一 帰京の札、低い灯

 北界からの塵をまだ衣の裾に抱いたまま、凌は静陰殿の板に新しい札を掛けた。
 〈今日の帳:帰京/国境報告〉
〈今日の香:清二・道一(沈は薄)〉
〈今日の祓い:平〉
〈今日の灯:低〉

 誓珠の破片は輪の内で封じ、婚礼印の裏規格〈沈一・清一・道一〉はすでに板へ記されている。国境で剣を抜かずに済んだ報は都の空気を柔らかくしたが、その柔らかさはすぐに別の粘りへと変わる。

 「複妃制を望む貴族家(いえ)が、祝いに名を借りて動き出しました」
 燕青が裏板の息を解きながら言う。
 「『唯一妃のままでもよろしい、ですが“皇統の安泰”のために後宮の座を増やすべし』。……祈りと家、二枚舌」

 “唯一は席ではない。規格だ”――凌は板の端の小さな文に触れ、誓珠の破片の重みを思い出した。規格に触れる舌は、まず祝辞から始まる。

 「勝つのではない。縫う」
 凌が呟くと、景焔が一行の文を板に追加した。
 > 〈剣は後。まず板。〉

 剣は後。板が先。舌より先に紙で囲う。
 凌は香鏡の縁を拭い、薄い沈香を一層だけ増やした。祈りではなく、手術の匂いに近い層で。

二 逆賄賂の設計図

 「祝いは出す。……だが、受けさせない」
 凌は紙の上に四角い枠を幾つも描いた。
 〈祝儀出納帳〉
 〈受納回覧〉
 〈受領札〉
 〈辞退届〉

 「祝儀は“婚礼の本儀(弐)”の補儀として、公から私へ。――だが、受領した瞬間に“賄賂記録”へと相転移させる」

 燕青が目を細める。「祝いを贈って、受け取れば黒。……拒めば不敬」
 「うん。逆賄賂だ」
 「札の文字は?」
 「おめでとう、と太く。受領、と細く。太いほうは民へ、細いほうは回覧へ」

 凌は項目を並べる。
 > 一、祝儀品目は“公共の規格”で統一。香炉、銀匙、秤、祓具の釘、婚礼印の小版。
 > 二、すべてに香符〈沈一・清二・道一〉を裏から押す。
> 三、届けの際、宦官は「受領札」に家の印を求める。
> 四、受領札は「出納回覧」の写として宮中に貼り、郡板にも簡略を告示。
> 五、辞退は「皇帝不敬」の欄に理由ごと記す(病・喪・遠出)。免責は三種のみ。
> 六、転売・回しがあれば、香符で追う。遅れは、罪。

 「棒は輪。剣は抜くな。……紙と香で囲う」
 「賀蘭の“囲い”は?」
 「贈り場と回覧場の導線だけ守る。刃は見せぬ」

 景焔は短く頷き、「やれ」とだけ言った。
 その声音は、政(まつりごと)よりも、一つの実験の許可に近い。

三 贈る品、載る罪

 祝儀の目録は、美しく、重い。
 香炉は銀の口に〈香符〉、秤は針の先に〈学堂印〉、銀匙は柄の裏に〈宮輪〉、祓具の釘は頭に〈民輪〉。――贈り物の顔をして、ぜんぶが制度の部品だ。

 「これなら、家に置けば規格が勝手に増殖する」
 御台所の少年が目を丸くする。「台所にも秤が来るの?」
 「来る。置けば、噂が遅くなる」

 届けの形は簡にして厳。
 宦官は祝辞を読み、金襴の包みを置き、受領札を静かに出す。
 受け取った家は、印を押す。押した印は、回覧の札へ。
 受け取れば黒。
 ――その黒は、刀の黒ではなく、墨の黒だ。
 墨の黒は、消えない。

 拒んだ家には、宦官が三度まで辞退届の余白を差し出す。
 〈病〉〈喪〉〈遠出〉――三つの免責に当たらねば、不敬。
 拒めば不敬。
 受ければ黒。

 紙は、人を眠らせるのに向いている。
 眠れない者は、噂を選ぶ。
 噂は、板の前で音を失う。

四 回覧は走る、歌も走る

 「回覧だ。表は“祝”。裏は“受領”」
 凌の言葉で、宮中の長廊下へ札が流れ始めた。
 大臣の名、家の名、受領品目、印。行書の滑りの間に、名の重さが沈む。
 貼られるたび、見た者の喉に乾きが走る。
 その乾きを、歌が潤す。

 > 祝いは板で 受領は裏
 > 太い字細い字 どちらも黒
>  拒めば不敬 受ければ墨
>  灯は低くて 剣は後

 拙い歌。だが、速い。
 歌は、規格の周りに空気を作る。
 空気ができれば、刃は鈍る。

五 宰相家の橋、罠に入る

 宰相家の館へは、一番最後に届けた。
 表は祝辞、裏は受領。
 宰相は笑い、笑いは薄く、端が疲れている。
 「宮の祝儀を賄賂と呼ぶか」
 凌は首を振る。「呼ばない。呼ばずに、記録する」
 「ならば、受けよう。不敬と呼ばれた覚えはない」
 宰相は印を押した。
 押印の瞬間、宦官の袖から香鏡が一瞬だけ覗き、〈沈一・清二・道一〉の反射が受領札の墨に薄く重なった。
 ――登録。
 香は、匂わない。
 反射だけが、札の裏に残る。

 押印の音は軽い。だが、輪の内側では重い。
 「回覧だ」
 凌は札を巻き、中書省の掲示場と禁裏の回廊へ二本の流れを作った。
 宰相の印が、太い“祝”の紙の裏で、一つ、二つ、三つと増殖する。
 次第に、宰相派の名が黒々とした列を作った。

六 拒む貴族、不敬の札

 拒んだ家もある。
 「家内に喪あり」
 「娘が産む期(ご)にあたる」
 「遠出」
 ――三種の免責を器用に使い回す。
 宦官は辞退届の余白に理由と日付を丁寧に記し、不敬欄の墨を淡くする。
 だが、三度目の余白が埋まれば、免責は尽きる。
 四度目の宦官は、祓いの札を静かに置く。
 〈皇帝不敬:礼の規格を拒む〉
 拒めば不敬。
 板に貼られたその薄い一行は、刃より遅いが、長い。

 御台所の少年が板の前で囁く。「薄い字のほうが、怖いね」
 凌は頷く。「太い字は噂を止め、薄い字は心を止める」

七 転売と回し、香符の遅れ

 数日も経たぬうち、市に銀の香炉が流れた。
 香符を押した裏の口は、磨かれても消えない。
 香鏡に当てれば、〈沈一・清二・道一〉が遅れて浮く。
 遅れは、偽の重さ。
 裏板の息が言う。
 〈○○侯家、祝儀の香炉、市中に〉

 凌は晒しを選ばない。
 晒しは早い。だが、短い。
 代わりに、価格を板に貼った。
 〈銀香炉・祝儀規格:宮輪で一〉
 〈市価:三〉
 差は、恥になる。
 恥は、歌になる。

 > 香の口 裏は道
 > 遅れて出れば 罪となる
>  売れば恥 買えば恥
>  板の値札は 長くなる

 宰相派の若い士族は、顔を布で隠して市場へ行き、買い戻す。
 買い戻した香炉は、倍の値。
 倍の値は、歌に向かない。
 だから、長く残る。

八 回覧は刃より深く

 禁裏の回廊に、回覧が一巡した。
 〈受領家一覧〉
 大臣、将軍、書吏長、祭祀局の若官、宰相家に連なる橋の人――名が等幅に並ぶ。
 等幅の恐ろしさ。
 ――名の大きさで罪の大きさが変わらない。
 読み終えた者の目から、油が抜ける。
 薄く乾いた目で、自らの印を見返す。

 午睡の凪のような時間に、燕青が囁いた。
「宰相家の橋、割れました」
 「どこから」
 「家から。――妻たちの間です」

九 家の中の戦、宰相派の崩れ

 賄賂記録は男だけに貼られない。
 家に貼られる。
 妻は香に敏く、娘は歌に速い。
 「祝儀として受け、賄賂として回覧された」
 「不敬でなくて良かったと?」
 「恥が残るほうが長い」
 寝所の小競り合いは、やがて家の折り目を割り、宰相派の橋を抜いた杭から腐らせていく。

 ある日、宰相家の次男が密かに凌へ使いを寄越した。
 「受領札を返したい」
 「返しても、回覧は消えない」
 凌が言うと、若者は顔を歪め、やがて苦笑した。
 「……紙は、刃より、長い」
 「眠るために、長いのです」
 凌は若者に薄い紙を渡す。
 〈働きで償う〉
 祓具の金口の改修、灯の堰、郡板の設置――仕事の目録。
 宰相家の次男は、深く頭を下げた。
 宰相派は、その日から瓦解を始めた。

十 太后の扇、「勝つことばかりが愛ではない」

 回覧が三巡した夜、太后からの呼び出しが来た。
 欄干の内、沈香は薄く長く、扇は膝の上。
 凌が跪くと、太后は扇の骨を一度鳴らし、静かに言った。

 「勝つことばかりが、愛ではない」

 凌は息を止めた。
 太后は続ける。
 「おまえは勝ち続けた。香で、板で、歌で、家を割り、橋を乾かし、剣を鈍らせた。……陛下は勝ちに慣れぬ。幼い頃、あの子には勝ちが与えられぬ代わりに、孤独だけが与えられた」

 太后は袖から一冊の薄い紙束を出した。
 手記。
 「景焔に渡しなさい」
 扇の影が紙に落ちる。
 紙は軽い。だが、重い。
 「勝たないこと。――ときどきは。負けを仕立てること。愛には、余白が要る」

 凌は深く頭を垂れた。
 「承ります。……板から少し紙を外し、手で渡します」

十一 手記の頁、幼き孤独

 静陰殿に戻ると、凌は灯をさらに低くし、手記を開いた。
 ――〈冬の廊。名を呼ぶ者がいない。誰も「景焔」と真名で呼ばない。
 ――〈強い灯。影が濃く、どこまでも伸びる。
 ――〈扇の音。扇は風であり、壁でもある。
 ――〈「勝て」とは言われぬ。「負けるな」だけが降る。勝つは、他人のもの。負けるなは、自分の重り。
 ――〈夜、祈りの沈香。眠りは、香では来ない。
 ――〈朝、紙の音。紙は冷たく、救いだった〉

 凌は指先で頁を撫で、目を閉じた。
 勝つことばかりが愛ではない。
 余白。
 負けの設計。
 眠りを渡す道。

十二 “負け方”の設計図

 翌朝、板に新しい札が立った。
 〈今日の帳:逆賄賂・収束設計〉
 〈今日の香:清〉
 〈今日の祓い:和〉

 「勝ちを止める。――負けを仕立てる」
 凌は図を描いた。
 > 一、謝儀の場(茶会)。宰相派から三家を選び、先に座を与える。
 > 二、回覧の一部を伏す。受領札の薄い字を、七日×二だけ覆う。
> 三、仕事を割る。祓具改修の発注、郡板の設置、香符の読み手――負け分として、相手に渡す。
> 四、歌を変調。「勝った」「負けた」を消し、「眠れ」を主に。
> 五、帝の一行を先にする。凌は、後。

 燕青が目を瞬く。「……負けの歌?」
 凌は笑う。「眠りの歌だ」
 御台所の少年が太鼓を抱え、「眠りの拍(はく)って何拍?」
 「ゆっくり。――抱える拍だよ」

十三 茶会――薄い負け

 薄茶の席は、静陰殿の小庭で開かれた。
 席次は逆。
 凌は最後に座り、宰相家の次男に正面を譲る。
 景焔は一行だけ、席の柱へ掛けた。
 > 〈眠れ〉
 凌は茶を点て、初椀を渡す。
 「受けてください」
 若者は両手で受け、深く礼をした。
 受けた茶は回覧されない。
 手で渡り、喉に落ちる。
 「……働きで償う」
 若者の声は小さく、しかし固い。
 「祓具の金口、あなたの家へ。期日は任せます」
 負けの設計は、委ねの設計でもある。

十四 回覧の覆い、七日×二

 禁裏の回廊では、受領札の薄い字に覆いがかかった。
 薄紙で二重。
 覆いには小さく〈眠り〉と墨された。
 赦ではない。
 眠だ。
 眠りの覆いは、七日×二で外れる。
 外れたあと、字は前より細い。
 細い字は、恥を薄め、仕事を濃くする。

十五 宰相派の崩れ、宰相の沈黙

 宰相の笑いは、ついに消えた。
 笑いが薄くなると、網も粗くなり、粗くなった網は捕(と)れない。
 彼は一度だけ回廊の板の前で立ち止まり、覆いの薄紙を見た。
 見て、触れなかった。
 触れれば、破れる。
 破れた紙は、眠りを破る。

 宰相派の家々は、茶会に呼ばれた三家を妬(ねた)み、だが、妬みは仕事の前で息を切らす。
 祓具の金口は改修され、郡板は立ち、香符の読み手は育つ。
 勝ったという言葉は板になく、眠れだけが残る。

十六 手記を渡す

 夜、凌は静かに禁裏へ入り、景焔の部屋に灯を一つだけ点けた。
 「太后さまから、手で渡せと」
 景焔は一行の文を途中で止め、紙を受け取った。
 頁を開き、最初の行で、息が止まる。
 ――〈冬の廊。名を呼ぶ者がいない〉
 次の頁で、まぶたがわずかに震える。
 ――〈負けるな、だけが降る〉
 最後の頁で、景焔は目を閉じた。
 「……馬鹿だ。我はずっと、勝つことを許されていないと思っていた」
 凌は首を振る。「勝つは制度に任せ、負けは人が受ける。――今日は、我が負けを設計しました」
 景焔は短く笑い、笑いは強がりで、しかし温い。
 「眠る。……おまえが旁(かたわ)らで板を書くなら」

十七 太后の肯、扇の音

 翌朝、太后は扇を膝に置き、沈香を薄く焚いた。
 凌が礼を尽くすと、太后は扇骨を一度鳴らし、「よく負けた」と言った。
 「負けるは、弱いではない。手を放すでもない。――余白を作る技だ」
 凌は深く頭を垂れ、「余白の規格」と紙に書き、板の隅に貼った。
 〈余白の規格:眠の覆い/茶会の席次/仕事の委ね〉
 子がそれを指でなぞり、歌に変える。
 > 余白はお布団 眠りの蓋
> 覆いは薄紙 剣は後

十八 逆賄賂の果て、制度の芯

 逆賄賂は終いに近づいた。
 祝儀の出納は公に記され、受領は裏に回覧され、覆いを経て、仕事へ変わった。
 宰相派は瓦解したが、断頭はない。
 棒は輪。剣は後。
 勝ちの痕を眠りの上で薄め、制度の芯を太くする。

 凌は板の中央に、太い字で書いた。
 > 〈唯一は席ではない。規格。〉
 その下に、細い字で足す。
 > 〈勝つことばかりが愛ではない。〉
 太い字と細い字は隣り合い、混じらない。
 混じらないから、支える。

十九 歌の変調、灯の高さ

 御台所の少年が太鼓を抱え、門前で新しい歌を叩いた。
 > 祝いは板で 受領は裏
> 覆いの薄紙 眠りの蓋
>  勝つは制度に 負けは人
>  灯は低くて 剣は後

 灯は、ほんの少し高くなった。
 高くしすぎると影が短くなる。
 短い影は、孤独を感じさせない。
 孤独を感じさせぬ夜は、油断を呼ぶ。
 ――だから、少しだけ。

二十 続く余白

 夜、凌は誓珠の破片を胸に抱え、目を閉じた。
 銀口の沈香が、ほとんど聞こえない音で鳴る。
 蘭秀の欠けた扇骨が、どこかの風の角で小さく触れ合い、太后の沈香が祈りに戻り、景焔の一行が眠れと言う。
 “唯一”は席ではない。
 規格だ。
 規格には、余白が必要だ。
 余白があるから、国は眠り、人は負けを引き受け、勝ちは制度に蓄えられる。

 逆賄賂は、終いではない。
 規格が増え、余白が増える。
 増えるたび、刃は鈍る。
 鈍った刃の下で、人は眠る。
 眠れる国は、勝ちを急がない。
 勝ちを急がぬ国は、長く続く。

 凌は板の端に、小さく書き足した。
 > 〈続ける〉