朱の欠けが、眠りの枡を思わせる。
子どもたちの歌が先に走る。
> 百の夜 百の粥
> 銀の一打で 眠り積む
> 灯は低くて 剣は後
> 棒は輪になり 板は前
拙い。だが、速い。
祭は噂より先に、歌で満ちる。
三 影の配置、剣は後
凌は香鏡を斜に立て、広場の四隅へ青の袋を配した。
青は海の色。海梁会の影が紛れるとき、遅れが色に出る。
燕青は梁に上がり、屋根と屋根の継ぎ目に身を置く。
「濁の音、死の光、遅れの香――三つそろえば罪」
彼の爪先が、木の節をやさしく叩いた。
賀蘭は兵に命じる。「棒の輪、二重。剣は鞘。囲いだけ。――太鼓が三で“囲い縮め”、五で“囲い開く”」
女医官は薬の箱に蜂蜜と薄荷を忍ばせ、御台所の少年は蜂蜜粥の釜の前で太鼓を抱えた。
太后は扇を半ば閉じて、ただ見る。
勝ちではなく、眠りを渡す日の目つきだ。
四 音の儀、澄の鈴
最初の一打は、劉槃の手から。
新銀の花輪に棒の柄が触れる。
澄。
清い音が立ち、千格の光が瞬いて、右上の欠けが呼吸した。
景焔がその音に合わせて一行を書き、板に貼る。
> 〈唯一妃の名で、銀を保全し、眠りを守る〉
百日祭にふさわしい、短い言葉。
凌は后印をその隣に押し、朱の欠けが眠りの枡を作る。
子どもたちが真似して一打を鳴らし、母たちが微笑み、老人が目を細める。
澄の鈴は、不安の縁を削る。
そのとき、香鏡の端が――わずかに曇った。
五 兆し――遅れない遅れ
遅れが、遅れない。
香鏡に映る反射の位相が、ほんの半拍だけ前へ出た。
前へ――?
凌の背の皮膚が、ひやりと縮む。
遅れを武器にしてきた者が、前にずらした。
香で先に鼻を奪い、音で耳を惑わし、光で目を慣らす前に刃を通す気配。
梁の上で、燕青の指が二度、竹筒を弾く。
青の袋のひとつが、沈み、また上がった。
賀蘭の眉が、紙一枚分だけ動く。
――来る。
六 舞と刃
広場の中央に舞が出た。
百日祭の獅子――銀の花輪を冠した二人舞。
花輪が十二葉、眩しく、澄の音に合わせて小さく鳴る。
劉槃が目を細め、音の高さを測る。
ほんの気持ち、高い。
凌は一歩だけ前へ出た。
后印の朱が衣の胸で冷える。
獅子の腹の布が、わずかに膨らむ。
布の裏、刃の線。
音の高さで、刃の長さが読める。
花輪の縁に、微細な歯。音がそこで跳ね、高くなる。
「今」
凌の声と同時に、燕青の扇骨が梁の上で鳴り、賀蘭の棒が地に二度打たれ――囲い縮め。
だが、獅子は止まらない。
獅子の首が落ち、舞人の片が大地を蹴った。
布が裂け、刃が光り、空気が鳴り、香が前に走る。
七 誓珠
刃の向きが変わる。
帝へ――景焔へ。
凌は身体のほうが先に決めていた。
剣は後。
だから、身が前。
胸で鳴る薄い銀口――誓珠の破片。
その上へ、刃を受けた。
ぱきん――
耳の奥で、澄でも濁でもない、均衡の壊れる音がした。
銀の口が、粉になって飛ぶ。
布の内に縫った薄い片が、閃いて、砕けて、散った。
鉄の熱が胸に入り、冷たい銀が一瞬溶ける。
痛みは、すぐには来ない。
音が先だ。
光が遅れ、香が追いつき、痛みが名を持って胸に住みつく。
「――凌!」
帝の声が、名を呼んだ。
真名で。
その声は、祈りより早い。
八 剣は今
景焔は、剣を抜いた。
いつも後に眠らせてきた剣が、今日だけは今でよいと、板も歌も許した。
刃が光り、空気がひと筋切れ、舞人の腕から血が噴いた。
獅子の腹からもう一人が飛び出す。
双刃。
灰鼠の外套の裏、青の袋。
海梁会の匂いが薄く混じる。
賀蘭の棒が骨を折り、燕青の扇骨が腱を裂き、杜温の秤が拳を叩く。
だが、最後の刺客は紙を残して死ぬ人種ではない。
彼は刃の柄を噛み、自らの喉へ――
景焔の剣が先に入った。
終の声は、出ない。
灰鼠の目が、一瞬だけ笑い、それから消えた。
広場の音は、無になった。
澄も濁も、歌も、太鼓もない。
ただ、凌の息だけが、遅れて帰って来る。
九 血の中の朱
景焔が、抱いた。
凌の身体を。
「おまえがいない帝位に――興味はない」
帝の言葉が、子のように泣く。
胸の布が温かい。
蜂蜜のような匂いがするのは、女医官が蜂蜜を薄く塗ったからだ。
后印の朱が、凌の胸元で血に濡れ、欠けの枡が黒くなる。
凌は、笑った。
笑えるほどに、痛みはまだ名の外にいる。
「――興味を持て、陛下。民のために」
景焔の腕が、震えた。
「馬鹿だ。――我に興味があるのは、おまえだけだ」
凌は首を振る。
首は軽く、目は重い。
「規格は、人より長い。……紙に興味を持て。板に。灯に。眠りに。粥に――」
言葉がほどける。
太后の扇の欠け、蘭秀の扇骨の音、銀の澄、粥の甘さ、段位の糸、青の袋、鹿のような燕青の影、棒の輪、秤の目盛。
すべてが、遠くなる。
近いのは、帝の掌だけだ。
十 板と歌――混乱の囲い
「囲い開く!」
賀蘭の棒が地を五度打つ。
兵が人垣を広げ、母子を出し、老人を座らせ、粥を運ぶ。
御台所の少年が太鼓で三拍打ち、眠りの拍を刻む。
「落としません」
彼の声は、泣いていた。
杜温は柱に札を貼る。
〈偽の香袋、青の遅れ。海梁会〉
〈罪は薄紙。晒さず、眠りへ〉
劉槃は花輪を打つ。
澄。
人々の目が、戻る。
音は、心を囲う。
太后は扇を膝に置き、后印の朱の上に自らの手を重ねた。
「見えるところで押す」
彼女の声は、硬い。
朱と血は、隣り合い、混じらない。
十一 女医官の祓い、蜂蜜の一滴
女医官は刃の入った角度を目で読み、手で押さえ、蜂蜜を一滴、薄荷で伸ばす。
「息を。――浅く、早くないほう」
凌の胸の内で、銀粉がきらめいた。
誓珠の残り。
粉は血に混じり、指の腹に貼りつく。
女医官はその粉を剥がず、布で押さえ、香の層を薄く重ねた。
〈沈ごく薄・清二・道一〉
呼吸に香を合わせる。
祈りではない。規格だ。
燕青が膝をつき、「働きで償う」と小さく言って、凌の影になった。
凌は彼の耳の赤さを思い出し、笑いそうになった。
十二 刺客の正体、薄紙の名
刺客の衣の裏から、薄紙が出た。
杜温が読み上げる。
> 〈百日の鈴、濁に崩せ。花輪の歯、一葉だけ逆に。〉
> 〈唯一の名を血に変えよ。〉
> 〈灰鼠の印。海梁会〉
> 〈来たる者、名を残すな〉
名は、残っていた。
薄く、小さく。
劉槃が花輪の縁を撫で、「逆刃」と呟いた。
音は高くなる。
音が兆す。
板が、それを読めなかった悔しさが、彼の掌を重くした。
太后は扇の骨を一度鳴らした。
「見えるように、貼れ」
杜温は薄紙を板の裏に貼り、眠りの札で覆った。
晒すのではない。記録だ。
長い。
十三 帝の涙、子の声
景焔は凌を抱いたまま動かない。
帝も、子になる。
凌の額に落ちる滴は、汗ではない。
涙だ。
百日目に、帝の涙を見る者は少ない。
だが、歌は、知る。
> 帝の涙で 朱が濡れ
> 朱の欠けには 眠りあり
> 剣は今だけ 棒は輪
> 百の夜過ぎ 百の粥
拙い。だが、速い。
歌が、広場の震えを丸くする。
凌は目を細め、帝の頬の塩を舌の上で想像した。
白槐の蜂蜜より辛いだろう。
言葉は短くていい。
民のために、興味を持て――それで十分だ。
十四 后印の朱、宣言の続き
太后が后印を取り、板の下に押した。
> 〈百日の規格は、眠りと粥と一打〉
> 〈剣は後ろで眠れ。――例外は、人のため〉
例外が、今日だった。
剣は今。
だが、板は戻る。
剣を後へ。
棒を輪に。
灯を低く。
歌を前に。
景焔は短く頷き、凌の指に唇を触れ――その指の腹に、銀粉が貼りついているのを見た。
誓珠の、最後のかけら。
帝の喉が、音を飲み込んだ。
十五 遠のく視界、近づく声
視界が遠くなる。
人の顔は色に、声は線に、香は層に、光は欠けに、痛みは名に。
眠りの前の世界。
凌はそこで、板を思い出した。
〈唯一は席ではない。規格〉
〈勝つことばかりが愛ではない〉
〈余白〉
〈眠りの札〉
〈段位〉
〈粥〉
〈音・光・香〉
〈后印〉
〈剣は後〉
〈棒は輪〉
〈境の歌〉
全部が、紙に、朱に、墨に、歌に、道具に、人に――宿っている。
景焔の声だけが、近い。
「凌。……眠れ」
命令でも祈りでもない。
許しの声だ。
十六 最後の仕事
凌は指を、少し動かした。
粉が、指の腹と腹の間で鳴る。
銀が、最後の規格を作る。
――隣。
名は隣り、混じらない。
身に移し、銀に移し、紙に移し――最後は、人に移す。
「陛下」
声は薄い。
「興味を、持って。……板に、粥に、灯に。
民のための、興味を」
笑えたのか、自分でも分からない。
だが、帝の掌が、頬の骨をこする感触は、温かった。
十七 燕青の誓い、賀蘭の一行
燕青が額を地に付けた。
「命ではなく、働きで償います。……影は、眠りを見ます」
賀蘭が棒を地に一度打ち、短い一行を板に貼った。
> 〈剣は鞘へ〉
祭は、戻る。
戻ることが、勝ちだ。
勝ちは制度へ。
負けは人へ。
眠りは、みなへ。
十八 太后の扇、母の掌
太后が、凌の髪に指を入れた。
扇の骨が、耳の後ろで小さく触れた。
「よく負ける。……よく勝つ」
凌は頷けたかどうか、分からない。
沈香の層が、和へと戻っていくのだけは、感じられた。
「景焔」
太后の声は低い。
「興味を持ちなさい。――勝ちにも、負けにも。眠りにも」
景焔は黙って頷き、凌の指を両手で包んだ。
十九 銀粉
光が、欠けの枡の縁で揺れる。
音が、澄の鈴を遠くで真似る。
香が、道の線を細く引き直す。
痛みが、ようやく名で呼ばれ――眠りが、すっと入って来る。
指の腹に、銀粉が残っていた。
誓珠の砕け。
粉は、星ではない。
規格でもない。
ただの残り。
だが、十分だ。
隣に、名があることを、思い出させるには。
凌は薄く微笑み、目を閉じた。
銀粉が、指の間で――きらり――と、鳴った。
二十 百日目の夜、灯は低く
夜、百日祭の灯は低く保たれた。
御台所の少年は粥の釜を洗い、太鼓を布で拭き、「落としません」を三度繰り返した。
劉槃は花輪の歯をひとつずつ撫でて検め、杜温は板の裏に薄紙を増やした。
賀蘭は剣を鞘へ戻し、燕青は梁の継ぎ目に息を置いた。
太后は扇の欠けを指で確かめ、祈りではなく眠りの札を枕元に置き、景焔は凌の掌を離さず、目を閉じた。
“唯一は席ではない。規格だ。”
規格は、人より長い。
新銀の音、千格の光、香符の香、后印の朱、段位の糸、棒の輪、剣の後――
続けるために、今がある。
百日目の夜は、長かった。
眠りは、薄かった。
それでも、灯は低かった。
そして、指の腹には、まだ――
銀粉が、残っていた。
朝の一番鈍い鐘が、都の屋根で澄く鳴った。
凌は静陰殿の板に新しい札を掛ける。
〈今日の帳:婚礼百日祭/御前〉
〈今日の香:清二・道一(沈は祈りに留める)〉
〈今日の祓い:和〉
〈今日の灯:低〉
婚礼から百日――眠りを規格に変え、剣を後ろに眠らせ、棒を輪にしてきた日々の節目だ。
祭の骨は、武でも奢でもない。眠り前の一打(いちだ)と粥と歌。
板の下には、后印で押した百日祭の次第が貼られた。
> 一、音の儀――新銀の一打(花輪・千格・隣り環)
> 二、眠りの札――乳母と抱え女へ昼寝の覆い配布
> 三、段位授与――後宮学(言・数・手)の段
> 四、粥――白槐の蜂蜜一滴
> 五、歌――境の歌/銀の歌/眠りの歌
> 六、御前――陛下の一行/后印の朱
「棒は輪、剣は後。香鏡は斜に。――眠りが先」
燕青がうなずく。「梁の上、青の袋と香鏡、配置済み。遅れは見え次第、息で回します」
賀蘭が短く言う。「囲いは二重。剣は抜かぬ」
御台所の少年は、自慢の太鼓を抱えて跳ねた。「落としません」
凌は微笑み、胸の誓珠の破片――薄い布の内に縫い込んだ銀口を指先で確かめた。
かつて破珠にした珠の片。胸元で小さく鳴り、欠けを忘れさせない。
二 都の朝、百日に集う音
広場には、音の台と粥の釜が並ぶ。
市場監・杜温は秤を据え、造幣司の劉槃は打音台の高さを指で測った。
後宮学の女官・針子・従者が段位の札を胸にかけ、段の数だけ糸色の房が揺れる。
太后の行列は控えめだ。扇の骨は膝の上で静かに一度だけ鳴り、沈香は薄い層で和を保つ。
板の前で、凌は后印を掲げ、朱を吸わせる。
「公平で行く。――見えることで、掌握する」
女官長は頷き、針子の段位の札を確認して印を押した。
薄い朱の欠けが、眠りの枡を思わせる。
子どもたちの歌が先に走る。
> 百の夜 百の粥
> 銀の一打で 眠り積む
> 灯は低くて 剣は後
> 棒は輪になり 板は前
拙い。だが、速い。
祭は噂より先に、歌で満ちる。
三 影の配置、剣は後
凌は香鏡を斜に立て、広場の四隅へ青の袋を配した。
青は海の色。海梁会の影が紛れるとき、遅れが色に出る。
燕青は梁に上がり、屋根と屋根の継ぎ目に身を置く。
「濁の音、死の光、遅れの香――三つそろえば罪」
彼の爪先が、木の節をやさしく叩いた。
賀蘭は兵に命じる。「棒の輪、二重。剣は鞘。囲いだけ。――太鼓が三で“囲い縮め”、五で“囲い開く”」
女医官は薬の箱に蜂蜜と薄荷を忍ばせ、御台所の少年は蜂蜜粥の釜の前で太鼓を抱えた。
太后は扇を半ば閉じて、ただ見る。
勝ちではなく、眠りを渡す日の目つきだ。
四 音の儀、澄の鈴
最初の一打は、劉槃の手から。
新銀の花輪に棒の柄が触れる。
澄。
清い音が立ち、千格の光が瞬いて、右上の欠けが呼吸した。
景焔がその音に合わせて一行を書き、板に貼る。
> 〈唯一妃の名で、銀を保全し、眠りを守る〉
百日祭にふさわしい、短い言葉。
凌は后印をその隣に押し、朱の欠けが眠りの枡を作る。
子どもたちが真似して一打を鳴らし、母たちが微笑み、老人が目を細める。
澄の鈴は、不安の縁を削る。
そのとき、香鏡の端が――わずかに曇った。
五 兆し――遅れない遅れ
遅れが、遅れない。
香鏡に映る反射の位相が、ほんの半拍だけ前へ出た。
前へ――?
凌の背の皮膚が、ひやりと縮む。
遅れを武器にしてきた者が、前にずらした。
香で先に鼻を奪い、音で耳を惑わし、光で目を慣らす前に刃を通す気配。
梁の上で、燕青の指が二度、竹筒を弾く。
青の袋のひとつが、沈み、また上がった。
賀蘭の眉が、紙一枚分だけ動く。
――来る。
六 舞と刃
広場の中央に舞が出た。
百日祭の獅子――銀の花輪を冠した二人舞。
花輪が十二葉、眩しく、澄の音に合わせて小さく鳴る。
劉槃が目を細め、音の高さを測る。
ほんの気持ち、高い。
凌は一歩だけ前へ出た。
后印の朱が衣の胸で冷える。
獅子の腹の布が、わずかに膨らむ。
布の裏、刃の線。
音の高さで、刃の長さが読める。
花輪の縁に、微細な歯。音がそこで跳ね、高くなる。
「今」
凌の声と同時に、燕青の扇骨が梁の上で鳴り、賀蘭の棒が地に二度打たれ――囲い縮め。
だが、獅子は止まらない。
獅子の首が落ち、舞人の片が大地を蹴った。
布が裂け、刃が光り、空気が鳴り、香が前に走る。
七 誓珠
刃の向きが変わる。
帝へ――景焔へ。
凌は身体のほうが先に決めていた。
剣は後。
だから、身が前。
胸で鳴る薄い銀口――誓珠の破片。
その上へ、刃を受けた。
ぱきん――
耳の奥で、澄でも濁でもない、均衡の壊れる音がした。
銀の口が、粉になって飛ぶ。
布の内に縫った薄い片が、閃いて、砕けて、散った。
鉄の熱が胸に入り、冷たい銀が一瞬溶ける。
痛みは、すぐには来ない。
音が先だ。
光が遅れ、香が追いつき、痛みが名を持って胸に住みつく。
「――凌!」
帝の声が、名を呼んだ。
真名で。
その声は、祈りより早い。
八 剣は今
景焔は、剣を抜いた。
いつも後に眠らせてきた剣が、今日だけは今でよいと、板も歌も許した。
刃が光り、空気がひと筋切れ、舞人の腕から血が噴いた。
獅子の腹からもう一人が飛び出す。
双刃。
灰鼠の外套の裏、青の袋。
海梁会の匂いが薄く混じる。
賀蘭の棒が骨を折り、燕青の扇骨が腱を裂き、杜温の秤が拳を叩く。
だが、最後の刺客は紙を残して死ぬ人種ではない。
彼は刃の柄を噛み、自らの喉へ――
景焔の剣が先に入った。
終の声は、出ない。
灰鼠の目が、一瞬だけ笑い、それから消えた。
広場の音は、無になった。
澄も濁も、歌も、太鼓もない。
ただ、凌の息だけが、遅れて帰って来る。
九 血の中の朱
景焔が、抱いた。
凌の身体を。
「おまえがいない帝位に――興味はない」
帝の言葉が、子のように泣く。
胸の布が温かい。
蜂蜜のような匂いがするのは、女医官が蜂蜜を薄く塗ったからだ。
后印の朱が、凌の胸元で血に濡れ、欠けの枡が黒くなる。
凌は、笑った。
笑えるほどに、痛みはまだ名の外にいる。
「――興味を持て、陛下。民のために」
景焔の腕が、震えた。
「馬鹿だ。――我に興味があるのは、おまえだけだ」
凌は首を振る。
首は軽く、目は重い。
「規格は、人より長い。……紙に興味を持て。板に。灯に。眠りに。粥に――」
言葉がほどける。
太后の扇の欠け、蘭秀の扇骨の音、銀の澄、粥の甘さ、段位の糸、青の袋、鹿のような燕青の影、棒の輪、秤の目盛。
すべてが、遠くなる。
近いのは、帝の掌だけだ。
十 板と歌――混乱の囲い
「囲い開く!」
賀蘭の棒が地を五度打つ。
兵が人垣を広げ、母子を出し、老人を座らせ、粥を運ぶ。
御台所の少年が太鼓で三拍打ち、眠りの拍を刻む。
「落としません」
彼の声は、泣いていた。
杜温は柱に札を貼る。
〈偽の香袋、青の遅れ。海梁会〉
〈罪は薄紙。晒さず、眠りへ〉
劉槃は花輪を打つ。
澄。
人々の目が、戻る。
音は、心を囲う。
太后は扇を膝に置き、后印の朱の上に自らの手を重ねた。
「見えるところで押す」
彼女の声は、硬い。
朱と血は、隣り合い、混じらない。
十一 女医官の祓い、蜂蜜の一滴
女医官は刃の入った角度を目で読み、手で押さえ、蜂蜜を一滴、薄荷で伸ばす。
「息を。――浅く、早くないほう」
凌の胸の内で、銀粉がきらめいた。
誓珠の残り。
粉は血に混じり、指の腹に貼りつく。
女医官はその粉を剥がず、布で押さえ、香の層を薄く重ねた。
〈沈ごく薄・清二・道一〉
呼吸に香を合わせる。
祈りではない。規格だ。
燕青が膝をつき、「働きで償う」と小さく言って、凌の影になった。
凌は彼の耳の赤さを思い出し、笑いそうになった。
十二 刺客の正体、薄紙の名
刺客の衣の裏から、薄紙が出た。
杜温が読み上げる。
> 〈百日の鈴、濁に崩せ。花輪の歯、一葉だけ逆に。〉
> 〈唯一の名を血に変えよ。〉
> 〈灰鼠の印。海梁会〉
> 〈来たる者、名を残すな〉
名は、残っていた。
薄く、小さく。
劉槃が花輪の縁を撫で、「逆刃」と呟いた。
音は高くなる。
音が兆す。
板が、それを読めなかった悔しさが、彼の掌を重くした。
太后は扇の骨を一度鳴らした。
「見えるように、貼れ」
杜温は薄紙を板の裏に貼り、眠りの札で覆った。
晒すのではない。記録だ。
長い。
十三 帝の涙、子の声
景焔は凌を抱いたまま動かない。
帝も、子になる。
凌の額に落ちる滴は、汗ではない。
涙だ。
百日目に、帝の涙を見る者は少ない。
だが、歌は、知る。
> 帝の涙で 朱が濡れ
> 朱の欠けには 眠りあり
> 剣は今だけ 棒は輪
> 百の夜過ぎ 百の粥
拙い。だが、速い。
歌が、広場の震えを丸くする。
凌は目を細め、帝の頬の塩を舌の上で想像した。
白槐の蜂蜜より辛いだろう。
言葉は短くていい。
民のために、興味を持て――それで十分だ。
十四 后印の朱、宣言の続き
太后が后印を取り、板の下に押した。
> 〈百日の規格は、眠りと粥と一打〉
> 〈剣は後ろで眠れ。――例外は、人のため〉
例外が、今日だった。
剣は今。
だが、板は戻る。
剣を後へ。
棒を輪に。
灯を低く。
歌を前に。
景焔は短く頷き、凌の指に唇を触れ――その指の腹に、銀粉が貼りついているのを見た。
誓珠の、最後のかけら。
帝の喉が、音を飲み込んだ。
十五 遠のく視界、近づく声
視界が遠くなる。
人の顔は色に、声は線に、香は層に、光は欠けに、痛みは名に。
眠りの前の世界。
凌はそこで、板を思い出した。
〈唯一は席ではない。規格〉
〈勝つことばかりが愛ではない〉
〈余白〉
〈眠りの札〉
〈段位〉
〈粥〉
〈音・光・香〉
〈后印〉
〈剣は後〉
〈棒は輪〉
〈境の歌〉
全部が、紙に、朱に、墨に、歌に、道具に、人に――宿っている。
景焔の声だけが、近い。
「凌。……眠れ」
命令でも祈りでもない。
許しの声だ。
十六 最後の仕事
凌は指を、少し動かした。
粉が、指の腹と腹の間で鳴る。
銀が、最後の規格を作る。
――隣。
名は隣り、混じらない。
身に移し、銀に移し、紙に移し――最後は、人に移す。
「陛下」
声は薄い。
「興味を、持って。……板に、粥に、灯に。
民のための、興味を」
笑えたのか、自分でも分からない。
だが、帝の掌が、頬の骨をこする感触は、温かった。
十七 燕青の誓い、賀蘭の一行
燕青が額を地に付けた。
「命ではなく、働きで償います。……影は、眠りを見ます」
賀蘭が棒を地に一度打ち、短い一行を板に貼った。
> 〈剣は鞘へ〉
祭は、戻る。
戻ることが、勝ちだ。
勝ちは制度へ。
負けは人へ。
眠りは、みなへ。
十八 太后の扇、母の掌
太后が、凌の髪に指を入れた。
扇の骨が、耳の後ろで小さく触れた。
「よく負ける。……よく勝つ」
凌は頷けたかどうか、分からない。
沈香の層が、和へと戻っていくのだけは、感じられた。
「景焔」
太后の声は低い。
「興味を持ちなさい。――勝ちにも、負けにも。眠りにも」
景焔は黙って頷き、凌の指を両手で包んだ。
十九 銀粉
光が、欠けの枡の縁で揺れる。
音が、澄の鈴を遠くで真似る。
香が、道の線を細く引き直す。
痛みが、ようやく名で呼ばれ――眠りが、すっと入って来る。
指の腹に、銀粉が残っていた。
誓珠の砕け。
粉は、星ではない。
規格でもない。
ただの残り。
だが、十分だ。
隣に、名があることを、思い出させるには。
凌は薄く微笑み、目を閉じた。
銀粉が、指の間で――きらり――と、鳴った。
二十 百日目の夜、灯は低く
夜、百日祭の灯は低く保たれた。
御台所の少年は粥の釜を洗い、太鼓を布で拭き、「落としません」を三度繰り返した。
劉槃は花輪の歯をひとつずつ撫でて検め、杜温は板の裏に薄紙を増やした。
賀蘭は剣を鞘へ戻し、燕青は梁の継ぎ目に息を置いた。
太后は扇の欠けを指で確かめ、祈りではなく眠りの札を枕元に置き、景焔は凌の掌を離さず、目を閉じた。
“唯一は席ではない。規格だ。”
規格は、人より長い。
新銀の音、千格の光、香符の香、后印の朱、段位の糸、棒の輪、剣の後――
続けるために、今がある。
百日目の夜は、長かった。
眠りは、薄かった。
それでも、灯は低かった。
そして、指の腹には、まだ――
銀粉が、残っていた。



