一 千年の頁をめくる音

 朝の第三の鐘が鳴るより早く、静陰殿の文机で凌は最後の確認を終えた。
 “二段階誓約”の第二――本儀は、簡略ではない。
 〈水の献/灯の献/香の献〉を板に映して可視化する「三札」ののち、互いの血を一滴ずつ誓珠(せいじゅ)に注ぎ、珠の心に誓いを封ずる古儀。記録上は千年前、王朝交替の混乱期に途絶えたとある。祓抄の傍注と、古い陰陽師の注釈、廃寺から拾った欠けた文、そして民間伝承の歌。散らばった断片を、凌は一年かけて紙の上で綴じ直した。

 「血は刃ではない。名に触れるための“熱”だ」

 自分に言い聞かせるように囁き、香鏡の縁を磨く。香は今朝だけ三層――〈縁の香〉〈道の香〉〈清の香〉。どれも薄く、長く。
 “血”の儀を復する以上、恐れを抑える手順が要る。香で風を整え、鏡で匂いを見える形にし、祓いの流量を板に掲げ、灯は低く、影は長く――すべて、公開。暗がりを一つも作らない。

 「凌殿」
 燕青が現れた。扇骨に刻まれた三度刻みの微細な目盛りが、薄明に線を引く。
 「屋根裏と梁は清め済み。風道も紙で塞ぎました。……ただ、沈黙が濃い」

 沈黙は、香より多くを語る。凌は頷き、板に札を一枚足した。
 〈今日の帳:本儀/血誓〉
 〈今日の香:三層〉
〈今日の祓い:清〉
 〈今日の灯:低〉
 〈今日の契り:第二段〉

 “決裂”の夜がまだ浅い。静陰殿と禁裏のあいだには紙が往来し、言葉は刃にならぬよう形を整えて出入りしている。今日の儀も、帝と妃は別の道から入る。広場で言葉を交わし、儀式を交わし、夜の寝殿は――まだ別だ。

二 御前にて、三札のはじまり

 陽が中庭の白石を均一に照らしはじめるころ、御前の階(きざはし)に誓珠台が据えられた。台の奥に、銀の細管と薄い小鉢。祓いの札の隣に、細い砂時計。血の熱が過ぎないように時間を刻むためだ。

 景焔は白と薄金の衣で現れた。灯が低いので影が長く、その影の先を、帝はゆっくり踏み越える。
 凌は淡い灰の衣、胸の誓珠は外に。婚礼印はほどける結びの意匠。
 太后は欄干の内、沈香は薄い。女官長・蘭秀は扇を水平に持ち、香の道を乱さぬ角度で立つ。扇骨の一本が丸く欠けている――あの日のまま。

 祭祀局が読み上げる。
 「本日、二段の契りの第二、『合衣の定』。古抄に曰く――〈血を一滴、珠に封ずれば、言は骨となる〉」

 木柝が三度。
 第一の札〈水の献〉――井戸の鏡に落とした光が板に反射し、名のないきらめきが紙に小さく印を残す。
 第二の札〈灯の献〉――“宮の灯”と“民の灯”を分けて掲げ、今宵だけ数字を併記。差が見えると、差を詰めようとする者が増える。
 第三の札〈香の献〉――香鏡が香の層を文字に変え、〈縁〉〈道〉〈清〉の刻印が『今日の香』の札に重ね押しされる。

 群臣の列は静かだ。郡板と里板を見慣れた民は、今日の札を食い入るように見つめていた。血の儀は物語の餌になる。だからこそ、見える形でどこまでも細やかに。

 景焔が誓珠台の前に立ち、凌と向き合う。
 帝は短く息を吐き、言った。
 「我は、紙に誓う。おまえに誓う。」
 凌は頷く。「私は、制度に誓う。あなたに誓う。」

三 血の名

 女医官が白い針と小刃を差し出す。消毒の札が板に貼られ、砂時計が返る。
 最初に、景焔の左の薬指。刃先がわずかに皮を割り、赤が花の芯のように盛り上がる。
 その一滴を、誓珠の銀の小口へ落とす。銀砂がひそりと沈み、珠の心が一瞬だけ星雲のように渦を巻いた。

 次に、凌の左の薬指。
 刃先が触れる瞬間、胸の内で古い歌が響いた。
 ――〈血は名の器/器は骨の前/骨は夜を支え/夜は灯を支える〉
 わずかに滲んだ赤が、珠へ落ちる。銀砂に混じり、ひたと留まる。

 祭祀局の官が印篭をかざす。
 「二つの名、いま珠の中にあり。名は混ぜられぬ。だが、隣り合う」

 香鏡が珠の影を板に映す。民が息を呑む音が、風のように大広場を渡った。
 ――そのとき。

四 屋根の矢

 音がなく、影だけが動いた。
 低くした灯の上、屋根の棟(むね)から、黒い線がひとつ、まっすぐ降りる。
 矢羽の唸りは風に紛れて、誰も聞かないはずだった。
 だが、景焔は視線の端でそれを掴み、躊躇いなく凌を抱いた。倒れる方向に、優雅さはなかった。速さだけがあった。

 矢が御前の柱に乾いた音を立てて突き立つ。木の肉が裂け、儀のために結ばれていた薄い白布がはらりと落ちる。

 次の呼吸で、燕青が梁にいた。
 影から影へ、香の層を切らないよう、三度刻みの扇骨が空気の継ぎ目に足を置く。
 射手は黒ずくめではなかった。宮の服だ。帯の結び目まで正規。目だけが死んだ魚のように濁っている。
 短い気合。燕青の刃が弦より先に届き、矢は放たれぬまま、男の喉が柔らかく裂けた。
 梁の上で、男は音もなく崩れ、祭祀の緋の布がふわりと覆いかける。

 その背。
 梁の陰に、もうひとつの影。
 扇の骨が一本、丸く欠けている。

 「……蘭秀」

 凌は立ち上がりながら、その名を言葉にしてしまった。言葉は刃より速い。
 女官長・蘭秀は、扇を胸の前で折り畳み、表情を消していた。
 彼女は、ゆっくり梁から降りる。足の運びは礼法のそれで、戦いのそれではない。燕青が刃を止め、景焔が凌を前へ出すまいと掌で押さえた。

 蘭秀は広間の真ん中、香の層と灯の境目に立ち、扇を半分だけ開いた。
 太后の欄干の奥、沈香がほんのわずか濃くなる。
 女官長は、帝を見ない。凌を見ない。
 扇の陰で自らの喉に指を当て、爪の先で細かく皮を裂いた。

 「太后の命ではない」

 それだけ言って、扇で喉の傷口を押し広げた。
 血は噴き上がらず、静かに溢れた。
 蘭秀の身体は、礼法の所作のまま膝をつき、扇が手から滑り落ちる。欠けた骨が石の上で小さく音を立てた。

五 沈黙の祓い

 広間の空気が、ひとつの大きな生き物のように息を止めた。
 景焔は腕を放さない。凌は拘束される腕ごと、前へ出るのをやめた。
 祭祀局の官が祓いの詞を短く唱え、女医官が走る。
 女官長の喉は、助からない。女医官はそれを理解した手の温度で、傷口を押さえ、ただ冷たさを送った。

 蘭秀は視線を動かさず、唇だけが癖で動いた。
 「真ん中、は……寒い……から」
 あの日の言葉。真ん中は凍える。
 凌は、胸の奥が紙のように裂けるのを感じた。
 刃ではない。紙だ。
 紙は、静かに裂ける。

 景焔が低く命じた。「――広間を閉じろ。剣は抜くな。香を増やせ」

 燕青は梁から降り、射手の死体から印を探る。袖の中に銀の粉。内庫の紙に触れていた指。
 だが、蘭秀は射手ではない。
 彼女は、扇で合図を送れる位置にいただけだ。左へ“行け”、右へ“止まれ”。
 今朝、その扇をどちらへ振ったのか――見た者は誰もいない。見たはずの燕青でさえ、見ていない。
 香の層と灯の位置が、人の記憶を曇らせる。

六 遺品

 儀は中断ではなく、移行とされた。
 “血の名”は珠に納められ、香鏡の記録は板に重ねられる。
 群臣と民は、蘭秀の担架が通るのを音を立てずに見送った。太后は欄干の奥で扇を開き、沈香は薄いまま。
 「太后の命ではない」
 言葉はひとつ。そのひとつが、暗闇に灯をひとつ増やす。

 静陰殿の一室に、蘭秀の小さな衣筐が運び込まれた。
 凌は辺りを清め、香鏡を低く置いてから、紐を解く。
 扇が四つ。一本だけ欠け、一本は新品。
 薄い紙束、細い針箱、髪飾り。
 髪飾りには、銀の細工が施してある。花弁の裏――指の腹でなぞると、かすかな刻印が触れた。

 〈銀工組合〉の輪。
 宮門外の市場を束ねる銀工たちの組合印。
 供物の匙、誓珠の小口、祭礼の釘、婚礼印の小型の版――銀は宮の血流だ。
 刻印の輪の片側だけが削れている。
 “欠け”の形は、内庫の監印の片倒れとは違う。違うが、同じ思想――“焼けば出る”仕掛け。遅れて出る金属の痕。

 針箱の底に、薄い紙が一枚、貼り付いていた。
 剥がすと、紙は二重だった。
 外は白、内は黒。
 黒い面に、影の文字が浮かぶ。
 ――〈唯一妃の廃止〉ではない。
 もっと古い頁。
 〈灯の売買記/銀工組合/祓具の改竄〉
 〈宮の灯を落とし民の灯を上げ、影の帳に濃い影を作る術〉
 〈祭祀局若官/中書省書吏/銀工の頭(かしら) 連絡印〉
 そして、右下に小さく、結びの印。
 蘭秀の私印だった。

 凌は息を止め、指を止めた。
 紙は軽い。だが、今日ほど重く見えたことはない。

七 銀の道

 銀。
 最初の頃、宰相家の袖に銀粉が付いていた。
 内庫の紙に触れる指にも銀。
 禁香の灰にも、鉄胆ではない微かな金属臭があった。
 ――道はひとつでなく、いくつもが重なっている。
 香の道、灯の道、紙の道、そして銀の道。

 凌は紙束の黒頁と髪飾りの印を並べ、香鏡で光を走らせた。
 刻印の輪の削れが、黒頁の右下の輪とぴたりと重なる。
 〈銀工組合〉は、影の帳の複写に関わっている。
 宮の中で作れない“黒面の紙”と“遅れて出る印”――金属の匂いのする技術は、宮門外にしかない。

 「……蘭秀」

 凌は名を呼び、指先で髪飾りを包む。
 女官長は、橋だった。
 太后と帝、文と武、厨房と医局、芸と祭祀。
 真ん中は凍える。だから扇を磨く――彼女の言葉。
 その扇の裏に、黒い頁を忍ばせていた。

 「凌殿」

 燕青が静かに入ってくる。顔には汗の光。
 「射手は、中書省の書吏でした。訓練された手。弦の扱いも筆の扱いも、同じ筋」

 「橋の反対側だ」

 凌は頷き、黒頁を封にかけた。柿渋の薄皮、蜜蝋の縁。
 〈今日の帳:襲撃/女官長逝去/銀工組合刻印〉
 板に、そのままは貼らない。
 “女官長逝去”の文は、礼の文に変えて公示し、〈銀工組合刻印〉は『調査中』として名を出さずに貼る。
 恐れを減らし、値を上げるために。

八 帝の掌、珠の心

 禁裏の御前には、まだ血の匂いが薄く残っていた。
 景焔は誓珠台の前に立ち、矢の跡が残る柱に掌を当てていた。
 凌が近づくと、帝は掌を離さず、言った。
 「儀は、終えて良い」

 「終えました。……移しました。香と板へ」

 景焔は頷き、凌の指――薄い傷の残る左薬指を指で包む。
 「血の名は、混じらぬ。隣り合う。それで十分だ」

 帝の顔に怒りはなかった。
 あるのは、沈んだ哀しみと、浅い自嘲。
 「蘭秀が死んだ」

 「彼女は、『太后の命ではない』と言いました」

 景焔は目を細める。「信じるか」

 「信じるしかないときの沈黙があります。太后さまの香は、今日、ずっと薄かった」

 短い沈黙。
 沈黙のあいだ、誓珠の中の銀砂が微細に動いたように見えた。
 景焔はようやく柱から掌を離し、凌の胸の珠に指先で触れた。
 「守れ。おまえの“光の帳”を。……我は、“銀の道”を閉じる」

 「銀工組合へ?」

 「門外だ。外は、刃が要る」

 凌は首を振った。「外にも板があります。郡板と里板、商組の板。灯を二つに分けたときのように、『宮の銀』と『民の銀』を分けて貼る。宰相の灯が売られた日のように、値の違いを晒す」

 景焔は微かに笑い、その笑いが短く消えた。「喧嘩は続く」

 「はい。――でも、今日は、血の名を貼らせてください」

九 蘭秀の葬(もがり)

 女官長の葬は声をあげない葬だった。
 香は清、祓いは薄、灯は低。
 板に貼られた文は、ただ一行――〈蘭秀、扇を置く〉。
 “置く”。
 去るでも、死ぬでも、斬られるでもない。
 置く。
 彼女の扇は、香の道と風の角を見続け、今日、地に置かれた。

 御台所の少年が、扇の欠けた骨に白い紐を結んだ。
 「落としません」
 声は震えていない。
 彼は学堂印の札を胸に、俵の腹を叩く手を止めなかった子だ。板が育てた手が、女官長の骨を拾い上げる。

 太后は葬に出ない。欄干の奥の沈香だけが、薄く長く続いた。

十 “光の帳”の補遺

 『今日の帳』の端に、凌は補遺を貼った。
 〈血の儀の可視化/砂時計/消毒札〉
 〈矢の跡の写真(写)/柱の木目〉
 〈女官長の扇/欠けた骨〉
 〈銀工の印――輪の欠け(図)〉
 図は具体で、言葉は短く。
 噂は速い。だが、図の速さには勝てない。
 子が指でなぞり、老人が頷き、女が針を止め、兵が腕を組み、書記が筆を置く。
 “可視化”は、愛ではない。愛に似た安心を、人にもたらす。

 燕青は裏板の竹筒に息を通し、銀工組合の小路の絵を逆流させた。
 宮の外へ出る必要がある。
 出る足には、刃ではなく紙を履かせる。
 紙の靴は、遅い。だが、痕跡が残る。

十一 銀の歌

 宮門外の市場に近い広場にも、臨時の板が立った。
 〈今日の銀〉
 ――宮の匙:一
 ――民の匙:百
 ――祭釘/婚礼印/香炉金口――数字。
 差が並ぶ。
 銀工たちは目を細め、顔を伏せ、やがて顔を上げる。
 「値を貼るのか」
 凌は頷いた。「値を貼ると、値切りが始まる。値切りは、交渉だ。闇より健康的だ」

 組合の頭(かしら)が一歩進み、帽子を取った。
 「貼られた値は、歌になる」
 彼は笑って言い、指で板の数字を叩いた。
 > 宮の匙ひとつ 民の匙百
 > 釘は祓いの下 印は香の下
 > 銀は道なり 道は板なり

 拙い歌。だが、早い。
 “銀の道”が、歌で見える。

十二 宰相の眼

 中書省――中書令は、広間の遠い隅から板を見ていた。
 笑みは薄く、端が疲れている。
 彼は灯の数字を見、銀の数字を見、祓いの流量を見て、最後に血の印を見た。
 「血まで板に貼ったか」
 囁きは油で、油は火の前でよく燃える。
 だが、今日は火が弱い。
 矢が折れ、扇が置かれ、珠が血を飲み込んだ日だ。

 宰相の袖には、銀の粉。
袖口の縫い目に、蜜蝋の粒。
 彼はゆっくり袖を払ってから、笑みをもう一段、薄くした。
 薄い笑いは、網だ。
 網の目は、今日、少し粗い。

十三 夜の端の会話

 夜。
 静陰殿と禁裏は、相変わらず別の灯。
 凌は誓珠を指に転がし、砂時計を返す。
 景焔の文は一行。
 〈銀の道、明日押さえる。橋を折らず、水位を下げる〉
 水位。
 帝はいつも、石ではなく水を動かしたがる。
 凌は短く返す。
 〈板で堰(せき)を。歌で溝を〉
 文は短く、互いの喉の温度は、紙の裏にだけ残った。

十四 蘭秀の影

 葬の翌朝、蘭秀の私室の壁紙がそっと剝がされた。
 女官たちが泣きながら、香の染みを洗い、扇の跡を撫でる。
 壁の内側――薄い目印。
 扇骨の幅と同じ間隔で付いた細い傷。
 “左へ行け”“右で止まれ”。
 合図の練習の跡。
 真ん中の人は、真ん中で訓練した。
 その跡を、凌は紙に写した。
 誰かがいつか同じ真ん中に立つとき、寒さを少しでも和らげるために。

十五 珠の音

 夜ふけ、誓珠が鳴った。
 誰も触れていないのに、銀砂が静かに流れた気がして、凌は身を起こした。
 音は、胸の内の血の名から来る。
 隣り合うだけの名。
 混じらない。
 混じらないから、支え合える。

 凌は珠を掌に包み、目を閉じた。
 今日の矢、蘭秀の扇、銀の輪、黒い頁、香の層、灯の低さ――すべてを紙の上に並べ直し、一枚ずつ、板へ移す。
 移せば、夜は軽くなる。
 軽くなった夜を、民が眠れる。

十六 翌朝の板

 朝、板の前にはもう人だかりができていた。
 〈今日の契り:第二段/血誓〉
 〈今日の帳:襲撃/調査中〉
 〈今日の香:三層〉
 〈今日の灯:低〉
 〈今日の銀:宮一/民百(歌)〉
 子が声に出して読む。
 「けっせい」
 母が笑って、「ちのちかい」と教える。
 老人がうなずく。
 兵が腕を組んだまま、口元だけで笑う。
 噂は速い。だが、板の読み方を覚えた人々は、噂より板を見る。

 女医官が小さく告げる。「矢傷の柱、材を替えましょうか」
 凌は首を振った。「跡は残す。見える場所へ」

十七 門外へ――銀の堰

 昼。
 景焔は軍務府の護衛を最小にして宮門外へ出た。
 剣は抜かない。棒も持たない。
 板を持つ。
 〈銀の堰〉と書かれた札。
 銀工組合の頭は帽子を取り、地に額をつけた。
 帝は帽子を取らせ、頭を上げさせ、目の高さで言った。

 「銀を、道に戻す。宮の銀は宮へ、民の銀は民へ。売り買いは板の前で」

 頭は頷き、輪の印を袖から出して見せた。
 輪の片側が削れている。
 「戻す。……明日から、輪は欠けない」

 輪が繋がる。
 銀の道は、歌になり、歌は堰になる。

十八 祈りと計算、そして喪

 静陰殿に戻った凌は、祓いの札の裏に算木の絵を足した。
 祈りは計算と握手する。
 祈りは、喪とも握手する。
 蘭秀の喪は、長くない。
 真ん中に立つ者は長く喪に服せない。
 そのかわり、板が喪を持つ。
 〈蘭秀、扇を置く〉の札は、七日×二のあいだ、板の端に残る。

十九 決裂のなかの誓い

 夜。
 景焔は来ない。
 文だけが来る。
 〈扇の骨、拾った。欠けを磨いた。真ん中の寒さ、覚えておく〉
 凌は返す。
〈扇は板に。骨は胸に。血の名は珠に〉

 決裂は続く。
 だが、同じ紙の裏で誓いが育つ。
 混じらない名は、隣り合って、長く持つ。

二十 終わらせず、続ける

 「終えて良い」と帝は言った。
 凌は思う。
 今日の儀は、終わらせず、続けるための儀だ。
 血は名を混ぜない。
 混ぜないから、隣に居続けられる。
 紙は刃より重い。
 重いから、夜を支える。
 銀は道だ。
 道は板だ。
 扇は風を割り、香は風を見せ、灯は影を伸ばし、祓いは人を落ち着かせる。
 そして、人が紙に字を書く。

 翌朝もまた、凌は板に一枚、紙を足した。
 〈今日の課:銀の堰/歌の速さ〉
 子が歌い、女が針を止め、老人が頷き、兵が腕を組み、書記が筆を置き、帝が一行を書く。
 “唯一”は席ではない。規格だ。
 規格は増える。
 増えるほど、刃は鈍る。
 鈍らせるために、紙を増やす。
 続けるために。

 凌は誓珠を胸で押さえ、静かに目を閉じた。
 銀砂が、ほとんど聞こえない音で鳴った。
 それは、蘭秀の扇の欠けた骨が、遠くで小さく触れ合う音にも似ていた。