一 罠の設計図
朝の一番鈍い鐘が終わるより先に、凌は静陰殿の板に新しい札を掛けた。
〈今日の帳:香の罠/偽指示〉
〈今日の香:沈(しず)一・清二・道一(香符維持)〉
〈今日の祓い:平〉
〈今日の灯:低/囲い〉
香の罠――“香りの転移”を逆手に取る策だ。
狙うのは、宮門外を束ねる銀工組合の蔵(くら)。
噂の川底に沈めておいた“餌”を、今日は一気に引き上げる。
「偽の指示を流す。『太后の沈香』を蔵で焚け――太后の祈祷と同じ香だとわざと言い立てる」
凌がそう告げると、燕青が頷いた。
「蔵の番頭に届く前に、“橋”の者が拾う。宰相派に回る。……嗅覚の良いほうへ」
「宰相派は、太后主犯の絵を欲しがっている。なら、描かせる。こちらの手で」
香は、嘘をはっきり“匂わせる”。
「太后の沈香」――この四文字の甘さは、毒だ。
毒が甘いほど、人は舌を差し出す。
ただし、蔵で沈香は焚かない。
焚いた香は、祈りの名になる。
焚かない香は、罠の名になる。
凌は香鏡の縁に二度刻みの目盛を増やし、香符板の前に“補遺”を一枚貼った。
〈虚香(ここう):焚かずに“焚いたふり”をする技〉
――銀板の香符に微量の沈香油を裏から押し、蔵の梁と戸の内側に仕込む。
――香鏡は反射で“沈一”を示すが、空気の層に香は現れない。
――焚いた者しか嗅げない香。焚かなければ、誰も嗅げない香。
「香を見せて、匂わせない」
凌は微笑し、誓珠の銀口を指の腹で軽く鳴らした。
銀砂がひそりと返事する。
“血の名”は混じらない。混じらないが、合図は共有できる。
二 偽の指示
偽指示は三手で打つ。
一、書。――中書省の古い文式で書いた短い札。「沈香・太后式・三層」。印は、わざと古い片倒れ。文官が見れば、すぐ“匂い”を嗅ぎ取れる。
二、息。――裏板の竹筒に“太后の沈香”という言葉を二度だけ通し、息の湿りを薄く残す。宰相派の見張りが、裏板の「息」を盗むようになって久しい。盗ませる。
三、人。――燕青が、銀工組合の支店に働く書出しの若造に金ではなく名を与える。「おまえの名で回した」と言っておく。名は刃より重い。重い名は、走る。
噂は半日で蔵へ向き、影は夕刻に濃くなった。
賀蘭は禁裏の外周を棒で囲い、軍務府の兵に命じる。「剣は抜くな。囲いだけだ」
「陛下へは?」
「一行だけ」
凌は短く文を書いた。
〈太后の沈香、焚かずに見せます。――凌〉
返ってきたのは、いつもの簡潔な一行。
〈香は道になる。道に網を。――景焔〉
決裂の夜は浅い。だが、速さは揃っている。
三 蔵の前の静けさ
日が落ちきる前、銀工組合の蔵の前は、いつもより静かだった。
蔵の戸は閉ざされ、鍵は二重。外から香はしない。
燕青は梁に潜み、香鏡を“斜”に構える。香符が示すのは、沈一。だが、空気は――無臭。
虚香は生きている。
凌は少し離れた屋台の影に身を置き、板を運ぶ御台所の少年に小声で言った。
「板を道の角に。――〈今日の香符〉の右に〈虚香〉。見えるように」
「はい。落としません」
少年は板を抱えて走り、角に立て、婚礼印を小さく押した。
印は、恐れを和らげる。
板が立つと、人は呼吸を思い出す。
空気が変わるのは、その直後だった。
蔵の北の小路から、影が十。
足の運びは、軍のそれではない。均一でもない。私兵の癖。
肩の高さ、布の色、腰の弩――宰相派の下僕筋。
燕青が梁の上で合図を切り、賀蘭の“囲い”が、音なく形になった。
「香はどこだ!」
私兵の先頭が怒鳴った。
怒鳴り声に、甘さが混じる。
香を嗅ぎに来て、香がない。
“甘さがない甘さ”に、舌が苛立つ。
先頭の男が蔵の戸に取りついた瞬間、矢は飛ばない。棒が脛を打つ。
倒れ、転がり、弩の弦が鳴る前に、燕青の扇骨がその指を止める。
「太后の……沈香は……」
男の目が泳ぐ。
虚香は匂わない。匂わないことが、彼らの狂いを抜き出す。
蔵から出るのは、香鏡の反射だけ。
太后の祈祷の層を見慣れた者ほど、頭の中で匂いを補う。
ない香を、脳が嗅ぐ。
「誰の命だ」
賀蘭が棒の先で地を叩く。
先頭の男は、舌を噛みそうな声で叫んだ。
「銀工の親方が……親方が、焚けと……!」
凌は板の陰から一歩、出た。
「焚いていない。見せただけだ」
男の目が剥かれ、焦点が戻る。虚香の“甘くない甘さ”が抜けて、現実が入る。
彼は肩で息をしてから、力なく言った。
「……親方の命だ。太后の沈香を、蔵で焚け。そうすれば、“宮の輪”の口利きが早くなる、と」
“輪”。
二重輪契の、内。
内輪を、私兵が言葉にする――橋がある。
賀蘭が顎をわずかに引き、兵が音なく拘束に入る。剣は抜かない。棒だけ。
囲いの内側で、凌は短く命じた。
「親方を押さえる。剣は抜くな。……板で走る」
四 走る板、逃げる親方
門外の組合本所――昨日、凌と“二重輪契”を交わした親方は、屋敷にいなかった。
代わりに、誰も目を通したことのない古い帳箱が、机の下に置かれていた。
燕青が封を割る。蜜蝋の匂い。蜂蜜。
薄い紙が、三十枚。
貸しと利、輪の印、祓具の改修、灯油の勘定――全部、昨日まで掲げられていた板の裏返し。
そして、一冊の帳には、“輪”の印ではなく、海の波の印が押してある。
〈海東商社〉
〈南路香会〉
〈洋銀取引所〉
――海の向こうの商人の名。
凌は香鏡を斜に当て、紙の端の匂いを嗅いだ。
柑橘ではない。塩。
塩と、油。
船の腹に染みついた匂い。
「親方は?」
「裏門が、開いています」
燕青の顔が固くなる。
賀蘭の兵が裏手へ回り、囲いを二重にした刹那、細い鈴の音。
裏庭の柿の木の陰から、短い呻き。
走る前に、止めた者がいる。
親方は、喉に細い針を立てて倒れていた。
針の先に、黒い膠。
“黒胆”――海の南で使われる自死用の毒。
目は閉じられていない。
閉じる時間が、なかった。
女医官が、首を横に振った。
「薄い……沈香が、喉元に」
祈祷の香ではない。
**“最後の匂い”**として、死に殉じる者に嗅がせる程度の、薄い沈香。
凌は膝をつき、親方の指を見た。
爪の縁の黒筋。銀を磨く指。
その黒の上に、細い白粉――粉末の石灰。
船の荷綱の痕だ。
「……逃げ道は、海」
凌が立ち上がると、賀蘭が静かに問うた。
「首謀か」
「結び目だ。――首ではない。輪の一方の縁。……切れやすいほう」
“切れやすい縁”は、自分から切れる。
切れれば、上は残る。
残った輪は、見えにくくなる。
五 帳簿の海
帳箱の“海の帳”を、凌は広げた。
行ごとに、薄い“塩の筋”。
銀の道が、海を渡っている。
〈沈香:南路〉
〈蜂蜜:白槐〉
〈灯油:洋銀〉
海の向こうから来るものが、国内の制度と結びついて、噂の速さを超える。
凌は板の前に、帳の一枚を写しで貼り、残りは封じた。
〈今日の帳:香の罠 成功/宰相派私兵拘束/銀工親方 自害〉
〈海の帳:南路・海東商社(調査中)〉
名は出さない。
“調査中”の板は、恐れと好奇の間に人を置く。
間にいる者は、噂に乗り遅れる。
遅れは、人を救う。
燕青が耳元で囁く。
「私兵ども、まだ甘い匂いが抜けません。虚香に“嗅がされた匂い”の、影が残る」
「甘さは、罰ではない。……甘さの下で、名を言わせる」
宰相家の橋は乾いている。
乾いた橋は、燃えにくい。
だが、橋の欄干に、海の塩が付く。
塩は錆になる。
六 太后の沈香、裁ち目
その夜、太后は沈香を焚いた。
祈祷の層は薄く、長く。
凌が欄干の内に入ると、太后は扇を膝に置き、先に板を見た。
〈香の罠/親方自害〉
〈海の帳(調査中)〉
「太后主犯に見せかけただと?」
太后の声は平板だった。
凌は頭を垂れる。「見せかけました。……香を見せて匂わせず、虚香で“甘くない甘さ”を残しました。嗅ぎに走ったのは、宰相派の私兵」
「愚か者は、甘さの前で舌を出す」
「はい。……沈香は、祈りの香。今日は、祈りに戻りました」
太后は香炉の蓋を少し上げ、沈香の層をわずかに増やした。
「海に切り目がある。切り目は、腕の悪い裁ちだ。――裁ち目を、板に」
「板にします。……裁断の片倒れのように」
太后は扇の骨を一度だけ鳴らし、沈香の煙を指先で掬い、凌の誓珠に触れた。
「孤独は、海より重い」
「埋めます。――紙で」
太后は目を細め、笑ったとも笑わなかったともつかない表情で、扇を閉じた。
七 帝の一行、囲いの広がり
禁裏から、景焔の一行が届いた。
〈宰相の橋、海へ続く。国境の水位を下げる〉
続けて、もう一行。
〈剣は抜かぬ。棒で囲い、板で塞ぐ〉
凌は短く返した。
〈海の帳を“読める形”に。香符を海路に〉
香符は陸の道だけでなく、海でも通じる。
沈香・清・道――三つの層の比は、海風でも崩れない。
銀は塩に弱いが、香は塩を記憶する。
――“香は、地図になる”。
八 親方の遺骸、輪の欠け
親方の葬は、組合の奥で静かに行われた。
銀工たちは輪の印の前で膝をつき、指を合わせた。
輪は真円に戻っている。
欠けは、喉に移った。
凌は“二重輪契”の札の下に、小さな紙を足した。
〈輪は真円に。――欠けは名前に〉
名は刃より重い。
親方の名は板に出さない。
ただ、輪の重みだけが残る。
九 宰相の私兵、甘い供述
拘束された私兵たちは、甘い汗をかきながら、名前を出した。
「銀工の親方」
「宰相家の橋の“手”」
「灯の蔵の番」
「祭祀局の若官」
そして、海の名。
「海東の商人が、“沈香を回せ”と……」
凌は一つ一つ、板の裏に仮名で書き、“裏板”の息で結んだ。
御台所の少年が粥の鍋を混ぜながら、ぽつりと言う。
「太后さまの沈香、今日のはやさしい」
「祈りだから」
少年は頷き、「おかわりを落としません」と言って笑った。
十 香符、海へ
翌朝、香符板の隣に、新しい札が立った。
〈今日の香符・海路〉
沈(しず)一:沈香の油を銀板の裏から。
清二:柑橘の清を船底に押す。
道一:港の祓具に薄く。
――海風を浴びると、反射が青を孕む。
青は、海路の印。
青の遅れは、嘘。
祭祀局の若い書記が、昨日の涙を拭った目で札を読み、板に小さな図を描き足した。
船、波、港、祓具。
子が指でなぞり、老人が頷き、兵が腕を組む。
銀工組合の“輪”の頭が、帽子を取って言った。
「輪は陸の道。……**碇(いかり)**を、海の輪に」
凌は笑い、短く答えた。
「道の輪と海の輪。――二重輪の、外縁」
十一 宰相の薄笑い、網の粗
中書省。宰相はまた笑った。
笑いは薄い。端が疲れ、眼だけが油を帯びる。
「太后の沈香で、罠か。……香で捕るとは」
袖口の蜜蝋の粒は減り、代わりに塩の白粉。
海の匂いは、室内の灯に合わない。
灯は揺れ、網は粗くなる。
「親方は、自ら切れた」
宰相は独り言のように言い、扇で灯を一度だけ払った。
払われた灯は低くなり、影は長くなる。
長い影は孤独を伸ばす。
孤独は、板でしか縮まない。
十二 銀の蔵に残ったもの
虚香の“蔵”には、沈香の匂いがない。
残ったのは、反射と、音と、足跡。
足跡の土に、細かな砂。
砂は、南の海の砂だ。
粒が丸く、光を鈍く返す。
凌は砂を薄紙に包み、香鏡の上で反射を見た。
青。
海路の印。
香符の“青”と、砂の青が、合う。
裏板の息が、海から逆流した。
〈南路・香会・第三倉〉
〈港の祓具――香符の“遅れ”〉
港の祓具。
そこで、香が遅れて色になっている。
「港だ」
凌は板に走り書きした。
〈今日の軍路:港 “囲い”〉
賀蘭が頷き、「棒」を肩にかけた。
「剣は抜かぬ」
十三 港の囲い
港。
潮の匂い、油の膜、船腹の音。
香符の“青”が、波に砕けて散っている。
祓具の釘に仕込んだ香符は、遅れて反射を増やす。
遅れは、嘘の重さ。
賀蘭の兵は、棒で囲い、走路を塞ぐ。
燕青は帆柱の影を移り、縄の節を刃で軽く撫でる。
宰相の私兵ではない。海の手だ。
濃い皮膚、塩の指、短い刃。
逃げ足は速いが、囲いの中で速さは意味を失う。
「名を」
凌が問うと、男は低く笑った。
「名は海に置いてきた」
海は名を薄める。
板は、名を濃くする。
男はやがて、商会の名を吐いた。
「……海東商社」
凌は頷き、板の裏にまた“調査中”の札を貼った。
名は刃より重い。
重い名は、急がぬ。
十四 夜の端で
夜。
景焔からの文は短い。
〈港に堰。水位を下げる〉
凌は誓珠の上から文を押さえ、香鏡を伏せた。
沈香は、祈りの香。
祈りは、罠より古い。
罠は、祈りの背に乗る。
寝殿の端、燕青が息を整える。
「凌殿。親方の自害……止められませんでした」
「止めなくていい日も、ある。――止められなかった重さを、数で」
「数?」
「逃げなかった名の数。戻した銀の数。香符の“青”の数。……救えた口の数」
燕青は深く頷いた。
影は、数えることを覚えた。
数は、影を軽くする。
十五 香の罠の余波
翌朝、板の前で子らが歌った。
> 沈は見えても 匂いなし
> 甘さに走れば 棒が待つ
> 輪は真円 欠けは名
> 海の青 板に写る
歌は拙い。だが、速い。
歌に混じった言葉は、刃では切れない。
〈今日の帳〉には、新たにこう足された。
〈虚香 成功/宰相派私兵 拘束/銀工親方 自害〉
〈海の帳(調査中)〉
〈港 囲い/堰〉
――噂の速さに、段を刻む。
十六 輪の奥、残った声
銀工組合の古い工房に、親方の声が残っていた。
弟子の一人が震える声で言う。
「親方は輪を、ほんとうに丸くしたかった」
凌は頷き、彼の手を握った。
「丸くしよう。……名は出さない。仕事を出す」
“二重輪契”の札の横に、工期の札を足す。
〈宮輪:祓具金口 改修〉
〈民輪:匙・釘 新式〉
香符は、輪の奥で作られ、香の道は、板の表で読まれる。
十七 海の匂いを紙に
港の事務所で、波に濡れた帳が干されていた。
凌はそれを香鏡で映し、塩の層を紙に写す。
匂いの地図を、紙に。
匂いは消える。
紙は、残る。
残った紙が、国境を指す。
地図の端に、薄い文字。
〈北の岬〉
〈南の湾〉
〈中の島〉
いずれも、国境の薄いところ。
薄いところは、噂が速い。
「板を、海へ」
凌は呟き、香符板の縮小版を港に立てさせた。
〈今日の香符・海〉
青の比を、みんなで読む。
読む者が増えれば、噂は遅い。
十八 帝と太后、短い交点
夜、凌は短い文を二通、書いた。
〈太后さま――沈香は祈りに戻りました。香の罠は、終えます〉
〈陛下――堰を港へ伸ばすには、板を増やします〉
返ってきた文も短い。
太后:〈香は祈り。祈りは香。書け〉
景焔:〈板で堰。剣は後〉
決裂は続く。
だが、言葉の向きは合っている。
十九 海の向こうへ
海の帳には、もう一つの名があった。
〈紅夷(こうい)の商館〉
“紅夷”――海の向こうの赤い毛を持つ民、と古書は記す。
洋銀、灯油、沈香――外で生産され、内で噂になる。
凌は板の端に、小さくこう書いた。
〈“唯一”は席ではなく、規格。国境も、規格に〉
規格は増える。
港の板、香符の青、二重輪の外縁。
増えるほど、刃は鈍る。
鈍った刃の下で、人が眠る。
二十 終わらない罠、続く道
“香の罠”は、香を焚かずに見せる罠だった。
罠は終わった。
だが、罠があぶり出した道は、続く。
銀の道は、輪で区切られ、名で重くなり、板で見える。
香の道は、香符で刻まれ、虚香で反転し、祈りで澄む。
海の道は、青で記され、塩で読まれ、堰で緩む。
噂は速い。
紙は遅い。
遅い紙でしか、国境は縫えない。
凌は誓珠を胸に押しあて、静かに目を閉じた。
銀口の沈香が、ほとんど聞こえない音で鳴る。
蘭秀の欠けた扇骨が、どこかの風の角で小さく触れ合い、太后の沈香が祈りに戻り、景焔の一行が堰を延ばす。
“唯一”は席ではない。
規格だ。
規格は、海へも伸びる。
続ける。
朝の一番鈍い鐘が終わるより先に、凌は静陰殿の板に新しい札を掛けた。
〈今日の帳:香の罠/偽指示〉
〈今日の香:沈(しず)一・清二・道一(香符維持)〉
〈今日の祓い:平〉
〈今日の灯:低/囲い〉
香の罠――“香りの転移”を逆手に取る策だ。
狙うのは、宮門外を束ねる銀工組合の蔵(くら)。
噂の川底に沈めておいた“餌”を、今日は一気に引き上げる。
「偽の指示を流す。『太后の沈香』を蔵で焚け――太后の祈祷と同じ香だとわざと言い立てる」
凌がそう告げると、燕青が頷いた。
「蔵の番頭に届く前に、“橋”の者が拾う。宰相派に回る。……嗅覚の良いほうへ」
「宰相派は、太后主犯の絵を欲しがっている。なら、描かせる。こちらの手で」
香は、嘘をはっきり“匂わせる”。
「太后の沈香」――この四文字の甘さは、毒だ。
毒が甘いほど、人は舌を差し出す。
ただし、蔵で沈香は焚かない。
焚いた香は、祈りの名になる。
焚かない香は、罠の名になる。
凌は香鏡の縁に二度刻みの目盛を増やし、香符板の前に“補遺”を一枚貼った。
〈虚香(ここう):焚かずに“焚いたふり”をする技〉
――銀板の香符に微量の沈香油を裏から押し、蔵の梁と戸の内側に仕込む。
――香鏡は反射で“沈一”を示すが、空気の層に香は現れない。
――焚いた者しか嗅げない香。焚かなければ、誰も嗅げない香。
「香を見せて、匂わせない」
凌は微笑し、誓珠の銀口を指の腹で軽く鳴らした。
銀砂がひそりと返事する。
“血の名”は混じらない。混じらないが、合図は共有できる。
二 偽の指示
偽指示は三手で打つ。
一、書。――中書省の古い文式で書いた短い札。「沈香・太后式・三層」。印は、わざと古い片倒れ。文官が見れば、すぐ“匂い”を嗅ぎ取れる。
二、息。――裏板の竹筒に“太后の沈香”という言葉を二度だけ通し、息の湿りを薄く残す。宰相派の見張りが、裏板の「息」を盗むようになって久しい。盗ませる。
三、人。――燕青が、銀工組合の支店に働く書出しの若造に金ではなく名を与える。「おまえの名で回した」と言っておく。名は刃より重い。重い名は、走る。
噂は半日で蔵へ向き、影は夕刻に濃くなった。
賀蘭は禁裏の外周を棒で囲い、軍務府の兵に命じる。「剣は抜くな。囲いだけだ」
「陛下へは?」
「一行だけ」
凌は短く文を書いた。
〈太后の沈香、焚かずに見せます。――凌〉
返ってきたのは、いつもの簡潔な一行。
〈香は道になる。道に網を。――景焔〉
決裂の夜は浅い。だが、速さは揃っている。
三 蔵の前の静けさ
日が落ちきる前、銀工組合の蔵の前は、いつもより静かだった。
蔵の戸は閉ざされ、鍵は二重。外から香はしない。
燕青は梁に潜み、香鏡を“斜”に構える。香符が示すのは、沈一。だが、空気は――無臭。
虚香は生きている。
凌は少し離れた屋台の影に身を置き、板を運ぶ御台所の少年に小声で言った。
「板を道の角に。――〈今日の香符〉の右に〈虚香〉。見えるように」
「はい。落としません」
少年は板を抱えて走り、角に立て、婚礼印を小さく押した。
印は、恐れを和らげる。
板が立つと、人は呼吸を思い出す。
空気が変わるのは、その直後だった。
蔵の北の小路から、影が十。
足の運びは、軍のそれではない。均一でもない。私兵の癖。
肩の高さ、布の色、腰の弩――宰相派の下僕筋。
燕青が梁の上で合図を切り、賀蘭の“囲い”が、音なく形になった。
「香はどこだ!」
私兵の先頭が怒鳴った。
怒鳴り声に、甘さが混じる。
香を嗅ぎに来て、香がない。
“甘さがない甘さ”に、舌が苛立つ。
先頭の男が蔵の戸に取りついた瞬間、矢は飛ばない。棒が脛を打つ。
倒れ、転がり、弩の弦が鳴る前に、燕青の扇骨がその指を止める。
「太后の……沈香は……」
男の目が泳ぐ。
虚香は匂わない。匂わないことが、彼らの狂いを抜き出す。
蔵から出るのは、香鏡の反射だけ。
太后の祈祷の層を見慣れた者ほど、頭の中で匂いを補う。
ない香を、脳が嗅ぐ。
「誰の命だ」
賀蘭が棒の先で地を叩く。
先頭の男は、舌を噛みそうな声で叫んだ。
「銀工の親方が……親方が、焚けと……!」
凌は板の陰から一歩、出た。
「焚いていない。見せただけだ」
男の目が剥かれ、焦点が戻る。虚香の“甘くない甘さ”が抜けて、現実が入る。
彼は肩で息をしてから、力なく言った。
「……親方の命だ。太后の沈香を、蔵で焚け。そうすれば、“宮の輪”の口利きが早くなる、と」
“輪”。
二重輪契の、内。
内輪を、私兵が言葉にする――橋がある。
賀蘭が顎をわずかに引き、兵が音なく拘束に入る。剣は抜かない。棒だけ。
囲いの内側で、凌は短く命じた。
「親方を押さえる。剣は抜くな。……板で走る」
四 走る板、逃げる親方
門外の組合本所――昨日、凌と“二重輪契”を交わした親方は、屋敷にいなかった。
代わりに、誰も目を通したことのない古い帳箱が、机の下に置かれていた。
燕青が封を割る。蜜蝋の匂い。蜂蜜。
薄い紙が、三十枚。
貸しと利、輪の印、祓具の改修、灯油の勘定――全部、昨日まで掲げられていた板の裏返し。
そして、一冊の帳には、“輪”の印ではなく、海の波の印が押してある。
〈海東商社〉
〈南路香会〉
〈洋銀取引所〉
――海の向こうの商人の名。
凌は香鏡を斜に当て、紙の端の匂いを嗅いだ。
柑橘ではない。塩。
塩と、油。
船の腹に染みついた匂い。
「親方は?」
「裏門が、開いています」
燕青の顔が固くなる。
賀蘭の兵が裏手へ回り、囲いを二重にした刹那、細い鈴の音。
裏庭の柿の木の陰から、短い呻き。
走る前に、止めた者がいる。
親方は、喉に細い針を立てて倒れていた。
針の先に、黒い膠。
“黒胆”――海の南で使われる自死用の毒。
目は閉じられていない。
閉じる時間が、なかった。
女医官が、首を横に振った。
「薄い……沈香が、喉元に」
祈祷の香ではない。
**“最後の匂い”**として、死に殉じる者に嗅がせる程度の、薄い沈香。
凌は膝をつき、親方の指を見た。
爪の縁の黒筋。銀を磨く指。
その黒の上に、細い白粉――粉末の石灰。
船の荷綱の痕だ。
「……逃げ道は、海」
凌が立ち上がると、賀蘭が静かに問うた。
「首謀か」
「結び目だ。――首ではない。輪の一方の縁。……切れやすいほう」
“切れやすい縁”は、自分から切れる。
切れれば、上は残る。
残った輪は、見えにくくなる。
五 帳簿の海
帳箱の“海の帳”を、凌は広げた。
行ごとに、薄い“塩の筋”。
銀の道が、海を渡っている。
〈沈香:南路〉
〈蜂蜜:白槐〉
〈灯油:洋銀〉
海の向こうから来るものが、国内の制度と結びついて、噂の速さを超える。
凌は板の前に、帳の一枚を写しで貼り、残りは封じた。
〈今日の帳:香の罠 成功/宰相派私兵拘束/銀工親方 自害〉
〈海の帳:南路・海東商社(調査中)〉
名は出さない。
“調査中”の板は、恐れと好奇の間に人を置く。
間にいる者は、噂に乗り遅れる。
遅れは、人を救う。
燕青が耳元で囁く。
「私兵ども、まだ甘い匂いが抜けません。虚香に“嗅がされた匂い”の、影が残る」
「甘さは、罰ではない。……甘さの下で、名を言わせる」
宰相家の橋は乾いている。
乾いた橋は、燃えにくい。
だが、橋の欄干に、海の塩が付く。
塩は錆になる。
六 太后の沈香、裁ち目
その夜、太后は沈香を焚いた。
祈祷の層は薄く、長く。
凌が欄干の内に入ると、太后は扇を膝に置き、先に板を見た。
〈香の罠/親方自害〉
〈海の帳(調査中)〉
「太后主犯に見せかけただと?」
太后の声は平板だった。
凌は頭を垂れる。「見せかけました。……香を見せて匂わせず、虚香で“甘くない甘さ”を残しました。嗅ぎに走ったのは、宰相派の私兵」
「愚か者は、甘さの前で舌を出す」
「はい。……沈香は、祈りの香。今日は、祈りに戻りました」
太后は香炉の蓋を少し上げ、沈香の層をわずかに増やした。
「海に切り目がある。切り目は、腕の悪い裁ちだ。――裁ち目を、板に」
「板にします。……裁断の片倒れのように」
太后は扇の骨を一度だけ鳴らし、沈香の煙を指先で掬い、凌の誓珠に触れた。
「孤独は、海より重い」
「埋めます。――紙で」
太后は目を細め、笑ったとも笑わなかったともつかない表情で、扇を閉じた。
七 帝の一行、囲いの広がり
禁裏から、景焔の一行が届いた。
〈宰相の橋、海へ続く。国境の水位を下げる〉
続けて、もう一行。
〈剣は抜かぬ。棒で囲い、板で塞ぐ〉
凌は短く返した。
〈海の帳を“読める形”に。香符を海路に〉
香符は陸の道だけでなく、海でも通じる。
沈香・清・道――三つの層の比は、海風でも崩れない。
銀は塩に弱いが、香は塩を記憶する。
――“香は、地図になる”。
八 親方の遺骸、輪の欠け
親方の葬は、組合の奥で静かに行われた。
銀工たちは輪の印の前で膝をつき、指を合わせた。
輪は真円に戻っている。
欠けは、喉に移った。
凌は“二重輪契”の札の下に、小さな紙を足した。
〈輪は真円に。――欠けは名前に〉
名は刃より重い。
親方の名は板に出さない。
ただ、輪の重みだけが残る。
九 宰相の私兵、甘い供述
拘束された私兵たちは、甘い汗をかきながら、名前を出した。
「銀工の親方」
「宰相家の橋の“手”」
「灯の蔵の番」
「祭祀局の若官」
そして、海の名。
「海東の商人が、“沈香を回せ”と……」
凌は一つ一つ、板の裏に仮名で書き、“裏板”の息で結んだ。
御台所の少年が粥の鍋を混ぜながら、ぽつりと言う。
「太后さまの沈香、今日のはやさしい」
「祈りだから」
少年は頷き、「おかわりを落としません」と言って笑った。
十 香符、海へ
翌朝、香符板の隣に、新しい札が立った。
〈今日の香符・海路〉
沈(しず)一:沈香の油を銀板の裏から。
清二:柑橘の清を船底に押す。
道一:港の祓具に薄く。
――海風を浴びると、反射が青を孕む。
青は、海路の印。
青の遅れは、嘘。
祭祀局の若い書記が、昨日の涙を拭った目で札を読み、板に小さな図を描き足した。
船、波、港、祓具。
子が指でなぞり、老人が頷き、兵が腕を組む。
銀工組合の“輪”の頭が、帽子を取って言った。
「輪は陸の道。……**碇(いかり)**を、海の輪に」
凌は笑い、短く答えた。
「道の輪と海の輪。――二重輪の、外縁」
十一 宰相の薄笑い、網の粗
中書省。宰相はまた笑った。
笑いは薄い。端が疲れ、眼だけが油を帯びる。
「太后の沈香で、罠か。……香で捕るとは」
袖口の蜜蝋の粒は減り、代わりに塩の白粉。
海の匂いは、室内の灯に合わない。
灯は揺れ、網は粗くなる。
「親方は、自ら切れた」
宰相は独り言のように言い、扇で灯を一度だけ払った。
払われた灯は低くなり、影は長くなる。
長い影は孤独を伸ばす。
孤独は、板でしか縮まない。
十二 銀の蔵に残ったもの
虚香の“蔵”には、沈香の匂いがない。
残ったのは、反射と、音と、足跡。
足跡の土に、細かな砂。
砂は、南の海の砂だ。
粒が丸く、光を鈍く返す。
凌は砂を薄紙に包み、香鏡の上で反射を見た。
青。
海路の印。
香符の“青”と、砂の青が、合う。
裏板の息が、海から逆流した。
〈南路・香会・第三倉〉
〈港の祓具――香符の“遅れ”〉
港の祓具。
そこで、香が遅れて色になっている。
「港だ」
凌は板に走り書きした。
〈今日の軍路:港 “囲い”〉
賀蘭が頷き、「棒」を肩にかけた。
「剣は抜かぬ」
十三 港の囲い
港。
潮の匂い、油の膜、船腹の音。
香符の“青”が、波に砕けて散っている。
祓具の釘に仕込んだ香符は、遅れて反射を増やす。
遅れは、嘘の重さ。
賀蘭の兵は、棒で囲い、走路を塞ぐ。
燕青は帆柱の影を移り、縄の節を刃で軽く撫でる。
宰相の私兵ではない。海の手だ。
濃い皮膚、塩の指、短い刃。
逃げ足は速いが、囲いの中で速さは意味を失う。
「名を」
凌が問うと、男は低く笑った。
「名は海に置いてきた」
海は名を薄める。
板は、名を濃くする。
男はやがて、商会の名を吐いた。
「……海東商社」
凌は頷き、板の裏にまた“調査中”の札を貼った。
名は刃より重い。
重い名は、急がぬ。
十四 夜の端で
夜。
景焔からの文は短い。
〈港に堰。水位を下げる〉
凌は誓珠の上から文を押さえ、香鏡を伏せた。
沈香は、祈りの香。
祈りは、罠より古い。
罠は、祈りの背に乗る。
寝殿の端、燕青が息を整える。
「凌殿。親方の自害……止められませんでした」
「止めなくていい日も、ある。――止められなかった重さを、数で」
「数?」
「逃げなかった名の数。戻した銀の数。香符の“青”の数。……救えた口の数」
燕青は深く頷いた。
影は、数えることを覚えた。
数は、影を軽くする。
十五 香の罠の余波
翌朝、板の前で子らが歌った。
> 沈は見えても 匂いなし
> 甘さに走れば 棒が待つ
> 輪は真円 欠けは名
> 海の青 板に写る
歌は拙い。だが、速い。
歌に混じった言葉は、刃では切れない。
〈今日の帳〉には、新たにこう足された。
〈虚香 成功/宰相派私兵 拘束/銀工親方 自害〉
〈海の帳(調査中)〉
〈港 囲い/堰〉
――噂の速さに、段を刻む。
十六 輪の奥、残った声
銀工組合の古い工房に、親方の声が残っていた。
弟子の一人が震える声で言う。
「親方は輪を、ほんとうに丸くしたかった」
凌は頷き、彼の手を握った。
「丸くしよう。……名は出さない。仕事を出す」
“二重輪契”の札の横に、工期の札を足す。
〈宮輪:祓具金口 改修〉
〈民輪:匙・釘 新式〉
香符は、輪の奥で作られ、香の道は、板の表で読まれる。
十七 海の匂いを紙に
港の事務所で、波に濡れた帳が干されていた。
凌はそれを香鏡で映し、塩の層を紙に写す。
匂いの地図を、紙に。
匂いは消える。
紙は、残る。
残った紙が、国境を指す。
地図の端に、薄い文字。
〈北の岬〉
〈南の湾〉
〈中の島〉
いずれも、国境の薄いところ。
薄いところは、噂が速い。
「板を、海へ」
凌は呟き、香符板の縮小版を港に立てさせた。
〈今日の香符・海〉
青の比を、みんなで読む。
読む者が増えれば、噂は遅い。
十八 帝と太后、短い交点
夜、凌は短い文を二通、書いた。
〈太后さま――沈香は祈りに戻りました。香の罠は、終えます〉
〈陛下――堰を港へ伸ばすには、板を増やします〉
返ってきた文も短い。
太后:〈香は祈り。祈りは香。書け〉
景焔:〈板で堰。剣は後〉
決裂は続く。
だが、言葉の向きは合っている。
十九 海の向こうへ
海の帳には、もう一つの名があった。
〈紅夷(こうい)の商館〉
“紅夷”――海の向こうの赤い毛を持つ民、と古書は記す。
洋銀、灯油、沈香――外で生産され、内で噂になる。
凌は板の端に、小さくこう書いた。
〈“唯一”は席ではなく、規格。国境も、規格に〉
規格は増える。
港の板、香符の青、二重輪の外縁。
増えるほど、刃は鈍る。
鈍った刃の下で、人が眠る。
二十 終わらない罠、続く道
“香の罠”は、香を焚かずに見せる罠だった。
罠は終わった。
だが、罠があぶり出した道は、続く。
銀の道は、輪で区切られ、名で重くなり、板で見える。
香の道は、香符で刻まれ、虚香で反転し、祈りで澄む。
海の道は、青で記され、塩で読まれ、堰で緩む。
噂は速い。
紙は遅い。
遅い紙でしか、国境は縫えない。
凌は誓珠を胸に押しあて、静かに目を閉じた。
銀口の沈香が、ほとんど聞こえない音で鳴る。
蘭秀の欠けた扇骨が、どこかの風の角で小さく触れ合い、太后の沈香が祈りに戻り、景焔の一行が堰を延ばす。
“唯一”は席ではない。
規格だ。
規格は、海へも伸びる。
続ける。



