一 灰にするか、紙にするか
朝の第一の鐘。
御前の広間には、まだ夜の冷たさが残っていた。灯は絞られ、香は“縁の香”ではなく、ほのかな“清の香”。祓いの札には〈平〉の字。板の〈今日の帳〉には、玄虎院の焼け跡の絵と、〈調査継続〉の墨が新しい。
凌は群臣の列の端に立ち、袖の中で誓珠に指先を添えた。玉は冷たい。冷たいものに触れてから、公の場に立つ――自分に課した作法だ。
中書令――かつての宰相――が玉座へ三歩の距離で止まり、奏上箱から巻紙を取り出した。
巻紙は厚く、柑橘の油の匂いはしない。内庫の紙ではない。だが、裁ちの片倒れはある。祭祀局の刃の癖。
その紙を、男は恭しく掲げる。
「――国体安寧のための建白、複妃制復活の儀。唯一妃の規格を、過ちとまでは申さぬが、例外に戻し、伝統の“席”を諸方に開いて後宮の柱を――」
言い終える前に、景焔が片手を上げた。
帝の掌が空気を押さえると、広間全体の呼吸が半拍遅れる。遅れは命令の予兆だ。
「火を」
親衛が黙って香炉台を運んだ。
景焔は巻紙を受け取ると、口を開かず、ただ視線で“見えぬ誰か”を刺した。
そして、紙の端を炎に触れさせた。
墨の匂いが、かすかに甘く焦げる。
巻紙は一度、わずかに反り、すぐに真っ直ぐな炎へ変わった。
火は音を立てない。音を立てない炎は、侮辱の代わりだ。
「――これは、灰にするものだ」
景焔の声は低く、よく通った。
中書令の笑みが、刹那、裂けた。すぐに繕われる。繕いの早さが、彼の強さだ。
群臣の列の四方から、微かな衣擦れ。武官の手が、剣へ半寸。文官の目が、互いの袖へ半寸。半寸の躊躇は、半寸の刃になる。
賀蘭が一歩、砂のように音を立てて進み出た。
景焔は視線を動かさずに命じる。「剣を抜くな」
命令は、剣より先に走る。だが、その「先」の中に、一本だけ遅い刃があった。
文武の境の中間、袖口に銀粉の残る若い武官が、半拍遅れて鞘音を立てた。
音が空気に刺さる前に、賀蘭の拳が彼の手首を押さえ、燕青の影が背後に回って、刃と男とを「広間から」切り離した。
抜かれた剣は床に落ちることなく、宦官の盆に静かに受け止められる。音はない。音を出させないのは、帝国の礼だ。
景焔は炎の灰を盆の上で指ではらい、灰をひとつまみだけ摘んだ。
指先で灰を見せる。その灰に、彼は名を与えない。名を与えない侮辱は、最も手短だ。
「――誰にも、おまえの席は渡さない」
その言葉は、建白書にではなかった。
景焔の視線は、群臣を越えて、凌のいる端の一角へ一直線に落ちる。
そこだけに、灯が増えたように感じた。
群臣の首が、同時にわずかに動き、視線が凌へ刺さる。刺さる眼差しは、紙に載せられない刃だ。
凌は一歩進み出て、広間の中央へ膝を折った。
床の冷たさが膝から上がり、胸の誓珠の重みを増す。
「陛下。――私は“席”になってはいけません」
ざわ、と小さな風が走った。
その風に、香の層が一瞬わずかに乱れ、蘭秀の扇がすぐ角度を調えた。
太后は欄干の奥。沈香の濃さは薄い。沈黙の層は厚い。
「“唯一”は席ではなく、制度です。制度は骨で、骨は私ではない。私を“席”にすれば、私が倒れたとき、国の骨が折れます。……『誰にも渡さない』は愛であり、同時に政治の刃にもなる」
景焔の眉間の筋が、ほんの短く動いた。
「刃にも、なるだろう」
「だから刃を、鞘に」
凌は、広間の板――〈今日の帳〉に目をやった。
そこには今朝、〈玄虎院 証拠片/裁断の片倒れ〉〈禁香の灰〉〈“破婚七日”の越日〉が並んでいる。
紙は噂より遅いが、刃より長い。
「陛下が炎で建白を焼くなら、私は板に“焼いたこと”を貼ります。“光の帳”は、炎の働きを見える場所へ移すためにあります」
群臣の列の端で、中書令の口角が微かに上がった。
焼かれて灰になった建白が、板に上る――それは、帝の炎を“公開”の回路に乗せる宣言だ。
景焔は、灰を盆に落とし、椅子の背を指で一度だけ叩いた。
「軍務府」
短い呼びかけで、賀蘭が前へ。
「広間の外周を閉じろ。中書省の書庫を封鎖。筆と印は我の許しがあるまで動かすな。……剣は抜くな」
賀蘭は拳を胸に当て、無言で命を受けた。
燕青は影のまま動き、扉の鉤に薄い紙を張る。風道の音が変わる。変わった音は、そこに“人の音”を紛れ込ませない。
重い空気の中で、凌はもう一度だけ頭を下げた。
「――板を、増やします」
景焔は何も言わず、ただ凌を見た。
その視線は、刃をしまうときの手の動きに似ていた。
二 剣の届かない制圧
広間から外へ出ると、すでに中庭の列石に兵が整列していた。軍務派の鎧は光でなく影を拾い、彼らの動きは刃ではなく“囲い”そのものだ。
賀蘭は剣を抜かず、棒を持つ。棒は音を立てない。音を立てない制圧は、宮の礼だ。
中書省の門の前で、書吏たちの細い声。
「筆を返せ」「印を戻せ」。
賀蘭は言葉で返す。「預かる。返すときは、板に書く」。
言葉は、刃を抜かずに人を動かす。
それでも、袖の中で小さな弩の弦が鳴りかけた瞬間、燕青の指がそこにあって、弦は鳴らなかった。
鳴らなかった音が、今日いちばん大きな音だ。
凌は学堂へ戻り、板に新しい札を立てかけた。
〈今日の帳:建白焼却〉
短い説明と、灰の一粒。
灰には名をつけない。
名をつけない灰を、見える場所へ置く。
民が指でなぞり、指先に付いた灰を衣で拭う。拭ったあとに残る薄い黒は、噂より正確だ。
女官の一人が震えた声で言う。「焼いて、しまったのですか」
「焼きました。――焼いたことを、紙にします」
女官は小さく頷き、婚礼印の紙を胸へ差し直した。
誇りは、紙で呼吸する。
三 “誰にも渡さない”という刃
禁裏へ戻る廊の風が、いつもより重かった。
蘭秀が角に立って、扇を半分だけ開いている。
「学堂の板、“灰”を置く場所は風の上手に」
「はい」
言葉はそれだけ。
扇の角度は五度単位ではなく、二度ほど鋭角に。
彼女の真ん中は今日も凍えている。
凌は礼をして、寝殿の前で立ち止まった。
景焔が先にいた。
扉の内側の灯は少なく、誓珠の銀砂が小さく光っているのが、逆に目に刺さるほどよく見えた。
「……誰にも渡さない、と言った」
景焔は自らの言葉を繰り返した。
凌は頷いた。「聞きました」
「おまえの言うとおり、“唯一”は制度だ。だが、おまえが“席”であることもまた、現実だ。現実を汚す紙に、我は火をつける」
「汚す紙は、灰にしても、形を変えて残ります。灰は人の手で“物語”になる。……その物語が、あなたを“刃で守る帝”にし、私を“守られる席”にする。どちらも、長くは持ちません」
「なら、どうする」
「光の帳へ。――闇ではなく、堂々と『否』を書く。“複妃制復活”の建白に対し、『唯一妃の制度は継続。理由は三つ』と、板に」
景焔の目が、ほんの短く遠くへ行き、また戻ってきた。
「三つ?」
「一つ、眠る国のため。席を増やせば争いは増える。争いは夜を削る。
二つ、祈りの“流量”のため。複妃制は祓いを分散させる。分散は監視できない香を増やす。
三つ、金。闇の値段が下がる。買える者が増える」
「……よく分かる。だが、分かるからこそ、火をつけた」
「見た目の速さのために?」
「速さではない。――宣言だ」
景焔は一歩、凌へ近づいた。
大きな掌が、凌の肩に降りる前に止まり、空気だけが触れた。
「我は、おまえを“席”にしない。だが、席に手を伸ばす者には、魔よけとして炎を見せる」
「魔よけで燃えるのは、いつだって紙です。……紙は、あなたの剣より強い。焼かれた紙は、あなたの刃より速く“物語”になる」
凌の声は低く、静かだ。
静かさは怒りではない。怒りを数に変えたあとの余白だ。
「陛下。今日の火は“光の帳”に載ります。載せるのは私の仕事です」
「好きにしろ」
景焔の声は冷たく、同時にどこか湿っていた。
湿りは怒りの温度ではない。孤独の温度だ。
凌は誓珠に触れ、呼吸を整えた。
「……“好きにしろ”では、板は立ちません。公の『否』を、あなたの言葉で」
「我の言葉で?」
「はい。紙の上に陛下の言葉を。その紙で、私を守ってください。火ではなく、言葉で」
景焔は、ここで初めて、目を細めた。
「言葉で守れと言い、火を否定し、紙を立てろと言う。――なら、なぜ建白を取り次いだ中書令の首を落とすことには反対する」
「落とせば、噂は『血』を得ます。血の物語は速い。速さは闇の栄養です」
「……」
短い沈黙。
沈黙の中で、二人の呼吸が同じ速さになった。
同じになったところで、凌は踏み込む。
「陛下は、私を愛しています。私は、その愛の中で、『制度』を守りたい。――あなたの『誰にも渡さない』は、恋の言葉です。恋は、国に載せるには重すぎる」
「では、愛はどこに置く」
「寝殿の外に。広場の板の“裏”に。私たちだけの、紙に」
景焔の喉が動いた。
動きは短く、そこに抑えた笑いの気配があった。
「おまえは、我の愛まで板に貼ろうとする」
「貼りません。――だから、今日ここで言います。私は“席”にならない」
「ならば、おまえは“どこ”にいる」
景焔の声が、少しだけ硬くなった。
凌は答えた。
「別殿へ下がります。学堂と板、御台所と医局と祭祀局を“光の帳”で繋ぎ、禁裏との往来は“儀”だけに」
景焔の視線が、目に見えないほどわずかに揺れた。
揺れは、刃が鞘に戻る直前の気配に似ている。
「――出て行くのか」
「出て行きません。下がるだけです。……“合衣の定”は、さらに先送りになります」
「やはり、おまえは我を拒むのだな」
「陛下を拒むのではありません。『刃で守る帝』を、拒みます」
言葉が、はっきりと音になった瞬間、空気が薄く鳴った。
景焔はゆっくりと後ろへ一歩引き、視線を凌から外さないまま、扉の向こうを見た。
そこには、何もない。
何もないことが、帝を孤独にする。
「行け」
短い言葉。
許しでも、追放でもない。
ただ、行け。
命令は簡潔で、重かった。
四 別殿へ
凌が私物と言えるほどのものは少ない。学士時代から使っている細い筆、柿渋を刷いた転写紙、香鏡、そして誓珠。
燕青が黙って包を持ち、女医官が小さな薬箱を抱え、御台所の少年が「落としません」と言って盆を抱えて涙目で笑った。
蘭秀は扇を閉じ、手ずから“静陰殿”の鍵を渡した。
静陰殿――かつて書庫だった別殿。壁が厚く、風道が少ない。板を掛けるには、向かいの中庭が少し狭いが、音がよく通る。
「真ん中は、今日も寒いですか」
別れ際に凌が問うと、蘭秀はほんのわずかに頷いた。「ええ。だから、扇を磨きます」
「ありがとう」
静陰殿の門をくぐると、空気が違った。
香の層は薄く、灯は低い位置に並んでいる。
凌は最初に板を掛けた。
〈今日の帳:建白焼却/灰〉
〈今日の香:清の香〉
〈今日の祓い:平〉
〈今日の灯:静陰殿 十二〉
四枚の札の横に、細い紙を一枚。
〈私信:愛を寝殿の外に置く〉
それは、誰にも見えない場所に貼った。
自分にだけ見える板。
“裏”に貼る紙だ。
夜、静陰殿の中庭で、女官たちが小さな声で歌った。
〈唯一の妃〉という言葉が歌に混じる。
歌に混じった言葉は、刃では切れない。
凌は寝殿の端に腰を下ろし、誓珠を胸で押さえた。
重い。
重さは、愛の重量ではない。
制度の重さだ。
重さが増したのは、孤独のせいでもない。
“決裂”のせいでもない。
紙を増やしたせいだ。
紙は人の手で重くなる。
重くなる紙は、人の骨になる。
骨は、夜を支える。
五 灯が異なる速さで揺れる夜
禁裏では、景焔が灯を増やさなかった。
増やさない代わりに、灯の位置を変えた。
いつもは天井に近い燭台を、床近くへ下ろす。
低い灯は、影を長くする。
長い影は、孤独を長くする。
彼は長い影の中で、たった一枚の紙を開いた。
凌の『光の帳』に貼られているはずの“裏”の文――ではない。
帝の文だ。
〈唯一妃の制度は継続する。理由は三つ〉
“公の『否』”の草案。
短く、簡潔で、冷たい。
冷たさは、帝の器だ。
彼は筆を取って最初の一行を書き、次の一行で筆を止めた。
止めた筆先から、灯が揺れた。
揺れる灯の速さは、静陰殿の灯と違う。
違う速さで揺れる灯の下で、同じ紙を増やす――それが、ふたりが選んだ“決裂”のかたちだ。
六 光の帳、二つの筆
翌朝、静陰殿の板に『公の否』が貼られた。
〈唯一妃の制度は継続。理由は三つ〉
一、眠る国のため。
二、祓いの流量のため。
三、闇の値段のため。
末尾に、小さく“陛下の言葉”と書き添えられた。
景焔の草案は夜のうちに送られ、凌が語法を整理し、板の文にした。
“二つの筆”で書かれた否。
板の前に人だかりができ、老人が頷き、子が声に出して読む。
学堂印の女官が、言葉の意味を丁寧に説明する。
誇りは連鎖する。
広場の板にも、同じ文が貼られた。
だが、禁裏の広間には灰しか残らない。
“否”の紙は外で生きる。
中には灰だけ。
それが、今日の政治だ。
中書令は遠目に板を見て、笑った。
笑いの角度が、一昨日より深い。
深い笑いは、疲れを隠す。
疲れは、網の結び目を粗くする。
粗くなった結び目から、噂ではなく、紙が落ちてくる。
七 初めての喧嘩
夕景。
静陰殿の廊で、凌は景焔を迎えなかった。
帝は訪れず、文だけが届いた。
〈灯を増やしたい。おまえがいない広間は、寒い〉
短い文に、凌は短く返す。
〈増やすなら、低く。影を長くして。長い影は、孤独の値段を上げます〉
その夜、龍尾の影が薄く揺れて、景焔が来た。
「――やはり、直接、話す」
言葉は短いが、歩みは迷いなく速い。
凌は座して待たない。立って向き合う。
「火を使う帝は、愛の人です。紙を使う帝は、国の人です。私は後者を選びたい」
「我は両方だ」
「両方は、いつかどちらも折れます」
「おまえは、我を折りたいのか」
「折りたくないから、離れます」
「離れるのが、守ることだと?」
「はい」
「――おまえは、優しい。だが、その優しさで人を切る」
「“切らない”ために、今、私たちは喧嘩しています」
初めて、声がぶつかった。
景焔の声は硬く、凌の声は細い。
硬さと細さは、どちらも刃。
刃は火より速いが、火より冷たい。
「凌。誰にも、おまえの席は渡さない」
「だから言い続けます。私は、席ではない」
「なら、我は何に誓えばいい」
「紙に。……そして、あなた自身に」
「紙は裏切らないが、紙は返してくれない」
「返すものは、私たちの“仕事”です」
景焔は息を吸い、吐き、顎をわずかに上げた。
「分かった。――好きにしろ」
ふたたび、その言葉。
だが、今度は命令ではない。
降参でもない。
決裂の儀礼だ。
「好きにします。紙を増やします。……そして、いつか“合衣の定”を」
「いつか」
景焔は踵を返し、扉へ向かった。
扉が開く直前に、振り返る。
「凌」
「はい」
「――おまえを愛している。愛は、国には置かない。寝殿の外に置く。……そう言ったのは、おまえだ」
「はい」
「では、我は寝殿の外で待つ」
言い終えると、帝は去った。
扉が静かに閉じ、灯がひとつだけ揺れた。
揺れの速さは禁裏と違い、静陰殿の速さだ。
八 誓珠の重さ
夜更け、紙を片付け、香鏡の油を拭い、最後に誓珠を両の手のひらに乗せた。
玉は重い。
重さは、今日増えた。
重くしたのは、景焔ではない。
自分だ。
“席”にならないと言い、別殿へ下がり、板を増やし、“否”を貼り、火を紙へ移した。
その一つ一つが、玉の中の銀砂に重さを足した。
重さは痛みではない。
痛みは別にある。
蘭秀の扇の角度。
女医官の掌の温度。
御台所の少年の「落としません」。
賀蘭の棒の静けさ。
燕青の影の速さ。
“国”を支えるもののすべてが、今日、少しずつ重くなった。
凌は玉を胸へ戻し、横になった。
眠りは浅いが、浅さは敗北ではない。
浅い眠りの上に紙を重ね、朝、板に貼り直せばいい。
貼り直せるものだけを増やす――それが、自分の選んだ戦い方だ。
目を閉じる直前、扉の外で、木柝が一つ鳴った。
禁裏のほうでも、同じ木柝が、異なる速さで鳴った気がした。
異なる速さの二つの音が、遠い空で重なる。
重なった瞬間、誓珠が胸の上でかすかに鳴った。
鳴りは、愛でも、命令でも、許しでもない。
“続ける”の音だった。
――席にはならない。
“唯一”は、骨。
骨は、二人で、紙で、灯で、香で、祓いで、そして、時に沈黙で、作る。
朝の第一の鐘。
御前の広間には、まだ夜の冷たさが残っていた。灯は絞られ、香は“縁の香”ではなく、ほのかな“清の香”。祓いの札には〈平〉の字。板の〈今日の帳〉には、玄虎院の焼け跡の絵と、〈調査継続〉の墨が新しい。
凌は群臣の列の端に立ち、袖の中で誓珠に指先を添えた。玉は冷たい。冷たいものに触れてから、公の場に立つ――自分に課した作法だ。
中書令――かつての宰相――が玉座へ三歩の距離で止まり、奏上箱から巻紙を取り出した。
巻紙は厚く、柑橘の油の匂いはしない。内庫の紙ではない。だが、裁ちの片倒れはある。祭祀局の刃の癖。
その紙を、男は恭しく掲げる。
「――国体安寧のための建白、複妃制復活の儀。唯一妃の規格を、過ちとまでは申さぬが、例外に戻し、伝統の“席”を諸方に開いて後宮の柱を――」
言い終える前に、景焔が片手を上げた。
帝の掌が空気を押さえると、広間全体の呼吸が半拍遅れる。遅れは命令の予兆だ。
「火を」
親衛が黙って香炉台を運んだ。
景焔は巻紙を受け取ると、口を開かず、ただ視線で“見えぬ誰か”を刺した。
そして、紙の端を炎に触れさせた。
墨の匂いが、かすかに甘く焦げる。
巻紙は一度、わずかに反り、すぐに真っ直ぐな炎へ変わった。
火は音を立てない。音を立てない炎は、侮辱の代わりだ。
「――これは、灰にするものだ」
景焔の声は低く、よく通った。
中書令の笑みが、刹那、裂けた。すぐに繕われる。繕いの早さが、彼の強さだ。
群臣の列の四方から、微かな衣擦れ。武官の手が、剣へ半寸。文官の目が、互いの袖へ半寸。半寸の躊躇は、半寸の刃になる。
賀蘭が一歩、砂のように音を立てて進み出た。
景焔は視線を動かさずに命じる。「剣を抜くな」
命令は、剣より先に走る。だが、その「先」の中に、一本だけ遅い刃があった。
文武の境の中間、袖口に銀粉の残る若い武官が、半拍遅れて鞘音を立てた。
音が空気に刺さる前に、賀蘭の拳が彼の手首を押さえ、燕青の影が背後に回って、刃と男とを「広間から」切り離した。
抜かれた剣は床に落ちることなく、宦官の盆に静かに受け止められる。音はない。音を出させないのは、帝国の礼だ。
景焔は炎の灰を盆の上で指ではらい、灰をひとつまみだけ摘んだ。
指先で灰を見せる。その灰に、彼は名を与えない。名を与えない侮辱は、最も手短だ。
「――誰にも、おまえの席は渡さない」
その言葉は、建白書にではなかった。
景焔の視線は、群臣を越えて、凌のいる端の一角へ一直線に落ちる。
そこだけに、灯が増えたように感じた。
群臣の首が、同時にわずかに動き、視線が凌へ刺さる。刺さる眼差しは、紙に載せられない刃だ。
凌は一歩進み出て、広間の中央へ膝を折った。
床の冷たさが膝から上がり、胸の誓珠の重みを増す。
「陛下。――私は“席”になってはいけません」
ざわ、と小さな風が走った。
その風に、香の層が一瞬わずかに乱れ、蘭秀の扇がすぐ角度を調えた。
太后は欄干の奥。沈香の濃さは薄い。沈黙の層は厚い。
「“唯一”は席ではなく、制度です。制度は骨で、骨は私ではない。私を“席”にすれば、私が倒れたとき、国の骨が折れます。……『誰にも渡さない』は愛であり、同時に政治の刃にもなる」
景焔の眉間の筋が、ほんの短く動いた。
「刃にも、なるだろう」
「だから刃を、鞘に」
凌は、広間の板――〈今日の帳〉に目をやった。
そこには今朝、〈玄虎院 証拠片/裁断の片倒れ〉〈禁香の灰〉〈“破婚七日”の越日〉が並んでいる。
紙は噂より遅いが、刃より長い。
「陛下が炎で建白を焼くなら、私は板に“焼いたこと”を貼ります。“光の帳”は、炎の働きを見える場所へ移すためにあります」
群臣の列の端で、中書令の口角が微かに上がった。
焼かれて灰になった建白が、板に上る――それは、帝の炎を“公開”の回路に乗せる宣言だ。
景焔は、灰を盆に落とし、椅子の背を指で一度だけ叩いた。
「軍務府」
短い呼びかけで、賀蘭が前へ。
「広間の外周を閉じろ。中書省の書庫を封鎖。筆と印は我の許しがあるまで動かすな。……剣は抜くな」
賀蘭は拳を胸に当て、無言で命を受けた。
燕青は影のまま動き、扉の鉤に薄い紙を張る。風道の音が変わる。変わった音は、そこに“人の音”を紛れ込ませない。
重い空気の中で、凌はもう一度だけ頭を下げた。
「――板を、増やします」
景焔は何も言わず、ただ凌を見た。
その視線は、刃をしまうときの手の動きに似ていた。
二 剣の届かない制圧
広間から外へ出ると、すでに中庭の列石に兵が整列していた。軍務派の鎧は光でなく影を拾い、彼らの動きは刃ではなく“囲い”そのものだ。
賀蘭は剣を抜かず、棒を持つ。棒は音を立てない。音を立てない制圧は、宮の礼だ。
中書省の門の前で、書吏たちの細い声。
「筆を返せ」「印を戻せ」。
賀蘭は言葉で返す。「預かる。返すときは、板に書く」。
言葉は、刃を抜かずに人を動かす。
それでも、袖の中で小さな弩の弦が鳴りかけた瞬間、燕青の指がそこにあって、弦は鳴らなかった。
鳴らなかった音が、今日いちばん大きな音だ。
凌は学堂へ戻り、板に新しい札を立てかけた。
〈今日の帳:建白焼却〉
短い説明と、灰の一粒。
灰には名をつけない。
名をつけない灰を、見える場所へ置く。
民が指でなぞり、指先に付いた灰を衣で拭う。拭ったあとに残る薄い黒は、噂より正確だ。
女官の一人が震えた声で言う。「焼いて、しまったのですか」
「焼きました。――焼いたことを、紙にします」
女官は小さく頷き、婚礼印の紙を胸へ差し直した。
誇りは、紙で呼吸する。
三 “誰にも渡さない”という刃
禁裏へ戻る廊の風が、いつもより重かった。
蘭秀が角に立って、扇を半分だけ開いている。
「学堂の板、“灰”を置く場所は風の上手に」
「はい」
言葉はそれだけ。
扇の角度は五度単位ではなく、二度ほど鋭角に。
彼女の真ん中は今日も凍えている。
凌は礼をして、寝殿の前で立ち止まった。
景焔が先にいた。
扉の内側の灯は少なく、誓珠の銀砂が小さく光っているのが、逆に目に刺さるほどよく見えた。
「……誰にも渡さない、と言った」
景焔は自らの言葉を繰り返した。
凌は頷いた。「聞きました」
「おまえの言うとおり、“唯一”は制度だ。だが、おまえが“席”であることもまた、現実だ。現実を汚す紙に、我は火をつける」
「汚す紙は、灰にしても、形を変えて残ります。灰は人の手で“物語”になる。……その物語が、あなたを“刃で守る帝”にし、私を“守られる席”にする。どちらも、長くは持ちません」
「なら、どうする」
「光の帳へ。――闇ではなく、堂々と『否』を書く。“複妃制復活”の建白に対し、『唯一妃の制度は継続。理由は三つ』と、板に」
景焔の目が、ほんの短く遠くへ行き、また戻ってきた。
「三つ?」
「一つ、眠る国のため。席を増やせば争いは増える。争いは夜を削る。
二つ、祈りの“流量”のため。複妃制は祓いを分散させる。分散は監視できない香を増やす。
三つ、金。闇の値段が下がる。買える者が増える」
「……よく分かる。だが、分かるからこそ、火をつけた」
「見た目の速さのために?」
「速さではない。――宣言だ」
景焔は一歩、凌へ近づいた。
大きな掌が、凌の肩に降りる前に止まり、空気だけが触れた。
「我は、おまえを“席”にしない。だが、席に手を伸ばす者には、魔よけとして炎を見せる」
「魔よけで燃えるのは、いつだって紙です。……紙は、あなたの剣より強い。焼かれた紙は、あなたの刃より速く“物語”になる」
凌の声は低く、静かだ。
静かさは怒りではない。怒りを数に変えたあとの余白だ。
「陛下。今日の火は“光の帳”に載ります。載せるのは私の仕事です」
「好きにしろ」
景焔の声は冷たく、同時にどこか湿っていた。
湿りは怒りの温度ではない。孤独の温度だ。
凌は誓珠に触れ、呼吸を整えた。
「……“好きにしろ”では、板は立ちません。公の『否』を、あなたの言葉で」
「我の言葉で?」
「はい。紙の上に陛下の言葉を。その紙で、私を守ってください。火ではなく、言葉で」
景焔は、ここで初めて、目を細めた。
「言葉で守れと言い、火を否定し、紙を立てろと言う。――なら、なぜ建白を取り次いだ中書令の首を落とすことには反対する」
「落とせば、噂は『血』を得ます。血の物語は速い。速さは闇の栄養です」
「……」
短い沈黙。
沈黙の中で、二人の呼吸が同じ速さになった。
同じになったところで、凌は踏み込む。
「陛下は、私を愛しています。私は、その愛の中で、『制度』を守りたい。――あなたの『誰にも渡さない』は、恋の言葉です。恋は、国に載せるには重すぎる」
「では、愛はどこに置く」
「寝殿の外に。広場の板の“裏”に。私たちだけの、紙に」
景焔の喉が動いた。
動きは短く、そこに抑えた笑いの気配があった。
「おまえは、我の愛まで板に貼ろうとする」
「貼りません。――だから、今日ここで言います。私は“席”にならない」
「ならば、おまえは“どこ”にいる」
景焔の声が、少しだけ硬くなった。
凌は答えた。
「別殿へ下がります。学堂と板、御台所と医局と祭祀局を“光の帳”で繋ぎ、禁裏との往来は“儀”だけに」
景焔の視線が、目に見えないほどわずかに揺れた。
揺れは、刃が鞘に戻る直前の気配に似ている。
「――出て行くのか」
「出て行きません。下がるだけです。……“合衣の定”は、さらに先送りになります」
「やはり、おまえは我を拒むのだな」
「陛下を拒むのではありません。『刃で守る帝』を、拒みます」
言葉が、はっきりと音になった瞬間、空気が薄く鳴った。
景焔はゆっくりと後ろへ一歩引き、視線を凌から外さないまま、扉の向こうを見た。
そこには、何もない。
何もないことが、帝を孤独にする。
「行け」
短い言葉。
許しでも、追放でもない。
ただ、行け。
命令は簡潔で、重かった。
四 別殿へ
凌が私物と言えるほどのものは少ない。学士時代から使っている細い筆、柿渋を刷いた転写紙、香鏡、そして誓珠。
燕青が黙って包を持ち、女医官が小さな薬箱を抱え、御台所の少年が「落としません」と言って盆を抱えて涙目で笑った。
蘭秀は扇を閉じ、手ずから“静陰殿”の鍵を渡した。
静陰殿――かつて書庫だった別殿。壁が厚く、風道が少ない。板を掛けるには、向かいの中庭が少し狭いが、音がよく通る。
「真ん中は、今日も寒いですか」
別れ際に凌が問うと、蘭秀はほんのわずかに頷いた。「ええ。だから、扇を磨きます」
「ありがとう」
静陰殿の門をくぐると、空気が違った。
香の層は薄く、灯は低い位置に並んでいる。
凌は最初に板を掛けた。
〈今日の帳:建白焼却/灰〉
〈今日の香:清の香〉
〈今日の祓い:平〉
〈今日の灯:静陰殿 十二〉
四枚の札の横に、細い紙を一枚。
〈私信:愛を寝殿の外に置く〉
それは、誰にも見えない場所に貼った。
自分にだけ見える板。
“裏”に貼る紙だ。
夜、静陰殿の中庭で、女官たちが小さな声で歌った。
〈唯一の妃〉という言葉が歌に混じる。
歌に混じった言葉は、刃では切れない。
凌は寝殿の端に腰を下ろし、誓珠を胸で押さえた。
重い。
重さは、愛の重量ではない。
制度の重さだ。
重さが増したのは、孤独のせいでもない。
“決裂”のせいでもない。
紙を増やしたせいだ。
紙は人の手で重くなる。
重くなる紙は、人の骨になる。
骨は、夜を支える。
五 灯が異なる速さで揺れる夜
禁裏では、景焔が灯を増やさなかった。
増やさない代わりに、灯の位置を変えた。
いつもは天井に近い燭台を、床近くへ下ろす。
低い灯は、影を長くする。
長い影は、孤独を長くする。
彼は長い影の中で、たった一枚の紙を開いた。
凌の『光の帳』に貼られているはずの“裏”の文――ではない。
帝の文だ。
〈唯一妃の制度は継続する。理由は三つ〉
“公の『否』”の草案。
短く、簡潔で、冷たい。
冷たさは、帝の器だ。
彼は筆を取って最初の一行を書き、次の一行で筆を止めた。
止めた筆先から、灯が揺れた。
揺れる灯の速さは、静陰殿の灯と違う。
違う速さで揺れる灯の下で、同じ紙を増やす――それが、ふたりが選んだ“決裂”のかたちだ。
六 光の帳、二つの筆
翌朝、静陰殿の板に『公の否』が貼られた。
〈唯一妃の制度は継続。理由は三つ〉
一、眠る国のため。
二、祓いの流量のため。
三、闇の値段のため。
末尾に、小さく“陛下の言葉”と書き添えられた。
景焔の草案は夜のうちに送られ、凌が語法を整理し、板の文にした。
“二つの筆”で書かれた否。
板の前に人だかりができ、老人が頷き、子が声に出して読む。
学堂印の女官が、言葉の意味を丁寧に説明する。
誇りは連鎖する。
広場の板にも、同じ文が貼られた。
だが、禁裏の広間には灰しか残らない。
“否”の紙は外で生きる。
中には灰だけ。
それが、今日の政治だ。
中書令は遠目に板を見て、笑った。
笑いの角度が、一昨日より深い。
深い笑いは、疲れを隠す。
疲れは、網の結び目を粗くする。
粗くなった結び目から、噂ではなく、紙が落ちてくる。
七 初めての喧嘩
夕景。
静陰殿の廊で、凌は景焔を迎えなかった。
帝は訪れず、文だけが届いた。
〈灯を増やしたい。おまえがいない広間は、寒い〉
短い文に、凌は短く返す。
〈増やすなら、低く。影を長くして。長い影は、孤独の値段を上げます〉
その夜、龍尾の影が薄く揺れて、景焔が来た。
「――やはり、直接、話す」
言葉は短いが、歩みは迷いなく速い。
凌は座して待たない。立って向き合う。
「火を使う帝は、愛の人です。紙を使う帝は、国の人です。私は後者を選びたい」
「我は両方だ」
「両方は、いつかどちらも折れます」
「おまえは、我を折りたいのか」
「折りたくないから、離れます」
「離れるのが、守ることだと?」
「はい」
「――おまえは、優しい。だが、その優しさで人を切る」
「“切らない”ために、今、私たちは喧嘩しています」
初めて、声がぶつかった。
景焔の声は硬く、凌の声は細い。
硬さと細さは、どちらも刃。
刃は火より速いが、火より冷たい。
「凌。誰にも、おまえの席は渡さない」
「だから言い続けます。私は、席ではない」
「なら、我は何に誓えばいい」
「紙に。……そして、あなた自身に」
「紙は裏切らないが、紙は返してくれない」
「返すものは、私たちの“仕事”です」
景焔は息を吸い、吐き、顎をわずかに上げた。
「分かった。――好きにしろ」
ふたたび、その言葉。
だが、今度は命令ではない。
降参でもない。
決裂の儀礼だ。
「好きにします。紙を増やします。……そして、いつか“合衣の定”を」
「いつか」
景焔は踵を返し、扉へ向かった。
扉が開く直前に、振り返る。
「凌」
「はい」
「――おまえを愛している。愛は、国には置かない。寝殿の外に置く。……そう言ったのは、おまえだ」
「はい」
「では、我は寝殿の外で待つ」
言い終えると、帝は去った。
扉が静かに閉じ、灯がひとつだけ揺れた。
揺れの速さは禁裏と違い、静陰殿の速さだ。
八 誓珠の重さ
夜更け、紙を片付け、香鏡の油を拭い、最後に誓珠を両の手のひらに乗せた。
玉は重い。
重さは、今日増えた。
重くしたのは、景焔ではない。
自分だ。
“席”にならないと言い、別殿へ下がり、板を増やし、“否”を貼り、火を紙へ移した。
その一つ一つが、玉の中の銀砂に重さを足した。
重さは痛みではない。
痛みは別にある。
蘭秀の扇の角度。
女医官の掌の温度。
御台所の少年の「落としません」。
賀蘭の棒の静けさ。
燕青の影の速さ。
“国”を支えるもののすべてが、今日、少しずつ重くなった。
凌は玉を胸へ戻し、横になった。
眠りは浅いが、浅さは敗北ではない。
浅い眠りの上に紙を重ね、朝、板に貼り直せばいい。
貼り直せるものだけを増やす――それが、自分の選んだ戦い方だ。
目を閉じる直前、扉の外で、木柝が一つ鳴った。
禁裏のほうでも、同じ木柝が、異なる速さで鳴った気がした。
異なる速さの二つの音が、遠い空で重なる。
重なった瞬間、誓珠が胸の上でかすかに鳴った。
鳴りは、愛でも、命令でも、許しでもない。
“続ける”の音だった。
――席にはならない。
“唯一”は、骨。
骨は、二人で、紙で、灯で、香で、祓いで、そして、時に沈黙で、作る。



