一 銀の線、灯は低く
朝の一番鈍い鐘が、都の屋根に薄い金属音を落とした。
凌は静陰殿の板に新しい札を掛ける。
〈今日の帳:第二の国境/銀相場〉
〈今日の香:清二・道一(沈は祈りに留める)〉
〈今日の祓い:和〉
〈今日の灯:低〉
国境は地図の線だけではない。値にも線がある。
――相場という第二の国境。
線の内側に眠り、外側に噂が走る。
裏板の竹筒が、湿りを帯びて鳴った。
燕青が耳を当て、短く言う。「銀工組合の背後から、海の“青”が濃い息で逆流。……商会の名が繰り返されます」
「海梁会(かいりょうかい)?」
「はい。国でも敵でもない。第三の輪」
凌は、板の端に小さく書いた。
〈第三勢力=海梁会/十七の島/銀・油・時間〉
剣ではなく、相場で国境を押し返す者たち。
灯は低く、板は高く。
二 帳の裏、灰鼠の印
市場監(しじょうのあらため)・杜温(とおん)が静陰殿に姿を見せた。
灰鼠色の外套、指の腹は墨で黒い。紙の匂いが似合う男だ。
「御前の前に、帳の前に」
彼が差し出したのは、銀工組合の親方の机の底から出た第二の箱。
封緘の朱に灰鼠(はいそ)の小さな刻印――海梁会の符だ。
開く。紙は薄く、塩の筋が残る。
> 〈第四月:市の銀を二割引く。翌月に戻す。〉
> 〈葦の湾:紅夷の船、三日停。〉
> 〈銀口比:七分三厘に落とす。銅で埋める。〉
> 〈祭の宵:香を厚く。眠りを薄く。〉
> 〈唯一妃の噂、増幅すべし。〉
凌は眉をひと筋だけ寄せた。
眠りを薄く、噂を厚く。
剣より相場。
攻城より会計。
杜温が静かに言う。「銀相場を押せば、賃が揺れます。眠りが削れ、板が剥がれる」
凌は頷く。「板を硬貨にする。――規格で相場を囲う」
三 造幣司の工房、音の規格
**造幣司(ぞうへいし)**の工房。
劉槃(りゅうはん)――古鍛冶から上がった鋳造の長は、手のひらが厚く、耳が良い。
凌は板を見せながら言った。
「偽造防止紋を、**“音”と“光”と“香”**で」
劉槃は笑った。「刃も、音で抜ける日がある」
凌は三層を示す。
一、音――真円の外縁に“花輪(はなわ)”を刻む。十二葉。銀の厚みを均し、澄の音を固める。削り(クリッピング)すると音が濁る。
二、光――面に千格の格子を敷く。右上の一枡を欠く(后印と同形)。光の帳の格子。光が走ると、欠けが呼吸する。
三、香――香符〈沈一・清二・道一〉を微細に埋め込む。香鏡で二度刻みの反射を読む。遅れが出れば、偽。
劉槃は指で金型を撫で、眼で重さを測る。
「誓珠の微細刻印は、どう出す」
凌は小匣を開き、割れた誓珠の銀口を見せた。
「隣の紋。二つの名が寄り、混じらない。――“隣り環(となりわ)”」
顕微の彫りで、隣の字の変形を円環に刻む。肉眼では模様、香鏡では誓。
「身に移した誓いを、銀に移す。珠は割れた。制度は残る」
劉槃は深く息を吐き、低く笑った。
「音を聞いて、光を見て、香を読む。……剣より長い仕事だ」
四 市場監と輪の頭、三者の握手
銀工組合の“輪”の頭が工房に現れ、帽子を脱いだ。
「輪は、真円のままで」
凌は頷く。「宮輪と民輪、二重のまま。新銀貨は、両輪の軸に据える」
杜温が紙を広げる。
「回収と鋳替の段取り。三段で」
> 段一:告示。新銀貨の規格(音・光・香)と、旧貨の回収幅。
> 段二:秤と香鏡を市と郡へ。読み手を派遣。
> 段三:鋳座を増やし、回しを防ぐための袋に“海の香符(青)”を仕込む。
輪の頭が言う。「袋は、輪で縫う。針の段位が歌になる」
凌は笑った。「歌は速い。――偽貨より」
「剣は後」
賀蘭が入口で短く告げ、棒で扉を軽く叩いた。囲いは整っている。
杜温が「板を前に」と言い、三人は握手の代わりに、それぞれの道具を板の前に置いた。
輪の頭は金槌、劉槃は鋳型、杜温は秤。
凌はその横に后印を置いた。
五 御前――銀の宣言
御前。
景焔は灯を低く、民の目線の高さに板を下ろさせた。
凌は壇の手前に立ち、后印を公に掲げる。
香は清、祓いは和、音はまだ鳴らさない。
景焔の一行が先に走る。
> 〈唯一妃の名で、銀を保全する〉
ざわめきが走る。
唯一は席ではない。規格だ。
規格の名で、信用を刻む。
凌は続ける。
「新しい銀貨は、音と光と香で守ります。
音は花輪の十二葉。削れば濁ります。
光は千格の帳。右上の欠けは眠りの枡。
香は香符。誓珠の隣り環が、微細に刻まれます。
――偽は、遅れます」
景焔が短く頷き、民のほうへ身を傾けた。
「眠れ」
その一言に、板の文字が息を吸う。
御前の広場で、最初の打音が響いた。
劉槃が新銀を出し、棒の柄で軽く打つ。
澄。
音が高く、長く、広場の屋根でゆっくり折れた。
歌は、音から生まれる。
> 銀の澄 花の輪
> 光の欠けは 眠りの枡
> 香の隣 名は寄り
> 剣は後ろで 棒は輪に
民の口から自然に洩れた節が、板の周りで輪になった。
六 第三勢力の影、値の崩し
その夜、裏板の息が青く震えた。
〈市の南、市価を暴落させる投げ。海梁会の手〉
杜温が走り込む。「値を崩しに来た」
賀蘭が「囲いだけ」と言って棒を持ち、燕青が屋根へ消えた。
凌は剣ではなく、札を取る。
〈音の市〉――秤の横に打音台を置く。
〈光の市〉――香鏡と光の帳。
〈香の市〉――袋の“青”と香符。
市に三つの輪が立つ。
海梁会の男たちが銅混じりの銀を投げる。
男は笑い、笑いは薄い。「価は紙で決まらぬ」
凌は返す。「紙ではない。――音と光と香で決まる」
打音。濁。
光。欠けが呼吸せず、死。
香。二度刻みの遅れ。
偽は遅れる。
遅れは罪。
杜温が札に書き、貼る。
〈偽貨、三百。袋の“青”、遅延〉
晒しではない。記録だ。
記録は、長い。
歌が、呼応する。
> 濁の音 死の光
> 遅れの香は 罪となる
> 袋の青で 海が出る
> 剣は後ろで 板は前
海梁会の男が舌打ちし、影に退いた。
剣は抜かれない。
棒は輪に、歌は前へ。
七 銀の袋――海の堰
港の板にも、新しい札が立った。
〈青の袋〉――海路用の貨袋。
香符〈沈一・清一・道一〉に青の層を薄く重ね、海の湿りと塩で反射が変調する。
港の堰を越えようとする袋は、青が遅れて色になる。
遅れは、嘘。
港の童が、青を指でなぞる。
色は、言葉より速い。
紅夷の商船の甲板で、髭の長い男が笑い、すぐやめた。
等幅の字が怖いのだ。
港の板の等幅は、名と数を同じに扱い、境を同じに押す。
八 御台所の粥、値の歌
市の中央、粥の鍋。
御台所の少年が太鼓を抱え、粥杓子を打つように混ぜる。
「落としません」
彼の口癖が、今日ほど相場に効いた日はない。
粥の値が板に貼られ、銀との比が毎朝更新される。
粥の相場は、国の眠りの相場だ。
海梁会が銀の値を崩しても、粥の値は緩やかにしか動かない。
規格が、腹を守る。
> 粥は一 銀は花
> 花は十二 音で鳴る
> 光の欠けに 眠りあり
> 香の隣で 名は寄る
歌は拙い。だが、速い。
眠りは、歌で厚くなる。
九 第三勢力の顔――灰鼠の男
夜、影が縁側に腰を下ろした。
燕青の刃は出ない。棒も輪の外で眠る。
灰鼠の外套、薄い頬、乾いた指。海梁会の使いだ。
男は笑わず、喋る。
「国は、剣で壊れるより、相場で疲れるほうが長い。眠りは薄く、噂は厚くなる。人は自分で自分を削る」
凌は首を振る。「板は、削れません」
男は細い紙を置いた。
> 〈均質は、独占と同じ〉
「唯一は席ではない――規格? 規格は、単一だ」
凌は微笑し、后印を紙の上に押した。
朱の欠けが、紙の上で呼吸する。
「欠けがある。均質ではない。眠りのための余白が、規格の中にある」
男は初めて、嘴の端を上げた。
「詩人め」
言い捨てて、影に消える。
剣は抜かれない。
詩は、板の隅で続く。
十 銀の生まれる音、子の掌
新銀貨の鋳座が増え、花輪の音が都に増殖した。
子が掌に一枚、母が懐に二枚、老人が枕の下に半を置く。
澄の音は、眠りの前の鈴になる。
眠りの前に、一度だけ鳴らす。
眠れに音が伴うと、噂は遅い。
劉槃は、打音で職人の段を付けた。
「今のは、澄の中。端がまだ濁る」
職人は目を閉じ、耳を鍛える。
段が増えるたび、賃が少し動く。
公平は、見えることで力になる。
十一 旧貨の回収、薄い恥
旧銀貨は、板の前で回収された。
秤にかけ、香鏡に当て、音を聞く。
薄い銀、遅れる香、沈まない光。
晒しではない。薄い恥だ。
薄いほうが、長い。
長い恥は、働きに変わる。
宰相家の次男が、自ら隊に入り、旧貨を担いだ。
「働きで償う」
彼の言は、板に吸われ、歌に返される。
十二 御前の夜――二人の短い会話
夜。
景焔が静陰殿に現れ、板の前で澄の音をひとつ鳴らした。
「唯一の名で、銀を保全する――言い過ぎか」
凌は首を振る。
「規格の名です。席の名ではない」
帝は頷き、凌の指に口づけを落とす。
「馬鹿だ」
声は、温い。
指の上で、后印の欠けが静に冷たい。
十三 海梁会の次の手、紙の毒
翌朝、裏板に紙が滑り込んだ。
偽の告示。
> 〈新銀貨の鋳、破。花輪、剥げる。香符、臭い〉
紙の毒。
噂は速い。
凌は対の紙を先に走らせた。
> 〈音を打て。光を見よ。香を読め。紙は、後だ〉
御台所の少年が太鼓で三拍を打ち、子が打音を真似る。
耳は、紙より先に寝る前の信を作る。
十四 境の歌、第二の国境
板の上に、凌はこの章の名を太い字で記した。
> 〈第二の国境〉
地図の線は刃で守る。
相場の線は歌で守る。
> 〈銀の線=眠りの線〉
> 〈唯一=規格〉
> 〈誓い=隣/香符/后印〉
子が新しい歌を作る。
> 地の境(さかい)は 刃の後
> 値の境は 歌の前
> 銀の澄 花の輪
> 欠けの枡で 眠り積む
十五 市場監の夜の巡り、棒の輪
杜温は夜の市を巡った。
棒は輪に、剣は後ろで眠る。
海梁会の手の者が、薄銀をこっそり混ぜる。
杜温は秤を置き、音を打ち、香鏡を当てる。
濁。死。遅れ。
三つ揃えば、罪は薄い紙になり、板の裏に貼られる。
晒しではない。記録だ。
記録は、長い。
十六 港の風、紅夷の白
青塩湾。
紅夷の船が距離を取り、風が白い帆を撫でる。
海梁会の船は集まらず、散る。
港の堰は、板と歌で高くなった。
青の袋が階段のように並ぶ。
色は、言葉より速い。
銀は、剣より遅く、長い。
十七 新銀貨の“儀”、眠りの前
凌は后印で最後の規格を押した。
〈眠りの前の一打(ひとつ)〉――
誰でも、眠る前に一度だけ、新銀を軽く打て。
澄の音が出れば、明日の粥は落ちない。
濁の音が出れば、板の前へ。
祓いは薄く、香は清。
景焔が小さく笑った。「詩だ」
「規格です」
凌は真顔で返し、帝の肩に額を寄せた。
温い。
短い。
深い。
十八 太后の扇、光の欠け
太后が工房を訪れ、千格の板を見た。
「光の欠けが、眠りの枡か」
「はい。――后印と同じ欠け」
太后は扇骨で格子の右上に触れた。
「恥ではない。印だ」
沈香は薄く、祈りは短い。
扇の欠けは、続ける意思の記号。
十九 海梁会の書状、最後の薄笑い
灰鼠の印の書状が、最後に一通。
> 〈眠りを売る者は、高く買われる〉
凌は后印で朱を押し、板の裏に封じた。
「眠りは売らない。――渡す」
規格は、無料だ。
歌は、誰のものでもない。
二十 銀の線は残る――続ける
夜更け、静陰殿の板に、凌は最後の札を足した。
〈今日の帳:新銀貨/音・光・香〉
〈今日の香:清〉
〈今日の祓い:和〉
〈今日の灯:低〉
澄の音が、板の前でひとつ鳴る。
光の欠けが、朱の上で呼吸する。
香の隣り環が、香鏡の中で寄り、混じらない。
“唯一は席ではない。規格だ。”
規格は銀にも宿る。
第二の国境――相場の線は、音と光と香で見えるようになった。
剣は後ろで眠り、棒は輪に、板は前で歌を待つ。
噂は速い。紙は遅い。
音と光と香は、紙を助けて、眠りを守る。
凌は后印を胸の高さで軽く叩き、目を閉じた。
誓珠の破片が、ほとんど聞こえないほどに鳴る。
蘭秀の欠けた扇骨がどこかの風の角で小さく触れ合い、太后の沈香は祈りに戻り、景焔の一行が眠れと言う。
銀の線は、残る。
続ける。
朝の一番鈍い鐘が、都の屋根に薄い金属音を落とした。
凌は静陰殿の板に新しい札を掛ける。
〈今日の帳:第二の国境/銀相場〉
〈今日の香:清二・道一(沈は祈りに留める)〉
〈今日の祓い:和〉
〈今日の灯:低〉
国境は地図の線だけではない。値にも線がある。
――相場という第二の国境。
線の内側に眠り、外側に噂が走る。
裏板の竹筒が、湿りを帯びて鳴った。
燕青が耳を当て、短く言う。「銀工組合の背後から、海の“青”が濃い息で逆流。……商会の名が繰り返されます」
「海梁会(かいりょうかい)?」
「はい。国でも敵でもない。第三の輪」
凌は、板の端に小さく書いた。
〈第三勢力=海梁会/十七の島/銀・油・時間〉
剣ではなく、相場で国境を押し返す者たち。
灯は低く、板は高く。
二 帳の裏、灰鼠の印
市場監(しじょうのあらため)・杜温(とおん)が静陰殿に姿を見せた。
灰鼠色の外套、指の腹は墨で黒い。紙の匂いが似合う男だ。
「御前の前に、帳の前に」
彼が差し出したのは、銀工組合の親方の机の底から出た第二の箱。
封緘の朱に灰鼠(はいそ)の小さな刻印――海梁会の符だ。
開く。紙は薄く、塩の筋が残る。
> 〈第四月:市の銀を二割引く。翌月に戻す。〉
> 〈葦の湾:紅夷の船、三日停。〉
> 〈銀口比:七分三厘に落とす。銅で埋める。〉
> 〈祭の宵:香を厚く。眠りを薄く。〉
> 〈唯一妃の噂、増幅すべし。〉
凌は眉をひと筋だけ寄せた。
眠りを薄く、噂を厚く。
剣より相場。
攻城より会計。
杜温が静かに言う。「銀相場を押せば、賃が揺れます。眠りが削れ、板が剥がれる」
凌は頷く。「板を硬貨にする。――規格で相場を囲う」
三 造幣司の工房、音の規格
**造幣司(ぞうへいし)**の工房。
劉槃(りゅうはん)――古鍛冶から上がった鋳造の長は、手のひらが厚く、耳が良い。
凌は板を見せながら言った。
「偽造防止紋を、**“音”と“光”と“香”**で」
劉槃は笑った。「刃も、音で抜ける日がある」
凌は三層を示す。
一、音――真円の外縁に“花輪(はなわ)”を刻む。十二葉。銀の厚みを均し、澄の音を固める。削り(クリッピング)すると音が濁る。
二、光――面に千格の格子を敷く。右上の一枡を欠く(后印と同形)。光の帳の格子。光が走ると、欠けが呼吸する。
三、香――香符〈沈一・清二・道一〉を微細に埋め込む。香鏡で二度刻みの反射を読む。遅れが出れば、偽。
劉槃は指で金型を撫で、眼で重さを測る。
「誓珠の微細刻印は、どう出す」
凌は小匣を開き、割れた誓珠の銀口を見せた。
「隣の紋。二つの名が寄り、混じらない。――“隣り環(となりわ)”」
顕微の彫りで、隣の字の変形を円環に刻む。肉眼では模様、香鏡では誓。
「身に移した誓いを、銀に移す。珠は割れた。制度は残る」
劉槃は深く息を吐き、低く笑った。
「音を聞いて、光を見て、香を読む。……剣より長い仕事だ」
四 市場監と輪の頭、三者の握手
銀工組合の“輪”の頭が工房に現れ、帽子を脱いだ。
「輪は、真円のままで」
凌は頷く。「宮輪と民輪、二重のまま。新銀貨は、両輪の軸に据える」
杜温が紙を広げる。
「回収と鋳替の段取り。三段で」
> 段一:告示。新銀貨の規格(音・光・香)と、旧貨の回収幅。
> 段二:秤と香鏡を市と郡へ。読み手を派遣。
> 段三:鋳座を増やし、回しを防ぐための袋に“海の香符(青)”を仕込む。
輪の頭が言う。「袋は、輪で縫う。針の段位が歌になる」
凌は笑った。「歌は速い。――偽貨より」
「剣は後」
賀蘭が入口で短く告げ、棒で扉を軽く叩いた。囲いは整っている。
杜温が「板を前に」と言い、三人は握手の代わりに、それぞれの道具を板の前に置いた。
輪の頭は金槌、劉槃は鋳型、杜温は秤。
凌はその横に后印を置いた。
五 御前――銀の宣言
御前。
景焔は灯を低く、民の目線の高さに板を下ろさせた。
凌は壇の手前に立ち、后印を公に掲げる。
香は清、祓いは和、音はまだ鳴らさない。
景焔の一行が先に走る。
> 〈唯一妃の名で、銀を保全する〉
ざわめきが走る。
唯一は席ではない。規格だ。
規格の名で、信用を刻む。
凌は続ける。
「新しい銀貨は、音と光と香で守ります。
音は花輪の十二葉。削れば濁ります。
光は千格の帳。右上の欠けは眠りの枡。
香は香符。誓珠の隣り環が、微細に刻まれます。
――偽は、遅れます」
景焔が短く頷き、民のほうへ身を傾けた。
「眠れ」
その一言に、板の文字が息を吸う。
御前の広場で、最初の打音が響いた。
劉槃が新銀を出し、棒の柄で軽く打つ。
澄。
音が高く、長く、広場の屋根でゆっくり折れた。
歌は、音から生まれる。
> 銀の澄 花の輪
> 光の欠けは 眠りの枡
> 香の隣 名は寄り
> 剣は後ろで 棒は輪に
民の口から自然に洩れた節が、板の周りで輪になった。
六 第三勢力の影、値の崩し
その夜、裏板の息が青く震えた。
〈市の南、市価を暴落させる投げ。海梁会の手〉
杜温が走り込む。「値を崩しに来た」
賀蘭が「囲いだけ」と言って棒を持ち、燕青が屋根へ消えた。
凌は剣ではなく、札を取る。
〈音の市〉――秤の横に打音台を置く。
〈光の市〉――香鏡と光の帳。
〈香の市〉――袋の“青”と香符。
市に三つの輪が立つ。
海梁会の男たちが銅混じりの銀を投げる。
男は笑い、笑いは薄い。「価は紙で決まらぬ」
凌は返す。「紙ではない。――音と光と香で決まる」
打音。濁。
光。欠けが呼吸せず、死。
香。二度刻みの遅れ。
偽は遅れる。
遅れは罪。
杜温が札に書き、貼る。
〈偽貨、三百。袋の“青”、遅延〉
晒しではない。記録だ。
記録は、長い。
歌が、呼応する。
> 濁の音 死の光
> 遅れの香は 罪となる
> 袋の青で 海が出る
> 剣は後ろで 板は前
海梁会の男が舌打ちし、影に退いた。
剣は抜かれない。
棒は輪に、歌は前へ。
七 銀の袋――海の堰
港の板にも、新しい札が立った。
〈青の袋〉――海路用の貨袋。
香符〈沈一・清一・道一〉に青の層を薄く重ね、海の湿りと塩で反射が変調する。
港の堰を越えようとする袋は、青が遅れて色になる。
遅れは、嘘。
港の童が、青を指でなぞる。
色は、言葉より速い。
紅夷の商船の甲板で、髭の長い男が笑い、すぐやめた。
等幅の字が怖いのだ。
港の板の等幅は、名と数を同じに扱い、境を同じに押す。
八 御台所の粥、値の歌
市の中央、粥の鍋。
御台所の少年が太鼓を抱え、粥杓子を打つように混ぜる。
「落としません」
彼の口癖が、今日ほど相場に効いた日はない。
粥の値が板に貼られ、銀との比が毎朝更新される。
粥の相場は、国の眠りの相場だ。
海梁会が銀の値を崩しても、粥の値は緩やかにしか動かない。
規格が、腹を守る。
> 粥は一 銀は花
> 花は十二 音で鳴る
> 光の欠けに 眠りあり
> 香の隣で 名は寄る
歌は拙い。だが、速い。
眠りは、歌で厚くなる。
九 第三勢力の顔――灰鼠の男
夜、影が縁側に腰を下ろした。
燕青の刃は出ない。棒も輪の外で眠る。
灰鼠の外套、薄い頬、乾いた指。海梁会の使いだ。
男は笑わず、喋る。
「国は、剣で壊れるより、相場で疲れるほうが長い。眠りは薄く、噂は厚くなる。人は自分で自分を削る」
凌は首を振る。「板は、削れません」
男は細い紙を置いた。
> 〈均質は、独占と同じ〉
「唯一は席ではない――規格? 規格は、単一だ」
凌は微笑し、后印を紙の上に押した。
朱の欠けが、紙の上で呼吸する。
「欠けがある。均質ではない。眠りのための余白が、規格の中にある」
男は初めて、嘴の端を上げた。
「詩人め」
言い捨てて、影に消える。
剣は抜かれない。
詩は、板の隅で続く。
十 銀の生まれる音、子の掌
新銀貨の鋳座が増え、花輪の音が都に増殖した。
子が掌に一枚、母が懐に二枚、老人が枕の下に半を置く。
澄の音は、眠りの前の鈴になる。
眠りの前に、一度だけ鳴らす。
眠れに音が伴うと、噂は遅い。
劉槃は、打音で職人の段を付けた。
「今のは、澄の中。端がまだ濁る」
職人は目を閉じ、耳を鍛える。
段が増えるたび、賃が少し動く。
公平は、見えることで力になる。
十一 旧貨の回収、薄い恥
旧銀貨は、板の前で回収された。
秤にかけ、香鏡に当て、音を聞く。
薄い銀、遅れる香、沈まない光。
晒しではない。薄い恥だ。
薄いほうが、長い。
長い恥は、働きに変わる。
宰相家の次男が、自ら隊に入り、旧貨を担いだ。
「働きで償う」
彼の言は、板に吸われ、歌に返される。
十二 御前の夜――二人の短い会話
夜。
景焔が静陰殿に現れ、板の前で澄の音をひとつ鳴らした。
「唯一の名で、銀を保全する――言い過ぎか」
凌は首を振る。
「規格の名です。席の名ではない」
帝は頷き、凌の指に口づけを落とす。
「馬鹿だ」
声は、温い。
指の上で、后印の欠けが静に冷たい。
十三 海梁会の次の手、紙の毒
翌朝、裏板に紙が滑り込んだ。
偽の告示。
> 〈新銀貨の鋳、破。花輪、剥げる。香符、臭い〉
紙の毒。
噂は速い。
凌は対の紙を先に走らせた。
> 〈音を打て。光を見よ。香を読め。紙は、後だ〉
御台所の少年が太鼓で三拍を打ち、子が打音を真似る。
耳は、紙より先に寝る前の信を作る。
十四 境の歌、第二の国境
板の上に、凌はこの章の名を太い字で記した。
> 〈第二の国境〉
地図の線は刃で守る。
相場の線は歌で守る。
> 〈銀の線=眠りの線〉
> 〈唯一=規格〉
> 〈誓い=隣/香符/后印〉
子が新しい歌を作る。
> 地の境(さかい)は 刃の後
> 値の境は 歌の前
> 銀の澄 花の輪
> 欠けの枡で 眠り積む
十五 市場監の夜の巡り、棒の輪
杜温は夜の市を巡った。
棒は輪に、剣は後ろで眠る。
海梁会の手の者が、薄銀をこっそり混ぜる。
杜温は秤を置き、音を打ち、香鏡を当てる。
濁。死。遅れ。
三つ揃えば、罪は薄い紙になり、板の裏に貼られる。
晒しではない。記録だ。
記録は、長い。
十六 港の風、紅夷の白
青塩湾。
紅夷の船が距離を取り、風が白い帆を撫でる。
海梁会の船は集まらず、散る。
港の堰は、板と歌で高くなった。
青の袋が階段のように並ぶ。
色は、言葉より速い。
銀は、剣より遅く、長い。
十七 新銀貨の“儀”、眠りの前
凌は后印で最後の規格を押した。
〈眠りの前の一打(ひとつ)〉――
誰でも、眠る前に一度だけ、新銀を軽く打て。
澄の音が出れば、明日の粥は落ちない。
濁の音が出れば、板の前へ。
祓いは薄く、香は清。
景焔が小さく笑った。「詩だ」
「規格です」
凌は真顔で返し、帝の肩に額を寄せた。
温い。
短い。
深い。
十八 太后の扇、光の欠け
太后が工房を訪れ、千格の板を見た。
「光の欠けが、眠りの枡か」
「はい。――后印と同じ欠け」
太后は扇骨で格子の右上に触れた。
「恥ではない。印だ」
沈香は薄く、祈りは短い。
扇の欠けは、続ける意思の記号。
十九 海梁会の書状、最後の薄笑い
灰鼠の印の書状が、最後に一通。
> 〈眠りを売る者は、高く買われる〉
凌は后印で朱を押し、板の裏に封じた。
「眠りは売らない。――渡す」
規格は、無料だ。
歌は、誰のものでもない。
二十 銀の線は残る――続ける
夜更け、静陰殿の板に、凌は最後の札を足した。
〈今日の帳:新銀貨/音・光・香〉
〈今日の香:清〉
〈今日の祓い:和〉
〈今日の灯:低〉
澄の音が、板の前でひとつ鳴る。
光の欠けが、朱の上で呼吸する。
香の隣り環が、香鏡の中で寄り、混じらない。
“唯一は席ではない。規格だ。”
規格は銀にも宿る。
第二の国境――相場の線は、音と光と香で見えるようになった。
剣は後ろで眠り、棒は輪に、板は前で歌を待つ。
噂は速い。紙は遅い。
音と光と香は、紙を助けて、眠りを守る。
凌は后印を胸の高さで軽く叩き、目を閉じた。
誓珠の破片が、ほとんど聞こえないほどに鳴る。
蘭秀の欠けた扇骨がどこかの風の角で小さく触れ合い、太后の沈香は祈りに戻り、景焔の一行が眠れと言う。
銀の線は、残る。
続ける。



