一 乾いた風の手紙

 風が変わった。
 静陰殿の中庭を抜ける朝の風は、ここしばらく柑橘と沈香のあいだで落ち着いていたのに、今朝は粉の匂いが混じっている。粉といっても香木ではない。砕けた土、乾いた藁、壊れた甕の粉。
 地方からの早馬が三騎、連続して門をくぐった。封を切る前から分かる。紙が乾いて波打っていない。重い。雨に打たれた紙は軽くなる。乾きすぎた土地の紙は、逆に重くなる。

 「飢饉(ききん)です」
 女官長・蘭秀が扇を少し下げて言った。「北西の二郡。雨が三度途絶え、虫害。蔵の積み増しが間に合わぬ模様」

 凌は板に歩み寄り、〈今日の帳〉の下段に“郡名”を二つ書き加えた。
 〈鳳梁郡/白槐郡〉
 次に、〈今日の灯〉の欄に、都の灯の数を一つ削って、〈郡灯の増〉へ回す、という小さな矢印を描いた。灯は紙の中でも動く。動くことで、人は動く。

 早馬の封を切る。出てきたのは、麦粒のように硬い文。筆致は良い。だが、字の連なりの間に、焦りが滲んでいる。
 〈今年の稲、穂先に黒蝋。刈り入れ前に粒が落ち、田の水が湧かず、井戸が浅くなり、牛がやせた。倉はある。だが、贋(にせ)の俵が混じっている〉

 贋の俵――見かけだけ膨らませた藁詰め。数字の粉が、喉奥にざらついた。
 凌は誓珠を握って数息ののち、筆を取った。

 「算術で、分ける。……そして、檄(げき)だ」

 燕青が黙って一歩、近づいた。
 彼の影は朝の光を裂かず、ただそこに落ちている。刃の影が薄いのは、彼が刃を内へしまっているからだ。
 凌は彼に目をやらず、紙の余白に細かな記号を打ち始めた。

二 稲を数へ、口を数へ

 飢饉を止める王道は雨で、次は倉だ。雨は祈りの道で、倉は算術の道。
 凌は机の上に小さな碁石をばらまき、郡と里と戸をつくる。碁石一つが百口(もく)、白石は老幼、黒石は働き手。五つまとめて稲一俵。机はたちまち、国の縮図になった。

 さらに筆で記号を置く。

 -
𝑆
𝑖
S
i


:各郡の現有穀(こく)高(俵)。
 -
𝐻
𝑖
H
i


:郡内の口数(老幼補正後)。
 -
𝑉
𝑖
V
i


:脆弱度(干ばつ、虫害、病の指標)。
 -
𝑅
𝑖
𝑗
R
ij


:郡間の道の距離と状態。
-
𝐿
𝑖
𝑗
L
ij


:運搬損失率(川・道・税外徴発)
 -
𝐵
B:中央備蓄の不可侵分(兵站・非常用)

 “数式”と言っても、難しくない。分母に“口の重さ”を詰め、分子に“動かせる米”を入れるだけだ。

 基式
 
𝐷
𝑖
=

(

𝑗
𝑆
𝑗

𝐵
)

𝑊
𝑖

𝑘
𝑊
𝑘

,
𝑊
𝑖
=
𝐻
𝑖

𝑉
𝑖

𝐹
𝑖
D
i


=⌊

k


W
k


(∑
j


S
j


−B)⋅W
i




⌋,W
i


=H
i


⋅V
i


⋅F
i



 ここで
𝐹
𝑖
F
i


は“道”の係数だ。谷を越えられない道は重く、川で運べる里は軽い。
 分配後、隣郡からの移送は、
 
𝑇
𝑗
𝑖
=

𝐷
𝑖

𝑆
𝑖
1

𝐿
𝑗
𝑖

×
1
[
𝐷
𝑖
>
𝑆
𝑖
]
T
ji


=⌈
1−L
ji


D
i


−S
i




⌉×1[D
i


>S
i


]
 で出す。これは「足りない里に、どのくらい上乗せして運ぶか」を先に決める式だ。
 式の良さは、嘘をつかないことだ。重さをつけた者の口に、先に届く。

 凌は算木を置き、碁石を動かしながら、実数を当てはめた。
 鳳梁郡の口数は七万二千。老幼補正で五万八千。脆弱度は二。白槐郡は四万八千、脆弱度三。都と近郊は口数が大きいが脆弱度は一。
 中央備蓄Bは軍務府の最低線の二割増――賀蘭が昨日“これだけは削るな”と置いた数字だ。
 結果、鳳梁へは七万俵、白槐へは八万五千俵が、今すぐ動く必要がある。

 御台所の少年が、碁石の山を見て目を丸くした。「こんなに動かせますか」
「動かす。――動かせない分は、嘘になる」
 嘘より遅い真実は、飢饉の毒だ。

 算木の脇に、凌はもう一列、細い字を添えた。
 〈備蓄最低線=(国境の“短い線”の教訓)×一・二〉
 鳳梧塞で学んだ。短い線は勝てるが、細い備蓄は死ぬ。短い線を制しても、腹が空けば刀は持てない。

三 檄の骨

 式が骨だ。骨には筋が要る。筋は言葉だ。
 凌は“詔草(しょうそう)”――帝の名で地方官を動かす檄文の骨を引いた。
 筆致は静かで、刃ではない。だが、読む者の手が勝手に動くように、簡潔でなければならない。

 > 一、倉の扉は昼に開け、夜に閉じよ。鍵の所在、板に書け。
 > 二、郡の板(郡板)に、日々の入出高を貼れ。印は二つ。祭祀局と軍務府。
> 三、俵の重さは等しくせよ。抜き取り秤を導入。秤は学堂印。
> 四、移送は道の係数に従え。橋の里は一日一里を越えるな。
> 五、老幼優先。口の重さを認めよ。
> 六、祓いの流量を“倉”へ移せ。香と紙で人を落ち着かせよ。
> 七、嘘を板に置くな。置いた者は、後で恥を負う。
> 八、中央の備蓄は削るな。兵を飢えさせるな。
> 九、贋俵を許すな。熱をかけると萎む藁の俵を、倉の外へ出せ。
> 十、違える官は、名を板に貼る。名は刃より重い。

 最後に、算術で決めた割当ての表を付す。
 鳳梁七万、白槐八万五千。そこから郷ごとに割り、里ごとの“口の重さ”に従って配る。
 式と表がある檄は、噂に勝つ。

 詔草を巻き、紐をかけ、静陰殿の“裏板”に控えを貼った。
 〈今日の帳:飢饉の檄/算術分配〉
 〈今日の軍路:北西へ三路〉
 嗅覚が良い者なら、紙から米と柿渋の混じった匂いが分かるだろう。

 「陛下の御名で発する。中書省で筆を増やし、写しを各郡へ」
 凌は文官へ渡し、燕青に目をやった。「護れ」

「命に代えて」
 いつもの返事。だが、今日の声はわずかに低い。低い声は、何かを飲み込んだ音だ。

四 “彼”の筆跡

 日が山の端に落ちかけたころ、中書省から戻しが来た。詔草はまず宦官の手を通り、次に書吏、最後に中書令の署名――いや、宰相に帰すべき呼称は変わっている。だが“彼”はそこにいる。

 詔草の余白に、いくつかの小さな添削。
 〈郡板の位置は庁門の左〉
 〈秤の針は民の目の高さ〉
 〈祓いの札は倉の内外一枚ずつ〉
 いずれも理にかなっている。文の流れも傷まない。巧い。巧すぎる。
 凌は筆圧の痕を爪でなぞった。最初の点が浅く、払うときに紙を傷めない。
 “止(とめ)”の左下が、僅かに返る。

 (――燕青)

 彼は武の人だ。だが、凌は知っている。燕青は字が美しい。小さな命を奪う刃と同じだけ、小さな筆圧に敏い。
 どうして中書省の詔草の余白に、燕青の筆跡がある?

 凌は巻紙をもう一度、初めから終わりまで追い、最後の署名の宦官印に目を据えた。印の周りに薄い粉。銀でも墨でもない。松煙に柑橘を混ぜた匂い――燕青が“影の合図”に使う粉。

 「燕青」

 呼ぶ声は、自分でも驚くほど静かだった。
 影が動き、柱と柱のあいだから彼が現れる。目は、いつもより少し湿っていた。

「……すまない」

「まだ、何も言っていません」

「すまない」

 繰り返す声が、自白の音に変わる。

五 影の告白

「宰相派に、おまえの素性を漏らした」

 凌は頷いた。「いつ」

「三日前。――玄虎院の火の翌朝」

 火。寺。影の帳。蘭秀の扇。
 多くの影が一度に頭の中を過ったが、凌は目を閉じ、深く息を吸った。酸素が足りないのは、怒りのせいではない。失望のせいでもない。
 理解が先に立とうとする自分の癖を、知っているからだ。

「理由を」

「主君を守るには、敵を引き寄せる餌が要る。――おまえを、餌に使った」

 言葉は刃だ。
 燕青の顔は、いつになく脆い。
 影の人間は、脆い自分を表に出すことでしか、刃を鞘に戻せない時がある。

「具体に」

「“唯一妃が算術で国を動かす”という話を、宰相家の橋に。あの文官は、まだ橋であり続けようとしている。橋に餌を置けば、川の流れが見える」

「詔草の余白は」

「宰相の写し場に紛れこんで、印の欠けを見た。おまえが玄虎院で拾ってきた“片倒れ”と一致する。……印場と書吏の線が、まだ繋がっている」

 凌は巻紙の余白――燕青の添削――に、指先を滑らせた。細い文字が、指の腹をくすぐる。
 激しい怒りは、来ない。
 胸の奥に湧くのは、苦さだ。自分が最近、紙と板で国中へ線を引き、敵を“光へ”引き出そうとしてきたこと。その拡張として、燕青が“闇へ”餌を置いたこと。手段の鏡像。

「おまえは、我の“影”だ。……影が餌になるのは、理にかなう」

「けれど、許されない」

 燕青は頭を垂れた。
 言葉に、嗚咽が混じる前の音がある。
 凌は一歩だけ近づき、詔草を巻いたまま、彼の肩へ置いた。

「命で償うな」

 燕青の肩がびくりと震え、顔が上がる。
 凌は続けた。「働きで償え」

 燕青は、刃を突きつけられたかのように、眼を見開いた。それから、初めて唇が震え、その震えが涙になった。
 泣く影は、きれいだ。
 きれいな涙は、刃の汚れを落とす。

「命じる。――郡板の“裏”を作れ」

「裏?」

「郡板と里板の複写。転写紙を薄く貼り、朝夕の数字を“影の帳”へ送る網。祓いの札の裏にも、微細な刻印を。贋俵は熱で萎む。萎んだ俵の印が“裏”に写るように」

 燕青は涙を拭い、頷いた。「やる」

「それから、橋を守れ。宰相家の文官――まだ折れきっていない橋を。橋は、川が増水しても残るべきだ」

 燕青は地に手をつくほど深く頭を下げた。
「凌……殿。――あなたの影になる。今日から、かたちも、息も」

「息は、一緒に乱すな。……乱すときは、私が合図する」

 ふたりは短く笑い、詔草を再び巻いた。
 笑いは、毒より速い。

六 檄、発つ

 翌朝、静陰殿の中庭に馬が揃い、軍務府の兵と祭祀局の書記が混成で詔使となった。
 詔草の封は三重。外は薄紙、内は柿渋の薄皮、芯は木札。木札には“熱で浮く印”。封を勝手に焙れば、印が浮き、槍より速く罪を示す。

 景焔は禁裏の門まで出て、詔使を見送った。
 眼差しは冷たいが、扇ぐ風は柔らかい。
 帝と凌は同じ馬に乗らない。文だけが間を飛ぶ。

 「公の否は、板に貼られた」
 景焔からの文は短く、乾いていた。
 凌は同じ短さで返す。
 「公の檄も、板に貼る」

 風が走り、御台所の少年が新しい板を抱えて駆ける。
 〈今日の帳:飢饉の檄/分配表〉
 〈今日の香:道の香〉
 〈今日の祓い:倉〉
 〈今日の灯:郡へ十 都から二〉
 紙は増える。紙が増えるたび、刃は鈍る。

七 郡板、里板、そして腹

 詔は、鳳梁に先着した。
 郡廨(ぐんか)の門の左、郡板が立てられ、人が円になった。
 ひとつ目の板に「詔」の文。ふたつ目に分配表。みっつ目に“秤の針の高さ”の図。四つ目に“老幼優先”の印。
 五つ目の裏板は、燕青の手。薄い紙の下に転写の皮、さらに裏に“影の帳”へ通じる細い竹筒。日が落ちると、竹筒に“息”が通るよう、僧房の風道を借りて道を引いてある。

 「口の重さ、わかるかい」
 老人が子に説明し、女が秤の針を指で確かめ、若い男が俵の腹を小さく叩く。
 俵は叩けばわかる。藁は軽く、米は重い。
 だが、贋俵は巧妙だ。藁に濡れ布を巻き、重さだけ近づける。
 凌の檄には、対策がある。
 倉の中に小さな灶(かまど)を設け、俵から抜いた移し米を載せて温度を見る。一定の熱で、藁巻きは縮む。縮んだ分の空隙は、秤の下の薄紙に“影”が落ちる。裏板は、その影を受け取る。

 最初の一日、三十俵の影が出た。
 二日目、十二俵。
 三日目には四俵。
 贋は、紙と火の前に弱い。

 白槐でも同じだ。
 ここでは“祓い”が効いた。倉の内外で札が揺れる。
 人は目に見える祈りと、目に見える秤の前で、落ち着く。落ち着けば、奪い合いは減る。

 それでも、腹は鳴る。
 子の泣き声は止まらない。
 凌は詔の末尾に、薄粥の文を加えていた。白い粥に、蜂蜜を一滴。蜂蜜は毒になるが、粥に溶けば、砂時計半分の甘さで済む。
 御台所の少年が、鳳梁へ走り、白槐へ走り、粥の鍋に火の管理札をぶら下げた。“学堂印”、と。

八 宰相の反撥、影の網

 中書令(宰相)は、檄が貼られた日の夕暮れ、茶房で薄く笑ったという。
 「“唯一の妃”が、米を数えるとさ」
 笑いは油。室内の灯を滑らかに映す。油は、火の前でよく燃える。

 宰相家の手は早い。
 郡の組頭を取り込み、運搬損失の数字に手を伸ばす。橋の通行人足、宿の“口借り”、川船の“縄直し”。名目の小銭積み上げで、数字に穴を開けるつもりだ。
 燕青は影を伸ばし、穴の縁に墨を塗った。
 「縄直しの縄に、柿渋の薄皮を」
 縄を触った回数、引いた強さ、濡らした水の匂い――薄皮はそれらを吸う。
 吸った薄皮は、夜に“裏板”へ届く。

 鳳梁三日目の裏板に、昼の影とは違う黒い筋が出た。「運搬損失三割」。
 翌朝、郡板の前で、その筋が晒された。
 板の晒しは、刃ではない。だが、名より重いときがある。
 組頭は震え、男たちは目を逸らし、女たちは針を止め、子らは紙を読む。
 「運搬、さんわりってなに」
 「ねこばば」
 母の答えは、正確にしてやさしい。

 宰相の橋は、乾く。
 乾いた橋は、燃えにくい。
 燃えにくい橋は、まだ使える。

九 帝の筆、檄の印

 凌が静陰殿の板に“飢饉の檄/発出”を貼った翌日、禁裏から帝の筆が届いた。
 〈詔の末尾、我が署名を添える。言葉は短く〉
 紙は薄く、筆致は冷たく、しかし最後の筆圧だけが少し重い。

 > 「腹を満たせ。剣はそのあとだ」
 >  景焔

 凌は紙を見て、短く笑った。
 剣より紙、紙より腹。
 帝と唯一妃の決裂の余韻が、ここにだけ薄く溶けている。

 静陰殿の中庭で、女官たちがその一行に婚礼印の小さな結びを押した。
 結びはほどける。
 ほどけるから、結び直せる。

十 飢えの現場

 白槐の郷、麦藁色の女が、郡板の前で立ち尽くしていた。
 彼女の腕に抱かれた子は、目だけが大きく、泣き声も出ないほどに疲れている。
 「今日、粥が増えるって、本当かい」
 女官が頷き、子の額へ布を当てる。
 「蜂蜜を一滴。……ねえ、見て。秤の針、君の目の高さにあるでしょ。あれは“ずるい手”を短くするための針なの」

 女は、針の高さを見た。自分と針が同じ高さにある、ということを、生まれて初めて意識した。
 針が目と同じ高さにある社会は、噂より強い。
 その夜、郷の広場で歌が生まれた。

 > 針は目の高さ 粥は指の温(ぬく)
 > 板は風の上 祓いは倉の内
 >  唯一の妃は 米を数える
 >  帝は一行 腹を満たせ

 拙い歌は、美しい。
 歌に混じった言葉は、刃では切れない。

十一 影の稽古

 静陰殿の夜、燕青は新しい“影の稽古”を始めていた。
 扇の骨に細い刻み目を入れ、五度刻みから三度刻みへ。香鏡の縁に目盛りを増やし、角度を一つ変えるごとに誓珠の光の幅がどう変わるかを記録する。
 影は、光を知らなければ動けない。

「凌殿。裏板の道、もう一本増やしたい。郷から郡へ“逆流”する細い道を」

「やれ。だが、祓いを忘れるな。裏の網に、祓いの札を一枚。人は見えない道に怯える。札があると、怯えは半分になる」

「はい」

 燕青の返事は、もはや“命に代えて”ではない。
 働きで償う者の声になっていた。

十二 宰相家の“高い損失”

 数日後、裏板に奇妙な数字が出た。
 〈運搬損失 六割〉
 あり得ない。六割も米が消えれば、道に米が溢れ、鼠が祭りを始める。
 凌は裏板に指を当て、竹筒の“息”を嗅いだ。
 松煙ではない。油の匂い。灯の油。
 宰相家が、灯をわざと落としていた。
 灯が落ちれば、裏板の影は濃くなる。濃くなった影は、嘘の数字を“真”に見せる。

「燕青。郡板の周囲の灯を、祭祀局から直に引け。宰相の灯と繋がぬように」

「すでに。……ただ、宰相は灯を売る」

「“今日の灯”を二枚に分ける。宮の灯と民の灯。値段が違うことを、板に」

 翌朝、郡板に二つの灯の数字が現れた。
 〈宮の灯:二十〉〈民の灯:百三十〉
 見える差は、噂より速く走る。
 宰相家は灯で儲け、儲けで橋を、橋で書吏を、書吏で印場を――その結び目に墨が落ち始める。

十三 詔の添削、二度目

 詔草の続報。鳳梁と白槐の“運用令”を加筆するため、中書省へ再び回した文が戻ってきた。
 余白の添削は、やはり燕青の筆。
 〈“逆流路”の報告は郡板裏から〉
 〈薄粥に塩一粒〉
 〈贋俵摘発の名は“裏板”へ、晒しは三日後〉
 凌は読み、微笑む。
 影が文を書く。
 文は、影を飼う。

 そして、添削の隅に、小さな点があった。
 ――宰相家の橋が、まだ折れていないという印。
 橋を折るのは容易だ。だが、今は折らない。
 渡る者のために。

十四 檄、歌になる

 七日が過ぎ、破婚七日の記念すべき“次の七日”に、都の広場で歌が広がった。
 板の前で、子らが木柝の拍に合わせて唱える。

 > 祓いは倉へ 香は道へ
 > 板は目の高さ 灯は二つ
 > 唯一の妃は 米を数える
> 帝は一行 腹を満たせ
> 贋俵しぼむ 影が写る
> 噂は遅い 紙が速い

 歌は制度になる。
 制度は骨になる。
 骨は、夜を支える。

十五 影の謝罪、影の誓い

 夜、静陰殿の軒に雨が少し落ちた。雨は飢饉の薬だが、今日の雨はまだ薄い。
 燕青が膝まずき、額を地につけた。
 「凌殿。あの、三日前の……餌のこと。もう一度、謝る。あなたの身を、誰かの針にした」

「謝りは、一度でいい。……そのかわり、数で返せ」

「数?」

「助けた口の数。救った俵の数。晒した贋の数。灯を民へ戻した数。――数で償え」

 燕青は顔を上げ、涙を拭い、笑った。
 笑いは、刃より速い。
 「数える影になります」

「影は、数えないほうが美しいときもある」

「でも、あなたは数える」

「私が数えるから、あなたは息を。……息を忘れるな」

 燕青は深く頷いた。
 以後、彼は凌の影となった。
 扇の角度、香鏡の目盛、裏板の息、郡の灯、贋俵の影――そのすべてを、一つの影が繋ぐ。

十六 書庫の夜、帝の一行

 静陰殿の灯が低く揺れる夜、扉の向こうから短い文が滑り込んだ。
 〈鳳梁・白槐、暴発なし。粥、足る。――景焔〉
 凌は文を胸元に挟み、誓珠の上から押さえた。
 玉の中の銀砂が、指の腹で細かく鳴る。
 愛は、板の裏に置く、という約束を、互いに守っている。
 愛は紙にしない。
 紙にするのは、国だ。

十七 計算の端に、祈り

 翌朝、祓いの札を倉の内側に増やした。
 札に、小さな算木の絵を描いた。
 祈りと計算は、敵同士ではない。
 祈る者は数に救われ、数える者は祈りに救われる。
 紙の上で両者が握手したとき、噂は居場所を失う。

 蘭秀が扇を閉じ、凌に囁いた。「真ん中は、まだ寒い」
 凌は頷いた。「灯を増やします。――低く」

 低い灯は影を長くし、長い影は孤独を長くする。
 孤独は、決裂の温度を保つ。
 温度が保たれている限り、刃は不用意に出ない。

十八 詔の終わりではなく、始まり

 七日×二が過ぎた。
 鳳梁の郡板に、詔の末尾に小さな紙が継ぎ足された。
 〈詔はここで終わらず、板で続く〉
 これは、凌の語法だ。
 詔は宮で終わるべき文だった。だが、飢饉の檄は、広場で続くべき文だ。
 続きは、老の声、女の指、子の目、兵の腕、書記の筆、厨の匙。
 すべてが、文になる。

 宰相家の橋は、乾いた。
 乾いた橋は、しなやかだ。
折れなかった。
 折らずに渡した者は、あとで礼になる。
 礼は、刃より遅いが、長い。

十九 “唯一”の意味が増える

 静陰殿の板の片隅で、凌は小さな紙を足した。
 〈“唯一”とは、席ではなく、規格〉
 規格は増殖する。
 郡板が増え、里板が増え、裏板が増え、秤が増え、粥の鍋が増え、祓いの札が増え、灯の数が増える。
 増えるたび、唯一の意味は減らず、逆に濃くなる。
 濃くなった“唯一”は、刃の的ではなく、**道の標(しるべ)**だ。

 誓珠は胸で重い。
 重くしたのは、今日もまた紙だ。
 紙を増やしたぶんだけ、玉は重くなる。
 でも、その重さで夜が支えられるのなら、喜んで。

二十 働きで償う日々

 燕青は影として走り続けた。
 郡の裏板を覗き、竹筒の息を聞き、倉の札の裏に指を滑らせ、秤の針の高さを子の目線に合わせ、灯を低くして影を長くし、長くした影に自分を溶かす。
 彼の涙は、もうない。
 代わりに、数がある。
 「救えた口、二千三百」
 「贋俵、晒し七十二」
 「灯の差、縮小率三割」
 数字は、償いだ。
 償いは、生きてするものだ。

 夜、凌は寝殿の端で、ふっと笑った。
 「命で償うな、働きで償え」
 言った瞬間の、自分の手の震えを思い出す。
 震えは、いま、重さに変わっている。
 誓珠の重さは、まだ増えるだろう。
 増えるたび、板を貼り直す。

 ――飢饉の檄は、国に“速度”を与えた。
 噂の速度ではなく、板の速度。
 板の速度は、刃より遅いが、長い。
 長い速度でしか、腹は満たせない。

 明朝も、紙を一枚、増やそう。
 増やした紙の重みで、夜を支えよう。
 支えた夜の上で、帝が一行を書き、子が歌い、女が針を止め、老人が頷き、兵が腕を組む。
 その全部をまとめて、国という。

 凌は誓珠を握り、目を閉じた。
 銀砂が、胸の奥で細かく鳴った。
 鳴りは、続けるための音だった。