一 銀の道の地図
朝の二つ目の鐘。
静陰殿の板に、凌は新しい札を足した。
〈今日の帳:銀工組合/宮の銀・民の銀〉
〈今日の香:清〉
〈今日の祓い:倉〉
〈今日の灯:低〉
銀――宮の飾金細工、祓具の釘、香炉の金口、婚礼印の小型版、そして誓珠の小口(こぐち)。すべてに銀が通う。
銀は血管だ。国の手足へ温度を運ぶ。
いま、その血管にしこりがある。宮門外の市場を束ねる〈銀工組合〉。宰相家に金を貸し、利権を得て、灯の売買にも絡んでいる――裏板に届いた息(報せ)が、昨夜から同じ方向を指し続けていた。
「郡の裏板から“銀の匂い”が増えました」
燕青が竹筒の口に耳を寄せ、息の湿りで告げる。「宰相家の橋から、市場の輪へ。輪の片側が、また削れている」
「輪は繋げば道になる。……道は板で見える」
凌は小さく笑い、『今日の銀』の仮の図を描いた。中央に“宮銀”、外周に“民銀”。二つを細い橋で結び、橋の上に“値”の札。
〈宮の匙=一〉〈民の匙=百〉。昨日から数字は変わらない。だが――今日はもう一枚、紙を足す。
〈誓珠:鑑定〉
銀の道のいちばん奥。最も個人的な銀。
誓珠の小口に、不意に引っかかる感覚があった。血の儀のあと、珠の中の銀砂は静かに落ち着いたはずだのに、指先に“香の影”がうっすら残る。
香鏡を当てると、銀の縁に、ごく微細な樹脂の瘤――沈香の痕がわずかに光る。
沈香。太后の祈祷に多用される香。
祓いの札には今日〈清〉とある。沈香は別名〈沈水香〉、水に沈む香。板の上で、言葉が静かに線をつないでいく。
「鑑定を、正式に」
凌は誓珠を紙に包み、女医官と祭祀局の若い書記に渡す。「銀口の付着物。焼いて色の変わる樹脂と油を分けて、香鏡の目盛で見て」
「沈香なら、太后さまの祈祷の層に……」
女医官の声が、途中で細くなった。
凌は頷く。「だからこそ、板に」
疑いは腐る。
数にするか、板にする。それ以外に、長く持つ道はない。
二 貸しと利、輪の印
昼前、門外の銀工組合の“輪”の頭(かしら)から、凌が求めた帳簿の写しが届いた。
封を解くと、紙は厚く、数字はまっすぐ、印は輪。輪の片側が、昨日までと違って削れていない。
昨日、帝が門前で“輪を欠かせぬ”と宣言した。宣言の翌日、印は真円になった。
真円は、言い訳の余地を減らす。
帳簿――貸付の項に、中書省の小印。宰相家への融資。年は昨年から今年へかけて、二度。担保は「灯油の収益」。祭祀局の祓具改修費の“前渡し”。香炉の金口の“代替工期短縮”。
言葉は良い。
言葉の良さは、穴の良さでもある。
「祓具の改修、金口の代替。――“香”と“銀”が、同じページに乗っている」
「銀が香を運び、香が銀を隠す」
燕青の言葉は、刃の柄の重さに似ていた。
「頭を、呼ぶ」
凌は筆を止め、扉口へ行って命じた。
板は人を動かす。だが、顔は板と別の言葉を持つ。
三 銀工の頭、板の前に
午後、銀工組合の頭が静陰殿へ入った。五十ばかり、背は低いが、手は厚く、爪の縁に黒い筋。銀を磨く指だ。
彼は帽子を取り、板の前で立ち、先に板を読んだ。
〈今日の銀〉〈宮の銀・民の銀〉〈誓珠:鑑定〉
目の高さに板。値を貼る前から、彼の眼(まなこ)は板を読み慣れている。
「呼ばれましたから、読みました」
彼は頭(こうべ)を上げ、言葉を選びながら言った。「宰相家へ貸しをした。灯の油の利を担保に。……“輪”の片側は、もう削らない」
「削った日々の話を」
「“削り”は……恥だ。銀は輪を作って、最後に繋ぐためのもの。輪の片側だけ削るのは、半分の輪だ」
「半分の輪は、網になる。誰かをすくい、誰かを落とす」
頭は目を伏せ、頷いた。「宰相家の“橋”は、高い。橋に乗りたい者は多い。……貸した銀は、灯になり、灯は祓いの札の下で燃え、祓いの下で影が濃くなる。濃い影は、組合をも隠す」
「誓珠の銀口に、沈香が付いた。いつ、あなたたちの銀が、どこで香を浴びたのか」
「誓珠……」
頭は一瞬だけ、顔に“商いではない”色を出した。
誓珠は、銀工にとっても“仕事を越える”品だ。
「誓珠の小口を作る銀は、別だ。組合の輪の内でも、輪の奥。手の少ない場だ。……沈香は太后さまの香。太后さまの祈りは、私も、若い頃から知っている。輪の奥から出た銀は、宮の中で、何度も香を浴びたはず」
凌は、頭から顔を逸らさずに、ゆっくり頷いた。
「沈香は祈りの香。祈りは、匂いを残す。……残る匂いは、祈りの道の地図になる」
「地図?」
「香りの転移。沈香の微細な樹脂は、金属へ移り、移った場所から、さらに移る。金口から器へ、器から唇へ、唇から布へ――道ができる。……私は、その道を逆に辿る」
頭は目を細め、呼吸をひとつ止めた。
「辿って、どこへ」
「『削らない輪』のほうへ。輪を橋にするために」
頭は深く礼をした。「輪は、道です。……道は、板で見える」
四 沈香の痕――鑑定
夕刻、女医官と祭祀局の若い書記が戻った。
「誓珠の銀口から、沈香を確かに検出しました。極微量。……ただ、層が二つあります」
「二つ?」
「はい。古い層と、新しい層。古い層は、灰にごく薄い鉄の匂い。新しい層は、柑橘の清が混じる。――古い層は、おそらく、蘭秀さまが扇で香を調えた時代。新しい層は、**婚礼(壱)(弐)**の三層の香」
凌は目を伏せ、誓珠を掌に受け取った。
古い層――蘭秀。欠けた扇骨。
新しい層――自分が提案した「三札」。
沈香は太后の祈祷の香。だが、太后の命ではないと言って逝った女官長が、香の道を日々整えていた。
疑いは、来た。
来て、凌の胸で紙に変わる。
「板に、こう書いて」
〈誓珠:銀口に沈香(古層・新層)〉
〈古層=蘭秀の時期/新層=婚礼の香〉
〈太后の沈香=祈祷/祈祷の道=公開〉
“公開”――今日の救いの言葉。
見えるところへ出せば、噂の速度は落ちる。
落ちた噂は、道に変わる。
五 太后の呼び声
その夜、蘭秀の葬の香がまだ薄く続く頃、太后からの小さな呼び出しが来た。
〈来よ〉
文字は三つ。
短い言葉ほど、重い。
欄干の内。
太后は扇を膝に置き、沈香の層を薄く長く流していた。
凌が跪くと、太后は扇を閉じ、目だけで「座れ」と示した。
座ってから、太后は先に板を見る。
〈今日の帳:銀工組合〉
〈誓珠:沈香〉
〈婚礼(弐):血誓〉
彼女は、扇の骨を一本、軽く鳴らす。
「複妃制の復活は認めぬ」
突然の言葉。
凌は頭を下げ、返事を短く置く。「承りました」
「だが、皇帝の孤独は国家の孤独。お前が埋めよ」
扇の先で、太后は何も指さなかった。
指さない言葉は、刃より重い。
凌は息を整え、慎重に言った。「埋めます。……紙で」
太后はわずかに笑った。「紙で埋まる穴と、紙では埋まらぬ穴がある。おまえは、紙で埋めることの強さと、弱さを知っている」
「はい。だから、紙で埋められないぶんを、香で埋めます」
太后は頷き、香炉の蓋を少し上げた。
沈香。
樹の心に入り、数十年、数百年をかけて香を孕む“沈水”。
その小さな欠片を熱に近づけ、太后は祈りを始めた。
詞は短い。声は出ない。
祈りは、匂いで言う。
太后は、ひと息置いて凌を見た。
「――蘭秀は、おまえのために扇を磨き続けた」
「はい」
「蘭秀は、太后の命ではない、と言った。……それを、おまえは板に書かない」
「書けません。書けば、沈黙が死にます」
太后は目を細め、香を一層だけ増やした。
「おまえは、書かぬことも書く。……よい」
言い終えると、沈香の煙を指で掬い、凌の誓珠の上にそっと落とした。
「安全祈願。――おまえと、あの子(景焔)に」
沈香が誓珠の銀口で、かすかに鳴った。
六 香りの転移――逆手
静陰殿へ戻る道、凌は息を詰めて歩いた。
香の層が薄い。
考えるには、薄いほうがいい。
誓珠の銀口に沈香。古層と新層。
沈香は金属へ移り、移った金属から、また別の金属へ移る。
香は、汚染でもある。
ならば――香を、刻印にする。
書机で紙を広げ、香鏡の縁に細かな目盛を三度刻みから二度刻みへ引き直した。
沈香の油は、温度と風で層を作る。
層の組み合わせは、符になる。
――〈香符(こうふ)〉
一、沈香を微量、柑橘の清を二、道の香を一。三つを一定の順で、薄い銀板に三層。
二、銀板は“輪”の内で仕上げ、裏板の“息”で乾かす。
三、板を祓具や金口、匙、婚礼印の版に仕込む。
四、香鏡で“香符”を読む。二度刻みの目盛で比を取る。
五、香符の配合を、板に“今日の香符”として公開する。
六、偽の香符は、遅れて色が変わる。遅れをもって、裏板へ息が届く。
“香りの転移”は、犯跡だった。
それを前もって刻んでおけば、転移は、署名になる。
逆手だ。
凌は微笑した。
笑いは、刃より速い。
「燕青。……明日の朝までに、“銀の堰”の横に香符板を立てる」
「承知」
影の声は、もう“命に代えて”と言わない。
働きで返す者の声だ。
七 輪の奥――取り引き
翌日、銀工組合の作業場の奥で、凌は頭と向かい合った。
「香符を、輪の内で作る。輪の外に出さない。輪の印と香符は、一度に押す」
「宰相家は、怒る」
「怒れば、板に怒りが貼られる。貼られた怒りは、価格へ変わる」
頭は目を細め、笑った。「板の前では、怒りも売り物になる」
「売る前に、読みになります」
二人は短く笑い、作業台に銀を置いた。
沈香の油、柑橘の清、道の香――三つを、決めた順に薄く引いていく。
香の層は目に見えない。
見えないからこそ、香鏡で見る。
香鏡の目盛を二度ごとに回し、反射の微細な濃淡を拾う。
“輪”の職人の手は、刃よりも正確だ。
掌の上で、銀板は息を覚える。
「香符は、歌にもなる」
頭がぽつりと言った。
> 沈(しず)む香ひと 清の香ふた
> 道の香ひとで 輪を押す
> 輪は道なり 道は板なり
「歌は速い」
凌も応じる。「噂より速い」
八 香符板(こうふばん)
昼、静陰殿の中庭に、新しい板が立った。
〈今日の香符〉
沈・清・道――三つの印を示す小さな図。
〈沈一/清二/道一〉
香符の配合を、公開する。
公開は、刃を鈍らせる。
宰相家が“偽の香符”を作っても、銀の層は遅れて色が変わる。遅れは、裏板の息に乗る。
〈偽符の遅れ=罪〉
罪は、板の上で待ちを食う。
待ちは、網を粗くする。
祭祀局の若い書記が板の前で立ち止まり、「これを香炉の金口に?」
「はい。金口、匙、婚礼印の版、祓具の釘。道に関わる銀すべてに」
御台所の少年が手を挙げる。「粥の匙にも?」
凌は笑った。「もちろん」
九 香は道、道は捕吏
その夜から、〈香符〉は道を走った。
最初に影が出たのは、鳳梁の郡板の裏。
倉の祓具の釘に仕込んだ香符が、二つの道へ転移している。
片方は郡廨の庁門――公開の道。
もう片方は、宿場の裏手の灯蔵――宰相家の灯が集まる場所。
香鏡の目盛を二度刻みで読む。沈一/清二/道一。
同じ。
郡板の前、凌は短く言った。
「――捕るのではなく、待て」
賀蘭が頷く。「待ちは、囲いだ」
翌朝、灯蔵の前で香の層を強く焚いた。香符が飽和し、偽符の“遅れ”が一気に色に出る。
宰相家の書吏が慌てて灯の蔵から外へ出たとき、袖の内側が甘い。
沈香ではない。蜂蜜。
白槐へ送った薄粥の“甘さ”が、灯蔵へ逆流している。
香は、嘘より正直だ。
書吏は逃げなかった。
逃げ道を、板が塞いだ。
人の輪が、板の前にできる。
輪の中心で、子が声に出して読む。
〈偽符の遅れ=罪〉
書吏は、頷いた。
「罪を、板に載せます」
十 太后の沈香、帝の一行
捕り物の報が禁裏へ届くと、景焔から一行の文が来た。
〈香が道になる。道で捕れ。剣はそのあとだ〉
凌は文を胸に挟み、誓珠の上から押さえた。
香の道は、帝の語法に合っている。
石で塞がず、水位を下げる。
香で道を描き、道で囲む。
紙で、閉じる。
夜、太后の私室で、沈香がもう一層、長く焚かれた。
彼女は言った。
「香は、約束の匂いだ」
「はい」
「おまえは、香を刻印にした。……蘭秀が見たら、扇を磨く」
凌は笑って、頭を下げた。
十一 輪の交渉
銀工の頭がふたたび静陰殿へ来て、帽子を取り、香符板の前で言った。
「輪を、板に載せる。……契約を」
「契約?」
「宮の銀は宮へ。民の銀は民へ。輪は二重。宮輪と民輪。利は公開。灯油は別勘定。宰相家の橋は、輪の外」
凌は頷き、紙を広げた。
規格。
輪を規格にする。
規格は増え、増えるほど、刃は鈍る。
「――板に、『二重輪契』」
頭は目を細め、「歌になります」と言って笑った。
> 輪はふたえで 利は板
> 宮の輪ここ 民の輪むこう
> 橋は輪の外 灯の蔵
> 香符ひとつで 道が出る
十二 宰相の反撥、薄い笑い
中書省。
宰相は、香符板を遠目に見て、笑った。
笑いは薄い。端が疲れている。
「香で道を描くか」
彼は袖の内を軽く捻り、蜜蝋の粒を指で潰した。
潰れた蜜蝋は、甘い。
甘さは、貧しい者の舌に残る。
宰相の笑いは、夜に向けて薄くなる。
薄くなった笑いは、網を粗くする。
十三 香の逆流
数日、香符は道を走り、偽符の遅れが“裏板”へ重なった。
ある夜、静陰殿の竹筒に、不自然な逆流。
〈沈二/清一/道一〉――配合が違う。
偽の香符ではない。
故意の逆配合。
凌は香鏡を二度刻みで読む。反射の色が少し青い。
青は、川の湿気。
宰相家の灯蔵ではない。
祭祀局の地下。旧井戸の跡。
「祭祀局?」
燕青が眉を寄せる。
「太后の命ではない。……だが、祭祀局の中にも道の勘が利きすぎる者がいる」
“道の香”は、道を知ってしまう者に、勘を与える。
勘は力だ。
力は、板がなければ腐る。
「祭祀局の若い書記を呼ぶ」
十四 若い書記、紙の前へ
翌日。
香の配合を板に貼った若い書記が、静陰殿の前で震えていた。
凌は椅子を勧め、香符板の前に座らせる。
「逆配合の青。……おまえだな」
書記は頷いた。
「倉の祓いを増やしたかった。香を多めに焚いた。……郡板の裏から“息”が来るのが嬉しくて、道を通してしまった」
凌は短く息を吐いた。「嬉しさは、罪ではない。……だが、道は、板の上でしか増やせない」
書記は涙をこぼし、板に自分の名を書いた。
「名は刃より重い」
「重いから、長く持つ」
凌は書記の肩に手を置いた。
「祓いの札に、算木の印を増やせ。香だけでなく、数で落ち着かせる」
書記は深く頷いた。
十五 香符の成果、板の歌
〈今日の香符〉の札の横に、小さな歌が貼られた。
> 沈は一枚 清は二
> 道は一筋 輪の内
> 香は転じて 印となり
> 偽は遅れて 色が出る
子が声に出して読む。
女が笑い、老人が頷き、兵が腕を組む。
歌は、制度になる。
制度は、夜を支える。
銀工組合の“二重輪契”が板に貼られ、〈宮輪〉と〈民輪〉の値が毎朝更新される。
輪は二つ、道は一本。
複妃制ではなく、複輪制。
複の骨を、唯一の規格が支える。
十六 帝の来訪、短い会話
夜、珍しく景焔が静陰殿へ来た。
灯は低い。影は長い。
帝は誓珠を指の腹で軽く弾き、音を確かめる。「沈香が鳴る」
「太后さまの祈りが、層になりました」
「太后は、おまえに『孤独を埋めよ』と言ったそうだな」
「はい。――紙で」
景焔は笑った。
笑いは短い。
「紙は、香と握手した」
「香は、板に字を書きます」
「剣は、そのあとだ」
二人は同時に頷いた。
決裂は続く。
だが、言葉の速さは揃っている。
十七 銀の輪、香の堰
数日後、門外の広場に、帝と銀工の頭と凌の三人が立った。
〈二重輪契〉の掲示。
宮輪は宮へ。民輪は民へ。
灯油は別勘定。
宰相家の橋は輪の外。
香符で道を見、板で値を見、歌で覚える。
輪は真円。
欠けはない。
「――これで、香の堰ができた」
景焔が言い、頭が深く礼をした。
「堰の下で、魚が増える」
「人も、眠れる」
凌は頷いた。
十八 太后の沈黙、蘭秀の扇
太后は葬の札〈蘭秀、扇を置く〉を、期日が過ぎても板から降ろさなかった。
「真ん中の寒さは、七日×二では融けない」
彼女は沈香を薄く焚き、その煙で扇の欠けを撫でる。
凌は黙って見守り、誓珠の銀口に一度だけふっと息を当てた。
香は移る。
移った香は、印になる。
印は、約束になる。
十九 宰相の薄笑い、橋の乾き
宰相はまだ笑う。
笑いは薄く、端が疲れている。
橋は、乾いている。
乾いた橋は、燃えにくい。
燃えにくい橋は、渡れる。
――渡る者のために、折らない。
凌は板に小さく書き足した。
〈橋は、渡るために〉
子が読み、女が針を止め、老人が頷き、兵が腕を組む。
二十 香りの転移、次の段
夜。
香鏡の目盛は二度刻みになり、裏板の息は太くなった。
“香りの転移”は、犯跡ではなく、署名になった。
銀の輪は、二重になった。
沈香は、祈りであり、刻印でもある。
太后の沈黙は、肯(うべな)いに近い。
帝の一行は、板の語法を選ぶ。
“唯一”は席ではない。規格だ。
規格は増える。
香符、二重輪契、郡板・里板・裏板。
増えるたび、刃は鈍る。
鈍った刃の下で、腹が満ちる。
凌は誓珠を胸で押さえ、目を閉じた。
銀口の沈香が、わずかに鳴る。
蘭秀の欠けた扇骨が、遠いどこかで触れ合う音がした気がした。
“真ん中”の寒さは消えない。
だから、香を焚く。
だから、紙を増やす。
だから、続ける。
朝の二つ目の鐘。
静陰殿の板に、凌は新しい札を足した。
〈今日の帳:銀工組合/宮の銀・民の銀〉
〈今日の香:清〉
〈今日の祓い:倉〉
〈今日の灯:低〉
銀――宮の飾金細工、祓具の釘、香炉の金口、婚礼印の小型版、そして誓珠の小口(こぐち)。すべてに銀が通う。
銀は血管だ。国の手足へ温度を運ぶ。
いま、その血管にしこりがある。宮門外の市場を束ねる〈銀工組合〉。宰相家に金を貸し、利権を得て、灯の売買にも絡んでいる――裏板に届いた息(報せ)が、昨夜から同じ方向を指し続けていた。
「郡の裏板から“銀の匂い”が増えました」
燕青が竹筒の口に耳を寄せ、息の湿りで告げる。「宰相家の橋から、市場の輪へ。輪の片側が、また削れている」
「輪は繋げば道になる。……道は板で見える」
凌は小さく笑い、『今日の銀』の仮の図を描いた。中央に“宮銀”、外周に“民銀”。二つを細い橋で結び、橋の上に“値”の札。
〈宮の匙=一〉〈民の匙=百〉。昨日から数字は変わらない。だが――今日はもう一枚、紙を足す。
〈誓珠:鑑定〉
銀の道のいちばん奥。最も個人的な銀。
誓珠の小口に、不意に引っかかる感覚があった。血の儀のあと、珠の中の銀砂は静かに落ち着いたはずだのに、指先に“香の影”がうっすら残る。
香鏡を当てると、銀の縁に、ごく微細な樹脂の瘤――沈香の痕がわずかに光る。
沈香。太后の祈祷に多用される香。
祓いの札には今日〈清〉とある。沈香は別名〈沈水香〉、水に沈む香。板の上で、言葉が静かに線をつないでいく。
「鑑定を、正式に」
凌は誓珠を紙に包み、女医官と祭祀局の若い書記に渡す。「銀口の付着物。焼いて色の変わる樹脂と油を分けて、香鏡の目盛で見て」
「沈香なら、太后さまの祈祷の層に……」
女医官の声が、途中で細くなった。
凌は頷く。「だからこそ、板に」
疑いは腐る。
数にするか、板にする。それ以外に、長く持つ道はない。
二 貸しと利、輪の印
昼前、門外の銀工組合の“輪”の頭(かしら)から、凌が求めた帳簿の写しが届いた。
封を解くと、紙は厚く、数字はまっすぐ、印は輪。輪の片側が、昨日までと違って削れていない。
昨日、帝が門前で“輪を欠かせぬ”と宣言した。宣言の翌日、印は真円になった。
真円は、言い訳の余地を減らす。
帳簿――貸付の項に、中書省の小印。宰相家への融資。年は昨年から今年へかけて、二度。担保は「灯油の収益」。祭祀局の祓具改修費の“前渡し”。香炉の金口の“代替工期短縮”。
言葉は良い。
言葉の良さは、穴の良さでもある。
「祓具の改修、金口の代替。――“香”と“銀”が、同じページに乗っている」
「銀が香を運び、香が銀を隠す」
燕青の言葉は、刃の柄の重さに似ていた。
「頭を、呼ぶ」
凌は筆を止め、扉口へ行って命じた。
板は人を動かす。だが、顔は板と別の言葉を持つ。
三 銀工の頭、板の前に
午後、銀工組合の頭が静陰殿へ入った。五十ばかり、背は低いが、手は厚く、爪の縁に黒い筋。銀を磨く指だ。
彼は帽子を取り、板の前で立ち、先に板を読んだ。
〈今日の銀〉〈宮の銀・民の銀〉〈誓珠:鑑定〉
目の高さに板。値を貼る前から、彼の眼(まなこ)は板を読み慣れている。
「呼ばれましたから、読みました」
彼は頭(こうべ)を上げ、言葉を選びながら言った。「宰相家へ貸しをした。灯の油の利を担保に。……“輪”の片側は、もう削らない」
「削った日々の話を」
「“削り”は……恥だ。銀は輪を作って、最後に繋ぐためのもの。輪の片側だけ削るのは、半分の輪だ」
「半分の輪は、網になる。誰かをすくい、誰かを落とす」
頭は目を伏せ、頷いた。「宰相家の“橋”は、高い。橋に乗りたい者は多い。……貸した銀は、灯になり、灯は祓いの札の下で燃え、祓いの下で影が濃くなる。濃い影は、組合をも隠す」
「誓珠の銀口に、沈香が付いた。いつ、あなたたちの銀が、どこで香を浴びたのか」
「誓珠……」
頭は一瞬だけ、顔に“商いではない”色を出した。
誓珠は、銀工にとっても“仕事を越える”品だ。
「誓珠の小口を作る銀は、別だ。組合の輪の内でも、輪の奥。手の少ない場だ。……沈香は太后さまの香。太后さまの祈りは、私も、若い頃から知っている。輪の奥から出た銀は、宮の中で、何度も香を浴びたはず」
凌は、頭から顔を逸らさずに、ゆっくり頷いた。
「沈香は祈りの香。祈りは、匂いを残す。……残る匂いは、祈りの道の地図になる」
「地図?」
「香りの転移。沈香の微細な樹脂は、金属へ移り、移った場所から、さらに移る。金口から器へ、器から唇へ、唇から布へ――道ができる。……私は、その道を逆に辿る」
頭は目を細め、呼吸をひとつ止めた。
「辿って、どこへ」
「『削らない輪』のほうへ。輪を橋にするために」
頭は深く礼をした。「輪は、道です。……道は、板で見える」
四 沈香の痕――鑑定
夕刻、女医官と祭祀局の若い書記が戻った。
「誓珠の銀口から、沈香を確かに検出しました。極微量。……ただ、層が二つあります」
「二つ?」
「はい。古い層と、新しい層。古い層は、灰にごく薄い鉄の匂い。新しい層は、柑橘の清が混じる。――古い層は、おそらく、蘭秀さまが扇で香を調えた時代。新しい層は、**婚礼(壱)(弐)**の三層の香」
凌は目を伏せ、誓珠を掌に受け取った。
古い層――蘭秀。欠けた扇骨。
新しい層――自分が提案した「三札」。
沈香は太后の祈祷の香。だが、太后の命ではないと言って逝った女官長が、香の道を日々整えていた。
疑いは、来た。
来て、凌の胸で紙に変わる。
「板に、こう書いて」
〈誓珠:銀口に沈香(古層・新層)〉
〈古層=蘭秀の時期/新層=婚礼の香〉
〈太后の沈香=祈祷/祈祷の道=公開〉
“公開”――今日の救いの言葉。
見えるところへ出せば、噂の速度は落ちる。
落ちた噂は、道に変わる。
五 太后の呼び声
その夜、蘭秀の葬の香がまだ薄く続く頃、太后からの小さな呼び出しが来た。
〈来よ〉
文字は三つ。
短い言葉ほど、重い。
欄干の内。
太后は扇を膝に置き、沈香の層を薄く長く流していた。
凌が跪くと、太后は扇を閉じ、目だけで「座れ」と示した。
座ってから、太后は先に板を見る。
〈今日の帳:銀工組合〉
〈誓珠:沈香〉
〈婚礼(弐):血誓〉
彼女は、扇の骨を一本、軽く鳴らす。
「複妃制の復活は認めぬ」
突然の言葉。
凌は頭を下げ、返事を短く置く。「承りました」
「だが、皇帝の孤独は国家の孤独。お前が埋めよ」
扇の先で、太后は何も指さなかった。
指さない言葉は、刃より重い。
凌は息を整え、慎重に言った。「埋めます。……紙で」
太后はわずかに笑った。「紙で埋まる穴と、紙では埋まらぬ穴がある。おまえは、紙で埋めることの強さと、弱さを知っている」
「はい。だから、紙で埋められないぶんを、香で埋めます」
太后は頷き、香炉の蓋を少し上げた。
沈香。
樹の心に入り、数十年、数百年をかけて香を孕む“沈水”。
その小さな欠片を熱に近づけ、太后は祈りを始めた。
詞は短い。声は出ない。
祈りは、匂いで言う。
太后は、ひと息置いて凌を見た。
「――蘭秀は、おまえのために扇を磨き続けた」
「はい」
「蘭秀は、太后の命ではない、と言った。……それを、おまえは板に書かない」
「書けません。書けば、沈黙が死にます」
太后は目を細め、香を一層だけ増やした。
「おまえは、書かぬことも書く。……よい」
言い終えると、沈香の煙を指で掬い、凌の誓珠の上にそっと落とした。
「安全祈願。――おまえと、あの子(景焔)に」
沈香が誓珠の銀口で、かすかに鳴った。
六 香りの転移――逆手
静陰殿へ戻る道、凌は息を詰めて歩いた。
香の層が薄い。
考えるには、薄いほうがいい。
誓珠の銀口に沈香。古層と新層。
沈香は金属へ移り、移った金属から、また別の金属へ移る。
香は、汚染でもある。
ならば――香を、刻印にする。
書机で紙を広げ、香鏡の縁に細かな目盛を三度刻みから二度刻みへ引き直した。
沈香の油は、温度と風で層を作る。
層の組み合わせは、符になる。
――〈香符(こうふ)〉
一、沈香を微量、柑橘の清を二、道の香を一。三つを一定の順で、薄い銀板に三層。
二、銀板は“輪”の内で仕上げ、裏板の“息”で乾かす。
三、板を祓具や金口、匙、婚礼印の版に仕込む。
四、香鏡で“香符”を読む。二度刻みの目盛で比を取る。
五、香符の配合を、板に“今日の香符”として公開する。
六、偽の香符は、遅れて色が変わる。遅れをもって、裏板へ息が届く。
“香りの転移”は、犯跡だった。
それを前もって刻んでおけば、転移は、署名になる。
逆手だ。
凌は微笑した。
笑いは、刃より速い。
「燕青。……明日の朝までに、“銀の堰”の横に香符板を立てる」
「承知」
影の声は、もう“命に代えて”と言わない。
働きで返す者の声だ。
七 輪の奥――取り引き
翌日、銀工組合の作業場の奥で、凌は頭と向かい合った。
「香符を、輪の内で作る。輪の外に出さない。輪の印と香符は、一度に押す」
「宰相家は、怒る」
「怒れば、板に怒りが貼られる。貼られた怒りは、価格へ変わる」
頭は目を細め、笑った。「板の前では、怒りも売り物になる」
「売る前に、読みになります」
二人は短く笑い、作業台に銀を置いた。
沈香の油、柑橘の清、道の香――三つを、決めた順に薄く引いていく。
香の層は目に見えない。
見えないからこそ、香鏡で見る。
香鏡の目盛を二度ごとに回し、反射の微細な濃淡を拾う。
“輪”の職人の手は、刃よりも正確だ。
掌の上で、銀板は息を覚える。
「香符は、歌にもなる」
頭がぽつりと言った。
> 沈(しず)む香ひと 清の香ふた
> 道の香ひとで 輪を押す
> 輪は道なり 道は板なり
「歌は速い」
凌も応じる。「噂より速い」
八 香符板(こうふばん)
昼、静陰殿の中庭に、新しい板が立った。
〈今日の香符〉
沈・清・道――三つの印を示す小さな図。
〈沈一/清二/道一〉
香符の配合を、公開する。
公開は、刃を鈍らせる。
宰相家が“偽の香符”を作っても、銀の層は遅れて色が変わる。遅れは、裏板の息に乗る。
〈偽符の遅れ=罪〉
罪は、板の上で待ちを食う。
待ちは、網を粗くする。
祭祀局の若い書記が板の前で立ち止まり、「これを香炉の金口に?」
「はい。金口、匙、婚礼印の版、祓具の釘。道に関わる銀すべてに」
御台所の少年が手を挙げる。「粥の匙にも?」
凌は笑った。「もちろん」
九 香は道、道は捕吏
その夜から、〈香符〉は道を走った。
最初に影が出たのは、鳳梁の郡板の裏。
倉の祓具の釘に仕込んだ香符が、二つの道へ転移している。
片方は郡廨の庁門――公開の道。
もう片方は、宿場の裏手の灯蔵――宰相家の灯が集まる場所。
香鏡の目盛を二度刻みで読む。沈一/清二/道一。
同じ。
郡板の前、凌は短く言った。
「――捕るのではなく、待て」
賀蘭が頷く。「待ちは、囲いだ」
翌朝、灯蔵の前で香の層を強く焚いた。香符が飽和し、偽符の“遅れ”が一気に色に出る。
宰相家の書吏が慌てて灯の蔵から外へ出たとき、袖の内側が甘い。
沈香ではない。蜂蜜。
白槐へ送った薄粥の“甘さ”が、灯蔵へ逆流している。
香は、嘘より正直だ。
書吏は逃げなかった。
逃げ道を、板が塞いだ。
人の輪が、板の前にできる。
輪の中心で、子が声に出して読む。
〈偽符の遅れ=罪〉
書吏は、頷いた。
「罪を、板に載せます」
十 太后の沈香、帝の一行
捕り物の報が禁裏へ届くと、景焔から一行の文が来た。
〈香が道になる。道で捕れ。剣はそのあとだ〉
凌は文を胸に挟み、誓珠の上から押さえた。
香の道は、帝の語法に合っている。
石で塞がず、水位を下げる。
香で道を描き、道で囲む。
紙で、閉じる。
夜、太后の私室で、沈香がもう一層、長く焚かれた。
彼女は言った。
「香は、約束の匂いだ」
「はい」
「おまえは、香を刻印にした。……蘭秀が見たら、扇を磨く」
凌は笑って、頭を下げた。
十一 輪の交渉
銀工の頭がふたたび静陰殿へ来て、帽子を取り、香符板の前で言った。
「輪を、板に載せる。……契約を」
「契約?」
「宮の銀は宮へ。民の銀は民へ。輪は二重。宮輪と民輪。利は公開。灯油は別勘定。宰相家の橋は、輪の外」
凌は頷き、紙を広げた。
規格。
輪を規格にする。
規格は増え、増えるほど、刃は鈍る。
「――板に、『二重輪契』」
頭は目を細め、「歌になります」と言って笑った。
> 輪はふたえで 利は板
> 宮の輪ここ 民の輪むこう
> 橋は輪の外 灯の蔵
> 香符ひとつで 道が出る
十二 宰相の反撥、薄い笑い
中書省。
宰相は、香符板を遠目に見て、笑った。
笑いは薄い。端が疲れている。
「香で道を描くか」
彼は袖の内を軽く捻り、蜜蝋の粒を指で潰した。
潰れた蜜蝋は、甘い。
甘さは、貧しい者の舌に残る。
宰相の笑いは、夜に向けて薄くなる。
薄くなった笑いは、網を粗くする。
十三 香の逆流
数日、香符は道を走り、偽符の遅れが“裏板”へ重なった。
ある夜、静陰殿の竹筒に、不自然な逆流。
〈沈二/清一/道一〉――配合が違う。
偽の香符ではない。
故意の逆配合。
凌は香鏡を二度刻みで読む。反射の色が少し青い。
青は、川の湿気。
宰相家の灯蔵ではない。
祭祀局の地下。旧井戸の跡。
「祭祀局?」
燕青が眉を寄せる。
「太后の命ではない。……だが、祭祀局の中にも道の勘が利きすぎる者がいる」
“道の香”は、道を知ってしまう者に、勘を与える。
勘は力だ。
力は、板がなければ腐る。
「祭祀局の若い書記を呼ぶ」
十四 若い書記、紙の前へ
翌日。
香の配合を板に貼った若い書記が、静陰殿の前で震えていた。
凌は椅子を勧め、香符板の前に座らせる。
「逆配合の青。……おまえだな」
書記は頷いた。
「倉の祓いを増やしたかった。香を多めに焚いた。……郡板の裏から“息”が来るのが嬉しくて、道を通してしまった」
凌は短く息を吐いた。「嬉しさは、罪ではない。……だが、道は、板の上でしか増やせない」
書記は涙をこぼし、板に自分の名を書いた。
「名は刃より重い」
「重いから、長く持つ」
凌は書記の肩に手を置いた。
「祓いの札に、算木の印を増やせ。香だけでなく、数で落ち着かせる」
書記は深く頷いた。
十五 香符の成果、板の歌
〈今日の香符〉の札の横に、小さな歌が貼られた。
> 沈は一枚 清は二
> 道は一筋 輪の内
> 香は転じて 印となり
> 偽は遅れて 色が出る
子が声に出して読む。
女が笑い、老人が頷き、兵が腕を組む。
歌は、制度になる。
制度は、夜を支える。
銀工組合の“二重輪契”が板に貼られ、〈宮輪〉と〈民輪〉の値が毎朝更新される。
輪は二つ、道は一本。
複妃制ではなく、複輪制。
複の骨を、唯一の規格が支える。
十六 帝の来訪、短い会話
夜、珍しく景焔が静陰殿へ来た。
灯は低い。影は長い。
帝は誓珠を指の腹で軽く弾き、音を確かめる。「沈香が鳴る」
「太后さまの祈りが、層になりました」
「太后は、おまえに『孤独を埋めよ』と言ったそうだな」
「はい。――紙で」
景焔は笑った。
笑いは短い。
「紙は、香と握手した」
「香は、板に字を書きます」
「剣は、そのあとだ」
二人は同時に頷いた。
決裂は続く。
だが、言葉の速さは揃っている。
十七 銀の輪、香の堰
数日後、門外の広場に、帝と銀工の頭と凌の三人が立った。
〈二重輪契〉の掲示。
宮輪は宮へ。民輪は民へ。
灯油は別勘定。
宰相家の橋は輪の外。
香符で道を見、板で値を見、歌で覚える。
輪は真円。
欠けはない。
「――これで、香の堰ができた」
景焔が言い、頭が深く礼をした。
「堰の下で、魚が増える」
「人も、眠れる」
凌は頷いた。
十八 太后の沈黙、蘭秀の扇
太后は葬の札〈蘭秀、扇を置く〉を、期日が過ぎても板から降ろさなかった。
「真ん中の寒さは、七日×二では融けない」
彼女は沈香を薄く焚き、その煙で扇の欠けを撫でる。
凌は黙って見守り、誓珠の銀口に一度だけふっと息を当てた。
香は移る。
移った香は、印になる。
印は、約束になる。
十九 宰相の薄笑い、橋の乾き
宰相はまだ笑う。
笑いは薄く、端が疲れている。
橋は、乾いている。
乾いた橋は、燃えにくい。
燃えにくい橋は、渡れる。
――渡る者のために、折らない。
凌は板に小さく書き足した。
〈橋は、渡るために〉
子が読み、女が針を止め、老人が頷き、兵が腕を組む。
二十 香りの転移、次の段
夜。
香鏡の目盛は二度刻みになり、裏板の息は太くなった。
“香りの転移”は、犯跡ではなく、署名になった。
銀の輪は、二重になった。
沈香は、祈りであり、刻印でもある。
太后の沈黙は、肯(うべな)いに近い。
帝の一行は、板の語法を選ぶ。
“唯一”は席ではない。規格だ。
規格は増える。
香符、二重輪契、郡板・里板・裏板。
増えるたび、刃は鈍る。
鈍った刃の下で、腹が満ちる。
凌は誓珠を胸で押さえ、目を閉じた。
銀口の沈香が、わずかに鳴る。
蘭秀の欠けた扇骨が、遠いどこかで触れ合う音がした気がした。
“真ん中”の寒さは消えない。
だから、香を焚く。
だから、紙を増やす。
だから、続ける。



