一 出立の札、低い灯

 朝の一番鈍い鐘が終わるころ、静陰殿の板に、凌は新しい札を二枚足した。
 〈今日の帳:国境視察/北界〉
 〈今日の香:沈一・清一・道一(行路仕様)〉
 〈今日の祓い:平〉
 〈今日の灯:低〉
 出立に合わせて、灯は低く、影は長く。長い影は、見えない矢より先に人の視線を集め、囲いの形を作ってくれる。祓いは薄く、香は三層。沈香を最小にし、道の香を一筋だけ強く――戻る道が迷子にならぬように。

 「馬の数、十。棒は六。剣は鞘のまま」
 賀蘭が短く告げる。
 「裏板は“海路版”も持ち歩きます」
 燕青が竹筒を軽く鳴らした。二度刻みの合図が息に混じる。
 景焔は最初の文を一行だけ書き、板の端に貼った。
 > 〈視る。剣は後。〉

 凌は誓珠を胸の上から押さえ、銀口がわずかに鳴るのを確かめた。婚礼の本儀(弐)以来、珠の内に封じた血の名は、混じらないまま隣り合っている。今日は“隣”を、国の縁まで連れていく。

二 国境の土の匂い

 北界へ向かう街道は、乾いた小麦色の斜面と、黒い岩の割れ目が不規則に並ぶ。風は海の青を忘れて、鉄と草の匂いに戻っている。
 沿道の郡板には、薄くなった“飢饉の檄”の札がまだ残っていて、その隣に今は“香符・海路”ではなく“香符・辺路”が掲げられていた。
 > 〈沈一/清一/道一〉
 > 〈塵多き日は清を二へ〉
 > 〈偽符の遅れ=罪〉
 板を読む子の声が道に混じり、凌はそれを背で受けて馬を進める。
 「粥は足りていますか」
 と訊けば、御台所の少年は元気な声で返した。「はい、落としません」――いまや彼の決まり文句だ。落とさない、は誇りの語彙になった。

 昼過ぎ、先陣の斥候が戻る。「黎(れい)国の使節、関へ到着。荷車十、女輿(じょよ)八」
 賀蘭の眉が動く。「女輿?」
 凌は頷いた。
 「――複妃制を外交の餌にする国だ。娘と財とを帝へ押し付け、代償に“土地”を削らせる」

 景焔は手綱を緩めずに言う。
 「我は要らぬと言う。だが、彼らは“要らぬ”を値切りとみなす」
 「なら、値札を剥がす言い方を」
 「おまえの言い方で――板に載る言葉で、な」

 禁裏で続く“決裂”の鋭さは、馬上の吹き流しのように今日も翻っている。だが、向きは揃っている。剣は後。板で先に囲う。

三 関の板、異国の香

 国境関「烏塁(うるい)」は、黒い岩に白い石灰を擦り付けた塁壁が四段。上に低い灯、下に祓具。板は大きく、目の高さ。
 〈今日の帳:黎国使節/贄(にえ)献〉
 〈今日の香:沈〇・清二・道一(儀少)〉
 〈今日の祓い:辺〉
 〈今日の灯:低〉
 板の右に、凌が持参の**“公の否”の写しを貼る。
 > 〈唯一妃の制度は継続。理由は三つ〉
 > 一、眠る国のため。二、祓いの流量のため。三、闇の値段のため。
 最後に小さく〈陛下の言葉〉。
 これが今日の譜面**になる。

 黎国の使節は、香に甘さが混じっていた。沈香ではない、竜脳と乳香。異国の祈りは、匂いで分かる。
 荷車に積まれた木箱の口々から、紅夷銀の白い光が漏れている。女輿は薄紗。そこに座す娘たちの眼は、緊張で固まっていた。彼女たちは贈り物ではない。切り札だ。
 使節の先頭、髭を尖らせた男が、礼の半分だけをして、余った半分を自尊に使った。
 「我が黎王は、大帝の孤独を憐れみ、娘八と財を贈る。複妃制を受け入れ給わば、北の渓谷三里、青塩湾ひとつを割譲しよう」
 板の前で、その言葉は風より遅く拡がった。遅い言葉は、噂になる前に板へぶつかって砕ける。

 景焔が馬上から視線で合図を送る。――「言え」。
 凌は一歩前に出て、広場の真ん中に立った。灯は低い。影は長い。長い影の交差点に、声はよく通る。

四 唯一妃は国家の約束

 「――聞こえるように、短く言います」

 凌の声は、石灰で磨いた木の板の面を滑って、塁壁の上まで届いた。
 「唯一妃は、国家の約束です」

 ざわめき。
 黎国の髭の男が鼻で笑う。「約束? 女をひとりに限る約束で、腹は守れるか」
 凌は首を振った。
 「ひとりに限る**“女”の話ではありません。“唯一”とは席**ではない。規格です」
 板の“公の否”を指で示す。
 「複妃制は、祓いを分散させ、監視できない香を増やし、夜を細かく割っていく。眠れぬ国の剣は、鈍る。――唯一は、眠る国のための規格。板に刻まれた線です」

 男が唇を歪める。「ならば線を曲げてみせろ。領地は線だ」
 凌は深く息を吸った。胸の誓珠が衣越しに冷たく触れる。
 「線は、血で引くものではない。……しかし、血で守らねばならぬ時はある」

 景焔が、馬上でわずかに身を乗り出した。「凌」
 凌は一度だけ帝を目で見て、頷き、前に出る。

五 禁忌、「破珠」

 誓珠は、銀の小口を持つ古い王朝の珠だ。中心に血と香を封じ、ふたつの名を“隣”として宿す。封じた誓いは、死が来るまで決して開けぬ――それが禁。
 凌は珠を胸から取り、広場の真ん中で掲げた。
 「聴け。これは、陛下と私の血の名だ。混じらない。隣り合う。――約束の中身だ」

 燕青が梁でもない空気の継ぎ目に足を置いたかのように、音もなく近づく。賀蘭の棒が周囲の空気を囲いの形に整える。太鼓は鳴らない。鳴らせば戦になる。今日は政治だ。
 凌は珠を掌に置き、指で押す。
 ぱきん。
 均衡の取れた金属音。銀の小口に仕込んだ香符が、二度刻みの目盛を越えて破綻する音。
 広場の空気が、一度だけ息を止めた。

 割れた珠から、甘くない甘さと鉄の匂いが立った。沈香の古層と新層が微かに交わり、血の温度がそこに混じる。
 凌は、飲んだ。
 唇に触れたのは、柑橘の清ではない。鉄。銀。沈水の記憶。
 喉に落ちる瞬間、世界が薄膜を一枚失った。

 儀礼を破ることには、意味がある。
 誓いは“外”に出ても壊れない――それを、身で見せる意味が。
 珠が守っていたのは、ふたりの名の距離だ。その距離を、いま身体で引き受ける。

 景焔が馬から飛び降りた。禁裏では見せない速さ。
 「凌――!」
 その声は、怒りではなく、恐れの温度だ。

六 狂王の噂、退く使節

 黎国の使節の顔色が、同時に変わった。
 禁を破る。婚礼の誓珠を割って飲む――彼らの古い言葉で言えば、「狂王の伴侶」の振る舞い。古伝には、王を守るために珠を飲み、呪を自分に引き受けた妃の話がある。
 その場にいた誰もが、噂を思い出した。噂は速い。だが今日、噂は相手の国の中で先に走る。

 「退け――」
 髭の男が吐き捨てるように言い、女輿を転じさせた。
 「狂気の宮に娘を入れるな」
 臆病は、外交では合理に化ける。
 荷車の紅夷銀が、日差しで白くなって、国境の影の外へと滑っていく。

 凌は珠の破片を手の中に握り、息を取った。胃が反逆をはじめている。
 景焔が片腕で凌を抱き上げ、塁壁の影へ引きずる。
 「馬鹿だ」
 囁きは低く、震えていた。
 「馬鹿だ、凌。なぜそこまで――」

 凌は、返せない。喉の上が鉄と沈香で焼け、口の中の銀砂が、舌の上で鳴る。
 女医官が駆け寄り、薄い酒で口をすすがせ、蜂蜜を一滴だけ舌に落とす。
 「吐いて。――全部、出し切って」
 吐き気は押し寄せ、ひとつ、またひとつと波になって去っていく。

七 板に残すもの、残さぬもの

 凌は石の上に座らされ、背を撫でられながら、板の文言を組む。
 「……公の文は、短く。禁を破ったとは書かない。――『誓いを身に移した』」
 女医官が頷き、書記が筆で清書する。
 > 〈唯一妃の制度は国境でも継続。黎国の“贄献”は辞退。誓いは身に移し、外にも内にも同じ〉
 > 〈灯は低く、剣は後〉
 > 〈“狂王”の噂に依らず。板に依る〉

 燕青が裏板の竹筒に息を通し、関所の外へ噂より速く文を流す。「“狂王”と呼ぶ声が出たら、歌で返せ」

 御台所の少年は小さな太鼓を抱え、子どもたちと一緒に新しい歌を作っていた。
 > 珠は割れても 名は隣
 > 身に移しても 約束
 >  灯は低くて 板は高い
 >  剣はそのあと 国は眠る
 拙い歌。だが、速い。歌に混じった言葉は、刃では切れない。

八 国境の医術、沈香の反転

 女医官は、凌の舌の色と脈の速さを見て、沈香の逆薬を調合した。
 沈香は“沈水”。熱で香を立てると気は上がる。いま必要なのは、気を下げること。
 薄荷を砕き、柚の皮を干したものを粉にし、蜂蜜を一滴。沈香の層を一枚、清に置き換える。
 凌はそれを舌に乗せ、目を閉じる。
 銀の味は、薄れる。
 喉の焼けが、数になる。回数を数えれば、痛みは仕事になる。

 景焔は片膝で凌の背を支え、額にかかる汗を拭った。
 「――おまえの“板の言葉”は、剣より速い。速いが、代価がいる」
 凌は微笑しようとして、わずかに喉を鳴らした。
 「代価は、働きで返す」
 「命で返すな」
 帝の声には、命令でも、祈りでもない、個人の色が混じっていた。

九 敵国の構え、複妃の算盤

 黎国の使節は完全に退いたわけではない。関から三里の丘に幕を張り、夜の灯を低くし、女輿の位置を内側へ寄せる。
 情報は、塁壁の上の風道から入る。
 彼らの複妃制は、宰相家の“橋”と似ている。多を作ることで、合意のコストを下げ、責任の所在を曖昧にする。娘を贈ることは、領地を割るための舗装だ。
 凌は板に小さな図を描いた。
 > 〈複妃=多点/唯一=規格〉
 > 〈国境線=公共財/婚礼=公契〉
 公共財。誰のものでもない線。だからこそ、規格で守る。

 賀蘭が棒を立てかけ、言った。
 「“狂王”の噂は、敵の中で増幅するだろう」
 「増幅させる。――恐れは、剣を鈍らせる。噂は彼らの陣を内側から壊す。剣は後」

十 珠の残骸、次の規格

 婚礼の珠は、二つの破片になった。銀の小口は歪(いびつ)に光る。
 凌は破片を布に包み、板の裏に貼った。
 〈破珠(はじゅ):禁の見える化〉
 > 〈珠は割れても、名は隣〉
 > 〈身に移せば、紙に増える〉
 誓いは物に宿らない。制度に宿る。
 珠を再鑄することに意味はない。代わりに、香符で誓いの層を刻む。沈一・清一・道一。――今日の香符の三層は、以後、婚礼印の裏に必ず押す規格になる。

 燕青が「香符・婚礼版、輪の内で準備」と“輪”の頭へ息を飛ばす。
 銀工組合の広場では、二重輪の真円の前で職人たちが帽子を取り、香符板に新しい歌を足した。
 > 沈は約束 清は道
 > 名は隣りて 紙に住む

十一 夜の冷え、二人の熱

 夜が来ると、塁壁の石灰は青く見える。
 凌は毛布にくるまれ、しかし寒気は内側から来た。禁を破った罰は、神ではなく身体から来る。
 景焔は凌の背を抱え、低い灯の下で何も言わなかった。
 沈黙は、愛より硬く、祈りより温い。
 やがて、帝がぽつりと言う。
 「馬鹿だ。おまえはいつも、紙を盾にして、身で支える」
 凌は目を閉じたまま、喉の奥で笑う。
 「紙は弱い。――だから、身で裏打ちする」
 「身は、ひとつだ」
 「“唯一”ですから」
 言った自分の軽口に、凌は内心で苦笑し、帝の腕の温度に眠の底へ落ちた。

十二 国境の朝、歌と粥

 明け方、塁壁の上で小鳥が薄い声を落とすころ、関の広場に粥の匂いがひろがった。白槐から運んだ蜂蜜が一滴、湯気に混じる。
 子どもが太鼓を叩き、歌が変調する。
 > 珠は割れても 名は隣
 > 胸に移して 国に置く
 >  灯は低くて 板は高い
 >  剣はそのあと 眠れ、国
 歌の「国に置く」のところで、母親たちの目が柔らかくなる。
 置く――蘭秀の葬の札の言葉。
 扇は置かれ、珠は割れ、言葉は板に置かれる。

十三 黎国の再提案、紙の決裂

 昼前、黎国の幕から別の男が現れた。髭は短く、声は柔らかい。第一使節が退いて、理を持つ者が前へ出てきたのだ。
 「狂王という言葉は取り消そう。……だが、孤独は事実だ。娘は要らぬなら、友情を。青塩湾の港の利用権をこちらに。代わりに、関税を下げよ。複妃は忘れる」
 景焔は短く、「板で」とだけ答えた。
 凌がすぐに板へ文を起こす。
 > 〈青塩湾の港利用は“公共財”につき、規格に従う。関税の一部を“海の堰”へ。――二重輪契・海の適用〉
 > 〈複妃制の件、忘れず。板に“否”〉
 “忘れず”が、噂に釘を刺す。
 友情は紙にしない。契約にする。
 第二使節は内心で舌打ちを噛み殺し、しかし折れない。
 国境は、交渉の学校だ。

十四 紅夷の影、海の青

 港の方角から、青が一筋、香鏡に映った。
 海の香符の青。
 紅夷の商船が、青塩湾の外へ張り付いている。
彼らは娘を送らない。銀と油と時間を送る。
 凌は“二重輪契・海”の札に、外縁の一文を足した。
 > 〈紅夷船の停泊、内輪の外。堰の外。――“青の遅れ”は罪〉
 港の板にも同じ文が立ち、子が青を指でなぞる。
 色は、言葉より速い。

十五 帝の叱責、影の誓い

 夜、凌はようやく粥を受け付けるようになり、景焔はその器を自分の手で持った。
 「……凌。今日の“破珠”、我が命じたことにする」
 凌は首を振る。
 「板に『唯一妃が身に移した』と書いた。――私の選択です」
「我がおまえを守る」
 帝はいつも、短い言葉で長い感情を包もうとする。
 凌は器を返し、両手を重ね、影に向かって囁いた。
 「燕青。――“破珠”の遺(のこ)り香を、輪の内で封じておいて」
 「承知」
 影は、剣ではなく紙で誓うことを覚えた。

十六 板の勝利、剣の後

 三日目の昼、黎国の幕が畳まれた。
 娘は戻り、紅夷の商船が距離をとり、青塩湾の利用については“二重輪契・海”の規格に従う旨、使節は署名した。
 剣は一度も抜かれなかった。
 棒は囲いの形を保ち続け、灯は低く、祓いは薄く長く、香は層で動いた。
 凌は板の端に小さく書いた。
 > 〈剣は後。板の勝〉

 賀蘭が笑わない顔で、稀に笑った。「勝った、という言葉は、眠りのあとの朝に言うものだ」
 凌は頷き、御台所の少年に合図する。
 「今夜は塩をひとつまみ」
 海の塩は、国境の味だ。

十七 誓いの再定義

 婚礼の珠は割れた。
 だが、誓いは物に宿らない。
 凌は静陰殿の板に戻ってから(まだ戻っていないが、板は運ばれてくる)、新しい婚礼印の裏規格を貼るつもりで草稿を整えた。
 > 〈誓い=名の隣接+香符(沈一・清一・道一)+板〉
 > 〈珠は“記憶装置”。壊れても、“制度”は壊れない〉
 > 〈禁=“見える化”。破ったときは“身に移す”〉
 珠の遺物は輪の内で保管され、銀口の沈香は祈りに戻る。
 太后の沈黙が、肯(うべな)いに近いことを、凌はどこかで感じていた。

十八 境の歌、境の地図

 国境は、地図と歌でできている。
 鹵簿(ろぼ)が去った午後、関の子どもたちが新しい境歌を作った。
 > 線は紙 血は身
 > 名は隣 灯は低
 >  剣は後 棒は輪
 >  国は眠れ 影は息
 歌は拙い。だが、速い。
 地図は、板に残る。
 凌は香鏡で塁壁の白を映し、青塩湾の青を端に記して、堰の位置を太くした。
 堰の高さは、帝の一行で上下する。
 > 〈水位、下げる〉
 短い言葉。長い仕事。

十九 戻る道、続く決裂

 帰路、凌はまだ本調子ではない。馬の揺れが内臓の薄い痛みを叩く。
 景焔はときおり手綱を渡し、凌の背に掌を当てる。
 「馬鹿だ」
 またそう言って、今度は笑った。「だが、その馬鹿が、我の国を守る」
 凌も笑った。
 「その馬鹿に、板を書かせ続けてください」
 「書け」
 短い命令。
 決裂は続く。
 だが、互いの速さは揃っている。

二十 唯一は席ではない、国境でも

 静陰殿へ戻る前に、凌は野宿の板に最後の一枚を足した。
 > 〈“唯一”は席ではない。国境でも。〉
 > 〈規格は増える。――婚礼印裏の香符、二重輪契・海、境歌〉
 > 〈刃は鈍る。――灯は低く、棒は輪〉
 板は、夜の上に立つ。
 銀口の沈香が、胸の中でほとんど聞こえないほどに鳴り、蘭秀の欠けた扇骨が遠い風の角で小さく触れ合い、太后の沈香は祈りに戻り、景焔の一行が堰を延ばす。

 “唯一”は席ではない。
 規格だ。
 規格は国境でも機能する。
 珠が割れ、名が隣り、香が層をなし、板が立ち、歌が走る。
 噂は速い。
 紙は遅い。
 遅い紙でしか、国境は縫えない。

 凌は誓珠の破片を胸に抱え、目を閉じた。
 「――続ける」
 銀の味はもう薄く、代わりに、約束の味が舌に残っていた。