湯気の音は、耳では聞こえない。
けれど、私はそれを毎晩“読む”。
区内の公衆浴場向けに導入された遠隔監視システムは、ボイラーの燃焼回数、貯湯槽の温度、薬注ポンプの稼働、サウナ室の乾湿度――浴場を支える目に見えない“呼吸”を分に刻んで記録している。
私の仕事は、その呼吸に乱れが出たとき、誰より早く気づいて手当てすることだった。
「銀狐湯(ぎんぎつねゆ)」は、そうした担当先の一つだ。昭和の香りを残しながら、若い店主の工夫で夜はサウナ目当ての客が絶えない。
壁にかかったサウナの丸い十二分計。砂時計は三分。ロウリュは毎時ちょうどと三十分――――昨冬からは近隣との取り決めで二十一時半が最終回になった。私が提案した静音運用で、終了後は警告チャイムを鳴らさない。
四月の雨上がりの夜、その“静音”の時刻に、機械が嘘をついた。
22:11、銀狐湯の監視画面に赤が灯った。
〈サウナ室到着ブザー作動〉。
最終ロウリュ終了後、鳴るはずのない音。
ほぼ同時に、別の通信回線から、短い通報が私の端末に跳ねた。
> 「水風呂で、ひとが……」
私は椅子を蹴って立ち、上司に一言だけ「現地、行きます」と残して玄関を飛び出した。
銀狐湯に着いたとき、入り口の暖簾は上げられ、消灯の準備が始まっていた。
裏口から入ると、脱衣所のベンチに警察の規制テープが仮留めされ、若い警官がメモを取っている。
顔を上げた刑事が、片手を振った。眠たげな声。御子柴だ。
「またおまえか。夜に弱い街の心臓、担当」
「……御子柴。死者は」
「店主の藤原暁(ふじわら・さとる)、三十六。閉店作業中に意識を失い、水風呂で溺死。二十分前だ」
私は靴を脱ぎ、足を拭いてから浴室に入った。
湯気が薄い。洗い場のシャワーは止められ、水風呂の表面は照明を一様に反射している。その縁に、使用済みの白いタオル。緊急時に引き上げるために掴んだのだろう。
サウナ室の扉は半開き。中の照明はすでに落ち、十二分計だけが壁の上方で白く浮かんでいる。針は“九”と“十二”の間にあった。
私の耳は、浴場の“呼吸”を探す。
ボイラーの燃焼音は既に停止。
薬注ポンプの微かなモーター音もない。
サウナ室の熱気は、停止から時間がたった乾いた温もりに変わりつつあった。
――にもかかわらず、監視画面には「サウナ到着ブザー作動」。
「警告チャイムは鳴ってないのに、ログは“鳴った”と」と私が言うと、御子柴が眉を上げた。
「おいおい、デジャヴだな。おまえの“鳴らないはずの音”シリーズ」
「機械は、鳴っていないものを鳴ったことにしない。人が、そうさせない限りは」
御子柴は、簡単に事情の輪郭を描いた。
「容疑者になりうる人間は三人。アルバイトの菊池、二十。閉店作業で一緒にいたと主張。隣町の薬剤業者・早瀬、四十。薬剤納入の契約で揉めていた。常連の建築士・上田、四十五。改装工事の提案が通らず口論になったと別の客が証言。三人とも、二十二時には“別の場所にいた”と言う」
「映像?」
「菊池はフロントの監視カメラが勤務の様子を映してる。早瀬は同業者と喫茶店で打ち合わせ、レシートあり。上田はこの時間、設計仲間と“サウナ談義のスペース(音声SNS)”でしゃべってて、ログもある」
私は頷き、フロントとの間にある小窓に目をやった。
呼び出しベルの白いボタン。先端が濡れていない。
清掃用のモップは、きれいに洗って絞られ、壁に立て掛けられている。
整いすぎている、と思った。
設備室に入り、監視盤のカバーを外す。
「依頼票があれば助かるんだがな」と御子柴が冗談めかして言うのに、私は「今、作る」と笑い返した。
サウナ制御の端末は、ロウリュのバルブの開度、送風、チャイム、室内灯の群をそれぞれ別の信号で管理している。
最終ロウリュ後、チャイム信号は遮断される設定だ。
ログを遡る。
21:29:最終ロウリュ完了(蒸気三十秒)
21:31:室内灯・微減光
21:55:送風オフ
22:11:〈到着ブザー作動〉――※チャイム回路遮断中
22:12:〈到着ブザー作動〉
22:14:〈到着ブザー作動〉
人の手でない限り、説明できない“嘘”。
もう一度、耳の記憶に触れる。
銀狐湯のブザーは、薄い金属質の二連音だ。チャイム機構ではなく、天井のスピーカーからサイン波を鳴らしている。
“鳴らしたふり”をログに記録するには、制御端末に“試験”信号を送る必要がある。試験モードは、清掃のときにスタッフが使う。
――ただし、夜間はパスワードがいる。
そのパスワードは、変更したばかりだ。菊池が知っているのは当然として、店主の藤原と私以外、誰も知らない。
外部からの遠隔操作は閉域だ。
ならば、現場に居た者の指が、触れた。
私はサウナ室に戻り、扉の内側の木板に指先を滑らせた。
控えめに塗られた木製ワックス。普段の手入れの癖が残る。
扉の縁、金属の見切りの部分に、汗とワックスが混じってできる微かな“縞”が、いつもより一段深い。
何度も開閉されたのだ。
閉店作業の時間を過ぎて。
十二分計を見上げる。
分針は、九から十二の間。
この丸時計は、実際はサウナ室の温度に合わせて速度が微妙に変わる。熱いほど、粘性の低い油が針を来やすく動かす。高温の時は十二分が十一分台になることがある。冷めてくると、逆に遅い。
今の指し示す位置は、誰かが“ここで止めた”としか思えない。停止ボタンは背面。普通、客は触らない。
――時刻の偽装。
私はサウナ室の天井角にある小さなスピーカー口の埃を見た。
そこに、濡れた指で触れた跡があった。円形の縁に、うっすら光る跡。
人は、見えないものを確かめるとき、つい触る。鳴っていないスピーカーを、触って確かめたのは誰だ。
聴取室の隅、冷えた紙コップの水を手に、三人は順に話した。
アルバイトの菊池は、涙を抑えつつ「レジ締めと清掃をしていた」と繰り返し、フロントのカメラには確かに彼女が動き回る姿が映っている。
薬剤業者の早瀬は、喫茶店のレシートとともに、チェーン店のアプリの来店履歴を示した。
建築士の上田は、音声SNSのログを提示し、二十一時半ごろから四十五分間、「サウナ室内の温度設計」について熱く語っている。彼の声は本物に聞こえた。
御子柴が淡々と問い、私は淡々と周辺の数字を拾った。
「菊池さん。フロントの時計、二十二時ちょうどに止まりましたね」
「え……?」
「映像の中で、一瞬だけ“--:--”になって、すぐに“22:00”に戻る。停電短時間。サウナ制御室の“試験モード”を起動すると、一瞬だけフロント系の補助電源が落ちる癖がある。あなた、試験した?」
「してません! ここは私の職場で――」
「では、誰が?」
菊池は唇を噛んだ。
「……店長かもしれません。最終ロウリュの後、私に『先にフロント閉めといて』って。サウナは店長が好きでしたから」
涙がまた溢れた。
早瀬は、視線を私に流し、「薬剤のことは関係ない」とだけ言った。
私は深入りしなかった。薬品の配合や取り扱いは、安易に言葉にして良いものではない。
「レシートの時刻、21:58。閉店まではいなかった」
「はい。倉庫に寄ってから帰りました」
上田は、SNSのスペースの録音を再生してみせた。
軽妙な語り。
「湿式か乾式か。体感温度は風量で変わる。十二分計の“遅れ”で常連は時間を読むんだ」
私は、そこで耳を止めた。
――十二分計の遅れ。
この店の常連は、それを知っている。
今夜、針は“九と十二の間”。
その指し示す“遅れ”の意味を、知っていた人間がいる。
浴場に戻り、私は時計を見上げた。
壁の上部にある丸い十二分計の枠の下、ビスの頭に、うっすら新しい工具傷。
普通、掃除では触らない位置だ。
背面の停止ボタンが短時間押されると、針は現在の位置で止まる。停止から再スタートの際、内部の油がわずかに“逆流”する。針の戻り方に癖が出る。
今の針には、その癖が出ていた。
――誰かが、停止させ、位置を調整した。
私は、サウナ室の床に膝をつき、木床目地の間に指を這わせた。
ロウリュのバケツが置かれる付近の床板にだけ、微細な水染みがない。拭き取られている。
それは、閉店作業の一環にも見えるけれど、整いすぎている。
バケツの内側の水位線は二本。
通常、最後のロウリュの後は、ほとんど空になる。だが、今夜は半分ほど残っていた痕。――誰かが途中で止め、音だけを“鳴らした”可能性。
設備室に戻り、ログをさらに深く読む。
21:29のロウリュ動作のうち、〈ソレノイド弁開〉が「0.8秒 × 2回」。
本来は「1.5秒 × 1回」。
――短く二度。
それなら、音だけは“鳴ったように”聞こえる。室内に蒸気も熱もほとんど回らない。
つまり、店内にいた誰かに「ロウリュが行われた」と思わせることはできる。
ただし、今夜、二十一時半以降はチャイムは鳴らない設定だ。
鳴ったのは、二十二時十一分以降の“試験”のログだけ。
「チャイムが鳴った」と証言した人がいるなら、嘘か、別の音を勘違いしたか――あるいは、配信の“効果音”だ。
その時、御子柴からメッセージが入った。
> 「上田のスペース、もう一回聞け。二十一時三十五分に“ピン”って音が混ざる」
私は録音を巻き戻し、耳を澄ませた。
男たちの笑い声の合間、たしかに小さな金属音。
サウナ室の到着ブザーではない。
温石の上に水滴が落ちたときに立つ、短い高音。
――ロウリュの“実音”だ。
最終ロウリュは二十一時半。
その五分後に“ピン”。
音は、実際に誰かがその場で聞いたもの。
スペースの上田のマイクは、サウナ室の木壁に吸われた音を苦労して拾っている。反響の質が浴場のそれだ。
上田は“この店のサウナ室”で話していた。にもかかわらず、「二十二時には別の場所にいた」と主張する。
――録音は、生ではない。
スペースは“録音の再生”も配信できる。
時間が“今”のふりをして、先に録った音を流す。
上田の声は本物でも、時間は偽物だ。
私は御子柴に言った。
「上田はアリバイを音で作ろうとした。スペースで『今、話している』ように見せた。でも、混ざった“ピン”が裏切っている。これは二十一時三十五分、最終ロウリュの残り香から落ちた一滴の音。二十二時の音じゃない」
御子柴がうなずく気配。
「菊池は?」
「フロントのカメラ映像。カウンター越しの鏡に、サウナの扉が反射してる。二十一時五十五分に、扉が一度だけゆっくり開閉するのが映る。カウンター側に誰もいない瞬間だ。――彼女が戻る前に、誰かが出入りした」
「早瀬は」
「喫茶店のレシートは本物。でも、彼の倉庫のカードキー記録、二十二時二分に開錠。銀狐湯まで車で七分。計算は合う。けれど、倉庫の監視カメラの音声に“換気扇の音”が入っていて、型が違う。――録画に別の音を乗せた」
私は、三人のアリバイがそれぞれ“映像”や“音”で作られているのを見ながら、逆に一番“無音”を欲しがったのが誰かを思った。
店を閉める責任を背負う者は、事故を何より避ける。
その責任の重たさを知っているのは、店主と、カウンターに立つアルバイトだ。
菊池の目は、フロントの行灯の淡い光を受けて、何度も濡れていた。
菊池は、最初の否定の後、視線を床に落とし、ぽつりぽつりと話した。
「店長は、今日、早瀬さんと激しく言い合って……。薬剤の値上げのこと。『安全を削るな』って」
「あなたは?」
「間に入ったけど、何もできなくて。常連さんの上田さんも、その前に設計の話で店長と……『壊すくらいなら触るな』って店長が言ったのを覚えてます」
私は問いを変えた。
「二十一時半の最終ロウリュ。あなたはいましたか」
「……いいえ。フロントの締めで、レジを空けてました」
「誰がロウリュを?」
「店長が、『音だけでいい』って。静音運用になってからは、最後は蒸気を少なめにすることが多かったから……」
「“音だけ”にした手順を知っているのは」
「店長と、私だけです」
「チャイムは鳴っていません」
菊池は顔を上げた。
「鳴ってない、です」
「でも、ログには“鳴った”とある。夜間はパスワードが要る。あなたが入れた」
菊池の肩が、目に見えないほど小さく沈んだ。
「……はい」
「何のために」
「時刻を、ずらしたくて」
彼女の目尻に、また水が溜まった。
「店長を、助けられると思ったんです。水風呂で倒れたのは二十一時四十分過ぎ。私が戻ったら、もう……。でも、閉店の二十二時に事故が起きたことにできれば、救急が来るまでの間の私の判断のミスを、少しでも……」
「“遅らせる”ために、二十二時十一分から“ブザー作動”のログを残した、と」
「すみません。嘘です。店長のためじゃなくて、自分のためです」
私は深く息を吸い、吐いた。
彼女は、アリバイ作りの片棒を担いだ。
けれど、死の原因そのものに手を下したのは別だ。
「あなたは、店長を水風呂に押し込んでいない。そんな力は出せない。手を貸したのは、“時刻”だけだ」
菊池は、顔を両手で覆って頷いた。
最後に残ったのは、“押した者”。
御子柴は上田を見た。
「スペースの録音は事前収録。混じった“ピン”が証拠だ。おまえは二十一時台にサウナにいた」
上田は鼻で笑った。
「客としていることの何が悪い。店主が倒れたとき、私はもう帰っていた」
私は、彼にサウナ室の十二分計の写真を見せた。
「針の位置。九と十二の間。あなたは常連だ。最後に自分の“整い”の時間に合わせて、針を止めた。『今ここで出た』ふりをするために。あなたは時計の裏の停止ボタンの存在を知っていた。壁のビスに新しい傷がある」
上田の目が一瞬泳いだ。
御子柴が詰める。
「店主と言い合いになり、手すりに手をかけた店主の背中に肩を当てて――」
私は制した。
「言わなくていい。再現はしない」
押す方法の細部は、口にすべきではない。
ただ、私の耳は覚えている。
環境音モニタの波形の中に、一度だけ紛れた“キュッ”。
床が短く鳴いた。
あれは、体重が不意に移動した音。
押された者の足が、ほんの一歩、遅れて床を探した音。
上田は、数秒、沈黙し、それから唇の端をわずかに上げた。
「……事故だよ。あの床は滑る。だから、僕は前から改装を提案してた。段差をなくし、縁の高さを上げるべきだって。店主は聞かなかった。『俺はこのままが好きだ』って。好きが人を殺す。僕は、正しいことを言ってた」
「“正しい”が、時刻をずらす必要はない」と御子柴。
「ずらしてない」
私は、静かに告げた。
「あなたの“ずらし”は、音に出た。スペースの録音に混ざった“ピン”。そして、あなたの靴の“キュッ”。逃げるときの足音。あなたは音を侮った」
上田は立ち上がりかけ、椅子が床を鳴らした。
御子柴の手が、彼の肩に置かれた。
事件は、想像より複雑で、想像より単純だった。
“押した”のは上田。
“時刻を遅らせた”のは菊池。
“外から揺さぶった”早瀬は、今回は直接の手は出していなかった。けれど、彼の“値上げ”が店主の神経を荒らしたことは否定できない。
人は時に、自分の正しさを信じるあまり、他人の時間を勝手に動かそうとする。
サウナ室の丸い十二分計は、そんな人間の“秒針”ではない。
あの針は、熱と油と重力で動く。
誰かの都合で、勝手に進んだり、止まったりはしない。
私は銀狐湯の設備盤に、新しい提案を付け加えた。
〈静音時間帯の“チャイム作動ログ”を、逆にアラート〉。
鳴らないべき時に“鳴った”ことにされたら、それは嘘の合図だ。
それを知らせる仕組みを、静かに置く。
菊池は配置転換になり、別の店で働くことになった。上田は起訴された。早瀬は契約見直し。
藤原の葬儀の日、私は香典袋に細い字で「湯気の音を守る」と書いた。誰にも見せなかったけれど。
夜、帰り道。
春の風が冷えた頬に触れる。
私は、無人の浴場の音を想像する。
ボイラーの火は落ち、貯湯槽の熱は低い唸りで眠りにつく。
サウナ室の柱は、ゆっくりと乾いて木の匂いを返す。
水風呂は鏡のように静まり、照明の反射だけを揺らす。
――どれも“正しい無音”だ。
御子柴からメッセージが来た。
> 「おまえの“秒針の耳”に助けられた」
私は返した。
> 「鳴るべき音を知っていれば、鳴らないべき音もわかる」
> 「次はどこで飯」
> 「いっそ、銭湯の休憩所で。冷たい牛乳で乾杯」
送信してスマホをポケットにしまい、私は足を止めた。
遠くの路地の先で、どこかのアパートの換気扇が、決まったリズムで空気を吐き出している。
正しい無音の縁には、必ず小さな音がいる。
その音が無くなったとき、きっとまた私は駆け出すのだろう。
湯気のない夜でも、誰かの“呼吸”を守るために。
銀狐湯の丸い十二分計の針は、今も、きっと静かに回っている。
誰のものでもない時間を、誰の手にも渡さずに。
その針の上に、私たちはそっと手をかざすだけでいい。
時間が正しく流れているか、確かめるために。
そして、誰かが勝手に止めたり進めたりしたら、私はまた、音のない音を聞きにいく。
そのために、ここにいる。
けれど、私はそれを毎晩“読む”。
区内の公衆浴場向けに導入された遠隔監視システムは、ボイラーの燃焼回数、貯湯槽の温度、薬注ポンプの稼働、サウナ室の乾湿度――浴場を支える目に見えない“呼吸”を分に刻んで記録している。
私の仕事は、その呼吸に乱れが出たとき、誰より早く気づいて手当てすることだった。
「銀狐湯(ぎんぎつねゆ)」は、そうした担当先の一つだ。昭和の香りを残しながら、若い店主の工夫で夜はサウナ目当ての客が絶えない。
壁にかかったサウナの丸い十二分計。砂時計は三分。ロウリュは毎時ちょうどと三十分――――昨冬からは近隣との取り決めで二十一時半が最終回になった。私が提案した静音運用で、終了後は警告チャイムを鳴らさない。
四月の雨上がりの夜、その“静音”の時刻に、機械が嘘をついた。
22:11、銀狐湯の監視画面に赤が灯った。
〈サウナ室到着ブザー作動〉。
最終ロウリュ終了後、鳴るはずのない音。
ほぼ同時に、別の通信回線から、短い通報が私の端末に跳ねた。
> 「水風呂で、ひとが……」
私は椅子を蹴って立ち、上司に一言だけ「現地、行きます」と残して玄関を飛び出した。
銀狐湯に着いたとき、入り口の暖簾は上げられ、消灯の準備が始まっていた。
裏口から入ると、脱衣所のベンチに警察の規制テープが仮留めされ、若い警官がメモを取っている。
顔を上げた刑事が、片手を振った。眠たげな声。御子柴だ。
「またおまえか。夜に弱い街の心臓、担当」
「……御子柴。死者は」
「店主の藤原暁(ふじわら・さとる)、三十六。閉店作業中に意識を失い、水風呂で溺死。二十分前だ」
私は靴を脱ぎ、足を拭いてから浴室に入った。
湯気が薄い。洗い場のシャワーは止められ、水風呂の表面は照明を一様に反射している。その縁に、使用済みの白いタオル。緊急時に引き上げるために掴んだのだろう。
サウナ室の扉は半開き。中の照明はすでに落ち、十二分計だけが壁の上方で白く浮かんでいる。針は“九”と“十二”の間にあった。
私の耳は、浴場の“呼吸”を探す。
ボイラーの燃焼音は既に停止。
薬注ポンプの微かなモーター音もない。
サウナ室の熱気は、停止から時間がたった乾いた温もりに変わりつつあった。
――にもかかわらず、監視画面には「サウナ到着ブザー作動」。
「警告チャイムは鳴ってないのに、ログは“鳴った”と」と私が言うと、御子柴が眉を上げた。
「おいおい、デジャヴだな。おまえの“鳴らないはずの音”シリーズ」
「機械は、鳴っていないものを鳴ったことにしない。人が、そうさせない限りは」
御子柴は、簡単に事情の輪郭を描いた。
「容疑者になりうる人間は三人。アルバイトの菊池、二十。閉店作業で一緒にいたと主張。隣町の薬剤業者・早瀬、四十。薬剤納入の契約で揉めていた。常連の建築士・上田、四十五。改装工事の提案が通らず口論になったと別の客が証言。三人とも、二十二時には“別の場所にいた”と言う」
「映像?」
「菊池はフロントの監視カメラが勤務の様子を映してる。早瀬は同業者と喫茶店で打ち合わせ、レシートあり。上田はこの時間、設計仲間と“サウナ談義のスペース(音声SNS)”でしゃべってて、ログもある」
私は頷き、フロントとの間にある小窓に目をやった。
呼び出しベルの白いボタン。先端が濡れていない。
清掃用のモップは、きれいに洗って絞られ、壁に立て掛けられている。
整いすぎている、と思った。
設備室に入り、監視盤のカバーを外す。
「依頼票があれば助かるんだがな」と御子柴が冗談めかして言うのに、私は「今、作る」と笑い返した。
サウナ制御の端末は、ロウリュのバルブの開度、送風、チャイム、室内灯の群をそれぞれ別の信号で管理している。
最終ロウリュ後、チャイム信号は遮断される設定だ。
ログを遡る。
21:29:最終ロウリュ完了(蒸気三十秒)
21:31:室内灯・微減光
21:55:送風オフ
22:11:〈到着ブザー作動〉――※チャイム回路遮断中
22:12:〈到着ブザー作動〉
22:14:〈到着ブザー作動〉
人の手でない限り、説明できない“嘘”。
もう一度、耳の記憶に触れる。
銀狐湯のブザーは、薄い金属質の二連音だ。チャイム機構ではなく、天井のスピーカーからサイン波を鳴らしている。
“鳴らしたふり”をログに記録するには、制御端末に“試験”信号を送る必要がある。試験モードは、清掃のときにスタッフが使う。
――ただし、夜間はパスワードがいる。
そのパスワードは、変更したばかりだ。菊池が知っているのは当然として、店主の藤原と私以外、誰も知らない。
外部からの遠隔操作は閉域だ。
ならば、現場に居た者の指が、触れた。
私はサウナ室に戻り、扉の内側の木板に指先を滑らせた。
控えめに塗られた木製ワックス。普段の手入れの癖が残る。
扉の縁、金属の見切りの部分に、汗とワックスが混じってできる微かな“縞”が、いつもより一段深い。
何度も開閉されたのだ。
閉店作業の時間を過ぎて。
十二分計を見上げる。
分針は、九から十二の間。
この丸時計は、実際はサウナ室の温度に合わせて速度が微妙に変わる。熱いほど、粘性の低い油が針を来やすく動かす。高温の時は十二分が十一分台になることがある。冷めてくると、逆に遅い。
今の指し示す位置は、誰かが“ここで止めた”としか思えない。停止ボタンは背面。普通、客は触らない。
――時刻の偽装。
私はサウナ室の天井角にある小さなスピーカー口の埃を見た。
そこに、濡れた指で触れた跡があった。円形の縁に、うっすら光る跡。
人は、見えないものを確かめるとき、つい触る。鳴っていないスピーカーを、触って確かめたのは誰だ。
聴取室の隅、冷えた紙コップの水を手に、三人は順に話した。
アルバイトの菊池は、涙を抑えつつ「レジ締めと清掃をしていた」と繰り返し、フロントのカメラには確かに彼女が動き回る姿が映っている。
薬剤業者の早瀬は、喫茶店のレシートとともに、チェーン店のアプリの来店履歴を示した。
建築士の上田は、音声SNSのログを提示し、二十一時半ごろから四十五分間、「サウナ室内の温度設計」について熱く語っている。彼の声は本物に聞こえた。
御子柴が淡々と問い、私は淡々と周辺の数字を拾った。
「菊池さん。フロントの時計、二十二時ちょうどに止まりましたね」
「え……?」
「映像の中で、一瞬だけ“--:--”になって、すぐに“22:00”に戻る。停電短時間。サウナ制御室の“試験モード”を起動すると、一瞬だけフロント系の補助電源が落ちる癖がある。あなた、試験した?」
「してません! ここは私の職場で――」
「では、誰が?」
菊池は唇を噛んだ。
「……店長かもしれません。最終ロウリュの後、私に『先にフロント閉めといて』って。サウナは店長が好きでしたから」
涙がまた溢れた。
早瀬は、視線を私に流し、「薬剤のことは関係ない」とだけ言った。
私は深入りしなかった。薬品の配合や取り扱いは、安易に言葉にして良いものではない。
「レシートの時刻、21:58。閉店まではいなかった」
「はい。倉庫に寄ってから帰りました」
上田は、SNSのスペースの録音を再生してみせた。
軽妙な語り。
「湿式か乾式か。体感温度は風量で変わる。十二分計の“遅れ”で常連は時間を読むんだ」
私は、そこで耳を止めた。
――十二分計の遅れ。
この店の常連は、それを知っている。
今夜、針は“九と十二の間”。
その指し示す“遅れ”の意味を、知っていた人間がいる。
浴場に戻り、私は時計を見上げた。
壁の上部にある丸い十二分計の枠の下、ビスの頭に、うっすら新しい工具傷。
普通、掃除では触らない位置だ。
背面の停止ボタンが短時間押されると、針は現在の位置で止まる。停止から再スタートの際、内部の油がわずかに“逆流”する。針の戻り方に癖が出る。
今の針には、その癖が出ていた。
――誰かが、停止させ、位置を調整した。
私は、サウナ室の床に膝をつき、木床目地の間に指を這わせた。
ロウリュのバケツが置かれる付近の床板にだけ、微細な水染みがない。拭き取られている。
それは、閉店作業の一環にも見えるけれど、整いすぎている。
バケツの内側の水位線は二本。
通常、最後のロウリュの後は、ほとんど空になる。だが、今夜は半分ほど残っていた痕。――誰かが途中で止め、音だけを“鳴らした”可能性。
設備室に戻り、ログをさらに深く読む。
21:29のロウリュ動作のうち、〈ソレノイド弁開〉が「0.8秒 × 2回」。
本来は「1.5秒 × 1回」。
――短く二度。
それなら、音だけは“鳴ったように”聞こえる。室内に蒸気も熱もほとんど回らない。
つまり、店内にいた誰かに「ロウリュが行われた」と思わせることはできる。
ただし、今夜、二十一時半以降はチャイムは鳴らない設定だ。
鳴ったのは、二十二時十一分以降の“試験”のログだけ。
「チャイムが鳴った」と証言した人がいるなら、嘘か、別の音を勘違いしたか――あるいは、配信の“効果音”だ。
その時、御子柴からメッセージが入った。
> 「上田のスペース、もう一回聞け。二十一時三十五分に“ピン”って音が混ざる」
私は録音を巻き戻し、耳を澄ませた。
男たちの笑い声の合間、たしかに小さな金属音。
サウナ室の到着ブザーではない。
温石の上に水滴が落ちたときに立つ、短い高音。
――ロウリュの“実音”だ。
最終ロウリュは二十一時半。
その五分後に“ピン”。
音は、実際に誰かがその場で聞いたもの。
スペースの上田のマイクは、サウナ室の木壁に吸われた音を苦労して拾っている。反響の質が浴場のそれだ。
上田は“この店のサウナ室”で話していた。にもかかわらず、「二十二時には別の場所にいた」と主張する。
――録音は、生ではない。
スペースは“録音の再生”も配信できる。
時間が“今”のふりをして、先に録った音を流す。
上田の声は本物でも、時間は偽物だ。
私は御子柴に言った。
「上田はアリバイを音で作ろうとした。スペースで『今、話している』ように見せた。でも、混ざった“ピン”が裏切っている。これは二十一時三十五分、最終ロウリュの残り香から落ちた一滴の音。二十二時の音じゃない」
御子柴がうなずく気配。
「菊池は?」
「フロントのカメラ映像。カウンター越しの鏡に、サウナの扉が反射してる。二十一時五十五分に、扉が一度だけゆっくり開閉するのが映る。カウンター側に誰もいない瞬間だ。――彼女が戻る前に、誰かが出入りした」
「早瀬は」
「喫茶店のレシートは本物。でも、彼の倉庫のカードキー記録、二十二時二分に開錠。銀狐湯まで車で七分。計算は合う。けれど、倉庫の監視カメラの音声に“換気扇の音”が入っていて、型が違う。――録画に別の音を乗せた」
私は、三人のアリバイがそれぞれ“映像”や“音”で作られているのを見ながら、逆に一番“無音”を欲しがったのが誰かを思った。
店を閉める責任を背負う者は、事故を何より避ける。
その責任の重たさを知っているのは、店主と、カウンターに立つアルバイトだ。
菊池の目は、フロントの行灯の淡い光を受けて、何度も濡れていた。
菊池は、最初の否定の後、視線を床に落とし、ぽつりぽつりと話した。
「店長は、今日、早瀬さんと激しく言い合って……。薬剤の値上げのこと。『安全を削るな』って」
「あなたは?」
「間に入ったけど、何もできなくて。常連さんの上田さんも、その前に設計の話で店長と……『壊すくらいなら触るな』って店長が言ったのを覚えてます」
私は問いを変えた。
「二十一時半の最終ロウリュ。あなたはいましたか」
「……いいえ。フロントの締めで、レジを空けてました」
「誰がロウリュを?」
「店長が、『音だけでいい』って。静音運用になってからは、最後は蒸気を少なめにすることが多かったから……」
「“音だけ”にした手順を知っているのは」
「店長と、私だけです」
「チャイムは鳴っていません」
菊池は顔を上げた。
「鳴ってない、です」
「でも、ログには“鳴った”とある。夜間はパスワードが要る。あなたが入れた」
菊池の肩が、目に見えないほど小さく沈んだ。
「……はい」
「何のために」
「時刻を、ずらしたくて」
彼女の目尻に、また水が溜まった。
「店長を、助けられると思ったんです。水風呂で倒れたのは二十一時四十分過ぎ。私が戻ったら、もう……。でも、閉店の二十二時に事故が起きたことにできれば、救急が来るまでの間の私の判断のミスを、少しでも……」
「“遅らせる”ために、二十二時十一分から“ブザー作動”のログを残した、と」
「すみません。嘘です。店長のためじゃなくて、自分のためです」
私は深く息を吸い、吐いた。
彼女は、アリバイ作りの片棒を担いだ。
けれど、死の原因そのものに手を下したのは別だ。
「あなたは、店長を水風呂に押し込んでいない。そんな力は出せない。手を貸したのは、“時刻”だけだ」
菊池は、顔を両手で覆って頷いた。
最後に残ったのは、“押した者”。
御子柴は上田を見た。
「スペースの録音は事前収録。混じった“ピン”が証拠だ。おまえは二十一時台にサウナにいた」
上田は鼻で笑った。
「客としていることの何が悪い。店主が倒れたとき、私はもう帰っていた」
私は、彼にサウナ室の十二分計の写真を見せた。
「針の位置。九と十二の間。あなたは常連だ。最後に自分の“整い”の時間に合わせて、針を止めた。『今ここで出た』ふりをするために。あなたは時計の裏の停止ボタンの存在を知っていた。壁のビスに新しい傷がある」
上田の目が一瞬泳いだ。
御子柴が詰める。
「店主と言い合いになり、手すりに手をかけた店主の背中に肩を当てて――」
私は制した。
「言わなくていい。再現はしない」
押す方法の細部は、口にすべきではない。
ただ、私の耳は覚えている。
環境音モニタの波形の中に、一度だけ紛れた“キュッ”。
床が短く鳴いた。
あれは、体重が不意に移動した音。
押された者の足が、ほんの一歩、遅れて床を探した音。
上田は、数秒、沈黙し、それから唇の端をわずかに上げた。
「……事故だよ。あの床は滑る。だから、僕は前から改装を提案してた。段差をなくし、縁の高さを上げるべきだって。店主は聞かなかった。『俺はこのままが好きだ』って。好きが人を殺す。僕は、正しいことを言ってた」
「“正しい”が、時刻をずらす必要はない」と御子柴。
「ずらしてない」
私は、静かに告げた。
「あなたの“ずらし”は、音に出た。スペースの録音に混ざった“ピン”。そして、あなたの靴の“キュッ”。逃げるときの足音。あなたは音を侮った」
上田は立ち上がりかけ、椅子が床を鳴らした。
御子柴の手が、彼の肩に置かれた。
事件は、想像より複雑で、想像より単純だった。
“押した”のは上田。
“時刻を遅らせた”のは菊池。
“外から揺さぶった”早瀬は、今回は直接の手は出していなかった。けれど、彼の“値上げ”が店主の神経を荒らしたことは否定できない。
人は時に、自分の正しさを信じるあまり、他人の時間を勝手に動かそうとする。
サウナ室の丸い十二分計は、そんな人間の“秒針”ではない。
あの針は、熱と油と重力で動く。
誰かの都合で、勝手に進んだり、止まったりはしない。
私は銀狐湯の設備盤に、新しい提案を付け加えた。
〈静音時間帯の“チャイム作動ログ”を、逆にアラート〉。
鳴らないべき時に“鳴った”ことにされたら、それは嘘の合図だ。
それを知らせる仕組みを、静かに置く。
菊池は配置転換になり、別の店で働くことになった。上田は起訴された。早瀬は契約見直し。
藤原の葬儀の日、私は香典袋に細い字で「湯気の音を守る」と書いた。誰にも見せなかったけれど。
夜、帰り道。
春の風が冷えた頬に触れる。
私は、無人の浴場の音を想像する。
ボイラーの火は落ち、貯湯槽の熱は低い唸りで眠りにつく。
サウナ室の柱は、ゆっくりと乾いて木の匂いを返す。
水風呂は鏡のように静まり、照明の反射だけを揺らす。
――どれも“正しい無音”だ。
御子柴からメッセージが来た。
> 「おまえの“秒針の耳”に助けられた」
私は返した。
> 「鳴るべき音を知っていれば、鳴らないべき音もわかる」
> 「次はどこで飯」
> 「いっそ、銭湯の休憩所で。冷たい牛乳で乾杯」
送信してスマホをポケットにしまい、私は足を止めた。
遠くの路地の先で、どこかのアパートの換気扇が、決まったリズムで空気を吐き出している。
正しい無音の縁には、必ず小さな音がいる。
その音が無くなったとき、きっとまた私は駆け出すのだろう。
湯気のない夜でも、誰かの“呼吸”を守るために。
銀狐湯の丸い十二分計の針は、今も、きっと静かに回っている。
誰のものでもない時間を、誰の手にも渡さずに。
その針の上に、私たちはそっと手をかざすだけでいい。
時間が正しく流れているか、確かめるために。
そして、誰かが勝手に止めたり進めたりしたら、私はまた、音のない音を聞きにいく。
そのために、ここにいる。



