紙の匂いは、湿度の音に似ている。
耳で聞こえないけれど、私にはわかる。ページのふちが微かにそり返る手触り、指先に残る粉の量、書庫の奥で眠る古紙が吸って吐く水分の呼吸——それらが日付の代わりに時間を教えてくれる。
私は市立アーカイヴの保存担当だ。正式な肩書は「資料保存技師」。温湿度の管理、脱酸性処理、虫害対策、光量の調整、閲覧室の空気の巡り——図書館が見せる“静けさ”を、目盛りと数字で裏から支える仕事である。
今夜も、閉館後の巡回を終えて端末に「当直」の印を押そうとしたとき、書庫管理システムの端に赤い点が灯った。
20:41 特別収蔵庫 相対湿度:67%(急上昇)
いつもは45%前後を保つ。あの部屋は貴重書を守るため、外気と切り離された小さな箱だ。湿度がこんなふうに跳ねるのは、扉の開閉か、誰かが水分を持ち込んだときだけ。
私は端末にリモートの換気コマンドを入れ、そのまま上着も着ずに特別収蔵庫へ向かった。
重い扉の前で、指先がわずかに躊躇う。カードキーをかざすと、緑のランプが点いた。中はいつもより冷たい。
空調のファンは正常に回っている。床に水滴はない。けれど、紙の匂いが深くなっていた。湿気が束になって、背表紙の谷間に沈んでいる。
金曜の夜。今夜は展示替えの準備で、古地図のケースが一つ開いているはず——私はケースに近づき、腰をかがめた。
紙魚(しみ)よけのトラップに、何もかかっていないことを確かめたとき、背中で微かに空気が揺れた。
——扉が一度、開いた?
振り返る。何もいない。ただ、扉の縁のシリコンが、私の記憶よりわずかにつややかだった。誰かが最近、強く押した跡。
それでも、湿度は端末の画面でゆっくりと下がり始めている。私は巡回の記録に「点検済」の一行を加え、扉を閉めた。
それが“はじまり”だった。
21時を少し回ったころ、アーカイヴの内線が鳴った。
夜間に残っているのは私と警備員だけのはずだ。受話器を取ると、息を切らせた若い声が飛び込んでくる。
「すみません、閲覧室に……人が倒れてます!」
私は走った。閲覧室の真ん中に敷かれた長机の影で、背広姿の男がうつ伏せになっている。肩に触れると冷たく、硬い。脈は取れない。
警備員が救急に電話し、私は男の顔を確認した。
浅野轍(あさの・てつ)。今度寄贈予定の古書コレクションの持ち主であり、地元では顔の利く骨董商の息子だ。閉館前に職員と話しているのを見かけた。
口元に、紙片が一枚張り付いている。栞の切れ端のようだ。私は思わず指で払おうとして、その紙に薄く青い汚れがついていることに気づいた。銅板画の裏面でよく見る、古い紙の背を補修したときに使うカッパーテープの青。
救急と警察が到着するまでの数分間に、私は自身の呼吸が浅くなるのを無理やり押さえ込み、室内を見回した。
閲覧机には、古地図の図録と、鉛筆の削りかすが小さく散っている。
窓の外は雨になるかならないかの境。
そして壁の時計は——21:18を指したまま、秒針が止まっていた。
警察が来て、規制線が張られる。
いつもの眠たげな声が、背後からした。
「おまえ、こういう夜ばっかりだな」
御子柴。中学の同級生で、今は所轄の刑事だ。
「今日は、私の番じゃないはずだった」
「特別収蔵庫の湿度、跳ねたって?」
「もう入ってるの?」
「警備のログをさっき見せてもらった。おまえの名前がそこにある。——で、死因は窒息だろう、というのが救急の見立て。口の中から紙片が少し。薬の反応は今のところなし。自然死ではなさそうだ」
私は閲覧室の時計を指さした。
「21時18分。止まってる。停電は?」
「ない。ほかの時計は動いてる。これだけだ」
「じゃあ、誰かが止めた」
御子柴は肩をすくめる。
「容疑者は三人。浅野と寄贈の手続きを進めていた当館の学芸員・白洲、浅野の弟の孝太、そして古書取引のフリーライター・沖。三人とも、二十一時前後にアーカイヴにいた。三人とも、“その時間は別の場所にいた”と主張」
「アリバイ?」
「白洲は階下の展示室で準備をしていた。監視カメラに映像。孝太はロビーで携帯ショップに電話、通話記録あり。沖は自宅から“ライブ配信でブックトーク”。コメントと録画が残ってる」
私は、閲覧室の空気を吸い込んだ。
古紙の匂いのはずなのに、鼻の奥でわずかに違和感がひっかかる。
——紙が“冷えている”。
暖房は切っていない。閲覧室の温度は二十二度のまま。けれど本の束に触れたときの、あの内部の温度が薄い。
誰かが、短時間に“冷たい空気”を入れた?
御子柴が小声で言った。
「特別収蔵庫の湿度が上がったのは二十時四十一分。閲覧室で浅野が倒れているのが見つかったのは二十一時十七分。時間のつながりはあるか?」
「わからない。けれど、収蔵庫の扉の縁に、新しい艶があった。強く押し込んだ跡。誰かが外気を持ち込んで中を冷やし、湿度が跳ねた可能性はある」
「動機は山ほど。寄贈に絡む利権、古書の真贋、兄弟の相続……ただし、三人とも当夜の“映像”や“通話”がある。おまえの湿度の鼻だけが、頼りだ」
私は保存室の端末に戻り、環境ログを時系列で開いた。
特別収蔵庫は二十時四十一分に湿度が跳ね、その後五分ほどでゆっくり戻っている。温度は二十度から十八度へと一度だけストンと落ち、すぐに戻った。
——冷たい空気を短時間入れた。
収蔵庫の空調にある「酸素濃度抑制」システムは、火災時に酸素濃度をわずかに下げる仕組みだ。非常時以外は動かない。ログにも作動はない。
でも、収蔵庫の天井にはもう一つ、小さな機械が取り付けられている。
——オゾン殺菌機。
紙魚対策で、閉館後にごく短時間、低濃度のオゾンを流す。
今夜のタイマーは二十四時のはず。ログを見る。
20:43 〈手動試験〉——1分
誰かが押した、という意味だ。
私は爪の先で机を叩いた。
低濃度とはいえ、オゾンは紙の表面に“青”を残すことがある。銅を少しだけ変色させる。浅野の口の紙片にあった青は、銅の補修テープだけでは説明がつかない強さだった。
閲覧室にオゾンが漂っていたとしたら? いや、そこにオゾンは流れない。配管は独立している。
ただ、収蔵庫の空気を、短時間、閲覧室に引けば——。
閲覧室の換気扇のログを見た。
21:16——〈逆転〉
逆転?
本来、閲覧室の換気は外へ出す。逆転は、外から中へ引く設定。滅多に使わない。
誰かが、ここでも「手動試験」をかけた。
私は閲覧室に戻り、スポットの根元に手を伸ばした。照明の台座には、蛍光ペンで薄く書かれた矢印がある。「←逆」。
白洲が書いたのか? 展示準備で時々、空気の流れを変えることはある。でも、今夜、その操作をする理由はない。
御子柴が言った。
「白洲は、二十時半から二十一時まで展示室で作業。映像がある。ただ、死体発見の直前五分は映っていない。カメラの前を台車が横切って隠れた」
「孝太は?」
「二十一時ちょうどから二十分、ロビーで携帯会社に電話。通話は長い。だが、ロビー椅子の監視カメラの死角に座ってる。口元は見えない。——誰かにスピーカーで話させることだってできる」
「沖の配信は」
「二十時半開始、二十分で終了。『腰が痛いからまた』で切った。二十一時台は沈黙」
私は三人の顔を思い出し、指先に残る紙の粉の粒を舌で数えた。
誰が、紙の“呼吸”を動かす?
浅野の弟、孝太は、兄ほど古書に興味がないように見えた。
「兄が勝手に寄贈を決めて、こっちは何も聞いてない。父が集めた本だ。全部差し出す必要はないだろう」
彼はそう言い、手を膝の上で握りこんだ。
「電話は本当に自分で?」と御子柴が聞くと、「ええ」と頷き、通話履歴のスクリーンショットを見せた。
私はその端末の画面の隅を見た。保護フィルムの端が、わずかに浮いている。濡れた手で触った痕が乾いて波打っていた。
「二十一時台に、どこかで手を洗いました?」
「トイレに行ったが」
「石鹸の匂いではない。紙を濡らした後の匂いだ」
孝太は眉を潜めた。
「は?」
私はそれ以上は言わなかった。嗅覚だけでは証拠にならない。
白洲は、いつもの穏やかな声で、「展示室でパネルの裏打ちを」と言った。
「閲覧室の換気を逆転にした人は?」
「知りません」
「台座に矢印が書いてある」
「あれは、去年の企画展で私が書いたものです。でも今夜は触っていません」
白洲の指の腹は、湿っていない。糊も粉も匂わない。
けれど、彼の上着のポケットに、意外なものがあった。わずかに黒光りする、薄い金属片。
「これは」
「展示ケースの鍵に付けるマグネットです。鍵の頭を引き出すときに使う。——いつも持ち歩いていて」
私は頷いた。
ネオジム磁石。強い。扉の縁のセンサーに近づければ、閉の信号を錯覚させることがある。
白洲は私の目をまっすぐ見返した。
「あなたは私を疑うでしょう。でも、私は寄贈を心から望んでいます。浅野さんの父上のコレクションを、この市で守りたい」
「だからこそ、真贋で揉めている本を“なかったこと”にしたいのでは」
白洲の瞳が初めて揺れた。
「……真贋は、私の手から離れています」
沖は、薄い笑みを絶やさなかった。
「僕は書く人間です。現場に行っても手は汚さない。配信は観ました? 腹筋が悲鳴を上げてね、腰が……」
「配信の画面の後ろ、本棚の列に一本だけ“逆さ”がありました」
「……観察がいい」
「逆さに挿す癖がある人は、図書の向きを入れ替えるときにも、その癖が出る。閲覧室の短架の三段目、今夜は中段だけ、背の向きが揃いすぎている。——誰かがそこを、目隠しに使った」
沖は小さく肩を竦めた。
「推理ごっこは好きですが、僕は紙では殺しませんよ」
「紙では、ね」
私は保存室に戻り、工具箱から単純なものを取り出した。温湿度計の校正用に使う小さな「飽和食塩水袋」。チャック付きのパウチ。袋の中に温湿度計を入れて放っておくと、一定の湿度(75%)に落ち着く。
その袋は、二十時半に棚から一つ消えていた。
調達表を調べる。最後に触ったのは私だ。午前中、別の部屋の校正で使った。
戻した覚えはある。しかし、数えると一袋足りない。
——誰かが持ち出した。
「それ、何に使う?」御子柴が覗く。
「小さな箱の中の湿度を一気に上げる。たとえば、紙片を柔らかくするのに」
「柔らかくして、何をする」
「吸わせる。匂いを。たとえば、収蔵庫で“青”が出る空気の」
私は自分の言葉にぞっとした。
やり方の詳細を口にすべきではない。
けれど、浅野の口元の紙片は、オゾンの青を吸っていた。
閲覧室の中で、それを吸わせるには“そばに”オゾンを持ち込む必要がある。
そんなことができるのは、収蔵庫と閲覧室の“空気の橋”を知っている人間だけ。
——換気の逆転。
閲覧室の換気扇は二十一時十六分に逆転した。
その直前、収蔵庫でオゾン試験が手動で一分回った。
つまり、収蔵庫の空気が、閲覧室に吸われた。
そのとき、閲覧室にいた誰かが、湿らせた紙片を口元に当てれば、青はそこに残る。
そして、浅野は呼吸を乱し、机に倒れ込む——。
私は背中に冷たいものを感じ、椅子の背もたれを握りしめた。
そんな“連結”を思いつき、なおかつ操作できる人間。
白洲しかいない。
けれど、白洲の指は糊を踏んでいない。彼は誰かに“やらせた”。
孝太か、沖か。
孝太の手の保護フィルムの波打ちは、濡れた紙を持った痕に見える。
沖は、配信を早めに切って空白を作った。
どちらも、閲覧室に来られる隙間はある。
私はもう一度、閲覧室の机に戻った。
鉛筆の削りかすが、不自然に“丸い”。普通、削りかすは薄い木の帯として散る。ここにあるのは小さな粒。
——パキン。
鉛筆の芯だけを、折って散らした粒だ。
誰かが“何かの音”をごまかすために、粒をつまみ、机に落としたのかもしれない。
たとえば、紙を口に押し当てるときの、浅い吸気音。
ごまかしとしては拙い。けれど咄嗟なら、そうする。
鉛筆は誰のもの? 机の端に黒い短い鉛筆。白洲がよく使う濃いBの短い鉛筆だ。
——白洲が現場にいた。
御子柴は、白洲を事情聴取室に呼んだ。
私は彼の前に、オゾン試験のログと換気逆転のログ、特別収蔵庫の湿度グラフを並べた。
「二十時四十三分。収蔵庫で一分だけオゾンを流したのは、あなたです」
白洲は一拍おいて、うなずいた。
「テストです。本番は夜中に回りますが、フィルタを交換したので」
「二十一時十六分、閲覧室の換気を逆転にしたのも、あなたですね」
「していません」
「台座に矢印を書いたのはあなた。操作は簡単だ。スイッチを二秒押し続けるだけ」
白洲は唇を結んだ。
私は、最後の一枚を机に置いた。
閲覧室の時計の写真。止まったままの21:18。
「この時計、止まった理由は簡単です。背面の電池ボックスの蓋がずれ、ボタン電池が落ちかけていた。——マグネットに反応するタイプです。ネオジム磁石を近づけると、一瞬、接点が浮く。秒針は止まる」
白洲の目が細くなった。
「マグネットは、展示ケースの鍵に付けるものです。仕事で使います。——だから?」
「だから、あなたは“時刻を止めること”にためらいがない。閲覧室の“空気の流れ”と“時間”を、自分の手の内で合わせられる人だ」
白洲は目を伏せ、そしてゆっくりと上げた。
「浅野さんは、寄贈の一部を撤回すると言いました。真贋の疑いがあるものについて“調査が済むまで外す”。それは、しかたがないことです。——でも、私のなかの“しかたがない”と、彼の“しかたがない”は違っていました」
御子柴が低く問う。
「やったのは、おまえか」
「違います」
白洲は、はっきりと否定した。
「換気の逆転も、閲覧室の操作も、私はしていません。——お願いしたのです。『この時間、スイッチを押してほしい』と」
「誰に」
「孝太さんに」
全てが、一本の糸で結ばれた。
孝太は兄に反発していた。白洲は寄贈を守りたい。
「ちょっとした悪戯」を装って、兄を驚かせようと誘えば、孝太は乗る。
閲覧室の換気スイッチを二秒押すだけ、収蔵庫のオゾン試験のボタンを一分押すだけ。
浅野が閲覧室で白洲と話す時間を見計らい、孝太はスイッチを押した。
収蔵庫の“青い空気”が、湿らせた紙片に吸われ、浅野の口元に。呼吸が乱れる。
そこに、最後の角度をつけたのは——沖だ、と私は思った。
彼は二十時半の配信を早めに切り、アーカイヴに来た。
閲覧室で本の背を整えるふりをして、浅野の足元に、机の脚の位置をわずかにずらす。
この閲覧室の机は、キャスターが自由に動くタイプだ。
浅野が倒れる方向に“受け”を作れば、机の角が胸を圧迫する。
——誰も、押していない。
でも、誰かが“押す前の道筋”を作った。
証拠は薄い。けれど、薄いものしか残らないのが、紙の世界だ。
御子柴は、慎重に三人の背を追い、通話記録と移動の軌跡と接触の角度を集めた。
ロビーの通話はスピーカーからの音。孝太はときどき口を閉じ、誰かの指示を聞いている。
沖の靴裏には、閲覧室のワックスにだけ含まれる微量の樹脂の粉が付着。
白洲のマグネットには、閲覧室の時計の背面にだけある微かな黒錆の粉。
三人は、最終的にそれぞれ違う言葉を選んだ。
孝太は「兄を驚かせたかっただけだ」と泣き、沖は「僕は面白い話が欲しかった」と笑って黙り、白洲は「守るための方便だった」と低く言った。
方便の先に、人が倒れることを、彼らはそれぞれの頭の中で“しかたがない”の枠に入れていた。
事件が片づいたあと、私は特別収蔵庫の扉の縁にもう一度そっと触れた。
艶は落ち、シリコンは元の沈黙を取り戻している。
湿度は45%に落ち着き、温度は二十度に戻った。
紙魚よけのトラップを新しいものに替え、オゾンのタイマーを深夜の一度に固定した。手動試験のボタンには、薄い蓋をつける。
閲覧室の換気スイッチは覆いを設け、館内時計は電池式から有線の時刻同期に改めた。
紙の呼吸は、外の人間の都合で速くなったり遅くなったりしてはいけない。
それは誰の“しかたがない”からも独立している。
御子柴からメッセージが来た。
「おまえの“湿度の耳”に助けられた」
私は返した。
「湿度は嘘をつかない。人がつけ足すだけ」
送信して、私は収蔵庫の奥に置いた古い地図の箱を、ひとつひとつ撫でるように見た。
地図の端の破れは、昔の誰かの手の熱で柔らかくなったところから始まり、別の誰かの涙で硬くなり、また別の誰かの息で少しだけ戻る。
紙は、人の“時間”を吸って生きている。
だからこそ、私たちは、その時間に触れる道具を慎重に扱わなければならない。
夜、外に出ると、春の冷気が胸の奥にすとんと落ちた。
空は薄く雲に覆われ、街灯の光が滲んでいる。
私は深く息を吸い、吐いた。
紙は今夜も呼吸している。
湿度の音は静かで、確かだ。
誰かが勝手に早めたり、遅らせたりしようとしても、紙はすぐには従わない。
そこに私の仕事がある。
紙の呼吸の側にいて、外の“しかたがない”から、ほんの少しだけ遠ざけてやる。
救急車の赤い反射だけが、通りの窓に細く揺れた。
私はそれを背に、アーカイヴの鍵をもう一度確かめた。
扉は閉まり、湿度は落ち着き、紙魚の夜は静かに続いていく。
紙の呼吸は、小さく、正しく、そして、人より長い。
その長さを、いつも忘れないようにしようと思った。
耳で聞こえないけれど、私にはわかる。ページのふちが微かにそり返る手触り、指先に残る粉の量、書庫の奥で眠る古紙が吸って吐く水分の呼吸——それらが日付の代わりに時間を教えてくれる。
私は市立アーカイヴの保存担当だ。正式な肩書は「資料保存技師」。温湿度の管理、脱酸性処理、虫害対策、光量の調整、閲覧室の空気の巡り——図書館が見せる“静けさ”を、目盛りと数字で裏から支える仕事である。
今夜も、閉館後の巡回を終えて端末に「当直」の印を押そうとしたとき、書庫管理システムの端に赤い点が灯った。
20:41 特別収蔵庫 相対湿度:67%(急上昇)
いつもは45%前後を保つ。あの部屋は貴重書を守るため、外気と切り離された小さな箱だ。湿度がこんなふうに跳ねるのは、扉の開閉か、誰かが水分を持ち込んだときだけ。
私は端末にリモートの換気コマンドを入れ、そのまま上着も着ずに特別収蔵庫へ向かった。
重い扉の前で、指先がわずかに躊躇う。カードキーをかざすと、緑のランプが点いた。中はいつもより冷たい。
空調のファンは正常に回っている。床に水滴はない。けれど、紙の匂いが深くなっていた。湿気が束になって、背表紙の谷間に沈んでいる。
金曜の夜。今夜は展示替えの準備で、古地図のケースが一つ開いているはず——私はケースに近づき、腰をかがめた。
紙魚(しみ)よけのトラップに、何もかかっていないことを確かめたとき、背中で微かに空気が揺れた。
——扉が一度、開いた?
振り返る。何もいない。ただ、扉の縁のシリコンが、私の記憶よりわずかにつややかだった。誰かが最近、強く押した跡。
それでも、湿度は端末の画面でゆっくりと下がり始めている。私は巡回の記録に「点検済」の一行を加え、扉を閉めた。
それが“はじまり”だった。
21時を少し回ったころ、アーカイヴの内線が鳴った。
夜間に残っているのは私と警備員だけのはずだ。受話器を取ると、息を切らせた若い声が飛び込んでくる。
「すみません、閲覧室に……人が倒れてます!」
私は走った。閲覧室の真ん中に敷かれた長机の影で、背広姿の男がうつ伏せになっている。肩に触れると冷たく、硬い。脈は取れない。
警備員が救急に電話し、私は男の顔を確認した。
浅野轍(あさの・てつ)。今度寄贈予定の古書コレクションの持ち主であり、地元では顔の利く骨董商の息子だ。閉館前に職員と話しているのを見かけた。
口元に、紙片が一枚張り付いている。栞の切れ端のようだ。私は思わず指で払おうとして、その紙に薄く青い汚れがついていることに気づいた。銅板画の裏面でよく見る、古い紙の背を補修したときに使うカッパーテープの青。
救急と警察が到着するまでの数分間に、私は自身の呼吸が浅くなるのを無理やり押さえ込み、室内を見回した。
閲覧机には、古地図の図録と、鉛筆の削りかすが小さく散っている。
窓の外は雨になるかならないかの境。
そして壁の時計は——21:18を指したまま、秒針が止まっていた。
警察が来て、規制線が張られる。
いつもの眠たげな声が、背後からした。
「おまえ、こういう夜ばっかりだな」
御子柴。中学の同級生で、今は所轄の刑事だ。
「今日は、私の番じゃないはずだった」
「特別収蔵庫の湿度、跳ねたって?」
「もう入ってるの?」
「警備のログをさっき見せてもらった。おまえの名前がそこにある。——で、死因は窒息だろう、というのが救急の見立て。口の中から紙片が少し。薬の反応は今のところなし。自然死ではなさそうだ」
私は閲覧室の時計を指さした。
「21時18分。止まってる。停電は?」
「ない。ほかの時計は動いてる。これだけだ」
「じゃあ、誰かが止めた」
御子柴は肩をすくめる。
「容疑者は三人。浅野と寄贈の手続きを進めていた当館の学芸員・白洲、浅野の弟の孝太、そして古書取引のフリーライター・沖。三人とも、二十一時前後にアーカイヴにいた。三人とも、“その時間は別の場所にいた”と主張」
「アリバイ?」
「白洲は階下の展示室で準備をしていた。監視カメラに映像。孝太はロビーで携帯ショップに電話、通話記録あり。沖は自宅から“ライブ配信でブックトーク”。コメントと録画が残ってる」
私は、閲覧室の空気を吸い込んだ。
古紙の匂いのはずなのに、鼻の奥でわずかに違和感がひっかかる。
——紙が“冷えている”。
暖房は切っていない。閲覧室の温度は二十二度のまま。けれど本の束に触れたときの、あの内部の温度が薄い。
誰かが、短時間に“冷たい空気”を入れた?
御子柴が小声で言った。
「特別収蔵庫の湿度が上がったのは二十時四十一分。閲覧室で浅野が倒れているのが見つかったのは二十一時十七分。時間のつながりはあるか?」
「わからない。けれど、収蔵庫の扉の縁に、新しい艶があった。強く押し込んだ跡。誰かが外気を持ち込んで中を冷やし、湿度が跳ねた可能性はある」
「動機は山ほど。寄贈に絡む利権、古書の真贋、兄弟の相続……ただし、三人とも当夜の“映像”や“通話”がある。おまえの湿度の鼻だけが、頼りだ」
私は保存室の端末に戻り、環境ログを時系列で開いた。
特別収蔵庫は二十時四十一分に湿度が跳ね、その後五分ほどでゆっくり戻っている。温度は二十度から十八度へと一度だけストンと落ち、すぐに戻った。
——冷たい空気を短時間入れた。
収蔵庫の空調にある「酸素濃度抑制」システムは、火災時に酸素濃度をわずかに下げる仕組みだ。非常時以外は動かない。ログにも作動はない。
でも、収蔵庫の天井にはもう一つ、小さな機械が取り付けられている。
——オゾン殺菌機。
紙魚対策で、閉館後にごく短時間、低濃度のオゾンを流す。
今夜のタイマーは二十四時のはず。ログを見る。
20:43 〈手動試験〉——1分
誰かが押した、という意味だ。
私は爪の先で机を叩いた。
低濃度とはいえ、オゾンは紙の表面に“青”を残すことがある。銅を少しだけ変色させる。浅野の口の紙片にあった青は、銅の補修テープだけでは説明がつかない強さだった。
閲覧室にオゾンが漂っていたとしたら? いや、そこにオゾンは流れない。配管は独立している。
ただ、収蔵庫の空気を、短時間、閲覧室に引けば——。
閲覧室の換気扇のログを見た。
21:16——〈逆転〉
逆転?
本来、閲覧室の換気は外へ出す。逆転は、外から中へ引く設定。滅多に使わない。
誰かが、ここでも「手動試験」をかけた。
私は閲覧室に戻り、スポットの根元に手を伸ばした。照明の台座には、蛍光ペンで薄く書かれた矢印がある。「←逆」。
白洲が書いたのか? 展示準備で時々、空気の流れを変えることはある。でも、今夜、その操作をする理由はない。
御子柴が言った。
「白洲は、二十時半から二十一時まで展示室で作業。映像がある。ただ、死体発見の直前五分は映っていない。カメラの前を台車が横切って隠れた」
「孝太は?」
「二十一時ちょうどから二十分、ロビーで携帯会社に電話。通話は長い。だが、ロビー椅子の監視カメラの死角に座ってる。口元は見えない。——誰かにスピーカーで話させることだってできる」
「沖の配信は」
「二十時半開始、二十分で終了。『腰が痛いからまた』で切った。二十一時台は沈黙」
私は三人の顔を思い出し、指先に残る紙の粉の粒を舌で数えた。
誰が、紙の“呼吸”を動かす?
浅野の弟、孝太は、兄ほど古書に興味がないように見えた。
「兄が勝手に寄贈を決めて、こっちは何も聞いてない。父が集めた本だ。全部差し出す必要はないだろう」
彼はそう言い、手を膝の上で握りこんだ。
「電話は本当に自分で?」と御子柴が聞くと、「ええ」と頷き、通話履歴のスクリーンショットを見せた。
私はその端末の画面の隅を見た。保護フィルムの端が、わずかに浮いている。濡れた手で触った痕が乾いて波打っていた。
「二十一時台に、どこかで手を洗いました?」
「トイレに行ったが」
「石鹸の匂いではない。紙を濡らした後の匂いだ」
孝太は眉を潜めた。
「は?」
私はそれ以上は言わなかった。嗅覚だけでは証拠にならない。
白洲は、いつもの穏やかな声で、「展示室でパネルの裏打ちを」と言った。
「閲覧室の換気を逆転にした人は?」
「知りません」
「台座に矢印が書いてある」
「あれは、去年の企画展で私が書いたものです。でも今夜は触っていません」
白洲の指の腹は、湿っていない。糊も粉も匂わない。
けれど、彼の上着のポケットに、意外なものがあった。わずかに黒光りする、薄い金属片。
「これは」
「展示ケースの鍵に付けるマグネットです。鍵の頭を引き出すときに使う。——いつも持ち歩いていて」
私は頷いた。
ネオジム磁石。強い。扉の縁のセンサーに近づければ、閉の信号を錯覚させることがある。
白洲は私の目をまっすぐ見返した。
「あなたは私を疑うでしょう。でも、私は寄贈を心から望んでいます。浅野さんの父上のコレクションを、この市で守りたい」
「だからこそ、真贋で揉めている本を“なかったこと”にしたいのでは」
白洲の瞳が初めて揺れた。
「……真贋は、私の手から離れています」
沖は、薄い笑みを絶やさなかった。
「僕は書く人間です。現場に行っても手は汚さない。配信は観ました? 腹筋が悲鳴を上げてね、腰が……」
「配信の画面の後ろ、本棚の列に一本だけ“逆さ”がありました」
「……観察がいい」
「逆さに挿す癖がある人は、図書の向きを入れ替えるときにも、その癖が出る。閲覧室の短架の三段目、今夜は中段だけ、背の向きが揃いすぎている。——誰かがそこを、目隠しに使った」
沖は小さく肩を竦めた。
「推理ごっこは好きですが、僕は紙では殺しませんよ」
「紙では、ね」
私は保存室に戻り、工具箱から単純なものを取り出した。温湿度計の校正用に使う小さな「飽和食塩水袋」。チャック付きのパウチ。袋の中に温湿度計を入れて放っておくと、一定の湿度(75%)に落ち着く。
その袋は、二十時半に棚から一つ消えていた。
調達表を調べる。最後に触ったのは私だ。午前中、別の部屋の校正で使った。
戻した覚えはある。しかし、数えると一袋足りない。
——誰かが持ち出した。
「それ、何に使う?」御子柴が覗く。
「小さな箱の中の湿度を一気に上げる。たとえば、紙片を柔らかくするのに」
「柔らかくして、何をする」
「吸わせる。匂いを。たとえば、収蔵庫で“青”が出る空気の」
私は自分の言葉にぞっとした。
やり方の詳細を口にすべきではない。
けれど、浅野の口元の紙片は、オゾンの青を吸っていた。
閲覧室の中で、それを吸わせるには“そばに”オゾンを持ち込む必要がある。
そんなことができるのは、収蔵庫と閲覧室の“空気の橋”を知っている人間だけ。
——換気の逆転。
閲覧室の換気扇は二十一時十六分に逆転した。
その直前、収蔵庫でオゾン試験が手動で一分回った。
つまり、収蔵庫の空気が、閲覧室に吸われた。
そのとき、閲覧室にいた誰かが、湿らせた紙片を口元に当てれば、青はそこに残る。
そして、浅野は呼吸を乱し、机に倒れ込む——。
私は背中に冷たいものを感じ、椅子の背もたれを握りしめた。
そんな“連結”を思いつき、なおかつ操作できる人間。
白洲しかいない。
けれど、白洲の指は糊を踏んでいない。彼は誰かに“やらせた”。
孝太か、沖か。
孝太の手の保護フィルムの波打ちは、濡れた紙を持った痕に見える。
沖は、配信を早めに切って空白を作った。
どちらも、閲覧室に来られる隙間はある。
私はもう一度、閲覧室の机に戻った。
鉛筆の削りかすが、不自然に“丸い”。普通、削りかすは薄い木の帯として散る。ここにあるのは小さな粒。
——パキン。
鉛筆の芯だけを、折って散らした粒だ。
誰かが“何かの音”をごまかすために、粒をつまみ、机に落としたのかもしれない。
たとえば、紙を口に押し当てるときの、浅い吸気音。
ごまかしとしては拙い。けれど咄嗟なら、そうする。
鉛筆は誰のもの? 机の端に黒い短い鉛筆。白洲がよく使う濃いBの短い鉛筆だ。
——白洲が現場にいた。
御子柴は、白洲を事情聴取室に呼んだ。
私は彼の前に、オゾン試験のログと換気逆転のログ、特別収蔵庫の湿度グラフを並べた。
「二十時四十三分。収蔵庫で一分だけオゾンを流したのは、あなたです」
白洲は一拍おいて、うなずいた。
「テストです。本番は夜中に回りますが、フィルタを交換したので」
「二十一時十六分、閲覧室の換気を逆転にしたのも、あなたですね」
「していません」
「台座に矢印を書いたのはあなた。操作は簡単だ。スイッチを二秒押し続けるだけ」
白洲は唇を結んだ。
私は、最後の一枚を机に置いた。
閲覧室の時計の写真。止まったままの21:18。
「この時計、止まった理由は簡単です。背面の電池ボックスの蓋がずれ、ボタン電池が落ちかけていた。——マグネットに反応するタイプです。ネオジム磁石を近づけると、一瞬、接点が浮く。秒針は止まる」
白洲の目が細くなった。
「マグネットは、展示ケースの鍵に付けるものです。仕事で使います。——だから?」
「だから、あなたは“時刻を止めること”にためらいがない。閲覧室の“空気の流れ”と“時間”を、自分の手の内で合わせられる人だ」
白洲は目を伏せ、そしてゆっくりと上げた。
「浅野さんは、寄贈の一部を撤回すると言いました。真贋の疑いがあるものについて“調査が済むまで外す”。それは、しかたがないことです。——でも、私のなかの“しかたがない”と、彼の“しかたがない”は違っていました」
御子柴が低く問う。
「やったのは、おまえか」
「違います」
白洲は、はっきりと否定した。
「換気の逆転も、閲覧室の操作も、私はしていません。——お願いしたのです。『この時間、スイッチを押してほしい』と」
「誰に」
「孝太さんに」
全てが、一本の糸で結ばれた。
孝太は兄に反発していた。白洲は寄贈を守りたい。
「ちょっとした悪戯」を装って、兄を驚かせようと誘えば、孝太は乗る。
閲覧室の換気スイッチを二秒押すだけ、収蔵庫のオゾン試験のボタンを一分押すだけ。
浅野が閲覧室で白洲と話す時間を見計らい、孝太はスイッチを押した。
収蔵庫の“青い空気”が、湿らせた紙片に吸われ、浅野の口元に。呼吸が乱れる。
そこに、最後の角度をつけたのは——沖だ、と私は思った。
彼は二十時半の配信を早めに切り、アーカイヴに来た。
閲覧室で本の背を整えるふりをして、浅野の足元に、机の脚の位置をわずかにずらす。
この閲覧室の机は、キャスターが自由に動くタイプだ。
浅野が倒れる方向に“受け”を作れば、机の角が胸を圧迫する。
——誰も、押していない。
でも、誰かが“押す前の道筋”を作った。
証拠は薄い。けれど、薄いものしか残らないのが、紙の世界だ。
御子柴は、慎重に三人の背を追い、通話記録と移動の軌跡と接触の角度を集めた。
ロビーの通話はスピーカーからの音。孝太はときどき口を閉じ、誰かの指示を聞いている。
沖の靴裏には、閲覧室のワックスにだけ含まれる微量の樹脂の粉が付着。
白洲のマグネットには、閲覧室の時計の背面にだけある微かな黒錆の粉。
三人は、最終的にそれぞれ違う言葉を選んだ。
孝太は「兄を驚かせたかっただけだ」と泣き、沖は「僕は面白い話が欲しかった」と笑って黙り、白洲は「守るための方便だった」と低く言った。
方便の先に、人が倒れることを、彼らはそれぞれの頭の中で“しかたがない”の枠に入れていた。
事件が片づいたあと、私は特別収蔵庫の扉の縁にもう一度そっと触れた。
艶は落ち、シリコンは元の沈黙を取り戻している。
湿度は45%に落ち着き、温度は二十度に戻った。
紙魚よけのトラップを新しいものに替え、オゾンのタイマーを深夜の一度に固定した。手動試験のボタンには、薄い蓋をつける。
閲覧室の換気スイッチは覆いを設け、館内時計は電池式から有線の時刻同期に改めた。
紙の呼吸は、外の人間の都合で速くなったり遅くなったりしてはいけない。
それは誰の“しかたがない”からも独立している。
御子柴からメッセージが来た。
「おまえの“湿度の耳”に助けられた」
私は返した。
「湿度は嘘をつかない。人がつけ足すだけ」
送信して、私は収蔵庫の奥に置いた古い地図の箱を、ひとつひとつ撫でるように見た。
地図の端の破れは、昔の誰かの手の熱で柔らかくなったところから始まり、別の誰かの涙で硬くなり、また別の誰かの息で少しだけ戻る。
紙は、人の“時間”を吸って生きている。
だからこそ、私たちは、その時間に触れる道具を慎重に扱わなければならない。
夜、外に出ると、春の冷気が胸の奥にすとんと落ちた。
空は薄く雲に覆われ、街灯の光が滲んでいる。
私は深く息を吸い、吐いた。
紙は今夜も呼吸している。
湿度の音は静かで、確かだ。
誰かが勝手に早めたり、遅らせたりしようとしても、紙はすぐには従わない。
そこに私の仕事がある。
紙の呼吸の側にいて、外の“しかたがない”から、ほんの少しだけ遠ざけてやる。
救急車の赤い反射だけが、通りの窓に細く揺れた。
私はそれを背に、アーカイヴの鍵をもう一度確かめた。
扉は閉まり、湿度は落ち着き、紙魚の夜は静かに続いていく。
紙の呼吸は、小さく、正しく、そして、人より長い。
その長さを、いつも忘れないようにしようと思った。



